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運は時なり物語

2017.09.14. 掲載
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目次
1.はじめに
2.出生        1936
3.少年期       45 46 47
4.中学高校生期    49〜51 52〜53 
5.高校3年      54 
6.医学部教養過程時代 55〜56 
7.医学部専門過程時代 57〜58 59〜60
8.インターン時代   61 
9.勤務医時代     62 63〜64 65 66 67 68 69 70 71 
10.開業医 PC無 時代   72 73 74 75 76 78 80 82 83 84 
11.開業医 PC有 時代   85 86 87 88 89 92 93 94 95 
12.開業医 Web 時代   96 97 98 99 2000 01 02 03 04 
13.リタイア後      05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 
14.まとめ


1.はじめに

3年ばかり前から「人生 まとめのとき」に入ったことを自覚し、まとめ作業を行ってきた。その際に、過去に作った作品(記事)の多くに目を通したが、自分の人生が幸運であったことを改めて痛感した。

それと同時に、その幸運不運は「時」と強く結びついているとの思いが強くなり、「運は時なり」ということばが、心の中に住みついてしまった。

それならと言うことで「時」と「運」いう見方から、自分の人生をまとめたいという気持になった。

ふり返ってみると「人生 まとめのとき」に入ってからは、仕事をするパターンが変わり、スローでくり返して考えるようになっている。だから、その影響が今回のまとめに出るかもしれない。

運には親から受け継いだ遺伝、場所、環境なども関係するが、瞬間から時代までを含めた「時」が大きく関係していると感じる。その「時」の運が、時間を経た別の「時」の運につながることもよくある。

その運の「時」というのは、天命とか神命とか因果応報とかではなく、偶然であり、確率の問題である。また、幸運は不運に、不運は幸運に転ずることがある。ありがたいことに、私には幸運が不運に転じた経験はない。

先に自分史の総まとめとして野村 望 年譜を掲載し、サイト記事にリンクを張り、通常の年譜よりも利用価値のあるものにした。

しかし、箇条書きの羅列は面白くなく、ストーリーのある全体的な自分史に、まとめなおすことにした。これから述べるのは、私の「運は時なり物語」である。構成が複雑なので、目次へ戻るを活用されたし。


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2.出生

1936年 出生

このこと自体は運不運に関わりがなく、普通の平凡な事実である。しかし、1945年の日本敗戦とつなぐと、私の出生の「時」が大きな意味を持ってくる。同じように、1946年の小学4年庄野学級とつなぐと、私の幸運に大いに関係していることが分かる。


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3.少年期

1945年 日本敗戦

日本敗戦の日、私は9歳で国民学校3年だった。両親家族と過ごした神戸では空襲を経験し、独りで縁故疎開した淡路島では、敵国アメリカのグラマン戦闘機による機銃掃射を経験した。将来、お国のため、天皇陛下のため、鬼畜米英と戦うことを当然のことと信じて疑わなかった。アッツ島での玉砕の報をラジオで聞いた時には、必ずかたきをとってやるぞと心に誓った軍国少年だった。

私の出生が2年遅かったとしたら、敗戦を体験するのは7歳となるが、その年では戦争中の記憶は薄く、戦後の変化を感じ取ることは少ないであろう。私は普通より早熟だったようで、3年生で6年生の教科書を充分に読むことができて周囲を驚かせた記憶があるが、いくら早熟だったとしても7歳では無理だろう。

軍国教育、愛国教育を受けて育った世代は「昭和ヒトケタ世代」と呼ばれたが、昭和11年生まれの私は、早熟だったせいもあるのか、戦中戦後の変化に対して「昭和ヒトケタ世代」に近いか、より敏感だった気がする。

その変化は「価値の180度転換」と称された。それは間違いではないのだが、私が戦後の変化に一番驚き、不信感を持ったのは、これまで愛国主義、皇国主義、軍国主義を私たち生徒に熱心に教えこんできた教師、教頭、校長が、反省することばなく、こんどは敵国の民主主義を得意げに教え込むことだった。

これは、真面目に愛国少年として生きてきた者にとって大きな衝撃だった。成長するにつれ、世の中の権威ある人のことばが揺れ動き、無節操で、無能力であることを知った。

そして、そこから「権威を疑う」と「自分の頭で考える」という、生きるための大切な知恵を身につけることができた。こう言うわけで、敗戦という不運な「時」が、私にとっては幸運の始まりの「時」と変わった。

敗戦が日本人一般にとって不運の「時」から、幸運の始まりの「時」となった大きな理由は、「戦争が終わり平和」になったことである。多くの人の命を奪い、傷つけ、不幸にする戦争がないと言うことが、どれほど幸せで、素晴らしいことかということを体験することになったからだ。


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1946年 小学4年庄野学級 幸運の出発点

高羽小学校の4年生は3クラスで、その一つの庄野学級だけが男女共学、ほかは男女別学だった。その男女共学クラスは、阪神間の小学校のテストケースとして設けられた。そのため、阪神間の学校の先生方の見学が何回か行われた。

このクラスで過ごした1年間は、私のすべての学生生活の中でダントツに楽しく、素晴らしかった。このクラスから、自分の幸運は始まったと話すクラスメートがいるが、私も同じ気持ちである。

当時10歳だったクラスメートが、56年後の66歳で最初のクラス会を持ち、以来、ほぼ毎年クラス会を開き、合わせて16回になる。恩師の庄野先生は、2014年に91歳でお亡くなりになるまで、ほぼ毎回出席してくださり、皆で庄野学級のころの思い出ばなしを、いつも夢中で楽しく語りあってきた。

どうして小学4年庄野学級が素晴らしいクラスだったのかをふり返ってみると、

庄野学級が素晴らしいクラスだった理由

一番大きな理由は、担任の庄野千鶴子先生の素晴らしさにあると思う。 知的で、ハイカラで美しく、情熱を込めて教育に取り組まれていることが、こども心にもよく分かった。生徒は誰も先生が大好きだった。歌がお好きで、昼休みには皆によく歌を唄わせ、それを本当に喜んで聴いて下さるのだった。

「二十四の瞳の大石先生」のようだったと言う教え子がいたり、それ以上だと反論する者もいた。他の先生と違って、えこひいきをされない先生だったというひとりの級友のことばが、強く心に残っている。

「暗算ができなくて立たされた」という者がいて、厳しいところは厳しい先生だったことを思い出した。また、「1字だけ、漢字が間違っていた。あれができてていれば満点だった」と励ましてくださったのが、ずいぶん自信につながったと話すことばに同感した。

どの生徒に対しても、良いところを認め、それを伸ばそうとしてくださったことは、私たち教え子の誰もが認めることだと思う。

男女共学のテストケースであるクラスの担任に選ばれたというのは、当時の校長から高く評価されていたことを表している。先生はそれに対して十二分に応えられた。

第2の理由

第2の理由は、クラスメートが素晴らしかったことである。1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだから」と言って、3年の担任だった先生方が、良い子を回してくれたそうだ。

4年生は、私たちの男女共学クラスと、男子だけのクラス、女子だけのクラスの3クラスに分かれていた。男子だけのクラスの者から私たちクラスはやっかまれ、いろいろ挑発されるので、この男子クラスとよく喧嘩をしたことを覚えている。

第3の理由

第3の理由は、私たちが10歳という年齢であったことだと思う。異性を意識しない低学年ではないが、と言って、強く異性を意識し始める高学年でもない、その中間の時期だったから、男女がこだわりなく思う存分遊ぶことができた。

第4の理由

第4の理由は、1946年という時代が大きく関係していると思う。私たちの小学4年は、敗戦からわずか8ヶ月後に始まった。周囲は焼け跡だらけ、食べるもの、着るものに乏しく、今の人には想像もできない貧しい生活だった。その時の集合写真(図1)を見ると、小学校屋上の最前列に座っている12名の内8名が裸足である。足元が見えないほかの級友もその割合は同じだろうから、3分の2が7月の熱い屋上を裸足で歩いていたことになる。


図1.1946年7月 高羽小学校屋上 先生23歳、級友10歳(2/3が裸足?)

しかし、戦争のない平和な世界をはじめて知って、子どもたちの心は晴れやかに弾んでいた。そして、男女共学が進められ、私たちはその第一期生となったのである。受験勉強も、お稽古ごとにも無縁で、日が暮れるまで、ひたすら外で遊ぶことが許されていた時代だった。

第5の理由

第5の理由は、過ごした環境にあると思う。高羽小学校は当時創立8年目で、鉄筋コンクリート3階建ての美しい学校だった。戦災に遭わず、阪神間で一番美しい学校と言われ、他校からの見学者が多かった。その校区には、高級住宅地、サラリーマンの多い地区、焼け跡の多い下町が適度に分布していて、いろいろな家庭の子どもが混在する良い集団だった。均質でなく、個性豊かなこどもたちが、自由に思いっきり遊べたということの意味は大きいと思う。

私の個人的な理由

以下は私の個人的な理由になるが、その一つは、クラスメートの中に無二の親友山下哲男君ができたことである。彼とは、家がどちらも同じ兵庫県の公舎で、通学途中はもちろん、放課後も、家に帰ってからも、常に一緒に遊んでいた。食事と寝るとき以外はいつも一緒だった。人生でこれほど遊んで過ごしたことはない。今思い返してみて、本当に良い経験だったと思う。

クラス会で、クラスメートから、山下哲ちゃんといえば私、私と言えば山下哲ちゃんを思い出すと言われた。庄野先生は「あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼」とあだ名をつけておられたそうだ。その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していたと、ニコニコ笑って話された。

先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、その中に出てくる「赤ノッポ青ノッポ」という小学生の鬼たちに、私たちがとても良く似ていたらしい。そこで「赤ノッポ青ノッポ」から「赤鬼青鬼」というあだ名をつけられたということだった。また、赤鬼(赤ノッポ)は私、青鬼(青ノッポ)は哲ちゃんだということも教わった。

山下哲男君と同じクラスになったのは、この小学4年のただ一度だけである。幸運であった。


図2.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 表紙


図3.左端:青鬼(山下)、右端:赤鬼(野村) 1946年の集合写真より

もう一つの個人的な理由

小学4年庄野学級が素晴らしいクラスだったもう一つの個人的な理由は、昼の給食のあと、庄野先生からよく歌を唄うように指示され、歌ったことだ。その時に唄った歌は、「オ・ソレ・ミオ」や「帰れソレントへ」、「からたちの花」などのおませな歌が多かったのだが、先生は熱心に聞いて下さった。その頃は、まだボーイソプラノの澄み切った声だったので、先生のお好みに叶っていたのかも知れない。どの歌も、母が唄っているのを聞いて覚えたものばかりだった。

このことが関係しているのか、小学5年の学芸会で私は独唱をしたが、上がることはなく、普段通り歌うことができた。

私はこのようなクラスに組分けされたのだった。これが私の幸運の始まりである。もし、1年早く生まれていても、1年遅く生まれていたとしても、このクラスには入ることはできなかったわけで、出生の「時」は、小学4年庄野学級の「時」と結びつくことで、幸運と大きくつながっている。

また、これが幸運かどうかは分からないが、小学校の卒業式で、在校生総代送辞、卒業生総代答辞を読んだ。当時は、後に東大へ行った者が2名いた。私の学業成績、品行が特に優れていたはずはなく、その私が総代に選ばれた理由が分からないが、強いて挙げれば、音楽、図画工作の成績が良かったことだろうか。


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1947年 妹死亡 享年7歳 人は死ぬ、いつ死ぬか分からない

小学5年の年、三つ年下の妹 順が、麻疹(はしか)にかかり、3日もたたずに突然亡くなった。死亡診断書には麻疹肺炎と書かれていた。妹は美味しいものを最後に食べる癖があった。私は、その癖を利用しておやつをよくかすめ取り、妹を泣かせる悪い兄だったが、この妹が大好きだった。

妹の告別式は、未だ空襲で半壊状態だった神戸の二宮教会で行われ、そこで聖書と讃美歌を初めて知った。妹の死は悲しかったが、その死から、生きる上で知って置かなければならないことを学んだ。「人は必ず死ぬ、その日が何時かは分からない」という真実である。

妹の死は、不運な「時」であったが、私にとっては、生きる上での重要なことを教えてもらったと感謝すべき「時」で、妹から幸運をもらったと思っている。そして、不運は幸運に変わった。


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4.中学高校生期

1949年〜1951年 鷹匠中学 変声期→思春期、音楽鑑賞に没頭

新制中学に進学して間もなく私は変声期に入り、オッサン声になった。その声では歌を歌いにくく、歌いたくたくもなかった。その代わり、父が買ってくるSPレコードを夢中で聴いた。それはクラシックが中心だが、シャンソン、ポピュラーも含まれていた。そのおかげで、楽しむ音楽の範囲が広がったが、これも不運から幸運への変換と言えるだろう。

軍歌しかなかった戦争中を過ごした私たちは、進駐軍が持ち込んだ甘味なポピュラー音楽に魅せられ、その虜にならずにはいられなかった。かって鬼畜米英と呼んだアメリカは、その頃には理想の国に変わっていた。

絵画や彫刻への興味が出てきたのもこの頃からだと思う。その一番のきっかけは、父が買ってくる「少年美術館」で、ルネッサンス期の美術に魅せられてしまった。

声変わりの苦痛は程なく治まったが、身体がどんどん大人になっていくことに困惑し、精神的に不安定だった。その荒れる心の支えになったのが、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」だった気がする。


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1952年〜1953年 神戸高校1年〜2年 苦悩の時

高校1年から2年の時代は、いろいろな事情があって、私の一生で一番暗く陰鬱な時期だった。

心の悩みの慰め

その高校時代の心の悩みを慰めてくれたのは、ゲルハルト・ヒッシュが歌うシューベルトの歌曲集「冬の旅」だった。この「冬の旅」を聞き、歌うことでどれほど心が慰められ、明日への望みを取り戻すことができたか計りしれない。この歌があったから、高校時代を乗り切れたのではないかと思っている。

この「冬の旅」ほどではないが、静かに心が慰められる習慣があった。それは、昼休みに校内の図書館に行き、平凡社の世界美術全集 全36巻を眺めることだった。

大学時代の友人浜田辰巳君が開いた水墨画個展を鑑賞しながら、彼と話をして面白いことを知った。高校の受験勉強時代に、彼は絵を描くことで息抜きをしていたという。

美術に息抜き効果があり、それを活用していた友人がいたことを知って嬉しくなった。

工学部から医学部へ進路変更

高校2年の春、結核を患っている父母から懇願され、進学志望先を工学部から医学部に変更した。私はこどもの頃から物を作ることが何よりも好きで、工学部に行き、将来はエンジニアになるのが希望だった。そのことは昔から公言してきて、反対されたことはなかったので、この突然の変更はつらく、不運の「時」だったが、病身の両親の願いを受け入ざるを得なかった。

しかし、時間を経るとともに、進路を変更したことは、幸運につながったと思うようになった。


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5.高校3年

1954年 神戸高校3年 問題解決法を習得した時期

神戸高校3年は、大学入試を控え、受験勉強に打ち込んだ期間で、受験勉強を通じて問題解決の技法を習得した。その技法は、受験で効果があっただけでなく、その後の人生でも有用で、私の問題解決のスタイルのほとんどが、受験勉強を通して身に着けたものである。

第1は80点主義

その第1は、「80点主義」で、これにより、少ない努力で大きい効果が得られ、総合点を増やすことができ、重大な失敗の確率が低くなり、ストレスが少なくて済み、他人の失敗に対して寛容になり、失敗を恐れなくなり、人生を肯定的に生きることができた。

第2は群化

技法の第2は、「群化(グループ化)」で、個々の細かいことにとらわれず、先ず大きくグループ分けをしておいて、そこから出発して問題解決をしていく方法である。大学受験では、数学の難問を解く時に有用だったが、それよりも、その後の人生の多くの場面で、この考え方は有用で、問題解決だけでなく、ものの見方、あるいは、整理や分類をする場合にも役立った。

第3はタイムリミットを守る

技法の第3は、「タイムリミットを守る」で、タイムリミットを守るために、与えられた時間の中で、全能力を発揮させるように行動して得た成功体験は、自分の可能性に対して自信を持たせ、その反復は、良循環に働いた。タイムリミットというのは、他から与えられるものばかりではなく、自分で決めたものについても同じである。

第4はよく整理された10の知識は、未整理の100の知識に勝る

技法の第4は、「よく整理された10の知識は、未整理の100の知識に勝る」で、受験で言えば、受験科目ごとに参考書を1冊にしぼり、その1冊を何回もくり返し勉強し、マスターしてしまうのが効果的である。もちろん、その1冊は内容の優れたものであることが望ましいが、更に良い参考書が見つかれば、変更する。

また、もしも、その1冊に欠けている部分があれば、他の参考書からメモを作るなり、書き込むなりして、より完全なものにすると同時に、その1冊の中の部分で、充分に理解し、消化した部分については、取り除いてしまう。私はこれを「1冊主義」と呼んできた。

第5は要らないページは2度見ない

技法の第5は、「要らないページは2度見ない」で、当時の受験雑誌と言えば旺文社の「蛍雪時代」が代表だった。これが発売されるや購入し、残しておく必要のないページを、どんどん破り捨てて行く。読み終えれば、数枚になることも多かった。受験参考書でも、それは同じだったが、両親は何かいけないことを黙認しているような困った表情で、私のすることを傍観していた。

問題解決の技法の習得法

これらの問題解決の技法を、どのようにして習得したのかをふり返って見ると、先生とか受験参考書から直接学んだ記憶はなく、大学入試という大きな課題に直面した時に、色々な試行錯誤の努力の中で、自分が創って行ったのではないかと言う気がする。

私たちが過ごした当時の神戸高校の教育は、先生が教え込もうとするのではなく、生徒の自発的な学習を重視し奨励する教育だった。そして、それに応える生徒が多くいた。面白くない授業をサボり、図書館で独り勉強する者をよく見かけたし、私もその一人だった。そのような環境が、私に問題解決の技法を考え出させ、習得させたのではないかと思っている。

高校時代にテストに出された問題が長く頭の隅に棲みつき、ものごとを深く考えるきっかけとなったことばがある。高校2年の時、京大史学科を出られたばかりの石田慶和先生が、西洋史のテストに出された問題は、「476年の歴史的意義を書け」だった。476年というのが、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国が滅ぼされた年であることは習い知っていた。しかし、その歴史的意義を書け、という問いに対しては何と解答すれば良いのか分からず、「意義」ということばに戸惑い、拘り続けた。

そして、「意義」とは、「他と関連してもつ価値や重要性」であることを理解してからは、意義や意味ということばに関心が募り、大学に入ってからは、自分が納得できる「生きる意味」を探求することに没頭した時期があった。それは、次に述べる阪大医学部教養課程の時代である。

受験勉強の成果

この受験勉強の成果として、志望校の阪大医学部だけでなく、京都府立医科大学にも合格した。京都府立は一期校と二期校の中間に入試があり、一期の合格発表が無い時期の入試のため、倍率は43倍という高倍率であった。神戸高校から阪大医学部には4名合格したが、京都府立医大合格は私一人だった。

この幸運は、偶然による「時」の運によるとは言い難く、物を作り上げるのが好きという当事者の「気質」の影響が大きいと思っている。


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6.医学部教養過程時代

1955年〜1956年 阪大医学部教養課程 よく遊びよく考えた時期

コーラスに没頭

1955年に阪大医学部教養課程に入学した。教養課程は当時北校と南校に分れていて、私は石橋にある北校に通うことになった。大学に入ると、すぐに、北校男声合唱団、北校混成合唱団、阪大男声合唱団の3つのコーラスに入団した。

小学4年庄野学級の1年間は、悪ガキとして猛烈に遊んだが、大学教養課程の2年間は、コーラス三昧で過ごした。奨学資金と家庭教師のアルバイトで得た報酬を小遣いとし、ささやかだが楽しく青春を謳歌した。

生きる価値の基準の追求

大学ではコーラスに没頭していたが、家では生きる価値の基準となるものについて真剣に考えた。自分が納得できるものが得られるまでは、何とも落ち着かず、そればかりが頭にあって悩んでいた。そんなある日、閃いたことばが「生命の発揮」である。

周囲を見渡すと、草も木も花も、生命あるものは、その命を精一杯発揮し、充実して生きようとしているように見える。生き物が、与えられた命を精一杯発揮して生きることを、生きる価値の基準と考えると、これまで漠然と自分の頭にあった生きる価値を、体系的に説明することができる気がした。

人の「生命の発揮」とは、単に生きているだけでなく、その生きていることを喜び楽しむことで、具体的には、自分のしたいことを目一杯するということとほぼ同じになる。したいことは人それぞれに異なるが、例えば、何かを鑑賞する、他人の喜びに役立つ、何かを創作するなどがそれに当たるだろう。

個々の生き物が、精一杯生きて死ぬことだけでも価値はある。しかし、それを次に続くもの(子孫)につなげるとか、一緒に生きるものの生命を充実させるのに役立つなら、より一層価値があることになる。

もちろん、それでは「何のため生きるのか?」「なぜ精一杯生きるのか?」という問題は残る。しかし、それはいくら考えても分からないことで、考えても分からないことを考えるのは無駄なことだと思った。

この価値の基準を見つけて私は満足した。そして、それ以上深く考えることをして来なかった。

最初でおそらく最後の小説を書いた

大学に入った翌年の20歳になったばかりの頃に書いた、私の最初で、おそらく最後の小説で、クラスの同人雑誌「きたのたけのこ」に投稿した。タイトルは「ある高校3年生」


青春を謳歌し、生きる価値について熟考する時間を持てたことについては、「時」の運が関係している。

というのは、この年の前年1954年までは、医学部教養課程に合格しても、医学部専門課程に進むには、もう一度入試を受けて、それに合格しなければならない規定になっていた。

その入試は、理学部、薬学部、工学部など阪大の理系の学部に在学した学生なら、医学部学生と対等の資格で受けることができた。

だから、医学部教養課程に合格したからといって、気楽にコーラス三昧を楽しんだり、生きる価値について熟考するような時間的余裕はなかったのである。

コーラスに医学部の1年先輩が2名いたが、専門課程へは1年遅れて、私と同じ年の進学となった。1936年出生という「時」は、ここでも運不運につながっている。


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7.医学部専門過程時代

1957年〜1958年 医学部専門課程 基礎医学 医学に魅せられ、人を恋した時期


図4.旧阪大医学部校舎

1957年から医学部専門課程に進んだ。最初の2年間は解剖学、生理学、生化学などの基礎医学を学んだが、これまでまったく知らなかった世界で、興味津々だった。コーラスは医学部グリークラブがあったが、イベントがある時に集まる程度だった。また、全学の阪大男声合唱団は、自分とは合わないところがあり、退団した。

そのグリークラブに、どういうわけか読売テレビから出演の依頼があり、11月の文化の日をはさんで1週間、毎朝15分ばかり歌った。当時、ビデオテープレコーダー(VTR)はなく、録音テープに合わせて、口をパクパクさせていたような気がするが、あるいは、録音テープもなくてぶっつけ本番だったのかもしれない(図5)。我が家には、その頃はテレビがなく、家族はお隣でその出演を見ていたそうだ。


図5.医学部グリークラブが読売テレビに1週間出演


コーラスは休部に近い状態だったが、アルファ会というサークルに入った。アルファ会というのは、社会医学実践を目指す阪大医学部学生のサークルで、当時は大阪市浪速区日東町地区を中心にセツルメント活動をしていた。私たちの学年でこれに入っていたのは15名くらいだった。80名の学年では大きなグループだった。妻の兄田伏 薫とは、このサークルで親しくなった。

解剖グループ

死体解剖の実習は6人で1体を解剖するが、この解剖グループのメンバーは自ずと親しくなり、友情が続いた。

基礎医学の過程が終った時、その先生方にお礼をしようということになり、ミナミの「清流」という料亭に招待した。二十歳を過ぎたばかりの貧しい学生たちが、ミナミの料亭で謝恩会をやるというのは、当時としては驚くべきことだった。

そのとき、私たちの解剖のグループは、私のギター伴奏で、純ウエスタン調の「駅馬車」を唄ったが、教授連は唖然とされていたようだった。野田寛治、野中清也、浜田辰巳、播口之朗君と私の5名のメンバーのうち、今この世にいるのは浜田君と私の二人だけである。

野田君は高校からの友人で、アメリカの医大の教授だったが、91年に前立腺癌で死亡。野中君は出席簿が隣で、よく飲みよく議論した親友だったが、71年にうつ病で死亡。播口君は阪大精神科の助教授だったが、94年に肺癌で死亡した。

初恋

この専門課程の時代に私は恋をした。相手は、教養課程の時代に入団していた混声合唱団の女性だった。時にはデートもしたが、ほとんどが文通だった。シューマンの歌曲集「詩人の恋」に、「美しい五月に」という歌がある。「素晴らしくも美しき五月、すべての花が咲くとき、私は恋をした...」という愛の歌である。私もまた、その頃はこの歌の状態だった。

しかし、2年ばかり手紙をやりとりする内に、気持のくい違いが出てきて、日増しにエスカレートして行き、最後は喧嘩別れとなってしまった。何が原因だったのかはよく覚えていないが、彼女が仏文科で、実存主義的な発想をするのに対して、私は単純な左翼的な考えかた、精神分析などを含めた心理学的な発想をして、それが全く相容れなかったのではないかという気がしている。

彼女との2年余りの交際で得たことは、1)恋の喜び、苦しみを体験できたこと、2)手紙での論争は不毛であることを知ったこと、3)ベアトリーチェは自分が作った偶像であることが分ったこと、つまり女性からの解放という三つに総括できる。

思春期のころから、知的で美しい何人かの女性に対して、私は密かにベアトリーチェと名付け、憧れ、尊敬してきたのが間違っていたことを知ったのである。

そのころ、光文社から、いぬい・たかしの「女からの解放−男性白書−」が出版されたが、まさに、時宜を得たというべき内容で、私は女性に対する幻想からすっかり解放された。

その年の秋だったと思う。裏庭で、100通くらいの手紙と、旅行をしたときの写真など、彼女に関係するものを一切焼いて処分した。涙がこぼれたが、未練はなかった。昔から好きだった色の浅黒く、知的な女性を、この時から嫌いになったと思う。知的というより、知を誇る女性と言う方が正確かもしれない。


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1959年〜1960年 医学部専門課程 臨床医学 まねごと医師の時期


図6.旧阪大病院

医学部専門課程後半の2年間は臨床医学を学んだ。学んだ場所は堂島川を挟んで医学部校舎の北側にある阪大病院である(図6)。解剖実習は臨床実習(ポリクリ)に代わり、グループのメンバーは6人から5人となった。


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8.インターン時代

1961年 インターン どのような医師になるかを考えた時期

1961年の春に医学部を卒業し、阪大病院で研修するインターン生活に入った。当時は、このインターンを1年間済ませてから、医師国家試験を受け、それに合格して医師になるのだった。

運転免許証

医師でもなく、学生でもないこの期間は、現在の研修医とは違って、非常に暇なので、自動車運転免許証を取ることにした。しかし、当時の自動車の価格は非常に高く、一般の初任給の100倍もして、将来自分が車を持つことができるなどとは思いもしなかった。

自動車運転教習所で、教官に「一度教えたことは、二度は教えない」「それで、よくここに入れたな」などと厳しく叱られた。こんな風に叱られたのは、生まれて初めての経験で、私は猛烈に反発し「お前なんかに教えてもらうか」と自習用の教則本を買ってきて勉強した。

十三の近くの教習所なので、ホステス風の女性もたくさん来ているが、彼女らにはバカに親切、嬌声けたたましい中で、運転指導をしている。

教えてもらわなくても、良い成績で卒業してやるぞ、と思って心がけたのが減点法だった。つまり、上手な運転をするのではなく、下手な運転をしない、マイナス点のつかない運転をすることである。その結果、卒業試験の成績は98点くらいだったと思う。

車というものが身近になく、タクシーに数回乗ったのが、車の運転を実際に見た全てという時代でのこの成績は、かなりスゴイことだったのではなかろうか? この時は、背に腹は変えられず、受験効率の良い減点法を使ったが、本当は性に合わない。私は得点法の方が好きだ。

この運転免許証取得は、医師になったそれからの人生で、この上なく重宝した。暇なインターンの「時」は幸運に繋がったのである。

理容美容専門学校講師

大学入学以来6年間、家庭教師のアルバイトをして小遣いを得ていたが、インターンとともにそれは無くなり、理容美容専門学校講師として、国試対策としての衛生学と消毒学を教えた。

どのような医師になるか

このインターンの時期は、将来どのような医師になるかについて熟慮した「時」でもあった。そのことを入会していたアルファ会の会報に外科を選ぶか内科にするかとして投稿している。その要点を記すと、

はじめのうちは内科に傾いていた。外科医は余りに物事を単純に考え易いし、割り切りすぎる様であり、人間の精神的、心理的面での配慮なども、ムンテラと云う言葉で軽視する傾向のあるのが一番いやな点であった。昔から偉大な人、魅力のある人は、内科医であり、小児科医であり、精神科医であることが多いのも、そのせいだろう、外科医というのは、云ってみたら高等大工、高等技師にすぎないのではないか、と思うこともあったのである。

それが外科の方に傾いてしまったのは、大工仕事を思い切れなかったこと、つまりメスに対する魅力が強かったのも確かに大きく関係しているが、その他、外科学の特色と思っていたもののあるものが、実は、現在の外科学、まして、将来の外科学にとって有害なものであることが分かったこと、内科学の欠点が目に付き出したこと等によっている。

散髪屋から始まった外科学は、以前は外部的疾患を主として治療の対象としてきたが、現在の外科学は、治療をメスでするか薬でするかによって内科と区別される程、発展してきているのであり、同じ外科学という名では呼ぶことができない程の変わり様であることが分かった。そして、それは、術前、術後、術中を通じての全身的関心が強く払われる様になった結果であることを学んだ。

血圧、体液、電解質、輸血輸液、心電図、肝機能、腎機能、抗感染剤、鎮痛剤、麻酔等これらを総合的にフルに駆使する事によって、外科のこれ程の発展がみられたのである。手術より前後処置の方が重視され、更にアフターケアに関心が持たれている。器質的治療だけでなく、機能的治療を目標とし、整形外科等ではリハビリテイションとして、大きな比重を占めはじめている。もはや、外科医にとっても、ムンテラ(ことばによる治療)を馬鹿にできなくなってきたのである。

全身的関心と云う点では、現在の内科学は、これを重視していないのではないかと思えてしかたがない。哲学から発生した内科学は、本来総合的な面を大切にする学問であると思う。しかし、現在の内科学は、分化が細かく進み、(もちろん、それは学問的発展の結果として結構なことであるが)深いことは深いが、視野の狭い専門医ばかりを養成しようとしているのではないか、と思われることがしばしばある。

それと云うのも、直接生命の危険に関係することがない上に、有効な治療法が少なく、対症療法に頼ったり、或は薬剤名とその効能書さえあれば、別にその薬品の作用機序を知らなくても、自然治癒の機転によって治るものは治るから、のんびり専門的学問的研究に耽けるのではないか、と勘ぐってみたくなる。

例えば、内科のC.C.(臨床症例検討会)を聞いていると、病人とか病気とか症状とかに就いてではなく、臨床検査成績の細かい点に議論が集中し、それに就いて腎臓、肝臓、心臓、ホルモン等の各専門家が、それぞれ勝手なことを云っている。そんなことで時間の大部分を費やし、肝腎の点に就いては偉い先生方が集まって、インターンが考える程度の域を出ないのは、学問としてはそれでよいとしても、臨床医としては恥しいことではないか?

臨床検査はたくさんするが、診断の上では余り変わりばえがしない、かえって、アナムネーゼ(問診)とか理学所見を軽視して誤診をするなら、弊害の方が大きいのではないか? 専門医制度が叫ばれて以来、猫も杓子も専門医づいているが、それが万能ではない点に注意すべきである。何でも少しづつできるが、深く知らない八百屋式の医者を必ずしも軽蔑できないと思う。

医学は本来、応用科学であり、患者中心であるべきではないか? 一方では、金儲け主義の医者、一方では学問的興味にとらわれた専門医が多数を占めて、患者のことを考える医者が少ないとしたら、患者と云うものは不幸な存在ではないか? もし気が変わって内科へ行くとしたら、今のことは充分心掛けたいと思う。

外科を選ぶもう一つの理由は、クッシングとかペンフィールドとかによって脳外科が進歩し、それは又、人間の脳とか神経に関する科学を発展させたように、人間でしか実験できない領域と云うものがたくさんあるが、その点で外科は恵まれていると思うからである。


暇だったインターンの「時」に考えたことは、それから後も、ほとんど変わることなく持ち続けてきた。考えるための暇な「時」を持てたことも幸運だったと思う。

私はもともと医師になりたくて医学部を受験したのではなかった。そのせいではないと思うのだが、理想の医師のモデルは居なかったし、要らなかった。シュバイツアーも、赤ひげも、クローニンの描く医師にもなりたいとは思わなかった。むしろ、これらの医師を理想と口にする医学生や医師を、どこか疑い、胡散臭く感じていた。


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9.勤務医時代

1962年 阪大医学部第一外科入局 過酷なハードトレーニングの時期

インターンを終え、医師国家試験に合格し、阪大医学部第一外科へ8名が入局した。医学部には第二外科もあるが、私は迷うことなく第一外科を選んだ。第一外科は初代がフリッツ・ヘルテル、2代目小沢凱夫、3代目は武田義章教授で、私は武田教授の許へ入局した。

大学の教養課程の間はもちろん、専門課程に進んでも1次限の講義には出ず、2時限目10時30分から講義に出るという重役出勤を続けてきたし、インターン時代はもっとひどかった。

ところが、第一外科は院内で比べるところがないほどのハードトレーニングの科として知られている。そこを敢えて選んだのだから、相当の変わり者かもしれない。そして、そのハードトレーニングに適応することができた。

それがどれほどハードで過酷だったかを紹介すると、

入局の1年目の医師はCクラスと呼ばれ、最も過酷な外科のトレーニングを課せられる。毎朝8時から医局会、手術、抄読会、症例検討会のいずれかが行われる。

これだけでも、他の科と比べればハードなのだが、Cクラスの医師たちは受持の患者の手術の際には、手術後徹夜が続く状況であっても、2日間は誰にも助けてもらえない。徹夜が2日を過ぎて、はじめて仮眠をとるために私たちCクラスの誰かが代わりをしている間だけ、当直室で眠ることを許されるのが慣例であった。信じられないような話かもしれないが、本当のことだった。 多くの者が大学に寝泊りし、家に帰るのは1週間に1度、それも下着を取り替えるためという生活が1年間続いた。

ちょうどこの頃から心臓外科、脳外科の手術が本格的に始まった。これらの手術は午前8時から始まり、手術場を出るのはほとんどが午前0時を過ぎるのだった。受持医はもちろん8時から手術につくが、午後8時を過ぎると、30分だけ食事をとるために手術から離れることを許される。それは、病室に帰ってからも徹夜で術後管理をしなければならないからであった。

このような極めてハードな修業期間であったが、私たちのクラスは、お互いが協力し助け合ってこの試練を乗り越えてきた。まれに見るまとまりのよいクラスだという評価を、何度も耳にしたことがある。やろうと思えば人間、できるものだとつくづく思う。


阪大第一外科Cクラスの1年間では、最先端の医療を中心に、受持医として医療というものを見習い、学んだ。そして、これだけのハードな状況に耐えられたという経験は、それからの人生で自信となって心に残った。ありがたいことである。

日本外科学会総会を阪大第一外科が担当

1963年4月開催の日本外科学会総会を、阪大第一外科が担当することになり、この時の実質的な総指揮を執ったのが、7年上のクラスの西崎宏先生だった。先生は当時助手の身分で、その上には、大勢の先輩がいたが、この大きな学会の5日間の日程を、見事に切り盛りされた。私は記録係の一番下っ端にいて、それをつぶさに観察しながら、感嘆し、その方法を学んだ。この「時」に遭遇できたことは幸運だった。

そののち、いろいろなセレモニーの計画実行を担当する時に、このときに受けた強烈な印象をいつも思い出し、参考にしてきた。


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1963年〜1964年 川崎病院林田分院外科勤務 第一線病院で診療した時期

1963年6月から1965年6月まで、川崎病院林田分院外科へ2年間の出張勤務を命じられた。大学では受持医として専門的な医療の見習いが中心でであったが、ここでは一般外科を中心に、関連する他科も含め、第一線で主体的に医療に従事した。

世の中の人の評価が正しいとは限らない

ここへ勤務して間もなく、一人の患者から、ある開業医に対する批判を聞かされた。診療技術、診療内容に対する不満だったと思う。それを聞いていて、私は強いショックを受けた。批判されている開業医は、以前この病院に勤めていた10年以上もの先輩である。

それなのに、この人は、医師になってわずか1年目の新米の私に、このような訴えをする。ということは、私個人が信頼されているのではなく、川崎病院に勤めている医師として信頼されているだけで、このバックがなくなれば、私は霧散してしまう虚像に過ぎないのだ。

この経験から、私は一つの人生訓を得た。それをひとことで言えば 「世の中の人の評価が正しいとは限らない」ということになる。病院、地位、学歴、そのた諸々の飾りものを取り除いて残った個人が、50%の人から評価されるなら、それは最高の評価であると考えた。

キリストや釈迦、マホメットでさえ、世界中の人間の半分の評価も得ていない。人の評価というものは元来そういうものなのだ。凡人がそれ以上を望むのは、愚かなことと言わざるを得まい。そう思って、人の評価をあまり気にせず、できるだけ、自分のしたいように生きてきたが、そのお陰で、人生を気楽に過ごすことができた。

正職員として収入を得た

1963年は正職員として収入を得た記念すべき年であった。大学の6年間は家庭教師のアルバイトと奨学資金、インターンの間は散髪学校の講師、医師になった一年目も無給医局員で、休日や夜間のアルバイトで生活費の一部を得てきたのだった。

川崎病院林田分院外科での診療

川崎病院林田分院外科は阪大第一外科の関連病院で、分院長緒方正来はS13年阪大卒、緒方洪庵の一族である。外科医長の中西熊蔵は東京医大卒の皮膚泌尿器科医で、緒方院長の許で外科の研修を続けてきた。産婦人科医長の香西正一は阪大S24年卒、小児科医長内村伸生は阪大S27年卒、そのほか内科、耳鼻科、眼科も阪大系列の出身者であった。

川崎病院本院も阪大第一外科の関連病院で、院長北島好次は阪大S4年卒で武田義章教授の1年先輩である。外科部長千葉啓次郎は阪大S18年卒で、本院全体も阪大系列で占められていた。

川崎病院本院と林田分院は川崎重工系列の病院で、川崎重工の従業員でなくとも受診できる地域の基幹病院として住民に親しまれて来た。本院外科と分院外科は交流があり、患者の紹介転医や大きな手術では本院からの助勢があった。

分院外科の診療は緒方院長、中西先生と私の3人が分担したが、若い私に仕事の多くを任せてくださりありがたかった。

中西先生は元々皮膚泌尿器科医であるため、皮膚科と泌尿器科の疾患について診断や治療手術について実地に教えていただいた。このようなことは通常はあり得ないことで幸運だった。

下腹部の手術では、婦人科の疾病を合併していたり、婦人科疾患であることが時にある。そのような時に婦人科の香西医長に立ち会っていただいたり、術者を代わっていただいたりしたことが幾度かあった。逆に婦人科の手術の助手を頼まれたこともある。分院の医師が平常仲良くしていたことにより、このように協調的に医療を行えたのだと思う。

内科の前田忠司先生は京都府立医大を卒業された方で、母校の関連病院ではなく、阪大系の病院では居心地が悪かったのかもしれない。この先生は神戸一中卒で、私はそれを継ぐ神戸高校の後輩であることから、ずいぶん可愛がっていただいた。

先生は当時始まったばかりの胃カメラをマスターされ、その実技を見せて下さり、実地指導をして下さった。私が開業当初から胃ファイバースコープ検査を行うことができたのは、この時の経験が大きく関係していると思う。

診療症例の記録

大学へ帰局する3ヶ月くらい前から、ここで経験した症例の内、自分が記録として残しておきたいと思う250の症例を、約5000件の全カルテから選び出し、その要点を図7のような形式でまとめて転記した。


図7.転記したカルテの一例 1965年

図8.転記したカルテ250症例をこのようにまとめて保管してきた 1965年

私は記録に残すのが好きな人間で、そのことに関しては私にとっての記録として公表している。その最初に当たるのが、この医師2年目から3年目までの診療症例である

医師となって、大学での1年間の研修、出張病院での2年間の研修は、外科医の基本をマスターするのに適したものであったと思っている。

川崎病院林田分院に出張勤務を命じられたのは、医局で2年先輩の岸田 司先生が帰局する「時」で、誰かCクラスの者が代わりに出張に出なければいけなかったが、神戸に住所のある者は私だけという「時」の運である。


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1965年 阪大医学部第一外科帰局 母の死

2年間の出張勤務を終えて帰局すると、武田教授は大阪厚生年金病院の院長に転出されていて、曲直部壽夫助教授の許で専門医への道を歩くことになった。阪大病院は改築され、堂島川沿いに、田蓑橋から玉江橋までを占める日本で2番めに長い建物として、威容を誇っていた。


図9.改築後の旧阪大病院 1965年

母 まさゑ 死亡、享年54歳

阪大病院の第一外科に帰局した2週間後に母は亡くなった。亡くなる前の数年間は、少し身体を動かしても呼吸困難になる状態だった。

そのような状態でありながら、母は一度も不安や愚痴をもらしたことがなく、暗いはずの病人が、一番明るくふるまい、讃美歌を歌ってくれと私に頼むのだった。

私が母に教えられた一番大きなことは、人生の最後をどのように過ごすかと言うことだったと思う。母は結婚する前に洗礼を受けていたので、神を信じない私のことを恐いと言った。それでも、私は神を信じることなく、死に際に悔いが少ないことを求めて、命ある限り精一杯生きようとしている。

私の歌好きは母の影響だと思う。こどもの頃から、家の中にはいつも母の唄う歌が流れていた。


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1966年 曲直部壽夫助教授が教授に就任 心臓外科専攻

大阪厚生年金病院院長が急に亡くなり、武田教授がその後任となって転出したため、阪大第一外科の教授は1年間ブランクだった。私たち同期入局のものが帰局したのがその時で、曲直部壽夫助教授が教授に選ばれ、新教授の許で医局員が心を新たにして、第一外科の発展を目指すことになった。

中でも心臓外科グループは、1956年に曲直部先生らが、人工心肺を使って本邦最初の心臓手術に成功して以来、わが国の心臓外科の先頭を走っていたが、武田教授の代になってから、心臓外科の火を絶やさないように守るのが精一杯、という状態にまで落ち込んでいたので、その再建が強く望まれた。

西崎 宏新医局長の下で、大幅な人事異動が行われ、私たち出張からの帰局組は、新生第一外科の中堅メンバーに組み込まれることになった。そのうち、内藤、堀口は心臓カテーテルグループに、津森と私は人工心肺グループに配属され、この時から心臓外科を専攻することになった。 心臓外科2グループのライターは川島康生講師(その後、阪大第一外科教授、国立循環器病センター院長、同総長を歴任し、現在同名誉総長)というメンバーでの出発だった。

この時、川島先生は曲直部教授から、「3年以内に教室の心臓外科を日本で一流のものにするように」と命令を受け、私たちは川島先生から、「ライターとして君たちには最も過酷なことを要求しなければならない」と引導を渡された。そして、私たちはそれに応えるべく、猛烈に頑張ることになった運命的な年であった。

私が心臓外科を専攻し、臨床と研究に突き進むことになったこと、文部教官助手となり、教育にも務めることになったのは、このような「時」の運がが関わっている。

西崎新医局長は、新しく身上調査票を医局員全員に書かせた。その中に、将来像に関する項目があったが、私は「死ぬ時に悔いのないように生きたい」と書いた。その後、何かの機会に西崎先生と話をした時、生き方について書いていたのは私だけだったと知らされた。そのことから、少なくとも30歳頃までには、今の生き方ができあがっていたことが分る。

田伏経子と婚約

精神科で当直中の田伏 薫に、阪大病院内で偶然会い、当直室でいろいろ話をした時、私が見合いをしていると話すと、自分の妹もその候補の一人に入れてくれないかと言われ、釣書を預かることになった。しかし、親友の妹というのは、断ることになった場合に断り難いから、返事を先延ばしにしていたのだった。

ところが、彼が結婚することになり、招待されて出席すると、その妹は受付をしていた。もう、はっきりさせなければならない。そこで、彼女に手紙を書き、6月25日土曜日に、旧旭屋横の喫茶店「フロント」で、最初のデートをした。会ってみると会話が楽しく、驚いたことには、兄を非常に尊敬している。聞いていて気持が良く、可愛い。彼がこれだけ尊敬されるのなら、結婚したら私はもっと尊敬されるかもしれないと思った。この予想は、その後無残にも打ち砕かれたのだが...

7月22日に六甲山で2回目のデートをして、7月29日の3回目のデートで、「私に賭けてみませんか?」とプロポーズした。結婚も賭けのようなもの、してみなければ分からない。だから、私に賭けてみてはどうかとしか言えなかった。そして、そのあと彼女と彼女の両親から承諾を得ることができた。

私にとって、人生で一番大事な結婚についてさえ、考え抜き、調べ尽くすのではなく、直感に頼り、運を天にまかすという、これまで通りのやり方を踏襲した。つまり、自分で決められることは自分で決める、最後の決め手は直感、自分で決められないことは運命にまかせる、という生き方である。

同様に、3回目のデートでプロポーズをするというのも私の生き方で、即断をすることが多いが、大きな失敗の記憶はない。

義兄と病院内でたまたま出会い、自分の縁談話を話すという「時」がなければ、妻との結婚はなかったわけで、「運は時なり」を思ってしまう。

その頃、私は心臓外科グループの中堅メンバーとして診療と研究に打ち込み、ほとんど毎日、病院に泊り込んでいた。もう、経子と婚約をしていたが、忙しくて、月に1度も逢うことができない。

恋しい気持で、手術が終ると大学の公衆電話からよく電話をしたが、暫く待たされてから、何時もハスキーな声が出てくる。その声を可愛いともセクシーとも感じて好きだった。ところが、結婚してみて、その声は単に寝ぼけ声に過ぎなかったことが分った。夜の8時頃から眠ってしまうことのできる大人が、世の中にいるなんて信じられない話だろうが、その大人が身近にいるのだ!


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1967年 阪大医学部第一外科助手任官 結婚

教授が交代したので、外科のような大きな教室としては異例の若さで、私たちは文部教官助手に任官して行った。私の場合は6月に31歳で助手となり、診療と研究だけでなく、教育にも関わることになった。

一方、この年、青医連(青年医師連合)はインターン制度に反対し、医師国家試験のボイコット、無給副手会の診療ボイコットなどを行った。そのため、無給医局員の協力が得難い状態となり、教官にはなったものの、これまでにない激務となった。

田伏経子と結婚

1967年11月25日の神戸オリエンタル・ホテル。そこへ、SONYのオープン・リール・テープコーダを持込み、マントヴァニー演奏の華麗なる「イエスタディ」などの12曲を、場面に応じて流した。披露宴の演出はすべて私が企画し、シナリオを書き、友人たちに手伝ってもらった。司会は故森隆君(前国立近畿中央病院院長)に頼んだが、原稿は私が書いた。そして、弟のギター伴奏で「愛の讃歌」を新郎が歌い、感謝のスピーチを新郎が述べた。

当時、そのようなことをする者はなく、出席して下さった皆様は、ただただ呆気にとられておられたようだった。私はというと、一生に一回しかできないことだから、自分の好きなように披露宴を持つことができて幸せだった。今なら、さしずめVサインをしていることだろう。

披露宴のBGM
 <1.新郎新婦入場
  スマイル(Smile) マントヴァーニ管弦楽団
  引き潮(Ebb Tide) マントヴァーニ管弦楽団

 <2.ウエディング・ケーキ入刀
  まことの愛(True Love) スタンリー・ブラック・オーケストラ

 <3.新婦お色直し中
  イエスタデイ(Yesterday) マントヴァーニ管弦楽団
  夜のストレンジャー(Stranger In The Night) マントヴァーニ管弦楽団
  ロシアより愛を込めて(From Russia With Love) マントヴァーニ管弦楽団
  恋と結婚(Love And Marriage) マントヴァーニ管弦楽団
  いそしぎ(The Shadow Of Your Smile) マントヴァーニ管弦楽団

 <4.新婦再入場
  朝の3時に(Three O'Clock In The Morning) マントヴァーニ管弦楽団

 <5.来賓退場
  ドミニク(Dominique) ヘルムート・ツァハリアス楽団
  虹の彼方に(Over The Rainbow) ヘルムート・ツァハリアス楽団
  恋のダウンタウン(Downtown) ヘルムート・ツァハリアス楽団

結婚式の直前に、日本人工臓器学会があり、曲直部教授が学会の会長をつとめたので、その準備に追われ、その上、演者として私も発表をしたため、とにかく忙しかった。その中で、私たちは家庭を持つことになったのである。私31歳、妻25歳だった。

年の暮れに、中古の軽自動車スバル360を買った。帰宅する時間が深夜を越えることも多く、また帰宅しても病院に呼び出されることがあり、車は必需品だった。先輩たちの忠告を聞かずに、中古車販売店に行き、その場で購入したら、新婚家庭の手持ち資金は零になってしまった。

この年の12月に、南アフリカのバーナード博士による世界初の心臓移植が行われた。


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1968年 大学紛争 長男 圭 誕生

この年は大学紛争の年だった。1月に、東大医学部学生自治会がインターン制度に代わる登録医制度に反対して無期限ストを始め、6月に、東大医学部学生らの安田講堂占拠があり、大学紛争は全国の大学に拡がって行った。

この学園紛争の発端となったのは医学部の学生で、青医連(青年医師連合)と呼ばれ、全国の大学医学部で医局、講座制の打破、解体を目指した。昭和42年卒、43年卒の青医連に属する者を42(ヨンニ)43(ヨンサン)青医連と呼び、最も活動的だった。

面白いことに、その阪大42青医連の委員長小林亨君と書記長池田義和君が第一外科に入局したのである。二人が封建的な医局の解体を目指したのか、それとも教授が代わって進取の気を感じたための選択だったのかは定かではない。

この年の夏、スバル360で琵琶湖一周ドライブ旅行をした。琵琶湖へ行くのに、名神を走った。大津ICに出る少し手前の上り坂で、前の車がやけにゆっくり走るのにしびれを切らし、追い越しをかけた。

ところが、テントウムシに抜かれて頭に来たのか、追い抜いた車がスピードを上げ、並んで走り出したのだ。後からはぐんぐんスピードを上げて迫ってくる車がある。アクセルを一杯踏んでもスピードは上がらない。その内、空冷の宿命か、エンジンがフニャ〜となってスピードがみるみる落ちて行った。あの時はもう焦りに焦った。

大学でその話をしたら、聞く者は誰も吹き出した。あのオモチャのようなスバルで、名神を走るだけでも大ごとなのに、追越しをかけるとは何たる無謀だと言う。

第一外科の教室員は裕福な家の者が多く、スバル360の中古車に乗っているのは、同じ頃に買った内藤君と私の二人だけ、それ以外で車に乗っている者は、普通車の新車ばかりだった。

8月に、札幌医大和田寿郎教授によるわが国初の心臓移植手術が行われ、その当否が長く問題となった。

長男 圭誕生

この年の11月21日、我が家に息子圭が生まれた。その結果、11月は妻の誕生日の11日と結婚記念日の25日が集まり、我が家の記念日の4分の3を11月が占めることになった。

研究室に出産の知らせが入るや、スバル360で大学を飛び出し、枚方の新香里病院へ向かった。大日交差点の信号が青になった瞬間に飛び出し、先頭を切って走り出した途端、警官に止められ、スピード違反で切符を切られた。

病院に着いて息子の顔を見たら、あまりに整っているので、気持が悪いくらいだと妻に告げた。義母は「この子の目が細いので、剃刀で切ってやりたい」と恐ろしいことを言ったらしい。まこと、人の見方はさまざまである。

大学に戻る途中、曽根崎警察署の傍で、交通整理の警官の指示を受け、慌ててバックしたら、後ろのトラックに衝突。

翌日、東京の学会に出るために新大阪駅へ向かう途中、通行人に接触しかけて窓を叩かれた。こどもが生まれて24時間以内に3回も車でトラブルを起こしたのは、気が動転していたせいかも知れない。以上が父親になったばかりの私の行動である。

医局反省会

12月26日のヘルツ反省会準備会では、私のクラスから北村君のクラスまでの13名が出席し、心臓グループを良くするための問題点を3時間に亘って討議した。誰もがこのままでは心臓外科グループは崩壊するのではないかという危機感を抱き、非常に過激な意見が続出した。

しかし、翌27日のヘルツ反省会では、前日あれほど厳しい発言をしていた者が沈黙を守り、結局、私が代表して意見を述べることになった。

その時に述べた問題点の項目だけを書くことにする。
1.時間がない、2.雰囲気が悪い、3.患者に対する多重支配は無駄である、4.手術について問題がある、5.システムが非民主的である、6.生活上経済的な面で問題がある、7.ライターに対する要望がある、8.来年度から新しい方針で臨んでほしい。

ライターの川島康生講師は、学年が6年上の、非常にシャープな頭の方で、また、上下関係を大切にされ、私たちが入局した頃は「鬼軍曹」と呼ばれて、恐がられていた人である。その先生が部下から批判され、提言されたのだから、そのショックは非常に大きかったと思う。飼い犬に手を噛まれた思いをされたかもしれない。しかし、先生はそれを受け入れ、改善を約束された。

翌28日、御用納めの日の医局の反省会では、曲直部教授と医局員全員の前で、心臓外科グループを代表して、川島先生は前日のヘルツ反省会の結果を報告し、男泣きして自分の非を認められた。後にも先にも、医局会で泣いた者はいないと思う。それが、厳しくて恐いことで有名な川島先生だったから、その場に居合わせた者の衝撃は大きかったようだ。

川島先生が私たちの意見を受け入れられたのは、青医連のような現状の破壊、解体ではなく、より成果を上げるための批判であり、建設的な提言であったためであるが、事情を知らない心臓外科以外のグループの中には、このことを好奇の目で見る者がいて、私が川島先生をいじめたように言うのには困惑した。そして、医局員の面前で泣かせてしまったからには、いつか、私は責任をとって大学を去らなければならないと思った。

今、振り返ってみると、新しい教授のもとで出発して、課題が山積みのところへ、心臓移植と大学紛争という難問が加わり、その中で、心臓外科を再建するために誰もが精一杯に努力をしてきたが、それが限界に達していたということだろう。

その努力が実を結んで行く状況は、心臓外科関係の雑誌発表の論分数が、66年から69年までの間に、4、9、13、33、に増え、学会発表の論分数も、19、32、41、43、と増えていることに表れている。


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1969年 大学紛争 息子 圭 嵌頓ヘルニア

前年から続いた大学紛争は、1月に安田講堂が封鎖解除されてから、一層烈しさを増して行った。医学部では各種会合が開かれ、青医連などからは要望書で回答を求められ、教授選考、教官任用は停止してしまった。

青医連などによって全教官が北3階の講堂に集められ、痛烈に批判された上、現在の教官は全て必要ないとまで宣告された光景を思い出す。

4月に曲直部教授が病院長に選出された。この選出方式は、学生を含む阪大病院の全構成者2400名が直接投票する新しい阪大医学部方式だった。曲直部先生は教授就任3年目でありながら、大学紛争最盛期の病院長業務に全力投球をされ、尿瓶まで持ち込んで団交に応じられた。新しい課題に対して、果敢にチャレンジする先生らしい立派な行動だった。

一方、私たち教室員もまた、教授を病院長にとられた状況の許で、それを支援しながら、新生第一外科の再建に務めたのである。

「大学紛争は医学部に始まり、医学部に終わる」といわれたが、その問題点の一つが、多数の無給医局員の存在であった。それに対して、この年から第一外科では無給副手を学外関連施設に出して有給とし、無給医を教室から無くして、教官のみによる業務体制をとった。

その結果、これまで多数の無給医局員が持っていた業務を少数の教官が負担することになり、相当の激務となった。しかし、この対応は阪大病院全体には拡がらず、第一外科だけの独走に終り、第一外科の教官が一番しんどい目をしたのだった。このことについては「一外気質」の中でも少し触れたことがある。

しかし、8月に「大学の管理に関する臨時措置法」いわゆる「大学立法」が公布されると、あれほど烈しかった大学紛争も徐々に鳴りをひそめ、大学にも医局にも平和が戻ってきた。

息子 圭 嵌頓ヘルニアで手術

この年の3月6日、圭は嵌頓ヘルニアになり、故上田 武先生と私で深夜に緊急手術をした。麻酔をかけてくれたのが、後に香川医大麻酔・救急医学教授になられる小栗顕二先生だった。小栗先生は、その少し前にご長男を亡くされたばかりで、非常に親切にしていただいたことを覚えている。

家族三人でドライブ旅行

圭が8ヶ月に入った8月のはじめに、スバル360で家族そろって勝浦までドライブ旅行をした。夜中の42号線を走ると、行けば行くほど道路は暗く、走る車も少なくなり、だんだん心細くなる。その上ガソリンスタンドは数が少ないのに、全部閉まっている。ここでガス欠を起こしたら大変だと恐ろしくなった。と言うのは、勝浦温泉病院の麻酔をかけるアルバイトを兼ねて家族旅行をしていたので、不時着は許されなかったのだ。

42号線は登り坂、下りが坂が絶えず続いている。そこで、ガソリン消費を減らすために、下り坂ではエンジンを切って走ることにした。これは絶対にしてはいけないと教えられてきたが、背に腹は代えられない。下り坂を猛烈な勢いで下って、そのまま惰性で坂の途中まで上り、スピードが落ちてきた所でエンジンを入れるという操作を何度もくり返し、明け方、勝浦に何とか到着することができた。そして、そのまま午前中は全身麻酔をかけ、午後から船でホテル浦島へ渡った。

圭は後部座席に寝かされて、真っ赤な顔をしてずっと眠っていた。圭が暑がらないようにと府営住宅の部屋にクーラーを付け、色彩感覚を育てるためにとカラーテレビを買い、エンドレスに子守歌を流し、親ばかというか、こどもが大事で仕方なかった。

息子 圭 への子守唄

森山良子が唄う子守歌の入った8トラック・カートリッジ・テープを、圭が3ヶ月の時から一日中聞かせていた。その中には、天満の市で、竹田の子守歌、島原の子守歌、中国地方の子守歌、五木の子守歌、江戸子守歌、アイルランドの子守歌、ブロードウエイの子守歌が入っていた。

8トラック・カートリッジ・テープというのは、カセット・テープとほぼ同じ頃に作られたテープの規格で、主にカーステレオに使われ、その後LDが普及するまでカラオケ用に専ら使われた。これは同時に4チャンネルでテープが回り、一つのチャンネルの最終曲が終われば、次のチャンネルに移るようになっていて、4チャンネルが全部終われば、振り出しに戻り、エンドレスに再生を続けるメカニズムになっていた。操作はこのカートリッジを挿入口に差し込むだけで、チャンネルボタンを押すと、4チャンネルの中の好きなチャンネルに切り替えることができるという超簡単な代物だった。

これ以上簡単なオーディオ再生装置はなく、メカ音痴の妻にはこれが最適と判断し、SONYの家庭用のデッキを設置して、使い方を教えたのである。とは言っても、カートリッジの挿入する側と挿入口を教え、再生したければ「挿入」、止めたければ「抜去」することを教えただけで、もちろん一発で使い方をマスターしてくれた。

私は母の子守歌で育ったが、圭を妻の子守歌で育てると、すごい音痴になりそうだ。そこで考えついたのが、このエンドレス再生装置で、森山良子のきれいな子守歌を聞かせ続けることだった。そのもくろみは見事当り、息子は歌好き、音楽好きに育った。

息子圭が1歳を過ぎた頃から、病院から帰ると、オープンリール・テープに入っているセルジオ・メンデス&ブラジル'66のラテン・ロック「マシュケナダ」のような曲に合わせて、圭と私はキャッキャッ騒ぎながら、狭い府営住宅のアパートの中を踊り回るのだった。息子がお調子乗りだったり、ラテン音楽を好むのは、この頃の影響があるのかも分らない。オープン・リールのテープレコーダは結婚式の披露宴で使ったものである。


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1970年 万博の年 息子 圭 脱水症で瀕死状態

圭が脱水症

圭がこの年の正月に下痢をした。小児科の友人に尋ねると、水分を充分補充すれば良いと言うので電話で妻にそのように指示をしておいた。

夜遅く帰宅すると、圭はまるでガンジーか、飢餓でやせ衰えたアフリカのこどもに変わっていた。目はうつろ、歯をむいて弱弱しく泣いている。

しまった!脱水で死ぬ!と直感し、そのまま大学へ戻り、看護婦詰め所からカット・ダウンのセットを受け取るや、とんぼ返りで阪神高速を時速120kmで飛ばした。その時は、ただ助かってくれと必死に祈りながら車を走らせていた。

家に着くや否やカット・ダウンをして点滴を行い、顔に生気が少しずつ戻ってきたのを見て、点滴をしながら阪大病院まで運び、入院させてもらった。これが圭の2回目の入院となった。

大阪万博

この年の3月から9月にかけて、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO'70)が開催され、入場者は6400万人を越えた。中央のシンボルタワーとして建てられた岡本太郎の「太陽の塔」は47年経過した今もなお聳え立っている。

8月に親子3人でここへ出かけたら、圭は噴水のところで動かない。1時間が過ぎても飽きもせず見つづけている。こちらがしびれを切らして、他のところへ行こうとすると、泣いて地団太を踏む。噴水や工事現場などメカが何よりも好きなようで、蛙の子は蛙だと苦笑した。

阪大医学部の 基礎 臨床 全教授招待の結婚披露宴を司会

4月には結婚披露宴の司会をした。新郎は第一外科の後輩で、昭和42年卒の野村大成君(前阪大医学部放射線基礎医学教授)、新婦は当時阪大医学部産婦人科教授のお嬢様の足高郁子さんだった。阪大医学部の基礎と臨床の全教授が来賓として招待され、ロイヤルホテル山楽の間で盛大な披露宴となった。

その司会を大過なく終えることができたが、その間、料理を全部平らげたのだから、ど心臓というか、貪欲な食い意地に、皆はただただ呆れていた。

野村大成君とは名前では親戚ではなく、回りまわって親戚になるというだけの関係だが、なぜか私を司会に指名してくれたので、喜んで引き受けたのだった。

辞意を認められる

この年の終りに、大学を辞めることを曲直部教授と川島講師に告げ、認められた。大学紛争を経験している間に大学に留まって心臓外科医になることに疑問を感じ、その気持ちを表明した。その後、大学紛争は終焉を迎え、大学にも医局にも平和が戻り、曲直部教授や川島講師からも考え直すようにと言われたが、一旦表明したことを翻す気持ちにはなれなかった。

そのことを振り返ってみて、確かに一旦口にしたことを変えるのを潔しとしない性分ではあるが、川島先生を医局会で泣かせたことの責任をとる意味もあり、それ以上に、開業医に対する夢とか憧れがあったからだと思っている。やるべきことはやった、次はしたいことをするのだという気持だった。

2年間に亘り、大学紛争を体験したという時が、心臓外科医から一般開業医へ進路を変える決断をすることになった。そして結果的に「運は時なり」であった。


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1971年 阪大医学部第一外科助手を退官 名取病院に就職

私個人にとって、この年は人生においてはじめて決断をした年であった。自分の意志で、大学を辞め、開業医への道を選んだからである。

6月末の月曜日の朝の医局会で、別れの挨拶をした。そこで、「第一外科に入局して10年になるが、その間、私は第一外科が私に何をしてくれるかを考えず、第一外科に対して何をすることができるかを考えて、医局生活を送ってきたつもりだ」と言い、自分がしてきたことの概略を述べた。これは、ジョン・ケネディー大統領が大統領就任演説で述べた「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country」という言葉を借りたものである。今から思うと、生意気な挨拶であるが、35歳の私は大真面目で、しかし、気負うことなく話したと思っている。こう言うエエカッコをしたがるところは、今も変わっていないようだ。

この少し前に、大阪大学医学部第一外科開講記念誌「五十年の回想」が出版され、その中に私が投稿した 一外気質も掲載された。これは、自分を含めた外科医の特徴を分析したもので、第一外科医局生活10年間のまとめのつもりで書いたが、ユニークな見方を面白がってくれる人が多かった。

名取病院に就職

大学を辞めて勤めたのは、大阪市西淀川区にある、名取病院という個人病院だった。ここは、津森君という第一外科に同期で入局し、ともに心臓外科に従事していた友人が、1年間勤めていた後を引き継いだのだが、開業に関する実際を学ぶことと、開業資金を作ることが最大の目的だった。名取院長はロイヤルホテルのフランス料理店に津森君と私を招待し、二人の歓送迎をして下さった。その時に食べた生牡蠣の美味かったことを今も覚えている。

友人から名取病院を引き継いだことは、資産が無く、開業医の勉強が必要な者にとって、非常な幸運であった。まさに、「運は時なり」である。

大学は辞めたが、感傷的になることはなく、心待ちしていた新しい出発が、いよいよ始まるのだという期待で爽快だった。それを一層強くしたのが、初めて好きな新車に乗れる嬉しさだったと思う。4年前に中古車のスバル360を買い、その2年後にはブルーバード510の中古車に替えた。

しかし、今度は名取病院が高給で迎えてくれるから、好きな新車を買うことができる! そう思うと、持ち金を全部使って、ローレル2000ハードトップを購入し、無一文になった。当時、2000ccの乗用車は珍しく、病院の駐車場に置いているのを見て、タクシーの運転手が「これ2000やね」と、声をかけてくることがあった。

大学を辞める前に演題を提出していた日本人工臓器学会の総会が、この年の10月に札幌で開催され、名取院長の許可を得て、それに出席し、発表を行った。演題は「体外循環とその操作運用の実際」と「人工肺ガス交換機能の指標と検査法」の二つだった。これで大学時代の仕事から解放されたわけである。

良い機会だからと、妻と息子も同道して、北海道観光をした。オリンピック前の札幌は、地下鉄工事などが行われていたが、大通公園の屋台で食べたとうきびは格別に美味かった。

悲しい別れ

この年の暮れに、今までの楽観的ムードを吹き飛ばす悲しい知らせを受けた。親友野中清也君が、東京で学会発表をした後、自死をしたというのだ。その知らせを聞いた途端、頭に浮んだのは、彼がその夏の暑中見舞いでくれた葉書の文面だった。

  暑中お見舞い申し上げます。
  御厚情感謝します。最近やっと自分が判りだしました。
  貴君の立派な態度心からうらやましく思います。どうか宜しくお願いします。

大学に入って以来、彼とずっと親しく付き合ってきたが、このような弱気なところをみせたことはなかった。彼も大学紛争の中でいろいろ悩んでいたことは知っていたが、私が大学をさっさと辞めてしまったことが、彼を責めるように働いたのだとしたら、本当に申し訳ないことをしたと思った。

それも、今まで書いてきたように、私はむしろ喜んで大学を辞め、次の目標に向けて、希望を持って歩み出している途中の訃報だったので、そのことを伝えられなかったことが残念で仕方がなかった。こうして私は、妹、母についで、また非常に親しい人を失ったのである。


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10.開業医 PC無 時代

1972年 開業地を変更 医院兼居宅を新築設計

連合赤軍浅間山荘事件

この年の2月には、連合赤軍浅間山荘事件が起きた。その実況を病院のテレビで見て衝撃を受け、予定していた淡路島での開業を急遽変更した。もしも、この事件がなかったら、交野の地で開業することもなかったわけで、非常に運命的なものを感じている。

これだけでは、どうして淡路島での開業が駄目だと思ったか、判じ物で分らないかもしれない。そこで、簡単に説明をすると「淡路で開業すれば、息子を高校から阪神間の学校へ行かせなければならない。悩み多い時期に親元を離れて過ごさせると、連合赤軍のような行動に走る可能性がある。しかし、それでは余りにも可哀想だ」というわけである。書けばこんなに長くなるが、これを一瞬にして思ったのだった。

淡路島での開業を止めたと書くと、私が淡路島出身であると思われるらしい。両親はどちらも淡路島出身だが、私は神戸生まれの神戸育ち、31歳で結婚してからは大阪で暮らしている。バカみたいだが、この歳になっても、神戸っ子であることが、ちょっとした自慢なのだ。

淡路島で開業しようと決めたのは、父が兵庫県庁を定年退職し、淡路島へ転居していて、その土地が使えるというだけの理由だった。開業資金は名取病院で得た給与だけだから、それは仕方のない選択だった。

この開業地の変更もまた、「運は時なり」である。

名取病院に勤めるようになってから、先にも書いたように、毎朝、圭を車で枚方の妻の実家(圭の祖母の家)まで送り、それから西淀川にある病院に向かう生活に変わった。圭はこの春から幼稚園だが、まもなく交野に転居するので、枚方の幼稚園に入れてもらい、祖母の家から送迎バスに乗ることにしたためである。

圭を祖母の家まで送り届けることになったのは、個人病院勤務で時間的に余裕ができたからだ。9時までに病院に到着すれば良いので、大学時代より1時間以上余裕があり、今度は高給取りで、往復阪神高速を利用するし、愛車は新車、圭と一緒で楽しい毎日だった。

しかし、時に阪神高速上で予期せぬ渋滞に巻き込まれることがある。病院に連絡をしようにも高速道路上ではそれができない。診療に遅れそうだと思うと居ても立ってもおられず、イライラが極度に達し、もう、こんな生活は辞めたい、勤務医はしたくないと本気で思ったことを思い出す。今なら、携帯電話を使って連絡が取れるので、そのような思いをしなくて良いのだが...

妻の叔父の病気

この年の3月、妻の叔父で、衆議院議員の岡沢完治が、末期がんで大阪市立大学医学部付属病院に入院した。この人は、妻と結婚した当初から、なぜか私を気に入ってくれた。そして、医師としての私を非常に信頼して、私が病室を訪れるのを毎日心待ちにしてくれた。

4月の半ばから、容態が一段と悪くなったが、叔父は、私が顔を見せると非常に嬉しそうで、暫くは調子が良くなることの繰り返しだった。今、そのときの記録を見ると88回面会に行っている。4月17日から6月26日の亡くなる日までは毎日、市大病院の病室に顔を出した。

毎日、門真の府営住宅から、枚方の妻の実家まで息子を送り、それから、西淀川にある名取病院で勤務し、それが終わると、阿倍野区にある市大病院へ、それから、また枚方の妻の実家に行き、叔父の病状を報告し、自宅へ帰るという生活だった。

毎日の走行距離を聞いた同僚の守田先生に「それじゃ、タクシー運転手並ですね」と言われたのが耳に残っている。これは、民間病院に勤務している間だったからできたことで、大学時代はもちろん、開業してからも、それはできなかっただろう。

前年に亡くなった親友野中君に続いて、この年もまた、身近な人の死を経験しなければならなかった。

交野市で開業地見つかる

連合赤軍がきっかけで、義父の土地のある枚方で開業しようと思ったが、どの土地も、他の医療機関との関係で使えない。といって、他の場所はなかなか見つからない。自分で決めることができないもどかしさが、たまらなかった。生涯であれほどいらいらしたことは他にはない。

幸い運良く、この年の11月になって、交野の地に、開業の土地を得ることができた。医院兼居宅のデザインを描き、工務店を決め、12月に地鎮祭を行った。

医院兼居宅を新築設計

開業の土地が決まると、医院兼居宅のデザインは、平面図だけでなく、立面図も自分で書いたが、それを見て、工務店の担当者は、平面図を書く人はいても立面図まで書く人は居ないと言いながら、天井の高さ2.7mは高過ぎる、暖房や冷房効果が悪くなり、不経済だから、2.4mにするようにと強く求めてきた。設計事務所の設計士も同じ意見で、少し嘲笑気味だったように覚えている。

その時の私は36歳、大学を辞めて民間病院に勤めながら、実地で開業の勉強をしていた。親と住んでいた家は県の官舎、結婚してからは府営住宅で、家を建てることなどとは皆目無縁だった。

そんなずぶの素人でありながら、工務店や設計事務所という専門家のアドバイスを頑強に拒否したのは、若かったというだけでなく、持って生まれた強情さが、大いに関与しているのだろう。とにかく、昔から専門とか権威ある人が高圧的に言うことに対しては、本能的にまず疑ってかかるのだった。

ところが、2004年に入って、大和ハウスがモデルハウスのPRに使った新聞広告を読んで、天井の高さが、住宅のセールスポイントとして取り上げられるようになったことを知った。それによると、普通の家の天井の高さは2.4m以内だという。それと比べて、この大和ハウスの住宅は天井の高さを2.6mにしたので、同じ広さの部屋でも、天井が高い分だけ空間的に広がりが出て開放感があり、大きく感じられると宣伝している。私がその31年も前に、専門家の反対を押し切って設計した天井の高さ2.7mは、その基準よりもまだ10cmも高いのだ。

平面を広げることは簡単で、土地さえあれば建て替える必要はない。しかし、天井の高さを高くしようとすれば、建て替えるより他に方法はなく、それには、莫大な時間と費用が必要となる。今ごろになって住宅のセールスポイントの一つに使われ始めた「高い天井」は、我が家では31年前から、それ以上の高さで存在してきた。それを知って、頑固も捨てたものではない、と愉快になったことを思い出す。

大学を辞めた時、全財産を使って新車を購入し、その後民間病院で2年足らず働いて得た給与だけが手持ち資金で、残りは借り入れ金という状況だった。それでも、建替えなどを考えず、最初から鉄筋コンクリート造りを選んだのは、若かったこと、その決断を許す時代だったことによるのだろう。「運は時なり」である。その幸運に感謝している。

医院内部の設計

医院のデザインで気をつけたことは、
 1)院長の私が、診療の場で中心の場所にいて、診察をしながら、ほかの業務が見渡せ、把握できる
 2)私、職員、患者の動線が最短となる
 3)患者に分かりやすい。
 4)患者の待ち時間のいらいらを少なくする
 5)明るい雰囲気
の5点であった。それを、以下の図10を使って説明する。


図10.診察者が中心となる医院構造(野村医院二十年史より)  1993年8月設計

1)院長の私が、診療の場で中心の場所にいて、診察をしながら、ほかの業務が見渡せ、把握できる
  まず、入室する患者の様子、処置室で採血や注射を受けている様子、自動現像機(自現)から
  出てくるX線フィルム、受付との間のドアを開けているので、受付の様子が分かる

2)私、職員、患者の動線が最短となる
  私や職員の動線が最短になるのは容易に理解いただけると思うが、診察机と受付の机との間に
  カルテ転送窓を設けてあり、運ぶ人を省き、迅速に処理できる
  患者は、玄関から入るとすぐ受付カウンター、診察室に入ると目の前に処置室、左横に診察机
  左斜めにX線心電図検査室がある

3)患者に分かりやすい
  構造が単純で考える余地がない

4)患者の待ち時間のいらいらを少なくする
  待合室の電光掲示板に診察中の番号を表示する
  決まった注射や検査の場合は順番待ちが不要
  マガジンラックや掲示板に読み物を置いたり掲示する

5)明るい雰囲気
  待合室の北面は全面を天井まで届く窓
  診察室と待合室の境にも天井まで届く窓
  受付はオープンカウンター


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1973年 野村医院開業 診療方針を決めた

日本人工臓器学会主催学術セミナー

この年の2月22、23日に、日本人工臓器学会主催の学術セミナー「人工心肺の理論と実際」が開かれ、その講師を依頼された。東大をはじめ心臓外科を行っている主要な大学の教授、助教授クラスの人が講師で、阪大からは川島助教授が選ばれていた。

これは大学を辞める時にはなかった話だが、そのような人の中に選ばれたことは光栄であり、また、受講料17,000円の有料セミナーで、受講される方のレベルも高いと思われたので、名取院長の許可をもらって参加した。そして、これが私の心臓外科関係の最後の舞台となった。

そのセミナーの内容をまとめて、「人工心肺の理論と実際」というテキストが作られ、その中の「人工肺の検定」の項を分担執筆した。今、それを取り出してみると、発行所:株式会社医事通信社、発行日:昭和48年8月15日、定価:4,800円、204ページの単行本である。

大学の医局を自主退局し、学位もなく、個人病院勤務している一介の医師が、依頼されて日本人工臓器学会主催の学術セミナー「人工心肺の理論と実際」の講義とその内容の分担執筆を行った。それは、私の大学医局時代の臨床と研究の総括となり、晴れやかな気持で開業準備に向った。幸運だった。

開業準備

4月一杯で名取病院を辞め、開業準備に専念することにした。7月には医師会に入会の申し込みをし、8月10日に開院式を行うことにした。ところが、関電の電柱敷設工事が遅れて電気が来ない。だから、クーラーが使えない。そのような状態にもかかわらず、暑い最中を、大学からは川島先生や同期の友人、名取病院からは名取院長をはじめ元同僚が出席して下さった。また開院して間もなくの日曜日に、曲直部先生ご夫妻もお見えになり、緒方洪庵の「扶氏医戒之略」の額を下さった。

患者ID番号を設定

開業と同時に、コンピュータ利用を目的として患者ID番号を設定した。その方法は警視庁の指紋台帳に準じたもので、姓と名が分れば職員の誰もが簡単に決めることができた。当時、阪大病院や星ケ丘厚生年金病院でもID番号化は行なわれておらず、先進的だった。これは開業以降変わることなく継続している。

開院

9月1日から開院した。初日はわずか17名だったが、私を含めて慣れないスタッフはてんてこ舞いをして、ようやく診療を終えることができた。妻が歯科医師免許を持っていたため、看護師、薬剤師、放射線技師、臨床検査技師の業務を任せることができたのは幸運だった。

この年の10月に、第4次中東戦争が勃発し、これが引き金となって石油ショックが起こり、トイレットペーパーや洗剤の買いだめ騒動が全国で続発し、モノ不足は、薬剤や診療材料も及んだ。

あと半年開業が遅れていたなら、大変な目に遭っていたことを思うと、動き始めたバスに何とか飛び乗れたような感じがして、本当にラッキーだった。 ここでも「運は時なり」である。


図11.医院と居宅を新築 1973年

開業以来の診療方針

野村医院二十年史に、私が行ってきた診療方針を載せている。これは1973年の開業以来、2005年に息子に引き継ぐまで、変わることなく続けてきた。文体を「です・ます」調から「である」調に変えて、それを転記する。

1.できることをする
自分が診療できる範囲の病気を診療し、自分の診療能力を越えた病気の場合は、それに適した専門医に速やかに紹介することをモットーとしてきた。これは当然すぎることではあるが、その見極めが難しい場合がよくある。安易に紹介することは、患者にも紹介を受ける医師にも、迷惑をかけるだけでなく、自分の診療能力を落としていくことにもなる。そこで、できることを増やし、できないことを判断する力を養おうと努めてきた。

2.診させていただく
大学病院や大病院に勤務していた時には、ともすれば、「診てやる」「治してやる」といった気持ちを持ってしまっていたような気がする。しかし、本当は「診させていただく」のであり、「本人の治ろうとするのをお手伝いさせてもらう」のが医療の本質だと考える。

3.医師と患者にも相性がある
「患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない」というのは、正論だと思う。しかし、医師と患者の相性の良し悪しが、診療に大きな影響を及ぼしやすいことも事実である。周りに多くの医療機関がある当院のような場所では、自分が良しと思う方針にしたがい診療をすることも、許されるのでないかと考える。

4.診療は問診に始まり、問診に終わる
開業医にとって、診療で最も重要なのは問診であると思ってきた。患者の訴え、悩みを早く正しく把握する手段として、問診に勝るものはない。これだけで、ほぼ診断できる病気もあれば、かなり病気をしぼれることもある。

しかし、より有用なのは、これによって効率的に、しかも誤り少なく、診療を進めていけるということである。診察の重点の置き方はもちろん、検査の選択にも、問診が重要な意味を持っている。

開業内科医は、幸か不幸か、限られた時間の中で、たくさんの患者を診療しなければならない。だから、人間ドック式、ショットガン式診断は、時間的にも、経済的にも、行えるわけがなく、また、行うべきではない。診断学がすすめる system of review でさえ、実際問題として、ほとんど実行不能であろう。

それに対し、患者との会話と問診から得た訴えや苦痛を診療の中心に置き、的を絞って診察し検査をすすめるのは、診療に要する時間と費用を少なくするだけでなく、逆説的になるが、診断ミスを少なくする効果もある。

もちろん、問診は最初の診療の時だけでなく、診療の経過の中で修正されたり、追加されたりして、それが診療にフィードバックされなければならないのは当然であろう。

問診は診断だけでなく、治療にも関係する。自分の苦痛や悩みを、正しくとらえてもらっていると感じられる場合と、そうでない場合とで、治療効果が違ってきても、なんら不思議はない。治療の効果を知るとか、副作用の早期発見にも、問診は極めて有用である。

5.できるだけ説明をする
説明は診察中から始める。つまり、診察して得た所見は、特別のものでなければ話し、診断もほとんどの場合、その場で話す。いくつかの疾患が考えられる時は、それらを列挙し、今後の方針を述べる。

治療についても同様で、特に副作用の出る可能性の高い薬を処方する時には、必ず、予めそのことを告げ、現れた場合の対応の仕方を説明する。病気の状態などについて、言葉で説明できることはまず言葉でする。しかし、言葉より適切なメディアがあれば、それを活用する。

6.なるだけ不安を与えない
病気の恐さを強調し過ぎて、患者に必要以上の不安を与えることは、可能な限り避けるように心がけてきた。また、悪い情報を伝えなければならない時には、同時に、良い情報、希望の持てる情報も伝えるようにしてきた。

7.決めるのは患者
医師は、得られた情報をできるだけ多く、正確に、分かりやすく患者に伝え、同時に、医師としてのアドバイスをする必要がある。しかし、そのアドバイスを受け入れるかどうかを決めるのは、患者自身であって、医師ではないと思う。

「患者管理」ということばを最近よく見かけるが、私は反発を覚える。およそ、管理されるのが一番嫌いだという性格の人間が多いのは、医師ではないかと思う。その医師が、たとえ健康のためとはいえ、他人を管理しようとするのは、身勝手ではないだろうか?

もちろん、管理して欲しいと思っている患者もおられるだろう。それは、される側からの希望なので、なんら問題はない。そうではなく、管理する側の都合で、一方的に管理しようとするところに、問題があるのだ。

8.データを残す
診療に関係したデータを、できるだけ残すようにしてきた。例えば、整理したり電子化したデータはもちろん、その元データも、できるだけ残すことを心がけてきた。その中でも、カルテを一番大切にし、検査データやレントゲン写真も、可能なかぎり残してきた。また、診療申込用紙、日計表、紹介状、レセプトの要約なども整理して残してきた。この野村医院二十年史の 2.診療データは、それらをまとめたものである。


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1974年 開業2年目 レセプト・コンピューター導入

開業して一番バカらしいと思ったのは、レセプト作成だった。こんなのは、人間がするものではない、機械にやらせよう、と思って検討し、開院2年目の9月1日から、窓口計算やレセプト作成などの診療用に医療用コンピュータ、(レセプト・コンピュータ、略してレセコン)、を導入した。当時、医療用コンピュータを導入している医療機関はほとんどなかったが、私はその前の5月の連休に、コンピュータ採用を決め、機種を選定し、当院用にカスタマイズして、誰でも使えるようにしておいた。

コンピュータ導入の日に採用した女子事務員に、ぶっつけ本番で操作をさせたところ、彼女は見事にそれを使いこなし、以後23年3ヶ月の長い間、当院の事務の中心となって働いてくれた。

野村医院の新患患者数は、この年末で2,778名で、開院以来の累積患者数は、4,249名となった。レセプトの件数は、月平均815件で、なんとか順調な経過のため、膨大な借金をかかえていた身にはありがたかった。

レセプト・コンピューターを導入しようにも、それが存在しなければできないわけで、誕生したばかりのレセコンを利用できたのは幸運だった。ここでも「運は時なり」である。


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1975年 開業3年目 体調不良

この年の終わりは、これまでの人生で一番体調が悪く、血液検査でも血沈が悪く、そのほか、コバルト反応が左側に偏移していた。その頃は腫瘍マーカーはなく、このコバルト左側反応は、悪性腫瘍を推測させる検査の中では一番信頼性が高かった。

咳が長引くし、胸部レントゲン写真でもあやしい影があるので、肺癌の可能性も考えた。その時の私の年齢は満39歳、数えで40歳だった。前厄より1歳若いが、もともと早熟な私だから、これは前厄だろうと思うことにした。そして、妻に懇願されて、大和郡山にある厄除け寺の松尾寺にお参りに行くことなった。

ところが、そこへ行く途中でスピード違反でつかまってしまった。厄除け参りに行こうとしているのに、ご利益でなくて不利益を与えるとは何ごとか! 一応、形式的に松尾寺に参ることをしたのは、妻の手前だけで、あとでさんざん毒づいておいた。

調子が悪い時に私がすることはただ一つ、つきを良い方に変えるのだ。この時の私は、車をグロリアの2ドアハードトップ、3ナンバーに買い換え、阪大の第一外科も購入したと売り込みに来たAKAIのオープンリールのビデオカメラも、ためらうことなく買った。初めての民生用カラー・ビデオ・カメラで、100万円を越える代物だった。

しかし、これによって再びつきが戻り、私は健康を取り戻すことができたのである。私のやりかたは成功率が高い。とにかく、このやり方で失敗したことがないのだから...

今思えば、開業に慣れ、マンネリを感じて深夜テレビに入り浸っていたことが、体調不良の原因だったのだろうと想像できる。以来2005年に息子に医院を引き継ぐまで、健康に不安を感じたことはなく、病気で休診したことは一度もない

ここでも、「運は時なり」を痛感する。


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1976年 開業4年目 不惑の年

この年、私は40歳となった。40歳というのは、古来いろいろと呼ばれ、一つの節目の年となっているようだ。リンカーン大統領は「40歳になれば自分の顔に責任を持て」と言ったし、孔子は40にして惑わずと言ったので、不惑の年と言われるようになった。

私が、節目節目を大切に思うようになったのも、この年からのような気がする。というのは、40歳の記念として、三つのことをしたからだ。

その一つは、40歳の誕生日にガレージを作り、米国製のスイング・ドアを付けたこと。これはリモコンを使って、200メートル先からでも、ドアを開閉できる優れもので、30年以上正常に作動した。一日数回は開閉しているというのに、簡単な故障が2度ばかりあっただけで、重宝極まりなかった。

二つ目は、同じく誕生日に、医学論文の目録を作ったことで、自著論文9、共著論文19、学会発表(演者)21、学会発表(共同演者)34件があり、大学時代の総括とした。

三つ目は、学位を取得したことである。医学論文の目録にあるように、大学時代にいくつかの研究の結果を出してはいたが、大学を辞めると宣言していた日までに、それをまとめることは時間的に難しかった。また、たとえできたとしても、学位を取得した途端に辞めるなどと言うことは、私にはできない話だった。だから、大学を辞める時には、学位取得はあきらめていた。

しかし、自分がしてきた仕事のまとめはしておきたいと思い、論文発表をしておいた。そうしたら、この年、川島先生から、以下のことばが書かれた年賀状をいただいた。

今年は発表会をやる予定の人が6人ばかりありますが、何とか一緒にやってしまわれませんか。あって邪魔なものではないと思うのですが。

このことばに、川島先生の気遣いを感じ、40歳の記念として学位を取得することにした。大学に残っている2年後輩の橋本君にその手続きを依頼し、6月24日(木)の公聴会を経て、7月28日付けで、医学博士の学位を授与された。その当時、木曜日は全日休診をしていたので、この学位取得のために、休診などをすることはなかった。そして、これで大学時代の仕事から完全に離れることになったのである。

ここでも、「運は時なり」であると思う。

振り返ってみて、40歳は節目節目を大切にし始めた年のようだ、と先に書いたが、それは、自分で決めた目標を達成するタイム・リミットに、節目節目を利用し始めた年であると言い換えることができる。何か理由をつけて節目を作り出し、それに間に合わせようと努力する方式を、この頃から採用したのである。

私にはしたいことがたくさんあり、それは年々増えつづけていたが、その内の幾つかについて、目標達成の期日を決め、それに向かって全力投球をするというスタイルを、この頃から身に付けたように思う。自分がしたい目標を、自分が決めた期日までに達成するのは、たとえそれがどれほど厳しいものであったとしても、楽しいものである。

この年を象徴する1冊の書物を持っている。ニーナ・オニールとジョージ・オニールの共著で、広中和歌子訳の「四十歳の出発 二度目の人生論」、昭和50年10月30日発行、河出書房新社刊である。今この書を手にしてみると、そこに書かれているのは、他とのかかわりを持ちながらも、自分の価値観を持ち、他に動かされない人生、自分で納得のいく人生を選びとることの意義であり、そのための方法である。この著作に大きく影響を受けた記憶はないが、今、改めて読んでみても、肯くところが多い。

不惑の年を迎えて、私もまた自覚して、第二の人生を歩みはじめたのだと思う。


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1978年 開業6年目 家族の誕生日に記念録音

息子 圭が中学生になるまでは、家族の誕生日に、それぞれが歌を唄って祝うのが習慣になっていた。そして、なぜかこの年に限り、それらの歌をカセット・テープに「78年記念録音」として記録してあった。

このテープを先日妻と聞いて、頬がゆるんだり、胸が熱くなったり、今ではこの時の私の年齢を越えてしまった息子も、当時はこんなに可愛かったんだということを思い出したり、やっぱり、子供を授けてもらって良かったとつくづく感じたりした。

この記録を見ると、歌の数が一番多いのは妻の誕生日で、私の誕生日は3曲しかない。エレクトロニクスの進歩は、このような記録を簡単に残すことを可能にした。我が家の大切な記録であり、その年の家族旅行の写真を背景にしたMP4スライドショー動画として残している。

音声を簡単な機器と操作で録音できる時代に生きたという幸運を思わざるをえない。

78年記念録音テープの内容

4月16日、望42歳の誕生日
 ・おもいでのアルバム        (望)
 ・ハッピーバースデイ・トゥ・ユー  (圭→経子)
 ・マイウエイ(日本語)       (望)

11月11日、経子36歳の誕生日
 ・スピーチ  (圭)
 ・ハッピーバースデイ・トゥ・ユー  (望→圭)
 ・ゴンドラの唄           (望)
 ・シクラメンのかおり        (圭→圭・望)
 ・霧の摩周湖            (望)
 ・銃爪(ひきがね)         (圭)
 ・青春時代             (望)
 ・おもいでのアルバム        (望・圭)
 ・ハッピーバースデイ・トゥ・ユー  (圭)
 ・スピーチ             (圭)

11月21日、圭10歳の誕生日
 ・スピーチ             (経子)
 ・ハッピーバースデイ・トゥ・ユー  (望→経子→圭→3人)
 ・ヤマトより愛をこめて       (望)
 ・宇宙戦艦ヤマト          (圭)
 ・銃爪(ひきがね)         (圭)
 ・知床旅情             (望・圭)
 ・マイウエイ(英語)        (望)


この頃流行った「おまえに」という歌がある。岩谷時子作詞、吉田正作曲で、フランク永井は「そばにいてくれるだけでいい、黙っていてもいいんだよ」と唄ったが、私の気持そのものだと思った。

その「おまえ」がなぜか妻ではなく、息子圭なのである。私がリビングで音楽を聞いたり、テレビを見ている時に、圭がそばで何かをして遊んでいる、それが何よりの慰め、くつろぎだった。


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1980年 開業8年目 居宅増改築

この年の5月初めから、12月末までの8ヶ月間は、私にとってはもちろん、我が家にとっても忘れられない期間となった。それは、居宅の増改築を行ったからである。開業に当って、診療室の方にはかなり工夫を凝らしたので、開業以来息子に継承するまでの32年間で行ったことは、壁紙と床を張り替えたくらいで、他は余り手を手を加えていない。しかし、居宅の方は医院の付け足しで、生活ができれば良いというだけの、事務所的な殺風景なものだった。

開業が軌道に乗り、時間的にも経済的にも余裕ができ始めたところで、居宅の増改築をしたくなった。隣接した土地を購入し、そこへ増築することにして、喜んで設計をしていた。ところが、医院の設計の際には口を挟むことをしなかった妻が、「居宅はプロに設計してもらった方が良い。パパは素人、プロに敵うわけがない」と頑強に言い張るのだ。私は頭に来てしまった。「切れる」というのはこういう状態ではないかというくらい、カンカンに腹を立てた。

しかし、切れてしまったのでは男がすたる。そこで、冷静になり、「設計事務所が立てた設計と、私が立てた設計を比較して決めよう」と提案した。もちろん、妻はOKで、工務店に依頼して設計事務所に増改築の設計をしてもらった。妻は、プロなら事務所的な居宅ではなく、居宅らしい居宅を設計してくれるに違いないと、信じて疑わないようだった。

間もなく対決の時がきた。私はプロなにするものぞ!と自信満々だった。そして、設計事務所の作成した設計図が広げられた途端、勝負はついたのである。「これ何!こんなのおかしいわ、パパの方がずっと良い!」。設計事務所の方には申し訳なかったが、これにて一件落着、私は設計について妻の信頼を得ることができた。そして、これ以後マイペースで、大きな顔をして設計を進めて行った。

設計事務所には、私の設計図に基づき、強度計算など建築確認申請に必要な図面を書いてもらい、実際の施工図は私が100分の1の平面図、立面図だけでなく、20分の1の平面図、立面図も書き、パースもつけ、増改築をしてもらった。材料も全て私が指定して書き込んだ。工事の途中で思いついた変更も、自分で図面を書き換えて渡すので、思うようにことは運び、大満足だった。この際、コピー機が非常に重宝だったことを思い出す。

この年の歳末までかかった居宅増改築工事は、私にはもちろん、私たち家族にとっても忘れることのできないできごととなった。若かったからできたことで、今なら、とうてい行う気ににはならないと思う。そこに住みながら、鉄筋コンクリートの建物を壊し、増改築するという工事は、想像を絶する犠牲を伴うもので、もう二度としたくはないと家族の誰もが思っている。

しかし、毎晩息子を連れて、工事の進捗状況を確認するのは楽しみであった。「圭、野村城を探検に行こう!」が合言葉で、夜の食事が終わると、決まって二人で、工事の終った個所を懐中電灯を持って見て回るのだった。80年12月28日に、漸く工事は完了し、新しい居宅で新春を迎えることができた。

開業して良かったことの一つが、この居宅増改築工事だったことは間違いない。この時期は、まったくこれに全エネルギーを集中し、自分の思うがままに工事を進めることができた。いま振り返ってみても、全てについて80点の点数をつけることができる。80点は私の満足点である。

この増改築工事を済ませると、私の関心はそれからまったく離れ、20年間居宅に手を入れることをしなかった。しかし、20年の歳月で壁紙とカーペットが傷んできたため、はじめてこれらを張り替えた。

私は小さい頃から物づくりが好きで、一番したいことだった。記録に残した作品の中で、自分が大事に思うものの一つが、私の住宅デザインである。ご興味がおありなら、ご覧いただければ嬉しい。これはパソコンの無かった時代の作品で、すべて鉛筆と三角定規の手書きで行った。


図12.医院居宅増改築 1980年


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1982年 開業10年目 父 偕爾 死亡、享年71歳

この年のはじめから、インテリアと庭に私たち夫婦の関心は集中した。3月20日に初めて造園業者と会い、4月4日に庭の最終設計図を書き上げ、それに基づき庭木を選び、4月10〜11日に庭木を搬入して植樹、4月23〜24日で芝張りを完了したが、庭が出来上がった翌日の25日、父は急死した。71歳だった。

私は、小学5年生から大学に入学する頃まで、父に反発することが多かった。父は典型的なインテリゲンチャで、文系に関しては、いろいろな面で呆れるほど博識だったが、自分自身の考えを持っていないと私は思った。どうして、自分の頭、眼、耳、舌、喉で判断しないのかというのが、一番の反発の原因だったと思っている。

もう一つの反発の原因は、私が小さい時から物を作るのが好きだったのに対して、父はペンと箸しか持ったことがなく、物を作る人間をホモ・ファーベル(工作人)と言って軽蔑し、頭を使う人間(ホモ・サピエンス)の方がよほど優れていると思い込んでいることだった。しかし、私も頑固で、父がどのように言おうとも、聞き入れることをせず、絶えず何かを作っていた。

父に「出て行け!」と言われて、「出ていく!」と、家を飛び出そうとするのを、母が泣いて止めたのは、私が5年生の時だった。大学に入ってからは、もう父と争うこともなくなったが、それまでの父は、私の反面教師であった。そういう意味で、私が大きな影響を受けた人間の一人は父親であったと思う。大学に入ると、私と同じように、父親と争ってきた友人がたくさんいて、「父と子」の対立は、思春期の宿命かもしれないと思った。

反面教師と思ってきた父から、それ以外の恩恵を受けていたことを自覚するようになったのは、かなり後のことである。本好きになったのは、家の中にたくさんの書物があり、それを貪るように読んだことが関係しているだろうし、クラシックやシャンソンのレコードを次々に買ってきたので、その類の音楽に親しむようになり、少年美術館など美術書もよく買ってきたので、絵や彫刻にも親しむようになった。「未完成交響楽」「レ・ミゼラブル」「ハムレット」など、洋画にもよく連れていってもらったが、これにも大きな影響を受けたと思う。

反面教師として受けた影響、環境を整えてもらった影響のほかに、父が話したことばの中で、一つだけ妙に納得して、自分の生き方に影響のあったことばがある。高校2年の夏のこと、家へ遊びに来た友人のN君が、人生設計か将来像について、はっきりした意見を話した。それを聞いて、母は非常に感心し、そのことを父に話したところ、父は「小さく固まらない方が良い、回り道も必要」と言って、明確な将来像を持っていない私の方を評価してくれた。このことばは、以来私の中で生きている。

父が亡くなった翌月、5月27日の新聞の訃報欄に、元大阪市立大学心理学科教授の大西憲明氏が急性循環不全で、京大病院にて逝去との報道があった。同氏と父は同じ時に九州帝大の心理学科で学んだが、当時心理学科の学生はわずか2名だったと父から聞いたことがある。旧友が、同じ時に同じ死に方をしたのが印象深かった。

この年の10月最後の土曜日に、妻とフェスティバル・ホールで、イヴ・モンタンの日本公演を観た。モンタンは61歳だったが、その舞台は素晴らしかった。たくましさの中に、細やかな情感と人生のかなしさをにじませ、粋でほれぼれする歌いぶりだった。この公演の9年後の11月、枯れ葉が舞う季節に、モンタンはこの世を去った。七十歳だった。その訃報を知り、最後の日本公演を観ることができた幸せを思った。「運は時なり」である。


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1983年 開業11年目 医院勤務マニュアル

この年の2月から老人保健法が施行され、70歳以上の医療費無料制度が廃止された。おかしなことに、当院ではこの月から老人医療の患者が増えたのだ。尋ねてみると「今まで無料だったので来にくかったが、有料(月400円)になったので、気兼ねなく来れる」という返事が返ってきた。

診療業務の文書化を目指して、3月に医院勤務マニュアル 第1版 手書き B5版 43頁を作成し、新たに採用した職員の指導と、在職の職員の業務の再確認に使用した。

その目次は、1.基本的なこと、2.窓口業務、3.薬剤のとりあつかい、4.診療介助、5.消毒、6.掃除とかたづけ、7.保険請求事務、8.ルーティーンの仕事、から成っている。

この内の1.基本的なことは、職員に求めてきたこと−医院勤務の基本−として、このWebサイトにも掲載しているが、開業以来職員に常日頃求めてきたことだった。ただ、このように文書化したのはこれが最初である。それをここに転記しておく。

医院勤務の基本

1.患者の身になる
病人は身体が病んでいるばかりではなく、程度の差はあっても、多かれ少なかれ心も病んでいる。だから、自分が、あるいは、自分の家族が患者である場合を考えて、患者に接していくのが医院勤務の基本であり、出発点である。

自分が患者なら、自分の家族が患者なら、こんなにして欲しい、こんな事はして欲しくないと考えてみることである。このことから(1)患者に優しく親切にする (2)患者に分かりやすく説明する (3)患者が待っている間の精神的肉体的苦痛をできるだけ少なくする ということの大切さが分かる筈だ。

例えば、体の不自由な人、高熱とかむかつき腹痛等で苦しんでいる人には、積極的に援助をしていくとか、待ち時間をできるだけ短くするように努めるとか、順番を間違えないとかもその一つである。

特に、患者が受付に来られた時とか、待合室に患者が居られる時に、受付の中で私語を交わし、結果的に患者を放っておくことは、絶対にしてはならない。待合室の側に背を向けておしゃべりをするなどは、もっての他である。

患者は一般には医院勤務者よりも弱い立場にある。弱い立場の人に長く接していると、自然と自分に力があったり、偉いのだと錯覚してしまい易い。このことを絶えず反省して欲しい。医療というものは施しではなく、サービスであることを、心に刻んでおいて欲しい。

しかし、だからと云って患者に媚びたり、卑屈になる必要は全く無いし、患者の身勝手とか無理難題に応じる必要もない。

また、患者を職業とか、貧富、政治、宗教、生活環境 など病気以外の事柄で区別してはならない。

2.正確に
ほとんどの患者に対して薬を使うが、薬は毒にもなり、種類、量、服用方法が正確で無ければ事故につながり、最悪の場合には死亡さえも有り得る。

正確さを保ち得るように、めいめいが注意するだけでなく、ダブルチェックなどで誤りを最小限にする必要がある。また、もし誤りが発見されたなら、うやむやにせず、すぐに対応策を講じ無ければならない。

薬の量とか、種類が違っていたと患者に指摘されたなら、よほどハッキリした確証がないかぎり、患者の言われることを正しいと判断し、ていねいに謝り、訂正すること。

3.臨機応変に、要領良く
病気の種類も程度もいろいろで、一刻を争うほどの救急患者も居れば、少々遅れても結果として変わりのない人もいる。

また、非常に患者の多い時と少ない時とでは、窓口業務の手順が違うことも有り得る。診察中の患者と待合室の患者とでも、緊急度が違う。

この他にも医院の業務というものは、臨機応変に、要領良く、手順を変えてでも、処理していかなければならない場合が多い。

4.患者の秘密を守る
医療従事者は、仕事を通して知った患者やその家族の病気とか、職業その他個人のプライバシーに関する情報を、第三者に漏らしてはいけない。これを守秘義務と言い、法律で定められている。

たとえ、患者の家族に対してでも、時には患者の病気について告げることができない場合もあり得る。だから、患者の秘密を第三者にしゃべることは、絶対にしてはいけない。

当院の診察室は、受付とかレントゲン室、処置室などと隣接している。そのため診察を受けている患者のプライバシーが侵され易い。患者の中には、診察中、他人に見られたり聞かれたりする事を非常に嫌がる人がいる。そのため、幼児で泣いて口を開けない子とか、体の不自由な人の他は、受付事務の者が診察の介助をすることは、原則として行なわないことにしている。

しかし、尿検査とか、心電図やレントゲンの介助、現像等は受付事務員の仕事なので、診察室の様子に絶えず注意し、用事があればブザーを鳴らすので、その時には、誰かが速やかに診察室に来て指示に従うこと。

5.医療従事者間の協調
医療行為というものは、中心は医師であるとしても、他の医療従事者の緊密な協力、助力があってはじめて望ましい形で成立する。良いチームプレー無くして、良い医療は行い得ないのである。


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1984年 開業12年目 青色みなし法人に変更

青色みなし法人

開業して10年が過ぎ、患者数は増え、それにともない診療報酬も増えて行った。しかし、税金がそれ以上に増えるので、実際の所得は減り続けている。そこで、薬問屋の支払など手許にある支出を加算してみると、医師優遇税制といわれる白色申告の経費率と同じ程度の経費率になった。それ以外に欠落している経費がかなりあるはずなので、実際は優遇ではなく税金を払い過ぎていたことを知った。

この結果を得て、当時大阪府医師会に関与していた菱村会計事務所に検討してもらったところ、当院の場合は青色申告の方が絶対有利だと診断してくれた。そこで、1984年1月から青色みなし法人に切り替えることに決めた。

白色申告の間は、レジスターの管理、現金の管理、給与の計算などは妻の仕事にしていた。丼勘定でも窓口の現金収入だけで、何とかやっていけたからである。

しかし、青色にしてからは、それらはもちろんのこと、毎日の日計表の作成、自費台帳、未収金台帳、領収書、請求書、普通預金、現金出納など、全ての仕事を私が引き受けることにした。

そのため、診療が終ったあと、日計表とレジ管理、自費、未収金の記帳などのため、毎日30分近くをこの仕事に費やさなければならなかった。また、毎週月曜日には、前の週の毎日の窓口収入を入金する仕事もあり、更に、月末近くになると会計事務所の監査があるので、その前日は、準備に長時間を要し、最初の頃は明け方近くなることもあった。

このように、自分にとって負担が大きいのにも関わらず、私はむしろ喜んでこれに当って来た。そのわけは、白色申告が医師優遇税制と非難され、やっかまれるのに我慢がならず、青色申告という正攻法を選んだのだが、そのほかにも、これまで一度もしたことがない経理を、一度経験しておきたいという気持もあった。そして、このようなことは、若い今でなければできないと思ったからである。

青色にした結果、経理が良く分っただけでなく、大幅な節税となった。データが全て残っているので、過去との比較は簡単にできるし、将来の予想も可能だ。最も大きな効果は、診療に必要なものは必要経費として落とせるので、使いたい機器などを積極的に取り入れることができたことだと思う。開業をして萎縮せず自分の好きなように診療をして来れたのは、青色申告とその発展段階としての医療法人を採用したことが大きいと思う。

この青色に伴う業務を最初は手書き、手計算で行ったので、計算間違い、記載間違いを何度も繰り返した。そこで、いろいろ工夫をしたり、ルーティーンを作ったりした。翌年、パソコンを購入すると、まず、これらの業務をパソコンに代行させるよう努めたが、それは、この手計算、手書きでの成果があったために可能だったと思っている。

息子の反抗

息子圭が中学を卒業した3月半ばに、エレキギターを購入してやった。圭は私立明星中学校の生徒で、そのまま明星高等学校に進学できるため、公立中学校の生徒のように高校入試という試練を経験しなくても良く、ロック・ギターをしたいと思っていたのだと思う。圭がMTVなどを見ている傍で、それをよく一緒に見ていた記憶がある。しかし、間もなく波乱が起こった。

圭が高校に進学して間もなくの4月30日、私は圭にいくつか指示をし、注意や禁止をしたところ、腹を立てて、家を出て行ったのだ。海の見える神戸に行くと言って出て行ったと妻はおろおろしている。

義父母をはじめ、義兄などにすぐさま連絡し、車で手分けして探し回ったが見つからない。義母は「圭ちゃんにどんな悪いことを言ったの!」と私を責める。

数時間過ぎた頃、圭がこっそり帰ってきたのを妻が見つけた。その帰ってきた弁がふるっている。歩いては神戸までは行けないので、自転車を取りに帰ってきたというのだ。そのまま、取り押さえ一件落着となった。

この後も、2回ばかり家出をしてくれたが、もううろたえることはなかった。探さないでくれとのメモを置いて家を出たときのこと、妻と二人で門の外に出ようとして、人の気配を感じて、ガレージの屋上を見ると、這いつくばってこちらの様子をみている者がいる、圭だ! 途端に吹き出してしまった。そして、これをもって圭は、家出を卒業したのである。

この年の夏の、家族旅行先は合歓の郷だったが、行き帰りの車の中も、合歓の郷でも、圭は不服そうにしていて、不愉快極まりなく、もう二度と一緒に旅行するものかと私たち夫婦は思い、事実、これが3人で旅行する最後となった。

おまけに、この合歓の郷のホテルの部屋に入った途端、圭と私は猛烈な喘息発作に襲われた。何か合わないアレルゲンがあったのだろう。仕方なく、二人は車の中で一夜を明かした。膨れっ面をした男二人が、背を向けて、悶々としながら、狭い車内で横になっているさまは、他人の眼には、異様な光景として映ったに違いない。

秋に入ると、圭の心のいらいらは一層ひどくなった。特に、月始めに行われる頭髪検査の頃になると、検査をする先生に猛反発をするのだった。反抗的な圭と親子で話し合い、言い争い、決裂することを何回もくり返した。そのようなことが1年近く続いたと思う。その間、いろいろ本を読んだり、考えたり、話し合いをしたり、trial and error をくり返したが、その間に、私はあることを悟った。

それを簡単に表すと、イソップの「北風と太陽」であり、俗に言う「盗人にも3分の理」である。それまでは、指示し命令し禁止すると言う高圧的な態度で、息子に接することが多かったが、これは逆効果以外の何ものでもないことが分った。また、それまでは、こちらの立場で物を言い、息子の言い分をほとんど聞こうとはしなかったが、盗人にさえ3分の理由があるとするなら、普通の子である息子には、5分も8分も理由があるに違いないということが、実感として分った。このことを悟るまで1年近くかかったが、これは大きな収穫だった。 1年間という時は「運は時なり」を示している。

カラオケ・コンテスト

嬉しいこともいくつかあった。その一つが、12月29日にラジオ関西の百万人の英語の時間で放送された「エヴァーグリーン・カラオケ・コンテスト」優秀賞の放送で、私が応募したテープも放送された。これは、「百万人の英語」という番組を提供している会社が、英語のカラオケ・カセットテープを販売し、それを購入した人に、カラオケ・コンテスト応募資格を与えたものだった。私が唄ったのは「MY WAY」である。


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11.開業医 PC有 時代

1985年 開業13年目 MS-DOSパソコン使用開始

最初の遺書

40代最後の誕生日という節目に、最初の遺書を書いて、息子圭に手渡した。それは、圭に対して伝えておきたい私の気持と考えを文書にまとめたもので、B5版手書き47ページからなっている。その最後を、「もしも、私が近い将来に死ぬことがあれば、この文はお前に対する私の遺書だと思ってくれてよい。その積りでこれを書いてきた。そして、49歳の誕生日を記念して、この文をお前に贈る。1985年4月16日 望」と結んだ。

これは、高校2年生となった息子に対する、私の側からの総括であった。これを書き上げ、息子に手渡してしまうと、「言うべきほどのことは言った。もう思い残すことはない。」という心境になり、自分のしたいことにまた関心は戻って行った。このようなものを書き与えたことについて、妻は批判的で、無駄で意味がないと思ったようだが、私の自己満足に役立ったのは間違いなく、お陰で、私は息子から自由になった。

今思えば、この年の圭は16歳から17歳に当り、難しい時期だった。それなのに、自分勝手に総括をして、そこを抜け出したのは、父親として無責任だと非難されるかもしれない。この後、私は妻と息子の争いの仲裁役、調停役を引き受けることが多かった。

パソコン使用開始

この年の6月に、大阪府医師会のマイコン同好会に入会し、本格的にパソコンを始めた。6月30日にPC9801M2というパソコンを購入したが、これは1.2MBの5インチフロッピー・ディスクが使える機種で、その前年11月に発売されたものである。前年には、アップル社からマッキントッシュ Macintoshも発売されている。

私がパソコンを始めた年は、これまでのパソコンから大きく変化する年でもあった。その一つは、パソコン用の汎用OS(Operating System)が確立し、それまでの機種ごとの独自なOSが駆逐されて行ったことで、MS-DOSというマイクロソフト社の Disk Operating System の上でソフトが動くようになったのである。

二つ目は、ワープロ・ソフトに「一太郎」という、廉価で、優れたソフトが現れたことで、それまでは「松」というワープロ・ソフトが、ワープロ専用機に劣らぬ高性能で君臨していた。これは、定価が10万円で、コピーされないように厳重なプロテクトが掛けられていて、故障した時の予備用のディスクは添付されず、これを必要と思う人はもう一つ購入するようにと、高姿勢だった。

そこへ、4万8千円の廉価で、「松」に劣らぬ高性能の「太郎」が登場したのである。この「太郎」はプロテクトがかけられていないため、予備用のフロッピーを作ることも可能で、「貧乏人の松」と陰口を叩かれながらも急成長し、第2版からは現在の「一太郎」という名前に変わった。

パソコンを手にして私が行ったことは、青色申告に必要な経理関係の仕事をパソコンに代行させることだった。その中でも、給与計算が一番面倒なので、BASICでプログラミングをして、8月からパソコンで給与計算を始めた。そのほかにも、自分で幾つかのプログラミングを行ったが、年末になって、これらのほとんどを、表計算ソフトで処理することに切り替えた。その最大の理由は、自分で作ったプログラムであっても、その一部を変更するのに莫大な時間と集中力がいることを経験したからである。

趣味でなく、実用的なビジネス処理が可能なパソコンの発売された時に、これを使い始めた幸運を思う。私の一生で、これほど有用なツールは他にはない。人生最大の助っ人である。


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1986年 開業14年目 パソコンを本格的に活用

この年、私は50歳となった。節目の年に当り、親しい人への年賀状に、「60歳から後は開業を止め、好きなことをしたい」と書いた。また、高校3年のクラス会があり、その場でも同じことを話すと、賛同してくれる者もいた。しかし、医者仲間の多くは「60歳で開業を止めるのは早過ぎる、65歳まで働け」と言うので、結局65歳にまで、リタイアを延ばすことに予定を変えた。

パソコンを本格的に活用

「好きなことをする、したいことをする」というのは、もの心ついた頃からの私の生き方、行動原理であることを、この頃から自覚するようになっていた。その「したいことをする」ということを強く意識するようになったのは、その実現に役立つパソコンという有力なツールを手にしたためだと思う。パソコンをこき使って、したいことをするぞ、と心は高鳴っていた。

前年の6月から入会した大阪府医師会のマイコン同好会では、BASICという言語でプログラムを作ることが主流で、レセプト作成ソフトや、データベース、簡易ワープロまで作るような先輩がいた。他の一般会員は、そのプログラムをコピーして持ち帰るというのが、当時のマイコン同好会例会の常態だった。

最初の間は、私もそれに倣い、給与計算とか自分に必要なプログラムを作っていた。しかし、私にとってパソコンは道具であり、パソコンそのものや、プログラミングに興味があるわけではない。自分に必要なソフトがないから自作するだけで、もしも、自分の目的に適う既成の優れたソフトがあれば、そちらを使う方がよほど効率的である、とは思っていた。

そのような既成ソフトの一つとして、表計算ソフトの「Super Calc」が販売されていることを知り、このソフトで給与計算のほかにも、自分に必要な多くの事務処理のフォームを作り、パソコンでそれらの処理を行うことに成功した。そこで、2月8日のマイコン同好会の例会に、この成果を持ち込んで、デモンストレーションを行うことにしたのである。

入会して半年余りにしかならない新米が、パソコンを使って、その頃では想像もできないような、多くの事務処理のデモをしたのだから、同好会の会員は唖然とされ、それが愉快で、私は得意満面だった。そのあと、意気揚揚と、まるで凱旋将軍のような気分で、帰宅したのを覚えている。生涯で、これほど嬉しかったことは、後にも先に経験していない。

デモをした見本

1.給与計算明細、2.月別給与台帳、3.個人別源泉徴収兼賃金台帳、4.社保生保請求書、5.月別社保生保請求台帳、6.国保請求書、7.月別国保請求台帳、8.月別自費収入台帳、9.月別未収金台帳、10.月別普通預金出納帳、11.月別現金出納帳、12.月別疾病統計、13.月別頻度別疾病統計、14.月別問屋別薬品購入量、15.健康診断総括表、16.健康診断個人別報告、17.セット検査点数早見表、18.脳卒中鑑別診断、19.患者データ時系列表示、20.患者データ時系列グラフ表示、21.月別アレルギー性鼻炎患者数のグラフ表示

この資料を見ながら、パソコンを購入して半年ばかりで、これだけのフォームを作ったことに驚き、また、それだけ熱中していたことを、懐かしく思い出している。

DTP出版を試みる

私の一番したいことは何かを作ることで、その一つとして本を作ることも入っていた。パソコンのワープロソフトを使って本を作ることはもちろんしたいと思っていた。

4月16日は私の50歳の誕生日である。前年は誕生日の記念として最初の遺書を書き、息子への関わりから卒業した。50歳の記念として何をしようかと考えた時に、それまでに投稿してきた雑文をまとめることを思いついた。この雑文をワープロで印刷して版下とし、それをコピー機で複写して綴じ合わせ、「五十まで」の書名でB5版47ページの自家製本とし、親しい人に贈った。最初に30部作り、その後10部づつ、全部で100部近く作ったと覚えている。

ちょうどこの少し前に、アメリカではDTP(Desk Top Publishing)という、パソコンを使った出版が脚光を浴び始め、我が国でもMac系の雑誌社によるDTP作品のコンクールが行われた。それを知った私は、この「五十まで」で以って応募してみたが、残念ながら、入選できなかった。

この「五十まで」を保存しているが、書籍としては通常の出版物と比べてレベルが低く、この時のITの状況を示している。その7年後にDTP出版した「野村医院二十年史」は、カラー写真23枚を配し、通常出版の書籍と比べて遜色は認められなかった。

イメージ・スキャナGT3000を購入

この年の7月に、エプソンからイメージ・スキャナGT3000が発売された。それまで、100万円近くしていたものが、198,000円と格安の値段になったので、発売前から予約をして購入した。同時に、ストゥリーマ付き20MBのハード・ディスクも購入し、この時から私は、CG(コンピュータ・グラフィック)、パソコン画像に全エネルギーを注いだ。

パソコン画像に取り組む

当時、パソコン画像に取り組んでいる者はほとんどいない上、ソフトも少なく、自分でアッセンブラ言語を独習し、幾つかの画像表示関連のユーティリティを作った。

また、ハードディスクの深い階層にあるファイルを簡単に使うための手段として、バッチファイルの活用を思いつき、これで実用上不自由なくファイルを操作することができた。

スキャナ取りこみ画像、表計算ソフト、BATCHプログラミングの三つを組み合わせることで、診療中の患者に対して、パソコンを使って病気の説明を始めたのは、この年の夏からである。


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1987年 開業15年目 医学研究奨励費助成を受く

1987年の2月に、大阪府医師会医学会の医学研究奨励費助成に対して、「パーソナルコンピュータを用いた診療補助システムの開発」という研究課題で応募した。これは、スキャナ取りこみ画像と表計算ソフトを中心にして、ファイル操作をバッチファイルで行うという、私が診療に使っているシステムそのもので、大阪府医師会マイコン同好会を代表して私が申請をしたが、幸い承認され、研究助成費を頂いた。

この結果、マイコン同好会はマイコンクラブに格上げされ、府医のサークルの一つとして認められた。発表内容は大阪府医師会医学雑誌 Vol 22に掲載された。


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1988年 開業16年目 医用CGシステムを構築

1988年6月30日は、私がマイコンクラブに入会してパソコンを始め、ちょうど3年目に当った。私はこの日を目標に、それまでに習得した画像に関する知識と技術を総括し、医用CGシステムを構築しようと思い、それに没頭した。そして期日通りにこれをまとめ、画像システム・ディスク、個別画像ディスクを完成した。

パソコンを始めて最初の1年間では、会計処理関係をすべてパソコンで行えるようにし、次の2年間は、画像(コンピュータ・グラフィック)に専念してきたが、そのまとめだった。

ビデオで紹介された

12月には、メディカル・エグゼクティブというVHSビデオの中で、「新しい患者サービスの工夫ー患者教育ー」というタイトルのもと、診療中の患者さんの説明にパソコンを使っている当院が紹介された。

数名のスタッフが、車2台にたくさんの機材を積み込んで来院し、4時間以上かけて、ビデオ取材をして行ったが、テープに編集されたのはわずか10分だった。


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1989年 開業17年目 CG作品展 シンポジウム

9月に神戸異人館ラインの館で開かれたCG専門パソコン通信局主催の作品展に4点出品した。折から、CGがブームになりかけていたせいか、訪問者が多くて、会員一同大満足だった。

CGを通じて、医師だけではなく、学生、サラリーマン、画家、プロの映像作家、映像技術者など多くの職種、広範囲な年齢の方と交流ができたのは、予想もしないことだった。この人たちとの、オフライン・ミーティングにも何度か参加したが、BBSで意見を交わしているメンバーなので、初めて逢った時から旧知の間柄のように話が弾み、訪問の約束まで簡単にできてしまうのには驚いてしまった。

普段はオンラインで(電話線を通して)情報交換をしているが、直接会って(オフラインで)飲みながら話をする懇親会が、パソコン通信にとって、それに劣らず重要であることを示していると思った。

10月に、大阪科学技術センターで開催された「医療におけるパソコン通信シンポジウム」の講師として、「実用画像通信」という演題で講演を行った。参加費は3,000円だったが、満席だった。


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1992年 開業20年目 イタリア旅行

この年、私たち夫婦は結婚25周年を迎えた。その記念に海外へ行こうと言うことになったとき、ためらうことなく選んだのがイタリアである。ゲーテの「君よ知るや南の国」は、私の一番憧れの国であった。8月8日から8日間のイタリア旅行は、予想していた以上に素晴らしかった。カルチャー・ショックを受けたと言っても言い過ぎではないと思う。

帰国するや、1週間ばかりで、ビデオを編集し、アフレコでBGMを入れ、私のナレーションも加え、タイトルは「君よ知るや南の国 イタリア」とした。その冒頭は、ベニスのゴンドラを背景に、メンデルスゾーンの「イタリア」を、フィナーレはローマ国際空港を背景に、「アリヴェデルチ・ローマ」を流した。このVHSビデオテープを、親類はもとより、たくさんの方に差し上げ、その頃お越し頂いた来客には必ずお見せしていた。今思えば、本当にご迷惑を強要していたわけで、申し訳なく思っている。

このビデオテープの記録から切り出した静止画を中心に、いくつかの写真をスキャンしたものを加え、ビデオのシナリオを参考に、旅の思い出を記事にまとめ、真夏のイタリア旅行の名前で記事を載せている。


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1993年 開業21年目 開業20周年記念事業

この年最大のイベントは、野村医院開院20周年記念事業だった。8月31日で開院満20年となる。そこで、8月に入った頃から全力を注いで、野村医院二十年史制作に没頭した。それまでの人生で、これほど集中して、全エネルギーを注ぎ込んだ経験はなかった。その甲斐あって、11月28日に開いた20周年記念パーティーに間に合わせることができた。

野村医院二十年史


図13.野村医院二十年史 1993年 DTP出版

大阪の北東部にある人口6万人の小都市、交野市で開業し、1993年8月末で20年を終えました。この節目に当り、20年間の診療のまとめを記録しておきたい、と強く思いました。37歳から57歳までの期間は、私のような普通の人間にとって、一番活動的な時期であるはずです。それをまとめてから次のステップに進みたいと思いました。

構想は前からありましたが、実際に制作にとりかかったのは1993年の夏からです。職員などに回想文を書いてもらい、それが終わると同時に突貫作業がはじまり、10月末までこれに没頭しました。20年史の最初の部分から少しづつデータを整理してまとめ、少しまとまるとパソコンで印刷し、それを校正しては印刷をするという作業の連続でした。

20年史の資料となるべきものは開業当初から残してきました。カルテはもちろん紹介状の写し、紹介状の返信までも診療室に保存してあり、自分が大切に思う資料はほとんど手許にありました。この資料をパソコンを使って、表計算ソフトに入力し、整理していくのですが、かなりしんどい作業で、例えば、1年間の紹介患者の整理をするだけでも、早朝から深夜までパソコンに向かいっぱなしのこともありました。

資料を整理し、分析、作表、グラフ化が終われば、それに基づいて文章を書いて行きます。これをパソコンで印刷し、そのまま版下にして印刷所で製本してもらう方法を採りました。そのためには上質のプリンターとワープロソフトが必要です。これはレーザー・プリンターと米国製ワープロソフトで解決できました。

このような出版方法はアメリカではDTP(desk top publishing )と呼ばれ、10年近く前から簡単な書物の出版に繁用されていますが、日本ではあまり普及していません。「野村医院二十年史」は私の最初のDTPとなりました。

DTPのメリットは書物の体裁やレイアウトを自分で決めることができる、自分の気に入る形になるまで印刷を繰り返して確かめることができる、校正を含めて所要時間が少ないことだと思います。もちろん、その分だけ独善的になりやすいとも言えますが、それを個性的だと考えることにしています。

印刷は、開業以来当院のすべての印刷をお願いしている個人の印刷所にしてもらおう、と決めていました。しかし、実際にお願いしたのは9月24日です。しかも、この時点ではまだ1枚の版下もできていなかったのです。10月末までの1ケ月余りで何とか版下制作を完了できたのは、全くパソコンのおかげです。パソコンそのものより、高性能のレーザー・プリンターと優れたソフトの方がより有用でした。

内容の概略は、1.開院までのあらまし、2.診療データ(患者数、レセプト件数、疾病の種類、紹介患者、死亡診断書、診療圏)、3.方針と工夫、4.対外活動(医院外で行ってきた対外的活動)、5.回想(全従事者の回想)、付録.(年表、備品、薬品問屋など一覧、カルテ略語集)から成っています。

この中で、疾病の種類と紹介患者についての統計は、これまで余り報告されていません。そこで、このデータをもう一度整理分析して、94年10月の日本プライマリ・ケア学会第8回近畿地方会と、94年11月の第18回大阪府医師会医学会総会において演題発表を行いました。

この「二十年史」は500部作り、380部を贈呈しました。内訳は医療関係者が88%で、医療関係者以外は12%でした。そのうち医師は全体で204名(54%)で、母校医局関係70名、母校関係33名、返信を下さった紹介医30名、地区医師会関係25名、パソコン通信等で親交のある医師22名、その他13名、歯科医師111名です。贈呈は殆ど郵送しましたが、これもかなり手間のかかる仕事でした。ここでも封筒の表書きなどをパソコンで行い、極力省力化に努めました。

贈呈に対して手紙、葉書、FAX、電子メールなどで有形の返信を下さった方は162名で、贈呈した380名の43%に当ります。そのうちで医師は204名中109名(53%)の方が返信を下さいました。恩師、先輩から評価を頂いた時には心から有難く思いました。

私にはしておきたいことが沢山ありますが、この「二十年史」もそのうちの一つでした。これを書き上げた時に思ったことは「開業医20年間の診療について、書きたいことは全て書いた。しんどかったが楽しかった」でした。製本されたのを手にして感激し、それから贈呈に追われ、漸く一段落したところで、今度はしなければならないノルマ(交野市医師会の独立)を課せられて、それに没頭している間にすっかりこの「二十年史」のことを忘れていましたが、大阪保険医雑誌5月号を読んでいて、「私の書いた本」の原稿募集を知り、応募を思い立ちました。

出版の動機はあくまで自己満足のためでしたが、これを読んで下さった方にとって少しでもお役に立つことがあればと願い、できる限り分かりやすく、正直に書いた積りです。これから開業医の道を進もうとしておられる先生、あるいは開業を始められたばかりの先生が、開業医の一先輩の診療記録として、この書をお読み下さり、僅かでも診療に役立つ部分を見つけて下されば嬉しく思います。少しは差し上げる余裕が残っていますので、読んでやろうとお思いの方はご連絡下さい。

私がしたいことは現在のところ約30件ありますが、その半数以上が何かを書き残すことで、そのうちの数件は自費出版したいと思っています。来年は還暦なので、それに間に合わせたいと思っていますが、無理かも知れません。しかし、したいことが沢山あるということは、生きる張り合いを与えてくれるものだとつくづく思います。(大阪保険医雑誌1995年10月号より

この「野村医院二十年史」はDTP出版の第1号で、その後4冊を作り、DTP出版は終了した。


自分から医局を出て、ご迷惑をおかけしたことに対するお詫びの気持ちを込めて、93年の暮れに、この二十年史を恩師曲直部教授の許にお送りした。その時、先生は重い病気で入院されていたが、病床にあって、これに目を通された上、電話で妻に「野村君らしく一本筋が通っている」と言って下さった。

94年2月3日の朝、診察をしているところへ先生の鮮やかな揮毫が届けられた。「一筋の道 野村望国手開業二十年を祝す 曲直部壽夫」のお言葉に感激で胸がつまり、涙がこぼれた。先生は勝手に自分の許を去って行った不肖の弟子を、お許し下さったのだとその時直感した。


図14.恩師曲直部教授の揮毫


野村医院開院20周年感謝の集い

11月28日に守口プリンスホテルで開院20周年記念パーティーを催し、20年間で直接お世話になった方々を招待して、感謝の気持を申し上げた。医師会、市役所、大学、親戚などは、あまり関係がないので招待しなかった。その時のスケジュールが残っているので記載しておく。

  司会      三枝(ドーエイ)
  挨拶      野村 望
  永年勤続者表彰
          長谷(20年)
          斎藤(10年)
          荒木(10年)
  ビデオ     野村医院20年の映像 25分
  挨拶      田伏 薫(義兄)
  乾杯      野尻(藤沢薬品)
  出席者紹介   三枝(ドーエイ)
  スピーチ  1.井上(協和醗酵)
        2.鉾立(協進)
        3.古熊(住友銀行)
        4.中井(中井工務店)
        5.西出(藤沢メディカル)
        6.長谷(野村医院)
  おひらき    野村 圭

「私の挨拶の原稿」も残っているので、それも記載しておく。

本日は年末のお忙しい中、折角の日曜日にも関わりませず、当院の開院20周年記念パーティーにお越し下さいまして、ほんとうにありがとうございました。

本年8月末で、医療法人野村医院はちょうど20年を終わりました。20年前、医院の建物の東側を除く三方は田圃でしたが、その状況は今も変わっていません。

しかし、その他のことは大きく変わりました。20年の間には、いろいろのことがありましたが、大過無く終えることができましたのは、皆様のご助力の賜物と感謝致しております。本日は垂幕にもありますように、皆様に対する私どもの感謝の気持ちを表したく、ささやかなパーティーを持たせていただきました。

その前に、まことに恐縮ですが、当院の永続勤務者の表彰式を行いたく存じます。当院で行う最初の表彰式なので、たくさんの皆様の面前で行いたいという、私どもの願いをどうかお許し下さい。

セレモニーはこれだけです。そのあと、話題提供を兼ねて20年間の映像をまとめたビデオをご覧いただき、パーティーに移りたいと思っています。皆様が、この午後のひとときを、楽しく過ごしていただけるよう、心から願っております。ありがとうございました。


開業20年目の院長の感想

開業20年目の感想を一言でいえば、「開業して良かった」という以外にはありません。とは言っても、結果を肯定的に考えやすい性格なので、開業をせず大学に残っていたなら、それはそれで、同じような感想を持ったとも考えられます。しかし、性格的な部分を割り引いても、やはり、「開業して良かった」と思います。

そこで、何故そう思うのか、少し自己分析をしてみます。

1.独立が好き
医師が開業する場合と、そうでない場合の違いの最大のものは、この独立性の程度でしょう。よく開業医は「一国一城の主」といわれます。それほど大層なものではないにしても、確かに、開業すれば、他からの条件に支配されることが少なく、逆に、自分の求めるものを実現しやすいとは言えます。もちろん、その分だけ責任も大きくなりますが。

私は昔から人に命令されるのが嫌いでした。独立が好きで、自分の意思、自分の考えをできるだけ曲げないで生きたいと思ってきました。その点から言えば、開業医は非常に恵まれているといえます。開業して良かったと思う最大の理由がここにあります。

2.人間が好き
世の中には、人間よりも動物が好き、物が好き、自然が好きという人もいます。しかし、私は他の何よりも人間が好きです。たとえば、風景画の中にも人物を探すタイプです。父が心理学科を出たので、家には心理学関係の本が一杯ありました。そのため、少なくとも中学校の頃から大学の教養課程くらいまでは、これらをむさぼるように読みました。その中で一番影響を受けたのはフロイトだったと思います。

臨床医の場合は、人間好きの方が、患者さんだけではなく、本人にも良い結果をもたらしやすいのではないでしょうか。特に内科開業医は、ホームドクター的な要素が大きく、人間好きな者に向いていると思うのです。20年間も同じところで開業していると、老若男女の人間について、いろいろのことを知り、学ぶことができます。

例えば、乳児から幼児に成長する途中のいろいろな変化や、その個人差を見る楽しさ、兄弟や2卵生双生児を通して知る素質と環境の関係、若者が成長する一時期に見せる輝くような美しさ、結婚と離婚と未婚、壮年から老年へ向かう過程、死に臨む姿、このような人間の多様な生きる姿を見聞きし、時には助言を、そしてそれ以上に教えられました。

3.説明が好き
説明好きなのは、長年家庭教師をしてきたせいかもしれません。医師になり入局してからは、教授が患者やその家族に対する医学的説明を大切にされるので、一層説明好きになったとも考えられます。

この説明好きな性格は、臨床医としてずいぶんプラスになりました。近頃では、インフォームド・コンセントの必要性がやかましく言われています。しかし、しなければならないから説明するのと、したいからするのとでは、自ずから方法や内容に差が出てくるのは当然でしょう。開業してからは。色々な方法で積極的に病気の説明をしてきました。

4.されるよりもする方が好き
世の中には「される」方が好きな人がいますし、「してもらう」方が好きな人はかなり多いようです。しかし、私は「する」方が好きな人間です。「教えられる」「習うと]いうのは苦手で、独習、独学する方が性に合っています。

こういうタイプもまた開業医に有利だと思います。開業すると自分の力で勉強し、解決していかなければならないケースに、多々遭遇します。助けを求めるべき先輩や同僚医師はいないし、病院という後ろだてもなく、孤軍奮闘しなければならない場合がしばしばあります。

5.作ることが好き
これは、おそらく生まれつきの性格でしょう。幼稚園に入る前から工作が大好きで、絶えず分解したり壊したり作ったりしていたのを覚えています。しかし、プラモデルのような、決められたものを組み立てる作業はむしろ嫌いでした。

開業によって作る喜び、工夫する楽しさを何度も味あわせてもらえました。それは建物の設計からはじまり、診療のための設備、事務用の設備など、数え切れないほどいろいろありました。

6.デザインが好き
ものを作るには設計がつきものです。私はこの設計というステップが特に好きで、いろいろ考え、修正をくりかえし、時にはご破算にして、まったく別のものにしてしまうこともしばしばありました。こういう作業をはじめると、寝ている間もそのことが絶えず脳裏にあり、夜中に起き出してデータのチェックをしてみたり大変ですが、これがたまらなく楽しいのです。機能的に優れているだけでなく、自分の美的センスに合うものを創るのというのは、本当に楽しい作業です。

7.メカが好き
高2までは工学部に進み、将来はエンジニアになるつもりでした。ところが、高2の春に両親から医学部に行ってくれと強く懇願されました。両親が病弱だったので、親の願いを拒むこともできず、しぶしぶ進路を変更しました。しかし、メカ好きは変わらず、高校生の間は工学研究会(工研)というサークルに所属し、HiFiアンプの製作などにうつつを抜かしていたのです。

このメカが好きなこともあり、医師になると外科に進み、心臓外科を専攻するようになりました。開業してからも、このメカ好きのため、新しい医療機器を使うことに抵抗がなく、特にコンピュータ関係では、今から19年前(開院1年目)より、レセプトコンピュータを使い、さらに8年前からはパソコンを診療に駆使しています。パソコンの目覚ましい発展の流れに乗っていると、自分が青春しているというような嬉しい錯覚に陥るほどの幸せを感じる時があります。

8.新しいものが好き
新しいものなら何でも好きというのではなく、一般的にはむしろ保守的かもしれません。しかし、メカに限れば、「新しもの好き」は相当なものだと思っています。

昭和48年に開業した時、小さな医院にもかかわらず、医院と居宅をセントラル冷暖房にし、X線テレビと自動現像機と超音波洗浄器を設置しました。勤務していた病院の同僚の医師から、お祝いの品に何が希望かと問われて、その頃発売されたばかりの電子体温計を頂きました。確か5万円だったと覚えています。

昭和49年にレセプトコンピュータを導入、50年にはカラービデオカメラを購入し、51年にはガレージにリモコン式スイングドアを付け、55年にはソーラシステム(日経メディカルの広告に当院のソーラが数年間掲載されていました)と床暖房を設置しました。

数え上げれば、そのほかにもたくさんありますが、いずれも普及するまで数年から10年近く歳月が過ぎています。もちろん、失敗もありましたし、値段は比較にならぬほど高くついていますが、それを使った喜びは、値段以上のものでした。これも開業をして、経済的に少しは余裕ができたこと、居宅と医院が同じなので、時間がうまく使えたことのお蔭だと思っています。

9.都会好きで自然好き
神戸っ子として育ち、大阪市内の大学に通ったので、都会の生活から離れることはできません。よし悪しは別として、根っからの都会人です。しかし、それだからこそ自然に恵まれた環境に憧れます。

交野はその自然に大変恵まれています。これで海が近くにあればいうことはありません。しかも、車に乗れば交通の便も良く、梅田に40分、三宮に60分くらいで行けることもあります。このように、自然と都会の両方の良さを楽しめる場所で開業できました。

思いつくまま数え上げてみると、「開業して良かった」のは、「自分の好きなことができた」ということと、ほとんど同じ意味であることに気づき、苦笑するばかりです。

10.好運
最後になりましたが、「開業して良かった」のは、運がよかったという要素が非常に大きいと考えざるを得ません。人間がいくら努力をしても、運命を越えることができないのは自明の理でしょう。山村雄一先生の言われる「天命を知って人事をつくす」生き方を選びたいと思っています。

開業の時期、場所のいずれにも恵まれました。しかし、それ以上に良い職員に恵まれました。有能で、行動的、そして一度も職員の間で争いがなく、退職後も仲よく交際を続けているのを嬉しく思ってきました。

患者さんにも恵まれました。世の中には、どうしても相性のよくない人がいるものです。「患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない」と言われます。私ももちろん、患者さんを選んだのではありませんが、開業して20年の間、診療させて頂いた方の中で、相性の悪い人は数えるほどでした。だから、診療が楽しい時の方が、そうでない時よりもはるかに多く、本当に幸せだったと思っています。

もう一つの好運は、妻が歯科医師の免許を持っていたために、事務員兼、薬剤師兼、レントゲン技師兼、検査技師兼、看護婦という仕事をまかせることができたことでしょう。この資格も、開業するまでは、私が早く死んだ場合にだけ使うはずのものでした。

医療事故、医療訴訟に何時かは遭遇するかもしれないという不安を、医師は心の片隅に抱いているものです。私もタイトロープを渡る気持ちを何回か味わいました。だから、20年間でこの医療事故を経験しなかったことは、本当に運がよかったのだと思っています。

今、過去を振返ってみて、自分の好運を思い、天に感謝しています。もちろん、いつまでも良いことが続くわけはなく、悲嘆にくれる時がくるかもしれません。その時にも、今日までの人生を思い、悔いなく死んでいきたいものだと思っています。

思えば、なりたくて医者になったのではなく、シュバイツァーや赤ひげになろうと思ったこともありませんでした。

ただ、医学部に進んでから思ってきたことは「自分が生きることによって、他の人の人生にプラスなった部分の方が、マイナスに働いた部分より少しは大きくなるように生きたい、そして充実感が持てるように生きたい」ということでした。一言で云えば「悔い少なく死ねるように生きたい」ということです。

あと3年足らずで還暦です。私にはしたいことがたくさんあります。これからは、しなければならないことよりも、したいことをする方へ比重を移して行こうと考えています。(野村医院二十年史より)


開業20年目の院長の息子の感想

"Born Under the Bad Sign"という曲がある。ブルースの3大Kingと呼ばれたAlbert Kingの曲であるが、ブルースにありがちな、おもしろい位の不幸を歌った曲である。これでいくならば、私はさしづめ、"Under the doctor"(医者のもとに生まれて)といったところであろうか。

幸か不幸か、私は Under the doctor という環境で生まれた。今日は野村医院開院20周年ということで、「知られざる医者の子供の生活」について書いてみようと思う。

結論から言うなら、医者の子供は不幸である。たしかに、様々な点で恵まれているかもしれない。それは十分認める。しかし、医者という仕事は、あまりに忙し過ぎる。

小学生の時だったろうか、当時我が家は、毎年秋の連休に1泊2日で旅行に行っていたのであるが、その年も、例年のように鳥羽にいた。しかも、その年はちょうど私の誕生日と前後していて、いつもより楽しみにしていたのである。楽しい夕食を終えて部屋に帰った時、不幸がおこった。

何と、大阪から電話があり、急患のためにすぐに帰らなくてはならないとのこと。心の中ではよく分かっているのだけれど、とても楽しみにしていただけに、ひどくがっかりした思いがある。医者にとって、急患のための予定変更というのは、日常茶飯の事である。おかげで、私はこの他にも、何度も涙をのんであきらめたことがあったが、さすがに、この時のショックは大きく、今でもはっきりと覚えている。大阪に帰ってから、私は「子供がかわいそうだから、僕は医者にならない」と言った。

また、病院が忙しい時など、晩ご飯は平気で9時10時とずれこむが、我が家は一人っ子であったから、その間の話相手はテレビだけ。それでも、みんなでやる遊びがしたくて、一人四役とか、人が見たら、ただのアブナイ子供のようなことをしていた。と書いていると、本当に不幸だなと思えてきたが、それでもまあ、真っ直ぐに育ってこれたのは、パラドキシカルではあるが、我が家が三人家族であったからだろう。

たしかに、両親は忙しかったし、放ったらかしにもよくされていたが、それ以上に、愛情を持って接してくれたし、その愛情を一人で受けられたように思う。この点では本当に感謝している。

小学生の時、私は「子供がかわいそうだから医者にはならない」と言ったと前に書いた。しかし、今、その自分はというと、医者への道を歩んでいる。我ながら大嘘つきだなと思う。しかも、この道は、父に言われたのでも、母に勧められたのでもなく、あくまで、自分で選んだというおまけつきである。

一体なぜだろう。自分でも思う時がある。人間が好きだから、人間に興味があったから、理由はいろいろあったと思う。しかし、一番大きかったのは、今から思うと父親の姿だったのかもしれない。何か照れるが、一生懸命に患者さんを診ている父はすばらしかったし、かっこよかった。そして、大きかった。私がこの道に進んだのは、案外そんなところにあった気がするのだ。父と同じ道を歩くのは難しい、容易に比較ができるから。

最近、私は下宿をして家を出ているのだが、家に帰ってきて、家の手前の三角道を回る時に思うことがある、「野村医院は父自身だな」と。多分、父は否定するであろうが、私には、野村医院は父にとって宝物であり、父の作ってきた父の人生の一つの具象化のように思えるのである。

自分はどんな医者になれるのかと思い、一番身近な父をみるとやはり大きい。しかし、私は父を越えてやろうと思っている。父と全く同じことをするつもりは、はなからない。父とは違った、自分らしい方法で、父にはない部分を持ってやろうと思っている。野村医院とは違う何か私なりのものを、生もうと思っている。

"Born Under the Doctor"であったことは、"Born Under the Good Sign"だったのかもしれない。少なくとも今は、そう思っている。だから、私は自分の子供にも、 Good Sign だったと思わせられるような医者になりたいし、またそれが父へのお礼であると思う。

少し誉めすぎたようだ。とにかく、20周年おめでとうございます。(野村医院二十年史より)


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1994年 開業22年目 医師会設立

この年の初めから、医師会設立のための業務を片付ける作業が続き、3月26日には設立総会、4月1日から交野市医師会発足、7月10日に交野市医師会設立記念式典、9月1日より、社団法人交野市医師会が認可発足した。その間の事情を、医師会総務として、医師会会報に設立奮闘記を書いている。

医師会設立奮闘記

独立に追い込まれた
枚方市医師会のもとで、交野支部として、小判鮫の状態でいたい、という虫の良い話が通らなくなった時から、独立すれば医師会の端役を務める覚悟はできていた。これまで医師会の役員を一度もしたことはないが、この地で開業して20年間を大過無く過ごさせてもらいながら、医師会の役はご免というのでは身勝手過ぎるかもしれないという思いがあったからである。

総務を引受ける
それが総務という仕事をを引き受けることになったのは、ある会席での松木先生の一言がきっかけだった。そこで「あんたは総務やな」と言われ、その理由としてパソコンが使えるし、事務処理が得意だから、と数え上げられると、そうかなと言う気になってしまった。そのくせ総務の仕事がどんなものかは皆目知らなかったのだからいい加減な話である。そして、いよいよ医師会が独立することになり、小菓先生などから総務を命じられると、何の疑問も抱かずOKをしてしまった。「めくら蛇に怖じず」である。

総務の仕事始め
総務を引き受けた途端に与えられた仕事が法人設立の準備をすることだった。いきなりのカウンターパンチだが、今さら「そんな話は聞いていなかった」と言うこともできず、枚方市医師会の岩井総務にお目にかかり、法人設立に関する資料を頂いてきた。平成5年12月16日のことである。そしてそれからは懸命に最初の仕事に向かい、正月休みの間をこれに没頭して、法人設立の申請書類一式を何とか作りあげた。

医療対策課の嬉しいコメント
年が明けた平成6年1月17日にこの書類一式を岩井総務のもとへ持参した。先生はこの書類に目を通され、予想外の進展に驚かれたのか「これでほぼ出来上がっていますね」と言って下さった。いくつになってもお目出度い私は内心得意だったように覚えている。

1月19日に、岩井総務と小菓先生が府の医療対策課の担当主査のところへ、修正を加えたこの書類を持って行かれたところ、1)定款は部分修正でほぼ確定、2)平成5年度事業計画と予算のいずれもOK、3)平成6年度分は定款にしたがい事業計画を行い、予算は税理士と協議し作成すること、という有難いお言葉をいただいたとのことであった。それからも岩井総務の指示に従い何度も修正を加えたが、法人設立業務はこれでほぼ完了したと思い込んでしまった。そして「少しは苦労したが、これくらいで済むのならたいしたことではなかったな」と思った。ここまでが法人用書類作成の第1ステップである。

総務委員会は慰労会ではなかった
2月8日に設立準備総会で正式に総務に選ばれると、小菓先生から定款施行細則作成を指示された。これは枚方市医師会のそれを参考にすることで余り苦労はいらなかったが、続いて臨時理事会の召集、入会金規定、会費規定の作成と矢継ぎ早に仕事を命じられる。そうした3月4日の夜に「明日総務委員会を仙亭で行うので出席するように」とのFAXが届いた。総務委員会とはどういうものかを知らず、仙亭で慰労会でもしてくれるのだろうと気楽に考えて家を出た。

ところがである、メンバーは枚方市医師会の理事会出席を終えたばかりの小菓、尼子、南、福森先生で、慰労会などでは決してなく、設立総会の準備などを協議する本当の会議であった。総務は記録をとるようにと言われても、筆記用具など用意していない。仕方なく南先生に万年筆をお借りし、資料の余白に書込をして冷や汗をかきかき何とか切り抜けたのである。

総務の仕事とは何か
この時に恥ずかしい思いをしたので「総務の仕事とは何か」を把握しておく必要を痛感し、小菓先生にお訊ねしたら、大阪府医師会の総務課の業務内容を教えて下さった。それが庶務・秘書室・裁定委員会・会史・法規・優保・麻薬・健康問題・地域医療推進・医政連・文書・会館管理である。しかし、これでは何のことか分からないので、ビジネス関係の書物を調べたり、岩井総務にお訊ねもした。その結果、総務の仕事はよろず雑用係で、特に会議、文書、法規、記録、報告に関することが中心となるようだと一応理解した。

設立総会は無事終了
総務の仕事の最も大きな部分を占める総会の準備、記録、報告は3月26日の交野市医師会設立総会から始まった。これまで、一度も、まともに総会に出席したことがなく、全く関心もなかったので総会の形式に戸惑い、書物や枚方市医師会の前例を参考にして試行錯誤的に総会の準備、記録、報告を行った。ここで正月以来法人設立のための資料を勉強してきたことが非常に役に立ったのは思わぬ幸いであった。医師会用の定型業務のフォーマットを作り、それを後の人に引き継いで行くようにすれば時間と労力の無駄を減らせると思ったのはこの時からである。

支部最後の日の礼状
3月31日、交野支部最後の日に岩井総務にFAXで礼状を送信した。当時の自分の正直な気持の記録として再録することをお許し願いたい。

前略 いよいよ本日が枚方市医師会会員としての最後の日になりました。先生にはこれまでも大変お世話になりましたが、特に今回の交野市医師会独立に際しましては本当に全力投球でご尽力下さり、まことにありがとうございました。先生のお陰で何とか母なる枚方市医師会を巣立つことができそうです。

しかし、交野市医師会会員は小菓先生を除いてほとんど医師会活動を経験していない素人集団なので、失敗の連続による叱責と始末書の連発を覚悟いたしております。枚方市医師会に対してもご迷惑をお掛けすることが多々あるかと存じますが、なにとぞご寛恕のほどお願い申し上げます。

交野市医師会として、これからも先生にご教示ご指導をお願いしなければならないことが何度もあるかと存じます。また私個人としても総務の仕事につきお教え願いたいことが次々出てくることと思っております。その節にはどうか宜しくお願い申し上げます。

医師会活動が一番苦手な私に総務という難しい仕事が回ってくるとは何とも皮肉ですが、しなければならないのならこれから逃げ出さず、2年間だけは力一杯努めようと思っています。これからも公私ともにご交誼ご指導下さいますよう重ねてお願い申し上げます。

まずはお礼とお願いまで。                       早々

これに対する返礼のFAXの中で岩井先生は「総務の仕事はできるだけ医師会に顔を出し、多くの動きを知っていることが最も大切かもしれません」と教えて下さったので、これからは頻繁に医師会事務所へ行かねばなるまいと覚悟を決めた。

あっけなかった医師会発足の日
交野市医師会発足の日に医師会事務所に行き、会長と他の医師会等への挨拶状につき話合った。また飯垣事務長と藤川事務員に「あんまり張り切らず、ぼちぼちやりましょう」と協力を要請した。何かあっけないような医師会発足の初日だった。その日から、当医師会の関係文書を枚方市医師会のそれを参考にしながら、独自のフォームでどんどん作って行った。それは例えば、定例理事会の案内、議事録、会員への報告(理事会だより)の書式であり、電話連絡網再編成、会員FAX番号リスト作成、などであった。これらは書式や言葉を統一し、電子化することで、その修正、追加、削除などの活用を容易にし、将来の省力化に役立てることにした。

最初の定例理事会
医師会発足後最初の定例理事会が4月12日に開かれることになった。当日の司会進行を総務がするようにと会長から命じられたが、記録も総務の仕事だと言われると、司会をしながら記録をとるような能力が自分にあるとは到底考えられず、堪忍してもらった。それまで理事会に出席した経験が皆無な者に、総会に次ぐ重要な議決機関である理事会の司会と記録をさせると言うのはちょっと酷ではなかろうか?

とにかく、理事会の準備と記録だけに仕事を限定してもらい、正確な記録をするためテープコーダーを持ち込んだ。理事会の議事録にも総会の議事録とほぼ同じ必須事項が課せられていることは定款を作成する過程で知っていたので、重装備で理事会に臨んだのである。

しかし、理事会の準備や当日の記録よりも大変なのは、その後の「議事録」と「理事会だより」の作成であることをすぐ経験した。理事会での発言を確かめるためにテープコーダーの音量を最大限に上げても聞きとり得ない発言にいらいらしている光景を知らない者が見たら何と思うだろうか?

会員名簿・規約の発行
医師会発足後まず必要なのは会員名簿や総会で決定した規約類を文書化することではないかと考え、とりあえず分かっている分をまとめ、会員にお配りすることにした。これも早く、安く作るために手作りDTP(desk top publishing)で行ったので4月末迄にほぼできあがった。このようにして連休前までは順調にことは進んできたのである。しかし世の中そんなに甘いものではなかった。

全く頭にきた
大阪府医療対策課の担当主査の藤原氏が転出し、新任の伊藤主査から、28日に登庁するようにとの指示があり、枚方市医師会丹波事務長と飯垣事務長と3人で出頭した。そこで、思いもしていなかった厳しい説明と指示を受けて、頭にきたが、私はひたすら拝聴した。しかし飯垣事務長はこらえかねて「お宅らは言うだけで良いから宜しいわな」と捨てぜりふを吐く始末。最後に駄目押しをするかのように「過去は公益法人の許認可が簡単に行われたこともあるようだが、最近公益法人の許認可はシビアになってきている。昭和63年以来公益法人の認可はない」と主査殿は言われた。

帰宅してから伊藤主査との面談の「報告」と「感想」をまとめ、FAXで小菓会長、尼子、南副会長に送信した。ここにその内の「感想」の方を再録する。頭に血の昇っている状態がよくお分かりいただけると思う。

      昨日、府庁で伊藤主査と面談したが、それについて私の感想を述べる。

   1.府医療対策課の前担当官藤原主査の指示ということで岩井先生から指示を受けて
    何回も書き直した「平成6年度事業計画」がこれほど見事に×をつけられるとは
    予想もしていなかった。

   2.小菓、岩井先生が大森会計事務所に時間をかけて作らせた「平成6年度予算書」
    も同様に×をつけられた。これはどういうことなのか?

   3.私が府医療対策課に行ったのは今回が始めてで、これまで岩井、小菓先生を通し
    て断片的に医療対策課の話を聞かされてきた。担当官が変わったためであるとし
    ても、余りにも医療対策課との話が違うことに呆れ、腹立たしく思う。

   4.法人設立のための書類作成の実務をさせられてきたが、肝心なところは何も教えて
    もらえていなかったのではないかとの思いがする。医療対策課藤原主査との面談
    に同席させてもらっていたのなら、また大森会計事務所に依頼するところへ同席
    させてもらっていたのなら、今回の伊藤主査の話が伊藤主査個人の問題と納得も
    できるのだが。

   5.ここにきて、交野市医師会をなぜ社団法人にしなければならないのか、という理
    由がもう一つよく飲み込めていないことに気がついた。法人にしなければ枚医か
    ら寄付金がもらえないと聞かされてきたが、本当にそうなのか?

    訪問看護ステーションの申請に必要とのことであるが、訪問看護ステーション自
    体行わなければならない義務があるのか?

   6.とにかく乗りかかった船だから、降りることはしないつもりでいる。法人設立が
    至上命令であるのなら若い担当官の指示に腹を立てず、ひたすら言いなりに書類
    を作って行こうと思う。しかし、そのためにはかなりの作文をしなければならず
    私に全権を与えてもらわなければ作業がし難いと思う。皆さんのご意見をお聞き
    したい。

この「報告」と「感想」に対して、小菓先生から、私に全権を委ねる。寄付金をもらうためには法人でなければならない。ナースステーションも交野市、大阪府と話ができているので止められないとの電話を頂いた。尼子先生からは、先生のコネで上から圧力をかけてやろうかと言って下さったが、自分自身、上から命令されるのが嫌な性格なので、ご厚情は有難いが自力でやってみると言ってお断りした。

かくして連休はつぶれた
翌日から早速作業を開始した。「平成6年度の事業計画と平成6年度の予算書」「平成7年度の事業計画と予算書」「平成4年度の事業実績と収支計算書」「平成5年度の事業実績と収支計算書」を差し当って修正し、あるいは新規に作らなければならないが、目に物を見せてやるぞ、という心境だった。この時健康増進課の中村課長は快く、敏速に関係資料を石田、門口氏を通して提供して下さった。

そして連休中にまず「平成4年度の事業実績と収支計算書」「平成5年度の事業実績と収支計算書」を完了し、次いで「平成6、7年度の事業計画」に着手した。かくして連休は完全につぶれてしまったのである。連休明けには「平成6、7年度の事業計画」も完了し、会長と大森税理士はこれに基づき「平成6、7年度の予算書」を作成して下さった。

書類のFAX送信が認められ感謝
作成した書類を毎回府庁へ届けるのは、診療時間に食い込む可能性があり難儀だなと思っていたが、伊藤主査はFAXで送信することを認めて下さった。この時から主査に対する自分の印象はかなり良くなった。以来主査との文書のやりとりはほとんどFAXで行った。FAX送信の後で主査から電話があると、家内や職員が驚くくらいの丁重な言葉で応対した。これまでの人生で一度も経験したことがないような言葉使いだった。

ご存じの通り私はかなりの意地っ張りで、ええかっこしいである。へつらうことを潔しとしない人間である。それが、素直に丁重な応対をすることができたのは、今振り返ってみて、自分の利益に関係しないことだったからではないか、と思う。ここまでが法人用書類作成の第2ステップである。

ぬかよろこび
5月13日に伊藤主査より「役員身分証明書の取り寄せを始めるように」との電話を頂いた。本籍地市町村に交付を請求しなければならないので時間がかかること。証明書は3カ月間有効なので、取り寄せておいて無駄にはならない、との説明つきである。その電話の後で思わず快哉を叫んでいた。もうこれで目鼻はついたと思った。そして即座に会長にそのことを伝えた。

ところがである。5月23日に伊藤主査から「明日会長と一緒に来庁するように」との電話があり、翌日会長と二人で府医療対策課黒木係長、伊藤主査を訪問すると、その席で「19日に法制文書課と協議した結果、事業計画事業実績について自主事業がどれであるか分からない。そこで平成6年7年の事業計画と予算書を自主事業と受託事業に分類した以下のような一覧表の形式で作り直すように」との指示を受けた。

   自主事業  事業名  定款事業番号  内容  収入  支出  差額
   受託事業  事業名  定款事業番号  内容  収入  支出  差額

おまけに「証明書を取り寄せてもらったようだが、その有効期限内での法人認可の見通しは暗い」と言われた。まさに暗転である。その府庁からの帰り道「法人認可が遅れそうなので8月の盆休みの頃に海外旅行をしてもいいですね?」と尋ねた途端、会長の顔色がさっと変わり「役所に盆休みはない、今年は辛抱して欲しい」と言われた。その時の状況が今でも妙に生々しく思い出される。指示された形式の事業計画書と予算書の最終版を6月16日に府医療対策課へ届けた。法人用書類作成の第3ステップである。

設立記念式典の司会を命じられた
法人認可の日が遠のいたので医師会設立記念式典の準備に専念できることになったのは幸いであった。医師会設立記念式典が話題にのぼったのは記録によると2月22日の臨時理事会からで、以来南副会長を実行委員長として準備が進められ、私はこれに余り関わらなくても良かった。しかし式典の司会は総務がするようにと決められてからは、他人任せにできず旭屋、紀伊国屋で手に入る式典関係の書物を数多く購入し勉強をした。

そして6月14日の記念式典準備説明会に臨んだのである。その場で式典の次第の試案を披露したところ、記念講演を式典の後にすることに対してクレームが出て困惑した。しかし、この件に関して会長から府医師会事務局に問い合わせてもらったところ、式典と記念講演を別個とするのが正しいとの回答を得たのですっかり安堵し、自信を持って式典のシナリオを作ることできた。

祝儀を期待して招待を追加
当会は任意団体の医師会であるため、分離独立に際して社団法人枚方市医師会から寄附金等を拝受することができず、事務所の維持費捻出のために会員から借入れを行うという貧しい状態であった。それなのに身分不相応な式典をしようというのは「ええかっこしい」が多かったからだと言われても仕方がないとは思う。

そのため会長はいろいろお金の算段をされていたが、見るに見かねて、ご祝儀目当てで薬屋の招待を増やそうと考えた。浅ましい話だが、こんな機会は滅多にないことだから許してくれるだろうと勝手な理由をつけ、製薬メーカーを29社選び、出入りの問屋6社のセールスに招待状を届けてもらった。29社というのは招待状の残りがそれだけしかなかったからで、6月17日のことである。

案内表示にも手を出した
式典の案内表示やネームプレートなども自発的に作った。とにかく、この晴れの式典と祝宴を成功させたいとの一念で必死である。もちろん会長も副会長もそれぞれが懸命、必死であった。大阪の片田舎の小さな医師会でもこれだけスマートで立派な披露ができることをデモンストレーションしたかったのである。そこで結局20種類の案内表示、会場周辺地図、ネームプレートを作ってしまった。

誰もがカッカしていた
式典の日が近付くにつれて、会長、両副会長、私のいらいらはつのり、温厚な南先生までが青筋を立てて怒られるのを何度か拝見した。私もネームプレートの件で会長と衝突し、それを南先生が中に入ってとりなしてくれたり、会長と尼子先生がもめているのを私がなだめたりで、前日まで興奮状態だった。しかし、誰もが真剣に式典の成功を願っていたことは間違いなく、そのためにカッカしていたのである。そのほか、苦労性の会長は赤字になることをしきりに心配され、祝儀が全部でいくらになるか積算するようにと言われたり、引き出物が足りなくなるがどうしよう、などいろいろ心配されるので、少し気の毒に思った。

予行演習
他の団体が会場を使用しているために、前日の予行演習の時間が大幅にずれ込み、ためにイライラは極限状態に達し、私は尼子先生と一緒に会場点検に走り回った。式典が終わったある日、山添先生に「今まで見たこともないような恐い顔をしてましたよ」と言われた。その山添先生や宮宗先生など若い先生方が自発的、積極的に会場の設営に奔走されている様子を頼もしく思ったこと、式典に対して中村課長以下石田、門口、井上氏ほか健康増進課の方々が本当によく協力して下さり感激したことを今も覚えている。

本番は予想外の上首尾
記念式典の当日は快晴で、会員は決められた分担を積極的に果たし、式典を手伝って下さるスタッフも懸命に努めて下さったお蔭で、予想をはるかに上回る上首尾の内に式典を終了できた。ご同慶の至りである。むしろつきが過ぎていて、気味が悪いと思った程である。というのは、式典の祝辞が予定時間通り30分で終わり、記念講演も予定通り正午の時報と同時に終わった。祝宴もまた予定時間通りに終わり、その上、祝儀の総額が前日積算した額と全く同額だったのである。もちろん、偶然が重なったのではあるが、余りにピッタリと合いすぎて空恐しい感じがした。

松吉先生に感激
式典が終わり、記録の整理をしているところへ松吉先生が来訪された。先生は設立式典での役割が記録係だっだので自ら写真撮影を選ばれ、フィルム11本分もの撮影をされた。その全フィルムと整理された全写真とともに、個人別に封筒に入れられた写真をお届け下さったのである。全くの感謝、感激であった。

宴の後には苦難が待っていた
式典の司会が終わると祝宴では専ら医療対策課の伊藤主査の接待に回ったが、法人認可の件は一言も話されなかった。しかし、式典と祝宴が成功裏に終わり、一息つく間もなく来庁を指示され、7月15日に伊藤主査を訪問した。そこで、前回訪問時に指示された形式で作成し、6月16日にその最終版を届けた「事業計画書と予算書」は駄目だと言われ、新たに別の形式で作り直すようにとの指示を受けた。まる1ケ月間、何のコメントもなく、あれで良かったのかもしれない、との淡い希望を抱かせてくれた結果がこれである。少々頭にきたが、救いもあった。それは最近社団法人に認可された某歯科医師会の設立関連書類のコピーと既設の医師会立老人訪問看護ステーションの概要を頂いたことである。

我が生涯で一番勤勉だった期間
この翌日より、毎朝5時からパソコンに向かい、診療の合間も、夕食後も午前1時過ぎまでこれに没頭した。その間、伊藤主査や会長とFAXで何回も交信して校閲を受け、電話でも相談し、ほとんど毎晩1時過ぎに会長にFAXを送ったのである。それに対して会長からは必ずFAXで返信があった。大学受験の時にもこんなに頑張った経験はなく、この7月16日から25日までの10日間は我が生涯で一番勤勉だった期間であった。これが法人用書類作成の第4ステップである。

これで駄目ならケツをまくるぞ!
7月26日に府庁へ書類を届けるために家を出る時、これで駄目ならケツをまくってやろうという心境だった。伊藤主査は書類を受け取るや「平成5年度事業報告は平成5年度・6年度の事業報告とし、6年度は4月1日から6月30日までとするように」と言われた。そこで、本当に6月30日でよいのかと質問すると、自分も分からないから、法制文書課に問い合わせて返事をするとのこと。行く度に大幅に指示が変わり、しかも指示をする本人がよくご存じない。今度は小さな修正で済むと思ったからよいが、もしも、いつものような大幅な変更だったなら、きっと喧嘩別れをしていたに違いない。

攻守ところを変えたと思ったが?
今回は指示された書類だけでなく、法人認可申請に必要とされている書類は指示されていないものも含めて全て作成の上持参したので、これらの書類の審査もお願いした。また、いろいろな質問事項を印刷してお渡しし、回答を求めた。これに対して伊藤主査は「今度はこちらが追い込まれました、早急に仕事を進めます」と話され、ここに来て攻守ところを変えたなと感じた。

プッツン切れてしまった
翌27日、伊藤主査から電話で、昨日の質問に対する回答があったが、その後で、任意団体交野市医師会として枚方市医師会から寄付金をもらうようにとの指示を受けた。何たることか! 公益法人にしなければ寄付金をもらえないと言うから今日まで我慢に我慢を重ねて指示通りに書類を作ってきたのだ。その大前提が間違いなら、公益法人にしなければならない理由は何一つない。すぐさま会長に問いただす、と声を荒げ電話を切った。もう完全にプッツンである。

会長に電話が通じないので、ポケベルで会長に連絡をとってもらおうと医師会事務所に行った。その時の私の形相は物凄かったらしい。後で藤川事務員や木戸口事務長から聞いて恥じ入ったが、その時はカンカンだった。大阪で会議に出席中の会長を呼び出し「寄付金のことや、枚方市医師会交野支部を交野市医師会とみなす件につき、明日必ず黒木係長を訪問し、確かめて欲しい。先生からのまた聞きではなく、今回は私も同行して一緒に話を聞く」と頭に血が昇った状態で一気にまくしたてた。

会長は何が何だか分からないが、私が無茶苦茶に腹を立てているようなので、逆らわないのが賢明と思われたのだろう「分かった。黒木係長に電話する」と話された。後から考えると会長には本当に失礼なことを申し上げたわけで、穴を見つけて入りたかった。

ルンルン気分
翌28日、会長と一緒に黒木係長、伊藤主査を府庁に訪ねた。寄附金の件は伊藤主査の誤りで、「公益法人が任意団体に寄付をすることを認めるなら監督官庁としての責任を問われる」と係長は陳謝された。大前提はやはり正しかったのである。その後の懇談は非常に友好的で黒木係長はいろいろ教えて下さった。

その中で「公益法人として認可されれば、それから後は、事業計画や予算のようなものであっても、不都合であれば総会を開いて変えれば良い」との言に、「そういうことなのか」と胸のつかえが一気に消滅した。私の嫌いな言葉で言えば「目から鱗が落ちた」のである。そう考えれば、作文をすることに罪の意識を感じないで済む。好きなように創作するぞ、と思った。何十年も医師会の役職を経験して来られた会長も帰りのJRの中で「そう言うことなんやな」と何回も繰り返された。二人はルンルン気分、電車の窓から見える景色は真夏色に輝いていた。昨日はプッツン今日はルンルン、我ながら単細胞であると思う。

伊藤主査の来訪に感激
8月8日月曜日の午後7時頃だった。診療の最中に伊藤主査から電話があった。法制文書課で審査を受けた結果がたった今戻ってきたので、今から説明に訪問したいがどうかとのことである。もちろん、有難くお受けした。主査は診療の終わった7時30分頃に来院され、直ちに42枚の書類の説明に入り、修正すべき箇所を教示して下さった。気位の高い本庁のお役人が、呼びつけることをせず、逆に自ら説明に訪ねてやろうと言われるのである。これに感激、恐縮し、感謝しない者がいるだろうか?

すっかり戦友気分
説明は2時間近くに及び、その後は待合室で雑談をした。この時、「4月に医療対策課へ来られるまで何処に居られたのか?」とお聞きすると、人権擁護課であると言われる。その前は公園課、その前は用度課とのこと。いずれも今の業務に全く関係のない部署であることに驚いたが、同時に、これまで主査に対して抱いていた不満や疑問が氷解し、同情の気持が一気にこみ上げてきた。

私が素人なら主査も素人、その素人同士がこんな面倒なことに懸命に関わってきたのだと思うと、主査は私の大切な戦友に思えてきて嬉しくなった。そして前の担当のベテラン主査ではなく、伊藤氏のような新任の主査と、試行錯誤を繰り返しながら、目標達成に向けて努力を重ねることができたことのしあわせを思ったのである。

確かに役所に盆休みはなかった
8月12日(金)午後府伊藤主査のもとへ全書類のコピーを提出したが、16日(火)の朝には主査よりFAX30数枚の送信があり、修正を指示された。6月に会長が「役所に盆休みはない」といわれた言葉は真実だったのである。その日から毎日、修正・送信・校閲という作業を繰り返し、19日(金)の午後に主査の許へ全書類を提出した。そういう訳で盆休みもまた医療対策課との対応に終始した。これが法人用書類作成の第5ステップで、同時に最終ステップとなった。

若者と飲んだビールは最高にうまかった
法人認可の仕事をしている間に何回となく若い人と無性に飲みたい気持に襲われた。そこで、以前から自分と気が合うMR9名を誘い、25日(木)の夕方から、アサヒパノラマビアレストランでスーパードライを飲んだ。眼下に見える大阪城公園が夕刻から夜に移り変わり行く様はまことに素晴らしく、平均年齢が30歳を越えないと思われる若者達と談笑しながら飲み交わすビールは最高にうまかった。それはまさしく至福の時であった。その中には私の息子より若い人も何人かいた。彼らはいわば呉越同舟の仲で、ライバル意識は強いが、お互いのことをほとんど知らない。そこで、私が知っているそれぞれの人となりを紹介し、それから自己紹介をしてもらった。彼らにはいい迷惑だったかも知れないが、私には命の洗濯だった。ありがとう、若者たち。

社団法人認可される
8月30日(火)の夕刻、伊藤主査よりFAXと電話で法人認可申請が許可されたとの知らせを受けた。いよいよ、9月1日より社団法人交野市医師会である。感慨ひとしおであった。お蔭で枚方市医師会から3,300万円の寄附金を頂戴することができた。医師会立の訪問看護ステーションを作ることもこれで可能になった。任意団体の医師会を作ることはそれほど困難ではないが、公益法人の医師会を作ることはそれとは比べようもなく難しいことを身を持って体験することができた。思えば、本当に良い勉強をさせてもらったものだと思う。お金を払ってもできない生涯学習を、思いっきりさせてもらったのだから。

学術面でもPRしておこう
6月末に日本プライマリ・ケア学会から、一般口演演題募集の案内が当会に届いたので、会員に配布したが、それを見ると医師会単位の発表のようである。そこで、この際これに応募して、学術面でも当会のPRをしてやろうと思った。宴だけでなく診療も真面目にやっているところを示しておきたかったのである。とは言っても、式典を目前にした忙しい時期に、他の先生にお願いすることもできず、自分が応募したが、幸い採択され、10月2日に尼崎で発表をした。

8月には大阪府医師会医学会総会の一般演題募集の案内が届いた。これも医師会単位の発表なので応募し、11月13日に府医会館で発表をした。この時の座長からの推薦があったので、発表演題を原著として大阪府医師会医学雑誌「大阪医学」に投稿するように、との依頼文が今年の2月に届いた。今度も「めくら蛇に怖じず」すぐに応じたが、何しろ20年以上も原著など書いたことがなく、参考文献と英文抄録には泣かされた。

こんな筈ではなかった
本年3月25日の予算総会で役員改選が行われた。役員をするのは2年間だけと思っていたが、法人定款の付則により3月末で一旦辞め、更に2年間、合せて3年間しなければならなくなったのである。こんな筈ではなかった。それに、法人認可がこれほど難しいとも、こんなにきっちりやらなければならないとも思っていなかった。総務を引き受けた時には、小さな医師会だから、手を抜けるところは手を抜き、府医や府に叱られたら始末書を連発するくらいの気持で気楽に行きたいと考えていたのである。それが4月末に医療対策課へ呼び出されてより目茶苦茶になってしまった。こんな筈ではなかった。

お蔭で定款、事業計画、事業報告、予算、決算のすべてにおいて、監督官庁お墨付きのものを持つことができたが、果たしてそれ程までにする必要があったのだろうか、簡単で小さな医師会こそあらまほしきと当初思ったのではなかったのか、と言うのが現在の心境である。しかし、私個人としては面白い経験を存分にさせてもらった。たとえ望んでもできない経験を、縁あってさせていただくことができて本当に有り難かったと思っている。しかし、もうこれ以上はこりごりである。

お詫びとお願い
寳田先生から投稿の指示を受けた時には、今さらとも、しんどいとも思ったのであるが、一旦書き始めると止めるすべを知らないスキーのようにここまで来てしまった。仕方なく読み続けて下さった奇特な方に対しては心からのお詫びを申し上げる。

また、文中にも書いたが、後2年足らずの期間を総務として医師会業務の省力化に全力投球をしていきたいと思っている。そしてできるだけ雑務の少ない医師会に近づけたいと願っている。しかし、その後は医師会の役職から解放していただこうと思う。その理由の最大のものは会報創刊号の自己紹介のところに記した通りである。衷心よりお願い申し上げる。(交野市医師会会報第2号より

医師会独立は時の運であり、私が総務を引き受けたのも時の運である。お陰で、お金を払ってもできないことを経験できて幸運だった。しかし、もう二度としたくはない。


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1995年 開業23年目 阪神淡路大震災 圭 医師国試合格

この年は、天も人も残酷極まりないことができることを見せつけた年であった。1月17日未明に発生した阪神淡路大震災には、自然の底知れぬ恐ろしさ、強さを思い知らされた。

それに追い討ちをかけるように、今度は人間の恐ろしさに震え、怒りが込み上げる事件が起きた。3月20日の地下鉄サリン事件である。

圭の医師国家試験合格

悪いことが続いたが良いこともあった。その第一は、圭の医師国家試験合格である。ところが、入局する段になって、第一内科に入ったと思ったら、第二内科に変わり、また第一内科に戻ると言う。「何で出たり入ったりカッコの悪いことをするのか」と尋ねた答えに参ってしまった。「ここを継がしてくれないので、将来病院に勤める時に、雇ってもらえる技術を身に付けるには、どこへ入局したら良いか迷うからだ」と聞いた時、生まれてはじめて、息子を可哀想だと思った。

確かに、以前から私は息子に野村医院を継がせないと言ってきたし、妻も同じ意見だった。私の場合、ぼんぼんで苦労知らずに育ってきた圭に継がせると、頑張りが利かず失敗するだろうという理由からだったし、妻はこのような神経の使う仕事を継がせるのは可哀想だと思うからだった。

しかし、圭の話を聞いて不覚にも涙がこぼれ、「これから10年間は野村医院を続ける。その間にお前に継がせても良いと私が判断し、お前もここを継ぎたいと思うなら、継がせても良い」と話したら、圭の顔がさっと明るくなり、ものすごく嬉しそうな表情に変わった。私たち夫婦が勧めたのではなく、自分の意思で医者になる道を選んだ息子が、健気に生きてきたことを知って、愛しく、圭をぐっと身近に感じた。

このことがあったためか、医師になってからの息子は、今までとは違って医師への道を懸命に歩き始めた。これまでは、最小の努力で最大の結果を得ようとするかのように、努力をしなかったので、「経済原則で生きる男」と私たち夫婦は陰口を叩いていたのだが、医師になってからは、愚鈍なほど努力を重ねているのが分り、嬉しい誤算である。

圭が入局先の選択に迷っているのを知った時が、医院を継承させても良いと思う大きな契機となったことを思うと、「運は時なり」を感じてしまう。

スペイン旅行

8月16日からスペインへ旅行した。前年の9月から、関西国際空港は開港していたので、今度は関空からの出発で、イタリア旅行の時と比べて便利になった。スペインは、イタリアに勝る素晴らしい国で、永住するならここが良いと思うほどだった。この時も、帰国するなりビデオを編集し、アフレコでBGMとナレーションを入れ、前と同じように親しい人に差し上げて見ていただいた。

このビデオテープの記録から切り出した静止画を中心に、いくつかの写真をスキャンしたものを加え、ビデオのシナリオを参考に、旅の思い出を記事にまとめ、真夏のスペイン旅行の名前で記事を載せている。

この年は、もう一つ嬉しいことが始まった年だった。同じ医師会の松吉陸雄先生と、親しく飲み、唄い、ミュージカルやコンサートを鑑賞するようになったのだ。気が合い、同じように英語の歌が好きで、二人が出かけると何時も午前を過ぎての帰宅になるのだった。

パソコン関係では、この年の11月末に Windows 95 日本語版が発売され、パソコン・ブーム、インターネット・ブームに火が点いた。


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12.開業医 Web 時代

1996年 開業24年目 医師会パソコン同好会の世話

還暦まで DTP出版

4月16日に私は60歳となった。この日のために、それまでに書いてきた雑文をまとめて、DTPで「還暦まで」という書名でDTP出版した。これは野村医院二十年史に次ぐDTP出版である。

O-157による集団食中毒

7月13日に、病原性大腸菌O-157による集団食中毒が日本列島を襲った。患者は9000人を超え、死者は11人に及んだ。 この時、O-157に関する情報は、一般の医学書に記載はなく、最新の情報は、インターネットから入手できるものに限られていた。私はパソコン通信から情報を得ようとしたが、そこに流れている情報は、インターネットで入手したものを、パソコン通信に移し替えしているものに過ぎないことが分った。

交野市医師会会員のためのパソコン同好会発足

8月3日の交野市医師会理事会で、医師会にパソコン同好会を作り、インターネットに接続できるようにする。その世話人は野村 望にするという緊急提案が満場一致で可決された。

このような事情で、交野市医師会の会員の希望者が、インターネットから情報を得られるように指導しなければならないことになった。パソコン歴11年、パソコン通信歴8年ではあるが、Windows PCは触ったことがなく、インターネットの世界を見たことがない。

しかし、引き受けざるを得ない状況なので、その足で日本橋に行き、Windows 95搭載のパソコンを購入し、インターネット接続を可能にした上で、足がかりとなるホーム・ページとして、野村医院のホーム・ページを開設した。

それが、8月15日で、Windows PC購入後2週間足らずで作り上げたことになる。今そのことを思うと、信じられないほどの短期間で仕事を仕上げていることに、我ながら驚く。いつも追い詰められた時に、火事場の馬鹿力が出るようだ。

これから後は、パソコン同好会の世話人となり、平均年齢が60歳近い会員のパソコンの手ほどきをさせてもらいながら、知らなかったWindowsのマルチタスクの世界、インターネットの世界に、新たにのめり込んで行くことになった。それからの経過は、パソコン物語に詳しく書いている。これは、同時進行の形で交野市医師会のホームページに掲載したが、全国規模で評判を呼ぶことになった。

会員は熱心で、面白可笑しい失敗を重ねながら、パソコン購入1ヶ月以内に13名全員がインターネットに接続し、2ヶ月目では、ほとんどがメールを送るようになった。3ヶ月目では、年賀状の印刷から始まり、画像にまで発展するのだから驚く。そして、ちょうど4ヶ月目でパソコン物語を完了する段階まで到達した。

年末に、パソコン同好会会員にメールでグリーティングカードを送った(図16)。


図16.年末年始のグリーティングカード KOBE LUMINARIE '96

O-157による集団食中毒の時がきっかけとなり、医師会員のパソコン同好会が発足し、それを通じて、会員がインターネットを知り、Eメールの使うようになった。これもまた、「運は時なり」の事例である。


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1997年 開業25年目 「歌と思い出」掲載開始

いよいよ私もWeb世界に身を置き、情報を世界に発信できるようになった。これは革命的な変化で、Webサイト「交野の野村医院」に次々と記事を掲載し、この時代に遭遇できた幸運に感謝した。2017年の現在までにサイトに掲載した記事は670件、そのうち現在掲載記事は451件に及ぶ。「運は時なり」という思いは強くなるばかりだ。


歌と思い出 掲載開始

交野市医師会会報第1号(95年5月)の自己紹介で、最もしたいテーマの第一は「歌と思い出」を書くことだと書いている。

その理由として、ある歌を聞けば、反射的にある情景が瞼に浮かんでくるという経験を、多くの人がお持ちであろう。その反対に、過去のある時を思い起こすと、決って頭の中に流れ出てくるメロディーがあるという人も多いと思う。歌好きな人間の場合、その数はかぞえきれない程かも知れない。

私も歌が好きだ。昔の歌を頭に浮かべると、次々にその頃の思い出がよみがえってくる。60年近くの間に聞き親しんできた歌はどれほどあるのか、それは自分の生きてきた道のりを教えてくれるものになるだろう。その歌をしるべに、思い出を書き綴っておきたく思う。

そして、歌と思い出(1)1936〜45、歌と思い出(2)1946〜50、歌と思い出(3)1951〜55を書き、サイトに掲載した。2000年に、歌と思い出(4)から(10)までを掲載、誕生から還暦までの、61年間の歌と思い出の記録とした。2008年に記述スタイルを変更し、統一したが、この「歌と思い出」は私にとって重要な作品の一つである。


曲直部先生に学んだこと

大阪大学第一外科同窓会の会誌「汲泉」曲直部寿夫先生追悼特集号より

66年4月、曲直部先生が阪大第1外科の教授に就任されると、私ども62年入局組の中で内藤、津森、堀口、野村の4名が心臓外科グループに配属され、心臓外科医への道を私も懸命に進んでいました。しかし、68年頃から吹き荒れた大学紛争を経験している間に、大学に留まって心臓外科医になることに疑問を感じるようになり、医局でその気持ちを発表しました。

その後大学紛争は終焉を迎え、大学にも医局にも平和が戻り、曲直部先生からも考え直すようにと言われましたが、一旦表明したことを翻す気持ちにはなれず、71年6月に医局を去りました。

このように自らの意志で医局を出た人間である私が、曲直部先生から学んだことをここに書き記すことにより、謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げようと、筆をとりました。

私が先生から学び、いくらか自分の身につけることができたと思えることが三つあります。その一つは「八方破れの構え」です。これは私が勝手にそう呼んでいるだけであり、スマートに言えば「自然体」というのでしょうか。先生の偉大さの根源の一つがここにあると思ってきました。あるがままの自分を見せ、あるがままに行動する、自分の欠点や失敗を隠したり、取り繕うことをしない、ということは自分自身に対する強い信頼がなければできないことです。

二つ目は「新しいことに対するチャレンジ精神」です。心臓外科のパイオニア、国立循環器病センターの創設、看護大学の創設と、先生は次々と新しいことに挑戦され、それを常に実りあるものとされました。

三つ目は「患者に充分説明をする」ということです。先生の診察に付いたことのある者なら、「患者やその家族が納得できるように分かりやすく説明する」ということをいかに先生が大切に考えておられたか思い出すことでしょう。今でこそ「インフォームド・コンセント」が喧しく唱えられていますが、30年も40年も前から先生はそれを実践してこられたのです。

その上、私どものクラスのライターをされていた時には、受け持ちよりも先生の方が患者の状態をよく知っておられることがしばしばありました。このように患者とその家族のことを大切にされてきたからこそ、心臓外科初期の頃のミゼラブルな手術成績にもかかわらず、紛糾することが無かったのだと思っています。

最後に、先生から学んだというより、私に「まじない」効果を与えてくれた先生の言葉を書いておきます。それは、学会発表をする前に「インターハイに出る積りで発表をしてこい」と言っていただいた激励の言葉です。

以来、私が学会で発表する際に何時もこの言葉が脳裏に浮かび、何故かまじないの効果を発揮して、お陰で落ち着いて発表をすることができました。学会だけでなく、講演やいろいろの式典の司会などでも、この言葉を思い出して無事乗り切ることができたのです。先生の言って下さった真意が何かを考えたことはありませんが、とにかく、私にとって有り難いおまじないとなっています。

開業20年を終えたところで、これまでの開業医としてのまとめをして置きたく「野村医院二十年史」を作りました。自分から医局を出て先生にご迷惑をおかけしたことに対するお詫びの気持ちを込めて、93年の暮れにこの二十年史を先生の許にお送りしました。その時には先生ご夫妻がご入院中であることを全く知らなかったのです。

しかし、先生はこれにお目を通して下さった上、電話で妻に「野村君らしく一本筋が通っている」と言って下さいました。 94年2月3日の朝、診察をしているところへ先生の鮮やかな揮毫の額が届けられました。「一筋の道 野村望国手開業二十年を祝す 曲直部寿夫」のお言葉に感激で胸がつまり、涙がこぼれました。先生は不肖の弟子をお許し下さったのだとその時直感したのです。

開業した時に先生からいただいた「扶氏医戒の略」の額は、以来、診察机のすぐ横の壁に掲げています。そしてこの揮毫の額はその上に掲げました。偉大な両先達を思いつつ、これからも診療を続けて参ります。

先生は病床にあって、最後まで医師としての威厳を失わず、周囲の者に気配りをされ、人間として本当に尊敬できるお方だったと、入院中の先生の看護をされた伊藤憲子婦長は話されていました。そのお話をお聞きして深く感動いたしました。

曲直部先生、どうかやすらかにお眠り下さい。


私の(超々)整理法

昭和40年(1965年)頃から、私はデータの整理に関心を持ち、図書館的整理法をいろいろ試みたが、満足するものは見つからなかった。

当時の大学の患者データ(カルテなど)は、管理が年単位で行われ、同一患者でありながらカルテ番号は年度毎で全て違い、個人としての一貫性がないという欠陥があった。そのため学会に発表するデータをまとめようとしてカルテを選び出す場合には、途方もない時間と労力が必要となり、しかもデータの欠損が避けられない整理法であった。

昭和46年(71年)に大学を辞め、開業の準備に入ったが、家庭医として診療をしていく上で、このようなデータ管理では駄目だと判断し、患者のJD番号を決め、データを全て時系列順に並べることにした。メイスン・バルグレン両氏の「医学における電子計算機の応用」などを読み、診療にコンピュータを活用したいと常々思ってきたので、ID番号を取り入れることは、その面からも必須の条件であった。

この開業準備の頃から、昭和48年(73年)開業をするまでの間に、データ整理に対する考え方は根本的に変わり、現在のスタイルに移行して行った。

その一つは、「業務用データ」と「趣味的データ」に分け、「業務用データ」は迅速確実にデータ処理をするシステムを自分が作り、その作業を職員や妻に担当させる、「趣味的データ」は他人に触らせないが、その代わりできるだけ手抜きをする、つまり、いずれにしても自分の整理に要する時間と労力を可能な限り少なくするという方式である。

二つ目は、データ収納用具として「プラスチック製引き出し」を最大限に採用したことで、例えば、診療受付けの部屋に430個のカルテケースを、診察机のそばに20個、検査机の周辺には50個を置いて活用してきた。

三つ目は、データの置き場所について、「業務用データ」の場合、職員の誰もが間違いなく取り出したり収納できる場所を決めておくが、一方「趣味的データ」の方は、大雑把にグループ分けした保管場所に、大雑把に置いておき、その場所が満杯になれば捨てるか、別の場所に移動させる方式を採用した。

四つ目は、「業務用データ」、「趣味的データ」に関わらず、データを「時系列順」に配列することを最大限に活用してきたこと。

最後は、コンピュータを活用することで、「業務用データ」の処理には主にレセプトコンピュータというオフコンを使い、「趣味的データ」の処理には専らパソコンを使っている。オフコンは開業の翌年の1974年から、パソコンは1985年から使ってきた。

この整理法の詳細は、私の(超々)整理法として掲載している。


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1998年 開業26年目 メロディー整理法

メロディー整理法

交野市医師会会報第1号(95年5月)の自己紹介で、最もしたいテーマの第三は「歌のインデックス」を作ることだと書いている。

「歌のインデックス」というのは歌の出だしの部分のメロディーを数字譜で略記する作業である。知っている歌は、出だしのメロディーが分かれば、たいてい残りも分かるものなので、歌の名前にこのメロディー略譜を付けておけば、譜が読める人には便利だと考えた。

このメロディー整理法は、パソコン用に改変した数字譜メロディー略譜abc 略譜に発展した。


腹十二分目でも健康

世の中は健康ブームである。健康に良い食べ物や長寿につながる食べ物が、新聞、雑誌、単行本、テレビなどで、とめどもなく取り上げられ、巷には、健康食品が溢れている。

また、腹八分目に食事をとることが健康に良いと勧められ、それに追い討ちをかけるかのように、長寿の方たちは、長生きの秘訣を腹八分目の食事にあるとお話しになる。そのほかにも、健康のために運動をしよう、アルコールはほどほどにして、週2日間は休肝日を持とう、塩分は控えようなどのキャンペーンが喧しい。

昔、「成人病」と言っていたのが、近頃は「生活習慣病」と名前を付け替えられ、良い生活習慣を続けなければ「生活習慣病」になって苦しんだり、長生きができないと、厚生省や学者先生が脅す。統計的にはそうかもしれない。しかし、統計処理の問題もあり、例外もあるだろう。第一、生活習慣というものは、個人の生き方、つまり人生観に深くつながっているもので、他人に迷惑をかけるのでなければ、その人が望むように生きて良いのではなかろうか?

そこで、一度自分の生活習慣をふりかえってみることにした。それをご披露すると、「医者ともあろうものが」とか、「医者の不養生の見本」と思われるかもしれない。しかし、このスタイルを今のところ変えるつもりはない。だからといって、他人におすすめするわけでは決してなく、真似をされて、責任を取らされるのはかなわないと思っている。


私は少なくとも10年以上、腹十二分目の夕食を取ってきた。食べ物のなかった戦争中や戦後間もなくの時期はもちろん、それから後も、自分の食欲を抑え、腹八分目にして、夕食を我慢したという記憶はない。いつも、物理的にこれ以上食べ物が入らないという状態で、食事を止めてきた。

食べるものはというと、これまた、健康に良いからといって食べるのではなく、好きなものを食べてきた。そして毎晩ビール、350ml缶であれば3〜4缶を、休肝日なく飲む。当然、塩気は十二分に効かすことになる。コーヒーも濃い目のものを、ブラックで、1日最低3杯以上飲む。

また、昔から「早めし、早..、早死に」といわてきたが、私の食べる速度は非常に早い。未だかって、食事の速さで遅れをとった覚えがないのである。早食いするということは、よく噛まずにまる飲み込みすることに近く、私にとって歯は、主に、食べ物がのどを通る大きさに分断するために、存在している。この早食いも、昔からの習慣で、少なくとも30年以上前からそうであった。

このように数え上げてみると、私は健康に良いといわれていることに、ほとんど逆らった食生活をしていることになる。おまけに、運動はまったくしないし、睡眠時間も6時間前後と短い。

結論として、世間で言う健康に良くない生活習慣をこれまで続けてきたことになる。


先にご披露したような生活習慣を続けてきたのだから、その悪影響を被り、不健康で病気がちな生活を送っていると思われるかもしれない。ところが、決して、そのようなことはないのである。

1973年に37歳で開業し、以来62歳の今日までの25年間以上にわたって、一度も病気で休診をしたことはなく、休診は弟の結婚式と父の葬儀の時だけだった。また、体重も余り変わらず、結婚後30年経った今でも、当時の服を着ることができる。といって、診療が暇という訳ではなく、毎日100人近い患者さんの診療をしてきた。また、胃の検査などのため、2、3日に1回の割合で午前8時15分から診療を行って来た。このようにして25年間を過ごして来れたのを、健康であった証拠に挙げても間違いではあるまい。

その他、世間では健康状態を表すのに「快眠、快食、快便」を取り上げるようだが、この指標でもバッチリで、生まれてこのかた、眠れなくて睡眠薬や安定剤を飲んだことはなく、1年の360日は食欲があり、360日くらいに便通がある。

このように書くと鉄人になってしまうが、十年来の五十肩があり、呼吸器系が弱く、風邪をこじらせると喘息が出やすいなど、それほど健康に自信があるわけではない。

検査はほとんど受けていなくて、「医者ともあろうものが」の顰蹙ものだが、昔から、トリグリセライドが非常に高かったのを覚えている。しかし、ここ2、3年その検査もしていない。

以上を総合して判断すると、健康に良くない生活習慣を続けてきたのにも関わらず、今までのところは、その影響はなく、健康であると言えよう。


健康に良くない生活習慣を続けているのに、今まで健康で来れたのは事実である。しかし、なぜそうなのかとなると、自分でも良く分からない。分からないが、それなりの理由づけをしてみようと、いろいろ推量をしてみた。

まず、思い付くのは、生まれつき丈夫にできているのではないか、という点だが、小中高を通じて皆勤賞をもらったこともなく、まずは普通だった。遺伝的には、短命の家系に属し、妹は7歳、母は54歳、父は71歳で亡くなり、肉親は8歳年下の弟がいるだけである。また、両親が肺結核だったせいか、呼吸器系が弱く、30歳頃から約10年間は、喘息で悩まされた。

ただ、消化器系は強く、ひもじい思いをしたことはあっても、食欲がないのは62歳までの間ほとんど経験せず、消化器症状で悩んだ記憶はない。この消化器系が強いというのは、親からもらった恩恵かもしれない。そのため、よく噛まずに、早食いをしてきたのにもかかわらず、胃腸を傷めることがなかったのかもしれない。

この「よく噛まないでまる飲み込みをする」ことにも効用があると、理屈をつけることができる。まず第一に、このように食べる方が美味しい。むしろ美味しいものを食べるときには、自然と早く食べてしまうというべきだろう。食べる快感は、喉を通り過ぎる瞬間にある。くちゃくちゃと長い時間噛んでいると、甘たるっくなって、不味くなり、フラストレーションに陥ってしまう。生きる喜びの中で、食べる快感が大きな比重をしめている者にとって、美味しく食べるということの意味は重大である。

もう一つの効用は、充分に消化されないため、腹十二分目まで食べても肥らないのではないか、という仮説が成り立つことで、やろうと思えば、動物実験で検証できるだろうし、ボランティアに恵まれれば、人体実験も可能であろう。世の中には、「やせの大食い」と言われる人が確かにいるが、これはとりもなおさず、消化能力には個人差があることを示している。このことから類推して、食べ方次第で、消化に差ができると考えても間違いはあるまい。

戦争中、「米」という字には、お百姓さんの八十八種類のご苦労が示されているので、八十八回噛みなさいと学校で教えられ、現在でもよく噛んで食べることが健康に良いとされている。

また、良く噛んでゆっくり食べると、食事の間に血糖値が上がり、脳の満腹中枢を刺激するため、満腹感で食べる量が減らせてやせることができるという理論も、もてはやされている。恐らく肥満対策としては正論であろう。

しかし、私のように食べる快感を人生の重大事と思っている人間には、受け入れられない話だ。しかも、この常識の逆を行っても、結果的に肥満を防ぐことができ、その理由付けも可能だとしたら、なおさらである。

腹十二分目に食べ、物理的にこれ以上入らない状態で食事を止めることを続けているにも関わらず、体重の変動がほとんどない理由として、先に挙げた仮説のほかに、二つのことが考えられる。その一つは、「食事と一緒にビールを飲む」ことで、ここ10年くらいの間、アルコールは専らビールを飲んでいる。それで腹が一杯になり、その割に食事の量はそれほど多くはならないと考えられる。

もう一つは、私の腹筋が強いため胃の膨張が抑えられ、比較的少量の食事でも満腹になるのではないかという仮説である。家内などを見ていると、1週間近く便秘が続いていても、食べる量は変わらない。ところが、私は1日秘結しただけでも、腹が張り、いつものようにはとうてい食べられない。これは、腹筋の強弱で説明するのが、最も合理的であろう。

それでは、なぜ私の腹筋が強いかを考えてみると、歌を絶えず唄っているからではないかと思われる。こどもの頃から、私は歌を唄うのが好きだった。絶えず鼻歌、風呂場では大声で唄う。それも、人に聞いてもらうことを好まず、自分で唄うこと自体が好きなので、つまるところ、いい加減な歌い方である。

この「歌を唄う」ことは、腹筋を強め、食事の満腹摂取量を減らすだけでなく、それ自体が快感であるという効用がある。嬉しいとき、悲しいとき、楽しいとき、寂しいとき、唄うことは、私にとって生きる喜びを感じさせてくれ、歌のない人生など考えることができない。

そのほかに、「腹十二分目の食事」をしながら、体重が増えないのは、「間食をしない」ことも関係しているかもしれない。食べる快感を大切にするが、それをいつまでもだらだら続けるのは、性に合わない。思い切りの悪さ、未練たらしいことが嫌いな性格である。

もう一つ、思い当たるのは「甘いものが嫌い」「油っこいものが嫌い」という体質が、結果的にはカロリー摂取量を減らしているのではないかと考えられる。

私は、こどもの頃から、脂っこいものが嫌いで、肉の脂の部分は、親にどんなに叱られても、頑として食べなかった。それと同じくらい、魚のはらわたの部分も嫌いで、62歳の現在でも変わることなく、一切食べない。

今まで健康に良い悪いとは関係なく、自分が好きなものを食べ、嫌いなものは食べずにきたが、検討してみると健康に良いと言われているものが多く、悪いといわれているのは、塩分の取りすぎ、香辛料の取りすぎくらいのようだ。このことから、妙に自信がついてしまい、好きなものを好きなように食べることに、何のためらいもなくなっている。

食べ物、飲み物の温度についても、これまた医学常識に逆らうように、熱いものは火傷をするほど熱く、冷たいものは限りなく冷たいものを好む。

最後に、意識して健康のために心がけていることがらをご紹介したい。その一つは、たくさん水分を摂取していることで、麦茶、ウーロン茶がほとんどだが、暇さえあれば補給している。これは20年ばかり前の夏、クーラーを効かして、数時間以上水も飲まず、トイレにも行かず、診療時間変更案内のはがきを書き続け、その結果尿路感染症になった反省からで、以来、積極的に水分補給を心がけるようになった。

もう一つの医学常識に適った生活習慣は、タバコを吸わないことである。20歳から10年間はヘビースモーカーで、最後の頃は1日50本以上吸っていたが、上室性期外収縮という不整脈が頻繁に起こるようになり、タバコを断って30年余りが過ぎた。このことも、健康に良い影響を及ぼしているのかもしれない。

以上、「健康に良くない生活習慣を続けているのに健康である」理由をいくつか並べ立ててみた。しかし、ここまで書いてきて、「自分の好きなように生きてきた」ことや、「自分が決めたタイム・スケジュール、タイムリ・ミットに間に合うようにしてきた」ことの方が、より大きく関係しているのではないかという気がしている。

また、健康そうに見えているが、深いところではじわじわ病魔にむしばまれていて、今が最後の健康に見える状態である可能性を否定することはできない。なにしろ、医学部を同期に卒業した80名のうち10名が既にこの世を去っているのだから。そうなれば、やはり悪い生活習慣の末路はこのようなものと、教訓にしていただければありがたい。

健康に良くないといわれる生き方をしてきても、結果として、健康であるケースを報告し、その理由を考えてみた。しかし、これはあくまでも特殊なケースであることを強調しておく。


妻の入院手術

結婚して30年間、お産以外では入院したことのない妻が、手術のために入院することになった。これは我が家にとって重大事件である。

妻は83年から、右の耳の中に水が溜まる滲出性中耳炎になり、星ケ丘厚生年金病院で1年間、鼓膜を穿刺して、水を抜いてもらっていた。翌年、阪大病院を受診し、S耳鼻咽喉科を紹介され、ここで鼓膜にチューブを、年1〜2回入れていただき、ほとんど、正常に近い聴力で生活することができて喜んでいた。

しかし、4〜5年前から聴力が落ち、3年前にはチューブから、絶えず濁った液体が垂れて出るようになり、最後は、チューブを入れることもできなくなった。右耳が聞こえ難くなり、そのことに苦痛を感じ始めたため、今年の2月には手術をしていただくことに決まった。S先生のお話では、2〜3日の入院で済むが、5月の連休明けまでは多忙なので待って欲しいと言われ、待つことになった。ところが、7月に入って「手術ができなくなったので、他の先生を紹介をする」と言われ、後輩のA先生宛ての名刺を下さった。

紹介していただいたA先生の診察を受けて、帰宅した妻はすごく落ち込んでいた。手術には2〜3週間の入院が必要と言われたからである。S先生の「手術した後、2〜3日は入院してもらいます」という話とは大違いなのに私も驚いたが「手術を慎重にしてくれはるんやろ、この際徹底的に治してもらう方が、いいのと違うか」と慰めた。

3月にS先生にお目にかかった時、手術について伺ったら、耳の中から手術をすると言われたが、A先生はやはり耳介(耳たぶ)の後を切開する方法でされるのだなと思った。今から35年ばかり前の、医師になりたての頃、何度か耳鼻科の全身麻酔をかけたことがあり、その時は、何時もこの切開法だったからである。

全身麻酔で耳の手術を受けると聞いた妻の親兄弟は、非常に心配した。昔、妻の兄の親友のKさんが、東京の会社に就職をして、そこのある病院で耳の手術を受けたところ、麻酔が覚めず死んでしまった。そのことを誰もが良く覚えていたのである。「大丈夫?Kさんのようにならへん?」と、何度も同じ質問を受けた。

もちろん、一番心配しているのは手術を受ける本人で、心配しいファミリーの中でも、飛び抜けて心配性だから「生きて帰って来れへんわ」と何回も言い、手術を止めかねない状態である。挿管して行う全身麻酔が一番安全であることをくりかえし、くりかえし説明し、たまに帰って来た愚息にも説得を頼み、何とか予定通り手術を受けることになった。

手術日は9月10日と決まり、その1ヶ月以内に検査を済ませて置かなければならないので、夏季休診の期間を検査に当てることにし、海外旅行は取り止めにした。また、18年間放置してきた家の中の壁紙やカーペットを、今年は取り替えるつもりで、銘柄の選択も終わっていたが、これもキャンセルした。

手術の後で臨時休診をすることにして、夏季休診は8月13日から17日と短くした。A先生は開業されていて、手術は大阪市内のOK病院でして下さるので、術前の検査もこの病院で受けるのだが、この総合病院は午後からも診療があり、夏季休診の前に検査を済ませることができた。

そうなると、「この休みを無駄にすることはない、どこかへ行こう!」とJTBを訪れ、翌日から「鎌倉、横浜1泊2日の旅」を楽しんだ。天候も、その他何もかもうまく行き、小さな幸せを味わうことができた。

9月10日から15日まで、臨時休診することにして、その2週間前から、休診の日程表を患者さんにお渡しして行った。すると、間もなく「野村先生とこ、えらい長ごう休みはるそうやで」と、人から聞いたと言って、何人かが予定日よりも早く来院された。

しばらく経つと、「15日間も休みはるそうやから、早よ行っとき」と言われて来られた人があり、「1ヶ月も休んで、先生、世界漫遊旅行でもしやはるんですか?」と、受け付けで尋ねている大きな声が診察室にまで聞こえてくる。

人の噂は、ことほど左様にいい加減なものである。そのことを、今回つくづく実感した。そういう訳で、休診の理由を話した患者さんは、わずか2〜3名で終わった。耳の手術が脳腫瘍の手術に変わり、最後は危篤と伝えられる恐怖を感じたからである。

8月30日、日曜日の午後10時10分に、義父から電話があり、義母が突然倒れ、自分で布団まで這って行ったと知らせてきた。私は悪い予感がしたので、とりあえず自分が様子を見てくると言う妻を制して同行した。大腿頚部骨折でなければ良いがと思いながら家に着くと、右上肢がほとんど動かず、右下肢は動かせるが、体を支える力はなく、話す言葉がほとんど分からない。明らかに脳卒中で、症状の軽さから考えて、脳梗塞の可能性が強い。義兄と連絡をとり、星ケ丘厚生年金病院に緊急入院させて頂いた。入院後の検査では、予想通り脳梗塞であった。

妻はそのまま付き添って病院に残り、私は午前2時過ぎに帰宅した。全く思いがけないことのため、明日からの診療の準備を私がしなければならない。そういう訳で、妻が入院してからするはずの仕事を、10日早く始めることになった。おまけに、妻の入院日まで、検査の予約を全部取ってしまっていたので、8時15分から胃透視などをしなければならず、これには参ったが、致し方ない。妻は開業以来、看護婦・レントゲン技師・薬剤師・受付事務員・雑役婦の仕事を受け持ってきた。その仕事を引き受けてみて、野村医院は二人で作ってきたのだ、ということを改めて思った。

妻は、入院するまでの10日間のうち、4夜星ヶ丘厚生年金病院に泊まり込み、そうでない日も、ほとんど病院に出かけていた。当然、その分こちらの負担も増えるわけだが、義母が倒れた時から、これは「天が私たちのために与えてくれた、妻の入院の予行演習だ」と思ってきた。予期していないことが起こった時、困惑はするが、それに対処する過程を、どこか楽しむ習性が、昔から自分にはあるように思う。

手術間近に、予期せぬ義母の入院が重なり、いささか暗い気持ちになっていた9月1日の朝早く、バラの花束が届けられた。開業以来の患者さんで、飲み友達、最近ではメール友達でもある I さんからの贈り物である。同時に開院25周年を祝う彼からのメッセージも、Eメールで届いていた。 気の重いことが続いていた私ども夫婦にとって、この25本のバラの花束は、例えようもなく嬉しく、ありがたかった。早速、花束を待合室に飾り、デジカメで撮影した画像を、お礼のメールに添付した上、ホームページにも掲載して、その喜びを表した。

バラの花束で喜んだ翌朝、水道使用量の異常増加を指摘され、水道屋さんに調べてもらったが、漏水個所は不明。結局、水道管の通っているコンクリートやタイルの部分を、はつらなければ分からないということになった。

前回の使用量80立米、今回250立米と3倍以上である。余りにも大量なので、使わない時は元栓を止めることにした。寝る前に門の近くにある止水栓を止め、朝起きると同時にこれを開く余計な仕事が増えてしまった。

妻が、母親の看病のため病院に泊り込んでいる状況での、この追い討ちだ。二度あることは三度ある、悪いことは重なるというが、本当である。しかし、四度ということは聞いたことがない、これからは、逆に良い方に転じるのだろうと思うことにした。

交野市医師会のパソコン同好会は毎月第2土曜日の午後に例会を開いている。9月の例会で、ちょうど満2周年を迎えるため、2年間の例会で使ったテキストをまとめることにした。義母が脳梗塞で緊急入院したため、妻の居ない時間が大幅に増えたのを活用して突貫作業を行い、9月4日午後に版下の印刷を完了した。

そこで、印刷所に電話を入れ、例会に間に合わせてもらうことになった。私はこれから良いことが始まると喜んだが、OK病院で麻酔のための検査を受けて帰ってきた妻は、すっかりしょげている。手術のために、耳の上を3cmの幅で剃毛しなければならないと告げられた、それは困ると言うのだ。

翌日5日、妻は美容室に出かけた。手術のあとは髪を下ろし、耳の後ろの剃毛された部分を隠すことに決めたようだが、そのためには、パーマを当てておく方がうまく行くらしい。それから2時間ばかり経った頃に、電話があり、買い物をしたから迎えに来て欲しいというので、駐車場で待っていた。まもなく、女性が出てきて、立ち止まってこちらを向いているのに気が付いたが、見覚えはない。誰かを待っているのだろう、と思っていると、手を振り出した。慌てて車を近づけ、「何で来ないのよ!」 「プードルみたいな頭して、分かるわけわけないやろ!」、で一件落着した。

思えば、妻の髪を下ろした姿は新婚の頃に限るようで、その他は、全て髪を束ねている。開業した頃は、患者さんに、「奥さんの気持ち良う分かるわ、忙しいから、髪なんか構う暇ないもんね」と、よく言われていた。たてがみを振り回し、慌ただしく買い物をしては、疾風の如く消え去るのを見ての、同情の声だった。それが何時まで経っても変わらないのを知ってか、近頃は、誰も何も言わないようだ。

妻の名誉のために言っておくが、彼女も何度か、ヘアスタイルを変えようと試みてきた。しかし、その度に、「何やその髪、似合わん、いつもの方がええ」と、即座に言われるので、その内に、自分でも他のヘアスタイルは駄目だと思い込んだのかもしれない。だから、妻のヘアスタイルは、「亭主の好きなポニーテール」というところだが、55歳でポニーテールは可笑しいし、佐々木小次郎スタイルも変だ、何と呼べば良いのだろう?

9月6日、日曜日は、市長選挙の公示日である。今回はじめて、不在者投票なるものを夫婦そろって経験した。昼前に、市役所へ出かけてみると、手続きはあっけないほど簡単で、知った人と顔を合わすこともなく、これから後も利用したいという気持ちになるほどである。その日までは、面倒そうな気がして、不在者投票をするくらいなら棄権しようと思っていたのだから、妻の入院は、こんな効用も与えてくれたことになる。

9月7日、月曜日の朝から水漏れ個所を調べるため、コンクリート部分をはつり始めた。とりあえず、医院の部分でなく、居宅の部分からの漏水であることは分かった。これで、タイル部分をはつる必要がなくなったのは良いが、それから先がなかなか進まない。騒音だけが喧しく、水道屋さんも、暑い中で苦労している。私も気が気ではない。

午後6時になって、ようやく漏水個所が突き止められた。バンザ−イ! 勝手口の土間の部分もはつられているので、台所内は何やら土臭く、かび臭い空気が充満している。床も壁も白い粉が一杯だ。しかし、今夜から止水栓の開閉作業をしなくても済むのだから、これでも、「御の字」である。

入院を控えて、懸案が次々と解決されて行く中で、91歳の老女のことだけが最後まで残った。この方は、8月末から食事をほとんど摂らなくなり、ずっと往診をしてきた。高齢のため、家族は、このまま自宅で死なせてあげたいと言われるが、もっともなことなので、最後まで診させていただくつもりだった。しかし、もう余り長くは生きられない、と愚診したのが外れ、入院の日が近づいてきた。そうなると、入院以後まで生きておられたらどうしよう、という不安が日増しに募ってきた。

9月7日の早朝、様子が変だから診て欲しいと電話があった時には、不謹慎にも助かった!、と思って駆けつけた。しかし、医師が人の死を願うという、この罰当たりな思いは、すぐさま、打ち砕かれた。水も少し飲めるし、血圧も110/64ある、そんなに悪い状態ではない。困った、今さら入院というわけには行かないし、枚方市春日という隣村なので、他の先生に往診をお願いするのも申し訳ない。行けるところまで行くしか仕方あるまい。

患者に一番近い場所で開業されているM先生に、最後はお願いしなければならないだろうから、紹介状も書いておいた。入院する直前に、携帯電話の番号を患者の家族に伝えておこう、しかし、妻が入院するOK病院の入院案内には、携帯電話の使用はご遠慮下さいと書いてある、どうしよう。そのようなことで頭が一杯だった。

9月8日午前10時50分、診察をしている最中に、呼吸が止まったとの電話があり、診察を中断して駆けつけた。老女は安らかな顔をされ、大往生を遂げられていた。苦しまれることは全くなく、自然のままにこの世を去って行かれたのである。亡くなられた方に手を合わせながら、このような別れかたのできる人は、本当に幸せだと思った。 往診からの帰り道で「天は我を見捨て給わず」という、いつもの、自分に都合の良い考えが頭に浮かび、心軽く車を走らせた。人の死を喜ぶとは、何という医師だ! この罰当たりめが! しかし、これは「タイトロープを何とか渡らせてもらった」という感謝の気持ちであると、お受け取り願えないだろうか?

9月9日、いよいよ入院の日である。入院の日が決まった時、験を人一倍担ぐ妻は、苦が二つも重なることを非常に嫌がった。それを伝え聞いたある先生は暦を調べて、その日は「先勝」だから朝の間に入院すれば良いことがある、と教えて下さった。お陰で妻はそれを喜び、苦苦を忘れてしまったようである。

JRの河内磐船駅まで送る車の中での会話、「荷物が重い、こんなの持って歩いたら、痔が出そう」 「そんなら、後で痔の坐薬を持って行ったろか?」 「それはいらない。それやったら、ここんとこ便が出てないから、テレミンソフトを持って来て」30年も連れそうと、何とも色気のない話になるものだ。入院の日の朝は、一波乱も二波乱もあるものと覚悟していたが、義母が入院し「入院の予行演習」で疲れた妻には、そんな余裕もなかったのか、あるいは覚悟ができたのだろう。いずれにしても、良かった、助かった。

工務店の人が、先日のはつった個所を補修してくれた。漏水騒ぎも落着し、新しい止水栓が二個所増え、前より状態は良くなった。準備完了である。さい先は良さそうだ。

夜の診療を終えて、大急ぎで片づけをしているところへ電話が入り、愚息が病室に来ているから、即刻来るようにと厳命された。我が家の力関係は巴になっていて、妻>私、私>愚息、愚息>妻である。愚息に弱い妻は、愚息が来ているのだから、私が来て当然だと思考回路が働くようだ。手術前夜の気持ちの昂ぶりを、これ以上増やすのはまずいので、ここは素直に従った。

病室に入ると、妻は意外と落ち着いて、愚息と談笑している。これなら安心と、愚息が帰るとすぐに寝ることにした。入院申込の時に、バス、トイレ、ソファーベッド付きの部屋を頼んだようで、確かにソファーはある。しかし、背もたれが倒れない。これではソファーであってソファーベッドではないと思ったが、面倒くさいので、そのまま寝てしまった。大学にいた頃は、よく詰め所の椅子を並べて寝たし、ストレッチャーの上で寝たこともある、地下の実験室でイヌの手術をした後、手術台でも寝たことなどを思い出した。それと比べれば、このソファーは格段に寝心地がよさそうだ。

この病室に入った時、「ああこれで、しんどいことから暫く解放される」という喜び、安堵感がこみ上げてきて、正直ほっとした。そして、手術の前夜でありながら、すぐに眠ってしまった。後で聞くと、妻も入院した時には同じような気持ちになったようだが、心配性だからレンドルミンを1錠投与されても、よく眠れなかったようである。

翌朝ナースに尋ねると、やはりこれはソファーベッドであることを、実技で教えてくれた。背もたれを後ろに倒すには、一旦前に倒してロックを外してから、後ろへ倒せば良いというのだ。ごもっとも、浅はかでした。

それを見ていた妻も言った。「ディスポの注射器の針のキャップと同じやね、引いて駄目なら押してみな」昔、私が教えたことを、ここに来て教えられた。情けない。

9月10日の朝が来た。午前8時に、妻はストレッチャーに移され、9時から手術は始まった。12時5分に手術終了との連絡が入り、12時10分に帰室してきた。帰るなり、着がえや導尿をするからと、部屋の外に追い出され、それが終わると、今度は、何か話してあげて下さいと部屋に呼び入れられた。

妻は酸素マスクをつけ、これ以上の苦痛はないという顔を続けている。「経子、目を開けて」と呼びかけると、ゆっくり瞼を開けたが、死んだ魚のようなうつろな目をして、すぐ目を閉じた。

12時20分に、執刀してくださったA先生と、この病院のS部長先生が一緒に来られ、手術の説明を約15分かけてして下さった。予想以上に病状は進んでいて、手術は困難で、たっぷり3時間かかったとのお話だった。

12時45分頃から「おしっこ、のどが痛い、頭が痛い、セデス」を繰り返すようになった。相変わらず、苦痛の顔を続けている。こんな顔を続けていれば、皺に刻み込まれてしまうのではないかと心配になってきた。

13時を過ぎる頃から、私の居ることが分かって、「パパ痛ーい」「おしっこ」と言うので、「導尿して、ちゃんとおしっこは出てるから大丈夫」と言うと、「いやーん」と、まるで子供だ。そのうちに、酸素マスクをしているので、薬が飲めないことを理解したのだろう、「痛いー、坐薬!、坐薬を入れて!」に変わった。13時15分に、ナースが挿入しようとすると、「何ミリ?」と聞く。ナースは苦笑しながら、「25ミリですけど、何時もは何ミリをお使いですか?」と尋ねている。「25ミリでは効かへん」と言っているが、ナースに目配せをして、そのまま挿入してもらった。

それが終われば、頭を上げろと言い、寒いと言うので手を握ってやると、「暖かーい」と言って強く握りかえされた。2〜30分くらい握られていたら、手がしびれてきた。見ると手の色が変わっている。妻は職員の中でも一番握力がないのに、この時は、馬鹿力が出たようだ。手を放すと、「寒い、寒い!」と訴え続ける。クーラーを止め、掛けてていた電気毛布の温度を上げた。

14時20分には、いびきをかき始めた。坐薬の効果が出てきたのかもしれない。少しおとなしくなり、痛みを訴える回数も減ってきた。50分からは、手を傷口に持っていこうとするのを、何回か抑えなければならなかった。

そして、15時40分、「暑い!」と叫んで、妻は目を覚ました。毛布を取り除き、クーラーを入れると、この時から、まともな会話が始まった。30分ほど過ぎた16時10分に、義弟の妻の三知子さんと娘の祐子ちゃんが見舞いに来てくれた。グッドタイミングというのは、このことを言うのだろう。15分には、導尿のカテーテルと点滴が取り除かれ、楽そうになった。「お義兄さん、お義姉さんを見てますから、お食事をしてきて下さい」の言葉で、急に空腹を思い出し、大急ぎで食堂に行ってカレーを食べて駆け戻ってきた。その間10分足らず。早食いは、私の特技中の特技である。

妻は、二人が来てくれてから、見違えるほど元気になった。彼女たちは、20分ばかりおしゃべりをして、帰っていったが、ハム、ツナ、エッグの3種類の、手作り一口サンドイッチを持ってきてくれていた。この時の嬉しかった気持ちを、今も思い出す。

18時には酸素吸入、吸引装置、心電図モニター、点滴も全て取り外された。坐薬挿入以来、痛みも余り訴えない。声もそれほどかすれていない。「生きて帰れて良かったな」 「うん、そやけど麻酔の後がこんなに苦しいとは思わなかったわ」 「鼓膜の中は、ゴムみたいなものが一杯詰まっていたと言うてはった。そやから、手術は3時間バッチリかかったそうやで」 「そう思うわ、ずーと耳、聞こえんかったもん」

ここで、A先生から伺った手術の説明をまとめておく。専門外のことなので、聞き違えているところもあるかもしれない。チュービングができなかったのは残念だが、それは病状がそれほど進んでいたのだから致し方なく、非常にていねいな手術をして下さったと感じて、ありがたく思った。

1)予想以上に鼓室内はゴム用の分泌物で充填されていて、その剥離除去のために、手術は正味3時間
  かかった。粘膜をかなり傷つけたので再生にかなり時間がかかるだろう。
2)耳小骨は融解されず残っていた。
3)神経に損傷を与えていない。
4)炎症による鼓膜の肥厚が強かった。シートを入れておいた。
5)聴力の回復の経過がよければ、シートを残して置いても良い。耳管の入り口の塊を除いたので耳管は
  機能するかも知れない。もしも機能しなければ、チューブを入れないなら、また水が溜まるとか
  鼓膜が陥没するだろう。
6)鼓室内に、チューブを入れる余地は無かった。鼓室にスペースができるようなら、チュービングも
  可能。その場合は、シートを抜いてからチュービングを行うことになる。
7)鼓膜の約半分に筋膜を移植した。移植が完了するまで3週間要する。
8)抜糸をして耳栓を取るまでは、耳に水を入れなければ入浴可能。耳栓を抜いてからは通院も可能。
9)聴力の回復には、移植した鼓膜が薄くなるまで最低3ヶ月はかかるだろう。

昨夜はソファーベッドで寝たので熟睡できた。ただ、6時に検温があると思うと、5時過ぎには目が覚めてしまう。妻も良く眠れたようだ。少しふらつくが歩けるので、10時頃ガーゼ交換に来るようにとの指示があり、私が付き添って処置室まで歩いて行った。ところが、処置の途中で顔面蒼白となり、嘔気を訴え、車椅子で病室に帰る羽目になった。

病室に戻っても、数回胆汁様の液体を吐き続け苦しんだ。S部長先生が外来診療を中断して病室に来られ、眼球振盪の有無を検査され、耳からの吐き気でないと言われた。妻は、手術した耳に影響しないかと心配するが、それも大丈夫と言って下さった。思うに、これは初めて少し長く歩いたので、いわゆる脳貧血を起こしたのだろう。しばらくして眠ってしまい、目が覚めたら、すっかり元気になった。

今回の入院の記録をメモ書きしてきたが、普段はパソコンで書いたり、整理したりしているので、不便なことおびただしい。無ければ余計に欲しくなるもので、妻が落ち着いたのを幸い、ノート・パソコンを家から持って来ることにした。パソコンだけでは帰る理由が弱いので、ついでに洗濯もしてくると言って許可をもらい、喜び勇んで帰宅の途中、携帯電話が鳴った。電話はKA先生からだった。パソコンを取りに帰る途中の車の中で、電話を受けていることを告げると、苦笑されている気配が伝わって来る。病室にはエレクトロニクス機器はないので、携帯は常時使えるから、連絡はこれにして欲しいと頼んでおいた。

妻が入院するまでは、干してある洗濯物を取り込むくらいが私のできることだった。しかし、今度は自分が洗濯しなければならない。ちょっと面倒かなと思っていたが、調べてみると、洗濯機に洗濯物を放り込み、洗剤を加えて蓋をして、スタートボタンを押すだけのこと。我が家の男どもは、「洗濯気違い」「掃除気違い」にずいぶん閉口してきたが、掃除はともかく、洗濯なんて簡単!簡単! これなら「洗濯気違い」にもなれるだろうと納得した。そして、以後毎日自宅に下着やタオル類を持ち帰り、苦もなく洗濯をし、それを病院に運んだ。

術後2日目の12日土曜日になると、妻もかなり落ち着き、処置が済んでも吐くことはなくなった。経過が良いのか、ドレーンを抜いて下さったとのこと。私はと言えば、昨日家から持ってきたノート・パソコンがあるので、退屈せずに過ごしている。これまで専らデスクトップのパソコンを触ってきたので、いろいろな違いが新鮮で面白い。その様子を見ていた配膳の女性に、「旦那さん、ここでお仕事ですか? 大変ですね」と言われたのにはちょっと驚いた。

27年前の大学病院にいた頃と、術後管理のツールに違いは余りないようだが、心電図をテレメーターでモニターしていることと、点滴用に静脈留置針を使っていることは進歩だと思った。点滴の度に、静脈に針を刺される苦痛がないのは、患者にとって非常にありがたい。その留置針が本日凝血して詰まってしまった。これからは、旧来の方法に戻るわけである。

奥さんが入院で、あの食いしん坊は困ったのと違うか? そんな興味を持たれた方もいらっしゃるかもしれない。義母入院以来、まともな食事にありついていないのは確かだが、もともと、食欲の塊のような人間だから、ある程度以上の食べ物なら苦にはならない。インスタント食品にこれほど美味しいものがあるのかと驚いたり、ほかほか弁当の中には、思いもよらぬ美味いものがあることも知った。しかし、つくづく思ったのは、独りでたべる食事の味気無さだった。

それがアルコールとなると、味気ないを通り越して、独りで飲みたいとは絶対に思わないことを知った。あの好きなスーパードライが、冷蔵庫の中に横たわっているのを何度見ても、触れてみる気も起こらなかった。私には、独り酒、悲しい酒は無縁である。ともに飲む酒、楽しい酒こそが酒なのだ。

妻が入院中は、病院の食堂、売店、周辺の食べ物屋、ほかほか弁当屋などを回って、そこそこの満足は得られた。しかし、そのような中途半端な満足ではなく、たまらなく美味くて嬉しさ一杯で食べた店が一軒ある。「大淀信州そば」という店だ。病院の近くで偶然見つけて入ったこの店は、土曜日の夜8時近くだったためか、客はだれも居なかった。

若いきびきびしたお兄ちゃんが運んで来た「ざるそば」は、正真正銘のそば。そばつゆも全部飲み干し「ここのそば、美味しいですね!」と思わず感想がもれて出た。お代を聞くと490円の返事に「安い!」と叫んでしまった。月曜日の正午前にもう一度出かけたら、店はすでに中年の男性で満員に近かった。今度はもちろん「大盛り」にした。

私がそばを食べていた頃、S部長先生が来室され、16日に抜糸をするので17日に退院してもらっても良いと言われたそうだ。21日から毎日通院し、耳に水を入れないように、洗髪はパーマ屋でしてもらうことなどの条件はついているが、最初は2、3週間入院と聞いていたので、大幅な短縮に、二人とも大喜びである。

14日月曜日に梅田に出かけて、携帯電話に接続するモデム付きのPCカードを購入し、ノート・パソコンに接続した。愚息が前日、携帯電話をパソコンにつなぐことができると教えてくれたので、早速実行した次第。さすがに若い者は、このような情報を良く知っている。彼らは、いろいろなコミュニケーション・ツールを活用する天才だ。

インターネットに接続し、ホームページを眺めた後、Eメールを送ることにした。メールアドレスを持って来ていなかったが、覚えやすい名前の3名に送信したところ、2名から返信があった。これからは、携帯電話の使えるところなら、全国どこに居てもインターネットを活用することができる。このことを知ったのも、妻の入院の効用の一つとなった。

15日の敬老の日、妻と二人で今回の入院のことを話していた。大騒ぎをし、心配したり焦ったりもしたが、今は何か楽しかった気がする。特に、入院してからは、義母の看護や診療から離れてほっとしたこと、将来二人が暮らすには、この病室くらいの部屋で充分であることも同じ思いだった。私は幼かった頃、近所の女の子としていた「ままごと遊び」をなぜか思い出していた。もう一つ思い出したのは、私たちが婚約した頃、義母が二人がいて、黙っていても良いのは夫婦だけと話してくれた言葉である。

その義母も、今は脳梗塞で入院している。退院すれば義母の看病が待っている。鼓膜の移植の成果が分かるのも2週間先、聴力の回復が分かるのは3ヶ月後である、再手術があるかもしれない。しかし、私たちは良い経験をさせて頂いた。たとえ、聴力の回復がかんばしくなくても、今回手術を受けたことを感謝し続けるだろう。

次から次へと不運に見舞われたが、それらが何とか解消され、最終的には良い経験ができたことをありがたく思うようになった。まこと、「運は時なり」である。


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1999年 開業27年目 携帯電話でEメール・転送メール

携帯電話でEメール・転送メール

この年の夏、北海道へ旅行した際に、携帯電話でEメールの送受信を行った。それまでは、旅行先でのEメールはノートパソコンを使っていたので、便利この上なし。詳しくは携帯電話でEメールに記載。また、プロバイダに届いたEメールを携帯に転送することで、使い方が飛躍的に良くなったこと報告した。


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2000年 開業28年目 掲示板 BOWのひとりごと 開設

掲示板 BOWのひとりごと 開設

この年の1月に掲示板 BOWのひとりごと を開設した。その3年前に、掲示板 BOW-BBS を開設したことがあり、書き込みが殺到し、オフミまで行ったが、メンテナンスに手間がかかることのほか、早い段階から、井戸端会議のようなマンネリに陥り、生産的でなくなったので、早々に閉鎖した。

こんどはASAHIネットが作る掲示板で、メンテの負担が少なく、ASAHIネットのIDがなければ書き込みができないため、書き込みメンバーが絞られてくる。無差別な書き込みの欠点を経験してきたので、このことはむしろ好ましく思えた。

この掲示板が、私にとって非常に重要なものであった。その最大のものが、12年間、絶えることなく支えてくださったメンバーの存在である。

歌のデータベース歌の曲名検索歌と思い出」の歌の3部作、クラシックデータベースクラシック曲名検索」、心に生きることば」をまとめることは、50代後半からの私の大きなテーマだった。

71歳からのオマケの人生に入って、もうひとつ、何が何でもまとめておきたいテーマが生まれた。孫娘3歳までの成長記録である。

それらの文の掲載を、この掲示板で報告すると、間髪を入れず、丁寧に読んでくださった上、こと細かく、コメントをつけてくださる。それも、ユーモアあり、からかいあり、イチビリありの楽しいものばかりだった。このコメントがどれほど嬉しく、力づけられたことか、、、ほんとうにありがたかった。


唐辛子と私

この年の5月の連休に、医師会の会員親善旅行で韓国に行くことになったが、韓国に行くまでは、キムチがどれほど辛いか味わってこようか、といった程度の期待しか持っていなかった。

それというのも、韓国の釜山へ何回かゴルフに行ったことのある医師会の先生たちに、料理は不味い、食べたら下痢をする、ご飯を炊いた後の釜に水を入れてお茶にしている、街は汚い、ニンニクやキムチの匂いが満ちている、と聞かされていたからである。

ソウルに行ってみると、それらがことごとく違っているだけではなく、ここが人口1,500万人の活気あふれる巨大な近代都市で、韓国自体も目覚しい発展をとげていることを目の当たりにしていろいろ考えた。その中で、自分に関係したことで考えたことをまとめておこうと思う。

韓国に行って食べたキムチは予想したほど辛くはなく、日本人向きにマイルドに調理しているのかと思うほどだった。しかし、同行者には激辛だったようで、悲鳴を上げる者もいた。

そうなると、私自身が韓国人並か、それ以上の唐辛子好きということになる。同行者の一人から「先祖は韓国と違うか」と言われたが、親からそのような話は聞いていないし、どんぐり目、四角顔、ずんぐりむっくりの顔かたちは、東南アジア系であっても、韓国系とは考えられないのである。

韓国旅行から帰って、キムチについて調べていると、キムチは13世紀初頭にそのルーツの記載があり、1409年には「キムチ」という言葉の記載もあるが、唐辛子を加えるようになったのは、わずか300年前からであるということを知った。そして、この唐辛子は、コロンブスが中南米から持ち帰ったものを、ポルトガル人が日本に伝え、秀吉の朝鮮出兵の際に韓国に伝わり、倭から来た芥子ということで「倭芥子(ワゲチャ)」と呼ばれたということも勉強した。

それでは、同じ時に伝えられた唐辛子が、日本では広まらず、朝鮮半島では、まるで固有の産物であるかのように全土に広がったのは何故かという疑問が出て来る。同時に、私が韓国人以上に唐辛子好きになったのは何故だろうという疑問も湧いて来た。

私は、うどんややそばの場合、液面全体に広がる程度に一味唐辛子を振りかける。しばらくして胃のあたりが熱くなるくらいの量が心地よく美味しいのだ。他にもたっぷりと一味を使うのは、例えば鰹のタタキ、ふぐの湯引き、焼きギョウーザ、鍋物などがある。

以前激辛がブームだった頃、激辛スナック菓子を食べたことはあるが、本当のところ、あの手のものは余り好みでない。これより辛くても一向構わないが、味が濃厚過ぎるのだ。キムチなども、いくら辛くても良いが、スッキリしない味のものには食指が動かない。

香辛料の中でも唐辛子は香りが少ないという特性がある。どうも私は香りと味が淡白で、辛みの強いものが性に合うような気がする。例えば「TABASCO」などは猛烈に辛いが、好きだ。

香辛料は好きな方だが、他人の理解を越えるほど大量に使うのは唐辛子で、通常の5〜10倍、それに次ぐのは胡椒の3〜5倍、柚子こしょうは2倍、ワサビやカラシ、マスタードは1.5倍、生姜は1倍、山椒は0倍というのが大雑把な使用量である。

これでお分かりのように、からだが熱くなる、胃が焼けるタイプの香辛料が大好き、ワサビのように鼻の奥にキューンと来て涙が出るタイプのものは、好きだが過量には耐えられないし、山椒のようなしみる感じの香辛料は嫌い、と大別できる。

唐辛子はもちろん単味(一味)が良い。七味唐辛子しかない場合には、これも使うが、混ざっている別の香辛料が食べ物の味を変えること、嫌いな山椒が含まれていることが、七味唐辛子を敬遠する理由だと考えている。

私がこれほど唐辛子好きになったのは何故なのか? もちろん、もって生まれたものもあるのだろう。しかし、親兄弟がそれほど唐辛子好きだった記憶はない。

環境はというと、一つ思い当たることがある。インターンを終えて大学の外科の医局に入り、1年の研修の後、神戸の川崎病院の外科に出張勤務したが、そこの医長が酒好きで、話し好きだった。名前は中西熊蔵といい、私はその人が好きだった。気難しいところのある先生で、15歳くらい年上だったが、どこか馬が合うのか可愛がってくれた。

そこでは、診療が終わると決まって酒盛りが始まり、看護婦や女子事務員と一緒に、この先生の話しを聞く。それは楽しみだった。従軍していた頃の満州の話が多かったように思う。この先生が無類の唐辛子好きで「朝鮮人がびっくりするくらい」を口癖にして、驚くほど多量の唐辛子をふりかけるのだった。私が韓国人よりも辛いものを好むルーツはここにあるのかもしれない。

しかし、これだけでは唐辛子好きになった説明にはならないと自分でも思う。やはり、唐辛子を好む体質、性癖があるのだろう。

食べ物、飲み物で言うと、辛いもの以外にも普通の人とかなり好みの違うところがある。熱いものはあくまで熱く、口の中が焼けどをするくらいが良い。冷たいものはあくまで冷たく、舌がしびれるくらいが良い。スーパー・ドライは、あのピリピリ感が良いし、酒は超熱燗のピリピリが良い。こう書いてくると、あくの少ない単純な味で、刺激の強いものを好むという性癖が炙り出されてくる。

このような刺激の強い食べ物を好む性癖があるとしても、これに耐えられる頑強な胃がなければ、話にならないが、幸いなことに、365日の内で364日は食欲があり、不調を覚えたことはないという丈夫な胃を、親からもらっている。これも唐辛子好きになることを、陰で支援してくれたことになるだろう。

私は、ラテン音楽を好み、ラテン系の画家の作品を好み、ラテン民族の生き方を好む。そのラテンの地、中南米からコロンブスが持ち帰ったのが唐辛子であり、そして代表的な唐辛子文化は、メキシコなどの中南米やスペインなどのラテン系諸国に見られる。そういえば、今回の韓国旅行のガイド・ブックのどこかで、韓国は東洋で唯一のラテン系の国であるという記事を読んだ。

ここに来て、なぜ私が唐辛子好きなのか、なぜ韓国で急速に唐辛子が普及したのかの答えを得たような気がする。共通のキー・ワードは「ラテン」。韓国旅行は私と唐辛子について、考える機会までも与えてくれたのだった。


歌のデータ・ベース 1000曲
自分が好きな歌、思い出の深い歌を中心に、好きではないが、日本人好みの歌も少し加えた。詳細は!

歌の曲名検索
ジャンル、日本語曲名、欧米語曲名、歌い出し歌詞、歌い出しメロディーから検索できる。詳細は!

医学学術論文目録
自著論文10、共著論文19、学会発表(演者として)24、学会発表(共同演者で)34。詳細は!


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2001年 開業29年目 エーゲ海クルーズ

不思議な縁

人は誰も、一つや二つの不思議な巡り合せを経験していることだろう。私にも、偶然と考えるには余りにも運命的で、何かの縁と思わざるを得ないような、人との出会いがある。その一つをご紹介したい。

昨年(2000年)10月30日の夕方だった。息子から電話があり、興奮した声で「おっさんが40年くらい前に受け持った心臓の患者さんで、KYという人を知ってるか?」と尋ねてきた。息子は小学生の頃から、私のことをおっさんと呼ぶ。変わった奴だ。

そこで「よく知ってる、わたしが入局して直ぐに受け持ったMS(僧帽弁狭窄症)の患者で、その頃20歳くらいやった。曲直部先生が執刀しはったが、10年くらい前に再発して、循セン(循環器病センター)で弁置換をした時に、わたしが紹介したんや。毎年欠かさず、静岡の新茶を送ってくれてる。」と答えた。

息子はその月の初めから、S病院の循環器内科に勤務しているが、その日診察した患者から、「もしかして、交野で開業の野村先生の息子さんではないですか?」と尋ねられ、そうだと答えると驚き、不思議な縁に身体が震えてきたと言われたと言う。電話だけでは言い足りなかったのか、めったに帰って来ない息子が、その夜は突然帰ってきて、話の続きをして行った。あいつも嬉しかったのだろう。

そのKYさんは、1962年の夏、阪大第一外科へ僧帽弁狭窄症という心臓弁膜症で入院し、連合切開術という手術を受けたが、その時の受持医が、入局したばかりの私だった。日本で心臓の手術が始まってまだ10年に満たない頃で、手術成績も余り良くなかった時代である。

彼女はその時20歳、私は26歳になったばかりだった。ご両親が、一人娘の彼女を非常に慈しんでおられるのが折に触れ、よく分かった。第一外科は、伝統的にハードトレーニングを行う医局だが、新入局の医師には、特に厳しく、3日間の徹夜が続いた場合だけ交替が許されるような、今では想像もできない1年間だった。その頃の状況は、旧友の集いで少し触れている。

手術は成功し、間もなく退院されたが、何時の頃からか、初夏になると静岡のお茶を送ってくれるようになった。そのお礼を述べたのに対して、「私が生きている証だと思ってくれたら良い」ということばを聞いた記憶がある。10年ばかり前に、心不全症状が強くなり、私の医院に来られたので、循環器病センターへ紹介し、そこで弁置換術を受け、また元気になられたのだった。

今回の、この奇遇にすっかり驚き、運命とか邂逅について思いをめぐらせている時、岩波新書から木田 元氏の「偶然性と運命」が出版されたことを新聞の書評で知った。興味をそそられて読んでみると、古今東西の哲学者たちの多くも、この「運」とか「運命」について取り組んできたようだ。しかし、結局は誰もがこの問題をもてあまし、決定的な解決をもたらすことができなかったらしい。と言うより、はじめから解決などできないことが分かっていながら、彼らはこの問題を考えたのだと知ると、人間は何と面白い存在なんだと愉快になり、私の思考はそこで停止してしまった。

この話に後日談がある。

今年(2001年)の5月の連休が終って間もない頃、息子から電話があった。そのKYさんが入院したが、精神的に参っているので見舞ってくれないかというのだ。心臓の状態はそれほど悪くはないが、数日前にお母様が亡くなり、そのショックが大きいようだと聞かされ、5月13日日曜日の午後、彼女を見舞った。突然の見舞いを受けて彼女は非常に驚いたようだが、喜んでくれた。精神的にはかなり立ち直っている様に感じられる。大きな手術を二度も経験した者は、思い切りがよく、メンタルな回復力も強いのかもしれない。

それから二月が過ぎ、猛暑の最中の7月20日午後、彼女は自分で車を運転して、拙宅を訪ねて来られた。何でも、将来ご両親の介護に必要になると思って、45歳の時に運転免許を取ったとのことである。彼女が持ってきた阪大病院入院当時のスナップ写真を10枚ばかり見せてもらうと、同じ時期に、一緒に入院した患者さんの写真や、その患者さんのガーゼ交換をしている同期の浜中青年医師も写っていて懐かしく、当時に戻って、話がとめどもなく弾む。彼女は、意外に雄弁で、いろいろのことを話してくれた。驚いたことに、今でも、40年前の患者同士が連絡を取り合っているらしい。

それを見せ終わると、彼女は嬉しそうに、そして少し得意そうに、たくさんの印刷物を手渡してくれた。それは野村医院のホームページの中身をカラープリンターで印刷したものである。わが息子がこのホームページをノートパソコンで見せたらしい。それがきっかけで、友人の息子さんに頼んで自分の読みたいところを印刷してもらったと聞く。

その印刷物のタイトルは、院長の自己紹介 開業20年目の院長の息子の感想 最初の遺書 愛のうた 歌、酒、女 歌と思い出 5(1961 - 1965) 旧友の集い 老人となった旧友の集いだったと覚えている。昔の主治医と現在の主治医のこと、当時の状況などに彼女の関心が行くのは当然のことだろう。

この中の最初の遺書に触れて、「圭先生は、この遺書に書かれている通りになっておられます」と聞くと、まさかそんなことはあるまいとは思いながらも、やはり親バカ、嬉しいのである。彼女は、私たちの見舞いをよほど喜んでくれたようで、それをアレンジした息子に感謝しているのがよく分かった。

このホームページの内容の印刷を、友人の息子さんに頼んだことをさきに書いたが、その友人というのが中学の同級生で、彼女が循環器病センターで2度目の手術を受けた時に、その方も同じ病院で、同じ時に、心臓の手術を受けたという、これまた不思議な縁で結ばれているのだった。

その息子さんの手ほどきを受けて、パソコンを始める予定だと聞いたので、諸手を挙げて賛成しておいた。これで読者を一人獲得できるかもしれない(笑)。

この春にお母様を亡くされ、また、その数年前にはお父様を見送り、今は天涯孤独の身となったが、その悲しみを乗り越え、残りの人生を有意義に生きたいと願っている、と話すのを聞きながら、私はしきりに頷いていた。最近、新聞などで当時の心臓手術の成功率が低かったことを知り、今日まで生きて来れた自分の幸運を、心から喜ぶようになったと言う。自分は長命の家系に生まれたが、病気を持っているので70歳くらいまでしか生きられないだろう。もし、70歳を越えて生きることができた場合は、それはおまけと考えようと思うと、話してくれた。

不思議だった。私は短命の家系のため、やはり70歳くらいでこの世を去ることになると思っている。そして、それまでの人生を、できるだけ悔いの少ないように生きたいと願っている。もしも、間違ってそれ以上に生きるようなことがあれば、それはおまけだと思うことにしている。

ここにきて、40年前の患者とその受持医が、同じ気持ちで、人生の最後の期間を過ごそうとしているのを知り、改めて、不思議な運命を感じてしまった。近いうちに、この文が彼女の目に留まるかも知れない。楽しみだ。

この話にも「運は時なり」の香りが満ちあふれている。


エーゲ海クルーズ
二組の夫婦が、夏に10日間のエーゲ海クルーズを楽しみ、ドジとハプニングを続発させた。詳細は!

実用解像度
デジタル画像の基礎として「解像度」という概念を、実用的に理解するためにまとめた。詳細は!


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2002年 開業30年目 心に生きることば 創作

心に生きることば

人はことばによって生きている生物、と言うこともできるだろう。心に残る短い言葉によって、日常生活の中で、行動が影響を受けている場合がある。それが私の場合、人よりも多いような気がする。

かなり以前から、自分の心に残って生きている言葉をまとめておきたかった。今年ちょうど66歳になったのを機会に、これを書き綴って行こうと思う。その中には、格言やことわざも含まれているが、普通の人の言葉や、自分が作ったことばも少なくない。

2年前、生まれてより還暦までの61年間に慣れ親しんだ歌と思い出をまとめ、このWebサイトに掲載し、またCD―Rに焼き付けて電子出版も行った。

歌が、私の情緒的な面を代表するとしたら、ことばは、私の理屈ぽい部分を表している。私の人生の右脳的活動のまとめを「歌と思い出」としたが、左脳的活動を、この「心に生きることば」にまとめておく。

「心に生きることば」を具体から抽象へと、人間、欲求、教育、行動、情報、思考、創造、運命、価値の9つのテーマに分けた。キー・フレーズの最後に括弧で括って出典を記しておいた。(諺)は日本のことわざ、(望)は私の創作、(人名)はその人の創作である。

書き終えて調べてみると、キー・フレーズは、2つの章で重複するものを除いて、全部で442篇、その内の自作は300篇もあり、68%を占めている。これでは、「心に生きることば」というよりは「BOW語録」というべきかも分からない。そこで、この「心に生きることば」に、「BOWの人生哲学」というサブ・タイトルを付けた。

私は物を作るのが好きだが、この「心に生きることば」の創作では、手持ちの材料をふんだんに使って、自分好みの大きな建築物を作り上げて行く際の緊張と興奮を絶えず感じてきた。その道具となったのはパソコンで、とりわけ、10数年間愛用してきたエディターの「Mifes」がなければ、この創作は恐らく不可能だっただろう。

この作業によって、私の生き方、考え方を体系的に構築することができたのは、大きな収穫だった。そして、「書くことは考えること」ということ、自分は「行い、それから考える」タイプの人間であることを、今回再認識した。


第1章:人間
 結婚、夫婦、子供、ストレスなど16項目に分けて、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第2章:欲求
 義務と欲求、基本的欲求、能動的欲求など15項目に分けて、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第3章:教育
 潜在能力、気質、学校教育など11項目に分けて、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第4章:行動
 行動原理、工作人、集中力など21項目に分けて、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第5章:情報
 情報の収集、情報の整理、情報の発信など9項目に分けて、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第6章:思考
 知覚、認識、ことば、疑うなど11の項目に分け、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第7章:創造
 創造、独創、ひらめき、私の創造など5項目に分け、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第8章:運命
 無常、運命、受容、神、宗教、死など9項目に分け、心に生きることばをまとめた 詳細は!

第9章:価値
 価値の基準、人生の短さ、生きがい、生き方の規範、幸福など8項目をまとめた 詳細は!


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2003年 開業31年目 長男圭と松浦千佳結婚

猛烈な下痢腹痛

親からもらった体質のうちで、一番感謝してきたのは頑強な消化器系だった。快眠快食快便はこどもの頃から常に変わらず、1年で食欲のない日は数日もない。妻に、私の食欲について尋ねたら「あなたに食欲のない日などあるの?」と逆に問われてしまった。泥酔で朝帰りしても、昼からは、いつもの食事に戻っている。

ことほど左様に、自他ともに認める私のストロング・ポイントが、生まれてはじめて壊滅的打撃を受けてしまった。その精神的なダメージは強烈で、しばらくは立ち直ることができなかったほどである。

巷では、「鬼の霍乱」と噂されているとの風聞に、真相を伝えねばと思いつつ、発端から10日を過ぎた今になって、ようやくまとめる気力が出てきた。事の発端から、その後の経過を日を追って書いて行くことにする。

2月6日(木)
木曜日の午後は休診にしているが、この日は嘱託医をしている保育園の内科検診を終えて、上機嫌で鼻歌を唄いながら、車で梅田に向かった。木曜午後は、私たち夫婦の「命の洗濯日」。妻はウインドウ・ショッピング、私は本屋、パソコンショップ、レコード屋などを巡ってから落ち合い、ビールを飲んで帰るのが長年の習慣である。

梅田に着いて、携帯で妻を呼び出し、どこにも立ち寄らず、食事をとることにした。空腹感はないのだが、なぜか、いつものようにパソコンショップに向かう気が起こらない。ビールも必ず大ジョッキを注文するのだが、この日は中ジョッキ、それをやっとの思いで飲んだ。料理もあまり美味くない。最後に頼んだごぼうの揚げ物は不味く、この店も味が落ちたなと毒づいた。時間がいつもより早いので、1軒の本屋にだけ立ち寄り、2冊ばかり購入して、妻の運転で帰途についた。

道路交通法改正後、2度飲酒運転の検問を受けたので、それ以来飲んだら妻の運転と決めている。その車中で徐々に腹が張ってくるため、座席を垂直に立て、膝をダッシュボードに強く押し付け、腹を押さえ込むようにして守り、家に入るなりトイレへ直行した。午後8時だった。

最初少量の軟便だったのが、30分もしない間に猛烈な下痢に変わった。それはまるで、鉄砲水だった。その後、名古屋刑務所の看守が行った暴行記事を読み、あの下痢の状態は、消防の高圧放水ホースから飛び出す水流と表現しても間違いではないと思った。それほど激しい下痢でありながら、痛みはなく、発熱もない。

この下痢が午後8時から始まり、翌日午前5時20分までの9時間にわたって、30分から1時間間隔で続いた。12時ごろ、気がついた時には間に合わず、下着はもちろんパジャマまで水浸しである。何たる屈辱!。そこで殿部にタオルを当てて就眠した。夢の中で「このボタンをクリックしたら最新情報が分かる」というメッセージがパソコン画面に繰り返し流れてくる。これは悪魔の誘いだ、乗ってはいけないと思って、起きてトイレに行くと鉄砲水である。

しかし、そのうちに睡魔に勝てず深く眠ってしまったらしい。腰の辺りのなまぬるい感じに目を覚ますと、またもや水浸しだった。こんなことが続くなら、私の尊厳など吹き飛んでしまう。それを認めたくなければ、痴呆老人に逃避するより仕方がないと、一瞬思ったりもした。だが、父の介護で慣れているのか、妻は意に介さず手際よく処理をしてくれてありがたい。

小腸で水分の分泌が増え、大腸で水分の吸収が減った結果、これほど大量の下痢となったということだろうが、それにしても、よくもまあ、これほど絶え間なく大量の水を作ることができるものだと呆れてしまった。

今年は、新しいことを始めようと考えていた。そのせいか、これまで経験したことのないことをいくつか体験する羽目になった。その一つが、この鉄砲水性の激しい下痢だったとは、皮肉なものだ。これまでは、下痢をしても数回で治まり、下痢止めなど飲んだこともない。ところが、今回のは、そのあともいろいろ難儀なことが続くのだ。

2月7日(金)
現在開業して29年と5ヶ月になる。その間父が亡くなった時と、弟の結婚の時を除いて、診療を休んだことはない。できれば、30年間を皆勤で終えたいというのが私の密かな願いである。起床前に点滴を受け、リンゴジュース1個分を飲んで診療に臨んだ。悪いことは重なるもので、この日は午前も午後も、患者数が今年2番目に多い。体重はちょうど2kg減っている。500mlの点滴を入れたので、おおよそ2500mlの下痢だった勘定になる。

低カリウムと低血糖で倦怠感は強いが、こういう時になると、へそ曲がりが出て、手抜きをせず、いつもより丁寧に診療をしようとしてしまう。診療を開始して間もなく、咳と発熱を訴える患者のレントゲンを撮ると、予想通り肺炎を起こしていた。患者の希望する病院へ紹介状をパソコンで書き、レントゲンを付けて手渡した。

午前の診療が終わると同時に午後4時半まで就眠、リンゴ2個分のジュースを飲み、夜の診療に従事したが、夜も今年2番目に多い患者数だった。眠っている間に、親しいDrが「超劇辛青唐辛子味噌漬」を届けてくれたので、そのお礼メールを送信し、診療を終えた。夕食にはおかゆとジャガイモの味噌汁、オニオンスープだけを摂り、そのまま食堂の床で眠ってしまった。

午後10時過ぎ、携帯に入ったメールの音で目を覚ますと、別の親しいDrからで、再発行のパスワードが郵送されてきたとの礼状だった。そのまま起きて、日計表の処理を行い、入浴をしてさっぱりした気分で就眠した。

この時、私の病気の対処法は、ひたすら眠ることだということに気がついた。私は呼吸器系が弱いので、風邪を引くと総合感冒薬を飲んで眠ることにしている。総合感冒薬は常に倍量を飲むので、そのために、いくらでも眠れるのだと思ってきたが、今回は何も飲んでいないのに、横になれば眠ってしまうのだ。

この下痢の原因について、ビールス性のものではないかと思ってきた。いわゆる感染性胃腸炎で、こどもだけでなく、大人にも多い。無痛性、水様性、無熱性であることから、ロタウイルス(HRV)か小型球形ウイルス(SRSV)によるものだろう、下痢が止まれば、いつもの通り終わりになるだろうと予想していた。

ただ、あまりに頻回にトイレに通ったので、持病の痔核が悪化して、ティッシュに血が付きはじめた。このくらいで済んでいるのは、「おしり洗浄」のお陰である。NHKの「プロジェクトX」で放送されたTOTOの関係者に、深甚の謝意を捧げる。これなくしては、便器に何度か鮮血が飛び散ったことであろう。痔核を悪くしないために、下痢止めを飲むことにした。

2月8日(土)
2個分のリンゴジュースを飲み、点滴を受けて診療を始めた。下痢止めを服用した効果で下痢は止まっているが、腹が異常に張っている。ほとんど何も食べていないので、これはガスのせいだと予想して、自分でレントゲンの透視台に上ると大量のガス像が見える。妻にボタンを押させて撮影をしておいた。この大量ガス像を見たので、下痢止めの服用は中止した。

このような大量のガス像を見た場合、浣腸を指示すると、大量の排ガスとともに症状はとれて感謝されるのだが、自分は、自然放屁にゆだねることにした。そして、何回かの放屁で腹部膨満感は消えて行った。下痢止めの服用も、大量ガス貯留も、私にとって初体験である。

午前の診療を終えた後、3時まで就眠し、それからうどんを食べてみたが不味い。紅茶、りんごジュース、野菜ジュースなどを飲み比べてみると、手製のリンゴジュースが格段に美味い。そこで2個分を一気に飲み干した。

6時から雑炊を美味しく食べた後、日計表関連の処理を行い、インターネットの2ヶ所の掲示板に書き込みを行った。経過は順調に思えた。便は、白色の軟便であるが、ロタウイルス感染症の場合によく見られることなので、特に気にはしていなかった。かって「仮性小児コレラ」とか「乳児白色下痢症」と言われてきた病気の多くが、ロタウイルスなどのウイルス感染症であることが分かってきている。

妻は「I am tough と思っているのでしょう?」と嬉しそうだ。ところが、そうは問屋が卸してくれない!

腹部の異常膨満感は、このガスで説明できた。放屁を重ねることで、この腹部の膨満も減って行った。これで順調な経過になると予想していたのだが、尿意を催す不快感や、肛門から会陰、膀胱あたりの下腹部の不快感が続く。

私は40歳と50歳のころ、2度前立腺炎を患ったことがある。その時の記憶が突然よみがえり不安になった。悪寒戦慄と高熱、会陰部の鈍痛をともなうこの病気は、もう願い下げだ。前立腺には抗菌剤が浸透し難く、当時は「バクタ」というキノロンとサルファ剤の合剤しか効く薬はなかった。今日の治療指針を見ると、ニューキノロンの「クラビット」が一番効果があるようなので、これを服用することにした。

とは言っても、下腹部から肛門部、会陰部にかけての不快感であり、発熱も会陰部の圧痛もなく、前立腺炎としての症状があるわけではない。そこで、頻回に排便したために骨盤内静脈のうっ血を来たし、そのためにこのような症状が出るのかもしれないと考えて、しばらくは痔核用のサーカネッテンを服用したり、痔の坐薬を使用したりしてみた。しかし、予想は外れ、まったく無効だったので、間もなく中止した。痔の内服薬の服用も、坐薬の使用も初体験である。

寝ると上記の不快感は少しやわらぐので、時間があれば寝ていた。翌日が日曜ではじめて診療をしなくて休めると思うと、たまらなく嬉しかった。もうこれで治るだろう!

2月9日(日)
朝起きようとすると腰が痛く、長い間寝ていたことによるいわゆる「寝ごし」ではないかと思ったが、ボルタレンを服用すると間もなく治まった。レセプトの提出日が翌日である。レセプトの打ち出しは月末に終えているが、今回のエピソードがあったため、妻の点検が遅れていて、この日の朝から修正分の打ち出しや総括表の再作成、編綴作業を開始した。

昼食は稲庭うどん、これは普段あまり好まないのだが、腹の調子が回復していない状態では美味かった。いくら柔らかく煮ても、ねばりと弾力性が無くならないところが良い。

午後3時に大阪に行かなければならない用事があり、中断したのち、帰宅して就眠のあと作業を再開した。夕食はかに雑炊のみで、ほかにリンゴジュース2個分を摂った。

前日の期待も空しく、会陰部から肛門部にかけての不快感は持続する。この不快感は排便によっても軽快することはない。翌日この状態でまた診療をしなければならないことを思うと気持ちが重い。糞便に少し色が付きはじめ、白色便ではなくなってきた。

2月10(月)
腹部深部不快感、膀胱会陰部刺激感と不快感は、変わらず続いている。これも初体験である。6個分のリンゴジュースを飲み、診療を始めたが、この日の午前も患者数は7日と同数で、今年2番目に多い。もう、泣きたくなる思いで、しかし、意識して丁寧に診療をした。

夜の診療の始まる30分前まで就眠していたが、一人暮らしの老婦人が往診を求めていると近所の人から電話があり、飛び起きて往診した。急に嘔吐したとのことだが、一般状態は悪くなく、制吐剤と抗生剤を注射しておいた。2〜3日経って、あれからすぐに良くなったとお礼に来た。

この日は、夜の就眠時にはグル音(腸雑音)がよく聞こえていた。明け方の4時ごろ、突然経験したことのない猛烈な腹痛に襲われて目が覚めた。腹全体がこむらがえりを起こしたような痛みで、声を出すこともできない。妻は安定剤を飲んでいるため熟睡している。あまりの痛さに、腹部症状の強い心筋梗塞ではないかと思い、救急車を依頼しようかと思うほどだった。それがどれほど続いたのか、10分から30分くらい経ったのではないかと思う、便意をもよおしてトイレに座ると、大きな放屁とともに、腹痛は消失して行った。

ガスの排出のあと、腹全体のこむら返りのような痛みは無くなったので、やはりガスの貯留がこの痛み原因と考えるべきなのかも分からない。それにしても、突発的に、筋クランプ的な猛烈な痛みが、腸内ガスの貯留だけで起きることのメカニズムが理解できない。そこで、鉄砲水的な激しい下痢を起こすほどの激烈なダメージを腸管が受けているため、それから十分回復していない腸管に大きな内圧がかかると、こむらがえりのような猛烈な痛さになるのかもしれないと考えたりもしてみたが、もう一つすっきりしない。このような痛さも初体験である。

痛みがとれたせいか、そのあと夢を見た。私はアメリカの田舎の教会らしき建物の前で、群集と一緒にいる。そこではなぜか人々に歌を唄わせてくれるのだが、私の直前でもう終わりだと言って締め切られてしまった。そこを懇願して唄わせてもらうことにしたまでは良かったが、何を唄いたかったか忘れてしまった。それではかっこがつかない。そこで、頭に浮かんだ曲をドレミで歌い始めた。

その歌は「ノエル」といって、こどもの頃クリスマス時分になると、SPレコードでよく聴いて一緒に唄っていた曲である。一所懸命に唄うのだが、思うように声が出ない。もっとうまく唄えるのだぞと、大声を張り上げたら、本当に声が出てしまったらしい。それまで熟睡していた妻が、驚いて飛び起きた。そして、蛙がつぶされたような異様な声がしたと怯えているのには参ったが、猛烈な腹痛とそのあとの夢の話をしたら、笑い出した。夢の中で唄っていたのが、本当に声を出して唄ってしまったというのも初体験である。

2月11日(祝)
この日は祝日であるが、前日妻の大学の同期生の訃報がFAXで入り、お別れの会が芦屋で行われるため、私のことを気にしながら、妻は出掛けて行った。

腹部深部不快感、肛門から会陰部にかけての不快感と刺激感は続いている。心配性の妻が居ないのを幸い、ゴム手袋をつけて、自分で直腸指診を行ってみた。これも初体験である。肛門から指の届く範囲は何もない。前立腺の肥大も圧痛もない。おかしい。

昼食は稲庭うどんとリンゴジュースのみ。

4時過ぎに妻が帰宅、故人は学位をとるなど活発に生きてきたが、子宮ガンで亡くなったとのこと、清楚なよいお別れ会だったとしんみり語った。妻の昼食用にと買ってきた松花堂弁当が美味そうなので、それを横取りし、スポンジケーキを食べ、アイスクリームを口にするなど、久し振りに満腹感を味わった。それまでの5日間は、リンゴジュース、お粥、雑炊、稲庭うどんなどを食べるだけで、1日2〜3回の点滴を受けてきたのだから、このように好きなものを、好きなだけ食べるのは、ちょっと無謀かとも思ったが、私のタフな消化器系なら、もう大丈夫だろうと思っていた。

ところが、それから1時間ばかり過ぎた6時頃から、腹全体が不気味に痛くなって来た。場所を特定することができず、腹壁は柔らかく、圧痛はないのだが、腹の深いところで、周期的に痛みが強くなる。疝痛であることには違いがない。排便を試みても痛みは変わらない。X線透視を自分で2回行ったが、ガス像は正常で、水平像形成はなく、イレウスは否定できる。

痛みが耐え難くなって、息子と電話中の妻に、ブスコパン1アンプルを溶かしたブドウ糖液を手渡して静注をしてもらったが、まったく効果がない。120mlのグリセリン浣腸を2回行ったが、これも効果がない。このグリセリン浣腸液の排出の感じから、最初の鉄砲水的な下痢の水量は、おおよそ200mlだろうと推定できた。200mlの下痢が10回とすると、2リットルの水分が10時間足らずで体から出て行った計算になる。これは、翌日の体重が2kg減少していたことに合致する。この浣腸という医療行為もまた、私にとって初体験だった。

横になっても痛みは変わらず、輾転反側、身の置き場がない感じ。この輾転反側という状態からは悪い記憶ばかりが思い浮かぶ。ブスコパンを1アンプル、メチロンを1A入れて点滴をしてもらったが、効果はなく、のどが無性に渇くだけだった。こうなれば、ペンタジンを注射するほかはないと考えたが、調べてみると期限切れである。最近あまり使わないので致しかたない。滅多に苦しい顔をしない私が、絶えず苦痛に耐えている表情見せるのだろう。「パパはそんな顔をしないのに」と、妻は不安がる。さて、どうするか?

9時半ころ、妻が「今日は火曜日だから、栗本先生が当直ではないかしら?」と言うので、携帯に電話すると、今日はゴルフのコンペがあって、帰宅したところだが、直ぐに病院に行くと言って下さった。お疲れのところ申し訳ないが、ご好意に感謝して、診て頂くことにした。私はそけいヘルニアの手術をインターン時代に受けた以外病院を受診したことはない。急病での時間外受診は、もちろん初体験である。この時、このまま入院となれば、開業以来病気で休診をせずに診療して来た記録が壊れることだけが残念だった。あと、半年ばかり頑張れば、30年間皆勤の目標達成ができるのだが、やはり80点主義の私には無理なのかもしれないと苦笑した。

自分で運転をして10時前に病院に入り、先生の診察を受けた。問診で、猛烈な下痢のあと白色便が2〜3日続いたことを告げると、先生は胆道系の閉塞を心配されたようだ。触診で腹部は柔らかく、圧痛、筋性防衛はない。これは私が自分で触診した結果と同じだ。

看護師、レントゲン技師、外科当直医師によって手際よく、血液検査、腹部立位単純X線撮影、腹部CT、腹部エコーを進めて行って下さった。その結果は、腹部CTで左腎臓の周囲に浮腫があることを除いて所見はなく、腹痛の原因は不明だが、胃と大腸の内視鏡検査を勧められた。左腎臓周囲の浮腫については、後日泌尿器科医の診断を受けるように指示され、CTのコピーフィルムをもらってきた。

交野病院を出て間もなく、妻は「パパが膵臓がんでも仕方がない、もう十分幸せだったから」とポツリともらした。栗本Drのことばから、短絡的に膵臓がんと思ったようだ。膵臓がんは一番治療が難しいことをよく知っているので、寿命は短いと思ったのだろう。誰よりも心配性で、すぐパニックになる妻が、不安をこらえて健気に私との結婚生活を感謝してくれたことに感動した。そして、これなら、私が死んでも、取り乱して錯乱状態になることもあるまいと思った。

もちろん、私は膵臓がんなど思っていなかった。それは発症の仕方がまったく違う、白色便はロタや小型球形ウイルス感染症の激しい下痢では良く見られる、それに現在は着色便に戻っている、CTで膵臓や肝臓に異常がなかった、肝機能も正常であるなどの理由からである。

帰宅したのが11時15分、心配した息子が電話を掛けてきて、CTで異常がなければ、膵臓がんはあり得ないと妻に説明したようだ。それを聞いて妻は非常に喜んだ。膵臓がんでさえなければ、胃がんや大腸がんだとしてもすぐに死ぬことはないだろう。残りの人生を私と一緒に精一杯楽しむことができる、と思ったようだ。11時23分に栗本先生から電話があり、内科医と相談した結果、白色下痢便はロタウイルスによるものだと思うと、わざわざ伝えて下さった。気配りのできる素晴らしいDrである。

6時から5時間以上続いた周期的に増強する不気味な腹痛が、少し軽くなって来た。栗本先生のアドバイスでボルタレンサポ50mgを挿入して、12時から食堂の床の上で眠った。このような不気味な腹痛はもちろん初体験である。それに、食堂の床で朝まで寝たのも初体験、妻も心配らしく、食堂の片隅で寝ていた。これも初体験。

なぜ、食堂の床が良いかというと、床暖房が入っているので暖かい。これは、最初の鉄砲水的下痢のため明け方まで1時間間隔でトイレに通い、寝室のベッドに戻っても猛烈に寒くガタガタ震えていたことを思い出したことが大きい。もう一つは、ベッドよりも食堂の床の上で点滴を受ける方が便利で、点滴のスピードも速くできるし、妻も、家事をしながらでも、私の様子を注意することができるメリットがあるからだ。

2月12(水)
ボルタレンが効いたのか、それとも時間的に治まる頃だったためかは分からないが、朝までぐっすり眠れた。7時半に起きて点滴を受けていると、7時41分に携帯にメールが入った。栗本Drからで「本日は病院にいないが、他の先生にあらまし伝えてあるので、困ったことがあれば病院に連絡して欲しい」という内容のメールである。私の場合パソコンに届いたメールは、携帯にも転送するように設定している。右手で点滴、左手に携帯で折り返し電話をしたら、栗本Drは余りの早業に驚いていた。

祝日明けのため、朝の診療の患者は多い。おまけに、胃透視が一人、点滴が二人あり、精神的にも疲れてしまう。午後からは、府立交野自立センターの検診と交野市の生活保護の嘱託医の仕事があるが、生活保護の方はキャンセルさせてもらった。

生活保護の仕事がある日は交野市医師会の事務所に顔を出し、尼子Drや明石Drと会話を交わすのが長年の慣習である。お二人は私が来るものと思っておられるはずだから、断りの電話をかけたら、二人と話す羽目になり、私がダウンしていることをしゃべってしまった。そこから、「鬼の霍乱」の風説が流れたらしい。しかたがないので、インターネットの私の掲示板に、消化器系でやられたと少しほのめかしておいた。

夕方に色んなものをたくさん食べたことが、昨夜の腹痛の原因ではないかと思ったので、この日からまた消化の良い食べ物に戻すことにした。この日1日で飲んだリンゴジュースの量は12個分となった。昼食は他に稲庭うどん、夕食は他には雑炊。

この日を境に、肛門から会陰部にかけての不快感や刺激感はまったくなくなり、時折起きる腹痛も、放屁で治まる程度である。点滴のあと入浴中、23時19分に明石Drからメールが入っていたので、これに返信をした後、食堂の床から寝室のベッドに戻り就眠。

2月13日(木)
午前4時ごろ、左肋骨弓部(左の横腹)の鈍痛で目が覚めた。CTで認めた左腎臓周囲の浮腫と関係しているのかと思ったが、排尿で痛みは消失した。そのまま、8時まで就眠。

朝起きると、妻が笑いながら手を見せる。見ると手のひらが茶色に染まって、ひび割れした部分が黒く線状に刻まれている。原因は明白だ。鉄砲水的下痢以来、私はリンゴジュースを飲み続けてきた。それをガーゼで絞って作る作業のくりかえしが、この手をもたらしたのだ。「 Apple Juice Maker's Hands 」、これが私の下した診断名である。医療用の使い捨てのゴム手袋はたくさんあるのに、自分が嫌だからと妻は使おうとしない。

開業以来、下痢の食事療法としてリンゴジュースを勧めてきたが、私自身は手製のリンゴジュースを飲んだことはなかった。下痢をしても数回で治まるので、下痢止めも腹痛止めも服用したことはなく、下痢でも食事を変えることがなかったからだ。

ところが、今度の鉄砲水的下痢から、リンゴジュースを作ってもらって飲んでみると、これが滅茶苦茶に美味い。たまたま、美味いリンゴに当たったのかと思ったが、そうではなくて、どれも変わらず美味いのだ。そうなると、一旦気に入ったものは、とことん好きになる私の性癖から、手作りリンゴジュースは、何にも勝る好物となり、毎日飲み続けることになった。私は辛党だが、アイスクリームとチョコレートとドイツワインは例外である。この手作りリンゴジュースは、ドイツワインに通じる甘さだと思った。

妻の傷んだ手を見たので、飲んだリンゴジュースの量を数えてみると、7日から12日までの6日間で28個分飲んでいる勘定になる。1日平均4.7個に呆れながら、私らしいと苦笑した。そして、亭主の好きな赤烏帽子ならぬ、リンゴジュースをせっせと作ってくれて、汚くなった妻の手を無性にいとおしく思った。

昼は稲庭うどんとリンゴジュース、夜は湯豆腐とリンゴジュースで、この日も4個分のリンゴジュースを飲み、りんごは合計32個になった。

私が少し元気になったので、心の余裕がでてきたのか、妻は私の過去の採血データを食堂に持ち込んで来て、チェックを始めた。人に私がやせたと言われたりすると、妻は発作的に心配になり、年に1〜2回無理やり採血をしてくれるのだが、それらのデータは整理をせずに、プラスチックの整理ケースの一つに放り込んである。自動身長体重計は、ときどき気が向いた時に計るので、このデータも同じところにある。そのほか、自動血圧計の紙切れでペーパーを交換するときに、テスト用に自分の血圧を計るので、そのデータもある。

最近の血液データは昨年9月だった。妻は悪い方に解釈するのが得意だが、私は自分のからだについても、できるだけ客観的に見ようとしてしまう。説明がつかないことや、分からないことについては、一応の仮説を立てるが、それを固持することはない。そのあとで、より説明がつく仮説が立てられたなら、さっさとそれに乗り換える。これはもう習い性になっているようだ。

妻が検査データをまとめて持ってきた機会に、自分のデータを整理することにした。血液検査データ、身長体重データ、血圧データの3種類に大きく分け、それぞれを時系列順に並べ、1年ごとにホッチキスでまとめるという作業だが、やり始めると面白い。ここでも、私の「手抜きズボラ超々整理法」でやっているのに気が付き愉快になった。つまり、個々のデータは大切にして捨てないが、整理することはせず、1箇所に集めて置く。そして、必要になった時に、はじめてそれらを項目別に、時系列順に並べるという整理法である。

この整理をしていて気づいたことは、日付入りの印刷データは手間が要らない分、集めやすく、残して置きやすい。その上、あとでまとめて整理する際にも便利だということだった。これらのデータを書き写したりしていたら、面倒くさくて、中断していただろう。元データのままで、そこに項目と日付があるということが、データ整理の成功の条件だと言える。

検査データの整理を終え、入浴して、食堂の床の上で点滴を受けている私の横で、妻は洗濯物を片付けはじめた。そのうちに、忙しく手を動かし始めたので何ごとかと尋ねると、ティッシュを取り除かずに洗濯機を回したらく、細かい紙切れがたくさんに付いているというのだ。そして、間もなく犯人は私であることが分かった。紙切れは私のズボン下に密集していたからだ。二日前、不気味な腹痛に耐え切れず、浣腸を2回したが、そのときに浣腸液が漏れ出ないようにと、殿部にティッシュをぶ厚く当てたらしい。それが、ズボン下の方にまで、ずり落ちてしまっていたのだろう。

そんなこととは露知らず、この状態で栗本Drの診察を受け、いろいろ検査をしてもらったことになる。思えば赤面ものだが、あの状況なら致しかたあるまい。結局点滴の終わり近くまで、妻は紙くず取りを、余儀なくされていた。申し訳ない。

右手で点滴を受けながら、左手の携帯で私の掲示板を覗いてみると、藤原Drが面白い笑話を書き込まれていて、大笑いした。就眠前にもう一度掲示板を覗くと、私に代わって、明石Drがコメントをつけて下さっている。掲示板の主である私のことを「ハリウッドで映画出演中です!芸名ゲーリークーパーでrestroom通いに多忙です。(感染性腸炎です?)」。これには、もう笑って、笑って、、、それでも、すぐに眠ってしまった。

思えば、1週間前に、悪夢の鉄砲水に襲われたのだった。私のからだで一番タフだった消化器系が、これほど回復に手間取ったことで、正直自信をなくしてしまった。しかし、これで峠は越えた、点滴も今日でお終い、あとは焦らず、丈夫だった消化器系を過信せず、徐々に食事を元に戻して行こうと、しおらしいことを考えていた。

2月14日(金)
前日、過去の検査データを整理したので、この際採血をすることにした。ちょうど1週間の間、ほとんどリンゴジュースだけで生きてきたので、その結果がどう出るかという医学的興味もあった。また、交野病院で腫瘍マーカーの検査をしてくれたが、こちらでもそれを加えておくことにした。

午前の診療を始めて間もなく、しばらく診察をしていなかった84歳の男性患者が車椅子で来院。腹水が貯まっている。入院精査が必要なので交野病院に連絡をとって、病室の確保をお願いし、紹介状をつけ、119番に電話して救急車を依頼した。救急車を依頼するようなことは年に1度くらいしかないのに、このように体調が悪いときに限って、いろいろ重なってくるから皮肉なものだ。

昼食にふぐ雑炊を食べたあと就眠。肺がん読影会の日だが、気力と体力が落ちていて気が進まず欠席した。夕食の買い物に出掛けようとする妻に、ココアを頼んだら変な顔をしている。今日はヴァレンタイン・デー、いつもは、妻から小さなチョコレートをもらうのだが、今回はない。そこで思いついたのが VAN HOUTEN COCOA 。これを二人で飲んで、ヴァレンタイン・チョコの代わりとしたが、美味かった。

夕食は何が良いかと尋ねられ、ためらわず、「河童鍋」と答えた。妹尾河童風ビーフン鍋料理で、扁炉(ピェンロー)という名前が付いているらしい。今度の鉄砲水騒動の少し前に食べて、すっかり気に入ってしまった料理だ。鍋の汁と岩塩と一味唐辛子だけで自分好みのつけ汁を作り、これにビーフンなどを漬けて食べるのだが、滅茶苦茶美味い。妻が心配して、食べるのを止めるように懇願するのを構わず、いつもの通り、ガツガツとほとんど一人で平らげてしまった。

テレビは「いっきにパラダイス」をやっている。イタリア特集が嬉しい。「帰れソレントへ」で始まり、やはりカンツォーネは良いな、と聞き惚れていると、次に若い男が唄った「ロミオとジュリエット」の主題歌が話にならぬ下手くそだ。私は思わず、これはこう唄うものだぞと、大声を張り上げてしまった。そして、1週間以上も歌を忘れたカナリアだったことに気が付いた。そのあと「ジョン健ヌッツオ・コバ・トク」が唄う「星は光ぬ」「女心の歌」「フニクラ・フニクリ」を気持ちよく聴いた。食事良し、歌良し、もう復調目前である。

2月15日(土)
診療前に栗本Drから電話があり、泌尿器科の医師にCT所見を読影してもらった結果、左腎周囲の浮腫様陰影について「左尿管結石(尿管口直前)で、腎盂外溢流があり、腎周囲に尿がもれた状態と考えます。結石が自排していればよいと思いますが、結石の有無をチェック要と思います。結石がなくなっていれば、溢流も自然軽快すると考えます。一度DIPを」とのコメントを頂いたと伝えて下さった。栗本Drの心配りには、感謝あるのみだ。

尿管結石と知って、これまで説明し難かった、肛門から会陰部にかけての不快感、不気味な腹痛のメカニズムがよく理解できて嬉しかった。念のため、尿検査をしてみると、潜血が(1+)出ている。ためらうことなく週明けに交野病院でDIP(点滴腎盂造影)検査を受けることにした。

11時頃に、前日の採血結果が届いた。予想通り、低蛋白血症で貧血があり、栄養失調状態であるが、それ以外は異常なく、腫瘍マーカーはCEA、Ca19-9、PSAのいずれも正常である。

あの不気味な腹痛は、猛烈な下痢で私の腸管が壊滅的打撃を受けたのにも関わらず、十分な回復を待たずに普通の食事に戻したためだと思ってきた。そこで腸管を休めるために、点滴とリンゴジュースだけで1週間あまり過ごしてきたのだった。それが、尿管結石によるものと分かったので、喜び勇んで、昼食から多量の蛋白質と水分の摂取を開始した。

2月16日(日)
これを機会に、朝晩2回糞便潜血検査の検体を採取した。尿の潜血は(+/−)に減っている。夕食時にS-DRYを10日振りに飲んだが不味い。

2月17日(月)
栗本Drに、明日DIPを受けたいと電話でお願いし、午後2時から検査開始と決まった。その際に、あの不気味な腹痛のあった11日の採血分のCEAが6.1であったとの報告を受けた。14日に当院で採血したのではCEAは1.0であり、あの激しい腹痛の際に一時的に上昇したのだと解釈したが、妻は心配だと言って、ややパニック状態である。尿の潜血は(−)になった。結石は排出された可能性が高い。

2月18日(火)
妻の不安をとるためと、蛋白質をたくさん摂取したので、栄養失調状態がどれほど改善されたかを知りたいという興味から、もう一度血液検査をした。

午後1時半に交野病院に行くと、栗本Drは手術の合間を縫って、外来に降りて来られたところで、そのままDIP検査に回して下さり、30分ばかりで終了して帰宅した。この夜のS-DRYの美味さは元の90%まで回復していた。

2月19日(水)
前日の検査データが届いたが、血清蛋白は6.2から一挙に7.4に増え、貧血も無くなっている。本格的に2日間食べただけですっかり元に戻るのだから、経口摂取の力はやはりすごい。その代わり、トリグリセライドも504としっかり元に戻っている。CEAは1.1、糞便の潜血は2回とも陰性である。そのデータを見て妻は喜色満面である。

夕食は、もう一度「河童鍋」にして、美味いうまいを連発しながら、ガツガツ食べた。S-DRYの美味さは元の100%まで戻った。DIPの結果は、泌尿器科の医師の診断を待って報告して頂けるのだろう。尿潜血陰性で、無症状であり、多分結石はもう排出してしまったものと思う。入浴前に、リンゴジュース2個分一気に飲む。やはり美味い。この間、私が飲んだリンゴジュースは、合計40個分となったらしい。おかしな男だ。

2月20日(木)
午前の診療を終えた直後に、栗本Drから電話があり、「DIPの結果は、水腎症もなく、CTで写っていた尿管結石は自然排出したものと考えられる、念のため、再度CT検査をして、左腎臓周囲への溢水が吸収されていることを確認しては如何」と言う泌尿器科医のコメントを知らせて下さった。私も興味があるので、来月もう一度CT検査をして頂くようお願いをした。栗本Drには、本当にお世話になった。この方はスゴイ、素晴らしい臨床医だ。

このようにして、2週間かかって完全復調にたどり着いた。その間、私個人として、生まれて初めての体験が多数あったし、臨床医としても初めての経験をいくつか持った。「転んだらただでは起きない」という私の生き方は、今回も変わることなく、それに見合うだけの収穫は得られたと思っている。

そして、今回のエピソードは、妻にとっても良い経験となったようだ。以前よりも、パニック状態になる程度が軽くなったこと、少しは待つことができるようになったこと、仕方がないことは仕方がないとあきらめることが、ほんのわずかだが、できるようになったことである。

今から8年前、交野市医師会会報第1号に、自分の最もしたいことを三つ書いて自己紹介に代えたが、昨年末にそれを完了させることができた。そのことが、今回のエピソードの間も心に平穏を与えてくれた。たとえ、このまま死ぬことがあっても、私にとっての目標の60%は達成できている。80%を達成できれば言うことはないが、それは欲というもの、合格最低点でも悔いることはない、という気持だった。

しかし、もうこれで、前から思っていた70歳までは生きられそうな気がする。そして、80%は無理としても、それに近いところまでは行けるかもしれない。やはり、私は良い星の下に生まれたのだと幸運を感謝した。

この事例もまた「運は時なり」の好例である。


喜びと悲しみ

一方で、身近な者が喜びに浸っているときに、離れたところで、身近な者の悲しみが同時に進行しているようなことは、滅多にあるものでない。それは、私にとって、生まれてはじめての経験だった。

5月2日の午後、翌日の息子の結婚式のために、私たちはイタリアのフィレンツェにいた。そこへ、日本のJTBの担当者から、「森 隆先生が急死されたので、留守宅に電話をするように」との電話が入った。耳を疑って義兄に電話をすると、「5月1日に、近畿中央病院で最終講義をしている最中に倒れ、そのまま死亡した。死因は急性大動脈解離のようだ。告別式は明日になっている」と言う。

その後、ミケランジェロのダビデ像を見るために、妻と息子の3人で、フィレンツェのアカデミー美術館に入ったが、私は「ピエタ」の像の前のベンチに座り込み、森 隆君のことを思い出していた。後で聞くと、1時間以上もほとんど黙り込んで、考えごとをしていたと言う。

今年の1月に、一緒に入局した浜中雄二君が脳出血で倒れ、呼吸停止をするほどの重症だった。それが奇跡的に回復し、退院をしたとの知らせを受けたとき、同期入局の7名で作っているメーリングリストに、彼が書き込んだ文章を、その時真っ先に思い出した。

「人生50年とは野村君から教わった諦観で、いつも家族に言っていますが、同級生がそうなると、いささか寂しい思いです」

人生の短さを説いて来た私が未だ生存し、それを半ば冷やかして聞いていた森 隆君が、突然死するとは、何と言う皮肉だろう。彼は国立近畿中央病院の院長を務め、昨春定年退職したばかり。ようやく、自分の人生を楽しむことができるようになった矢先の不幸である。その上、ご子息は未だ学生であり、さぞ、心残りだっただろうと思うと、痛ましかった。

彼に、私の結婚式の司会をしてもらい、彼の結婚式の司会を私がした仲だった。次々と、思い出が頭に浮かぶ。そして、どうすることもできない運命というものを、痛切に感じた。妻も息子も彼のことをよく知っている。黙りこくっている私の横に座って、二人はことば少なく話しかけてくる。息子は、自分の結婚式のために、私が友人の告別式に出席できないことを、なぜか、しきりに詫びるのだった。

詫びられる理由など何もない。息子もそれは分かっているが、何かを話さずにはいられなかったのだろう。その時、これは彼が最後にくれたプレゼントだという閃きが、突然私を襲った。幸せの絶頂にある息子たちに、「いつ死が訪れるか分からない。人の命は誰にも分からないものだ。だから、死ぬときに悔いがないように、思いっきり生きるんだよ!」と教えてくれた。そうに違いないと思ったら、少しほっとした。

私は若い頃から、命の短さを絶えず思って生きてきた。だから、息子や妻にそのことを何度も話してきたと思うが、二人はあまり気に留めていなかったかもしれない。しかし、身近な人の突然の死は、生と死について真剣に考える強い動機となりうる。彼の死は、息子やその配偶者となる人に、人生の出発点で一番大切なことを教えてくれたのだと感謝した。

翌日早朝、妻とドゥオーモ付属美術館を訪れた。ミケランジェロの「ピエタ」を見るためである。今回の旅行では、ミケランジェロの4つの「ピエタ」を全部見ることができた。「ピエタ」とは、死んだキリストを抱く母マリアの絵や彫刻である。それらの「ピエタ」像に感動しているところへ、森 隆君の訃報が届いたことに、運命的なつながりを感じてしまった。

11年前の最初のイタリア旅行で、非常に感動したものの一つが、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの「ピエタ」だった。今回の二度目のイタリア旅行で、ヴァチカン博物館にあるこの「ピエタ」のレプリカを身近で見た。その後で、サン・ピエトロ大聖堂の入り口にある本物を見たが、前回ほど感動しなかった。

次に、ミラノのスフォルツェスコ城にある「ロンダニーニのピエタ」を見た。ミケランジェロが死の間際まで、のみをふるい、手直しを続けたと伝えられている未完成の遺作で、サン・ピエトロ寺院の「ピエタ」の全く対極にある彫刻である。

この「ピエタ」を見たとき、心の深いところからこみ上げてくる感動を覚えた。それは、妻もまた同じだったようだ。25歳で制作した「サン・ピエトロのピエタ」は完璧であり、それを最初に見たときには、涙が出るほど感動した。それから11年後、完璧な「ピエタ」よりも、一見稚拙とも見えるこの未完成の彫刻に魅せられ、感動したのはなぜなのだろうか?

ミケランジェロが、死ぬ数日前まで彫り続けていた作品であるという予備知識だけで、この感動を説明することはできない。人は完全な美しいものに感動するが、必死で自分の望むものを創り上げようとしている、完成途上の作品に対して、より一層、胸を打たれるのかもしれない。あるいは、私たちが、もう人生の終わりに近づいているためかもしれない、などと考えたりもした。

そして、アカデミー美術館にある「パレストリーナのピエタ」を見ようとしている時に、森 隆君の急死の知らせを受けたのである。この「ピエタ」の像を前にして、ひたすら、彼のことを思い続けていた。

その翌日訪れたドゥオーモ美術館は、開館直後でほとんど人気はなく、「ピエタ」をじっくり鑑賞することができた。こちらも未完成の作品であるが、「ロンダニーニのピエタ」と違って完成度は高く、やはり感動した。「サン・ピエトロのピエタ」はマリア像が美しかったが、こちらは、キリストのおだやかな顔に魅かれた。ミケランジェロは晩年、死への思いを込めてこの「ピエタ」を作り、自らその下に埋葬されることを望んだという。

ミケランジェロが4つの「ピエタ」を制作した年齢まとめてみると、「サン・ピエトロのピエタ」は23歳で着手し、25歳で完成。「ドゥオーモのピエタ」は75歳で着手したが未完成。「パレストリーナのピエタ」は80歳で着手したが未完成。「ロンダニーニのピエタ」は84歳で着手し、89歳で亡くなる数日前まで、彫り続けて未完成に終った。

ヴェッキオ宮殿で息子たちが結婚式を行った翌朝、私たち夫婦はフィレンツェを発ち帰国した。帰宅してすぐに森 隆君の家を妻と二人で弔問し、奥様とご子息にお目にかかった。家の中は予期しない不幸を表して痛々しく、お気の毒でたまらなかった。ご子息が、ご自分で書かれた告別式での挨拶文を、読ませていただいたが、突然の不幸にも関わらず、立派な文章であるのに感動した。遺影として、近畿中央病院の院長室に飾られていた写真が置かれていたが、知的で温和な彼らしい良い顔で、微笑んでいた。それを見ながら、彼の冥福を祈った。

彼の死によって、同期の卒業生80名のうち15名が、この世を去ったことになる。私たちの前後3年間の卒業生で、これほど多く死亡者がいる学年は他にはない。



図17.ロンダニーニのピエタ ミケランジェロが手直しを続けた未完成の遺作

この話は「運は時なり」を、こころに強く印象づけた。


新郎の父の挨拶

私は、ただいまご紹介いただきました、新郎の父、野村 望でございます。 皆様、本日は大変お忙しい中、圭と千佳の、結婚披露宴に、ご出席下さいまして、ありがとうございました。心から御礼申し上げます。

二人は、5月3日に、イタリアのフィレンツェにある、ヴェッキオ宮殿で、結婚式を挙げました。その結婚式も、今日の披露宴も、すべて、二人が計画し、二人で決めたことでございます。私ども両親も、二人に招待されて、ここに参りました。

本日の披露宴は、私がこれまでに経験したことのない、型破りなもので、正直言って驚きました。しかし、それ以上に楽しくて、幸せな気分になれました。

皆様方の中には、眉をひそめられた方も、いらっしゃることと存じますが、慶びごとに免じて、若い二人のわがままを、お許し頂ければ、何よりも嬉しく存じます。

私には、二人のことで、強く心に残っていることが、あります。それは、今から6年前の、2月25日の夜でした。圭が急性肝炎で緊急入院をしたと、大学から電話連絡がありました。肝臓の障害の程度を表すGPTが、8000を越えていると聞き、劇症肝炎でないか、命に別状はないか、と不安な気持で、妻と病室に駆けつけました。

そこで、初めて千佳さんに出会ったのです。伝染力の非常に強い肝炎、である可能性が高いというのに、千佳さんは、それを全く気にせず、必死で、圭の看病をしてくれていました。それを見て、私たちはホッとすると同時に、ことばで言い表せないほど、感動致しました。

与謝野鉄幹の歌に、「妻をめとらば才長けて、みめ麗しく、情けあり」とあります。

圭、お前は、ほんまに幸せ者だ! 千佳さんを大事にするんだぞ、分かってるな!
千佳さん、圭をよろしくね!

これから、時が過ぎ、自分の人生で、一番良かったことは何か、と振り返ったとき、ためらうことなく、それは結婚だった、と思うことができる家庭を、これから二人で、作り上げて行って下さい。

それが、私たちの願いであり、千佳さんのご両親もまた、同じ気持でいらっしゃることと、思います。

皆様、これからも、二人をどうかよろしく、お願い申し上げます。 本日は、まことに、ありがとうございました。


DVD制作第1号
息子夫婦の結婚式のDVDビデオの制作を、撮影1週間目に完了させた技法 詳細は!

DVDライブラリ
蒐集したDVDに登録番号を付け、整理し、保管収納する基本番号とした 詳細は!


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2004年 開業32年目 息子夫婦に引継ぐ準備

この年は、息子夫婦に引継ぐための準備に没頭した年であった。

頑固な私の総括
 私の頑固さを、ライフスタイル、道具や方法、価値観など、に分けて並べ上げた総括 詳細は!

医薬分業と院内処方
 医薬分業の利点と欠点、当院が院内処方を続けてきた理由、院内処方活用のための工夫など 詳細は!
野村医院勤務マニュアル 改訂8版
 1983年に初版発行、その改訂8版で、これを基に医院勤務者の実務マニュアルを出版した 詳細は!
病名マスターの標準化
 標準となった「新傷病名マスター」のコードに全面移行した理由と、具体的な方法を詳述 詳細は!
病名の履歴と略号
 カルテから、患者の病名の履歴が簡単に分かるための、いくつかの工夫をまとめた 詳細は!
後発薬品(ジェネリック)
 ゾロ品と呼ばれていた後発薬品を開業以来使わず、これからも使う気持になれない理由 詳細は!
薬の服用方法
 服薬方法を総合的にまとめた著作やWeb記事を発見できず、最初のまとめになるかも? 詳細は!
高血圧症薬物療法の変遷
 開業医として、31年間診療に従事したが、そのまとめの医療関係論文として選んだテーマ 詳細は!
デジタルX線画像 FCR Pico 使って
 デジタルX線装置FCRを導入、取説、パンフ、ヘルプを参考にしてまとめた使用法 詳細は!

健康一口ことば
 心に生きることばの中から健康に関係のあることば40篇を選び、新たに3篇を加えた 詳細は!


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13.リタイア後

2005年 開業リタイア 野村医院院長を長男圭に交替

この年は、自分の32年間の診療の総括と引継のために没頭してきたという思いと、間もなく、それから解放され、自分のしたいことに専念できるという期待と喜び、残された時間はわずかしかないという焦りが入り混じり、引き継ぎ引っ越しで疲労困憊した年であった。

また、この1年間はホームページの掲載記事が第三者の評価をいただいた年でもあった。その一つは、三共(株)のホームページに、当院のホームページの紹介記事が掲載されたこと。

二つ目は、このサイトに掲載した野村医院勤務マニュアルの記事がきっかけとなり、7月14日に医院勤務者の実務マニュアルとして出版できたことだ。これまでDTP自家出版は5冊あるが、分担執筆でなく、著作料をいただく単行本の出版はこれが最初である。

三つ目は、このサイトに掲載した記事が、Web検索で上位に表示されることを発見したことである。

しかし、あくまでも、自分がしたいことをして、それをこのサイトに掲載し、保管しているだけである。それが、他の方のお役に立てば嬉しいが、他の方のために作っているのではない。まして、第三者から評価していただくことを意識していることはない。

今回の息子夫婦への医院引継と、住まいの引越は、私たち夫婦にとって、結婚して以来の最大のイベントとなり、生涯経験したことのない、超多忙な3ヶ月余りの生活を送った。


息子に医院継承することを決めた事情

私たち夫婦には、息子に医院を引継いでもらう気持はほとんどなかった。私の場合、ぼんぼんで苦労知らずに育ってきた息子に継がせると、頑張りが利かず、失敗するだろうという理由からだったし、妻はこのような神経の使う仕事を継がせるのは、可哀想だと思うからだった。

それなのに、息子に引継がせても良いと思うことになったきっかけは、彼が1995年に医師となり、入局する医局を選ぶ際の彼の行動だった。第一内科に入ったと思ったら、第二内科に変わり、また第一内科に戻ると言う。「何で出たり入ったりカッコの悪いことをするのか」、と尋ねた答えに参ってしまった。「ここを継がしてくれないので、将来病院に勤める時に、雇ってもらえる技術を身に付けるには、どこへ入局したら良いか迷うからだ」と聞いた時、生まれてはじめて息子を可哀想だと思い、涙がこぼれた。

そして、発作的に、「これから10年間は野村医院を続ける。その間にお前に継がせても良いと私が判断し、お前もここを継ぎたいと思うなら、継がせても良い」と話してしまった。すると、息子の顔はさっと明るくなり、ものすごく嬉しそうな表情に変わった。もしも、この会話がなければ、息子への引継はなかったかもしれない。

息子への約束から、引継ぐ場合は自動的に1995年の10年先、つまり2005年の4月となる。何故かと言うと、開業医になるためには、医師として最低10年の経験が必要だからだ。これは、それまで私が考えてきた自分のタイムスケジュールより、4年長い。

私は、もともとあまり長く医師を続けるつもりはなかった。50歳となった年の年賀状に、「60歳から後は開業を止め、好きなことをしたい」と書き、高校の同窓会でも同じことを話すと、賛同してくれる者もいた。しかし、医者仲間の多くは、「60歳で開業を止めるのは早過ぎる、65歳まで働け」と言うので、結局、65歳にまでリタイアを延ばすことにしていたのが、さらに4年延びてしまったとことになる。

この話も「運は時なり」であることを示している。


翌2006年3月末に梅田のニユートーキヨーで引継ぎ予定のあらましを息子に伝えた記録が残っている。

1)私は65歳まで現状維持で診療する。
2)それ以降、66歳から69歳までは、診療のペースを大幅に減らす。
3)圭がこの医院を継ぎたいと思い、私が継がせてもよいと判断したなら、圭に引継ぎ、私は引退する。
4)今後、大きな設備投資は行わない。
5)これまで、法人に資産をできるだけ残さないように努めてきたが、圭が継承する可能性を考慮して、
  資産(現金)として残して行く。
6)もし、圭が引き継いだ場合は、引継ぎ業務のための診療を、長くても2〜3ケ月間一緒に行うが、
  その後は完全に引退する。
7)圭は新規開業のつもりで、設備、内装、その他を思い通りに変えていけばよい。
  もちろん、患者の引継ぎはしないし、またその頃には、激減しているであろう。
  診療方針についても、自分の思うようにすればよい。アドバイスを求められれば、喜んで応じる
  つもりだが、こちらから何も言うことはない。
8)引退と同時に、この家を出てマンションに移る。マンションは圭夫婦が入っていたところでも
  良いが(この時点では未婚だった)、その場合は、私たち夫婦も選択に関与する。
9)私の出資金を毎年61万円づつ圭に贈与してきたので、現在圭の出資金が最も多いが、これを続ける。
  継承しない場合、医院と家を売ることになるであろう。
  出資金割合に応じて、法人財産は分与されるので、圭には有利であろう。
10)出資金割合が圧倒的に圭に高いので、法人の実権は圭にあるが、必要なら理事長を何時でも譲る。

この中での2)の「66歳から69歳までは、診療のペースを大幅に減らす」というのは、65歳のある日、妻があまりに口うるさく反対するので、これを取り止め、69歳までペースダウンしないと約束してしまった。それは梅田ランプから入って、阪神高速の環状線を走っていた時だった。今も、その状況をはっきりと思い出すことができる。

また、7)の中の「もちろん患者の引継ぎはしない」というのは「患者を零にして、建物設備を引継ぐ」という意味で、自分ならそれを望むが、妻と息子に反対され、むしろ積極的に患者を引継いだと言えるかもしれない。そのほかについては、この「引継ぎ予定のあらまし」通りとなった。


診療方針、診療方法は必ずしも引き継ぐ必要はないが、診療システムは、これを利用した方が効率が良く、過去の患者データを生かすこともできるのではないかと思われる。そこで、診療システムに関係する引継事項を列挙して行くことにしたが、余りにも膨大で、作った本人が忘れているものもある。これでは引継ぐ者はうんざりして、全部放棄してしまうかもしれない。最初はここに書き込むつもりでいたが、診療システムの引継というタイトルで、別に掲載した。


引継ぎにあたって、医療機器や医療情報の廃棄の問題が生じる。医療機器の廃棄は、産業廃棄物として処理することで解決するが、カルテやX線フィルムなどの医療情報の廃棄には、法律の規制のほかにも多くの問題がある。これについても、医療情報の保存と廃棄のタイトルで、別に掲載した。


終の棲家を中之島のマンションに決めた事情

「引退と同時に、この家を出てマンションに移る」と先に書いたが、その場所は、以前から海の見える阪神間だと思ってきた。生まれ育った神戸では、いつも海と山が見えた。私は、どちらかと言うと、山よりも海の方が好きなので、阪神間と思ったのかもしれない。それがここ中之島に変わったのは、息子が2002年に婚約してから、本気でマンション選びを考えた結果と言えるだろう。

私たち夫婦が、結婚してから出かける場所は、圧倒的に梅田が多かった。開業してからも、それは変わらず、週1〜2回は梅田に出てくるのが、32年間続いた。だから、実際にマンションを選ぶとなると、海よりも、梅田に簡単に行けるところというのが、最優先条件となる。そうなると、大阪市内が有利なのは明白だ。

息子夫婦が婚約して間もなく、大阪市内の50階立て高層マンション建設の新聞広告があり、分譲売り出しが始まればここに応募するつもりで、建設予定地を下見に行ったりもした。そして、場所は殺風景だけれど、都会生活を楽しむには、ここで充分だろうと納得したのだった。3月18日には、息子へのメールで、このマンションを購入すると告げ、それに賛成する返事をもらった。それなのに、現在のマンションに入れ替わったのは、運命的なつながりがあったと言う気がしてならない。

それは、02年3月21日春分の日の朝だった。午後から大阪府医師会館で開かれる、「健康保険点数改正」の説明会に出席するために、家を出ようとして、ふと、目に止まった小さな新聞広告が、このマンションの第二期2次分譲である。場所は中之島、瞬間これだ!と思った。医師会館に行く途中で、建築中のマンションを眺め、それが中之島公園のすぐ北側であることを歩いて確かめると、心はこちらに移ってしまった。

そして、その2日後行なわれた、3月23日の第二期2次分譲に応募したが、抽選で外れてしまった。そのことを息子知らせたメールが残っている。

3月24日に息子に送ったメール
マンションの件ですが、シティータワーを止め、昨日23日にあったジーニス大阪の第二期2次分譲に応募しました。13階の西と南に面した手ごろな3LDKでしたが抽選外れとなりました。

シティータワーを止め、ジーニス大阪に変えた理由は
1.交通便が良い 南森町駅5分、北浜駅6分、大阪天満宮7分
         車でも堺筋、松屋町筋の合流点で便利
2.環境が良い  各駅から徒歩でも余り危険でない大きな表通りで帰れる
         中之島公園にも数分で歩いて行ける
3.眺めが良い  中之島公園、堂島川などが南面に見下ろせる
4.親近感あり  車で通い慣れた場所で、地理も良く知っている
5.敷地が広い(5,538.86m2>3,415m2)

今考えていることは、9階3LDK WNタイプがキャンセル物件であり、これを一応申し込んでおいて、 次期分譲の27階2LDK WLタイプに応募しようと考えています。どちらも3900万くらいで、予定よりも安いのですが、夫婦二人ならこれで充分かと思っています。それで異存はありませんか?これなら2003年3月引渡しです。


その後、29階2LDKのキャンセルが出たのでこれを申し込むことにした。

3月26日に息子に送ったメール
今回申し込むマンションは、私たち夫婦が引退してから住むためのもので、圭たちがそこに住まなければならないわけでは全くありません。あなたたちは、自分の好みの場所で、好みのマンションを借りて新婚生活を始めて何ら構わないし、その方が嬉しいのです。

そのことを伝えて置かなければ、要らぬ辛抱を強いることになるかもしれないと思い、お知らせすることにしました。

またこの機会に今後の私のタイムスケジュールも書いて置きます。決められた、または自分で決めたタイムリミットを私はこれまで守って来ました。それは私の生き方のスタイルの一つになっています。

<私のタイムスケジュール>
2002年
 3月末 (95年4月に圭と話をするまでは、この時点で引退するつもりでした)
2003年
 3月末 医師会役員引退
 8月末 開院30年終了
2004年
 3月中 「30年史」出版と記念パーティー
 4月から診療半減(月、火、水、木午前のみ)
2005年
 3月末 引退
 4月からマンションに転居
2006年
 4月 古希
2007年
 3月 没の予定
   (自分の寿命を70歳と予想し、それまでにしたいことの8割を果たしていたい)
    4月以降にも生があれば、それはおまけの人生、おまけはあればあるほど良い。

事故や病気など予想外のことがなければ、このタイムスケジュールでこれからの人生を送ります。約束した10年の残りとなる3年が過ぎて2005年3月末で私が引退した後、あなたたちがどうするかについては、その時点で好きなようにしたら良いのです。

後を継ぐか継がないか、継ぐとしたらどのような形をとるかなどは二人の思うようにしてもらって全く構いません。もちろんアドバイスを求められれば喜んでしますが、、、


この29階2LDKを止め、最終的に現在の家を選んだのは、息子と嫁(当時は許婚だった)の気持を知ったからだった。彼らは、私たちが購入しようとしているタイプの家は、終の棲家としてはふさわしくない、「自分たち二人が働いて不足分を補うようにするから、もう少しグレードを上げて欲しい」と言うのだ。それを知って、私は妻の猛反対を押し切り、一生に一度のわがままとして、現在の住宅を購入した。そのことを息子たちに知らせたメールも掲載しておく。

4月2日の息子へのメール
さっきは電話ありがとう。あなたたち二人の気持をとても嬉しく思いました。土曜日の電話で、私の終の棲家としてあの2LDKの部屋は不向きだとお前が思っていることを感じて、即座にあの3LDKの部屋を購入することに決めました。

時間がなくて、そのことを知らせなかったために、要らぬ気遣いをしてもらうことになり、申し訳ないとは思いますが、そのお陰で、二人の気持を知ることができて幸いだったと思っています。

あの部屋が残っていることを知ったとき、ここにしようと思ったのですが、そのことを口にするなり経子は血相を変えて反対したので、いろいろ妥協してみたり考え直したりしました。しかし、私の最後のわがままとして、あの部屋を購入することを経子に納得してもらったのです。

明日電話をして、明後日木曜日にジーニスを訪ね、もし未だ残っているなら契約をして来ようと思っています。売れていれば考え直します。 あの部屋の購入に同意するための経子の条件は、私の将来のタイムスケジュールをお前に正しく分かってもらうこと、あのようなマンションに、結婚した最初から住んだからと言って若いときから贅沢に慣れ親しんでしまわないで欲しいという親の気持を正しく伝えることの二つです。はじめの方は私が、あとの方は経子が特に望むことです。

私のタイム・スケジュール、特に2005年3月で診療を終えて中之島のマンションに転居することは不慮の事故、病気、死亡を除いて決して変わらないことを必ず承知しておいて下さい。

贅沢な生活の心配は経子が心配していることで、私は心配していないのですが、お前を思う母親の気持を分かってやって下さい。

以上の二つが約束されるなら、私たちはあなた方が新婚最初の2年間をあの素晴らしいマンションで始め、過ごし、幸せな家庭を作ってくれることが嬉しく、それを心から願っています。


私たち夫婦は、交野市からここ中之島に転居して来て、予想していた以上に快適な、都市生活を楽しんでいる。しかし、それは、このようなたくさんの幸運の連鎖があって、得られたものであり、どの一つが欠けても、ここに到達することはできなかっただろう。それを思うと、幸運をただ感謝するばかりだ。


医院大改装

年末になり、年賀状に「四月から医院を息子に引継ぎ、一段落したら、したいことをして、余生を過ごしたいものだと思っています」と書いた。そして、正月明け最初の診療日の1月5日、待合室の掲示板に「院長交代について」という患者さんへの説明文を掲示し、その印刷物も自由にお取りいただけるようにした。ホームページにも同じものを掲載した。

私の予定では、息子が年末に病院を辞め、4月までの3ヶ月間を一緒に診療をしながら、引継ぎをするつもりだった。それが駄目になった後も、1月末、いくら遅くても3月末には退職できることを期待していた。 しかし、6月中旬まで辞めることができないことが分かり、仕方なく、1月25日に「院長交代を9月に変更」するとの掲示を載せた。こうして、引継ぎは5ヶ月延びてしまった。

私は、これまでタイム・リミットを守らなかった記憶がなく、与えられたタイム・リミットはもちろん、自分で決めたタイム・リミットを守るのが、私の好み、生き方だった。今回は私の事情によるわけでないが、初めてタイム・リミットを守ることができず、残念に思った。しかし、思い切って9月に延期して良かったと、今は思っている。

そのわけは、今年の8月末で開業満32年となり、9月から野村医院は33年目に入ること、医療法人としての会計年度も9月から新年度に入ることでキリが良いこと。4月1日より全面施行となった個人情報保護法への対応は、開業未経験者には負担が重過ぎることなどで、これらを考慮すると、9月引き継ぎの方が望ましいと客観的に考えられるからだ。


開業してから32年間で、内装に手を加えたのは、壁紙の張替え2〜3回、床の上張り1回、トイレの職員用ドア設置、玄関ドアの外に付けた風除け2重ドア、受付をオープンカウンターに変えたことくらいで、天井、照明器具、窓、ブラインド、玄関ドア、室内ドアは、開業当初のままだった。それでは、うす汚れ古色蒼然として見るに耐えないと思われるに違いない。しかし、32年間内装にほとんど手を付けていないことを知ると、誰も驚きの声をあげ、少しも古さを感じさせないと言って下さるのが、いささか自慢だった。

その理由として、3ヶ月に1度は掃除屋さんに入ってもらってきたこと、初めからタバコを吸わないし、待合室での禁煙も、かなり早い時期から行なっていたこと、毎朝の掃除を専門の職員が続けてくれたこと、器具機器の取り扱いが乱暴ではなかったこと、自然環境が良かったこと、などの相乗効果ではないかと思っている。

同じように、診察机をはじめ全ての机、カルテ室のスチールラック、処置室のライトピン、整理棚など室内の機器も、32年間使って来たものばかりだった。こういう状況だから、息子に引継ぐ際には、大幅な改装を行い、診療機器や事務機器の取替えを希望するだろうと思って、医療法人にそのための資金を毎年増やして来た。そこで、息子たちには好きなように改装をし、医療機器や事務機器を買い換えて良いと伝え、求められればアドバイスはすると言っておいた。医院大改装は、この状態から始まったのである。

息子は6月15日を以て住友病院を退職したが、残務整理とかいろいろな事情があって、あまり交野へは帰って来ない。退職1週間後に、住友病院の患者さんが息子の診察を受けに来院されたのには驚いたが、この時も、息子はぎりぎりセーフで、交野にやってくるので気が気でなかった。

最初の予定では、4月に医院を引継ぎ、5月の連休にお互いが転居し、改装は夏休みに行なうつもりでいた。それが、9月に医院引継となったので、改装と転居の両方を、夏休み中に行なうことにした。改装を夏休みにして、新装なった医院で引継を行なうことには、誰も異論はないと思うが、転居は、引継の後でも良かったのではないかと思われるかもしれない。それでも、その両方を行なうことにしたのは、私の焦りからだった。

私は、かなり以前から、71歳になる前に死ぬと予想をし、そのつもりで生きてきた。71歳の確たる根拠などあるわけはないが、医学部同期卒業生80名の内の16名、同期に第一外科入局した8名の内の2名が鬼籍に入っており、父が70歳を過ぎて亡くなったことから、そう思ってもおかしくはあるまい。予定通り、4月に医院を引継いでも、残りは2年間しかないと思ってきたが、それが5ヶ月延びたので、残るは19ヶ月ばかり。それを思うと、引継いでから転居をすることなどは、とうてい考えられなかった。

最近は、30日分投薬がかなり多い。そのため、夏休みの予告は、1ヶ月以上前からしておく必要がある。夏休み中に医院の改装をするので、工期についても、工務店と打ち合わせをする必要があり、7月11日に電話をして翌12日に来て頂いた。その結果、盆を挟んでいるので、前倒しでなければ材料の入手などが困難だとの説明を受け、予定していたよりも開始を早め、夏休みを8月11日から21日までと決め、それを掲示するとともに、印刷した夏休み表を患者さんにお渡しした。

今回の改装については、まったく息子夫婦にまかせ、壁を外しても良い、32年前の和式のトイレは貧相なので変えるようにと、アドバイスをした程度だった。床を張替えるにあたり、仕上がりが良くなるように、一番底のPタイルまで外し、床スラブ(鉄筋コンクリートの床)を削って、滑らかにすることになったが、そうするには、工期が足りなく、夏休みを半日前倒しして、10日の午後からの開始に変更した。

7月19日に、息子は改装のための計測を行ない、翌日から工務店、電気工事店と打ち合わせを重ねていた。私は設計が好きで、これまでは医院や居宅の設計、居宅の増改築の設計の主要な部分を私が行い、平面図はちろん立面図もパースも自分で書いてきた。しかし、今回は手を出さなかった。だから、どのように改装しようとしているのかよく分からないでいたある日、パソコン画面に3Dの設計図を見せられて驚いた。「3Dオフィスデザイナー」というオフィスのレイアウト作成ソフトを使って、デモをしてくれたというわけ、昔から要領の良い男だった。

今回は、医院内全部の天井、壁、床を改装するので、壁に固定してある棚は外しておかなければならない。高さ200cmの棚が診察室とレントゲン室に3個あり、それにぎっしり医療関係の書籍を置いてきた。この撤去作業も面倒だったが、それに劣らぬ、数多くのスチール製キャビネットがあり、この中に、医療関連の膨大な資料や記録が入っているので、その処理は、それ以上に大変だった。しかも、その間に、居宅の方の引越準備も並行して行っていたのだった。


8月10日の午前の診療が終わると、間もなく引越センターから13名がやってきて、1時から作業を始め、4時過ぎまでかかって、カルテ、X線フィルム、薬はもちろん、医院内にある移動できる物品をすべて運び出して、倉庫に保管した。これは、その2日前に、荷物を全部を出して部屋を空にしなければ工事ができないと、工務店側から申し出があり、急遽決まったことだった。

夏休み中で、改装工事中であっても、留守でない限り、来院される患者に対応しなければならない場合が必ず出てくる。そこで、前月と当月来院患者のカルテと繁用薬を選び、レセコンとともに居宅へ移動した。その居宅の方も17日には、息子夫婦がここへ転居してくるし、私たちは、19日に大阪市内に転居するので、荷物が山積みになっていて、移動場所確保も難しい状況だった。


改装の進捗状況を簡単に記すと

8月10日(水)
移動可能な診療機器、事務機器、衛生機器などを医院から運び出し、天井に新しい照明器具設置用の穴を開けたところで、この日の作業は終わった。

8月11日(木)
本格的に工事が始まった。床を剥がしてスラブ剥き出しとし、壁を取り除き、背の高いドアに取り替えるための作業と、トイレの改造が始まった。

8月12日(金)
天井や壁に、ベニヤ板を貼る作業が終了し、背の高いドアへの取替えも終わった。配電盤を、将来の電力使用量増加に対応できるよう、大型のものに取り替えた。

8月13日(土)
天井、壁のベニヤ板貼りとドアの取り付けが終わった。しかし、ドアと壁について少し手直しを求めた。

8月14日(日)
壁紙を貼るための下ごしらえが始まった。診察室と待合室の間のガラス壁の段差の修正を求めた。お盆で、日曜日だったが、大工の棟梁と連絡がつき、翌日修正工事に取り掛かってくれた。

8月15日(月)
壁紙を貼る下ごしらえを行い、待合室と診察室の間のガラス壁の段差をなくした。ペンキ塗り終了。

8月16日(火)
天井と壁にビニールクロスが貼られた。

8月17日(水)
天井と壁のビニールクロス貼り、照明器具の設置がすべて完了。室内のガラス壁の色が、これまでの透明からアクアマリーン色に変更された。この日、息子夫婦が転居してきた。

8月18日(木)
床の舗装が完了し、トイレの便器、検査用流しが設置された。

8月19日(金)
トイレのサイドキャビネットと洗面所の機器が設置され、工事は完了した。この日、私たち夫婦は大阪市内へ転居した。


居宅引越し

医院引継ぎのための準備は、1年近くかけて行ない 「医療情報の保存と廃棄」「診療システムの引継」として、別にまとめた。引越は、ゴールデンウイークにをするつもりでいたが、引継ぎが、息子の勤務病院の都合で、4月から9月に延びたので、引越の準備も遅れ、実際に開始したのは5月の半ばからだった。

医院と居宅がつながった家に住んできたので、私の個人的な持ち物は、何十箇所にも分散し、おおまかな置き場所の分類はしておいたが、その整理はほとんどしていなかった。また、私は自分の生きてきた途中で遭遇し、自分にとって大切だと思われるものや、自分の思い出に残ると思われるものは、できるだけ残してきた。たとえば、受け取った郵便物は、大学へ入った頃から、その大部分を書庫や診察室などに、簡単な整理をしただけで保管していた。ことほど左様に、私の大事な持ち物は、人から呆れられる類の質のものが、呆れられるほどの量で、存在していたのだ。

その上、「明日できることを今日はしない」主義で、子どもの頃から生きて来たので、必要に迫られないと、整理や処分をすることはしなかった。しかし、今回はマンションに引越すのだから、大量に廃棄処分をしなければならない。そこで、まず手始めに、郵便物を5月12日から4日間で整理と処分をし、続けて、写真、各種記録、書籍と対象を拡げて行った。

その中で、置き場所が、書籍に次いであちこちに分散していたのは写真だった。医院内に数箇所、居宅の書庫にも数箇所、そのほか2階、寝室、食堂などに、写真やネガフィルム、スライドフィルムが、整理されず、放り込まれていた。これを整理する時間的余裕はなく、「写真類」と書いて、3個の段ボール箱に詰めるのが精一杯だった。

LPは400枚ばかりを寝室に置いていたが、今後CDで入手できそうにない約10枚と、表紙が気に入ったジャケット約80枚を残し、すべて処分した。LDは、110枚ばかりを寝室に置いていたが、DVDに焼き付けていない20枚ばかりと、表紙が気に入ったジャケット80枚あまりを、引越荷物に加えた。LPやLDのジャケットは、CDやDVDと違って、写真が大きく、思い出が深い。そこで、重い中身の方は処分して、紙のジャケットをその形見として保存しておくことにしたのだ。CDやDVD、自分が記録した音声のカセットテープ、映像の8ミリシネ、Hi8、DV、VHSは、ほとんど廃棄しなかった。

私は、未整理の段階のものを残すことには貪欲だが、目を通して整理し、特に大切と思わなければ、一瞬の判断で未練なく捨ててしまうことができる。そのため、まれには、捨てなかったら良かったと後で思うものも出てくるが、「しゃーないことはしゃーない」と、諦めは良い。また、一旦何かを始めると、何時間でもぶっ続けでやるという「 集中主義」も私の行動パターンで、今回も例外ではなかった。しかし、片付けた後から後から次々と解決しなければならない課題が待っていた。

そのため、肉体的にくたくたになり、よく書き込んできた掲示板にも、ご無沙汰を続け、それを訝る書き込みに対しては、7月27日に「ごめんなさ〜い!! もうくたくた!!」と、書き込んで答えるのが精一杯だった。

廃棄処分した量が一番多かったのは本だった。医学図書は90%くらいを捨て、約8%を息子に残し、残り2%程度をこちらに持ってきた。必要な最新の医学知識は、「今日の診療」というDVDから得ることができる。これには最新の医学書が12冊分収められ、毎年改訂されるので、診療していた時にもこれを重用してきた。だから、引退した後も、これだけで充分である。こちらに持ってきた2%程度の医学図書というのは、まとめておきたい医学関係のテーマ(小児科、ストレス、自然治癒力、医療図譜など)に関するものに限られている。

医学書に次いで、大量に廃棄したのは、雑誌とパソコン関係の図書だった。これらは、日進月歩で直ぐに内容が古くなるので、狭いマンションに運ぶ価値はないと考えた。それに対して、廃棄が最も少なかったのは音楽関係で、そのほか美術、映画、旅行など、趣味的なものはできるだけ置いておくことにした。

医学図書やパソコン関係の図書、雑誌などの廃棄は、古本雑誌の回収業者に任せたが、それ以外の処分する書籍は、図書館に寄付をしようと思っていた。ところが、近くの図書館に問い合わせてみると、収容するスペースがなく、現在は寄付を受け付けていないという。当てが外れて、大量の書籍の始末に困り、町内会の会長に相談したところ、ある町内会で今、図書館を作ろうとしていることを教えてくれた。

そちらに連絡すると、3人で引き取りに来てくれた。父の蔵書も含めて大量の書籍を、軽トラックに山積みにして、パンクしないか心配になるほどタイヤをペシャンコにした状態で、出て行くのを見送った。その一人が、トラックに本を積み込みながら、「こんな本を見たら、随喜の涙を流す会員がいる」とつぶやくのを聞いて、私も妻も嬉しかった。

私はこれまで「野村医院二十年史」「還暦まで」のほか、3冊のパソコン関係の本を自家出版していて、その内の「野村医院二十年史」を除いて大量の在庫を持っていた。引越にあたり、これらを図書館に寄付するわけにはいかず、古本雑誌の回収業者に持って行ってもらうことにして、ガレージに積み上げていたが、ある時思いつき、「ご自由にお持ち帰り下さい」、と張り紙をつけて「還暦まで」を待合室に置いて見た。すると、その日の午前中に3冊、夜に2冊が無くなった。それが6月22日のことだった。それから、改装を始めた7月10日までの8週間で、合計173冊を患者さんが持ち帰って下さったのである。

私は、これまで自家出版しても、患者さんには特定の人に差し上げるだけで、待合室に置くことをして来なかった。何か宣伝をしているように思えて、嫌だったからだ。ところが、今回古本回収業者に処理してもらうことになり、それではこの本がちょっと可哀だという気がして、待合室に置いてみたのだった。それに、もう引退するのだから、宣伝と受け取られることもないだろうとも思った。

ところが、予想に反して好評で、多くの人がお礼を言って下さり、読後感を話してくれたり、メールをいただいたりした。こんなことなら、最初から待合室に出しておけば良かったと思うほどだった。その中で、ある高齢の女性が話された感想がとても嬉しかった。

「先生はほんまに運がよろしいなあ、何か悪くなりかけたと思ったら、直ぐに良くなる。ご両親より生まれた時から、良い星の下に生まれはったんや。そやけど、先生、先生の一番運が良かったのは、奥さんと結婚しはったことやで」とのたまうのだ。大笑いしながら、「私もそう思ってます」と答えた。この方は、大河ドラマ「義経」で白石加代子さん扮する老婆に雰囲気が似ている方で、それ以来、私たち夫婦は、この方を本名ではなく、「あの白石加代子さん」と呼んでいる。


シップ剤を入れていた空の段ボール箱をこれまで貯めてあったが、整理処分が進むにつれ、瞬く間に備蓄は底をついた。昔なら薬問屋に頼めば、いくらでも空箱を持ってきてくれたのが、最近は、ゴミ処理問題がからんで、手に入らなくなり困惑した。その時、T問屋のSさんが、折りたたんだ段ボール箱を30個分ほど持ち込んできてくれて、感激したのを覚えている。後になって、引越センターが見積もりに来て、たくさんの段ボール箱を置いていったが、それは8月のはじめのこと、それまでの間は、段ボール箱探しに神経を使った。

レントゲン室に置いてあったDVD600枚ほどを、段ボール箱に詰め、それを運ぼうと持ち上げた瞬間、底が抜けて、無残にも診察室の床に飛び散ってしまった。なんちゅうこっちゃ! ガムテープの補強が不十分だったのだろう。あちこちに散乱しているDVDを、苦労して全部を拾い集めたつもりでいたが、医院の改装で、室内の机やロッカーを移動した際に、3枚のDVDが出てきたのには驚いた。


8月7日の日曜日に、引越センターが見積りにやってきた。その時、荷物の大部分はすでにリビングに積み重ねて置いていた。ここの見積りを終えたあと、息子たちのところに行って見積を出すというのを聞いて、「彼らは結婚して2年半にならないから、荷物はここよりもっと少ないと思うよ」と教えておいた。ところが、実際はその反対だったのだ。

8月10日から改装工事が始まり、その対応と、引越の準備のために疲労は日に日に増して行った。8月15日は野村医院ホームページ開設10周年目だったが、「ホームページ開設10年目の感想」の中で、「生涯経験したことのない超多忙な中で迎える8月15日となりました。」と書いている。しかし、それから後は、ますます疲労の程度が増し、極限状態に近いのではないかと思えるほどになるのだった。

8月17日に息子夫婦が転居してきた。その荷物は、私たちの予想をはるかに越え、私たちの荷物と合わせると一階には荷物を置く場所がない。私は書籍の大部分を書庫に未整理で残し、年末までに少しづつ運び出すつもりでいた。ところが、息子夫婦の荷物の多さを見た妻に、書庫の一部を空けて、ここにも息子たちの荷物を置けるようにしてやれと言われ、それに従った。その時、この書庫まで息子夫婦に使われるのなら、年内とは言わず、速やかに書籍を運び出そうと心に決めた。

息子夫婦が転居してきた翌々日の8月19日に、今度は私たちが交野を離れ、マンションに転居した。部屋が狭く、使っているベッドが入らないというので、盆休みに新しくベッドを購入したが、届いたのは入居して1週間ほど経ってから。それまでは、フローリングの上に布団を敷いて眠った。朝6時半に、家を出て車で交野まで通い、夜の診療を終えて9時過ぎに帰宅すると、もうくたくたで、家に着くなり、眠ってしまう日が多く、ベッドなしでも苦にはならなかった。

8月21日の日曜日で夏休みは終わった。改装も終わり、翌日からの診療開始に備えて、いろいろ準備をしている内に、背中が痛くて仕事ができなくなり、床に座りこんでしまった。この背中が痛くなるのは、転居した頃から何回も起こり、毎日のように妻に背中へ乗ってもらって解消させていた。しかし、これは使ってこなかった筋肉を長時間連続で使ったために起きる筋肉痛だと解釈し、気にもしていなかった。

ところが、それを見た妻は血相を変え、狭心症と違うかと騒ぎ、心電図を撮り、息子に心エコー検査を頼み、それが大丈夫だと分かると、最近、下腹が出てきているので、腹水が貯まっているのではないかと、腹部エコー検査まで頼む始末。いつものことながら、心配になれば、それを炎のように燃え上がらせる妻の性格に、周りの者は振り回されてしまう。いずれにしても、その頃、私が疲労困憊の極致に近い状態だったことは、間違いなかった。

書庫の書籍類を、できるだけ早く運び出し、マンションに持ち帰ろうと決めたので、猛烈に忙しくなり、腰や背中の筋肉を酷使する日が何日も続いた。猛暑の中、エアコンのない書庫で作業をするため、ぬぐった手ぬぐいがしぼれるくらいの汗をかきながら、段ボールに書籍を詰め、ガレージの中の車に運んだ。段ボール箱一杯に本を詰めると、一人では持ち上げられないほど重い。しかし、できるだけ速やかに運び出したい気持でいるため、火事場の馬鹿力が出たようだった。

そのような心理状態ではあったが、ぎっくり腰にはならないように注意することを、毎回忘れなかった。それは、重いものを持ち上げる時に、相撲取りが四股を踏む時のように、背骨を真っ直ぐにすることで、決して背骨を曲げた状態で重いものを持ち上げないという単純なやりかたである。とにかく、ぎっくり腰だけにはならない、なれば大変だから、という気持が常に頭にあった。今ふり返ってみて、あの時には、脱水による脳梗塞の心配もあったのだが、脱水については日頃から気をつけているので、案外、水分は摂っていたのかもしれない。

トランクのほかにも、後部座席に、書籍の詰まった段ボール箱を、バックミラーが見えないほど積み上げ、何回マンションへ運んだことか! その度に、マンションの各部屋には、段ボール箱が所狭しと積み上げられて行った。もしも、これらの書籍を引越センターに運んでもらうことにしていたら、これほどの苦労をしなくて済んだわけだが、息子夫婦の荷物がこれほど多いとは予想していなかったので、これも致し方なかった。


最近、物忘れがひどくなってきたような気がしていたが、古希を迎える年になったのだから、こんなものだろうとも思っていた。ところが、引継ぎの前後から物忘れがとみにひどくなり、何度も失敗するに及んで、何か対策を立てる必要に迫られた。

物忘れ対策として最初に行なったのが、ちょっと大きめの手帳(11x15cm)の購入だった。ここに、しておかなければならないことを箇条書きにして、持ち歩くことで物忘れが少なくなると考えたが、5日目で中止した。というのは、この大きさでは、ズボンのポケットに入れ辛く、あちこちの机の上に置き忘れ、肝腎の手帳が見つからないという失敗が続いたからだ。

そこで、次は普通サイズ(14x9cm)の手帳に変えてみた。これはかなり長持ちをしたが、しなければならないことの量が減るにつれ、もっと薄くてスケジュールが書ければ良いということになり、月間スケジュール帳に変更した。ところが、これぐらいなら、覚えておけるかなと思っているうちに、どこかへ消え失せてしまった。薄すぎて、何かと一緒にポケットから滑り落ちたのかもしれない。今では、昔に戻って手帳なしの生活をしている。

そこで考えて見るのだが、マンションに移るまでは、診察机の前のPCで、毎日の予定を見るし、受付にはスケジュールを書いた卓上型ダイアリーがあり、壁には月間スケジュールが書き込まれていた。だから、どこかでスケジュールがチェックされていた。それが、マンションからの自動車通勤に代わると、そのようなものが全てなくなるので、新しい環境に慣れるまでは、忘れることが多くて当然だったのではなかろうか?

携帯電話を持ち始めて10年以上になるが、外出する際にそれを忘れたことは、過去に一度あっただけだった。ところが、自動車通勤をし始めた最初の頃の8月23日に、私たち夫婦は、二人とも、携帯を忘れてマンションを出てきてしまった。その日は、めまいを訴える患者さんがいて、本人の来院がなく、家族に説明をして夜の診療を終え、帰途についた。

診療時間外にあたるその頃、当の患者さんの家族が、めまいがひどいと電話をかけて来られたそうだ。そこで息子が、私たちの携帯に電話をしても通じないので、かなり困ったらしい。この失敗をした時は、いよいよ私たちもヤキが回ったと落ちこんだのだが、環境が激変した上に、疲労困憊状態だったので、それもまた、致し方なかったのではないかと今は思っている。

携帯を忘れた日の翌日8月24日の朝のことだった。交野に着いて、医院の中へ入ろうとする私に、掃除を担当している職員から「これ捨てても良いんですか?」と尋られた。何かと見てみると、前日に捨ててるようにと渡しておいた角封筒だった。その封筒の中にお金が入っているではないか! それを知った瞬間、ああ駄目だ、まともな判断ができないと思った。それを受け取るなり、うわの空で、車の中にその封筒を放り込むと、逃げるようにその場を離れた。

その時、私は手に同じA4角封筒を持っていたはずだった。その中に電話の契約書が入っていた。この契約書は、私が半ば騙されて、電話機を取り替えた際に取り交わしたものだった。これがあれば、電話機を新しいものに変える手続きをしてあげると、今回の改装で電話工事をしてくれた人に言われ、苦労して探し出してきたもので、大変重要なものだと当時は思っていた。

ところが、昼になってくだんの電話会社の担当者が来て、渡そうとしたら、封筒がどこにもない。家に忘れてきたのかと帰って隈なく探したが見つからない。結局、あのお金を捨てようとした時の狼狽で、ごみの中へ捨ててしまったのに違いないという結論になった。私は、それまでほとんど鞄を持ったことがなく、たいていは、角封筒で済まして来たのだが、この始末にほとほと参ってしまった。

思い返してみると、むかし、妻にプロポーズする30分くらい前に、封筒に入れた講習会用の大切なテキストを、一緒に食事をした寿司屋に忘れてきて、結局、出てこなかったことがあった。また、医師会の講習会に出席したあと、受講した連中と帰り道で飲んだ時にも、封筒に入れたテキストを忘れてきた。

大事なものを封筒に入れて持ち運ぶ危険を、この時存分に思い知らされたので、翌日、肩掛けの鞄を買った。その鞄は、それ以来大切な書類などを持ち運ぶときには必ず使っている。中でも、交野へ行く時には、たとえ重要なものが入っていなくても、必ず携行している。というのは、交野で大事なものを受け取るかもしれないからだ。

最近になって、あの失った契約書は重要なものではなく、それがあってもなくても、影響はないことを知った。また、おめでたくだまされかけたようだ。

もう一つ、認知症気味ではないかといささか心配になる失敗をしてしまった。それは、9月3日のこと、マンションに帰り着いたところで、携帯に息子から電話があり、妻が、息子の車のキーを持って帰っていないかと言うのだ。何でも食堂の机の上に置いておいたのが無くなっている。その机の上には、妻の車のキーもあったので、間違えて一緒に持っていったかもしれないと思ったのだろう。妻は身の回りを探して、持って帰っていないと答えていた。

部屋に入って外出から帰った時の習慣で、服のポケットの中身を全部机の上に置いてみると、見慣れないキーホルダーがある。瞬間、しまった! 私が持って帰ったんだ! と悟り、大慌てで、息子に電話をして平謝りに謝った。謝るだけでなく、なにか償いをしなければ私の気が収まらない。翌日は日曜日だったので、ほとんど一日かけて、小児の薬用量、小児に使う薬、簡易薬用量、繁用処方をまとめた「小児の薬」を書き上げて、翌月曜日に息子に渡した。今、一番息子が知りたいことは、これだろうと思って作ったが、それは当たっていたようだった。

私が重ねたこれらの認知症的な失敗は、8月22日から9月3日までの2週間に集中している。ということは、この時の私の精神状態を、表していると思うのだが、どうだろう?


私の精神状態が一番不安定だったのは、上に書いたように8月末から9月はじめまでだったようだ。しかし、肉体的に一番疲れていた時期は、それより遅れて、9月半ばから11月半ばまでの2ヶ月間だったように思える。その理由を、体重の減少から述べてみたい。

30歳の時の釣書に書いた身長は169cm、体重64kgだった。結婚してから、私の体重は徐々に増えては来たが、70kgを超えたことはほとんど無く、68±1kgを保ってきた。だから、今でも結婚当時の服を着ることができる。ところが、9月5日にたまたま測ってみると、65.7kgに減っている。それから時々測ってみると、9月19日は64.2、10月1日は63.9、10月17日は63.7となり、11月11日には何と62.6kgにまで減ってしまっていた。4月24日測ったデータが残っていて、69.0だったので、2〜3ヶ月の間にで6kg以上も体重が減ったことになる。

体重が減ることについて、最初は食事が不規則で充分摂れていないからだと考え、余り気にしていなかった。しかし、さすがに62kgまで減ると、このまま体重が減り続けば、栄養失調になり、抵抗力が下がって、何らかの病気が出てくるかもしれないと思った。この日は妻の誕生日だったが、東京で入院している姉を見舞うため、妻は早朝に新幹線で出掛けて不在だった。こんな時は、いつもなら面倒くさいので、何も食べずにいることが多いが、この日は、慌てて食べ物を口に放り込んだ。そして、それからは意識して食べるようにした。

その当時、あまり食べなかったのは、食欲がないからではなく、食べればいくらでも食べられたのだと思う。しかし、空腹感がなく、食べることを忘れているというのが本当のところだった。ふり返ってみて、このようなことは生まれてこのかた経験していない。同じように、それまでは新聞を2紙、欠かさず読んでいたが、転居してからほとんど読まなかった。時間がないだけでなく、読むことを忘れていた。これも経験したことがなく、当時よほど異常な状態にいたのだろう。一旦食べることを意識してからは、体重は速やかに回復し、元のレベルに戻ってしまった。やれやれ。


引越センターが運んでくれた段ボール箱のほかに、自分で何回にも分けて書籍を詰めて運んできたのが、マンションのどの部屋にも山積みとなっている。目障りで気になるのだが、これがなかなか片付かない。箱の表に、マジックで中身を書いてあるにも関わらず、書いている部分が見えなかったり、書き方が不完全で、結局は、中を開けなければ中身が分からないことも多く、いらだちながら、作業を進めて行った。

食卓や椅子、応接セットは、息子夫婦が良いものを残していってくれたが、天井に付けた扇風機と、たくさんのスポットライトは、趣味に合わず、シーリングライトに取替えることにした。また、私は、このマンションに自分の書斎を持ち、そこを作業場にすることが夢だったので、本箱と作業机を購入することにした。そのほかには、世界最初の、65インチ液晶TVと、資料室のための整理用家具を購入した。

山積み段ボール箱を片付けるには自分の部屋を確保しなければならない。ここで、私は結婚してはじめて、妻と相談することなく、自分の書斎にする部屋を選んだ。相談すれば、認めてくれたとは思うが、それをせず、ここを使うと宣言した。そして、「あと2年足らずの命、一生のお願いだから、ここを使わせてくれ」と殺し文句を付け加えた。この部屋は、リビング・ダイニングを除けば一番大きな部屋で、隣にウォークイン・クローゼットが附属している。これも資料室にするから使いたいと言って、渋り気味の妻を納得させた。

部屋が決まると、本箱と作業机と椅子がいる。9月5日に家具団地のM店へ行き、気に入った本箱、机、椅子を見つけた。マンションに帰って部屋のサイズを測り、必要な数量を決め、翌6日に購入した。この店は、20数年前の増築の際に、ほとんどの家具をここで購入したことがあり、私たち夫婦の趣味に合うものが多かった。いつもなら、妻が迷いに迷うので、直ぐに決まることがないのだが、今回は私の本箱や机である上、値段が安かったためか、1時間足らずで決めても、文句は出なかった。

9月11日に本箱、机、椅子が運び込まれ、組立られていった。本箱も机も、イメージしていた以上に書斎にマッチし、本箱は最初からの造り付けのように堂々としていた。それをみて、なぜか、少々武骨な大英博物館が脳裏に浮かんだ。組立作業をしていた一人に、「こんなにたくさんの本が必要な人は、作家か大学の先生かお医者さんですね」と言われて可笑しかった。この何倍もの数量の本を処分してきたのだが、普通の人にとって、ここに持ってきた数量でも驚くようだ。

息子夫婦は、天井に扇風機を付け、照明にはたくさんのスポットライトを使っていたが、どちらも、私たちの趣味に合わなかった。ただし、ここは天井が2400mmと低く、ペンダント型の照明は不似合いなので、シーリングライトに取替えることにした。ヤマギワを訪れると、20数年前に購入して交野の家のリビングに今も置いてあるフロスの「ARCO」が陳列されており、食堂で今も使っている ヤマギワ「MINI」も展示されていた。あの頃私たちの選んだ照明器具が、今も評価されて販売されていることを知って、嬉しかった。

したいことを、作るなどの能動的欲求と、鑑賞するなどの受動的欲求、それに美味いものを食べるなどの基本的欲求に大きく分けると、時間が限られている中では、能動的欲求を一番満たしたかった。しかし、診療を離れ、時間的余裕ができたら、鑑賞などの受動的欲求も満たしたいと思ってきた。

その中には、ハイビジョンの美しい映像や、DVDに収められた懐かしい映画などを、ホームシアターの大画面で鑑賞することも含まれていた。ヨドバシカメラの店頭展示で比較すると、同じサイズであれば、液晶の方がプラズマよりも映像が優れている。しかし、液晶は45インチが最大であるのに対してプラズマは65インチまであり、画質をとるか、サイズをとるかで決めかねていた。

そこへ、6月3日の朝刊は、シャープが65インチのデジタルハイビジョン液晶テレビを、8月に発売すると報じた。その記事を読んだ私は、思わず快哉を叫んだ。終の棲家とするマンションで、世界最大サイズの液晶テレビを観ることができるなんて、なんと、自分はついているのか! そして、即刻これを購入しようと決めた。私に残された人生はもう長くはない、その最後の期間に映画鑑賞や、過去に撮り貯め編集した動画を楽しもう。そのために購入する大型TVは、私にとって贅沢品ではなく、必需品だった。7月28日に、某デパートがこの販売を始めた日に、展示会場で実物を確かめ、即刻購入した。その日は、若い友人たちが私たち夫婦の送別会を持ってくれた日だった。

民生用(家庭用)で、世界最初の製品を、発売当初に購入した経験が他にも三つある。その一つは、世界最初のTTL露出計内蔵一眼レフ、アサヒペンタックス・スポットマチックだった。神戸の川崎病院に出張勤務していた64年に、このカメラの発売を知って、三宮の小山カメラに予約注文して手に入れた。当時の給与の2〜3ヶ月分だったと思うが、まったく気にならなかった。そして、これを学術的にも趣味でもフルに活用した。

二つ目は、アカイのカラービデオカメラAKAI VTS-150で、体調不良だった75年に、げん直しの意味で購入したが、余り活用することはなかった。今ふり返って見て、これはまだまだ完成度が低く、実用性に乏しかったこと、端からげん直しが目的で、欲しくてたまらない代物ではなかったからだと思う。その代わり、高解像度のHi8のビデオカメラSONYのCCD-TR705が91年に発売されると、即刻購入した。こちらは、海外旅行を含めていろいろな記録でフルに活用した。

三つ目は、エプソンのイメージスキャナーGT3000である。それまでのイメージスキャナは、100万円以上もしていて、欲しくても手が出なかった。それが、86年に198,000円という一桁少ない価格で発売されること知った時、パソコンショップに予約注文をして購入し、これもまた、フルに活用した。

これらの、予約注文をして購入したものに共通するのは、それまで欲しくても製品がなかったもので、しかも、無理をすればなんとか購入できる価格で発売されたものである。いずれも、とことんこき使い、フルに活用したと思っている。65インチ液晶TVも、きっと同じ使い方をすることだろう。

本箱と机椅子が運びこまれた、同じ9月11日に、この65インチ液晶TVもまた運びこまれて、設置が終わった。この大型TV内蔵のスピーカーでも充分良い音で支障はないが、5.1chフルサラウンドを追加する意味で、BOSEの3・2・1GSIIを購入した。これは音楽番組に使っている。


このマンションには、NTT西日本の光ファイバーが、各戸の各部屋に引かれている。そのLAN端子に接続するだけでインターネット接続が可能なので、新しく光ファイバーを引くことも、ADSLを引くことも無用だった。書斎に2台のPCを設置するため、この部屋に来ているLAN端子にスイッチング・ハブを付け、そこから、2台のPCに接続する形でネットワークを完了した。

書斎の整理の目途がついたところで、資料室を整理するための家具を購入した。その中で一番苦労したのが、DVD、CD、VHS、カセットテープなどのオーディオ・ビジュアル(AV)関連を整理する家具だったが、CDラックの中にそれを見つけた。これを4点購入し、ウォークイン・クローゼットの、ハンガーパイプを取り外して、そこへ設置した。それが終わると、オーディオ・ビジュアル(AV)関連だけでなく、写真や、いろいろの記録の整理を行なって行った。

何かを整理したり、まとめたりを、カッチリしなければならない時に、昔から使ってきたやりかたがある。それは「群化」という方法で、まず、大きくグループ分けをして、そのグループの一つを、またグループ分けする。アバウトな方法だが、使ってみると効率が良くて、大きな失敗をすることが少なくて済む。今回もそれを使った。

具体的には、段ボール箱の中身を直接チェックし、大きなグループに分け、その一つを1箇所にまとめ、その中をまた分けて、床の上に小グループを作る。床の上が、それらによってところ狭しと占拠され、足の踏み場もないほどの状態で片付作業を行った。その時には、「各個撃破」という、これまた、私の問題解決のテクニックも援用した。


私はこれまで自分の書斎を持ったことがなかった。開業していた32年間は、専ら診察室をそれに代えていた。普段の仕事をする机は、診察室の机を兼用し、特殊な作業は、LANで結んだ検査室の机で行なってきた。しかし、こちらでは、これまでと違って同じ部屋の中に、180cmの細長い作業用机を2台連ねて並べ、入口に近い側を普段に使い、奥のは写真印刷とか動画の編集など、特殊な作業に使っている。机を置いている側の壁には、開業二十年を祝って恩師曲直部壽夫先生が贈って下さった「一筋の道」という揮毫を掛けた。

交野では、書籍の置き場所として、書庫を1室持ってはいたが、それだけでは足りず、診察室に2ヶ所、レントゲン室に3ヶ所、暗室に1ヶ所、検査室に2ヶ所、寝室に3ヶ所、食堂に1ヶ所、居間に1ヶ所と、あちこちに分散させていた。これらの置き場所は、大きくグループ分けをしてはいたが、物理的に使い勝手が悪いのは、致し方なかった。また、居宅と医院の空いているスペースに分散保管するというこの方式は、なまじ、保管場所があるがため、書籍がとめどなく増殖を続けようとする性質を押さえきれず、時には、泣いて馬謖(ばしょく)を斬る必要があった。もちろん、見た目が悪くなるという欠点もあった。

これに対して、スペースの限られたマンションでは、一定限度の数量の書籍を効率よく保管しなければならない。そこで、転居するまでに手持ちの書籍の3分の2くらいを処分したが、処分量は、結果的には正解だったようで、本箱にうまく収まった。そして、それぞれの書籍を、自分の使い易いように分類、し配置することができた。また、本箱のところどころに、私が愛着を持ってきた工芸品のいくつかを置くこともできた。

これまで、自分の書籍の数を数えたことはなく、まして、その分野別の割合などを調べたことなどはなかったが、うまく本箱に収納できたので、この機会に自分の興味から、書籍の分野別割合を調べてみた。

1)趣味的なもの 42%
  音楽:25%、美術:6%、旅行:6%、映画:5%
2)実用的なもの 22%
  パソコン:6%、心理学:3%、医療一般:3%、語学:3%、記念誌と名簿:3%、実用書:3%
3)生きがい関係 14%
  影響を受けた本:4%、生き方:4%
4)ことば関係  10%
  ことば:6%、物語エッセイ:4%
5)興味ある医学 5%
6)自著と寄贈本 2%
7)その他    3%

転居する前であれば、医学書とパソコン関係の書籍が、合わせて50%くらいあったと思うが、どちらも、大鉈(なた)を振るって処分してきた。その結果が上の割合に表れていて、これからの私の関心の対象に、大きく関係していると思われる。

私は、子どもの頃から本屋が好きで、そこに行けば、いくらでも時間潰しができる性分のため、本をよく購入してしまう。前の家では、置くスペースが探せばあったので、増えるに任せる傾向にあったが、こちらでは、物理的に収納量に限度がある。そこで、この書斎の本箱に収めきれない場合は、一番不要なものから処分して行き、書籍の量を一定に保つ、というきまりを自分に課すことにした。手持ち時間が限られている場合には、不要な書籍を捨てて行くというテクニックを、私が受験勉強で身につけたが、今度もそれができるだろうと思っている。

書斎ほどではないとしても、それに近い満足感を持って使っているのが資料室だ。いま書斎に使っている部屋は、本来は寝室用で、それに附属した形で、ウォークイン・クローゼットがある。このマンションには、もう一つ寝室に使えるウォークイン・クローゼット付きの部屋があるが、サイズが小さいので、子ども用だろう。それに対して、こちらは夫婦用に設計されているのだと思う。その大きい方の寝室を、妻に頼み込んで、書庫とし、ウォークイン・クローゼットを資料室にした。だから、寝室は自ずと子ども用の方になるが、私がこの書庫と資料室を非常に大切にしているためか、妻も文句を言わないでくれている。

ここにオーディオ・ビジュアル(AV)関連のデータを整理して収容している。DVD600枚、CD500枚、VHSテープ40本、DVテープ40本、Hi8テープ30本、5インチ8ミリシネリール15巻、カセットテープ50本、MD15枚、CD−ROM50枚、CD−R30枚で、それぞれについて、2割程度収容の余裕を残している。

写真関係は、焼き付けた写真だけでなく、ネガ、スライド、アルバムを含め、整理ケースや棚を利用して、24グループに大別して、手持ちのすべてのデータを保管している。絵画もかなり処分してはきたが、10数枚を保管できた。そのほか、私にとって大切な、あるいは、今後整理してまとめておきたい記録も、もれなく、この資料室に保管することができた。これらの資料を、一つの部屋の中に整理して保管できたのも、はじめての経験である。


図18.本箱側に焦点を置いて撮影した書斎 奥は資料室入口 2017年


図19.パソコン側に焦点を置いて撮影した書斎 奥の扉はリビングへの入口 2017年


今回の引退、引継、引越は、私の人生で最大のターニングポイントであることは間違いがない。ここで私なりのまとめをしておこうと思う。

引退

●悔いのないように生きたい
私が29歳の時に母は亡くなったが、その頃から「死ぬ時に、悔いのないように生きたい」と思うようになっていた。それを具体的に言えば、死ぬ時までに、したいことの80%くらいをし終えておきたいということで、80%は満足できる目標であり、最低の目標は60%だった。

●したいことの必要条件
したいことの必要条件は、他人に悲しみを与えるものでないことと思ってきた。もちろん、私のしたいことには、そのようなものはないと思う。しかし、自分ではその気がなくても、他人を傷つけてしまうことはあり得る。しかも、そのことに気づかないことがあるかもしれない。それを考えて、したいことの必要条件は、他人に与える悲しみよりも、他人に与える喜びの方が、わずかでも多くなるものであることとした。

●したいことをするための必要条件
したいことをするには、それ以上に「しなければならないこと」を、果たすことが前提であると思ってきた。この「しなければならないこと」は、自分が思っているデューティーであり、まったく主観的なものである。それは、人の評価が基準ではなく、Noblesse obligeでもない。したいことをするために、支払う代価というのが的を得ているだろう。具体的には、医師としての仕事がほぼそれに当たる。代価を払いすぎの方が、したいことを思うようにできる。だから、こちらは「したいことをする」よりも厳しく、95%達成が望ましいが、最低の目標は80%である。

●死期の想定
「死ぬ時に、悔いのないように生きたい」という生き方を、30歳のころから選んできたが、死ぬ時期として、70歳(71歳まで)を想定したのは、50歳ころからではないかと思う。もちろん、死ぬ時期など、分かるわけはないが、70歳を想定した根拠は、短命の家系であること、父が71歳で亡くなったこと、医学部同期の卒業生80名の内の3名が、そのころ既に亡くなっていたことなど、だったと思う。現在80名の内の15名、つまり、ほぼ4人に1人がこの世にいない状況なので、死期=70歳の想定は、ますます現実味を帯びてきている。

●引退の時期
引退の時期は、デューティーを果たしておれば、早ければ早いほど良い。私は、60歳でそれを果たせると考えたが、現実はそれを許してくれず、60歳が65歳になり、69歳にまで延びてしまった。そのため、想定死亡時期までに、2年しか残らないことになった。それが、さらに延びて1年7ヶ月になってしまった。こうなれば、残りの人生の時間は、ますます貴重になる。これからは、思いっきりしたいことをしようとしている。

引継

10年前までは、息子への医院引継を考えず、65歳で廃院し、住居土地を売却し、老後の資金とする予定でいた。それを変更して、息子へ引継ぐことにした事情については、息子に医院継承することを決めた事情で詳述したので省略する。そのほかにも、交野市医師会の2世会員が、真摯に医療に取り組む姿を見て、ぼんぼん育ちの二世医師を見直したことも、関係していると思う。

医院を息子へ引継ぐことにしたが、同じ診療形態を続けることは、最初から望んでいなかった。息子は、私が開業した時と同じ年齢で医院を引継ぐのだから、引継いだ者が、自分の思うように診療形態をとれば良いと思う。求められれば助言はするが、干渉、指示はしないし、したくない、できることなら、完全に解放して欲しいというのが、正直な気持である。

しかし、引継の準備の方は義務であり、これについては、自分がしなければならないと思う程のことは、果たしたつもりでいる。その詳細を「診療システムの引継」「医療情報の保存と廃棄」として、まとめておいた。

引継の際には、患者数を零にして、建物と設備と診療システムだけを引き渡そうと思っていた。建物と設備だけでも大きなハンディーをもらうのだから、患者までそっくり引継いだのでは、自分の努力の結果が分からなくなるので、嫌ではないかと思ったからだ。しかし、本人にそのような気持はまったくないことが分かり、取り止めた。

引越

終の棲家となる、現在の住居にたどり着いた経緯は、終の棲家を中之島のマンションに決めた事情で詳述したが、幸運の連鎖があったとしか、考えようがない。これまで思い描いてきたいずれよりも、この住居は、終の棲家として優れている。そのことを思う度に、幸運を感謝している。

短期間での引継引越は、強行軍となり、確かに苦しかったが、あれで良かったと思っている。体力知力の低下と、残りの人生の期間を考えると、これが最後のチャンスだったと思う。生涯でもっとも多忙で疲労困憊した体験だったが、1年先では完遂できなかっただろう。

いろいろな人生

●現役人生
私の現役人生は、医師になった62年から、引退をした05年までの43年間である。その間、一般社会人としてのなすべきことは行なってきたが、それは当然のことである。私がしなければならないこと、デューティーと思ってきたことは、医師という職業、医師としての仕事であった。

したいことをするためには、それ以上の代価を支払う必要がある、という考えが、私の心に棲みついたのは、今から30年ばかり前、不惑の年齢、40歳になったころからではないか、と思う。開業して3年が過ぎ、気持にゆとりが出てきた時だった。

この年を象徴する1冊の書物を持っている。オニール夫妻の共著で、広中和歌子訳の、「四十歳の出発 二度目の人生論」、昭和50年10月30日発行、河出書房新社刊である。今、この書を手にしてみると、そこに書かれているのは、他とのかかわりを持ちながらも、自分の価値観を持ち、他に動かされない人生、自分で納得のいく人生を、選びとることの意義であり、そのための方法である。この著作に大きく影響を受けた記憶はないが、この頃から、生きることについて、また考えるようになった。

20代半ばの頃、生きる価値の基準について考え続けたことがあった。そして、生き物が、与えられた命を精一杯発揮して生きることを、生きる価値の基準と考えると、これまで漠然と自分の頭にあった、生きる価値を体系的に説明することができるという考えに到達した。人が「与えられた命を、精一杯発揮して生きる」とは、単に生きているだけではなく、その生きていることを、喜び楽しむことで、具体的には、自分のしたいことを精一杯する、ということとほぼ同じになる。この価値の基準を見つけて、私は満足した。そして、それ以上に深く考えることをして来なかった。

不惑の年を迎えた頃から、したいことを精一杯しようと、本気で思い始めたとき、「したいことをするための必要条件=しなければならないこと」を意識するようになったが、それには、ある歌が大きく関係している。それは「マイウエイ」で、この頃から、この歌を好み、それは今も続いている。この歌は、自分の人生の終わりが近づいたことを感じ、それまでの、生きてきた道程を回想する歌である。

その中に、「人がしなければならないことならば、できる限りの力を出してきた」「I did what I had to do. and saw it through without exemption.」というところがある。先の歌詞は岩谷時子さんの訳詞、後は原詩である。私はこの歌を原詩でも訳詞でもよく唄うが、その度に、この部分が刷り込まれて行った気がする。

私にとって現役人生は、しなければならないデューティーを果たす期間である。そのデューティーを、自分では95%くらい果たしたつもりでいる。これは、あくまでも主観的なものであるが、もともと、デューティー自体が、主観的なものであるのだから、自分でそう思うことができるのなら、それで間違いはあるまい。

●残りの人生
私の残りの人生は、引退した時から始まり、想定した死亡時期71歳の誕生日までとなる。しなければならないことは、既に、大きく前払いをしてしてあり、今から1年3ヶ月足らずの時間は、したいことに専念できる期間である。これまでに、したいことの60%くらいを、果たすことができたと、主観的には思えるので、なんとか最低限はクリアできた。残りの人生で、あと20%程度、したいことができて、死亡想定時期には合計80%くらいを果たすことができたなら、言うことはない。

●オマケの人生
いろいろの条件を勘案して想定した死亡時期であるが、それを越えて命があるかもしれない。そうなれば、それからは「オマケの人生」、したいことをしても良し、しなくても良し、目標を決めても良し、決めなくとも良しである。また、逆に想定死亡時期まで命が持たない場合もあり得る。その時は、それが定め、満足ではないが、後悔しないで死んでいく。このおまけの人生は、「死期を想定した生き方」に連動している。「オマケ」を期待するわけではないが、あれば嬉しいし、あるかもしれないと思うだけでも、楽しくなる。

●生涯現役人生
私の人生は、修業時代、現役人生、残りの人生、おまけの人生に分かれるが、生涯現役人生を目指す人もいる。それはそれで一つの生き方だと思う。そのような人は、現在の職業自体が、自分のしたいことなのではなかろうか?もし、そうだとしたら、幸せな人なのかもしれない。それに対して、職業は、したいことをするために支払うべき代価であり、義務である、と考える人間も多いだろう。それはまたそれで、良いのではなかろうか?

●私が理想としてきた生き方
「アングルのバイオリン」という言葉がある。それは、フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることに、より重きを置いていたという話である。私も、職業である医師として、評価されるのは当然のことであり、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来た。

この「アングルのバイオリン」を、次のように言い替えることもできる。「しなければならないこと」は、生きて行く上での義務、あるいは、当然支払わなければならない代価として、精一杯これに努めるが、生きる目標は「したいことをする」にあり、この自己満足こそが生きがいである。

「したいこと」が有害では困るが、無益で結構、もし少しでも有益であれば、それに越したことはないという生き方である。私は、この生き方を、20歳の頃から理想として生きてきた。そして、現在の「残りの人生」は、その仕上げの最終段階である。私の人生が終るころ、静かに「マイウエイ」を唄おうと思っている。


9歳は人生のターニング・ポイント
 9歳は人生のターニング・ポイントという仮説を思いつき、検証してみたら当たりそうだ 詳細は!

診療システムの引継
 息子が医院を継承するにあたり、診療システムの引継に役立つ情報を、具体的に提供した 詳細は!

医療情報の保存と廃棄
 法定保存期間を超えた医療情報の内、有用なものを残し不要なものを廃棄する選別が重要 詳細は!

院長交代
 2005年1月5日に院長交代の説明文を掲示し、その印刷物を自由にお取り頂けるようにした 詳細は!

息子の患者さんからの手紙
 息子の診療を5年間受けてきた患者さんから、私宛に、感謝のことば一杯の手紙が届いた 詳細は!

医院大改装
 10日間で医院室内を天井から壁、床、ドアにいたるまで完全に改装する工事に、立ち会った 詳細は!

感謝の集いと記念アルバム
 職員と旧職員に対する感謝の集いで、32回のイベントの写真を収めた記念アルバムを贈呈 詳細は!



図20.マンション37階からの眺望 中之島 遠くに明石大橋の支柱が見える 2006年


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2006年 リタイア2年目 ブログ「エンジョイBOW」開設

ブログ「エンジョイBOW」開設

◆古希からのエンジョイ 2006年5月13日 (土)
この春から古来稀なりといわれた70歳に入りました。ここまで生きて来れたのは、生まれた時代が良かった、運が良かったと思っています。

終りの幕が下りるのも、それほど先のことではなく、私はこの1年を最後の年と想定し、それ以上の命があれば、それはオマケの人生と考えることにしています。オマケは多ければ多いほど良いものですが、なくても仕方がないものです。

今年から、これまで以上に人生をエンジョイしていきたいと考え、その計画と実行をこのブログに記録して行こうと考えています。

◆プロフィール 2006年5月13日 (土)


1行紹介
余生をエンジョイしている古希老人

自己紹介文
戦前のことも少しは記憶にあります。戦中は愛国少年で鬼畜米英と戦い、敗戦と同時に大人がいとも簡単に180度転換してデモクラシー信奉者に変ることに不信感を抱き、権威が信じられなくなった世代です。

戦中戦後の貧しさ、それから、朝鮮戦争を契機にどんどん成長発展していく中で生きてこれたこと、こんなに短い期間で多くのことを経験できた世代は、歴史上ほかにはみられない特異な存在でしょう。

メカが好きで、ラジオ、オーディオ、カメラ、TV、ビデオ、パソコン、パソコン通信、インターネット、携帯などを初期の段階から経験してきました。今は余生を存分にエンジョイしようとしています。

興味のあること
創ること(物、文のいずれも)、歌(聞くよりも唄う方が好き)、映像(ビデオ、写真、それらの撮影と編集が好き)、情報発信(Webサイトと電子出版)


このブログが最も活動したのは、2007年4月から7月までの世界一周クルーズの状況を報告した時だと思う。船上からの発信に対して、日本から多数のコメントをいただき、熱気がみなぎっていた。

ブログは、2006年5月に開設し、2012年7月に閉鎖したが、その全記録はブログ エンジョイBOWの記録に残している。


死期を想定して生きる
 私は、50歳のころから、自分の死亡時期を70歳(71歳になるまで)と想定して生きてきた 詳細は!

私にとっての死
 古希の齢となった一人の人間が、「死」をどのように思い、考えているかを書き留めたもの 詳細は!

ハンドルネームBOW
 1989年からハンドルネームとして使っている「BOW」について、関連事項をまとめた 詳細は!

先生と交わした手紙
 父の従弟で、私より15歳年長の教育者と交わした手紙は、真剣に人生を生きた人の記録 詳細は!

校医を辞めました
 32年間務めてきた小学校校医を辞める日、600名の生徒に話したことばと、その後日談 詳細は!

葬送の音楽
 葬送の場で一般によく使われている音楽と、自分の葬送で使われるのを望む音楽 詳細は!

高層階からの眺望
 中之島のマンション37階から眺める昼間の眺望は、立体的で、まさに俯瞰、大都会である 詳細は!

中之島バラ園
 バラ園は中之島公園の中央にあり、90種近いバラが約4000株咲き揃って、素晴らしい 詳細は!

祇園一力亭
 祇園の中で由緒あるお茶屋のひとつの「一力亭」で、3組の夫婦と一男が夕べを楽しんだ 詳細は!

浜松池田邸
 池田先生ご夫妻が40年間の診療を辞め、浜松に終の棲家を造り、転居された池田邸を訪問 詳細は!

胃透視検査法
 開業医現役時代に私が行ってきた胃透視検査法を、できるだけ具体的にまとめたマニュアル 詳細は!

下痢の食事療法
 開業当初から、下痢の患者には、話して説明するだけでなく、この文章を読んでもらった 詳細は!

嘔吐の食事療法
 開業当初から、嘔吐の患者には、話して説明するだけでなく、この文章を読んでもらった 詳細は!

受話器握って失神
 電話の応対中に気分が悪くなり、受話器を握って失神して大騒ぎとなったハプニングの顛末 詳細は!

開業医の小児科独習法 目次
 小児科を標榜しなくても、小児の患者を診なければならない場合があり、小児科を独習した 詳細は!

開業医の小児科独習法 総索引
 「開業医の小児科独習法」の辞書的な使用を考慮して、詳細な総索引を付けた 詳細は!

開業医の小児科独習法 病名索引
 「開業医の小児科独習法」の辞書的な使用を顧慮して、詳細な病名索引を付けた 詳細は!


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2007年 リタイア3年目 前立腺肥大症手術 飛鳥II世界一周クルーズ

2007年は、私にとって特別な意味を持つ年である。それは第二の人生、「オマケの人生」が始まる年だからだ。心楽しく元旦の朝を迎え、妻に「ハッピー・バースデイ」と声をかけた。「ハッピー・ニューイヤー」の返事に、あっ間違えた、と気づいた次第。妻はふざけていると思ったようだが、私の妻に対する祝福のことばは、ほとんど「ハッピー・バースデイ」なので、とっさに口から出てしまったのだった。

時は午前7時、デジカメを片手に、生駒山系の山並に昇る太陽を、バルコニーにから眺めた。夕陽の美しさは、数え切れないほど見てきたが、朝日の昇る様子を、このマンションで観るのは、今日がはじめてである。太陽は山並みから現れ、まぶしい光を周囲に放射しながら、ゆっくり天空へ昇って行った。この、初日の出は、私のオマケの人生の出発を祝ってくれているように思えて、晴れ晴れと心は弾んだ。



図21.日の出前 2007年1月 07:08


図22.日の出 2007年1月 07:26

なぜ、今日は気分が爽快なのかと考えて見て、昨夜遅く私の人生の総括を死亡想定年をふり返ってとして、このWebサイトに掲載したことの影響が大きいと思う。

私の人生の意義の基準は、どれほどしたいことをすることができたかということである。それを自分で判定するために、客観性の高い自分の死亡時期を想定し、それまでの期間で「したいこと」の達成できた割合を使って評価する方法を考え出した。

そして「したいこと」を達成する目標値を80%とし、合格最低点を60%とした場合、私の人生の総括は70%だと判定した。もちろん、これは私の主観的な判定である。しかし、その人の人生の意義は、本来主観的なものであるはずだ。

「したいこと」をするためには、当然「しなければならないこと」を果たす必要がある。「しなければならないこと」を達成する目標値を80%、合格最低点を60%とした場合、私はそれを90%と判定した。これも主観的なものだが、充分過ぎるほど、「しなければならないこと」を果たしたというのが実感である。「したいことをする」ためには、それ以上に「しなければならないこと」をする必要があると言うのは、幼い頃から私に染み付いた感情、美意識、あるいは倫理、と言うことができるかも分からない。

死亡想定時期までに3ヶ月残ってはいるが、それは無視できる時間である。私の人生の意義を70%(70点)と自己判定したが、3ヶ月後も変わることはないだろう。合格最低点を10点も上回り、良い人生だった。幸運と妻と、私を支えて下さった皆さまに、心から感謝している。

現在の体調から考えて、3ヶ月後も寿命はあるだろうと予測される。死亡想定時期を過ぎてからの人生は、「オマケの人生」、今年はその「オマケの人生」が始まる記念すべき年である。


これまで、「オマケの人生」の生き方は、「オマケの人生」に入ってから考えようと思っていた。しかし、昨日、死亡想定時期までの自分の人生の評価を行なってしまった結果、「オマケの人生」の生き方について、考えてみようという気持に変わった。

「オマケの人生」の生き方は、考えていく間に明確になりました。それは、「死亡想定期までの人生(私の本当の人生)から、完全に自由に生きる」、と要約できる。

具体的に言うと、「オマケの人生」には意義を求めません。私の人生の意義はあくまで70点であり、「オマケの人生」で達成した「したいこと」を、これに加算することはない。したいことをしても良く、しなくても良く、変更しても、中止しても構わない。周りと過去とのしがらみから解放され、好きなように自由に生きるのが「オマケの人生」の生き方となる。

過去の生き方を取り入れることがあっても良い、まったく、反対のやりかた試みても構わない。それが合わなければ、いつ止めても良く、逆により発展させても良い。これまでよりもスローな生活を選んでも良く、逆にこれまで以上にハイスピードな生活を選んでも良い、また、それらをいつ止めても良い。

これまでの「本当の人生」での生き方のいくつかは、身についたものとして続けることがあるかも分からない。しかし、恐らくは取り入れないだろうと思う生き方が、一つだけある。それは「タイム・リミットを守る」だ。

私はこれまで「タイム・リミット」を守らなかった記憶がなく、与えられた「タイム・リミット」はもちろん、自分で決めた「タイム・リミット」を守るのが私の好み、生き方だった。むしろ、目標を決めて、それに「タイム・リミット」を設け、その達成のために努力を続けることが楽しみだった。

このやり方は、目標を達成する場合に非常に有効な方法である。私が自分の潜在能力以上の業績を達成できたのは、常に、この方法で対処してきたからであると思っている。しかし、これには強靭な意思が必須である。これまでは、極度の緊張に耐えることにも、快感に近いものを覚え、達成した時の壮快感を求め続けて来た。

「オマケの人生」でもそれを続けるだろうかと考えてみると、おそらく、これはないのではないかという気がする。もちろん、たまには昔にかえって、遊びとして試みることがあるかも分からない。しかし、これまでの生き方の中では、一番取り入れないであろう生き方だと思う。

正直、「オマケの人生」の最大の楽しみが、この「タイム・リミット」からの解放である。自分で自分をしばってきた、この重圧から自由になる「オマケの人生」には、これまでの「本当の人生」と違う面白さがきっとあることだろう。

これまでの「本当の人生」とはまったく違う人生、そう、「オマケの人生」は、私にとってこの上もなく楽しみな人生である。なくても仕方ないものが、どうやら、少しは経験できそうなので、その幸運に感謝しながら、存分に「オマケの人生」をエンジョイしようと思っている。


入院と心の情景
 約2週間、一日の大部分を病院のベッドの上で過ごした時に、心に浮かんだ情景を記録 詳細は!

私の入院物語
 2006年末に前立腺の病気で入院して処置を受け、2007年の初めに同じ病気で手術を受けた 詳細は!

 前立腺炎による尿閉で入院、前立腺肥大症の手術を受けたことは、まさに「運は時なり」を示している

初めての人間ドック
 71歳まで一度も受けたことのない人間ドックだが、これを最後にするつもり 詳細は!


飛鳥U世界一周2007航海記・はじめに
 船上からブログに書き込んだ記事とコメント、交換したメールに、写真を加えた 詳細は!

飛鳥U世界一周2007航海記・目次
 膨大な量の文章と写真で構成されているので、目次を活用するのが効率的 詳細は!

飛鳥U世界一周写真集・目次
 飛鳥U世界一周2007航海記は文章が主体で、写真は必要最低限だが、こちらは写真のみ 詳細は!

世界の写真 目次
 分類別の目次は求める写真を見つけやすい 詳細は!

スライド・ショーDVDの制作 フォトストーリー3
 飛鳥U世界一周2007のスライド・ショーDVD制作法をマニュアル化 詳細は!

征服されたことのない国
 日本は2000年以上に亘って、他国に征服されることがなかった唯一の文明国である 詳細は!


私の英語愛唱歌101曲
 私の英語愛唱歌101曲の歌詞を載せ、歌と思い出・唄った歌手・歌のデータベースにリンク 詳細は!

生年順クラシック作曲家名
 詳しい音楽史年表が見つからないので、「生年順クラシック作曲家名」をまとめた 詳細は!




図23.モルディブの美しい浜辺で誕生日 この日からオマケの人生 2017.4.16.


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2008年 リタイア4年目 孫娘 哩央誕生 戦慄的感動の演奏

新しいいのち

2008年11月6日午後8時14分 この世に新しいいのちが誕生した

両親は このいのちに 愛をこめ 哩央の名をつけた
RIOはスペイン語とポルトガル語で川を表す
川は文明の源 大いなる恵の源流である

予定日を違えず生まれてくるこどもは 20人に1人 哩央はその1人

生まれ出る前の痛みを母に与え 4時間あまりで強い産声を上げた

その日は木曜日 父も母方の祖父も 午後休診の日だった
父は母を励まし 哩央の誕生を全力で応援することができた
母方の祖父母は 遠く徳島から駆けつけてくることができた

生まれて2時間が過ぎた若い命は 両親と両祖父母に 感動を与え続けた

その整った顔は おおらかで優しい
時おり 元気に泣き すぐ泣き止む
音に敏く反応し ストロボの光に瞬く

あやす父の顔を見つめ 目で追うかのようなしぐさ
時おり 口元がほころび 天使の微笑みを見せる
その小さな指が 小淑女のように 伸びやかに動く

神の存在を思わざるをえない

私は思う この子は類稀なる強運を得て この世に誕生した不思議な子 幸せな子と


戦慄的感動の演奏

2008年1月23日、私たちは午後7時にベルリン・フィルハーモニーホールに入った。開演前に、ドイツ語による演奏会の解説があったが、ことばが分からないので、広い会場を散策した。 午後8時開演、コンサートマスターの安永徹氏のもとで音あわせが終り、小澤征爾氏とアンネ=ゾフィー・ムターが登場すると、会場は熱気につつまれてしまう。

L・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調

  アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  小澤征爾指揮

ベルリンフィルが演奏を始めると、美しいムターは、からだを静かにゆらせ、顔を傾け、オーケストラの音にじっと聴き入っている。それが自然で、眺めているだけでも気持が良い。ムターが弾き始めると、オーケストラはそれを慈しむように、静かに支える。小澤は、この二つの演奏から最高の音楽を紡ぎだして行く。

ヴァイオリンのピアニッシモの微かな音でさえも、それを引き立たせる、オーケストラと聴衆に感嘆する。ヴァイオリンとオーケストラ、指揮者の3者が、精魂込めて、美しい音楽を創り上げていこうとしているのが、はっきりと伝わってくる。素晴しい。

感動の極みに達する直前に、からだが自然と震えてくる。それが何度も続くのだ。これほどまでの感動を、これまで経験したことがなかったことに気づく。音楽が、これほど強烈な感動をもたらす力を持っているとは、恐ろしいほどだ。

カラヤンに育てられたムターが、小澤が、そしてベルリンフィルが、彼の生誕100周年記念コンサートで、師に対して最高のプレゼントを捧げようと、心を合わせ、持てる力一杯を発揮しているのが分かり、感動する。この場に存在できた幸せを、私たちはなんと感謝すれば良いのだろうか?

第1楽章の最初は「ミファソラシ^ドソ、ファミレミドレ」[MIDIによるメロディー]と、甘く優しいメロディーではじまり、最後の華やかなカデンツァの部分では、その技巧に呆然となるが、同じメロディーで、静かに終わっていく。この協奏曲で、いちばん長く華麗な楽章だ。第2楽章では、流れるようなヴァイオリンの独奏部分に対して、オーケストラは、ピッチカートだけで伴奏をするのが印象に残っている。それに続く第3楽章は、あの良く知っている「ド_ソドミソ、ド_ソドミソ、ファレ、ミド、レ_ラ_シドレ」[MIDIによるメロディー]で始まり、最後はフォルテッシモで感動的に終わる。

拍手が鳴り止まず、スタンディングオベーションが続く。ムターは5回舞台に姿を見せ、バッハの曲と思われる無伴奏ヴァイオリン曲をアンコール演奏した。心にしみいる良い曲であり、素晴しい演奏だった。

休憩:約30分

P.I.チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」

  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  小澤征爾指揮

こんどは交響曲であり、ベルリンフィルは思う存分に、しかし、節度を外すことなく、演奏した。興奮と感動の絶える間がない。この時も、感動の極みに達する直前から起きる震えを、止めることはできなかった。それはなぜか、常に殿部のあたりから始まるのだ。カラヤンが、「今夜の演奏は、私が指揮をしていた時よりも良い」とほめるであろう演奏だった。愛弟子たちは、精魂込めて師を称えようとしているかのように思えた。このような演奏を聴くことは、もう一生ないであろう。幸せだ。

高校生のころくりかえし聴いたことがあるこの曲を、今までとは違った視点で聴いていた。そして、このような曲だったのかと、この曲を新鮮に感じ、嬉しくなっていた。

第1楽章は、第2主題の美しいメロディーが、私にとって、この交響曲の魅力の大半であった。
「^ミ^レ^ドラソミソ^ドラソ、^ミ^レ^ドソミドミラソ」[MIDIによるメロディー]。神秘的な、美しい情景に似つかわしい美しいメロディーに、素直に浸った。

第2楽章では、「ミファソラシ^ドラシ、ソラシ^ド^レ^ミ^ド^レ」[MIDIによるメロディー]の、楽しい軽快な5拍子のワルツになる。心弾むひと時である。

第3楽章では、「ド_ソ_ソド_ソ_ソドファ、ミレソドドド_ソド」[MIDIによるメロディー]と、行進曲風に凱旋将軍の気分になる。しかし、終楽章では、「ララソファミ、ミレ、ドドド_シ_ラ」[MIDIによるメロディー]と物悲しく、静かに、消えるようにメロディーは終わる。

人生には、こんなに美しい時もあった。こんなに楽しい時も経験した。勇壮、果敢に力の限りを出し切った時もあった。それらをどれも経験してきたが、今、その人生の幕が降りようとしている。限りなく寂しいが、それが生きとし生ける者のさだめ、従わなくてはならない。そういう意味が、この交響曲に込められているのではないかという考えが、演奏の途中から閃き、そのまま鑑賞を続けた。そのためか、この時に聴いた「悲愴」は、今まで聴いたどれよりも心の奥深く迫ってきた。

このような思いを抱いたのは、自分がオマケの人生に入ったことも関係しているかもしれないが、それ以上に、それを強く感じさせる演奏だったためだと確信している。ほんとうに感動的な素晴しい演奏だった。カラヤンの遺産は、この夜最高のかたちで花開いたのだった。そして、カラヤンの偉大さを改めて思った。

演奏が終り、今度もスタンディング・オベーションはくり返されたが、アンコール曲の演奏はなかった。小澤は、なんどもなんども、ベルリンフィルの各パートを巡り、感謝の気持を伝えていた。それを、また、各パートのメンバーが同じように応え、感謝を返していた。第1コンサートマスターの安永徹さんも、その一人だった。ともに、今夜の演奏を喜び、感謝しあっていた。その光景もまた、非常に感動的だった。


図24.カラヤン生誕100周年記念コンサート 小澤 ムター ベルリン・フィル


戦慄的感動の演奏
 カラヤンに育てられたムター、小澤、ベルリンフィルが、師に捧げた最高のプレゼント 詳細は!

50年ぶりのコーラス発表会
 大学の教養課程の2年間を除いて、コーラスと無縁だったのが、コーラスコンサートに参加 詳細は!

文字譜いろいろ
 インターネットで使うのに便利な記譜法のを探してabc譜を知り、abc略譜を考案した 詳細は!

実用abc譜
 自分が使う際に、手許に持って置きたい便利なまとめとして作った「abc譜」の実用書 詳細は!

ミレイユ・マチュー
 自分が一番影響を受けた歌手について記録に残して置きたくなり、ふり返ってまとめた記事 詳細は!

クラシック・データベースの説明
 良く知られたクラシック400曲のデータベースを作ったが、その説明 詳細は!

クラシック・データベース作曲家(ア〜ナ行)
 54名の作曲家、198曲のメロディーを中心としたデータ 詳細は!

クラシック・データベース作曲家(ハ〜ワ行)
 46名の作曲家、202曲のメロディーを中心としたデータ 詳細は!

作曲家名から曲名検索
 100名の作曲家名から曲名検索 詳細は!

ジャンルから曲名検索
 15のジャンルから曲名検索 詳細は!

日本語曲名からデータ検索
 五十音順日本語曲名からデータ検索 詳細は!

欧米語曲名から日本語曲名検索
 欧米語曲名から日本語曲名検索 詳細は!

メロディー・パターンから曲名検索
  「abc略譜」で表示したメロディー・パターンから曲名検索 詳細は!

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 1954年から2007年までの年賀状を表示、2008年からは変更することにしたスタイル 詳細は!

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2009年 リタイア5年目 アナログ・デジタル変換 階層構造の研究

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水の都 大阪vsベニス
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2010年 リタイア6年目 ミュージカル出演

ミュージカルが作られていく過程

ミュージカルが作られていく過程は、これまで思っていたこととかなり違っていた。それを実体験で知ることができたのは大きな収穫だった。

●原作原曲
ミュージカル 「らくだのダンス」の原作は、五代文悟著2005年出版の単行本「らくだのダンス」である。これは最初からミュージカル化を念頭に置いて書かれたようだ。原曲の作詞作曲も五代先生であるが、これらがいつごろ作られたものかは知らない。私が歌った「美しき国・美しき人」と、最後に全員で歌った「歌いましょう」は、私がコーラスを始めた約3年前には既に譜面をいただいていた。

●ミュージカルの具体化
演出家大塚氏との出会いのことなどは知らないが、3年前に五代先生の奥様で、今回のミュージカルの歌唱指導を担当された新森美加先生が、コーラスの席で、ミュージカル化のお話を何度かされていた。だから、その頃には、具体的な動きが進行していたのだろう。

●オーディションの終了
ミュージカルのオーディションが今年の4月11日に終わり、担当スタッフの最初の会議が4月20日に開かれた。その際に、らくだ王国の長老オージタの役が決まっていなくて、新森先生から電話で打診され、お受けしたことは、はじめにのところで述べた。

このミュージカルのメンバーに加わってから、5月8日の歌稽古に参加し、10日のダンス、11日の演技の稽古は見学した。歌は最初に発声練習を30分間行ってから、頂いている楽譜約10数曲について、譜面を中心にレッスンを受けた。ダンスと演技はどちらも第1回目だったせいか、ダンスの稽古は屈伸運動ようなもの、演技はゲームのような遊びが中心だった。

6月5日にもう一度歌稽古に参加したほかは、キャスト決定の日まで、私は稽古も見学にも行かなかったが、オーディション合格のメンバーは毎週、土、月、火の3日間に激しい稽古を続けたようだ。

新森先生は、歌の稽古の際に、台本ができあがるまでは、これらの歌が実際に使われるかどうか、どのような場面で使われるか分からないし、歌詞も変わるかも分からない。登場人物も、全部が取り上げられるどうか、分からないし、ストーリーも変わるかも分からない。一旦演出家の手に渡ると、原作がどのように処理されても、お任せするのがルールだと仰る。そのことにまず驚いた。

●キャストの決定
6月22日に演出家の大塚氏より、こんどのミュージカルのあらましの説明があった。基本的ストーリーは、キャバレーの老支配人が、「おれは、むかし、ミュージカルスターだったんだ、こんな友達がいたんだ」と言って、ピータムと出会ったところから、最後にミュージカルをしようという話になったということを、2時間ばかり、歌とダンスと芝居も含めて見せるのだと話された。

それに続いて、キャストが発表された。この時までは、オーディション合格者が中心になって、このミュージカルを作るのだろうと、漠然と思っていた。しかし、発表されたキャストの中には、知らない名前がたくさん出てくる。ゲストの役者、ダンサー、歌手はプロのようだ。

オーディション合格者だと思っていた主役のピータムはプロの歌手、その友人のルーピーもフリーの役者であることをあとで知った。また、オーディション合格者は、一人で何役も掛け持ちをする者がいたり、声だけの出演者もいることも知った。

原作「らくだのダンス」の登場動物を調べてみて、キャストとまったく同じであることを確かめた。このことから、台本には原作と同じ動物が登場することは予想できた。

ミュージカルの稽古が進むにつれ、演出家大塚氏のキャスト選択の正しさが、よく分かってきた。歌、演技、ダンスの能力だけでなく、それぞれが持つ個性や雰囲気なども充分把握した上で決定されたと思われるのだ。台本も、原作のストーリだけでなく、このキャストのイメージも加えて書き上げられたのだろうと想像した。

6月28日には、らくだのダンス関係者用サイトが開設され、以後、音楽関係のデータはここからダウンロードできるようになった。歌に関しては、新しい歌の追加、バージョンの更新、伴奏(カラオケ)の追加、変更などがこのサイトに掲載された。ダンス用音源もここに掲載された。おまけとして、ダンス練習中のビデオが、YouTubeに掲載され、このサイトを通じて、ダウロードできるようになり、ダンスの確認や自習に便利になった。

●台本の完成
7月4日に台本の第1稿をメールでもらった。いよいよ、ミュージカルとしての稽古が始まった。ここからの稽古は、演出家が中心となり、台本の順にしたがって、部分稽古が続けられた。

大塚氏は、稽古に当たって、どのような状況かを説明し、立ち位置などの指示はするが、細かな指導はほとんど行わない。台詞の指導も滅多になく、所作も本人任せのように見えた。しかし、それではお客さんには理解できないとか、相手の台詞や行動に対する反応(リアクション)がおかしいなどの注意はある。デジタルでなくアナログでという指示も何度かあった。

そして、その答えは、自分で考え、イメージを作り、解決するように仕向ける。教えてもらうのではなく、自分で創りあげていくことが常に求められていた。

うるさいと言われるまで声を大きく出すようにとか、最高に盛り上がれとか、身振りでめっちゃ嬉しい気持を表せとか、本当に笑っている表情を続けろとか、芝居がかったという言葉の由来が分かる指示も時々あった。これは、お客様に分かってもらえることの大切さを教えたのだろう。

台詞の一部が削除されたり、別の台詞が追加されたり、と書きの一部削除があれば、一部追加もあったり、何もかもがどんどん変わっていく。役柄を担当する人間も端役はかなり変わった。これは、歌についても同じだった。歌詞が変わったり、伴奏が変わったり、長さがかわったり、歌う人間が変わったこともあった。ダンスについても変化はあったようだが、関心が少なかったので、よく分からなかい。

このようにして行われた部分稽古は、その途中で、演技の変更や細かい演技が加わり、回を重ねるごとに要求されるレベルが高くなって行った。

●全体稽古
8月7日に、公演のポスターとチラシができあがり、この頃からほとんどの者が台本を見ず、暗記で台詞をしゃべり、暗譜で歌ようになってきた。8月14日に全体稽古が始まると、自分のイメージで役を演じ、自然に笑いがあふれている。それまで大塚氏や、ダンス指導の柿谷さん、歌唱指導の新森先生が、口を酸っぱくして繰り返していた、「もっと笑顔で!、蛸のような口をしない!、最後まで自然な笑いを!」の注意が必要でなくなっていた。もう、誰もが身体で、このミュージカルの稽古を楽しんでいるように見えた。

●通し稽古
8月28日に、最初の通し稽古があった。これはミュージカルの最初から最後までを、中断することなく通して稽古することである。この頃から、稽古の回数が増え、メンバーのテンションは高まり、熱演、好演をするようになった。

●リハーサルと本番
本番とまったく同じ条件で行う本番前の通し稽古をリハーサルと呼ぶ。いろいろな事情が重なり、9月4日、本番初日の直前に、これは行われたが、成功だった。舞台から見える広い会場に気分は高揚し、初めてつけるワイヤレスマイクの効果に感動し、素晴らしいバンドの生演奏に興奮した。

そのハイな状態で本番公演に突入した。誰もがいつもと同じかそれ以上の歌、ダンス、芝居を演じることができたのではないかと思う。私の場合、初日はいつもの100%、楽日の昼は98%、夜は110%くらい発揮できたと思っている。この夜の公演では、メンバーが思う存分楽しんでいるのが良く分かった。これまで見たことのないアドリブを何度か目にし、私も思いを一杯込めて声を張り上げた。満足だった。

以上のような経過でミュージカルが作り上げられていくことを実体験できた。最初の出発点から、どんどん変化、発展し、スタッフとメンバーが一体となって、自発的に巨大な演技集団、踊る集団、歌う集団に変身していく。まさに、新しい世界の創造だった。

このミュージカル出演も、「運は時なり」である。



図25.ミュージカル「らくだのダンス」に出演「美しき国・美しき人」を歌う


ミュージカル らくだのダンス
 ミュージカル らくだのダンス公演の宣伝用チラシの紹介 詳細は!

ミュージカル物語ーらくだのダンスに出演してー
 「ミュージカル らくだのダンス」に出演した一部始終の記録 詳細は!

私にとっての歌
 歌うのは好きだが、人に聴いてもらうよりも、大声張り上げ、自己陶酔状態になるのが好き 詳細は!

ICレコーダーと音声編集
 音声録音をPCMレコーダーからICレコーダに、音声編集ソフトもAudioStudio10に変更 詳細は!

読点の使い方
 1906年に句読点が登場、読点の使い方にきまりはなく、私なりの使い方を考えている 詳細は!

記憶力低下対処法
 加齢現象による記憶力低下を仕方がないと受け入れ、それに対処する老人の知恵を紹介 詳細は!

夕方のウォーキング
 夕方、夫婦で自宅と梅田の間をウォーキングすることを3年前から続けている 詳細は!

大阪市内環状クルーズ
 八百八橋時代の水路を体験、水門による水位調整、低い橋の下を航行する工夫が面白かった 詳細は!

中之島バラ園 2010
 リニューアルオープン後2年目の中之島バラ園は、都会的でオシャレになった 詳細は!

中之島の天の川 2010
 LED球の数は昨年と変わらないが、より華麗で天満の子守歌のソロがよく合っていた 詳細は!

AVCHD BD制作技法 BD制作第1号
 孫の記録として、デジカメでAVCHDのフルHDを録り、BDを作成するようになった技法 詳細は!

らくだのダンスDVD
 出演したミュージカルの舞台写真を使って、スライドショー形式のDVDを作成した 詳細は!

Web記事の文書スタイル
 サイト開設後14年が経過したのを機会に、Web記事の文書スタイルを決めておくことにした 詳細は!

理想を目指したサイトのリニューアル
 現在掲載中の約340の記事全部を、新しく決めたスタイルで、リニューアルすることにした 詳細は!

アクセス30万回
 1996年8月15日の開設以来、2010年12月14日に30万回のアクセスがあった 詳細は!

15年間のメールの整理保存
 メールソフトはExchangeほか3種類を使ってきたが、2001年よりBecky!2を使っている 詳細は!


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2011年 リタイア7年目 東日本大震災 孫娘3歳までの成長記録

孫がことばを習得する過程

人間を定義するホモ・サピエンスの最大の特徴がことばを使うことであることに異論はあるまい。人はどのようにしてことばを習得していくのか、興味を持つ人も少なくないであろう。幸運にも、私は孫の成長を3年間観察することができ、その一つとして言語についての観察記録を持つことができた。

孫の成長記録は、成長過程で見られる行動を生データとして記録し、それをカテゴリーで分類し、さらにその下位のカテゴリーで細分する方法で記録を行った。そのカテゴリーは、予め決めて置いたものではなく、行動記録に合うものを発現順(時系列順)に作っていったが、最終的には14個となった。

14のカテゴリーの中で、言語だけは、生データからの直接の記録ではなく、残り13のカテゴリーに分類した記録の中から、言語に関わるものを抜き出して記録する方法をとった。言語は、何らかの状況の中で使われるものであり、言語だけで存在することはないからである。

孫の成長記録の「言語」関連の多くは、ビデオ記録を再生して、そこから孫の喋る通りのことばを文字化して記録した。他のカテゴリーに分類される記録と比べて、言語ではビデオ記録からの文字化が特に重要で、テープレコーダーやICレコーダーによる音声記録は、映像がない分、文字化するのに手間がかかる。また、筆記ではとうてい正確な書き取りはできない。

孫が言語を習得する過程で見られる言語特性を、発現順に、1.意味不明語、2.通常の単語、3.かけ声、4.説明がいる単語、5.身体言語、6.オーム返しことば、7.複数語文、8.歌詞の8種に分類した。

言語特性と生活年齢との関係をまとめて以下に図示した。



生活年齢と言語特性

意味不明語を話しはじめたのは、0歳4ヶ月からで、「アーアーアー」などが何を表わそうとしているのかは分からなかったが、1歳7ヶ月で終わった。

通常の単語意味不明語に2ヶ月遅れて、0歳6ヶ月に「ママ」で始まり、成長にしたがってどんどん語彙数を増やし続けた。

通常の単語で面白いのは、「ママ」を0歳6ヶ月、「パパ」を0歳7ヶ月で話したのに対して、祖父の「ボウボウ」は1歳0ヶ月、祖母の「グランマ」は1歳6ヶ月という事実である。「グランマ」は「ボウボウ」に6ヶ月も遅れている。

「グランマ」をはじめて話せた時の孫は、よほど嬉しかったのだろう、何度も「グランマ」「は〜い」、「グランマ」「は〜い」をくり返していた。それは傍で見ていて、驚喜という状態だった。この「ボウボウ」は言えても「グランマ」を言えなかったということから、一つの仮説を思いつく。

仮説1:
こどもが、簡単なことばは話せるのに、すこし複雑なことばになると話せないのは、聴覚器官、発声器官、両者の連携のいずれか、あるいは全部が発達途上にあることを示している。

かけ声は0歳7ヶ月、からだを前へ進める際の「エエー」から始まった。からだを動かそうとする時に自然といくつかの発声をするようになり、2歳6ヶ月ころから、あまり聞かれなくなったが、それから後も必要な時には発している。

説明がいる単語は、0歳9ヶ月から現れ、2歳1ヶ月からは姿を消した。この説明がいる単語も、ことばを習得する過程について示唆することが多い。

例えば、孫の1歳の誕生日に乾杯をした。それからあと、乾杯をするたびに、孫もお茶のパックを持ち上げて真似をし「バイヤー!」と言うが、「カンパーイ!」は、しばらく言えなかった。

仮説2:
こどもは、ある時期までは、意味は分かっていても、聞こえている通りに正しく話すことはできない。

仮説3:
こどもが、ある時期から、聞こえている通りに話すことができるのは、成長とともに聴覚器官、発声器官、両者の連携が発達していくことを示している。

仮説4:
こどもの、聴覚器官、発声器官、両者の連携の発達は、2歳1ヶ月頃に完了する。

身体言語のうち、指さしは0歳10ヶ月から出現し、1歳3ヶ月ころからはあまり目立たなくなった。これは、通常の単語の語彙数が増え、指さしを使う必要が減ってきたことを表わしているのだろう。そのほかの身体言語のバイバイとか飛び跳ねて喜びを表現するのは、その後も変わらず続いた。

仮説5:
こどもは、1歳3ヶ月頃には、指さしが不要になる量の通常の単語を身につけている。

オーム返しことばは、大人が話した直後に、同じことばをオームのように真似をしてくり返す動作を言う。これは0歳11ヶ月から始まり、1歳7ヶ月まで続いた。この特性も、ことば習得の過程を示唆するところが多い。

オーム返しことばは、孫にとって新鮮に聞こえることばを聞いた時に発することが多かった。例えば、「シャンパーン」と言った途端に「シャンパーン」と言う。1歳0ヶ月から通常の単語は急増するが、このオーム返しことばが関係していると思われる。1歳5ヶ月〜1歳6ヶ月には、孫は「コレナンダ?」「アレハ、ナンダ?」と頻繁に尋ね、その返事を聞いてオーム返しすることが多かった。

仮説6:
こどもは、大人の話した単語が新鮮に聞こえる場合、オーム返しでそれをくり返す。

仮説7:
こどもは、知らない興味のある物を見た時に「コレナンダ?」と尋ね、その答えをオーム返しでくり返す。

仮説8:
こどもにとって、1歳5ヶ月頃は、目につく物の名前に強く関心を持つ時期である。

複数語文を話すようになるのは1歳3ヶ月からで、これは日増しに増えて行った。最初「ボウボウ、アイタイ」と言ったのが、1歳6ヶ月には「タイヨウガ、カクレテシマッタネー」と言い、その翌月には「タイヨウガ、カクレテシマッタネエ、サンポ、イケナクナッタネエ」と因果関係まで話せるようになる。

2歳3ヶ月の祖母との会話を「かえるさん」のタイトルで、記事にしている。

2歳の最後(2歳11ヶ月)には、「パトカーハ、キイロデ、ナカニ、ハイッテハ、イケマセント、イイマス。パトカーガ、キイロデ、ハイッタラ、ドウスルノカナア?」とまで話せるようになった。

「タイヨウガ、カクレテシマッタネー」は祖父の私が話したことばの「オーム返しことば」で覚えたのだが、このことばは、孫にはよほど新鮮に聞こえたようで、何度も何度も嬉しそうにくりかえしていた。興味があることを何度も反復するというのも、孫の行動の特徴の一つである。ここから、もう一つの仮説が浮かぶ。

仮説9:
こどもは、興味がある新鮮なことばを、何度も反復する。

面白いのは、複数語文を話すようになった時期と歌を歌うようになった時期が重なることで、1歳3ヶ月には「キラキラ星」の「キラキラヒカル、オソラノホシヨ、マバタキシテハ、ミンナヲミテル」と歌っている。もちろん、歌詞の内容はほとんど分からず、丸暗記だろうが、それを楽しんで歌っていた。両親や祖父母が、驚き、感心してほめるのでよけいに嬉しかったのだろう。

この長い複数語文歌詞を歌うことも、複数語文の発達に影響がありそうだ。また、<2歳5月>から「ナンデ?」を何度も発するようになり、それは今も続いている。この原因や理由を知りたいという欲求も、複数語文の発達に影響がありそうに思う。

仮説10:
こどもは、複数語文を1歳3ヶ月頃から話せるようになる。

仮説11:
こどもが歌を歌うことは、複数語文の発達に関係し、プラスに働く。

仮説12:
原因や理由を知りたいというこどもの欲求は、複数語文の発達に関係し、プラスに働く。

祖母と孫が芝生に寝転ぶ。祖母が「お空きれいね」と言うと、「ホントダ」と即、答えた。これは孫が2歳0ヶ月の会話である。これには、祖母も祖父の私も驚嘆した。このような瞬時の的確な表現の例を他に7データ記録している。この例から、孫の記憶は、そのことばだけでなく、そのことばの発せられた状況(文脈)も一緒に記憶していることが分かる。辞書で単語を覚えるような単純な記憶では決してない。

仮説13:
こどもは、ことばを記憶する際に、そのことばを文脈とともに記憶する。

これは、人がことばをどのように習得するかについて知ったことの中で、いちばん感動した経験である。なんと人間はすばらしい能力を持っていることか! コンピュータではこの真似はできないであろう。

ことばは、何らかの状況の中で使われる。こどもの行動を14のカテゴリーで分けて記録したが、言語を除く13のカテゴリーの中で、言語に関する生データの件数を調べてみた。その結果を多い順から並べると、「知覚」121、「対人」99、「遊び」51、「身体」46、「理解」35、「作業」31、「自我」23、「音楽」19、「感情」13、「運動」12、「気質」6、「学習」5、「鑑賞」4、だった。
「知覚」「対人」「遊び」が上位3を占めている。

仮説14:
こどもは、観察し、他人と交わり、遊ぶ中で、ことばを最も多く習得していく。


仮説という理屈ぽいことばを試しに使ってみたが、普通のことばで以下のようにまとめることもできる。

こどもは、生後3ヶ月頃から、意味の分からないことばをしゃべり始め、6ヶ月頃から「ママ」という通常のことばを話すようになり、ことばの数は日増しに増えていく。9ヶ月頃からは、これと平行して説明が要る正しくないことばを話すようになる。

この説明が要ることばは、2歳1ヶ月頃で終わるが、これは聴く能力や発声する能力、あるいはそれらの連携が充分に発達したためだと思われる。

身体言語の指さしを生後10ヶ月頃から使い始めるが、通常の単語の数が充分多くなると、その助けも要らなくなり、使わなくなる。

生後11ヶ月頃からオーム返しことばが登場する。こどもは、興味あることば、新鮮に感じられることばに即反応し、オーム返しで真似をし、何回もくり返す。このオーム返しとその反復は、こどものことば習得に有効で、1歳0ヶ月頃から通常の単語は急増していく。

複数語文を話せるようになるのは、1歳3ヶ月頃からで、この頃から大人と会話ができるようになり、それは日増しに質、量ともに増していく。

複数語文を話すようになった時期と歌を歌うようになった時期が重なることから、歌を歌うことは複数語文の習得に効果があるのかもしれない。

こどもが瞬時に的確な表現ができることから、こどもはそのことばの発せられた状況(文脈)も一緒に記憶していることが分かる。

ことばを使う頻度の多い状況は、観察している時が最も多く、次いで人との交わりの中、その次は遊んでいる時だった。このような状況がことばの習得に役立っていると思われる。


孫娘の気質

2008年11月に孫娘が生まれた。その成長は「人のこころの」の材料の宝庫で、絶えず拡大を続ける。このような貴重な材料を、私の貧弱な記憶にだけ留めておくことは許されないと思った。

そこで、孫の成長を記録に残すことにした。データは、ビデオ記録から取り出した記事を中心に、私がメモ書きしたものを使って補強した。そのデータを14個のカテゴリーに分け、それぞれのカテゴリーをさらにいくつかの下位のカテゴリー(特性)に細分した。

14個のカテゴリーの中では、「観察」「感情」「言語」「理解」「学習」「気質」「自我」の7個が「人のこころ」に関係している。ここでは、その中の「気質」に的を絞って取り上げることにした。それは「気質」が最も個性を表すからだ。

今回「気質」について調べてみたが、手持ちの4冊の心理学事典、3冊の乳幼児心理学書、1冊の発達心理学書にある「気質」の定義は、それぞれかなり違っていた。また、2冊の発達心理学書には「気質」の項目がなかった。

最近の気質研究者による「気質」の定義にも違いが見られた。ただし、気質は、「発達初期から観察され、時間的に安定的で、遺伝的に影響されているパーソナリティー特徴の個人差を指すものであることに関しては、気質研究者の間で合意が見られている」とのことだ。なんとも曖昧である。

そこで、常識的に考えて、「気質」とは持って生まれた個人の特徴とした。その「気質」を特性で細分して分析することにしたが、この特性についても、気質研究者によって非常に異なっている。その上、それらの特性には、個人の気質を記録するのに有用なものはほとんどなかった。そこで、この気質の特性も、孫の成長観察中に見つけた、顕著で、継続性のありそうなものを選び、この特性を出現順に並べた。

孫に「気質」というカテゴリーを私が認めたのは0歳10ヶ月である。それ以前に、あまり怖がらない子、機嫌のよい子などの気質は表れていたのだろうが、そのころは孫を観察できる時間がわずかだったので、私には分からない。

1.意志表示が強い
したいこと、したくないこと、嫌なことについてはっきり意志表示をする。そして、譲れないことには頑強に拒否する。理由無しの命令や禁止にも断固拒否することが多い。しかし、理由が納得できれば、意志を変えることも多い。

2.分解復元が好き
まとまった物を一旦分解し、それをまた元に戻すことが好きである。これは頻繁に見られる行動だ。片付けるのが好きなのでは決してなく、元へ戻すことに興味があるようだ。

3.あきらめがよい
孫の気質の中で、私がいちばん感心しているのは、このあきらめのよさである。自分のしたいことを理由なしに禁止されたり、命令されると拒否するが、納得できる理由があれば、いさぎよく受け入れる。もちろん、どちらでも良いことは、すぐに受け入れる。

4.表現力が豊か
喜びや嬉しい気持ちを、飛び跳ねたり大声をだして、からだ全体で表現するのは、1歳6ヶ月ころからで、それは今も続いている。ビデオの悲しい場面を見ている時の表情も、それに似つかわしい。

5.集中力がある
私も集中力のある方だが、孫の集中力には負ける気がする。したいことをしている時に、一心不乱にそれに打ち込んでいる姿を眺めながら、人間の素晴らしさを思ってしまう。

6.反復を好む
気に入ったことは「モウイッカイ」をくり返し、何度も反復する。それに付き合うのが大変なので、頼み込んで止めてもらうことがある。これは、「遊び」「鑑賞」などの状況でよく見られる。

7.気が強い
逆らう私に戦いを挑んでくる。知らない大人には人見知りをするが、気は強い。

8.選択で迷わない
選択の場面で迷うことがほとんどない。

9.こだわりがある
孫には、孫なりの美意識があるように感じる。壊れたドーナツは嫌いだと言って、一部が壊れたドーナツを食べるのを拒絶した。積み木で柱を立てるときにも、規則性(低いものの上に長いものとか、色の組み合わせ)を持たせる。

10.やり方を変える
一つのやり方を済ませると、違ったやり方を行おうとする。一つの目標を達成したら、それを変えようとする。「作業」の状況でよく見られる。これは 6.反復を好む の正反対である。

11.照れる
1から10までの特性は、何度も似たことを経験している。しかし、この「照れる」はただ一度の経験である。だから、これは気質ではなく、たまたま口にしたのかも分からない。しかし、私としては、「照れ」と言うか「デリカシー」があるのだと思いたい。

以上が、孫の成長記録から取り出して整理をした孫の気質である。現在2歳9ヶ月に入った幼児が、質、量ともに、大人顔負けの豊富な気質を持つという事実を知り、人のこころの面白さを強く思う。

孫娘3歳までの成長記録をまとめることができたのは、「運は時なり」の最大の幸運である。


孫娘3歳までの成長記録 全目次
 孫娘3歳までの成長記録の19章 詳細は!

孫娘3歳までの成長記録 関連 孫エッセイ
 孫娘3歳までの成長記録をまとめる前に、幾つかのカテゴリーでエッセイ形式でまとめた 詳細は!


東日本大震災から学ぶ
 人生の終わりの時期に、想像を絶する自然災害と人工災害を見聞し、学んだことをまとめた 詳細は!

ミュージカルとメル友ゴダイ
 らくだのダンスの著者、このミュージカルの作詞・作曲をされた五代文悟先生を偲ぶ 詳細は!

HD動画のための静止画
 HD動画作成のための静止画を中心としたまとめ 詳細は!

静止画より作ったHD動画の例示
 静止画を加工して作ったハイビジョン動画は、直接撮影した動画に劣らず実用的である 詳細は!

新幹線九州旅行 2011
 鹿児島まで開通した新幹線を利用して、鹿児島、熊本、福岡を旅行した 詳細は!

厳島神社
 九州からの帰り道、厳島神社に立ち寄った 詳細は!


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2012年 リタイア8年目 閉鎖したブログと掲示板の内容記録

掲示板 BOWのひとりごと 全目次
 2000年〜2012年の時系列順全目次 詳細は!

ブログ エンジョイBOWの記録
 2006年〜2012年の時系列順全記録 詳細は!

幼児の毎月の成長 誕生から3歳まで
 孫娘3歳までの成長記録をまとめ直し、目次のクリックで○歳○月のデータが表示される 詳細は!

リスト編曲ベートーベン第9交響曲
 リスト編曲のベートーベン第9交響曲のピアノ版とオーケストラ版との違いを書いた感想文 詳細は!

色の勉強
 波長の違う二つの音は2つとして聴き分け、波長の違う二つの色は混合されて別の色になる 詳細は!

私の静止画処理法
 1986年から取り組んできた静止画の処理法についてまとめた 詳細は!

私の動画歴
 1942年から取り組んできた動画(ビデオ)の自分史をまとめた 詳細は!

ビデオカメラの規格
 デジタルビデオカメラの規格を、古いものから順にまとめた 詳細は!

光ディスク
 記録用電子メディアとして、光ディスクは、CD、DVD、BDがほぼ10年間隔で登場した 詳細は!

私の静止画歴
 私の静止画像歴を、アナログ画像時代とデジタル画像時代に分けてまとめた 詳細は!

嵯峨野・仁和寺・北野天満宮の紅葉
 2011年と2012年の秋に、嵯峨野・仁和寺・北野天満宮の美しい紅葉を撮影した 詳細は!

美しき国スロベニア・クロアチア
 2012年にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロを旅行した 詳細は!

私の美術歴
 中学時代によく眺めた少年美術館全12巻を無傷で入手できたので、美術歴をまとめた 詳細は!

私の住宅デザイン
 設計は私がしたい大きなカテゴリーで、医院と居宅の新築、居宅の増改築では熱中した 詳細は!


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2013年 リタイア9年目 両親に関する記憶

子を亡くした母の心(手記)
 麻疹に罹り、わずか3日で我が子を亡くした悲しみを書き綴った母の手記 詳細は!

母の一生
 私の知っている母の一生を、私が母から受けた影響を中心に、まとめた 詳細は!

歌好きのルーツは母の歌
 私の記憶にある母の愛唱歌25曲と遺された楽譜10曲 詳細は!

喜寿になって知る父の影響
 父が作った環境から私が受けた影響は、予想以上に大きかったことを喜寿になって知った 詳細は!


10歳のころの遊び
 孫娘の「遊び」に圧倒され、自分のこどものころの遊びをふり返り、まとめた 詳細は!

60年間の手紙の整理保存
 自分の人生に強く関係した交友の記録として手紙を保存する 詳細は!

生きている喜び
 生きている喜びを存分に味わった経験から、過去の資料なども参考に、まとめを書いた 詳細は!

歌劇「アイーダ」演奏会形式
 私の一番好きなオペラ「アイーダ」を、スカラ座の演奏会形式の公演で鑑賞、最高だった 詳細は!

ファイルベース時代の動画保存
 ファイルベース時代の動画保存の標準形式は MP4、それを使ってマスターファイルを作った 詳細は!

動画制作システム
 1920x1080のHD動画を制作するシステムを構築し、動画マスターファイルも作っている 詳細は!

スイス旅行
 妻の望むスイス旅行で、マッターホルン、ユングフラウ、モンブランを眺めた 詳細は!

東北旅行
 かなり前から旅行したかった東北へ、3泊4日の旅をしたが、実りが多かった 詳細は!

ある患者への手紙
 60年間の手紙の整理保存を行った際に見つかった、私が患者に送った手紙のコピー 詳細は!


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2014年 リタイア10年目 石巻演奏旅行

ハートリー合唱団 石巻演奏旅行
 ハートリー合唱団は石巻市への演奏旅行を行い、石巻ジュニアリーダーの8名もこれに参加 詳細は!


男声カルテット GNT4 デビュー
 82歳の神谷文雄、77歳の野村 望、21歳の内倉和真、19歳の山本真輔の男声カルテット 詳細は!

ミュージカルと私
 1950年14歳から始まって、2012年76歳までの62年の間、観てきたミュージカルを列挙 詳細は!

私の好きな映画音楽
 映画音楽を最も多く知ったのは14歳から23歳の1950年代で、全体の50%、61曲もある 詳細は!

天からの啓示?
 私の人生で最も鮮明に記憶に残っている不思議な現象につき、その発生メカニズムを考察 詳細は!

エルミタージュ美術館 ほか
 これまで36の美術館を訪問しているが、世界三大美術館のエルミタージュは未訪問だった 詳細は!

デジカメによるハイビジョン動画
 孫の成長記録は動画撮影に限るが、大きなカメラは不向きで、小さなデジカメが最適 詳細は!

Google 検索上位タイトル
 サイト掲載の420件の記事で、検索で1から10位に表示された323件のタイトルを分析 詳細は!

ロシア旅行
 ロシアは一番嫌いな国だが、かって世界を二分した超大国を一度は訪れたいと思ってきた 詳細は!

白内障手術体験記
 白内障の手術を受け、見える世界が20%以上明るくなり素晴らしい 詳細は!

頚椎症性神経根症を患う
 手術でなく保存療法を選び、自然と回復した 詳細は!

私の補聴器使用法
 補聴器は眼鏡とは比較にならぬ超精密機器であり、聴力の向上には限界がある 詳細は!


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2015年 リタイア11年目 最も大切な記録はウエブサイトの記事

私にとっての記録
 日記を書いたことがないという記録好きにとって、記録の意味は何かを考えた 詳細は!

医師2年目から3年目までの診療症例
 医師になって2年から3年の間に、出張先病院で診療した中で、重要と思う250症例を記録 詳細は!

医療関係論文目録
 「医学学術論文」の中に「医療関連論文」に含める方が適当な論文を見つけ、それに対応 詳細は!

奥村先生を偲ぶクラス会
 1946年に戦後最初の新学期を高羽小学校4年庄野学級の生徒として迎えたクラスメートは
 前年亡くなられた恩師庄野千鶴子先生を偲ぶクラス会を開いた 詳細は!

第7回コンサート
 今回のコンサートは演奏レベルが高く、28曲を2枚のCDに、11曲をBDとDVDに残した 詳細は!

大川沿いの桜
 自宅の近くを流れる大川沿いを散策し桜を眺め、写真で記録に残した 詳細は!

98画像の変遷(改訂版)
 MS-DOS PC時代に使われた静止画像の変遷、発展をまとめた 詳細は!

私の電気通信歴 固定電話からスマートフォンまで
 携帯電話から変えたスマートフォンをよく理解するため、電気通信のあらましを調べた 詳細は!

ケルン・オランダ・ベルギーへの旅 2015
 前年から老化が急に進んだので、行ける間に海外旅行をしようとこの旅を選んだ 詳細は!

真夏のスペイン旅行 1995
 1995年のスペイン旅行の記録は動画だけなので、旅行記として文章と写真で保存した 詳細は!

秋のスペイン旅行 2015
 老化が進み、最後の海外旅行になるかもしれないと思って、選んだ国がスペインだった 詳細は!

真夏のイタリア旅行 1992
 最初の海外旅行であるイタリアの記録は動画しかなく、これを文と写真の旅行記にした 詳細は!

真夏のドイツ・オーストリア旅行 1997
 デジカメ写真CD保存だけだった第3回海外旅行ドイツ・オーストリアを旅行記に書換えた 詳細は!


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2016年 リタイア12年目 サイト開設20周年

サイト開設20周年

2016年8月15日をもって、当サイト(ホームページ)は開設20周年を迎えた。その間660件の記事を掲載し、その内の475件の記事を現在も掲載している。

最近は、新しい記事を掲載する頻度も減ってきたが、それでも月1件程度は維持している。

掲載記事のGoogle検索順位は、総じて高く、昨年末の総括記事で調べたところ、記事14件の内、1位が8件、2〜10位が4件だった。つまり、1位が約60%、10位以内が約86%ということになる。

開設の動機
1996年7月、大阪府堺市学童のO157集団感染が発生した際、O157に関する最新医学情報がインターネットの上でのみ得られたことから、私の所属する交野市医師会の会員の間では、インターネットに接続したいという欲求が高まった。

そこで、パソコン同好会を作り、パソコンを長く使ってきた私が、インターネット接続の技術を身につけられるように会員をお世話をすることとなった。

そのためには、自前のホームページ(Webサイト)を持っていることが実習に便利だという理由で、1996年8月15日に開設したのが、「交野の野村医院」という名のホームページである。

当時、世の中では、ホームページの存在は未だわずかで、Yahoo! JAPANも、この年の1月に設立されたばかりだった。

内容に対する方針
1996年8月から2005年8月までのサイト「交野の野村医院」には、医院の名前が付いている。しかし、医院のPRになる記事は極力減らし、自分が関心のある分野の記事を載せることを方針としてきた。

「交野の野村医院」最終日のホームページを見ると、記事のカテゴリを、1.当院の紹介、2.患者さん用情報、3.医療関係、4.当院の出版物、5.院長のエッセイ、6.パソコン関係、7.音楽、8.映像、9.ハウツー、10.BOWのひとりごとに分類している。

これを記事でみると、医療関係の記事の数は合わせて70件で、全記事292件の24%に当たる。

2005年9月より医業を息子に引き継ぎ引退したのに伴い、サイト名を「中之島のBOW」に変更した。これでもって、名実ともに私の個人的関心事のサイトとなった。

サイト開設20周年の「中之島のBOW」の記事を、カテゴリー別に並べてみると、言葉 169件 36%、音楽 80件 17%、映像 77件 16%、医療 48件 10%、旅行 46件 10%、PC 43件 9%、出版 9件 2%、創作 1件 0%である。

この記事数の割合は、私の関心事の割合にある程度関係しているだろう。言葉、音楽、映像が三大関心事で全体の7割を占め、その中でも、言葉の記事数は、音楽と映像を合わせた記事数と同じであるのが面白い。もちろん、記録というものは、ほとんどの場合、言葉で記すのだから、言葉が多いのは当然ではあるのだが、、、

医療、旅行、PCがそれぞれ約10%で合わせて全体の3割を占めている。

医療カテゴリーの記事数は全体の10%となり、「交野の野村医院」の場合の半分以下に下がっている。

記事ファイルの階層構造
記事ファイルは、すべてホームページ(トップページ)と同じルート・ディレクトリーに置き、仮想階層構造を持たせた。

具体的には、サイトマップを利用して、疑似的な階層構造で記事ファイルを表示した。これは、可変性があり、非常に簡単かつ便利な方法で、パンくずリストにも活用している。

もう一つは、記事ファイルをフレーム・スタイルで表示せず、専らノーフレームに徹したが、これにより、複雑な構造が不要で、仮想階層構造との相性が良いと考えている。

目標としてきた文書スタイルとそのための対応
私が望む当サイトの記事のスタイルの要素を、優先順位の高いものから挙げていくと、1)読みやすい、2)分かりやすい、3)関連記事にすぐ移れる、4)記事を見つけやすい、5)少ない手順で求める情報にアクセスできる、6)情報の新鮮度が分かる、7)記事を作るのが容易、8)見た目がきれい、少なくとも不快ではない、と考えてきた。

この望ましい文書スタイルにするための作業を、2010年から始めた。その作業は、これまでのHTMLだけでサイトの記事を書くのではなく、HTMLとスタイルシート(CSS)を併用することが中心となった。

その具体的な方法は、Web記事の文書スタイルに詳しく書いている。

20年間続けてきたこのサイトの記事の作成には、最初から、Mifes というテキスト・エディターだけを使って来た。これはメモ帳の高級版と言ったもので、本来プログラムの作成に使うソフトである。

そう言うわけで、通常使われることが多い「ホームページ作成ソフト」は、一度も使ったことがない。

私にとっての個人サイトの意義
私はこどもの頃から何かを作ることが好きだった。最近は、その中でも、何かを構築することがしたいことである。

もうひとつのしたいことは、記録をすることで、これはしたいというより、しておかなければならないという思いの方が強いかもしれない。記憶力低下をカバーするために欠かせない方法でもある。

三つめのしたいことは、作った作品、記録などを公開したいという欲求である。インターネットがない時代には、それは出版、雑誌などへの投稿が主な解決法であった。

これに対して、現在最も有用な方法が、サイトに記事を載せることである。個人のサイトを持っていれば、自分で記事を書き、それを自分が望ましいスタイルに編集し、出版などとは比較にならぬ短い時間と安い費用で、世界に向けて発信できる。

Googleなどの検索エンジンに取り上げられれば、関心のある内容の情報を求めている人からのアクセスが得られる。

個人の情報の発信の手段として、現在の段階でこれを超えるものはないと考えている。

サイトの内容の保存
サイトの内容は、自分のパソコンのハードディスクと、サーバーのハードディスクに保存されているが、それ以外に、CD、DVD、BDなどの光ディスクに保存することも、便利な場合がある。

光ディスクなら、大量のダビングが容易で、それをパソコンに挿入してデータを再生することも容易で、軽量、安価、長期間の保存に耐えられるなどのメリットがある。

ある時点でのサイト内容の保存としては、光ディスクでの保存は今のところ最適かもしれない。サイトの開設者、サイトの作成者が高齢、病身、そのたの理由で内容の更新ができなくなる場合、この方法でサイトの内容の保存を図るのは、意味があることと考えられる。

サイト開設20周年という節目を記念して、この日のサイトの全内容をDVDに記録した。その方法については、今後試行を繰り返し、最適と考えられる方法を確立しておく予定である。


光ディスクによるサイト内容の保存

サイトの閉鎖
サイト開設者の死亡、病気、そのたの理由でサイトを閉鎖しなければならない時は必ずくる。私も80歳を越え、老化が加速度的に進行していることを自覚しているので、先延ばしにしておくわけにはいかない。

その状況にあって、現在思っていることは、内容を更新したい意欲があり、肉体的にそれが可能な間は、サイトを維持したい気持ちだ。

私が死亡したときに、速やかに閉鎖するか、一定の猶予期間を置いて閉鎖するかについては、今は決めかねている。サイトを1年くらい残してから閉鎖するのが現実的かもしれない。


傘寿に思う
 オマケの人生に入っても自覚がなかった体力の衰えを、3年前から感じるようになった  詳細は!

ボージョレヌーボ解禁日に飲む会
 聴力低下がひどいので、20年続いたボージョレヌーボ解禁日に飲む会の最終回にして頂いた 詳細は!

歌の発声 メカニズムを中心に
 コーラスを退団する機会に、歌の発声、特にそのメカニズムを知りたくなり、まとめた 詳細は!

ハートリー合唱団12年のあゆみ
 コーラスを退団する機会に、ハートリー合唱団12年のあゆみを詳しく記録に残した 詳細は!

コーラスを退団
 聴力低下が急速に増し、在団を続けて楽しい思い出に傷がつくことを恐れ、退団した 詳細は!

友の水墨画個展
 解剖実習グループ6人の中で生きているのは浜田辰巳君と私の二人だけになった。
 その彼が水墨画の個展を開いたので鑑賞したが、素晴らしい作品に、ただただ感嘆した 詳細は!

BDレコーダ中心の映像視聴システム
 BDレコーダを中心とした、ホームシアター的な映像視聴システムを構築した 詳細は!

ポーランド旅行 2016
 老化で海外旅行が難しくなるかも知れないが、アウシュヴィッツだけは訪れようと考えた 詳細は!

サイト内容のDVD記録
 私の人生の記録の多くは、このサイト内の記事にあり、それを記録したDVDを作成する技法 詳細は!


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2017年 リタイア13年目 人生まとめのとき

人生 まとめのとき
 人生 まとめのときに入ったことを自覚し、自分の人生のあらましの記録を残したいと思う 詳細は!

野村 望 年譜
 自分の人生のあらましの記録の一つとして、項目一行表示の「野村 望 年譜」を作った 詳細は!

サイトのハイパーリンク
 サイトの記事には、出版では得られないハイパーリンクという優れた特質がある 詳細は!

ハンガリー・スロバキア・オーストリア・チェコの旅
 先輩医師から聞いた「優秀なチェコの軽機関銃」が頭に残り、チェコに旅行した 詳細は!

運は時なり物語
 自分の人生が「運は時なり」の要素に満ちていることに気づき、その視点でまとめた 詳細は!


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14.まとめ

 1.自分史をまとめようとして、年譜を作ったが、箇条書きの羅列は面白いものではなかった

 2.そこで、生命感のあるストーリーを中心とした自分史物語として、まとめなおすことにした

 3.私の自分史の記録の95%以上がこのサイトの記事だと思っている
  その記事の中からストーリー性のある記事を選んだ

 4.自分が重要だと思う、それ以外の記事は、1行の紹介文と本文へのリンクをつけた

 5.人という種は、原因、目的、理由、意味、未来などのストーリーを必要とするのではなかろうか?
  それが人類を発展させたのかもしれないが、人類滅亡に向かわせることになるかもしれない

 6.このサイトの記事の大半に目を通したが、自分の人生が幸運に恵まれてきたことを再認識した

 7.その幸運は「運は時なり」に連なっていて、時が違えば遭遇することのなかった運である

 8.その「時」は、天命や神命、因果応報などではなく、偶然つまり確率であると考える

 9.運に「時」は欠かせないが、それと同時に当事者の「決断」が欠かせない場合があることも知った
  それを挙げていくと、例えば、以下の場合がそれに相当する
  1962年 阪大第一外科入局、1966年 田伏経子と婚約、1967年 結婚披露宴、1971年 第一外科退局
  1972年 開業地変更、1973年 鉄筋コンクリート造 医院居宅 新築、1974年 レセプト・コンピュータ
  導入
、1984年 青色みなし法人に変更、1995年 息子 圭へ医院引継ぎ、2005年 終の棲家の決定

10.人は、運不運を得るためのストーリーがあると思い、そのストーリーを必要とするように思える。
  しかし、運不運は時によるものであり、運不運を得るためのストーリーにあまり意味はあるまい。
  運を直感し、運を逃さないよう決断し、不運を幸運に変えようと努めることには効果があるかも
  しれないと思う程度である。

<2017.9.14.>

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