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2013.11.11. 掲載
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目次
1.はじめに
2.平泉町
3.松島町
4.東松島市・石巻市
5.仙台市
6.会津若松市
7.まとめ
東北は、かなり前から旅行してみたかった。その第一の理由は、マルコポーロの「東方見聞録」に黄金の国ジパングと紹介されたモデルが、奥州平泉の中尊寺金色堂とされているからだ。平泉は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた。コロンブスが航海に乗り出す動機となったのが、このジパングだと聞く。彼が所蔵していた「東方見聞録」には、彼の手書き注釈が加えられているとのことだ。
第二の理由は、東日本大震災の被災地をこの目で見ておきたかった。第三の理由は、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡航した支倉常長と、その主君伊達政宗の治めた仙台藩(伊達藩)に興味があった。
日本三景の松島や、大河ドラマ「八重の桜」の舞台となった会津若松は、ついでだから、立ち寄ろうというくらいの気持ちだった。
行程は、花巻空港 → 平泉 → 松島 → 東松島 → 石巻 → 仙台 → 会津若松 → 福島空港、3泊4日だった。
東北旅行の第1日目は平泉観光で、大阪伊丹空港から岩手花巻空港に着き、そこから観光タクシーで平泉を巡った。平泉は、地図2の通り、柳之御所遺跡 → 無量光院跡 → 高館義経堂 → 中尊寺 → 観自在王院跡 → 毛越寺 → 達谷窟毘沙門堂の7箇所を選んだ。
高館の麓から北上川沿いに段丘が広がるこの一帯は、古来、藤原清衡・基衡の屋敷跡と伝えられてきた。中国産の白磁の壺、東海地方の陶製の大甕、さまざまな木製品や大量消費された「かわらけ」、堀や塀、池や井戸など、12世紀の平泉遺跡群の中でもずば抜けた質と量の遺物、遺構が発見されたことから、遺跡は「吾妻鏡」に見える平泉館(政庁)と想定されている。広大な敷地である。
三代秀衡が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立した寺院跡。阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が鳳凰堂より大きい。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作といわれている。中央の奥では発掘作業が行われていた。ここも広い。
高館は中尊寺の東方にある丘陵で、判官館とも呼ばれている。源義経最期の地と言われる高館には義経堂が建ち、弁慶が立ち往生した衣川(ころもがわ)が望まれ、眼下には北上川が静かに流れている。
金色堂は、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう)の中にあり、ガラスケースに納められて、外気から遮断されている。1124年、藤原清衡により建立され、現存する唯一の創建遺構である。
阿弥陀三尊像等の仏像のほか、藤原四代のミイラ化した遺体が安置されている。
堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで、漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられ、極楽浄土を現世に表している。
堂内は写真撮影が禁止されているので、私の印象となるが、仏像も堂内の装飾も総金箔貼りでありながら、けばけばしさがなく、素直に美しいと感じた。創建当時であれば、最高に素晴らしかったであろうと想像できる。
実際に肉眼で見て、TVやパンフレットの写真では見ることのできない姿を知ることができた。
芭蕉は金色堂に参詣し、鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で金色堂を見て、「五月雨の 降残してや 光堂」を詠んだ。
光堂とは金色堂のこと、覆堂に守られているので、五月雨も金色堂には降り残している。この句にはほかの解釈もあるようだが、素直にその通り受け取れば良いのではなかろうか? この芭蕉翁像は、なかなか良い顔をしていると思った。
覆堂は、繊細な木造建築や石造物を風雪から護るための伝統的な手法のひとつで、金色堂 旧覆堂は現存する国内最古の覆堂とされている。
二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院跡。ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、平安時代に書かれた日本最古の庭園書「作庭記」の作法どおりと考えられている。
西側の通路状の広場を介して毛越寺に接しており、現在は史跡公園として整備・公開されている。ここも広い。
毛越寺は、慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営された。現在大泉が池を中心とする浄土庭園と、平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されている。
池のほぼ中央には勾玉状の中島が配され、池の周辺や中島には玉石が敷かれている。水際には海岸の風景を、また随所に山水の景観を映しており、中でも池の東南岸にある荒磯風の出島は、庭園の中で最も美しい景観の一つである。出島の先端に高さ2m余りの立石が、ほどよい傾きをもって立ち、広い水面を引き締めている。
現在の庭園でさえ、他に比べるものがないほどの優れた庭園であり、藤原時代の素晴らしさが容易に想像できる。
平泉は予想していたよりも見るところが多く、異国でジパングと呼ばれ、憧憬されたことが分かる気がした。その中でも、広大な柳之御所遺跡、美しい金色堂、見事な毛越寺庭園の印象が深い。
東北旅行第2日目は、宮城県の松島町、東松島市、石巻市を訪れた。
東日本大震災とその直後に襲来した大津波による松島町の被害は、隣の東松島市や石巻市と比較して軽微だった。その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失うのことと、松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたためと見られている。
1611年に慶長三陸地震があり、大地震の後、3回の津波に襲われ、伊達領内の溺死者は5,000名に達したとの記録がある。おそらく、この時も、松島湾領域の被害は少なかったのであろう。
また、松島湾は暗礁が多く、外来者にとっては航行が困難な海域である。そのため、江戸時代には伊達政宗によって暗に「軍港」と見なされ、瑞巌寺を始めとした伊達家直轄施設が多数建設された。
今回の旅行を計画したとき、最初は松島町を日本三景の一つ程度に思ってあまり関心はなかった。しかし、調べていくうちに、正宗はここを重視し、伊達家の菩提寺を設け、居城の構想までも持っていたことを知り、俄然関心が湧いてきた。
1611年の慶長三陸地震の2年後の1613年に、正宗は支倉常長を中心とする180名の慶長遣欧使節を、スペイン国王とローマ法王のもとへ派遣した。その目的は、スペインとの通商交渉にあった。慶長三陸地震からの復興を目指して、スペインとの通商を考えたと聞く。翌年、禁教令が敷かれ、それがヨーロッパに伝わり、通商交渉は成功しなかった。
しかし、常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」であり、日本の国際交流の先駆者である。スペインやローマ法王庁の人々は、自分達から遠く離れたところに、高度な文化と技術を持った国があるという事実を知った。また、支倉常長らの姿や彼らの堂々とした言動も、ヨーロッパ人を感心させたようだ。
使節団は、セビリア近くにある、コリア・デル・リオに長期滞在した。この小さな港町には、常長を記念する銅像が建てられている。また、この町にはハポン姓の人が数百人住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に留まり移住したキリスト教徒の仙台藩士や、使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われている。
1975年にスペインへ旅行した際、私たち夫婦は、女子中学生から「イスパニヨーラ? ハポネス?」と親しげに尋ねられたことを思い出す。その時、この慶長遣欧使節団の中でスペインに残った子孫がたくさんいることを知った。外国で暮らすなら、私もスペインを選ぶだろうとその時思った。
双観山は、松島海岸の南に突き出ている岬の丘である。公園として整備されている頂上の展望台からは、塩釜湾と松島湾の双方を望めることができることから、 双観の名前がついたと言う。
新富山展望台からは、松島湾内の最大の島である福浦島を正面にして松島湾が広がり、さらに松島の中心街も見渡すことができる。しかし、直下に見える民家が景観を損ない、目障りと感じた。
瑞巌寺は伊達家の菩提寺である。その本堂は、平成21年9月から平成28年春ごろまで、平成の大修理が行われていて、非公開になっている。
その代わりとして、庫裡と仮本堂(大書院)が特別公開されている。これにより、本来は本堂に安置されている御本尊、大位牌、三代開山木造が、大修理期間中は仮本堂に移されていて拝観できる。
また、瑞巌寺の東に隣接する陽徳院御霊屋も、この大修理期間中、特別公開されている。
復元された陽徳院御霊屋はまこと美しい。華美ではなく粋である。写真でもこのように美しいが、実物ははるかに素晴らしい。伊達家の美意識の高さに感じ入った。
伊達光宗は政宗の孫で、幼少の頃より文武に優れ、その才智は徳川幕府にとって恐るべき存在であった。江戸城内で19歳の若さで亡くなったが、その死因に関しては毒殺説と病死説が伝えられている。
霊廟は、光宗の死を悼んだ二代藩主忠宗によって建立された。厨子の図案には、支倉常長が西洋より持ち帰ったさまざまな文化を模様として描き、当時鎖国制度を施行していた徳川幕府に対しては、伊達家の霊廟と申し立て、その扉を開けることはなかったと言われている。
そのため、3世紀半もの間公開されずに現代に至った伊達家の秘蔵である。伊達家の美意識とプライドが感じられる。
この観瀾亭からも、自然の景観を鑑賞することに対する、伊達家の洗練された美意識を感じる
松島を観光し、日本三景の一つとしての松島にはそれほど感動することはなかった。しかし、この地形が津波の被害を少なくし、また、水路を熟知していなければ大型船の航海が難しく、政宗の時代の軍港に適しているとの話に興味を持った。
松島を旅して心に残るのは、この地を伊達政宗が重視して、菩提寺瑞巌寺をはじめ、多くの重要な施設を建設したこと。その施設には「粋」と表現すべき優れた美意識が込められていて、その美しさに魅せられたことである。中でも、瑞巌寺本堂孔雀の間の襖絵、陽徳院御霊屋、観瀾亭を素晴らしいと思った。
政宗の嫡孫光宗の霊廟に、鎖国下でありながら、支倉常長が持ち帰ったさまざまな文化、例えば、ローマのシンボル薔薇とフィレンツェのシンボル水仙の絵、クロス(十字架)の模様までを配し、幕府が知れば御家断絶の危険があることを承知で、伊達家の霊廟であるとして350年間も秘蔵したことにも感嘆した。
五大堂も、建立後400年を経過した木造建築であるが、虚飾がなく端正で美しい。創建当初の姿が想像できる。
私の関心は、自然の景観よりも、その中にある人間の創作物の方に向く。日本三景の「宮島」でも、人間が作った建物、厳島神社の美しさに魅せられた。だから、日本三景の「天橋立」にはあまり興味がない。
今回の東北旅行の第二の目的は、東日本大震災の被災地をこの目で見ることだった。
宮城県は、震源地に最も近く、福島県や茨城県と共に激震であった。 津波の被害としては、浸水面積と浸水域の人口がともに3県の中で最大、宮城県だけで阪神・淡路大震災を上回る犠牲者を出した。その中でも、石巻市は、震災最多の3,700人以上の犠牲者を出している。
松島町の東隣に位置する東松島市は、松島町の津波被害が軽微だったのに比べて、被害は甚大で、JR野蒜駅近くの脱線事故は、いまだ私の記憶に残っている。
松島町からタクシーで国道45線を東に進んで東松島市に入り、野蒜海水浴場とJR東日本仙石線 野蒜駅に立ち寄った。続いて石巻市に入り、日和山に登った。
国道45号線から見える海側も山側も、がれきはほとんど撤去されている。あの震災から2年半余りでここまで整えられたことに驚く。しかし、広大な更地が遠くまで一面に広がっている。道路沿いには、新しい建物もあるが、全体の10%にも満たないように見えた。復興にはほど遠い状態である。
東日本大震災の惨状を繰り返し伝える報道が今も目に焼き付いている。
その時感じ、学んだこと、考えたことを東日本大震災から学ぶのタイトルで、このサイトに掲載した。
今、それを読み返してみて、私の思いは変わっていない。その中でも、被災地の人たちが、けなげに、必死で生きようとする姿を知ると、人間の素晴らしさに胸が熱くなる。多くの人が、不満や怒りではなく、感謝と再興への意欲を表している。その誰もが何とも言えぬ良い表情なのだ。
その東日本大震災の被災地を、この目で見ることができたことをありがたく思う。あれだけの惨状だった被災地から、わずか2年半余りで、がれきはほとんど撤去され、広大な更地となっている。復興にほど遠い状態ではあるが、予想していた以上のスピードで、復興に向かっていることを知った。
案内してくれたタクシーの運転手は、この震災を体験された仙台在住の方で、豊富な経験と深い知識を持ちながら、偏った説明はなく、納得がいくもので、幸運だった。名刺には、語り部公認ドライバーの肩書があった。
東北旅行第3日目の仙台市観光は、自分たち夫婦で行うつもりでいた。しかし、前日、松島から石巻を案内してもらった公認語り部ドライバーの説明が良かったので、午前中の市内観光をこの方にお願いした。
語り部ドライバーには、仙台城跡、青葉山公園、広瀬川、瑞鳳殿、定禅寺通を案内してもらい、青葉通り、仙台駅周辺、クリネックス宮城球場は自分たちで観光した。
仙台といえば、さとう宗幸が作曲し唄ってヒットした「青葉城恋唄」のメロディーが浮かぶ。そして、「広瀬川」「杜の都」「青葉通り」のことばにつながる。その仙台を楽しんだ。
仙台駅西口周辺は、これまで東京、大阪、京都、名古屋、博多などの駅とは様子が異なっていた。その最大の違いは、立体歩道橋(仙台では、ペデストリアンデッキと呼んでいる)が中心となっていることで、新鮮に感じた。その代り、地下街は少なく仙台駅の下と隣接地域に限られている。
この立体歩道橋は、地上の建物を直接見ることができるため、地理が分かりやすく、便利であるが、天候に弱い欠点がある。
仙台駅西口側は、江戸時代からの城下町・仙台の中心部があったところで、現在に至るまで中心部であり続けている。
仙台市は東北第一の都会にふさわしい重厚な雰囲気があり、中心は仙台駅西口から西側にある。
青葉通、定禅寺通の両脇や中央分離帯はケヤキ並木となっていて杜の都のイメージが浮かぶ。
仙台駅も西口が中心となる。ペデストリアンデッキ(立体歩道橋)が張り巡らされているのが、他の大都会の駅舎と異なっている。
道路は碁盤の目状で、幅員の大きいものが多く、青葉通は50m、定禅寺通は46mで、御堂筋の43.6mよりも広い。ただし、札幌大通は105mである。
伊達家に関する史跡は、松島町と比べて少ない印象を受けた。よく知られているのは、仙台城跡、瑞鳳殿、青葉神社などのようだ。
東北旅行第4日目の会津若松市観光は、仙台市から東北新幹線で郡山に着き、そこからJR磐越西線で会津若松に到着、市内観光は、まちなか周遊バスの「あかべぇ」を利用した。
鶴ヶ城の東にあり、中央に心字の池を配した回遊式の借景園と、各種薬草を栽培する薬草園が御薬園の名前の由来である。昭和7年に、徳川時代の代表的な大名型山水庭園として、国の名勝に指定された。歴代の藩主が愛したこの庭園は素晴らしい。
会津若松観光は、今回の東北旅行では、当地に来るまで、どちらかと言えばオマケ的なもので、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台であるとか、賊軍とされた会津藩への同情があった気がする。
実際にこの地を訪問して、田舎であることにまず驚いた。郡山から乗った列車は、単線2両編成。会津若松駅を降りて、近くのホテルに向かう途中の横断歩道の信号は、呆れるほど長時間、赤のままであった。ホテルの浴槽は、水を抜くと、浴室に水が漏れ出てきた。
しかし、土地の人は親切だった。
会津藩家老西郷頼母の屋敷は見ごたえがあった。御薬園の大名庭園は美しい良い庭だった。鶴ヶ城は、会津若松観光の華で、私がこれまで見た日本の城の中で、最も美しいと思った。この城を観ることができたことだけでも会津若松を選んでよかったと思っている。私の好きな熊本城に似ているところがある。
飯盛山の白虎隊自刃の場では、若者をこのような状況に追いやったものすべてに対して、怒りを覚えた。
東日本大震災は、人類が経験した最大級の自然災害に、同じく人類が経験した最大級の人工災害が加わり、人工災害については解決の目途が立たない状況にいる。福島第一原子力発電所は、郡山を挟んで会津若松の反対の位置にあるが、立ち寄ることはできない。
そこで、1)福島第一原発の場所、2)事故発生1週間後、米軍の航空機2機が福島第一原発を中心に周辺約40km圏内、地上高さ1mにおける放射線濃度測定を行って作成し、公表された放射線汚染地図、3)福島第一原発の航空写真を載せることにした。
1.中尊寺金色堂から、東方見聞録で「ジパング」のモデルとなった当時の金色に輝く姿を想像することができた。
2.平泉の遺跡はどれも広大で、その一部である毛越寺の浄土庭園は、他に比べるものがないほどの優れた庭園であり、藤原時代の庭園の素晴らしさが容易に想像できた。
3.松島町では、景観よりも、伊達家に関わる重要な施設に魅せられた。中でも陽徳院御霊屋の美しさは、今も目に焼き付いている。金がこのように美しくなり得ることを初めて知った。金色堂も当時は輝く美しさだったのだろう。円通院の三慧殿では、支倉常長を中心とする慶長遣欧使節の偉業を改めて思った。
4.東日本大震災の被災地の東松島市と石巻市は、がれきが撤去されて、更地ばかりとなっていた。復興にはほど遠い状態、緒に就いたばかりだと感じた。
5.仙台市は、東北一の大都会の重厚さがあり、杜の都であることが実感できた。仙台駅は西口側が中心で、仙台市自身も、この駅から西側に中心がある。中央駅に歩道橋が張り巡らされているのが、他の大都市に見られない特徴だと思った。
6.会津若松の鶴ヶ城は、私がこれまで見た城の中でいちばん美しい。
今回の東北旅行は、天候に恵まれ、予想していたよりも実りが多かった。念願が叶えられて、ありがたく思っている。
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