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祇園一力亭

2006.10.02. 掲載
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祇園情緒のある花見小路の角に「一力亭」があります。祇園の中でも最も由緒のある「お茶屋」のひとつで、大石内蔵助が豪遊したとか、近藤勇や大久保利通、西郷隆盛も通ったとかという話を聞いたことがありますね。

「お茶屋」とは、芸妓さん舞妓さんのいるお座敷で、お酒を飲んだり食事をしたり、お座敷遊びをしたり、歌舞音曲を楽しんだりするところとされています。ここでは「一見さん」お断りですが、その中でも、この「一力亭」は、とくに格式が高いところとして知られています。

九月も終りのある夕べに、ある方の紹介をいただいて、ここ「一力亭」の座敷で、芸妓さんや舞妓さんに酌をしてもらって酒を飲み、京料理を堪能しながら、会話を楽しみ、京舞を鑑賞しました。料理を仲居さんでなく、芸妓さんや舞妓さんが運んでくるのにちょっと驚きました。その料理はお茶屋で作るのではなく、「仕出屋」が作り、タイミングを見計らって、一品一品お茶屋に届けるのだそうです。

彼女たちは、気配りが利き、いろいろな話題にも対応ができ、また、舞妓や芸妓のことなども詳しく教えてくれたりで、笑いの絶えない時間が続きました。このようなことは、これから経験をすることがないと思われるので、素人が見た「一力亭の夕べ」を記録しておきます。


写真1.一力亭の暖簾

元々この店の屋号は「万屋」だったそうです。ところが、幕府への遠慮から、仮名手本忠臣蔵では、この店の「万」の字を二つに分けて「一力」という屋号に変えたようです。そうしたら、この芝居が大当たりを呼び、それからは、この店の屋号までが芝居の中で使われた「一力」という名で呼ばれるようになったのだそうです。

この写真の右上に「杉浦治郎右衛門」の表札が掛けられていますね。杉浦治郎右衛門は「一力」の九代目当主で、1869年(明治2年)に、下京第33組小学校が発足した時の初代校長です。この小学校は1948年(昭和23年)に京都市立弥栄中学校となり、現在に至っています。お茶屋の当主が初代校長とは、いかにも祇園らしいですね。

写真2.一力の床の間

美しい赤壁を黒塗りの柱や梁がきりっと引き締め、モダンに感じられます。花篭にはすすきや秋の七草が生けられていました。

写真3.黒塗りの欄間、落ち着いた障子

この古い建物も1864年の「蛤御門の変」で焼失し、現在の建物はその後で建て直されたとのことです。

写真4.鉄斎の揮毫「福無彊」

富岡鉄斎は明治・大正期の文人画家でした。「福無彊」とは「福は強さではない」という意味でしょうか?

写真5.二人の芸妓さんによる京舞の始まり

「京舞」は日本舞踊と違い、能の影響を受けて、簡略化された動作の中に最大限の表現を感じさせる舞で、踊りでなくて舞と呼ぶんだそうです。

写真6.二人の芸妓さんによる京舞

「京舞」とは、初世井上八千代が約200年前に始めた井上流の舞を言うそうで、「都をどり」「祇園をどり」「京をどり」など、どれも井上流の「京舞」なんですね。

写真7.二人の芸妓さんによる京舞

芸妓さんは、舞妓さんの修行を終えてからなることができるので、だいたい20歳を越えているそうです。

写真8.二人の芸妓さんによる京舞

舞妓さんは自分の髪ですが、芸妓さんは、鬘(かつら)をつけているそうです。アップで見ると、時代劇の女優のように、鬘が分かることがあるかも分かりませんね(笑)。

写真9.二人の芸妓さんによる京舞

これで二人の芸妓さんによる京舞は終りです。何か気品が感じられる舞でした。

写真10.舞妓さんと芸妓さんによる京舞

次は舞妓さんと芸妓さんによる京舞です。「舞妓」さんは芸妓になる前の15才から20才迄の少女です。もちろん、この年齢では児童福祉法の対象となりますが、舞妓さんは、特別に許可されているそうです。許可証に相当するのが緑色の簪(かんざし)だと教えてくれました。

写真11.舞妓さんと芸妓さんによる京舞

左の舞妓さんは17歳、どこか愛くるしく可愛い舞を見せてくれますが、右の芸妓さんはすっきりとして、気品があり、芸に誇りを持っているのが伝わってきます。

この二人は同じ「置屋(おきや)」に所属していて、名前も最初の一字が同じです。「置屋」というのは、舞妓や芸妓が寝泊りし、生活するところで、所属プロダクションみたいなところです。

写真12.舞妓さんと芸妓さんによる京舞

二人は「祇園小唄」に合わせて舞を見せてくれました。この歌の作詞者である長田幹彦は、祇園を題材にした小説をたくさん書いているようです。

「月はおぼろに東山、霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に、夢もいざよう紅桜、しのぶ思いを振袖(ふりそで)に、祇園恋しや、だらりの帯よ」

歌の文句にあるように、舞妓は「だらりの帯」と言う5mほどの帯をつけます。帯の下には「置屋」の家紋が入っているそうです。これで、その舞妓がどこの「置屋」に所属しているのかが分かります。

写真13.舞妓さんと芸妓さんによる京舞

また、帯の前には「ポッチリ」と呼ぶ宝石をちりばめた帯留めを付けています。舞妓さんが身につけているものの中で、一番高価なものだそうです。衣装はかならず肩上げのされた振袖の着物を着るそうです。

写真14.舞妓さんと芸妓さんによる京舞

これで舞妓さんと芸妓さんによる京舞はおしまいです。舞妓さんは自分の髪で1週間に1回結い直します。だから、寝る時は時代劇に出てくる「箱枕」を使うのだそうです。この舞妓さんは舞妓になってまだ6ヶ月目。最初の2ヶ月ほどは、髪が気になって2時間毎に目が覚めたと話してくれました。

また、出たての一年目の舞妓さんは口紅を下唇にしか入れられないそうです。この舞妓さんも下唇にだけ紅が塗られていました。それは、この舞妓は出たてで、一人前ではないことを示しているのだそうです。

昼間は、舞妓さんの勉強をする学校に行き、茶道、京舞なんかの芸事の勉強して、夜はお座敷に行ってお客さんの相手をするというのが日課とのことで、華やかに見える舞妓さんもなかなか大変です。

写真15.芸妓さん二人

芸妓さんには二つのタイプがあります。「立方(たちかた)」と呼ばれる舞を専門とする芸妓と「地方(ぢかた)」と呼ばれる唄や三味線を専門とする芸妓です。もちろん両方のできる芸妓もいます。唄や三味線の習得にはかなりの年月を要するので、「地方」は年配者が多いそうです。この写真で左側が「立方」、右側が「地方」芸妓です。

舞妓はもちろん「立方」しかできないので、この「地方」が大変重要な存在となります。「地方」がいなければ舞は成り立たないし、接待をうまく行なうのも、経験豊かな「地方」が要の役をしているように思いました。幸いなことに、私の左に舞妓さん、右には地方芸妓さんが座ってくれましたので、いろいろなことを教えてもらえました。

写真16.一力亭のマッチ箱(表)

これは一力亭のマッチ箱の表面です。大きくみえますが、実物は3.5×5.5cmの可愛いもの。一力亭を訪れる舞妓さんを描いた版画です。右上にある「と」は何かと尋ねたら、署名でしょうという答でした。趣がありますね。

写真17.一力亭のマッチ箱(裏)

こちらは同じマッチ箱の裏面です。「もののふのおもかげ残る一力の宿」、まさにそのような印象を受けました。刀傷でも残っていないかと、そっと見回したものです。

芸妓さんたちは、別の説明をしてくれました。「このマッチ箱には、電話番号も住所も書いてないでしょう。一力と言えば京都のタクシーなら間違いなくここへ運んでくれます。一力はそんなところなんです。」と言うのです。なるほどと納得しました。

写真18.夜の花見小路

楽しい気分で「万」の暖簾をくぐり出て、夜の花見小路を歩きました。そこで「松八重」というお茶屋に連れていただきました。女将は来年90歳になるというのに、とても可愛いいお方で、肩凝りがする私に、良いあんまさんを紹介してあげると、きれいな京ことばで言ってくれるのです。年をとっても可愛いということは、何にも増して価値があることだと思いました。

一生縁がないと思っていた一力亭を体験させて下さった皆さまに対して厚くお礼申上げます。文中の説明で間違いがあったとすれば、すべて私の責任です。ご指摘いただければ幸甚です。


<2006.10.2.>

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