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時代先取り

2009.03.09. 掲載
2016.10.03. 追加
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目次
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
まとめ

私は新しいものが好きなようだが、必ずしもそうではない。いわゆる流行に対しては保守的であり、衣食住、車、アルコールなどの好みは頑固で変わらない。しかし、メカに関しては時代を先取りして、新しいことを取り入れることは多かったと思う。どこかで、このことを書いた記憶があり、調べてみると野村医院二十年史の中の開業20年目の院長の感想の8.新しいものが好き、のところで少し触れていた。

今回は、それを年代順にもう少し詳しく書いておこうと思う。


1960年代

64年:アサヒペンタックスSPを予約購入

これは、世界最初のTTL測光を採用した35ミリ一眼レフカメラで、発売のニュースを知って予約購入をした。このカメラは、それ以後、通常の撮影の他、医療用、学術用に繁用した。特に接写では、一眼レフのため視野に誤差がなく、ファインダーから見える視野と実際に写るものとのずれがないこと、TTLのため露出が正しく行なわれやすいことが、これまでのカメラにない長所だった。

アサヒペンタックスSP
図1.アサヒペンタックスSP

67年:8ミリシネフィルムムービーカメラ(シングル8)購入

イベントを含め、日常の記録を残して置きたい気持は、昔からあった。その一つは写真であるが、ムービーの方がよりリアルで望ましかった。一般大衆用のムービー撮影用として、65年にシングル8カメラは発売されたが、固定焦点が不満だった。66年からズームレンズ付きシングル8ムービーカメラは発売され、結婚を機に「CANON シングル8 518」を購入した。これは結婚式の記録から始まり、それ以後は息子の成長の記録として81年まで14年間活用してきた。

CANON シングル8 518
図2.CANON シングル8 518

67年:SONY4トラックステレオテープレコーダーTC−530購入

これは、披露宴のホテルへ持ち込んでBGMを流す目的で購入したが、当時は、4トラック・ステレオ・テープの音楽ソフトが多く発売されていて、結婚後も数年間、音楽鑑賞に愛用した。セルジオメンデスのマシュケナダを聞きながら、団地の部屋の中を、息子と踊り廻ったことを思い出す。

SONY4トラックステレオテープレコーダーTC−530
図3.SONY4トラックステレオテープレコーダーTC−530

68年:エアコン購入設置

こどもが生まれることが分ったので、こどもが暑がらないようにと、生まれる前にウインドウタイプのエアコンを購入設置した。当時、団地でエアコンを持つ家はほとんどなかった。

69年:トリニトロンカラーTVを購入

こどもの視覚に良いTVとして、美しい色彩のトリニトロン方式のカラーTV(トリニトロン第1号機 SONY KV-1310)を購入した。これは、こどもを口実に、自分が美しい色彩を望んだこと、昔からSONY好きだったことが、本当の理由かもしれない。

SONY KV-1310
図4.SONY KV-1310

69年:AT車購入

中古のAT車(トルコン車)ブルーバード510を購入した。当時AT車は非力だとか、運転の楽しみが少ないとか評判は良くなかった。しかし、クラッチ操作に神経を使うより、簡単にドライブを楽しむ方がよほど大切だと思い、メカ的にはこちらの方が進んでいると考えて、こちらを選んだ。非力と言われたが、排気量1200ccのの車で、大人4人子ども1人を乗せて、富士山の5合目まで登り、名神を120kmで走ることができた。これ以後の車は、すべてAT車である。


1970年代

70年:シャープのプログラム付電卓でプログラミング

シャープの、プログラム付電卓CS−361Pが、大学の研究室に寄贈され、これを使って標準偏差や、t 検定をするプログラムを作った。それまでは、ヘンミの計算尺で算出をしていて、苦労が多い割には正確ではなかった。だから、計算尺を使ってきた者にとって、これは便利この上なしのプログラムだった。71年に大学を辞め、73年に開業した時にも、研究室の連中はまだこのプログラムを使っていたそうだ。これが私の最初のプログラミングとなった。

そのあと、PCを始めた際にBASICで給与計算などのプログラミングを行なったことがあるが、表計算ソフトを使う方が有用であることを知り、中止した。また、画像表示のプログラムがなかったので、マシーン語で自作したこともあったが、優れたプログラムが現れたら、即、そちらに変更した。他には、バッチファイル(バッチプログラミング)をかなり使ったことがある。

現在でも、簡単なバッチファイルは、PCデータのバックアップを含めて、他にソフトがないような簡単な処理に使っている。Webサイトの記事を最初からエディターだけで作ってきたが、これも簡単なプログラミングの一種と考えることもできよう。

プログラム付電卓 SHARP CS-361P
図5.プログラム付電卓 SHARP CS-361P

72年:コピー機購入

65年頃から、大学にゼロックスの乾式複写機が1台設置され、それを繁用してきたが、大学を辞めると、簡単にコピー機を使うことはできない。ゼロックスはレンタルしかなく、大学などの特殊なところにしか設置されていなかった。

72年に米国スリーエム社の赤外線方式の乾式複写機という個人用のコピー機を購入した。これはまず原紙でコピーをとり、次に、その原紙からコピー用紙に転写する方式で、こげ茶色で複写された。このコピー機は、医院の設計の細かい変更や、開業のための書類などの作成に重宝した。

77年6月に、スリーエムから新しくコピー機が発売され、購入した。これは、現在のコピー機に近いが、紙は普通紙ではなく特殊なコピー用のロールペーパーだった。これを、80年の居宅改造の際に活用した。工務店に渡す設計図や指示になくてはならないものだった。

82年に、シャープから普通紙に複写できる現在のタイプの複写機が発売されたので、これに変更。その後、キャノンのコピー機を続けて4台使ってきた。

73年:X線テレビ透視装置、自動現像機、自動分包機、超音波洗浄機、胃ファイバーカメラ、
    眼底カメラの設備投資

開業に際して以上6点を購入した。当時個人の医院で、これらの設備を持つところはほとんどなかった。このうちの前3品目は、使用価値が高く、以後も継続して使ってきたが、後3品目は、数年で使用を止めた。超音波洗浄機は効率が悪く、胃ファイバーカメラは、他の病院での穿孔事故を知って、危険を冒してまでする価値はないと判断し、眼底カメラは、多忙の中で行なうほどの診断価値がないと考えたからである。

日立診断用X線テレビ装置DR−125TV
図6.日立診断用X線テレビ装置DR−125TV

ダイドウ式薬剤自動分包機
図7.ダイドウ式薬剤自動分包機

73年:患者ID番号を設定

開業と同時に、コンピュータ利用を目的として患者ID番号を設定した。その方法は警視庁の指紋台帳に準じたもので、姓と名が分れば職員の誰もが簡単に決めることができた。当時、阪大病院や星が丘厚生年金病院でもID番号化は行なわれておらず、先進的だった。これは開業以降変わることなく継続している。

73年:医院居宅のセントラル冷暖房設置

当時、セントラル冷暖房が理想とされていた。確かにスマートで効率が良さそうに思えたので、この方式を採用したが、失敗だった。時代を先取りしたものの内で、失敗だったのは、このセントラル冷暖房と、80年に設置したソーラーシステムである。

セントラル冷暖房の欠点は、石油の消費量が莫大であること、一旦故障すると全ての部屋の冷暖房ができなくなること、医院と居宅の両方に対して行なうので無駄が多くて、非効率的だったことなどある。これは、80年の居宅改造の際に廃止し、個別のエアコンに変更した。時代先取り失敗の第1例目である。

73年:ダイモテープライター購入

開業して活用した文具の一つで、患者ID番号をカルテケースに付ける場合に重宝し、保険本人、保険家族、老人、併用などを色分けし、ナンバーを刻印して張り付けたりした。これはテプラが発売された88年まで続いた。

74年:レセコン シャープCOMEDICAを設置

開業して一番バカらしいと思ったのは、レセプト作成だった。こんなのは、人間がするものではない、機械にやらそう、と思って検討し、開業1年目から、レセプトコンピュータを使い、外来会計処理とレセプト作成を行なってきた。当時一般病院でも、レセプトコンピュータを使用しているところは少なく、開業医では近畿地方でも数えるほどしかいなかった。

最初は大型コンピュータの端末処理機で、カタカナと英数字だけの印刷しかできなかったが、82年に漢字変換のできる、シャープのHAYAC−3800というオフィスコンピュータで、レセコン業務が行なえるようになり、以後、88年には、シャープのワークステーションOA−110WS、95年からは、富士通のWindowsXP機ST3000へと続けて来た。

75年:カラービデオ・カメラ、AKAI VTS−150を購入

この年は、私にとって最も体調不良の時だった。そこへ、大学の医局が購入した民生用カラービデオ・カメラの訪問販売があり、験直しのつもりで購入した。もともと、ムービー撮影を大事に思っていて、67年にシングル8機を購入して以来、毎年撮影をしてきたが、そろそろ、ビデオカメラの時代だと思っていたことも、購入したことに関係している。

8ミリシネフィルムでは、音声の記録ができず、撮影も、3分間ごとにフィルムを交換する必要がある。それに比べて、ビデオカメラでは音声がシンクロで録音できて、撮影時間は30分もある。しかし、カメラの重さが2.6kg、記録本体が7.5kg、充電器が4.8kgもある代物だった。シングル8が1.4kgであるのに対して、こちらは2.6+7.5kg=10.1kg もあるのだから機動性に欠ける。だから、あまり使うことがなかったが、こどものピアノ発表会の演奏は、音声シンクロでしっかり保存できた。

AKAI VTS−150のビデオレコーダー本体とカメラ
図8.AKAI VTS−150のビデオレコーダー本体とカメラ

撮影中のビデオレコーダー本体とカメラ
図9.撮影中のビデオレコーダー本体とカメラ

76年:スイングドア設置

これは、米国製の自動開閉ガレージ扉で、リモコンを使って、200メートル先からでもドアを開閉できる。一日数回は開閉しているというのに、簡単な故障が2度ばかりあっただけで、30年以上も正常に作動してきた。このような便利なものが普及しないのが不思議だ。

半開き状態のスイング・ドア
図10.半開き状態のスイング・ドア

77年:医学豆知識のパンフレット作成

医学常識の中で、私が重要だと考えることを医学豆知識というパンフレットにまとめ、100部単位で作り、患者さんにお渡しして、病気の説明に活用した。その10年後の、86年5月の日経メディカル「第1回病医院PR誌コンクール」に、このパンフレットが「者説明用として作ったパンフレット」として入選した。これによって、10年も前に行なっていたことが、この頃になって重視されるようになったことを知った。

79年:カセッテレスX線テレビ装置を設置

開業当初に設置したX線テレビ装置は、暗い部屋でなく、明るい部屋で透視ができるほかは、従来のX線透視装置と同じで、X線の照射量は少なくはなってはいても、術者(私)が毎回X線を浴びることに変わりはなかった。

この年に、遠隔操作で透視検査ができて、カセットの交換も要らないタイプの、カセッテレスX線テレビ装置MEDIX−50MSが、日立から発売され、これに変更した。このタイプの最初の装置なので、落ち着くまで何度も故障し、その原因が分らず、基盤を空輸して研究所へ送ることもあった。当時、このような装置を設置する医療機関は、病院を含めて極めて少なく、開業医では、近畿で最初だと聞いた記憶がある。

カセッテレスX線テレビ装置 MEDIX−50MS 本体
図11.カセッテレスX線テレビ装置 MEDIX−50MS 本体

カセッテレスX線テレビ装置 MEDIX−50MS 操作盤
図12.カセッテレスX線テレビ装置 MEDIX−50MS 操作盤


1980年代

80年:ソーラーシステム設置

居宅を増改築した際に、屋上に矢崎の温水用のソーラーパネルを20枚載せた。これは石油ショックの際に、セントラル冷暖房が莫大な量の灯油を消費して困惑したことの反省から、暖房に使う灯油量を減らす目的だった。日経メディカルの広告に数年間、当院のソーラーシステムが掲載されたが、肝腎の冬の曇天では効率が悪く、時代先取り失敗の第2例目となった。

屋上に設置した20台の矢崎ソーラーシステム
図13.屋上に設置した20台の矢崎ソーラーシステム

80年:床暖房を設置

ソーラーシステムが失敗例なら、同じ時に導入した床暖房は大成功例だと言える。床からの柔らかな暖かさは、これまで経験したことのない快適さを味あわせてくれ、しみじみと幸せを感じた。以来、こちらのマンションに転居してからも床暖房なので、30年近くその恩恵を蒙っている。

82年:オフィス・コンピュータ HAYAC3800設置

カタカナと英数字しか印字できなかった時代が過ぎて、この頃から漢字ひらがななどの日本語印字ができるようになった。それに伴い、オフィス・コンピュータを使ったレセコンが登場したので、これに変更した。当時のパソコンはまだ玩具のようで実用性に乏しく、このオフコンを使ってコンピュータの勉強をすることにした。このオフコンのFDは8インチの巨大なもので、言語はCOBOLだった。しかし、FDの構造やファイルの概念を理解できた程度で、COBOLは自学できるほど簡単なものではなかった。

オフィスコンピュータ HAYAC-3800
図14.オフィスコンピュータ HAYAC-3800

83年:野村医院勤務マニュアル第1版を作成

新規採用者の教育と、ベテラン職員の仕事の確認の目的で、職員のための勤務マニュアルをこの年に作った。以後、新規採用の度に改訂を続け、22年間で9版となった。インターネットでこのことを知った医療関係の出版社から勧められて、一般医療機関にも適応できるように加筆修正削除を加え、2005年に(株)日本医療企画から、「医院勤務者の実務マニュアル」の書名で出版された。

最初の手書きの「医院勤務マニュアル」
図15.最初の手書きの「医院勤務マニュアル」

84年:青色みなし法人を採択

73年に開業をしたが、診療の必要経費を72%と計算しても良いという特別措置法が存在していて、記帳をしなくても税金の計算を簡単に行うことができるので、経理や経営について勉強することもなかった。しかし、この特別措置法は「医師優遇税制」だとする世間の非難のボルテージが高くなるにつれ、本当にこの措置法で医師は優遇されているのかについて疑問が生じて来た。

そこで、開業10年目の83年に、1年間の薬問屋の支払いなどの経費を計算してみた。これは、ほとんどの請求書や領収書を残していたので実行可能だった。また、水揚げに相当する総収入は、99%が健康保険からの振込なので、経費割合の計算も簡単であった。

その結果は、予想通り70%近い費用となった。そこで、大阪府医師会に関与している会計事務所に、これを見てもらったところ、抜けている費用がもっとあると指摘され、即座に青色申告を勧められた。その指摘を取り入れ、翌84年から、世間で非難される「医師優遇税制」と決別し、青色申告を採用したが、その結果は、1年後に大幅な節税になって戻ってきた。白色から青色に変更して正解だったのである。 当時青色申告をする開業医は少なかったが、これも時代を先取りしたと言えるだろう。

85年:パソコンを始めた

40歳代最後の年に、NECのPC9801M2を購入し、大阪府医師会マイコン同好会に入会して、パソコンを始めた。大学にいた頃から電子計算機の時代を予想し、本屋ではコンピュータ関係の図書を調べ、購入し、その発展の過程を注視してきた。手持ち書籍の内で、最も古いのは、EEメイスン・WGバルグレン著、高橋・堂前・宮原訳「医学における電子計算機の応用」東京大学出版会、1966年刊である。この年にPCが実用的段階に発展したと判断し、使用を開始したのである。

今ふり返ってみて、自分にとってPCほど有能な知的ツールは他にはないと断言できる。PC前とPC後で、私の知的成果は質においても量においても比較にならぬほど大きな違いがある。例えば、Webサイトに掲載したタイトルで言えば、PCを使う前のものが12件であるのに対して、PCを使ってからのタイトルは452件にもなる。時代を先取りしたものの中で、PCより優れたものはほかにない。このような時代に生きることができたことに対して、つくづく感謝している。

P-C9801M2
図16.PC-9801M2

85年:表計算ソフトSuper Calc 2 を使い始めた

知的ツールとしてのPCのソフトの中で、私にとって一般的に最も有用なのは後で述べるテキスト・エディター Mifes であり、その次がこの表計算ソフトである。Super Calc から1-2-3、Excel と変わってきたが、いずれも同じ形式の表計算ソフトで、数量の関係するデータの処理には必須である。

入会したマイコン同好会では、BASICという言語でプログラムを作ることが主流で、レセプト作成ソフトや、データベース、簡易ワープロまで作るような先輩がいた。私もそれに倣い、給与計算とか自分に必要なプログラムを作っていた。しかし、私にとってパソコンは道具であり、パソコンそのものやプログラミングに興味があるわけではない。自分に必要なソフトがないから自作するだけで、もしも、自分の目的に適う既成の優れたソフトがあれば、そちらを使う方がよほど効率的である、とは思っていた。

そのような既成ソフトの一つとして、表計算ソフトの「Super Calc」が販売されていることを知り、このソフトで給与計算のほかにも、自分に必要な多くの事務処理のフォームを作り、パソコンでそれらの処理を行うことに成功した。そこで、マイコン同好会の例会に、この成果を持ち込んでデモンストレーションを行うことにしたのである。

入会して半年余りにしかならない新米が、パソコンを使って、その頃では想像もできないような多くの事務処理のデモをしたのだから、同好会の会員は唖然とされ、それが愉快で、私は得意満面だった。そのあと、意気揚揚と、まるで凱旋将軍のような気分で帰宅したのを覚えている。72歳までの生涯で、これほど嬉しかったことは、後にも先に経験していない。

86年:DTPで本作りを始めた

50歳の記念に、それまでに書いた文章を選んで「五十まで」の題名の本を出版した。これはワープロソフト「一太郎」を使って版下を作り、コピー機でそれを複写して、袋とじしたものを製本した、ものだった。欧米では、パソコンを使ったDesk Top Publishing(DTP)が盛んだと知って、その日本語版の簡易DTPのつもりだった。これは、増刷を繰り返し、約100部は作ったと覚えている。この頃からDTPに興味があり、それは93年の本格的DTP、「野村医院二十年史」につながった。

DTPで作った文集「五十まで」
図17.DTPで作った文集「五十まで」

86年:イメージ・スキャナGT-3000を設置

デジカメがなかった時代には、静止画像をデジタル化する唯一の方法は、イメージ・スキャナーで取り込むことであった。民生用の最初のスキャナGT-3000が、エプソンから発売されることを知り、予約注文で購入した。このスキャナーは、それからの画像処理に必須のものとなり、フルに活用した。PCの活用の中でも、私は特に画像(CG)にエネルギーを注いだが、この装置はその出発点となった。

イメージ・スキャナGT3000
図18.イメージ・スキャナGT-3000

86年:Mifesを使い始めた

知的ツールとしてのPCのソフトの中で、私にとって汎用的に最も重要なソフトは、テキストエディター Mifes である。文章はすべてこれで書き、論文や報告文など大規模な文章の構築にも活用してきた。アイデアの整理にもよく使う。Webサイトを開設して13年になり、掲載したタイトルは464件となるが、いずれもこの Mifes だけで作成した。

87年:スーパードライを愛飲するようになった

ビヤホールで飲む生ビールは好きだが、麒麟ラガー・ビールのあの苦味が嫌いで、それまではサントリー純生を細々と飲んでいた。スーパードライが発売されて飲んでみると、これが美味くて気に入ってしまい、以来、私の呑むアルコールの95%が、この辛口ビールとなったのである。

また、これを契機に一転してビール党に変わったのだから、スーパードライはスゴイビールである。最近では、新しいビールが次々と登場しているようだが、気に入っているものがあるのに、より美味いものを求めて変えてみることはしない性分である。

87年:パーソナルコンピューターを用いた診療補助システムを構築

私が医院で行っている実際に基づいて、「パーソナルコンピューターを用いた診療補助システム」という名前の研究課題で、大阪府医師会医学会に医学研究奨励費助成を申請したところ、これが認められた。続いて、その年の秋に、大阪府医師会医学会総会で発表し、翌年の大阪府医師会医学雑誌第22巻第1号に掲載された。これにより、マイコン同好会は大阪府医師会から認知され、マイコン同好会からマイコンクラブに昇格した。当時は、診療にPCを実際に使っている医療機関は少なく、この研究はかなり評価された。

88年:医用CGシステムの構築

イメージスキャナで取り込んだ画像と、お絵かきソフトで作った200枚のCGを、HDDに収納し、診療中に、必要な画像を数秒でディスプレイに表示できるCGシステムを構築した。この構築には、MS−DOSの知識、中でも階層トゥリー構造関係と、バッチプログラミングを活用した。

この完成の期限を、マイコンクラブに入会してパソコンを始めてから3年目となる日とした。そして、それまでに習得した画像に関する知識と技術を総括し、医用CGシステムを構築することに没頭し、期限通りにこれをまとめ、画像システム・ディスク、個別画像ディスクを完成させることができた。

パソコンを始めて最初の1年間では、会計処理関係をすべてパソコンで行えるようにしたが、次の2年間は画像(コンピュータ・グラフィック)に専念してきた。これはそのまとめだった。当時このようなことを行なっている医師はいなかった。

診察机の上のPCで医用CGを表示
図19.診察机の上のPCで医用CGを表示

モニター部分の拡大図(クインケ浮腫の画像)
図20.モニター部分の拡大図(クインケ浮腫の画像)

88年:パソコン通信ホスト局NOM−BBS開局

最初は、こどもの遊び程度に考えていたパソコン通信だったが、その有用性を知り、88年9月に、SONYのIT−V1200というハードを使って、パソコン通信ホスト局NOM−BBSを開局した。このホスト局は、府医のマイコンクラブのBBSが本格的に稼動するまでの、つなぎの役目を果たした。

その後、Niftyに加入し、ここでほぼ5年間にわたって、パソコン通信の世界を満喫した。そこで、全国の医師だけでなく、画像関連の専門家とも交流を深め、最新の技術を習得し、自分のオリジナルな作品を発表する喜びを堪能できた。そのほか、情報の宝庫としてのパソコン通信をしばしば活用してきた。また、電子メールという情報交換手段の便利さを実感した。

88年:レーザーディスク(LD)の蒐集

ビデオテープでは、ベータ−VHS戦争でVHSが勝ったが、そのあとのビデオディスクのLD−VHD戦争ではLDが圧勝した。VHSの水平解像度は240本、TV放送が330本であるのに対して、LDの水平解像度は400本以上で、当時としては映像が断然美しかった。ただ値段も高く、初期のころは、1枚8000円近くするので、昔の映画を見つけて月に1枚程度購入するのが楽しみだった。これは、老いて、鑑賞しかできなくなったとき、楽しむものして買い求めて来たもので、最終的には110点余りとなった。

しかし、今はDVDの時代となったので、そのほとんどをデジタル化して、DVDで保存して持っている。LDプレーヤーも既に製造中止され、現在まだ持っているパイオニアCD・CDV・LDプレーヤーCLD−E200は貴重なものとなった。

LDプレーヤーCLD−E200
図21.LDプレーヤーCLD−E200

88年:レーザープリンターを使い始めた

この年には、CANON のレーザープリンター LASER SHOT を使い始めた。これまでのドットプリンターと違って、印刷速度が速く、解像度も高く、スケラーブルフォントが使えるので、文字が美しかった。その分高価で、50万円近かった記憶がある。この時以来、私は印刷の99%をレーザープリンターで行なってきた。昨年からは、カラーレザープリンターも使い始めたが、これは年賀ハガキ印刷など特殊な用途に限っている。なお、「野村医院二十年史」は、レーザープリンターLASER SHOT B406G2 で印刷したものを、版下として作ったDTPである。インクジェットプリンターは、ほとんど画像の印刷に限定して使い、文書の印刷に使うことは少ない。

レーザープリンターLBP-B406E
図22.レーザープリンターLBP-B406E

89年:一人医療法人に組織変更

これまで、会計事務所からMS法人を含めて、いろいろの節税対策のアドバイスを受けてきた。例えば、MS法人と言うのは正式にはメディカルサービス法人と呼び、病医院の関連会社を設立して、そこから医薬品・診療材料等の購入、医療機器等のリース、土地建物の賃貸などを受けることにより節税を図ろうとするもので、医療の世界で広く行われているとのことだった。しかし、これらが合法的な節税だとしても、インチキ臭く思えてすべてお断りしてきた。

ところが、医療法の改正で「一人医療法人」が認められるようになり、これは国が勧める制度であるとの説明を受けた時、ためらわずにこれに切り替え、平成元年1月より、「医療法人野村医院」に組織変更をした。この「一人医療法人」への組織変更は、交野市の医療機関の中では最初、大阪府下の医療機関の中でも最初のグループに入っていた。

89年:KING JIM のテプラTR77の購入

昔から美しい文字による表示に関心があった。特に人目につくラベルや案内などの文字は、手書きではなく、美しい文字が望ましいと思ってきた。88年にテプラが発売され、その実物を見て翌年に購入し、以来現在に至るまで使っている。

テプラTR77
図23.テプラTR77


1990年代

90年:CG展に出品

Nifty のパソコン通信に参加し、ここで画像を専門とする研究者や、CG制作のプロとかアマの人たちと知り合い、その中の関西に住む人たちが神戸の異人館で開いたCG作品展に4点出品した。当時、CGブームが始まりかけたころで、多数の見学者が訪れた。私はPCを始めた直ぐからCGに関心があり、それに精力的に取り組んできたので、パソコン通信の世界の人だけでなく一般の人に、その一部でも公開する場を与えられて嬉しかった。このあと、もう一度出品したが、ほかのことに関心が移り中止した。

91年:Hi8カメラの購入

次の私の関心は、ビデオ撮影だった。8ミリシネ以来ムービー記録に関心があり、AKAIのオープンリールビデオカメラを購入したが、重すぎて結局あまり使えなかった。ベータVHS戦争後、VHSビデオカメラ、8ミリビデオカメラが登場したが、どれも水平解像度240本と低く、購入を見合わせてきた。

この年、パスポートサイズのHi8ビデオカメラ、CCD−TR705が、SONYから発売され、水平解像度はLD並みの400本で、TV放送の330本を抜く高画質であるため、発売と同時に購入し、このアナログビデオからキャプチャした静止画像が、充分に実用的であることをパソコン通信で発表したりもした。

この年、妻の実家のファミリーによる北陸旅行があり、その時に撮影したビデオを簡易編集してVHSにダビングし、「田伏ファミリー旅行」のタイトルで参加したファミリーに手渡した。これがビデオ編集に目覚めるきっかけとなった。

Hi8ビデオカメラ、CCD-TR705
図24.Hi8ビデオカメラ、CCD-TR705

92年:Hi8ビデオカセットレコーダを購入し、ビデオ編集を始めた

この年、銀婚を記念して始めて海外旅行をした。その時に撮影したビデオを本格的に編集し、テロップ、ナレーション、BGMをつけた。これをカメラだけで編集するのは至難の技で、Hi8ビデオカセットレコーダSONY EV-BS3000 を購入して、これとカメラの2台で行なった。

雑音が入らないように、深夜にカセットテープ・デッキとマイクを手にして、画面を見ながらナレーションとBGMを録画するのは、緊張するが非常に楽しかった。でき上がった作品は、「君よ知るや南の国イタリア」のタイトルでVHSにダビングし、多くの方に謹呈した。当時、家庭用として最大画面とされていたMITUBISHIの37インチTVで見ると、迫力満点で素晴しかった。以後、ビデオ編集は私のしたいことの一つに加わり、旅行記録や結婚式などのイベントをVHSにダビングして関係者などに差し上げてきた。

Hi8ビデオカセットレコーダSONY EV-BS3000
図25.Hi8ビデオカセットレコーダSONY EV-BS3000

93年:野村医院二十年史を出版

開業20年の総括として「野村医院二十年史」を発刊したが、これは診療のまとめだけではなく、その頃のPCの能力をフルに活用して、パソコンで版下を作り出版した本格的なDTPである。これ以後、「還暦まで」、「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」「テキスト Windowsパソコンの使い方」、「はじめての電子掲示板 −BOW−BBSの愉快な仲間たち−」を含め合計5冊をDTPで出版した。しかし、自家出版はこれで終りとした。その一番大きな理由は、ホームページ(Webサイト)で公表できるようになったこと、CDによる電子出版ができるようになったことだと思う。

本格的DTPで自家出版した「野村医院二十年史」
図26.本格的DTPで自家出版した「野村医院二十年史」

96年:薬の説明シートを作った

96年7月より、患者さんに投薬する薬約400剤について、説明用のシートを付け、投薬時に渡して来た。翌月、ホームページを作成した際には、これを一括して患者さんのための薬の説明集として掲載した。一つは五十音別、もう一つは、内服薬(薬効別) 外用薬(剤形別)である。これは、病院を含めた他の医療機関が行なうより1年以上早かった。以後改定を繰り返し、引退した2005年には改訂5版を数えた。

96年:Windows95マシーンを購入し、インターネットに接続

Windowsは、91年に発売されたWindows 3.0 止まりで、これをMS−DOSのタスクスイッチャーとして使い、満足していた。当時、情報は Nifty のパソコン通信で得られるもので充分だと思っていた。そこへ、O−157事件が勃発したが、この情報は直接には、インターネットでしか入手できない。当時インターネットに接続できるPCはMacを除いてはWindows95マシーンしかなかった。交野市医師会の会員は、インターネットに接続することを望み、私はその世話役に選ばれた。

Windows95日本語版は95年末に発売され、これを搭載したPCは春から発売されたばかりだった。理事会で世話役を選ばれた日に、日本橋に行き、Windows95マシーンを購入した。これまでNECのPC98を使ってきたので、同じNECの PC-9821 Ct16 を選んだ。そして大急ぎでインターネットとホームページ開設の勉強を行なった。

PC−9821Ct16
図27.Windowsパソコン PC-9821 Ct16

96年:ホームページ作成

医師会員にインターネットの実際を知ってもらうためには、自前のホームページが必要だと考え、まず自分の医院のホームページを作った。これを作成するHTMLという言語が、プレーンのテキストファイルであることを知り、先に書いたテキストエディター Mifes を使って難なく作ることができた。これはプログラミングに慣れていたこと、画像に打ち込んだ時期があったので、画像を載せることも簡単だったおかげだろう。

Windowsマシーンを購入して約10日目で、野村医院のホームページは完成した。次いで翌月には、交野市医師会のホームページを開設した。当時、都道府県の医師会を含めてホームページを持つところは少なく、日医ニュースによると、これは40番目くらいだったと覚えている。また、交野市医師会のホームページに、パソコン同好会の動向をリアルタイムでパソコン物語として掲載したが、これが全国的に評判となり、日経メディカルの取材を受けた。

97年:デジタルビデオを始めた

Hi8ビデオカメラは、アナログであるため、編集をくり返すたびに、ダビングによる画質劣化が避けられない。例えば、削除するだけの最も簡単な場合でも、Hi8で2回、VHSへのダビングで3回となる。これに、テロップ、ナレーション、BGMを入れようとすれば、この3つを同時に行なっても4回、テロップを別にすれば5回もダビングが必要になり、画質の劣化は著しい。

そこへ、デジタル方式のDVカセットレコーダーが96年末に発売されたので、DVカメラ SONY DCR-P10 とDVカセットレコーダーSONY DHR-1000 を購入した。これらを使って、デジタルビデオで編集を開始することにした。その第一号作品が「医師会長崎旅行」である。

このDVカセットレコーダーは、現在アナログテープのデジタル化で重宝している。DVテープは200円程度の廉価である。タイマーを使って、アナログテープを自動的にDVテープに保存しておくと、i-Link コードだけで、PCに簡単に取り込めるからである。

DVカメラ DCR-P10
図28.DVカメラ DCR-P10

DVカセットレコーダー DHR-1000
図29.DVカセットレコーダー DHR-1000

97年:VAIOの初代タワーPCを購入

私はSONYというオリジナリティーを大事にする会社が好きだった。しかし、PCはDOS時代の国民機であったNECのPC98を使い、Windows95機もNECとしたが、SONYがVAIOというブランド名のテスクトップ、 SONY PCV-T700MR を発売すると同時に購入した。

これは当時、他機にはまだ搭載されていなかったCD−Rドライブが付いており、また、PCのビデオ出力端子がついていた。市民講座の講演でPCを持ち込み、Power Pointを使って、それを大きなスクリーンにプロイジェクトすると、心臓の鼓動などの動画までも表示できるので、聴衆は時代の進歩に驚いていた。

VAIOの初代タワーPC PCV-T700MR
図30.VAIOの初代タワーPC PCV-T700MR

97年:デジタルマビカMVC−FD7を購入

デジカメの保存メディアであるメモリーは、当時容量が小さく、高価であった。海外旅行などでメモリーを使い切ってしまい、別にメモリーを買おうとしてもそれができず、撮影を中断した人を知っている。それに対して、マビカは、3.5インチのFDに保存するタイプなので、安価であり、購入も容易で、暫くはベストセラーとなった。私もドイツ・オーストリア旅行に携行して、デジタル画像を記録した。ただ、旅行の終り近くになって、コンクリートの床上にカメラを落としてしまい、撮影できなくなったのは残念だった。

マビカMVC−FD7
図31.マビカMVC−FD7

99年:iモード携帯メール

これまでは、ノートパソコンを携帯電話に接続し、普通のメールの送受信を行なってきた。車で移動する場合は、重いノートパソコンを持ち運ぶこともできる。しかし、北海道に旅行するのに、ノートパソコンは重たくて持っては行けない。そこで、旅行中にEメールのやりとりができる機器を検討し、発売されて4ヶ月足らずの、ドコモのiモード携帯を購入した。この携帯ではPCに届いたメールを転送させて短時間で読むことができるだけでなく、Webサイトを見ることも簡単にできるので、モバイル・PCとなり、携帯は日常必需品となった。


2000年代

01年:CD−Rによる電子出版を始めた

Webサイトに掲載した「エーゲ海クルーズ」の記録をCD−Rに焼き、電子出版第1号作品とした。そのあと、「歌と思い出」「98画像の変遷」「心に生きることば」「開業医の小児科独習法」「入院物語」「世界の写真」「飛鳥U世界一周2007」の合計8点を電子出版した。書籍の自家出版と比べて手軽で、費用も時間も格段に少なくて済み、贈呈された方も場所を取らないので助かることだろう。

CD−Rによる電子出版第1号
図32.CD−Rによる電子出版第1号

01年:検索エンジンGoogle

検索エンジンGoogle日本版がこの年登場した。私はこれが従来のものより格段に優れていることを知り、このツールバーをブラウザにインストールして活用を始めた。また、Web検索ミニマムという記事を載せて、超簡単な検索法を案内した。

02年:i-mode専用のホームページを作った

携帯によるWebサイト訪問が普及し始めたので、交野市医師会所属する医療機関の検索を携帯で簡単に行なえるようにした。医師会のホームページで、これを行なった最初だったと記憶している。

03年:DVD制作

息子の結婚式をDVカメラで撮影し、それを編集してDVD−Rに焼き付けた。私のDVD制作第1号であり、この時に使った技法を紹介した。

DVD−R制作第1号作品
図33.DVD−R制作第1号作品

03年:アナログデータのデジタル保存を始めた

アナログデータは将来利用できなくなることを予想し、手持ちのLDやVHSなどのアナログ・ビデオをDVD化することを始め、その技法を紹介した。アナログBSの記録も、DVDで保存することを始めた。今年からは8ミリシネフィルム、Hi8ビデオについてもデジタル保存を行なっている。

03年:DVDライブラリを始めた

ビデオの記録媒体が、VHSからDVDに変わることを予想して、この機会にその整理と保存をする必要があると考えて、DVDライブラリを始めた。これは、1)登録順2)タイトル名の五十音順3)ジャンル別4)制作年度順として、ホームページにも掲載している。この内の2)タイトル名の五十音順は、携帯で調べて、DVDの二重買いを少なくするのに役立つという効用がある。

04年:デジタルX線装置の設置

この翌年から、息子夫婦に医院を引継ぎ、私たちは引退するので、この機会にX線診断装置もアナログからデジタルにしておくことにした。デジタル化のメリットは、映像関係では極めて大きいことは良く承知していた。また、交野市医師会では松吉先生が2〜3年前からこれを導入され、肺癌読影会にX線写真を披露されるので、その素晴しいX線写真の実際を知っていたからでもあった。しかし、これを持っている開業医は現在でも少ないのではないかと思う。

デジタルX線装置 FCR設置
図34.デジタルX線装置 FCR設置

05年:65インチ液晶TVを購入

液晶テレビでは世界最大サイズのTV、 SHARP LC-65GE を発売と同時に購入した。ヨドバシカメラに並べられた液晶TVとプラズマTVでは、液晶の画質が断然勝っていることを何度もこの目で確かめてきたので、人生の最後の時期に見るTVとして、贅沢をすることにしたのだった。これは確かに画質が素晴しい。

結婚して最初に購入したTVがSONYのトリニトロン第1号機であり、90年代にはその頃家庭用として最大画面で高画質とされていたMITUBISHIの37インチTVを購入したり、TVについて言えばは、画質の良いもの、大画面を選ぶ習性があるようだ。

06年:HDVカメラを購入

これまでハイビジョンなるものを見たことがなかったが、65インチ液晶で見るハイビジョンや地上デジタル放送の映像の素晴しさに感動してしまった。05年にSONYより一般用ハイビジョンカメラ「HDR-HC1」が発売され、ヨドバシカメラでその実写映像を見て、ハイビジョンTV放送に近い画質であることを知り、購入を考えていた。翌年にその後継機HDR-HC3が発売されると、ためらわず購入し、天神祭の撮影を行なった。

HDVハイビジョンビデオカメラHDR-HC3
図35.HDVハイビジョンビデオカメラHDR-HC3

06年:BDドライ搭載PCを購入

DVDの後継メディアとしてBDとHDVD戦争があったが、私は最初からBDの方が優れていると考えていたので、BDドライブ搭載第1号のパソコンVGC-RC72PSを購入し、ハイビジョンやBDの勉強をはじめた。しかし、一般用(民生用)のデジタルハイビジョンについては、始まったばかりの段階で編集ソフト、特にオーサリングソフトは未熟で、BDの市販ソフトもごく僅かしかない状態だった。


図36.VAIO type R RC72PS BDドライブ搭載第1号PC DVDドライブも1基装着

07年:フルハイビジョンビデオカメラを購入

4月から始まる世界一周クルーズでは、ハイビジョンカメラで記録を残すつもりでいた。ただ、SONYのHDR−HC3の解像度に不満があったが、1440×1080iというHDVカメラからの規格上仕方がないのかと諦めていた。06年にSONYから世界で初めてAVCHD規格を採用したビデオカメラの発売があったが、記録画素数は1440×1080iであり、MPEG4という高度圧縮技術を使ったもので、画質に問題があるとされ、評価は低かった。

ところが、3月半ばにビクターから家庭用としてMPEG2で、世界初の1920×1080画素で記録できるフルハイビジョンカメラ、 Everio GZ-HD7 の発売が発表された。2度と行けないかもしれない世界一周クルーズでは、その時点で手に入る最高の画質のハイビジョン映像で記録したく、出発直前にこれを予約購入した。このカメラのもう一つのメリットはHDD保存タイプで、HDVテープでは連続撮影が1時間であるのに対して60GBのHDDにフルハイビジョンで連続5時間記録ができることだった。このカメラの欠点は750gで重いこと、手ブレ補正が効きにくいことだった。

これまでハイビジョンビデオカメラは、1440×1080画素のHDVカメラしかなく、他社はこれで充分だと説明していたが、100日の旅を終えて帰国すると、記録画素数1920×1080のAVCHDフルハイビジョンビデオカメラが松下から発売され、その後一気に、フルハイビジョンのAVCHDが大勢を占めるようになってしまった。TVの場合も1440×1080で充分と主張していたトップメーカーが、掌を返したように、1920×1080画素のフルハイビジョンをセールスポイントにするの見てきたので、ビデオカメラでも同じことかと苦笑した。

しかし、大勢が向かうようになった形式は、競争により洗練され、使いやすくなり、編集ソフトなどの対応も進化する。ハイビジョンビデオカメラほど、短期間で進化発展した家庭用機器はないのではなかろうかと思う。

つまり、05年にSONYのHDVカメラHDR-HC1が登場し、06年にSONYのAVCHDカメラ、07年にVICTORのフルHD解像度(1920×1080画素)カメラGZ-HD7と、松下からフルHD解像度のAVCHDカメラ HDC-SD3が発売され、08年からフルHD解像度のAVCHDカメラ一色に近い状態になっている。

フルHD解像度のビデオカメラを私は一番早く使ったが、MPEG2でのフルHD解像度のビデオカメラはこれだけで終り、現在は、ビクターもAVCHDカメラに変わっている。世界一周クルーズがなければ、Everio GZ-HD7を購入することはなかったに違いないが、その時点で最高の画質を必要としたのだから、これを選んだのは致し方ない。

フルハイビジョンビデオカメラ Everio GZ-HD7
図37.フルハイビジョンビデオカメラ Everio GZ-HD7

07年:クルーズ中にブログに記事を送り続けた

4月4日の神戸港出港より、衛星通信を使った飛鳥Uのインターネット接続可能な3台のPCを使って、ほぼ、リアルタイムにクルーズの情報を私のブログ「エンジョイBOW」に掲載し、ASAHI-NET のWebMailを使い、国内と同じようにEメールの交換を行なった。世界一周ークルーズで、リアルタイムにブログを活用した者は、少なくとも日本人にはいないであろうと思われる。

08年:海外から携帯でブログにコメント

ウィーン・ドイツへ旅行した際に、ドコモの携帯電話 905iを使って、ブログ「エンジョイBOW」にコメントの書き込みを行った。全部のコメントが32回で、その内、私の海外からのコメントは10回以上だった。飛鳥UのようにPCを使うことができないので、携帯で国内と同じようにi-mode でインターネット接続できる携帯が発売されたことを知って早速購入して使ったが、大成功だった。

08年:BDレコーダーを購入

PANASONIC DMR-BW900-Kを購入したのは、小澤征爾指揮カラヤン100周年記念コンサートのハイビジョン放映があることを知ったからで、このコンサートをNHKが撮影する直ぐ前の席で鑑賞した記録を残したかった。SONYでなく松下の製品を選んだのは、SONYのものもBDドライブは松下製であり、BDのハードの技術力がSONYより優ると考えたからで、AV機器としては最初の松下製品となった。DVDと比べると、BDはまだまだ普及していないが、ハイビジョン分野ではこのメディアが必要とされるのは間違いないだろう。

BDレコーダー DMR-BW900
図38.BDレコーダー DMR-BW900

09年:リニアPCMレコーダーを購入 追加

Roland R-09HR というリニアPCMレコーダーを購入して、50年ほど前にオープンリールのテープレコーダーを手にした時の興奮を思い出した。これは革命的なオーディオ・レコーダーだ。カセット・テープコーダーは早晩駆逐され、ICレコーダーも用途限定で使われるだけになり、通常の録音はPCMレコーダーが使われるようになるだろう。

音質が良く、デジタルデータであり、操作が極めて簡単で、使いやすく、LPやカセットテープコーダなどのアナログ音源を、これに入力して録音すれば、高音質でデジタル化できる。そのほか、特定部分の連続反復再生可能、リモコン操作ができる、CDの音質で4時間以上連続録音可能など、涙が出るほど嬉しい機能満載である。

リニアPCMレコーダー R-09HR
図39.リニアPCMレコーダー R-09HR

09年:AVCHDハイビジョン・ビデオカメラを購入 追加

ハイビジョンカメラは、06年にHDV方式のSONY DR-HC3を購入、07年には最初のフルハイビジョンのビデオカメラ VICTOR GZ-HD7を購入したが、このハイビジョンビデオカメラの世界は猛烈な勢いで変化が起こり、昨年からはAVCHD方式が主流となり、記録媒体もテープからハードディスク(HDD)やフラッシュメモリーなどに変わってしまった。

その時々に最高の画質のハイビジョン動画で旅行の記録を残したいため、結局は3種類のハイビジョンビデオカメラを購入してしまったが、過渡期では致し方なかった選択だと思っている。このAVCHD方式は定着すると予想した。

AVCHD ハイビジョン・ビデオカメラ XR520V
図40.AVCHD ハイビジョン・ビデオカメラ XR520V


2010年代 追加

10年:AVCHD ハイビジョン・デジカメ TX7を購入 追加

翌年の2010年には、発売当時世界最薄「フルハイビジョン動画」を撮影可能なデジカメTX7が発売された。これは XR520V と同じ性能の動画撮影機能を持ちながら、重さは4分の1であった。

私はこのデジカメと、その後継機であるTX100V や TX300V を使って、フルハイビジョン動画を撮り続けている

AVCHD ハイビジョン・デジカメ TX7
図41.AVCHD ハイビジョン・デジカメ TX7

13年:ファイルベース時代の動画保存 追加

2007年より、ハイビジョン動画撮影が、これまでのテープ保存からファイルに保存に移行した。1967年の結婚以来始めた動画撮影の記録は、アナログからデジタルに変換し、動画ファイルとして、PCのHDD内に保存してきた。

その動画ファイルを、すべてMP4ファイルに変換し、これを動画マスターファイルとして、保存している。詳しくは、ファイルベース時代の動画保存に記載している。


図42.私の作った動画マスターファイル

16年:サイト内容のDVD記録 追加

サイト開設20周年を迎え、サイト内容をDVD記録に記録する方法を考案した。これは、サイト制作者が死去した場合の対応に役立つことを目標としている。

詳しくは、サイト内容のDVD記録に記載している。


図43.サイト内容を保存した光ディスクのラベル

16年:BDレコーダ中心の映像視聴システム 追加

1)簡単な操作で、2)視聴開始までに時間がかからず、3)ハイビジョンTVの大画面で、4)過去のある時を視聴できる、5)BDビデオ・DVDビデオが視聴できる、6)TV番組を録画し、視聴できるという条件を満たす視聴システムを望ましく思ってきた。

その望みが、BDレコーダー BRW1010 を購入し、カスタマイズすることで実現できた。MP4ファイルによる動画マスターファイルを作っていることが成功の1番の要因だった。

詳しくは、BDレコーダ中心の映像視聴システムに記載している。


図44.BDレコーダー BRW1010


まとめ

このまとめを書くきっかけとなったのは、知人のサイトで時代先取りの記事を読んだからだ。今年に入ってデータのデジタル保存に集中的に取り組んでいるが、ちょっと疲れたところだったので、一服するつもりで書き始めた。

ところが、始めてみると面白く、この機会に「時代先取り」的に行なってきたことを、画像を入れた詳細な記録として残して置きたくなり、結局は61項目もの膨大なものになってしまった。現在アナログデータをデジタル化して、アナログの方は保存スペースがないものをどんどん廃棄している時期なので、これもデジタル保存の一つなのだという理由をこじつけたりしている。

これをまとめていて、分ったことがある。私は、新しいもの好きでも、時代先取り好きでもない。自分がしたいことをするのに役立つことを手に入れたい気持が強いだけなのだということである。その結果が、「新しいもの好き」のようだったり、「時代先取り」している結果になったのだ。そう考えるとうまく説明がつく。

私の行動原理、生きる目的はしたいことをするで、それに役立つことについては、アンテナを張り巡らせ、絶えず情報収集を行なっているのだと思う。その結果として、自分の目的に適う情報を割合早く入手できるということなのだろう。

新しいこと、時代を先取りしたようなことよりも、私にはもっとしたいことがある。それは、創意工夫をこらして何かを構築することで、いつか機会があれば、そのまとめもしておきたく思っている。


<2009.3.9.>
<2016.10.3.>追加

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