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美しき国スロベニア・クロアチア

 2012.6.5〜6.16.

2012.06.24. 掲載
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目次
はじめに
旅行地のあらまし
スロベニア
 ●ブレッド
 ●ポストイナ
 ●リュブリャナ
クロアチア
 ●ザグレブ
 ●プリトビチェ
 ●シベニク
 ●スプリット
 ●トロギール
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ
ドブロブニク
 ●地図
 ●遠景
 ●城壁めぐり
 ●旧市街
まとめ


はじめに

私が海外旅行先として選ぶ場所は、自分の人生や人間の歴史にに関わっているとか、人間と共存している美しいところが多い。

1992年に最初の海外旅行でイタリアに行き、ポンペイ遺跡で、人間は2000年程度の時間では全く進化しないという仮説を得た。 2007年に世界1周クルーズで得た結論は、日本は2000年以上に亘って、他国に征服されることがなかった唯一の文明国であるという発見だった。

人間の歴史と関わっている美しい場所として、今回の旅行はこの上なく優れた条件を満たしている。古代ローマ、民族移動、宗教、征服と被征服、民族主義と紛争、感動的な美しい街々があるからだ。

これまで、16回の海外旅行と1回の世界1周クルーズを経験しているが、2000年以降は、その記録をこのWebサイトに掲載している。

今回は、これまでの海外旅行の中で、いちばん美しい景色を楽しむことができた。その詳細をここに残すことのできる幸せをつくづく感じている。

このサイトに掲載している記事は、できるかぎり他の関連する記事にリンクを張るようにしている。青色太字が関連記事の項目で、ここをクリックすれば、即その記事にジャンプできる。ただし、新しいウインドウを開く方式ではないので、元に戻るには、ブラウザの戻るボタン[←]を押すか、[Backspace]キーを押す必要がある。

なお、今回のツアーは、JTB心ゆく旅 「スロベニアとクロアチアの魅力を訪ねて 12日間」だった。



旅行地のあらまし

今回旅行した国は、図1で示した通り、北から順に、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4国である。スロベニアは中央ヨーロッパに、残りは東ヨーロッパに分類される。

地理的には、バルカン半島のアドリア海東岸にある国々と言える。


図1.スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4カ国を旅行した。

これらの4つの国は、図2で示した通り、南スラブ人の国で、かってユーゴスラビア連邦を形成していた。この「ユーゴ」は「南の」、「スラビア」は「スラブ人の国」を意味している。チトーの死後、これらの構成国は独立して7国となったが、その間、長年にわたる紛争が続き、クロアチア独立戦争、ボスニア・ヘルツゴビナ紛争は、まだ記憶に新しい。

南スラブ人は征服されることがあっても、他の民族を征服したことはないのに、同じ民族同士でどうしてあのような激しい紛争をくり広げたのか、この旅行で少しは分かるかもしれないと思った。


図2.南スラブ人の国

今回の旅行で観光した場所は、図3の通りで、スロベニアのブレッド、リュブリアナ、クロアチアのザグレブ、プリトビチェ、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルが内陸部に属し、クロアチアのシベニク、トロギール、スプリット、ドブロブニク、モンテネグロのコトルはアドリア海沿岸にある。私たち夫婦は、このアドリア海沿岸に魅せられてしまった。


図3.今回の主な観光地(Google Map による)


スロベニア SLOVENIA

独立:1991年 国土:四国程度 国民:スロベニア人が約90% 宗教:ローマ・カトリックが約60% 通貨:ユーロ(2007年より) 時差:8時間(夏期は7時間) EU加盟:2004年 世界遺産:なし


●ブレッド Bled

今回の旅行はスロベニアのブレッド湖から始まった。ブレッド湖の位置は、イタリアやオーストリアの国境に近く、ユリアン・アルプスの南東にあり、風光明媚で「アルプスの瞳」と称えられてきた。

ブレッド湖には、スロベニヤ唯一の島であるブレッド島があり、湖のそばの断崖絶壁にはブレッド城がある。この湖は、環境汚染を防ぐために、石油の使用は禁じられ、ブレッド島へ渡るのに、人力のボートを使う。

ブレッド湖の南西30kmにボーヒン(Bohin)湖がある。ブレッド湖の約3倍の大きさがあり、その西南からロープウエイで、スキーセンター・フォーゲルに登ることができる。ここは標高1535mにあるスキー場。

ブレッド島には聖母被昇天教会が建っている。


図4.ブレッド湖とボーヒン湖はスロベニアの首都リュブリャナの北西約100kmの場所にある(Google Map による)


図5.ブレッド湖の湖畔から望むブレッド城(左)とブレッド島の聖母被昇天教会(右)


図6.ブレッド島に建つ聖母被昇天教会


図7.環境汚染を防ぐためエンジン船は禁じられ、ブレッド島には手漕ぎボートで渡る


図8.花婿に抱かれて、この急峻な99段の石段を登ることのできた花嫁は、幸せになれると言われている


図9.聖母被昇天教会は8〜9世紀に建てられ、17世紀に現在のバロック教会の様式に改築された


図10.湖畔の断崖にそびえ立つブレッド城。1004年にドイツ皇帝ハインリッヒ2世により建てられた


図11.グーテンベルグ式の印刷機で印刷の実演が行われている


図12.ブレッド城に展示されているモダンな彫刻


図13.ブレッド城から眺めたブレッド湖。右にチトー大統領の元別荘ヴィラ・ブレッド、左に聖母被昇天教会が見える


図14.ボーヒン湖湖畔に立つ山羊像。これはLaskoビールのマークになっている


図15.ボーヒン湖のそばに立つ聖ヨハネ教会と橋。鴨が浮かんでいる


●ポストイナ Postojna

ポストイナ鍾乳洞は全長20kmにおよぶ世界第2位の鍾乳洞で、人間が入ることのできる最大のもの。美しさでは世界一だが、余りにも手入れがされてしまったので、世界遺産には登録されないとも言われている。

1872年に開通したトロッコに乗って2km奧に入り、そこから約1kmの洞窟を専門ガイドと一緒に見学した。観光案内書では、洞窟内の温度は年間平均8度と書かれているが、実際は10度近くになっているらしい。

トロッコのスピードはかなり速く、狭いところで身を避けるのは自己責任のようで、少し危険に思ったところが何カ所かあった。

洞窟内は、目が完全に退化した両生類のホライモリ、別名類人魚の水槽もあったが、私には興味がなかった。



図16.ポストイナは今回の旅行の2番目の観光地である(Google Map による)


図17.ポストイナ鍾乳洞は首都リュブリアナの南西約50kmのところにある(Google Map による)


図18.ポストイナ鍾乳洞入口付近


図19.ポストイナ鍾乳洞のトロッコは1872年に開通した。危険を感じるほどのスピードで走る


図20.コンサートホールと呼ばれる巨大な鍾乳洞


図21.マイケル・ジャクソンに似た鍾乳石


図22.ブリリアントと呼ばれるポストイナのシンボル鍾乳石、これも誰かに似ている?


●リュブリアナ Ljubljana

首都リュブリアナは、かってコーマ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、フランス帝国、ハプスブルグ家などに支配されながら繁栄し、現在も発展を続けているオシャレな街である。

街は、丘の上に建つリュブリアナ城を中心とした旧市街と、リュブリャニツア川を挟んで広がる新市街に分れ、その間を三本橋が結んでいる。



図23.丘の上にあるリュブリアナ城へはケーブルカーで登った


図24.リュブリアナ城から見た街の光景、左中央にフランシスコ教会(新市街)、右下に聖ニコラス聖堂(旧市街)


図25.聖ニコラス聖堂の尖塔


図26.聖ニコラス聖堂の尖塔


図27.聖ニコラス聖堂の内部


図28.フランシスコ教会と三本橋、下を流れるのはリュブリャニツア川


図29.フランシスコ教会と三本橋。橋の手前が旧市街、向こうが新市街


図30.リュブリャニツア川に架かる橋の一つ「竜の橋」には町のシンボル リュブリャナドラゴンが4体鎮座


図31.早朝の青空市場は人影もまばら。バスのドライバーに贈る花を買う


クロアチア CROATIA

独立:1991年 国土:九州の約1.5倍 国民:クロアチア人が約90% 宗教:ローマ・カトリックが約90% 通貨:クーナ 時差:8時間(夏期は7時間) EU加盟:2013年加盟確定 世界遺産:自然遺産 1、文化遺産 4

クロアチアは内陸部とアドリア海沿岸部に大別される。今回の旅行では、首都ザグレブとプリトビチェが内陸部、シベニク、トロギール、スプリット、ドブロブニクがアドリア海沿岸部に属する。


●ザグレブ Zagreb

ザグレブはクロアチアの首都で、中部ヨーロッパとアドリア海を結ぶ交通の要衝であり、すべてのクロアチアの高速道路はザグレブを起終点としている。ザグレブ首都圏の人口は約120万人。現在のザグレブはヨーロッパで最も成長著しい都市の一つとされている。



図32.スロベニアの首都リュブリアナから、クロアチアの首都ザグレブへバスで移動する(Google Map による)


図33.「ザグレブの胃袋」と言われる青空市場広場は1926年からドラツ広場で開かれている


図34.中世に作られた城壁で現在残っている唯一の門が「石の門」で、手前の騎馬像は聖ユライの像


図35.「石の門」入口。奧に聖母マリアのイコンが納められた礼拝堂がある


図36.聖母マリアのイコンが祀られた祭壇で祈る老若二人の女性


図37.13世紀に建てられた聖マルコ教会。カラータイルで描かれたモザイク屋根が美しい。右はザグレブの市章


図38.聖マルコ教会の左側の建物は旧総督府で現在の政府官邸


図39.聖マルコ教会の右側の建物は国会議事堂


図40.13世紀から18世紀にかけて建てられた聖母被昇天大聖堂。二つの尖塔が印象的なザグレブのシンボル


図41.聖母被昇天大聖堂のファサード


図42.聖母被昇天大聖堂


図43.聖母被昇天大聖堂内部


図44.美しい聖母被昇天大聖堂のステンドグラス


図45.聖母被昇天大聖堂を守る城壁は、1512年から1521年にかけて、オスマントルコの侵入を防ぐために作られた


●プリトビチェ Plitvcka


図46.ザグレブからユネスコ世界自然遺産「プリトビチェ湖群国立公園」へバスで移動する(Google Map による)


図47.ザグレブからプリトビチェに向かう途中、内戦の傷跡が生々しい地域を通った(Google Map による)


図48.プリトビチェの手前にあるかわいい集落ラトスケ村。滝を利用して粉ひきの水車が回っている


図49.ラトスケ村はプリトビチェ湖群国立公園の前菜のような存在である


図50.プリトビチェ湖群国立公園の地図(Google Map による)


図51.プリトビチェの下湖群にある大滝(ヴェリキ・スラップ)をバックにツーショット


図52.プリトビチェ湖 下湖群


図53.プリトビチェ湖群最大の滝ヴェリキ・スラップ


図54.プリトビチェ湖 下湖群の滝


図55.プリトビチェ湖 下湖群 コバルトブルーの湖面が美しい


図56.下湖群の滝


図57.下湖群


図58.プリトビチェ湖群最大の湖であるコジャック湖を航行する電動ボートが遠くに見える


図59.コジャック湖を航行する電動ボート


図60.電動ボートから、コジャク湖の周辺の遊歩道をハイキングする人の姿が見える


図61.エコロジーバス(電動バス)に乗って上湖群の上の滝まで到達


●シベニク Sibenik

クルカ川河口にあって天然の良港を持つ歴史の古い港町である。ここのシンボルは、ユネスコ世界文化遺産に登録されている聖ヤコブ大聖堂である。



図62.プリトビチェからシベニクへ移動。長いトンネルを抜けると地中海性気候に変わったのが分かる。
内陸部は終わり、ここからアドリア海沿岸の観光地がいよいよ始まるのだ。こころは高鳴る(Google Map による)


図63.シベニクから始まるアドリア海沿岸の主な観光地(Google Map による)


図64.シベニクの手前のクルカ・サービスエリアで、プロキシアン湖とスクラディン村を眺望する。
シベニクの観光を終えて、スプリットへ向かう途中で、プリモシュテンを眺望する(Google Map による)


図65.クルカ川脇にあるプロキシアン湖とスクラディン村


図66.クルカ川に架かったモダンな橋


図67.シベニクの聖ヤコブ大聖堂はユネスコ世界文化遺産に登録されている


図68.大聖堂は1431年から100年以上の歳月をかけて建造された。銅像は最大の功労者ダルマティナツの像


図69.石造建築の教会としては世界最大、石は質の高いブラチュ島産の石灰岩と大理石を使っている


図70.100年以上かけて建造されたため、下部がゴシック様式、上部がルネッサンス様式となっている


図71.広場側の入口「ライオンのドア」


図72.聖ヤコブ大聖堂の内部


図73.シベニクを出てスプリットへ移動する途中、プリモシュテン半島を眺望した


図74.「プリモシュテン」とは橋を架けるの意味で、元は小島だったのを陸続きにした


●スプリット Split

スプリットは人口20万人のクロアチア第二の都市で、アドリア海沿岸最大の港町である。1700年前の古代ローマ遺跡の中で、現代の市民生活が営まれているという、他にあまり例のない街である。

ローマ皇帝ディオクレティアヌス(244?〜311)が引退後の余生を過ごした宮殿だが、その後ローマ帝国は衰退し、宮殿は廃墟となっていた。

7世紀になって、この地に避難してきた人々は、宮殿の上に住居を建てて住み着き、街を築いていった。これが旧市街で、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

この宮殿が建てられたのは、我が国では卑弥呼の時代で、大和朝廷はまだ成立していなかった。その宮殿が今もなお使われていることにまず驚く。

また、ゲルマンの民族移動でローマ帝国が脅かされだしたのに対して、帝国を守りやすくするために、ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を西と東に分け、自分は東の皇帝となった人でもある。

しかし、ゲルマンによって476年に西ローマ帝国は滅ぼされた。ゲルマンの移動のあとを追って、スラブ民族の移動が始まり、南スラブ民族がこのバルカン半島へ移動してきた。

そのような歴史的な意味と関連づけると、ここスプリットは興味深い街である。

そのほか、旧市街と新市街が一体化したこの街はオシャレで、非常に美しい。



図75.シベニクを出てプリモシュテンに立ち寄り、トロギールは通過して、スプリットへ移動した(Google Map による)


図76.スプリットの地図(Google Map による)

<遠景>


図77.海側から眺めたスプリットの街。中央に大聖堂の尖塔、その下にはディオクレティアヌス宮殿が見える


図78.海側から眺めたスプリットの街(反時計回りで西へ)


図79.海側から眺めたスプリットの街(反時計回りで西へ)


図80.海側から眺めたスプリットの街(反時計回りで西へ)


図81.海側から眺めたスプリットの街(反時計回りで西へ)


図82.スプリットの街をバックにして


図83.スプリット港の南西にあるレストランからの眺め


図84.スプリット港の南西にあるレストランからの眺め


<ディオクレティアヌス宮殿>


図85.ディオクレティアヌス宮殿の航空写真(Google Map より)


図86.海岸通りに設けられたディオクレティアヌス宮殿の現在の青銅模型


図87.ディオクレティアヌス宮殿の復元図 現在の宮殿前海岸通りは海だったWikipediaより


図88.宮殿の地下入口


図89.宮殿地下


図90.宮殿地下


図91.建設時に使われた木材


図92.ディオクレティアヌス帝の胸像


図93.みやげ物店が並ぶ


図94.前庭 Vestibul と呼ばれる円形の広間で男声のアカペラ演奏があった


図95.男声のアカペラ演奏が終わって、メンバーの横に並んだ


図96.右端に八角形の大聖堂と鐘楼が見える


図97.鐘楼への登り口はペリスティル(玄関前広場)に面している


図98.宮殿には東西南北に門があり、いずれの門から直進してもこのペリスティルに達する。


図99.洗礼室にある洗礼者ヨハネの像(イヴァン・メシュトロヴィッチ作)


図100.洗礼室の天井


図101.北の門(金の門)を出るとグルグール司教の像がある

<宮殿の外>


図102.グルグール司教の像と鐘楼


●トロギール Trogir


図103.スプリットから、前日通った道を引き返して、トロギールに遠出した(Google Map による)


図104.トロギールに架かる二つの橋。本土に架かる橋とチオヴォ島に架かるチオヴォ橋である(Google Map による)


図105.聖ロブロ大聖堂の鐘楼。窓の形が段ごとに違っている


図106.聖ロブロ大聖堂


図107.西側の正門には、ライオンに乗ったアダムとイブの彫刻がある


図108.聖ロブロ大聖堂の祭壇


図109.聖イヴァン礼拝堂の天井から老人が顔を出している


図110.この老人は守護聖人とも神様ともいわれているようだが、私にはついてゆけない感じだった


図111.聖ヨハネがキリストに洗礼を施す場面のレリーフ


図112.対岸のチオヴォ島から眺めたトロギール(聖ロブロ大聖堂側)


図113.対岸のチオヴォ島から眺めたトロギール(カメルレンゴ要塞側)


図114.トロギールと本土を結ぶ橋が運河に架かっている


図115.トロギールからスプリットへ戻る途中のバスの中から見た古代ローマの水道橋



ボスニア・ヘルツェゴビナ BOSNIA-HERZEGOVINA

独立:1992年 国土:北海道の5分の3 国民:ムスリム人約44%、セルビア人約31%、クロアチア人約17% 宗教:イスラム教、セルビア正教、ローマ・カトリック 通貨:コンビティビルナ・マルカ 時差:8時間(夏期は7時間) EU加盟:なし 世界遺産:1 
そのた:長年オスマントルコの支配下にあったため、今回観光の他の3カ国と比べてトルコ的な雰囲気が強い


●モスタル Mostar

モスタルはボスニア・ヘルツェゴビナの南部の中心都市。渓谷を流れるネレトヴァ川に、町のシンボルであるスタリ・モストという名の橋が架かっている。この石橋とその周辺がユネスコ世界文化遺産に登録されている。

スタリ・モストは内戦時に破壊されたが、のちに修復された。橋は水面高約20mで、橋から飛び込む人が多いという。写真をよく見ると、飛び込む寸前の人が写っていた。橋は中央に向かって急勾配になっていて、滑り止めがついている。



図116.ドブロブニクに泊り、ここからバスでボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに遠出(Google Map による)


図117.1635年に建てられたオスマントルコ時代の伝統的な家屋。いちばん美しく撮れた写真を掲載した


図118.スタリ・モストの北側にある、1619年に建てられたイスラム寺院コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミヤ
これまでにエジプトトルコで見学したイスラム寺院より、かなり規模が小さく貧弱であった


図119.コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミヤの、川に面したテラスからは、スタリ・モストがよく見える


図120.コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミヤの内部


図121.スタリ・モスト(橋)はボスニア・ヘルツェゴビナを代表するオスマン建築の一つ 負の世界遺産に登録


図122.ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で破壊されたが、ユネスコの援助で、1999年から修復が行われた


図123.橋の中央から下に飛び込もうとしている人がたまたま写っていた


図124.橋は中央に向かって急勾配で、滑り止めがついている。これは鉄砲水を防ぐためとも言われている


図125.ドブロブニクに戻る途中、ポチテリ村で下車して観光した


図126.ここはトルコそのままの街並みが残るキャラバンサライで栄えた村、城壁で囲まれている


図127.2002年に開通したオンブラ川に架かる518mのトウジマン橋近くで下車し、写真撮影を行った


モンテネグロ MONTENEGRO


独立:1991年 国土:福島県程度 国民:モンテネグロ人約40%、セルビア人約30%、モスレム人約9% 宗教:セルビア正教が約70% 通貨:ユーロ(EU加盟ではないが) 時差:8時間(夏期は7時間) EU加盟:なし 世界遺産:2


●コトル Kotor

コトルは、アドリア海から続く、入り組んだコトル湾の最奧部にある町で、前方を海、背後に急峻な山、左右は水堀と城壁に囲まれた城塞都市である。

古代ローマの植民都市として発展し、ヴェネツィア共和国など周辺の強国のもとで海洋貿易の拠点として栄えた。

街のシンボルは、聖トリフォン大聖堂で、旧市街はユネスコの世界文化遺産に登録されている。

コトル湾がヨーロッパ最南端のフィヨルドであることを知って驚いた。これまでアラスカノルウエーのフィヨルドを観光したことはあるが、同じフィヨルドでも、この温かい場所の湾は、明るく、エネルギーが満ちていて陽気である。私は断然こちらを好む。

コトル湾で一番細い水道の向かいに人工の島、聖母島がある。この最狭部を通って大型豪華客船が入ってきたのを見て、確かにこの湾がフィヨルドであることを実感した。湾が、フィヨルドの特徴であるU字谷になっているからこのようなことが可能なのだ。



図128.ドブロブニクからバスでモンテネグロのコトルまで遠出をした(Google Map による)


図129.コトル湾はこのような複雑な地形をしたヨーロッパ最南端のフィヨルドである(Google Map による)


図130.航空写真で見るとより分かりやすい(Google Map による)


図131.南側から見た聖母島と聖ジョージ島


図132.南側から見た岩礁の聖母島。漁師が聖母のイコンを発見し、聖地とされた岩礁に、市民らが石や岩を沈めて
人工島を作り、その上に「岩礁の聖母教会」を建てた。隣の聖ジョージ島には古い墓地があるという。


図133.北側から見た聖ジョージ島と岩礁の聖母島


図134.北側から見た聖ジョージ島


図135.北側から見た岩礁の聖母島に建つ「岩礁の聖母教会」は絵のように美しい


図136.コトル湾の最狭部


図137.コトル湾の最狭部に大型客船の舳先が見えた


図138.この最狭部を難なく通過して入港した


図139.ボートで岩礁の聖母島へ上陸


図140.「岩礁の聖母教会」の祭壇


図141.海の門から城壁内に入り、コトル旧市街へ


図142.「武器の広場」と呼ばれる広場に建つ時計塔


図143.聖トリフォン大聖堂の二つの尖塔


図144.大聖堂のファサード


図145.大聖堂の内部


図146.海と川と山と城壁で守られたコトル旧市街



ドブロブニク

ドブロブニクはもちろんクロアチアの都市である。ここで、国並のスペースを取ったのは、それにふさわしい素晴らしさをふんだんに見せてくれたからである。

ドブロブニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれ、1929年にこの地を訪れたバーナード・ショーは、「この世の楽園を見たければ、ドブロブニクを訪れよ」と書いたそうだ。それが誇張ではなくて実感であることを、訪れた者の多くは理解できるのではなかろうか?

1991年から始まったクロアチア独立戦争では、ユーゴスラビア連邦軍の攻撃によって、街は大きく破壊されたが、その後精力的に修復が行われ、今では修復箇所が分からないほどになっている。

今回の旅行の最後が、このドブロブニクであることに感謝し、この町を、地図、遠景、城壁めぐり、旧市街の4項目に分類して紹介する。


●地図

観光記録を残す場合、地理的な状況が分からなければ不充分に感じる性格なので、Google Map を活用して特性の地図を作った。Google には本当に感謝をしている。



図147.スクリプトからドブロブニクに移動、ここからモスタル、コトルを訪れ、ドブロブニクで終わった (Google Map)


図148.ドブロブニク旧市街の北側にスルジ山があり、南東にロクルム島がある(Google Map による)


図149.ドブロブニク旧市街航空写真(Google Map による)


●遠景

ドブロブニクの観光案内書には、この街の美しい旧市街の遠景が載っている。その遠景も、見る視点が異なれば、大きく違ってくる。幸い、今回の旅行では、1)ドブロブニク旧市街展望ポイント、2)スルジ山展望台、3)ホテルの部屋、4)ホテルのレストラン、という4箇所からの写真を得ることができた。

1)、2)、3)と順に旧市街へ近くなり、3)より4)の方が低い位置になる。

普通の観光では、2)スルジ山展望台だけで終わる確率が高いので、今回のツアーは幸運だった。



図150.ドブロブニク旧市街展望ポイントよりの眺め


図154.ドブロブニク旧市街展望ポイントよりの眺め、拡大写真


図152.独立戦争で破壊され、2年前に復興したロープウエイでスルジ山に登る


図153.スルジ山展望台よりの眺め


図154.スルジ山展望台よりの眺め、拡大写真


図155.ホテルの部屋のバルコニーよりの眺め


図156.ホテルのレストランのバルコニーで、朝食を済ませたところ


●城壁めぐり

旧市街を取り囲む城壁は、8世紀に基礎が築かれ、15〜16世紀にかけて現在のかたちになった。1周約2kmの城壁は遊歩道になっている。入口出口は3箇所あるが、私たちはピレ門脇から入り、聖イヴァン要塞から出る半周コースを選んだ。

このコースは、アドリア海に面していて、「アドリア海の真珠」と呼ばれてきたドブロブニクの旧市街を、いろいろの角度から眺めることができる。

旧市街では、照り返す路面からの熱にいささか参ったが、城壁では照り返しがなく、海からの風が爽やかで、暑さをあまり感じなかった。



図157.ミンチェタ要塞付近は山側の城壁の最高地点で、背後にテレビ塔の建つスルジ山が見える


図158.左にスルジ山のテレビ塔、中央にロープウエイ支柱塔が見える


図159.城壁の南西、ボカール要塞付近、右にロブリイエナツ要塞が見える


図160.ロブリイエナツ要塞は旧市街の外側、ピレ門の近くの岩場に位置する西の防衛拠点


図161.城壁の南西側で


図162.城壁の南側、前方にロクルム島が見える


図163.城壁の南東、右手にロクルム島が見える。砲台が往時をしのばせる


図164.城壁の南東で


図165.城壁の南東の下方にある公共ビーチ


図166.城壁南東の公共ビーチ


図167.城壁の南東の階段を降りる


図168.聖イヴァン要塞から見た旧港


図169.聖イヴァン要塞から見た旧港


図170.地上に降りる前に見た旧港と聖イヴァン要塞


図171.地上に降りる前に見た旧港と聖イヴァン要塞


●旧市街

1991年のクロアチア独立戦争で、ユーゴスラヴィア連邦軍の砲撃により、ドブロブニクも多大の被害を受けたが、その傷跡はまったくと言ってよいほど見つからなかった。

クロアチアのほかの地区では、戦禍の跡が生々しく残っていたり、それを展示しているところもあった。ドブロブニクでは、大きな写真で「1991年12月6日を我々は忘れない」と静かに、しかし、より効果的にアピールしていた。



図172.旧市街への東の入口 プロチェ門


図173.プロチェ門を入ったところで旧港が見える


図174.旧市街の中心的広場であるルジャ広場。中央は聖ヴラホ教会、右端にオルランドの柱と像がある


図175.ルジャ広場から西に続く旧市街のメイン・ストリート、プラツァ通り。朝なので人通りはあまり多くない


図176.スポンザ宮殿と時計塔


図177.旧港桟橋を散策


図178.大聖堂のドーム


図179.大聖堂内部は清楚で美しい


図180.大聖堂内部 ティツィアーノの「聖母被昇天」が素晴らしい


図181.旧総督邸


図182.旧総督邸の中庭


図183.旧総督邸の上階


図184.旧総督邸の上階から見下ろした中庭


図185.グンドリッチ広場には詩人「イヴァン・グンドリッチ」の像があり、楽しい青空市場が開かれている


図186.セルビア正教会。正教会を見学するのははじめてなので、たくさんの写真で記録した


図187.セルビア正教会ファサード


図188.セルビア正教会の祭壇。確かに、カトリックのような偶像はなく、絵(イコン)ばかりである。


図182.セルビア正教会の祭壇、拡大写真


図190.セルビア正教会の祭壇左側


図191.セルビア正教会の祭壇右側


図192.「1991年12月6日を我々は忘れない」と独立戦争当時を迫力ある写真で表示している


図193.オノフリオの大噴水


図194.オノフリオの大噴水


図195.フランシスコ会修道院の回廊


図196.西端から見た真昼のプラツア通り


図197.東端から見た真昼のプラツァ通り


まとめ

今回の旅行で観た景色は、これまでの海外旅行で観たものよりはるかに美しく、その数も非常に多かった。アドリア海沿岸をシベニクからコトルまでバスで移動したが、車窓から見える景色は、実際に観光した場所に劣らぬ美しさで、それが途切れることはなかった。

クロアチアで購入した「クロアチア 日本語第二版」観光出版社 2010年刊 を見ていくと、今回の旅行で観た景色が載っているのは、160ページ中わずか26ページに過ぎない。バスの車窓から観た時に「クロアチアには、美しい景色がまだまだたくさんある」と思ったことは正しかったようだ。

天候に恵まれ、添乗員に恵まれ、これまでで最高の旅行ができたことに感謝している。それをできるだけ詳細に、分かりやすく記録することに注意して、帰国後突貫作業を続け、8日目にしてようやくまとめることができた。


最高の旅行でした



<2012.6.24.>

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