ホーム > サイトマップ > 言葉 > 心に生きることば > 第1章:人間 |
01<恋愛> | 02<結婚> | 03<夫婦> |
04<子供> | 05<友> | 06<両極端なタイプ> |
07<嫌いなタイプ> | 08<素因と環境> | 09<人間関係> |
10<会話> | 11<闘争> | 12<自然体> |
13<ストレス> | 14<笑い> | 15<不安> |
16<怒り> |
「心に生きることば」の最初を人間に関係することがらから始めることにする。
高校生の頃だったと思う。「恋する」と「愛する」はどう違うのか無性に気になった時期があった。「恋する」「恋しい」「好き」「惚れる」ということばは実感として分かるのだが、「愛する」ということばが、どうもぴったり来ない。そこで、いろいろ考えてこの結論に達した。
「愛する」とは、相手が幸せになるように努める行為だと理解すると、「好き」という感情を表すことばとの違いがよく分かり、気にならなくなった。自分が納得できれば、それ以上に深く考えることをしない性格なので、結局は50年前のレベルに留まっていて進歩していない。
ヘッセの言っている意味とは違うかも知れないが、私は何ごとにつけ、してもらうよりも、する、してあげる方を好む。好きな人に、もちろん嫌われたくはないが、愛されたいとはあまり思わない。そうでなくて、自分が愛したいと思う。
このことばを若い頃に知って、ほんとうにそうだと感じた。実らないことが分かりながら、恋をしたとしても、その恋を経験しなかったことと比べて、幸せだと思うのは間違いではなかった。青春時代には自分も経験し、中年を過ぎてからは、若い人にそのことばを教えて慰めたことがある。
これは水原弘が歌って第1回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」の中のことばで、永六輔の作詞である。若い頃に失恋し、ほんとうに「もう恋なんかしたくない」と思ったが、時が過ぎると、その気持はうすれ、やはり「恋せざるより幸せ」と思うようになっていた。
世間には、結婚をゴールと思っているのではないか、と勘ぐりたくなるような新婚夫婦を見受けることがある。私は結婚したのが31歳で、結婚に対する幻想がなくなっていたためか、結婚をゴールとは決して思わず、出発点だと強く思い、どのようにして自分たちの家庭を作って行くか、ということに関心があった。
ただ、好きだった母親を私が29歳の時に亡くし、人恋しい気持が非常に強かった時期だったので、それが満たされることが嬉しかったこともよく覚えている。
結婚する年の年賀状に、婚約者(現在の妻)へ書いて送ったのが、このことばである。婚約者が、それを自覚していたかどうかは不明だが、この頃は、まだ私に逆らうことはなく、私の言うことをひたすら信じていたようだった。それから歳月が過ぎ、結婚披露宴に招かれて、色紙にお祝いのことばを書かなければならない時、よくこのことばを書く。それを見る妻は、「もっと気の利いたことばはないの?」と不満気だ。
35年も結婚生活が続くと、このことばの意味がよく分かる。30年近く開業医をしているので、一日中妻と話をしているが、それでも決して退屈しないのだから不思議だ。
自分の人生で、一番良かったことは何だろうと振り返ってみて、それは結婚だと思うようになって久しい。おそらく、息子が大学に入った頃からだと思う。私の場合、大学に入学したこと、医師になったこと、開業をしたこと、子供を授かり育てたこと、それらのどれよりも比較にならぬほど、結婚生活が良かったし、今も、将来も変わらないのではないかと思える。それはおだやかな、しみじみとした幸せ、と言ってもよいのかもしれない。
追加フレーズ(2008/11/11)
私はこれまで、結婚というものは夫婦二人が作り上げていくものだ、と思い込んできた。しかし、結婚41年目の今頃になって、作り上げるというような努力をしてきたのか、疑わしく思えるようになった。あるがままに認め、なるがままに過ごしてきたような気がするのだ。妻にもその傾向があると思うのだが、案外、秘かに不満を抑えてきているのかも分らない。
新婚旅行から帰って、妻の実家に立ち寄った時、義母からこのことばを聞いた。その時は聞き流したが、なぜか、妙に頭に残っていた。そして、時間が経つにつれ、ほんとうにその通りだと、その意味がよく分かるようになってきた。これが親子とか親友の場合なら、二人が黙っていれば、どうしても気を使ってしまうだろう。
どちらか一方から話を聞いた場合はもちろんのこと、一緒に二人から話を聞いた場合でも、夫婦のことを間違って理解していることがよくある。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」は正しいのだ。
結婚して35年になる。その間に「経子、好きよ」と言わなかった日の方が少なかった気がする。日本男子は、死ぬまでそのようなことばを口にしないと聞いたことがあるが、本当だろうか? もし、そうだとしたら、私は日本人離れしているのだろうか?
それで思い出すのは、野村医院に24年間勤めてくれたNさんから、「先生は日本人ばなれしている」と言われたことだ。医師会の会報に載せた、「カミさんだけを愛する」という私の文章を読んで、「自分の奥さんだけを愛する」と会報に書く日本人はいないと呆れていた。
しかし、初めてのデートで、自分から先にタクシーに乗り込んだと非難され、婚約時代でさえ、手をつないだことがなく、朝食のパンを断固拒否して米と蕎麦と饂飩を愛し、時代劇と相撲が好きな男、立派な日本男子だと自分では思っているのだが...
結婚したときから、妻は可愛い性格だったが、45年経った今もそれは変わらない。2〜3年前から「可愛いということは、かけがえのない長所ではないか」と思うようになった。02の<結婚>で、5.結婚はお互いの受容と書いたが、「可愛い」は、私にとってそれを助けるように作用している。
親の恩とか親に孝行せよなどと、昔から言われてきたが、自分が親になってみてそれは間違っていると思う。親になって得た喜びは、何ものにも変え難く、親になって味わった苦しみなどは、それから比べれば、些細なことに思えるのだ。
たしかに、中学3年頃から高校にかけては、息子に少々てこずることもあった。しかし、そこで親が学んだことは大きかった。あの時期を経験しなければ、人間として未熟な部分を、今以上にたくさん持たなければならなかったことだろう。
この時に体得したことは、大きく三つある。一つは、「盗人にも三分の理」、もう一つは「詰問面罵の効果(北風と太陽)」で、これらについては、あとで説明をする。そして最後は、次に述べる「絶対的受容」である。
子育て中には叱り、突き放し、厳しく当たらなければならないこともある。しかし、こどもが本当に困リ果てているとき、親はいつでも無条件で自分を受け入れてくれる、自分の味方になってくれると、こどもに思わせることが一番大切だと思っている。
息子にとって幸いだったのは、赤ちゃんの頃から妻側の祖父母に預けっぱなしのことが多く、祖父母は無茶苦茶に息子を可愛がってくれたことだ。どんなことをしても、祖父母から叱られたことはなかっただろう。
よく世間では、おじいちゃんおばあちゃんが甘やかすことを、親が嫌う話を聞く。しかし、私は逆にそのことを非常にありがたく、大切なことだと感謝してきた。何をしても受け入れてくれる大人がいることを感じながら、育つということは、素晴らしいことではないか。そのかわりに、親が厳しくしつければ良い。
そう自覚はしていても、親もまた相当甘かったかもしれないが、少なくとも頭では、厳しくしようと思っていたのは本当だ。
世間では、この「親の背を見て子は育つ」ということわざがよく取り上げられているが、私は少し懐疑的だった。果たして、私は親の背を見て育ったのだろうか?反面教師として背中を見たというのなら、分からないでもないが、というのが正直な感想だった。
それが、やはりこのことわざは本当かもしれないと思うようになったのは、野村医院開院二十年史の中に、息子が書いた「開院二十年目の感想」を読んでから後のことである。息子は、そのとき医大の4回生だった。その後医師になってからは、学生時代には想像もできない変わり様で、医師として、がむしゃらに突進して行くのを見聞きするにつけ、やっぱり、背中を見せてきたのかもしれないと思ったりもする。
昔と違って、今の父親の多くは、こどもに背中を見せることができない環境にある。それと比べて、職住が同じ開業医という職業は、好むと好まざるに関わらず、こどもに背中を見せざるを得ない。そのことが幸いしたのだろう。
私たちのこどもは一人だけである。かって「一人っ子はそれだけで病気である」というアメリカの心理学の創始者ジェームズのことばを何かの本で読んだ時に、「一人っ子でもまともに育てて見せる」と瞬間的に思った。
確かに、兄弟の中でもまれて育ったこどもと比べて、一人でちやほやされて育ったこどもは、それに基づく欠陥を持ちやすいかもしれない。しかし、それが長所になる場合もあるだろうし、親が注意して育てることで、その欠陥も少なくすることができるはずだと考えた。
73年に開業をしたが、その頃、大学時代の友人の浜田辰巳君の家に招待されたことがあった。一人っ子の話になった時、彼が話した「2は1の2倍だが、1は0と比べて無限大だ」ということばに、思わず息が止まった。彼は私よりも早く結婚したが、こどもに恵まれなかったのだ。それを思うと、ひとりのこどもを授かったことを、感謝しなければならないと痛感した。
追加フレーズ(2008/11/11)
最近、「育児は育自」ということばを知った。「子どもが育つ条件」柏木恵子著 岩波書店 2008年7月刊に書かれている。この中で、これまでの「子どものための育児研究」から180度転換した視点で、「親のための育児研究」が行なわれている。それは、人間の能力や性格など心の働きが、死ぬまで成長発達を続けることが分ったからだという。「子を育てることは自分を育てることでもある」という著者の主張がよく理解できた。確かに私の場合も、自分の成長に資するところ大であったと思っている。
追加フレーズ(2008/11/11)
私は、息子の勉強についてほとんど関わらず放任してきた。ただ一度だけ、勉強のコツを書いて渡したことがある。息子が中学2年の時に、私が受験勉強で身につけた勉強のコツを、B5版16ページの冊子にまとめて、 勉強覚え書き のタイトルを付けて手渡した。そして、これで受験勉強成功のコツをすべて教えたと、免許皆伝を与えた積りとなり、息子の勉強から離れた。しかし、これは馬の耳に念仏の効果しかなかったようだった。
追加フレーズ(2008/11/11)
息子が高校2年のときに、それまで行なってきた子育ての総括として、 最初の遺書 を書いて手渡した。そして「書くべきほどのことは書いた」という気持になり、息子から自由になり、子育てを終了したつもりで、自分のしたいことに向った。
若い頃は親友を求め、友情に夢をいだいた。しかし、年をとった今、最も信頼する友は老いたる妻であり、なにがしかの貯金であるというフランクリンのことばが、何故かよく分かる。老犬がもし居れば、それもまた、友の一人であろう。フォスターの名曲「老犬トレイ Old Dog Tray 」が思い浮かぶ。
このことわざにあるような経験はない。しかし、もしも、そのような機会に遭遇すれば、このことわざを活かそうと昔から思ってきた。貸すのではなく、その一部にあたる金をあげることにするだろう。
友人として必須の条件は、「裏切られないという安心感」ではないかと思ってきた。若くして自らの命を断った野中清也君、義兄となってしまった田伏薫などにはそれがあった。
妻と結婚して、思わぬ人間勉強ができたことを幸せに思っている。そのわけは、この世には、これほど私と正反対な性格の人間が存在するということを知ったからだ。私が極端なら、妻もその対極にある。後にも先にも、これほど反対の性格の人間に出会ったことがない。これから、その違いを取り上げ、説明していくことにする。
私はものごとを楽天的に考える人間で、「今日が良ければ明日も良い、今日が悪ければ明日は良くなる」と思考回路が回る。それに対して妻は、「今日が良ければ明日は悪くなる。今日が悪ければ明日はもっと悪くなる」と思ってしまう性格だ。私のタイプを「プラス思考」「ポジティブ思考」と呼び、妻のタイプを「マイナス思考」「ネガティブ思考」と呼ぶらしい。
婚約をしたばかりの頃だった。妻からもらった手紙に、「幸せすぎて悪いことが起こりそうな気がする」と書いてあるのを読んで「何と可愛いことを言う子だろう」と嬉しくなった。ところが、結婚して分かったのは、本当に心配でたまらなかっただけで、それは嬉しさの表現ではなかったのである。
以来35年間、妻はちょっと良いことがあると、悪いことが起こらないか、悪い方に向かわないかと真剣になって心配し、心配ごとが一つ片付くと、すぐ別の心配が出て来る。まるで、心配ごとをせっせと作るのが趣味のように、私には思えるほどだ。その間、良いことが悪くなったこともほとんどなければ、心配ごとが実際に現実のものとなったこともほとんどないというのに、その経験が妻に有効に働いたことは一度もない。
「隣の芝生は青い」「隣の花は赤い」と思うのが妻、「わが家の芝生は青い」「うちの花は赤い」と思うのが私。これも結婚以来ずっとそうである。「私は料理が下手」に対して、「あなたは料理の天才だ」となるが、これにはちょっと説明がいる。正確に言えば「あなたは手抜き料理の天才」なのだ。
新婚の頃、料理本と首っ引きで、数時間かけて私のために料理を作ってくれたことがあった。それを食べたが不味いので、こんな料理を作るために、膨大な時間を費やしたことに腹を立て、「時間と愛情を込めて作った不味い料理よりも、店屋物でも美味しければその方が良い」と教えてやった。
そう言われても妻は怒らず、これ幸いと、それから後は、少し手を加えるだけで美味しくなる素材や、でき上がりものを買ってくるようなった。自分は料理が下手だという自覚があるため、妻は私の好みに合わせることに抵抗が無く、おかげで、私は自分の好きな食事を楽しみ続けることができた。
そのせいか、夕食で「おいしい、うまかった」と言うことばが出ない日は、1年でも数えるほどしかない。しかし、これもグルメ人間に言わせれば、それはお前が味覚音痴ということだ、と一蹴されるのだろう。
補足(2008/11/11)
「隣の花は赤い」と思う者は、隣と比較をしているのに対して、「うちの花は赤い」と思う者は、隣の花が赤かろうが赤くなかろうが、それはどちらでも良いことで、隣との比較ではなく、とにかく「うちの花は赤い」と絶対的に思うのだ。しかし、周囲との比較が大事な者には、そのことが理解できないらしい。
手に入るはずのものが、何かの事情で入手できなくなったとき、「あんなのしょうもない、酸っぱい葡萄や」と言ってあっさりあきらめるのが私、「残念、惜しかった、くやしい」と、逃がした魚の大きさのことを、何時までも口にするのが妻。一方は極端にあきらめが良く、もう一方は極端にあきらめが悪く、いつまでもくよくよする。
世間の目を気にして、人にどう思われるかで以って行動が規制されているのが妻、人にどう思われるかよりも、自分のしたいことをすることを優先するのが私。ほかの違いではあまりもめることもないのだが、この違いは行動に関係するだけに、夫婦間でもめる大きな原因となる。特に私の行動が、妻の規範で制限される時に争いが起こる。妻の方が常識的、オーソドックスかもしれないが、世間に対して意識過剰で、自分ひとりが悩んでいる場合の方が多いのではないだろうか?
日常品は別として、少し高価なものを購入するような場合、妻は迷いに迷う。時間が許す限り、気の済むまで品物選びに没頭するだけでなく、選んだものの中から一つを選ぶのが、それ以上に大変なのだ。そして何とか決めたと思えば取り止め、取り止めたものをまた選ぶこともあり、結局、自分で決めることができない。それに対して、私は呆れるほど簡単に決めてしまう。そこで、妻の最終決定には、私の意見が必須であることがお分かりいただけるだろう。
妻が大事な買い物をする場合のパターンは決まっている。まず、時間をかけ、自分の納得の行く選択肢を探し出す。その間、大阪の街の中を早足で駆け回り、歩いている人のほとんどが、妻に追い抜かれるのだ。世界中で一番早く歩くのは日本人、その中でも大阪人がダントツ、その大阪人よりも、交野の田舎に住む妻の方が早いということは、世界で一番せっかちな女に属することになる。
何往復かして複数の候補が見つかった段階で私にお呼びがかかる。私の感想が、1)あんまり良くないな、2)良いと思うよ、3)良いなあ、4)これは良い、5)絶対良いからこれにしとけ、この最後でなければ決めることをしない。ここまで付き合うだけでも大変なのに、決めない時には、もうイライラしてしまい、「それなら止めとけ」で終ることも多い。
補足修正(2008/11/11)
かっては、大阪の街の中を早足で駆け回っていた妻が、大阪市内に転居してからは歩くスピードがずいぶん遅くなった。これにはいろいろ理由が考えられるが、開業医の妻として働いていた時よりは、時間に余裕ができたことも関係しているのだろう。
重要な決定をする場合に、できるだけたくさんの選択肢を手に入れて、その中から不適当なものを除いて、残ったものを選ぶという消去法、減点法を妻は常にとる。それに対して、私は自分が気に入ったもの、良いと思ったものを選び、選択肢を広げようとは思わない。こちらは得点主義とでも言うのだろうか?
長所に目が向くか、欠点を大事と思うか、ほめるか、とがめるか、私は本能的に欠点より長所を大切に思い、とがめるよりほめてしまうが、人さまざま、妻はその正反対なのだ。
無駄をできるだけ少なくする、失敗をできるだけしないことを心がけ、最小の無駄、最小の失敗が得られればそれをこの上なく幸せに思う人間がいる。反対に、無駄は仕方がなく、むしろ少しの無駄は望ましいと考え、失敗を気にせず、少しの失敗はあるはずのものと思って行動する人間がいる。前者は妻、後者は私である。
発車寸前の電車に飛び乗ることができたら幸せと感じる者がいれば、鼻歌を歌いながらゆっくり電車が来るのを待つのが幸せで、息せき切って飛び乗るのを不幸と思う者がいる。
ところが面白いことに、先の人間は食事が終るか終らないかで居眠りを始め、本を手にするや、これをすぐに睡眠剤に変える。後の人間は食事が終れば、居眠りする者のそばをそっと抜け出し、したいことや、しなければならないことを始め、本を読み始めれば目は冴えてくる。これだから、人さまざま、世の中愉快だ。
私はこどもの頃から「作ること」が好きだった。設計、工作、構築、創作、それもできるだけオリジナリティーのあるものを作ることが好きだった。自分が欲しいもの、役立つもの、便利なものを工夫して作り出すことが、他の何よりも好きではないかという気がする。
反対に妻は、作ることは苦手だが、作品を批評をするのは好きで得意、的を得た批判と助言をする。時には、その手加減のない辛辣な批判を受けて、作者は憤怒の極みに達することもあるが、冷静さを取り戻した時に、その批判の正しさを認め、修正、あるいは、やり直しをすることも少なからずある。
作ることが好きな人間は、チェックをするのが嫌いなのではなかろうか?チェックをする暇があれば、他を作っている。それは、自分が作ったものについてでもそうで、まして、他人の作品をチェックするのは面白くない。反対に、チェックするのが好きな人間は、自分で作るのは苦手か、嫌いのように思うがどうだろう?
チェックが得意な妻の才能を見込んで、間違いがあってはいけない文章などの点検は、妻にまかせている。
自分の努力で解決できない、危機的状況に遭遇した時の対応の仕方も、妻と私では両極端である。妻は専ら何かを断って願掛けを行う。70年の正月、息子が仮性小児コレラになった時には、パールのネックレスを断つことを誓って、願をかけたようだ。だから、今も真珠の首飾りは持っていない。
私は反対で、そのような時には、欲しいものを買うとか、楽しいことをするとかで、ゲン直しをして、ツキをこちらに呼び戻そうとする。その中で一番大きな買い物は、75年の年末に、体調不良で肺癌の疑いもあった時、車をグロリアの2ドアハードトップ、3ナンバーに買い換え、AKAIのオープンリールのビデオ・カメラを買ったことだ。初めての民生用カラー・ビデオ・カメラだった。これによって再びツキが戻り、健康を取り戻すことができた。
成功率から言えば、私の「験直し」の方が、妻の「願掛け」より高いのではないかと思う。とにかく、このやり方で失敗したことがないのだから...
私はこどもの頃から、分解したり作ったりすることが好きで、将来はエンジニアになるつもりだった。だから、メカやエレクトロニクスが好きで、世間一般の人の中では、ほとんどいつも、最先端のことに興味を持ち、使ってきた。反対に、妻はTVのチャンネルを変え、音量を調節するくらいが関の山である。
私はこどもの頃から歌好きで、絶えず鼻歌を唄い、発作的に大声で唄うこともしばしばある。口笛もよく吹く。と言っても、カラオケのようにテンポを規制されるのは嫌いで、年に数回くらい、付き合いで外で歌うだけだ。
反対に、妻は滅多に唄わないし、唄えば途中で突然キーが変わる。不思議なことに、美空ひばりの曲だけは狂わずに唄えるようで、むかし、息子がギターで伴奏をしていて、「お母さん、狂ってないじゃない」と、ビックリしていたことがあった。声域が低く、声の出ない高さになるとおかしくなるようだ。
近頃、ときどき風呂の湯舟の中から、何やらうなり声がする。何かと聞き耳を立ててみると、妻が唄っていることがある。どうやら、亭主の真似をし始めたようだが、唄う比率は1対1000もないだろう。
妻は、食事が済めば条件反射的に眠れる特技を持っている。他には車に乗ることと、本を読むことも、同じ程度の誘眠条件だ。ところが、夜になると眠れない、それ以上に、夜中に目が覚めて眠れないことが多いようだ。そこで、絶えず安定剤や睡眠薬のお世話になっているらしい。
反対に、私は66年間で眠れなかったのは一晩だけ、眠れなければ考えごとをするか、読みたい本を読む。時には、面白くて明け方近くまで読みつづけることもあるが、そのために翌日に支障が出ることはない。これは、中学以来、徹夜の一夜漬けをくり返してきたことや、医師になってからは、徹夜で仕事をして、翌日も、いつも通り仕事をしてきた経験が、数え切れぬほどあるため、そのような状況に慣れているからだろう。
妻は、そのような経験が少なく、その上、眠っておかなければ翌日に支障が出るに違いない、という強迫観念にとりつかれているようで、眠ろうと思えば思うほど、眠れなくなるという悪循環に陥るのだろう。
かわいそうな妻は、結婚した頃からほとんど毎日、頭が痛いと言って頭痛薬を飲んでいる。しばらく我慢すれば治まることもあるだろうに、辛抱ができず、時には1日に数回飲むこともあるようだ。最近、長年愛用してきたセデスが製造中止になり、代替品探しに困っている。反対に、私は頭痛薬を飲んだ記憶がない。
妻の便秘も相当なもので、下剤、浣腸、坐薬など、いろいろの手段を駆使しているようだが、これも結婚以来続いている。私は便秘で悩んだことはない。
修正(2012/11/11)
最近、私は毎日快便とは言えなくなった。2007年に前立腺の手術を受けたあとからのように思う。排便を意識してしまい、それが快便を妨げているのかもしれない。とは言っても、妻とはまったく比較にならないのだが、、、
私の家系は短命である。私が11歳の年に妹が、29歳で母が亡くなった。父はもう少し遅いが、それでも、私が46歳の年に、71歳で亡くなっている。残っているのは、8歳下の弟だけだ。反対に、妻の家系は長命で、妻は今年還暦を迎えるが、義父94歳、義母89歳、未だ肉親の死を経験していない。その違いが、性格や考え方、生き方に大きく影響していることを常に思う。
以上、妻と私の大きな違いを数え上げてみた。この違いは両極端で、正規分布曲線の右端5%と左端5%くらいの違いがある。そして、この傾向は、結婚35年間で、どちらからも歩み寄ることがなかったが、反発して余計に差が広がるのでもなかった。このことから、気質や性格というものは、環境の影響を受け難く、滅多に変わったりしないものだということを悟ったのである。
私の人生で、一番良かったことは結婚だと先に書いた。その理由の一つが、この世に、自分と気質や性格が全く正反対の人間がいることを知り、その人間を驚きながら楽しく観察できたことだった。人さまざまだから、人間は面白いので、これが全く同じ気質や性格のものだったとしたら、退屈だったり、あるいは自己嫌悪に陥ったりで、結婚は破綻していたかもしれない。
追加フレーズ(2008/11/11)
飲食についても、妻と私では好みが正反対なものがある。その最大なものは朝食で、結婚以来、私はうどんか蕎麦、妻はパン食だ。これが43年もの間続いたのだから、お互いに頑固である。共通点は、炊きたて、少し固めのご飯を最高に美味いと思うことで、夕食はほとんど毎回米飯で終わるのが習慣になっている。
以上、正反対である私たち夫婦の気質、性格を数え上げてみた。これほど違いが正反対であると、お互いに呆れてしまって、それぞれの違いを認めざるを得なくなる。また、これらの項目についての性格の不一致は、むしろ、良い方向に作用するのかも知れないという気もしてくるのだから面白い。
しかし、私たち夫婦は不一致点に負けないくらい、多くの共通点を持っている。それを思いつくままに書いてみると、せっかち、気短か、いらち、早食い、理屈より直感優先、シンプル好き、捨てるのが好き、あっさり好き、人に対する好き嫌いが似ている、精神年齢が似ている、ファッションやインテリア、エクステリアの好みやセンスが似ている、文章やことばのセンスが似ている、などが次々思い浮かぶ。これらの共通点は、95%の確率で一致するだろう。
もしも、これらの項目が正反対ならどうだろうかと考えてみて、それは困る、それでは、うまくやっていけないと直感的に思った。そこから考えを進めると、私たち夫婦は、どちらでも良い項目では正反対であり、反対では困る項目では非常に良く一致していると言う結論になる。まさに「我が家の芝生は青いと思う」性格まる出しの考え方だと、我ながら苦笑せざるを得ない。
妻に良かれと思ってしたことで、「そんなことなんかして欲しくないのに!」と無茶苦茶に叱られることがある。それはほとんど共通点、反対点に関係ないことがらの場合である。共通点に関係することではもちろんのこと、正反対な点でも、自分の反対を考えれば良いのだから、お互いのことがよく分かるわけだ。
人間を単純に頭が良いと、普通と、頭が悪いの3段階に分け、性格も良い、普通、悪いに分けた場合、最も望ましいのは頭が良くて性格も良い人間かもしれないが、反対に最も望ましくないのは、頭が良くて性格の悪い人間であると、私は昔から固く信じている。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、性格が良いとか、人間性が優れているなどということは、誰がどのような基準で評価し得るのかという問題である。観念的には性格が良いとか悪いとかは言えるが、実際には、それほど簡単に人間性を評価し得るものでない。
いつの世でも、どのような世界にも不合理はあり、不満を感じることも多い。しかし、時代が悪い、世間が悪い、制度が悪いと、文句ばかり言う人間を私は好まない。不合理を怒り、それを改めようと努めることは望ましいことだが、自分の努力をしないことの言い訳として、免罪符のように、それらの不合理を声高に叫ぶ人間を私は好きになれないのだ。
何かにつけ文句を言い、感謝することをしない人が稀にいる。このタイプの人は、良いこと、良くなったことには目を向けず、新たに次々と不満を見つけ出していく。考えてみると、哀れな生き方だと思う。
20年ばかり前に、「くれない族」ということばが流行ったことがある。先生がうまく教えてくれないから成績が悪いのだと、自分の努力不足を棚に上げ、他人のせいにしたり、夫がかまってくれないから浮気をするとか、自分の行為を正当化する風潮を指していた。
「文句垂れ」が攻撃的で、男女を問わず見られるのに対して、「くれない人間」は受動的であり、女性に多いような気がする。成人した子どもを持つ母親でありながら、親が自分をかまってくれないと他人に訴えるのを耳にすると、腹立たしくも哀れに思う。案外、このタイプの女性が世の中にいるものだ。
相手を思っての毒舌ではなく、けなすことで笑いをとろうとするタイプの人もいる。結婚式の披露宴などでこれをやられると、苦笑を通り越してしらけてしまい、腹立たしくなる。最近は、お笑いタレントでも、たけしのような出演者の欠点をあげつらい痛めつけることで、笑いをとるタイプの芸人が増えてきたが、私は嫌いだ。
内科で開業して30年近くなり、小児科を標榜していないのにも関わらず、かなりな数のこどもを診療してきた。こどもの診療は、面白い経験をさせてもらえて楽しかった。その一つが、こどもの持って生まれた素質は、環境や育てかたでは変わりにくいという事実を目の当たりにできたことだ。これは、2卵性双生児の兄弟数組、3卵性三つ子1組の成長を見てきた結論である。
2卵性双生児で男の子同士、女の子同士という同性のこどもの成長を何組か見てきたが、性格や体質、顔かたち、罹る病気の種類や頻度まで違うことが多かった。興味深かったのは、乳幼児のころ双子の一方が専ら病気で来院していたのが、少年期になるとそれが入れ替わり、最初のこどもは病気を滅多にしなくなったというケースで、それを母親と一緒に面白がったことがある。
その極めつきが、「泣く子、笑う子、怒る子」の3卵性の三つ子の女の子の姉妹で、1歳から診察をしてきたが、いつも泣く子は泣き、笑う子は笑い、怒る子は怒るので、それが可笑しくて何時まで続くのか興味津々だった。この姉妹は病気についてはあまり変わりはなかったが、性格はいつまでも違っていた。
4年前、彼女たちが5歳の時に、母親の許可をもらい3人の顔をデジカメでスナップ撮りして診察机上のパソコンで表示し、その画像ファイルをフロッピーに収めて差し上げた。それがお気に障ったのか、以来お越し頂いていない。だから、この興味ある症例の追跡調査は、5年間で終ってしまった。残念ではあるが、自分が播いた種だ、致し方ない。
これは、結婚をして、妻を見てきてよく思ったことだ。妻は世間の人に悪く思われないようにと、世間体を非常に気にする。それが自分だけのことなら放って置くが、私にまで及んでくると、もめてしまう。
私は、人にどう思われようとも、自分がしたいことをしたいようにする性格である。自分のすることで、世間に迷惑をかけるのは嫌だが、自分のすることが、世間から批判されたり、陰口を叩かれても構わない。それには、以下のキーフレーズが根底にあるからだと思う。
医師になった翌年、私は大学の医局から、神戸の川崎病院に出張勤務を命じられた。そこで、一人の患者から、ある開業医に対する批判を聞かされた。診療技術、診療内容に対する不満だったと思う。
それを聞いていて、私は強いショックを受けた。批判されている開業医は、以前この病院に勤めていた10年以上も先輩である。それなのに、この人は、医師になってわずか1年目の新米の私に、このような訴えをする。ということは、私個人が信頼されているのではなく、川崎病院に勤めている医師として、信頼されているだけで、このバックがなくなれば、私という存在は霧散してしまう虚像に過ぎないのだ。
この経験から、私は一つの人生訓を得た。それをひとことで言えば、「世間の半分の人から評価されれば最高である 」ということになる。病院、地位、学歴、そのた諸々の飾りものを取り除いて残った裸の個人が、50%の人から評価されるなら、それは最高の評価であると考えた。
キリストや釈迦、マホメットでさえ世界中の人間の半分の評価も得ていない。人の評価というものは、元来そういうものなのだ。凡人がそれ以上を望むのは、愚かなことと言わざるを得まい。そう思って、人の評価をあまり気にせず、できるだけ、自分のしたいように生きてきたが、そのお陰でこれまでの人生を、気楽に過ごすことができた。私はこの経験をありがたく思っている。
これは医師になって、数多の経験を重ねた後に得た教訓である。世の中には文句垂れの人間はいる。そうでなくても、今まで診療を受けてきた医師の悪口を私に告げる患者も、稀だが、確かに居た。しかし、その人たちの中で、私に診療を長く求めてきた者は一人もいなかった。
「自分に厳しいから他人にも厳しくあたるのだ」と言う人がいて、世間はなるほどと納得するようだが、私はそれは逆だと思ってきた。本当に自分に厳しいのなら、それがどれほど困難なことかを身にしみて知っているので、他人には、むしろ寛容になるのではないか、他人に厳しい言い訳として、自分に厳しいからと辻褄を合わせているが、本当は、自分には甘いのではないかと思って来た。
このフレーズも、医師になった頃から思って来たことだが、それは、自分に厳しくないのに、他人には厳しいという人を知る機会が、社会人になって増えたたせいだろう。
このことわざの意味は、額面通り「盗みは悪いことには変わりはないが、当人にもそれなりの言い分がある」と理解していた。ところが、このことばの出典を調べていて、この諺の解釈を、「筋の通らぬことにも、無理な理屈をつけようと思えばつけられることをいう」とするものばかりであるのを知って愕然とした。それでは、私の解釈と正反対ではないか! その解釈は、弱者を嘲笑う強者の論理であり、自分が正義と思っている側の論理である。
息子は、高校1年時代に、猛烈な反抗時代を過ごした。それは、主に学校への反抗ではあったが、それを諌める私たち両親への反抗でもあった。親子で話し合い、言い争い、決裂することを何回もくり返した。そのようなことが1年近く続いたと思う。その間いろいろ本を読んだり、考えたり、話し合いをしたり、trial and error をくり返したが、その間に悟ったことの一つがこのことばだった。
それまでは、こちらの立場で物を言い、息子の言い分をほとんど聞こうとはしなかった。しかし、盗人にさえ三分の理があるとするなら、普通の子である息子には、五分も八分も理由があるに違いないということが、実感として分かった。このことを悟るまで、1年近くかかったが、これは大きな収穫だった。
この他に、この時期に体得したことが二つある。一つは次に述べる「詰問面罵の効果(北風と太陽)」であり、もう一つは先に書いた絶対的受容である。
世界各地で起きている宗教対立や民族抗争は、それぞれが、自分たちの正義の論理で解決を図ろうとするために必然的に起こる現象であり、弱者を完全に征服し、抹殺することによってのみ解決が可能という強者の論理である。そのようなことがあり得るはずはなく、行き着くところは、人間と言う種の滅亡の可能性すら考えられる。
これはイソップ物語に出て来る有名な寓話で、力ずくで押さえつけて説得するよりも、やさしさ、おもいやり、同情の方が効果があるという経験則である。息子の反抗時代に、試行錯誤で得た結論は、詰問面罵の北風は逆効果でしかなく、暖かく受け入れる太陽の方が、結局は効果があるということだった。
人間関係を良好にする要点は、「人の身になってみる」ことだと思う。自分という立場だけでなく、他人の立場で客観的に見ることが一番間違いが少なく、良い人間関係作りに成功する秘訣だと考えてきた。その具体例を次に挙げる。
野村医院では83年より、職員養成のため「野村医院勤務マニュアル」を作って来たが、その最初に医院勤務の基本を載せ、その第一として「患者さんの身になる」を掲げている。その最初の部分だけを抜粋する。
病人は、身体が病んでいるばかりではなく、程度の差はあっても、多かれ少なかれ心も病んでいる。だから、自分が、あるいは自分の家族が、患者である場合を考えて、患者さんに接していくのが医院勤務の基本であり、出発点である。自分が患者なら、自分の家族が患者なら、こんなにして欲しい、こんなことはして欲しくないと考えてみることである。
このことから、1)患者さんに優しく親切にする、2)患者さんに分かりやすく説明する、3)患者さんが待っている間の精神的肉体的苦痛をできるだけ少なくする、ということの大切さが分かる筈だ。
補足(2008/11/11)
「人の身になる」ことは実際にはできることではない。自分が望まないことが、相手の望むことであったり、自分の望むことが、相手の望まないことである場合もあり得る。だから、相手の気持ちと違っていることが分かったときには、直ちに撤回し、謝った上で、善後策を講じる必要がある。
私のように、人と違う生き方の多い人間は、とくにその危険が大きい。それでも、公共の場で働く場合には、「人の身になってみる」ことが大切だと思う。
「人の身になる」と言っても、必ずしも他人になれるものではないのは当然である。「挫折の経験の無いものは他人の気持が分らない」ということばは、30数年前、私の弟が大学受験に失敗を重ねていたころ、彼から言われて、以来私の心の中の深いところに、留まり続けて来た。
確かに、私には挫折の経験はないかもしれない。しかし、そのために他人の気持は分からないのだろうか、また、挫折の経験のあるものでも、他人の気持が分からないこともあるのではなかろうか? 未だによく分からずにいる。
この「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」ということわざを始めて知ったのは、国民学校(今の小学校)に入学して間もなくだったと思う。修身の時間に習ったのではなかろうか。なぜか、このことわざだけはいつも頭の片隅に残ってきた。目に見える表現が印象深かったのか、こどもの頃は優等生だったので、一生懸命に覚えようとしたせいなのか?
そして、このことわざを強く意識するようになったのが、上に書いた弟のことばを聞かされてからである。その頃、私は医師になって2〜3年目で、自信がつき、病院内を肩で風切るように歩いていたのかもしれない。そこを、弟にガツンとやられたので参ってしまったのだろう。
ちょうどその頃、TVで「拳銃無宿」という西部劇が放映されていて、私はこれが好きでよく観ていた。「Wanted Dead or Alive」。その冒頭シーンで、毎回「賞金稼ぎ」ジョッシュ・ランダルを演ずるスティーブ・マックイーンが、肩を落とし、頭を垂れ、憂いを帯びた表情で登場する。そして、気がついたら、このスタイルを真似るようになっていた。自分で傲慢になりかけたなと思った時に、この諺が頭に浮かび、自然と「拳銃無宿」スタイルをとる習慣ができてしまったようだ。
他人に何かを行う場合、「その人の身になって行う」つまり、相手が望むことを行って、相手が望まないことを行わないということができれば、言うことはない。
しかし、相手が望むこと、望まぬことを把握することは難しい。そこで、このキーフレ−ズ「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」が活きてくる。自分がして欲しくないことはよく分かるから、それをしないということなら誰にでもできるのだ。もちろん、自分のして欲しくないことが、相手にとってはして欲しいことであるかも分からないが、それは致し方ない。この点では、私はマイナス思考をとる。経験的には、自分がして欲しくないことと、相手がして欲しくないこととの合致する場合が、80%くらいはあると思っている。
その実例として野村医院での対応を使って説明をする。
1)待たされるのが嫌い
→患者さんの待ち時間をできるだけ短くする。
開業当初より、緊急時を除いて、これを最優先事項とし、迅速な事務処理ができるように、合理化省力化を行ってきた。
その結果、診察を終えた患者さんが投薬を受け、会計計算を済まして診療所を出るまでの時間は平均3分以内、インフルエンザが流行っているときや、連休明けなどで患者さんが多い場合には、平均2分以内である。
2)どれだけ待つのか分からないのが嫌い
→患者さんの待ち時間の見当がつけられるようにする。
開業当初より、診察番号札をお渡しして、診察患者さんをマイクでお呼びする際に「○○番、○○さん、お入り下さい」と患者さんをお呼びして入室してもらい、順番の見当がつくようにしてきた。
そして、開業5年目からは待合室に「診察番号」デジタル表示装置を置き、診察患者さんをマイクでお呼びする際に、同時に、その診察番号を表示している。これを見ることにより、待ち時間の見当がよりつきやすくしている。
3)間違えられるのが嫌い
→患者さんの診察の順番、投薬内容や計算を間違えない工夫と努力をする。
診察の順番は、番号札を使っているので、間違うことは稀である。投薬については、薬剤の分類別配置、カラーコントロールのほかにもいろいろ工夫し、また、二重チェックで誤りを少なくするようにしてきた。計算については、開業1年目よ、りレセプトコンピュータを導入し、窓口計算をすべてコンピュータで行うことで計算ミスを少なくしてきた。
4)暗くて汚い場所は嫌い
→待合室、診察室などを明るく清潔にする。
医院設計の段階から、天井を高くして窓を大きくとり、天井と壁を白にして、毎日清掃するほか、3ヶ月に1回の割合で清掃専門業者に清掃をお願いしてきた。
5)ごちゃごちゃした配置や飾りは嫌い
→配置や飾りをシンプルにする。
これは私や妻の趣味で、なるだけシンプルで、機能的な配置や飾りにしてきた。
6)強制的に聞かされるのは嫌い
→テレビやBGMなどを設置しない。
見たくないものは、目を外らすなり目をつぶれば何とかなるが、聞きたくないものは、耳は塞ぐことができないため、強制的に聞かされることになる。そこで、テレビ、ラジオ、有線放送などは設置していない。
7)横柄な態度で応じられるのは嫌い
→自分を含め、横柄にならないような職員教育を行ってきた。
患者さんは一般には医院勤務者よりも弱い立場にある。弱い立場の人に長く接していると、自分に力があるとか、偉いのだと錯覚してしまいやすい。このことを絶えず反省して欲しい。医療というものは施しではなく、サービスであることを心に刻んでおいて欲しいと、マニュアルに書いてきた。
8)分かり難い話は嫌い
→できるだけ分かりやすい説明になるように工夫する。
その具体例として、マニュアルに書いてきたことは、
○ことばを出し惜しまない
長々とくどい話には閉口するが、短すぎる話も困りものである。特に聞かされるのが患者さんの場合には、聞きたいことも聞けず、わけが分からなかったり、誤解してしまうことにもなりかねない。患者さんは一般に医療従事者よりも弱い立場にあることが多いことを絶えず念頭に置いておくこと。
たとえ、二言、三言つけ加えるだけでも、話が分かりやすくなったり、感じがよくなることが多いのだから、ことばを出し惜しみしないように注意しよう。
○説明は具体的に
説明イコール納得ではない。相手が納得できるように説明しなければ、時間の無駄に終わってしまう。相手に納得してもらう良い方法の一つは、できるだけ具体的に説明することである。
例えば、実際に薬を見せて説明するとか、一回分の薬を小さな袋に入れて説明するとか、瓶に分かりやすい目印を付けて説明するなどのように、手間を惜しまぬことである。「百聞は一見に如かず」とか、「見て分からん者は聞いても分からん」ということわざのように、先ずは視覚に訴えて理解してもらうのが早道と言えよう。
○分かりやすいことばで
医療関係のことばは、難解なものが多いので、患者が分かりやすいことばに言い換えて説明をする必要がしばしばある。しかし、分かりやすいことばで簡潔に説明をするというのは、なかなか難しい。だから、分かりやすいことばで説明するということを、何時も心がけていて欲しい。
私は、少なくとも医師になってから、その方針でこれまでやってきたつもりだ。やさしいことを難しいことばで説明するようなことは、もってのほかである。
9)ミスを認めないのは嫌い
→ミスは起こり得るものとして対応する。
薬の量とか、種類が違っていたと患者さんに指摘されたなら、よほどハッキリした確証がないかぎり、患者さんの云われることを正しいと判断し、丁寧に謝り、訂正すること。(以上、7)〜9)は野村医院勤務マニュアルより)
10)命令されるのが嫌い
→決めるのは患者さん
医師は得られた情報をできるだけ多く、正確に、分かりやすく患者さんに伝え、同時に、医師としてのアドバイスをする必要がある。しかし、そのアドバイスを受け入れるかどうかを決めるのは患者さん自身であって、医師ではない。それが問題になることが多いのは、患者さんを紹介する場合で、紹介先病院の提示はするが、その選択は患者さんにまかせている。
自分が人にしてもらいたいことと、相手がしてもらいたいこととが一致して、それを行ったのであれば、それに勝るものはない。しかし、一般には両者が合致する確率はかなり低いと経験的に言える。世の中の平均的な考え方や好みとは違う人、いわゆる個性の強い人の場合、その確率が一層低くなるのは当然であろう。
してもらいたくないことをされて、それをした本人は、良いことをした思っている場合が最悪である。こういう自分本位のプラス思考は願い下げだ。
だから、この「人にしてもらいたいと思うことをその通りしてやりなさい」というキーフレーズは不完全で、前提条件として「相手もしてもらいたいと思うことが分かっている、または、高い確率でその可能性があると思われる」ことが無ければ、むしろ行うべきではないと私は思っている。されるより、されない方がましである。
「本人は自分で良いことをしてあげているつもりだが、相手にとっては迷惑この上ない行為」を表すキーワードとして、義弟は「善意の押しつけ」ということばで表現したが、名言だと思う。
婉曲的にだけでなく、断定的に、いくら断っても、「そんなはずはない、口でそう言っているだけだ」と押し付けてくる人を身近に知っているので、このキーワードがしばしば頭に浮かぶ。
30年以上前に、私たち夫婦は、妻の一番下の弟を、近くのレストラン「くらわんか」に招き、成人を祝ったことがあった。2〜3日経って、彼から葉書が届いた。そこには拙い文字で、「いくら心で思っていても、黙っていては、それは相手に通じません。思っていないのと同じことになります。」と感謝の気持が書かれていた。
これを読んで私は衝撃を受けた。義弟は13歳年下である。20歳になる若者に大切なことを教えられたのだ。以来、この「思っているだけでは感謝にならない」という彼のことばは、私の心の中で生き続けている。
これは、2001年秋に医師会旅行で永平寺に行ったとき、道元禅師のメッセージとして、英文と一緒に掲示されていたことばである。「知る」ということ、と「わかる」ということとはちがう。知っていても実行されなければ、わかったことにならない。「Without Practice, No Emergence.」。
これを読んだ瞬間、義弟のことばが頭に浮かんだ。そして、大切なことを彼から学んだことを知った。
話のうまい人は、人の話を聞くのもうまいものである、というのは間違いが少ないだろう。その点では、私はおしゃべりであっても話上手でなく、聞き上手などではさらさらない。しかし、自戒のことばとして心に残っている。
聞き上手になるには、人が話しているときは、「驚く、同意する、賛嘆する、うなずく、疑問を発する」という「お父さんウナギ」を心がけたら良いと、何かの本で読んで、なるほどと思ってメモをとっていた。
しかし、結局はそのような小手先の技術は無用で、本当に相手の話を聞こうという気があれば、自然とそのような類のことばが出て来るものだろうと今は思っている。
話上手は決して多弁というわけでない。よく思うのだが、世の中には絶えずしゃべりまくっている人がいる。中には立て板に水でなく、立て板に洪水のようにしゃべる人もいる。こういう人を見ていると、「しゃべることが多く、考えることが少ない」人と思ってしまう。
この「敬語が使えないのは家庭の問題」ということばを、大学の医局で1年先輩の佐谷先生から聞いた。私たちの所属する研究室で働いていた秘書について尋ねられたときに「良い性格で、仕事もよくできるが、敬語が使えない」と答えたときのコメントがこれだった。彼女は万博のコンパニオンを務めた才色兼備の女性だったが、敬語が駄目だった。
それ以来、敬語のことが気になり注意するようになった。敬語をTPOに応じて正しく使うことは確かに難しい。敬語は学校で身に付くものではなく、家庭で時間をかけて覚えていくもの、教養のバロメターかもしれない。
戦後の一時期、日本の敬語は複雑で封建制に結びついている、欧米には複雑な敬語はないとして、排斥されたことがあった。その影響が、敬語の使える人を少なくしたのかもしれない。しかし、敬語によって人間関係の微妙な表現ができるということは、一つの誇るべき文化ではないだろうか。
「野村医院勤務マニュアル」の第2章を「医院勤務者のことばづかい」に当て、その中に、職員のための敬語の使い方の項を設け、丁寧語を中心にした「あっさりした敬語」を推奨している。
私は野村医院開院以来、中学生以上の患者さんには敬語を使ってきたが、患者さんの中には、私が敬語で話しても、ぞんざいなことばでしか、会話ができない人がたまにいる。開業したてのころは、そのような人に反発を感じていたが、間もなく、そのような人は実際に敬語が使えないのだということが分かり、気の毒に思うようになった。確かに敬語は家庭、育ち、教養の問題である。
物は言いようで、相手に対して不快感を与えたり、感情を害したりすることがあるから気をつけよ、という意味のことわざである。これも自戒のためのことばだが、直截にしゃべってしまう習癖は、未だ改まっていない。
ことばには論理的な意味だけでなく感情的評価も含まれることがある。例えば、大きい目を、パッチリした目ともドングリ目やギョロ目というとか、まじめと石頭、独創的と偏屈というように、感情的評価を含ませることができる。
喧嘩を売るつもりでなく、会話を実りあるものにするには、否定的な評価を含んだことばをさけ、むしろ、肯定的な感情的評価を含むことばを使うことが望ましい。ただし、肯定がオーバー過ぎるとオベンチャラになる。
人間は感情の動物である。理屈で分かっていても気持が納得できないということは良くあることだ。歌の文句にあるように、「分かっちゃいるけど止められない」こともある。いくら、理路整然と正論を並べたてたとしても、分かってもらえない場合もあるのだ。
だから、相手に納得してもらうおうと思ったら、感情的にも受け入れてもらえるように話さなければならない。09<人間関係> 6. 北風と太陽(イソップ物語)もその一つである。
ことばは、コミュニケーション・ツールとして一番重要ではあるが、手段の一つであることに変わりはない。手紙やメールなど、文字だけで充分なコミュニケーションが可能な場合もあるが、音声の加わった電話の方が、より有用なこともある。電話では声の表情のほかに、ことばのない無言という状態でさえも、コミュニケーションに役立つことがある。会って会話をすれば、それに、身体の表情やしぐさなど、いわゆるボディー・ランゲージまで加わるのだから、コミュニケーションの実効は上がる。
恋愛、謝罪、和解のような大事なことは、会って話す方が手紙やメール、電話とか他人に依頼するよりも解決の成功率が高い。それはボディー・ランゲージを援軍につけるのだから、当然であろう。
医学部の専門課程に進学した頃、私は恋をした。週に2〜3回手紙を交わすことが1年以上続いたが、最後は喧嘩別れをしてしまった。その原因の一つが、手紙の上での論争だったように思う。文字だけのコミュニケーションが良い方に作用する場合もあるが、いったんこじれ出すと、実態を離れ、とめどなくエスカレートすることを体験した。だから「大事なことは会って話すに限る」と思うのだ。
話せば分かるというような場合もあるが、話しても分からないこともしばしばある。しかし、話さなければ分からないことには、違いないだろう。
直接会っての会話が、手紙やメール、電話などよりもコミュニケーションに有利なのは、「ボディー・ランゲージ」を交わすことができるからで、表情しぐさなどの身体の動作もまた、ことばに劣らず多くの情報を発信している。身体の中でも、特に顔からの情報量は多く、その中でも、目に関係する情報は重要で、確かに「目は口ほどにものを言い」である。
1〜2歳の乳幼児の多くは、はじめての診察の時には、穴があくほどじっと私の目を見つめ続ける。そのとき私も微笑みながら見つめ返していると、納得したような表情になり、視線を外すことが多く、それが、何ともいえないほど楽しい。
この経験から、視線を合わすという行為が、コミュニケーションのいちばん基本的なものであり、会話をするときに目を合わせることが大切であることを学んだ。
医療の現場では、目を合わせるだけでなく、目線の高さも重要である。医療関係者と患者さんと関係は、もともと強者弱者の関係になる可能性がある。その上に、見下ろす視線が加わると、対等の立場での会話ができ難くなるかもしれない。
そう思って、私は自分の座る椅子を最低に下げ、患者さん用の椅子はそれより10cm高くしているが、胴長な私は、これで目線が同じ程度になっている。
返事は顔を見て
対話は顔を見て行うのが原則である。外人のように、じっと相手の目を見つめて話すことを日本人は好まないかも知れない。しかし、全く相手を見ないで返事をするのは、相手を軽視していることになる。いくら忙しくても、わずかの時間でよいから、相手の目を見て返事をするように気をつけよう。(野村医院勤務マニュアルより)
ことばづかいが良くても、そのことばに微笑みがなければ、冷たいとかいんぎん無礼と、相手は感じるかもしれない。「ことばに微笑みを」と言ったが、これは笑顔から出ることばの特徴である。
相手を思う気持ち、相手を大切に思う心がなければ、敬語は逆効果をもたらすことがある。自分が今話していることばに微笑みがあるかどうか、ときどき、自分で確かめてみるのが良いと思う。(野村医院勤務マニュアルより)
笑顔は人間だけに与えられた特権である。人は嬉しいから笑うが、逆に笑うから嬉しくなることもあるだろう。
私の好きな歌の一つに、「スマイル」という曲がある。その詩は、「心が痛んでも微笑みなさい」で始まり、「涙がこぼれそうな時こそ、ほほえむ努力をしなさい。そうすれば、人生の希望が見つかるでしょう」で終わる。いいことばだと思う。
たとえ、嬉しくなくても、自分で笑顔を作ってみると、不思議に心が和んで来るものである。そうすると、自然とことばに微笑みが加わり、周りの人に微笑みを伝えることになる。時には、鏡に向かって微笑んでみるのも悪くはないと思うが如何?(野村医院勤務マニュアルより)
私は争いを好まない。少なくとも成人になってからは、大きな争いは経験していないと思う。しかし、肉体的、精神的に自分に危害が及んできた場合は、逃げることなく積極的に対抗する行動をとるだろう。血気にはやることなく、冷静に戦略を立てて、ことに当たるつもりだ。
先の場合と違って、面倒なことや、しんどいことを引き受けなければならないめぐり合わせになった場合、それに応じることが多かった気がする。そのときの自分への掛け声が、「受けて立つ、敵に後ろを見せない」だった。ちょっと浪花節的だが、それが性分だから致し方ない。
いったん何かを始めたら、いくらしんどくても、最後までなんとかやろうとしてきた。その時の自分への掛け声が、「ここで投げたら男がすたる」なので、これまた浪花節だと苦笑している。
激しい腹痛とか、短時間の苦痛の最中に発することばが、「くそー!」「くそー!負けへんぞ!」である。これが案外ご利益があるのだ。それにしても、「くそー!」とか「くそったれめ!」「くその足しにもならん!」とか、私の口からでることばの、なんとお下劣なことよ!
この格言は、「彼も人間なら私も人間である。同じ人間なら、他人のできることは、自分にもできないことはない」と、自らを励ます掛け声である。
これも特定の競争相手ではなく、同じことをしている人を想定して、精神的肉体的に参りかけたとき、頑張れ!という自分への掛け声である。
この、「皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れ」ということばを、私は戦争中に知った。日本の敗色が濃くなってから、余計に、このことばが世間で使われたように思う。小学校4年から中学2年までは、よく取っ組み合いの喧嘩をしてきた。相手は、同じ年なら自分より強い者、それよりもよく喧嘩をした相手は、1〜2歳年上だった。
そのような時、このことわざは非常に有効だった。こちらが被害を受けるのは承知で、できれば、それ以上の打撃を与えてやろう、それがだめなら相討ち、それも駄目なら少しでもダメージを与えてやろう、というつもりで闘うのだから、相手はたじたじになる。お互いの服はぼろぼろに破れ、ボタンは全部吹っ飛んでしまっていることもよくあった。今ごろ、このような喧嘩をすれば殺されるかもしれないが、当時は、刃物を使うとか卑怯な真似をすることは恥ずべきことだとする暗黙の了解があった。
もう、これから先、喧嘩をすることもないとは思うが、このことわざは、喧嘩の極意だと思っている。
小さな頃の私は泣き虫だった。それが喧嘩強くなったのは、縁故疎開で、一人淡路島で過ごした時のつらい体験のせいだと思っている。神戸の親の許へ帰ってからは、負けん気の強い子に変わっていた。
追加フレーズ(2008/11/11)
「闘争」などという物騒な項目を作り、7つものフレーズを書いてしまった。たしかに、私は小学4年から中学2年まではよく喧嘩をした。しかし、それから後は喧嘩をした記憶がない。それでも、幼い頃に学んだことが、今も心に残っているということだろう。このことが、「闘争」に対する自信につながっているのかもしれない。
中学2年の時に、理由は忘れたが、あるクラスメートを撲った。それに対して、彼は撲り返すことをせず、「学級委員長が撲っていいんか!」と大声で詰め寄ってきた。その時、なぜか非常に恥ずかくなり、彼に謝った。これがいつものような撲り合い、取っ組み合いになっていたら、まだしばらくは喧嘩好きが続いていたかもしれない。これで以て、私の喧嘩の時代は終わった。
喧嘩好きだったと書いたが、口喧嘩は一度もしたことがない。大声を出して怒鳴りあうというのは、最も嫌いなことだったし、今もそうである。弱い犬ほどよく吠える、チンピラほど大声で脅す、というのは真理であろう。
思春期の頃からだと思うが、自分の性格について嫌な点が非常に気になり、それを人に見せないよう気を使い、欠点を変えようと努めたりしながら、悶々としていた。それが、欠点も見方によれば長所になるし、長所も場合によれば欠点となる。それなら、あるがままに見せよう、人にどう思われても良いじゃないか、と考えるようになったのだ。
そう思うようになったのは、医学部専門課程の2年、22歳だったと思う。突然、「人にどう思われても良い、あるがままに見せよう」という考えが頭に閃いた。その時の情景を、今も頭に浮かべることができる。
当時、大阪駅は3階建ての建物で、大阪駅前の道路や大阪駅と阪急百貨店との間の道路にはレールが敷かれ、市電が走っていた。大学からの帰り道、大阪駅と阪急百貨店の間の道路を渡りながら、ふと振り返ると、うしろにある大阪中央郵便局の建物の上空が、黄金色に染まって見えた。その瞬間、「あるがままに生きる」ことを悟った。そのとき、右肩によれよれのレインコートをかけていた。私の心は、急速に未経験の幸福感で充満された。あとになって、こういう体験を天啓というのかと思ったりもした。
今、考えてみると、その頃は、「生きる意味」について人生で一番悩み、考えた時期だった。そして、自分なりの納得できる結論を得た時期でもあった。いろいろと絶えず考えてきたから、「あるがままに生きる」ということばが突然閃いたのであろう。それを天啓などと思うのは、まことに、おめでたい性格である。
補足(2008/11/11)
この「あるがままに見せよう」と覚った時から、私は生気を得て、存分に生きることができるようになった気がする。その頃から なるようになる、「なるがままに生きる」という生き方をするようになった。
今、ふり返ってみて、人には「あるがまま」、運命には「なるがまま」というのが、私の生き方の特徴的な部分であるのかも知れない。どちらも、求めず、受容するという点で共通している。これによって、ストレスが少なくなり、生きやすくなったのは確かである。やはり、あれは天啓であったのだと、今にして思う。
八方破れとは、東西南北、北西、南西、北東、南東の八方向どの方向からみても、すき間だらけで、備えがどこにもないこと、それから転じて、相手から見て、どこからでもつけ入るすきがあることと辞書には書いてある。これに構えをつけた「八方破れの構え」が剣道の構えにあるのだと思ってきた。剣道を知らないが、色々な構えがあることは時代劇を観ていると良く分かる。その中で、すきだらけのように見えるが、いざ勝負となると滅法強い変則の構えのことを「八方破れの構え」と思いこんで来た。今調べてみると、剣道の構えの中の「八相」というのが、この「八方破れの構え」に当たるようだ。
私が、恩師曲直部壽夫先生から学び、いくらか、自分の身につけることができたと思えることの一つが、この「八方破れの構え」である。これは、私が勝手にそう呼んでいるだけであり、スマートに言えば「自然体」というのがこれに近い表現だと思う。先生の偉大さの根源の一つがここにあると思ってきた。あるがままの自分を見せ、あるがままに行動する、自分の欠点や失敗を隠したり、取り繕うことをしないということは、自分に対する強い自信と信頼がなければできないことである。
道路を横断していて、「あるがままに見せよう」と突然悟ったのは医学部の学生のころだった。それがあったので、医師になってから、曲直部先生の「八方破れの構え」に強く惹かれ、それを具現する先生の存在によって、「あるがままに見せる」生き方をいくらか身に付けることができたのだと思っている。曲直部先生への追悼文曲直部先生に学んだことで、第1にこの「八方破れの構え」を書いた。
「なるだけ嘘はつかない」というのは当たり前のことだが、私はこれを道徳的な意味ではなく、実利的な意味で言っている。一つ嘘をつけば、それに合わせるために次々と嘘をついていかなければならないが、そのために費やすエネルギーは膨大になる。そのような膨大なエネルギーを使って、嘘をばれないように並べたとしても、破綻が生じバレてしまうかもしれない。
よほど記憶力の優れた者でなければ、嘘のすべてを記憶し続けることは不可能である。反対に嘘をつかれた側では、おかしい、変だと思った嘘だけは、強く記憶に残りやすい。だから、まさかと思うような嘘は、その後、何かの機会で簡単に見破られてしまう。ところが、バレていることに本人が気付かず、バレている嘘を続けることがある。
指摘するほどの嘘でもなく、指摘する気もないが、なんとも言えぬ寂しさを感じ、そのようなことが二度三度と続くと、その人に対する信頼感は失せてしまう。
私のように記憶力が貧弱で、ドジやヘマをくり返す人間が、嘘などをつけば、普通より早い段階でバレてしまうのは必定、それにもかかわらず、費やしたエネルギーと時間は大きいのだから割が合わない。だから、道徳的な意味ではなく、実利的な意味で、「なるだけ嘘はつかない」ようにしているが、ストレスを減らす効果がある。
尋ねられていないことを言わないのは、理屈の上では嘘をついていることにはならないが、消極的な嘘になる場合があり、これを「言わない嘘」という。こちらの嘘は、エネルギーも時間も費やすことはほとんどない。
私は1962年春に医師となった。今年で臨床医として40年間生きてきたことになる。その間に得た一番大きな仮説は、「ストレスは病気の大きな原因となる」である。つまり、すべての病気の発病、病状経過に対して、ストレスは多かれ少なかれ関与しているということだ。昔から「病は気から」ということわざがあった。この気をストレスと置き換えてみると、このことわざはある意味で正しいと思う。
ストレスとは何かとか、病気にどのように関係しているのかということを書くのはこの文の趣旨から外れるので、いずれ機会をみてまとめておこうと思う。ここでは、ストレスが原因として大きな比重を占める病気があること、病気の経過に対するストレスの影響が非常に大きい場合もあること、ストレスに対する個体差も大きいことなどを挙げるに留めておく。
最近になって、医学的にもストレスの影響が研究され始めているが、医学の主流から遠く離れていて、その成果が医療の現場で取り入れられていることはほとんどない。
同じストレスであっても、その影響の受け方には個体差があり、それは素質、経験などが関係している。ストレスへの対処法についても、それぞれ個人別に違いもあるが、ほとんど誰にも共通して有効なのは、誰かに悩み、不満、不安を話し、相談することである。
これも、ほとんど誰にも有効なストレス対処法で、そのためには軽い抗不安薬(安定剤)の助けを借りることも悪くはない。考え詰めることは悪循環の基になる。思い切って充分な睡眠をとり、気晴らしになること楽しくなることをしてみることだ。
ものごとを良い方に考え、逃げることをせず、積極的に立ち向かおうとすることは有効であるが、これはその人の性格が大いに関係していて、必ずしも誰にでもできることではない。しかし、悪い方に考え、現実から逃避することは、ストレスへの対処法としては逆効果になりやすい。
笑いはストレス対処法として、ほとんど誰にとっても有効である。人間には嬉しいから、楽しいから笑うだけでなく、笑うから嬉しくなったり楽しくなったりする不思議な作用がある。たとえ、嬉しくなくても、自分で笑顔を作ってみると自然と心が和んでくる。
この「心が痛む時にもほほえみを Smile though your heart is aching」は、10<会話>11. 笑顔を作ろう でも書いたが、これはチャップリンが映画「モダン・タイムズ」のテーマ曲として自作した歌で、初めて聴いたのは高校3年の受験勉強中だった。曲も良いが、歌詞がすばらしく、それ以来の愛唱歌となっている。
私は野村医院の職員に「ことばにも微笑み」を求めてきたが、その時よくこの歌のことを話した。微笑みは、ものごとを良い方に向かわせる不思議な力を持っている。このことは科学的にも証明され始めている。
笑いが免疫機能を高め、痛みを和らげる物質を血液中に放出することなどが、最近の研究で明らかになってきている。「酒は百薬の長」ということわざ以上に「笑いは百薬の長」と言えるだろう。
しみじみとした幸せ、心のやすらぎを感じているとき、人は自然と、「かすかな微笑み」を顔に浮かべているものだという経験則である。
いつも和やかで笑いを絶やさない家や、いつも明るく笑顔を絶やさない人には、自然と幸福が訪れるものだ、ということわざであるが、あてはまる場合が多い。楽しい状態は良循環して、楽しい状態を呼びやすい。
このフレーズから、瞬時に二人の老人男性の顔が浮かぶ。どちらも、4〜5年前まで患者として10年近く通院されていた。一人はもと熟練工、もう一人はもと法律事務所の事務員で、年齢もほぼ一緒だった。この方たちは、どちらも寡黙だったが、いつも何とも言えない素晴らしい笑顔を見せてくれた。
カルテから、この方が来られていることが分かった途端、自然と笑みが浮かんできて、幸せな気分になるのだった。この老人男性に劣らぬほど笑顔の良い老人女性に、お目にかかかったことはない。この老人男性に匹敵できるのは、乳幼児だけで、こちらは数え切れないほどたくさんいる。
この笑顔の良い老人の一人は、心臓病で最近亡くなられ、もう一人の方は、息子さんのいる東京へ引っ越された。たとえ、他人に与えるものが何もなく、できることが何もないとしても、優しい笑顔を見せるだけで、十分に他人に幸せを与えることができるのだということを、この二人から学んだ。
追加フレーズ(2008/11/11)
医師は、危機的状況にある時でも、不安な気持ちを隠して、沈着冷静迅速に対応しなければ、患者さんの治療に悪影響を及ぼす。私は43年間医師として生きてきたので、不安を表に出さない習性が身についていると思ってきた。
追加フレーズ(2008/11/11)
私はあまり怒らない方だと思うが、不愉快なときや腹を立てているときは、表情に出るようだ。こちらは、不安ほど患者さんの治療に大きく影響はしないと思ってきたせいか、職業義務として怒りの感情を面に出さないように訓練することはしてこなかった。というか、怒りの気持ちを隠すことなどできない相談だと思ってきた。
追加フレーズ(2008/11/11)
私は、不愉快な気持ちを表情に出さないようにと努めたことはない。しかし、怒ることの少ないタイプではないかという気がする。少なくとも結婚してからは、本気で腹を立てたことがほとんどない。もちろん、何かうまく行かない時にイライラすることはよくあるが、何分もの間怒り続けることはない。
意識的に怒ることを抑えているわけでは決してないのだが、よく怒る人にとって、怒らないということは、とうてい理解できない心理らしい。腹を立てないというのは偽善者だと言われて、面食らったことがある。
腹を立てないことが善だとは、まったく思っていないので、偽善者と言われても困ってしまう。腹を立てることが悪で、立てないことが善などであるはずがなく、喜怒哀楽は性格の問題、生き方の問題である。ただ、すぐ腹を立てる人は、自分でストレスを増やしているのが損なところだろうとは思う。
なぜ、あまり怒らないのかと考えてみて、他人に期待しない、求めない、そして、しゃーないことはしゃーないとあきらめる習性が強いせいではないかと思ったりしている。
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