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ハンガリーとオーストリア オペラ鑑賞の旅

 2009.9.30.〜10.7.

2009.10.18. 掲載
2009.10.26. 修正
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目次
1.はじめに
2.ブダペスト
3.ザルツブルグとザルツカンマーグート
4.ウィーン
5.ウィーンでのオペラ鑑賞
6.まとめ


1.はじめに

小澤征爾さんの弟の幹雄さんが、飛鳥Uで講演に来られたことがご縁となり、幹雄さんが案内役をしてくださる征爾さんの海外コンサートを鑑賞するツアーに、昨年に続いて今年も参加させていただいた。昨年のツアーは、戦慄的感動の演奏や、ウィーン・ベルリン音楽の旅のタイトルで記録に残した。

今回のメンバーは、指揮者のほか新聞社や音楽関係の方がほとんどで、私たち夫婦のようなクラシックに詳しくない者は一人もいない。添乗員代わりのJTBのスタッフも、演奏会に出演されるような方で、幹雄さんと昔からお知り合いのため、いつも添乗員役を買って出てくださっているようだ。総勢11名のこじんまりしたツアーだが、バスはいずれも大型で、快適だった。

2002年に、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した小澤征爾さんのラストシーズンに入るため、クラシックに詳しくない私たちも、お誘いをありがたくお受けした次第。とは言っても、ほかの皆さまは寛容で、場違いをほとんど感じなかった。しかし、それは単に自分たちが鈍感であることを表しているのかもしれないのだが、、、

ツアーの正式の名前は「小澤幹雄さんと行く初秋のウィーン国立歌劇場とブダペストの旅」であるが、オプショナルツアーでザルツブルグにも行ったことと、ブダペストでもオペラを鑑賞したことから、タイトルを「オーストリア・ハンガリーオペラ鑑賞の旅」にした。

成田7時40分(時間厳守)の案内をもらったので、今回も成田に前泊した。だから、集合時間には充分間に合ったが、メンバー紹介の部屋で、妻はJTBのお嬢さんに、ヘヤーカーラーの赤い輪を着けていることを、そっと教えられ、慌てて外していた。ということは、30分以上これを着けたまま、成田空港を平気で歩いていたことになる。

これは、よくやることなので笑っていたら、出国の手荷物検査を終えたところで、今度は私のパスポートがない。ポケットにも、手提げ鞄にも見つからない。妻は「きっとどこかに落として来たのだ、すられたのかもしれない、どうしよう」とパニック状態となり、飛び出して行った。その時の私は、あるいは出国できなくなるかもしれないが、仕方がないか、などと考えていたように思う。

そこへ、「野村さんですね?!」と笑いながら、若いお嬢さんが手荷物検査のケースを持って、私のところへ近づいて来た。そのケースには、パスポートの他に、キー類一式と財布やベルトも載っているではないか! 手荷物検査の際に、ベルトは始めから外していたが、上着も脱ぐように言われ、予定外だったので、検査のケースが3個に増えたことを忘れ、2個と思い込んで、3個目があるのを忘れてしまっていたということだろう。

彼女は、パスポート写真にある白髪で黒眼鏡の老人の顔から、この持ち主は、野村という名前の男で、見回してみると、遠くにそれらしき老人がいることをすぐ発見したに違いない。白髪も、黒眼鏡も身元確認には極めて有効だということはよく分ったが、もしも、悪いことをした場合にも、簡単に見つけられるということになる。

このような、今まで経験したことのないドジを終えて、何ごともなかったように、ルフトハンザ機は成田空港を出発し、ハンガリーの首都ブダペストに向った。



図1.オーストリアとハンガリー

中欧とは、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの4国を指すことが多いが、オーストリアやドイツなどを含む場合もある。ハンガリーはオーストリアに隣接し、かってはオーストリア・ハンガリー二重帝国として、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴いたこともあり、似たところも少なくないようだ。



2.ブダペスト(Budapest)

ハンガリー語は、フィン・ウゴル諸語に属する言語で、フィンランド語やエストニア語と同じ仲間である。この3国以外のヨーロッパの国の言語はすべてインド・ヨーロッパ語族に属する。

ハンガリー語では、日本語と同じように、名前は姓名の順、住所表示は大きい方から小さい方へ記す。フランツ・リストはリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc)である。赤ちゃんのお尻には蒙古斑があったりして、日本人との共通点も多い。黒い頭髪の人が多く、ヨーロッパでありながら、アジア的な大地の香りがすると言われている。

面積は日本の約4分の1、人口は約1000万人、ノーベル賞受賞者は13名で、人口に対する比率では世界一である。ヨーロッパ最大の国会議事堂を持ち、ロンドンに次いで、ヨーロッパ大陸で最初に開業したブダペストの地下鉄は、最初から電化されていて、地下鉄としては世界最初の電化路線だったという。フィンランドでも思ったことだが、ヨーロッパにあるアジア系の国々の文化水準が、このように高いのは、なぜだろうか?

首都ブダペスト(Budapest)は、「ドナウの真珠」「ドナウの薔薇」などと呼ばれ、人口190万人は、ウィーンの150万人をしのぐ。街がドナウ川で二分され、王宮がある地区はブダ(Buda)地区、その反対側はペスト(Pest)地区と呼ばれている。この街に来ると、ドナウ川の存在を強く感じる。


図2.ドナウ川流域の国

昨年ウィーン郊外のドナウ川近くのホテルに泊まったが、ドナウ川は「美しく青きドナウ」ではなかった。ウィーン中心部に流れているのはドナウ運河であって、ドナウ川ではない。それを思うと、ここブダペストのドナウ川は雄大でとうとうと流れている。

調べてみると、ドナウ川はドイツに始まり、10ヶ国を通って、最後はルーマニアで黒海に入る。ボルガ川に次ぐヨーロッパ第2の川である。この川が西ヨーロッパと黒海をむすぶ重要な航路として、古くから利用されていたことがよく理解できる。

19世紀に、航行権を巡り列強諸国が対立したが、1921年のベルサイユ条約を経て、国際河川としての管理方式が確立されたとのことだ。


図3.ハンガリーの首都ブダペストの地図 赤丸は観光した場所

ブダペストでは、午前中が市内観光、午後は自由行動、夜は国立オペラ劇場で「蝶々夫人」を鑑賞した


図4.英雄広場(Hosok tere)

ここは、ハンガリー建國1000年を記念して1896年に造られたブダペスト最大の広場。アンドラーシ通り(Andrassy ut)の北東端にある。最初に観光した場所がここで、すぐにパリの「コンコルド広場」が頭に浮かんだ。規模は同じ程度に感じたが、美しさ、壮大さではこちらの方がはるかに勝っている。

中央に1000年記念碑(Millenniumi emulekum)が建ち、その頂に大天使ガブリエルの像がある。その台座には、ハンガリー人たちの祖先である、マジャル7部族の長の騎馬像が取り囲んでいる。何とも男らしい銅像だ。

広場の床は、コンコルド広場のような無味単調なコンクリートではなく、白の幾何学模様で区画され、美しく飾られている。広場の左右には、美しい西洋美術館と現代美術館が建っている。この雄大で美しい広場に、まず感動してしまった。これは、ここに来るまでに見た観光案内の写真などからは、想像もできない光景だった。


図5.西洋美術館(Szepmuveszeti Museum)

英雄広場の左手にあるこの西洋美術館も、建國1000年を記念して1896年に建設が開始され、1906年に完成した。中央正面に、8本の柱が建つギリシャ神殿風の入口を持ち、左右対称のすばらしい建物である。英雄広場の右手には、西洋美術館と向き合う位置に、よく似た形の現代美術館(Mucsanork)が建っている。


図6.リスト・フェレンツ記念博物館(Liszt Ferenc Emlekmuseum) AVCHDビデオからの切り出し

英雄広場から南西に向うアンドラーシ通りは、ブダペストのシャンゼリゼとも言われる美しい道路で、高さの統一されたさまざまな建築様式の建物が並び、シャンゼリゼよりも美しいのではないかと思った。

英雄広場からアンドラーシ通りを少し南下したところに、リスト・フェレンツ記念博物館の建物がある。ここは、かってリストが住んでいた住居を博物館としたものである。


図7.リスト・フェレンツ記念博物館の壁にあるコダーイ・ゾルターン(Kodaly Zoltan) のプロフィール

コダーイはハンガリーの代表的作曲家の一人であり、バルトークとともにハンガリー各地の民謡の収集を行なったほか、音楽教育者としても有名である。私は学生時代の2年間、男声合唱にのめりこんでいたことがあり、彼の男声合唱曲を聴いたことがある。一般にはバルトークの方が良く知られているが、ハンガリー大衆は、バルトークよりもコダーイの方を買っているようだ。


図8.壁にリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc) のプロフィルが飾られている

ハンガリー人の父を持ち、祖国をハンガリーとした作曲家リストは、大ピアニストでもあり、ハンガリー人として世界的な名声を得た最初の人物といわれている。


図9.リスト広場(Liszt Ferenc tere)に立つリストの銅像

リスト・フェレンツ記念博物館からアンドラーシ通りをさらに南下すると、大環状通りとオクトゴン(Oktogon)で直交する。大環状通りは、この地点から北西側をテレーズ通り(Terez krt.)、南東側をエルジェーベト通り(Erzsebet krt.)と呼ぶ。アンドラーシ通りの南西端はエルジェーベト広場、その近くのドナウ川に架かる橋の名がエルジェーベト橋である。ブダペストでは、このようにエルジェーベトの名があちこちで見られる。

オクトゴンからアンドラーシ通りをさらに南下すると、リスト広場があり、ここにリストの銅像が立っている。彼の手は人並みはずれて大きかったと言われているが、この銅像の右手は誇張されているのだろう。たくさんの人に触れられた青銅の指は金色に光っていた。


図10.リストの銅像の傍で

私たちもリストの銅像の傍で記念写真を撮り、その後で彼の右手にそっと触ってみたが、冷たかった。


図11.音楽アカデミー(Zeneakademia)

リスト広場の東に音楽アカデミーがある。ここは世界的にも権威のある音楽教育機関である。リストは熱列な愛国者で、晩年はハンガリーに戻り、ブダペストで祖国の音楽教育に力を注いだ。1875年に、ここブダペストの王立音楽アカデミーの初代総長になっている。この音楽院からは、バルトークやコダーイが巣立ち、指揮者のアンタール・ドラーティ、ゲオルグ・ショルティら世界的な音楽家が育った。


図12.音楽アカデミー正面の壁にあるリストの銅像

音楽アカデミーは、リスト音楽院とも呼ばれ、この建物内にあるホールは、音響のよさで定評がある。


図13.国立オペラ劇場(Magyar Allami Operahaz)

リスト広場から、アンドラーシ通りをさらに南下すると、国立オペラ劇場がある。この建物は、1873〜84年に建設された。伝統と格式を誇るヨーロッパ有数のオペラ劇場で、ネオルネッサンス様式の豪華絢爛な建物である。ハンガリー国歌作曲者のエルケル・フェレンツが設立し、その後マーラーが音楽監督を務めたこともある。


図14.国立オペラ劇場右奥にあるスフィンクス像

中学生らしい男女のグループが集まっていて、微笑ましい。


図15.国立オペラ劇場入口右側にあるリストの像


図16.国立オペラ劇場入口左側にあるエルケルの像


図17.国立オペラ劇場左奥にあるスフィンクス像

午後7時開演のオペラ「蝶々夫人」を、この歌劇場で鑑賞した。劇場内部の写真は、オペラのところで紹介する。


図18.エルジェーベト広場(Erzsebet ter)に建つ日本の姉妹都市の標識

昼食を終えてホテルに戻ったのが午後3時頃。7時のオペラ開演までには少し時間がある。ホテルからオペラ劇場までは近いので、歩いて行くことになっていた。そこで、午前中バスで訪れたオペラ劇場を、実際に歩いて確かめてみることにした。

ホテルは西駅のすぐ近くの大環状通りにある。ここからオクトゴンに出て、そこで直交するアンドラーシ通りを南下して、合わせて1000mくらい歩き、オペラ劇場に着いた。ここが余りにも近かったので、欲を出して、ブダペストで一番の繁華街だというヴァーツィ通り(Vaci utca)や、ドナウ川岸まで行ってみたくなった。というのは、オペラが終われば、翌日はウィーン行きなので、これらを見ることができないからだ。

アンドラーシ通りの南西端にあるエルジェーベト広場には、日本の姉妹都市の標識が建っていた。札幌、長野、東京、横浜、小田原、大阪、広島、福岡の8つの都市の名前が見える。今年は日本とハンガリーの外交関係開設140周年ということで、「日本・ドナウ交流年2009」として、両国の関係を深めるさまざまなイベントが行なわれている。

私たちはここから更に歩いて、ヴァレシュマルティ広場(Vorosmarty ter)を抜け、ヴァーツィ通りを横切り、ドナウ川東岸に出た。


図19.ドナウ川の向こうに見える王宮(Budavari Palota)

夜景が美しいとガイドブックに書いてあるが、残念ながらオペラ鑑賞のため、それはできない。


図20.ドナウ川に架かるくさり橋(Szechenyi Lancid)

ドナウ川を境とする西地区のブダと東地区のペストを最初に結んだくさり橋。完成は1849年


図21.ドナウ川に架かるエルジェーベト橋

1964年に再建されたシンプルでエレガントな純白の橋


図22.皇妃エルジェーベトの肖像

ブダペストには、エルジェーベト通り、エルジェーベト公園、エルジェーベト橋などとエルジェーベトの名を冠するものが多い。エルジェーベト(オーストリア名エリザーベトは、ハプスブルグ皇帝フランツ・ヨーゼフの皇妃である。オーストリアハンガリー二重帝国の時代に、ブダペストの王宮の丘にあるマーチャーシュ教会で、二人はハンガリー王としての戴冠式を行なった。

彼女はハンガリーを愛し、ハンガリーもまた彼女を愛したという。そのため、彼女の名のついた建造物がたくさん残っているのだろう。


図23.王宮の丘から眺めたドナウ川の両岸の光景


図24.王宮の丘から眺めた国会議事堂(Orszaghaz)

ヨーロッパ最大の国会議事堂は1885〜1902年に建てられた。バロックとネオゴシック様式が混在


図25.漁夫の砦(Halaszbastya)

漁夫の砦は、王宮の丘のマーチャーシュ教会(Matyas templom)の裏側にある。白い石灰岩でできた建物は幻想的で美しい。フランツ・ヨーゼフ皇帝と皇妃エルジェーベトが、ハンガリー王としての戴冠式を行なったマーチャーシュ教会は、大改修工事が行なわれていた。


図26.6台つながったトラム(路面電車)

世界最初の電化路線の地下鉄を持ったブダペストには、このようなトラムも走っている


図27.バルトーク・ベーラ記念館(Bartok Bela Emlekhaz)の表札

王宮の丘の西方にそびえる、標高527mのヤーノシュ山は、ブダペストで最も高い山で、そのふもとにバルトーク・ベーラ記念館がある。普通の観光ではここは含まれていないのだろうが、私たち夫婦を除けば音楽通の方ばかりなので、幸運にもここを訪れることができた。

バルトークはハンガリーが世界に誇る作曲家の一人で、音楽アカデミー(リスト音楽院)を出て、ハンガリーの各地でゴーダイとともに民族音楽の収集と研究を行なった。1932年から、ナチスを嫌ってアメリカに亡命する1940年まで、彼はこの館に住んでいた。このモダンな建物は1924年に建てられた。


図28.記念館の庭に立つバルトークの銅像

館の前に、小さな円形の野外コンサート場がある。その前に、等身大バルトークの銅像が、まるでコンサートに耳を傾けているかのように立っている。


図29.記念館の庭に立つバルトークの銅像


図30.庭の胡桃の樹に実がついている
現地ガイドが、落ちている胡桃を割って、中身を食べさせてくれたが、まぎれもなく胡桃だった。


図31.バルトークが使っていた部屋


図32.ピアノと録音機のある書斎
書斎にはピアノがあり、机の上のタイプライターと録音機は、彼のライフワークを物語っている。


図33.エジソンが発明した録音機

バルトークと1歳年下のコダーイは、エジソンが発明したばかりの録音機を持ってハンガリーの各地にに出かけ、村人たちから古い歌を録音した。発明されたばかりの録音機は大きくて重く、録音しても十分に再生できなかった。見たこともない機械を持って都会からやってきた若者に村人たちは不審を抱き、なかなか協力しなかったという。それでも、最終的にコダーイは約5100曲を集め、バルトークはハンガリー以外の民謡も含めて1万曲以上を集めた。


図34.素朴なホルン?


図35.バルトークが愛用した4弦の民族楽器

バルトークは、亡命先のアメリカでは不遇で、貧困と病気のため強いうつ状態にあった。そのバルトークを助けようと、ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが作曲を依頼して生まれたのが「管弦楽のための協奏曲」であったという。アメリカでは貧困のどん底にいたバルトークが、ハンガリーでは、このような立派な家に住んでいたいたことが、小澤幹雄さんにはよほど意外だったようで、何度もつぶやいておられた。

私は、中学生だったころ、ビクターのSP盤で、クーセヴィツキー指揮、ボストン交響楽団演奏のベートーヴェンの第9を貪るように聴いていた時期があった。クーセヴィツキーの名前を聞いたので、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」が聴きたくなり、カラヤン指揮ベルリンフィルのCDを購入した。聴いて見ると、特に難しいということはないが、いわゆる現代音楽で、これに魅せられることはなかった。


図36.ハンガリー国立オペラ劇場 オペラ「蝶々夫人」のチケット

今回のオペラ鑑賞旅行の中心は、ウィーン国立オペラ劇場での、小澤征爾指揮の「スペードの女王」と「エフゲニー・オネーギン」であるが、このプッチーニの「蝶々夫人」はポピュラーで、ストーリーも良く知っているため、気楽に出かけた。

19時開演 指揮:Adam Medveczky、蝶々さん:Zsuzsanna Bazsinka、ピンカートン:Istvan Kovacshazi、シャープレス領事:Andras Kaldi Kiss

蝶々さんも、ピンカートンも、予想していた以上に声量があり良かったが、舞台と演出では、日本がまだこのように理解されているのかと笑ってしまった。観客は陽気で情熱的、ブラボーをくり返していた。


図37.ハンガリー国立歌劇場のホールで


図38.ハンガリー国立歌劇場の左手客席

劇場内部は、ウィーン国立オペラ劇場よりは一回り小さいが、大理石がふんだん使われ、金箔の装飾が施されていて、絢爛豪華というべきなのだろう。しかし、ちょっとあか抜けしない感なきにしも非ずだった。


図39.ハンガリー国立歌劇場の後方ボックス席


図40.幕間の休憩時間に、バルコニーから眺めた劇場外の光景

ブダペストはわずか2泊の滞在で、オペラも鑑賞するというあわただしい行程だったため、充分に観光できなかったが、ここは予想していた以上に素晴しく、すっかり好きになり、もう一度訪れたいと思っている。

パプリカは唐辛子の一種で、辛みが無く甘い品種なので甘味唐辛子とも呼ばれる。ハンガリー料理に欠かせない素材で、数多くの料理に用いられているとのことだ。私は牛肉と野菜と粉末パプリカを煮込んだシチュー料理グヤーシュ(Gulys)を美味いと思った。ウィーンにもこれが伝わり、グーラシュ(Gulyas)と言うが、やはり本場の方があっさりしていて、格段に美味かった。

ハンガリーはEUに加盟しているが、通貨はフォリントである。しかし、来年からはユーロに変わるようだと現地ガイドが言っていた。



3.ザルツブルグ(Salzburg))とザルツカンマーグート(Salzkammergut)

ブダペストから、まずウィーンに行き、小澤征爾指揮するチャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」を鑑賞したあと、一旦ザルツブルグを観光し、再びウィーンに戻って、小澤征爾指揮するチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を鑑賞した。時間の経過の順にこの旅行を記録すると、分り難くなるので、ウイーン観光とオペラ鑑賞はあとでまとめることにする。

ザルツブルグとザルツカンマーグートは1997年夏に観光したことがある。その時は発売されれたばかりの、SONYのデジカメ MAVICA を持参したが、解像度は640×480ドットで、残念ながら鮮明な画像は残せなかった。今回は、ハイビジョン動画と3072×2304ドットの静止画で記録した。


図41.ザルツブルグの地図

ザルツブルグは、ザルツァハ川の西側にある旧市街と東側にある新市街に分かれている。これは、ブダペストがドナウ川の西と東で、王宮のある丘陵地ブダ地区と、都市の中心となる平地のペスト地区に分かれているのと似ていて、面白いと思った。


図42.ザルツァッハ川(Salzach)の左側が旧市街、右側が新市街


図43.ザルツァハ川の右側にホーエンザルツブルグ城(Festung Hohensalzburg)が見える


図44.美しいザルツァハ川の眺め


図45.旧市街にあるゲトライデガッセ(Getreidegasse)はこのように賑わっている


図46.ゲトライデガッセのオシャレな看板


図47.ゲトライデガッセに面したモーツァルトの生家(Mozarts Geburtshaus)


図48.大学広場側から見たモーツァルトの生家の裏手


図49.ザルツブルグ音楽祭の主会場である祝祭劇場(Festspielhaeuser)


図50.美しい花で埋まったザンクト・ペーター墓地(St.Peters Friedhof)


図51.ザンクト・ペーター墓地付近から眺めたホーエンザルツブルグ城


図52.レジデンツ広場(Residenzplatz)から眺めたホーエンザルツブルグ城


図53.何とも楽しい人たち


図54.カラヤンの生家の庭に立つ銅像

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)は、 1908年4月5日ザルツブルクのこの家で、貴族の子として生まれた。昨年は生誕100周年記念コンサートが、小澤征爾指揮ベルリンフィルの演奏で行なわれ、小澤幹雄さんが同行されるツアーに私たち夫婦も参加した。


図55.指揮をしているカラヤンの銅像


図56.このカラヤンの生家はザルツァッハ川東岸のマカルト小橋のすぐそばにある


図57.モーツァルトの住居(Mozart-Wohnhaus)
モーツァルトが17歳の時に、ゲトライデガッセの家が手狭になり、モーツァルト一家はここへ転居した


図58.20mだけ往復する路面電車が、ミラベル宮殿の外側を走っている


図59.ミラベル宮殿と庭園(Schloss Mirabell & Mirabellgarten)


図60.ミラベル庭園、遠くにホーエンザルツブルグ城が見える


図61.夕陽に映えるミラベル庭園とホーエンザルツブルグ城


図62.ミラベル庭園で


図63.ミラベル庭園で


図64.ミラベル宮殿前にあるペガシスの泉


図65.カラヤンの墓があるアニフ(Anif)の町の教会

カラヤンは1989年7月16日、ザルツブルク近郊にあるアニフの自宅で亡くなった。81歳だった。昨年の生誕100年に続き、今年は没後20年というカラヤン・イヤーである。カラヤンの墓があるアニフのこの教会は小さいが、素朴で心が和む。


図66.カラヤンの墓は墓地の片隅にあり、他の墓と変わるところがなく、注意しないと見落とす


図67.カラヤンの墓石(AVCHD ハイビジョン動画から、PMB を使って切り出した)


図68.同じ教会墓地にあるほかの人の墓


図69.向いはザルツカンマーグートの一つ、湖畔の町ザンクト・ヴォルフガング(St.Wolfgang)


図70.左に見える白い建物は、ザンクト・ヴォルフガング教区教会(Pfarrkirche St.Wolfgang)


図71.湖の名はヴォルフガング湖(Wolfgangsee)


図72.ヴォルフガング湖の遊覧船発着場


図73.ザンクト・ギルゲンの市庁舎前にあるモーツァルトの像


図74.何とも楽しいザンクト・ギルゲンの市庁舎


図75.この町にあるモーツァルトの母の生家


図76.外壁にはモーツァルトの母と姉の肖像が飾られている


図77.中央にあるモーツァルトの母と姉のレリーフ


図78.サウンド・オブ・ミュージックの結婚シーンで使われたモントゼーにある教会


図79.美しい教会の内部、祭壇側


図80.教会の内部入口側、重厚なパイプオルガンが見える

今回は天候に恵まれ、97年に来た時よりも美しい写真を撮ることができた。その上、前回はビデオカメラを壊してしまい、動画の記録は残っていないが、今回はハイビジョンで撮影することができた。

カラヤンの墓地を今回はじめて訪れたが、帝王といわれた人の墓が、ザルツブルグ郊外の小さな村の小さな教会の墓地に、他の人と変わることなく並んでいることに感動した。カラヤンは生前にザルツブルク市から名誉墓地を提供されたが、それを断り、アニフに埋葬されたと聞く。



4.ウィーン(Wien)

97年と昨年にウィーンを訪れている。今回は天候に恵まれ、ここでも美しい写真を撮ることができた。ハイビジョンによる動画記録も今回が初めてである。昨年撮れなかったものを重点的に撮影した。


図81.ハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)の地図

ウィーンの北西の外れにあるハイリゲンシュタットは、ここに住んでいたベートーヴェンが、耳の聴こえなくなったことに絶望して、弟と甥に遺書を書いたところとして有名である。これは、ハイリゲンシュタットの遺書(Heiligenstaedter Testament)といわれ、1802年に書かれた。

しかし、彼はこの遺書を書いた同じ年に「交響曲第2番二長調」「ピアノ協奏曲第3番ハ短調」、「ロマンス ト長調」などを完成し、翌年から作曲を始めた「交響曲第3番」も1804年に完成している。


図82.ハイリゲンシュタットの満月

ハイリゲンシュタット遺書の家の近くにあるホイリゲ(Heurige)を訪れた時、満月が私たちを迎えてくれた。その月は、ホイリゲを去るときには、遠くに離れていた。このシャッターチャンスにめぐり合えた偶然に感謝する。


図83.ベートーヴェンのハイリゲンシュタット遺書の家(Beethoven-Haus Heiligenstaedter Testment)


図84.遺書の家のプレート


図85.遺書の家から2軒離れたホイリゲ


図86.ホイリゲでワインを飲みながら、音楽談義などで話が弾む

ホイリゲは「今年の」という意味があり、今年できた新しいワインを指すと同時に、ホイリゲを飲ませる酒場のこともホイリゲと呼んでいる。昨年もそうだったが、小澤征爾さんがよく行かれるホイリゲに連れて行っていただいた。

写真にあるような、ワインの肴になるものは、自分でビュッフェカウンターへ行って、好きなものを選び、その場で料金を払う。ワインは4分の1リットルのグラスで出てくるが、写真のようなピッチャーでも注文できる。

ここで飲まれているのは白がほとんどで、これを飲みながら、いろいろ音楽談義に花が咲いた。ここのワインはあっさりして飲みやすく、アルコール度も低いようで、何杯でも飲めるのだが、調子に乗って飲んでいると妻に止められてしまった。貴方はピッチが速すぎる、皆さんが1杯のときに3杯も飲んでいるというのだ。飲みすぎて最近一度気を失ったことがあったので、それを心配しているのが分るため、おとなしくグラスを置いた。それでも楽しい夜だった。


図87.ウィーン中心部の地図

今回は、ウィーン中心部の、これまでに撮影していなかったところに重点を置いた


図88.楽友協会(Musikverein)

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤー・コンサートの会場として知られている


図89.ベートーヴェン広場(Beethovenplatz)に立つベートーヴェンの銅像


図90.ベートーヴェンらしい顔

私はこのベートーヴェンの銅像の顔が一番ベートーヴェンらしいと思うのだが、如何?


図91.王宮公園(Burggarten)に立つモーツァルトの像


図92.コールマルクト(Kohlmarkt)

王宮からミヒャエル広場に出ると歩行者天国コールマルクトにつながる。コール(Kohl)は「石炭」、マルクト(Markt)は「市場」を意味し、中世の頃、この通りで石炭の取引が行なわれていたのが、名前の由来だという。この通りの両脇には、GUCCI、CHANEL、Ferragamo、LOUIS VUITTON など有名ブランドの店がある。


図93.グラーベン(Graben)

コールマルクトの終りは、直交するグラーベンの始まりである。Graben とはドイツ語で堀を意味し、ローマ時代から中世にかけて、この地はその名の通りウィーンの外堀であった。ここもまた歩行者天国で、写真中央に見えるのはペスト記念柱である。この通りも多くの店舗で賑わっている。ただし、工事中の個所が多かった。この通りはシュテファン寺院(Stephanskirche)の手前で、ウィーン第一の繁華街ケルントナー通りに直交している。


図94.ホテルのバルコニーから見たケルントナー通り(Kaerntnerstrasse)北側

ウィーン随一の繁華街ケルントナー通りの名前は、ケルンテン州のケルンテン (Kaernten)に由来しているという。シュテファン寺院から始まり、国立オペラ劇場前まで続く歩行者天国である。ただし、この通りはほとんど全域に亘って舗装工事が行なわれ、一部では建物の取り壊しも行なわれていた。

宿泊したホテル・アストリア(Hotel ASTORIA)は、この通りにあり、国立オペラ劇場へ歩いて2分の距離にある。このホテルのバルコニーから、ケルントナー通りの全域を見通すことができるので、ここから撮影をした。

写真では、遠くにシュテファン寺院の尖塔が見え、その手前に、建物取り壊しのための青いクレーンが見える。そして、ご覧のように、地面の舗装工事が至るところで行なわれている。


図95.ホテルの斜め北側のケルントナー通り


図96.ホテル横のケルントナー通り


図97.ホテルの南側のケルントナー通り


図98.国立オペラ劇場前から見たケルントナー通り


図99.シュタイフ(Steiff)社のテディーベア シェーンブルン宮殿

孫娘の土産に買ったテディベアは、シェーンブルン宮殿(Schloss Schoenburunn)と言う名が付き、宮殿と同じ柔らかな黄色の毛に覆われていて、気品がある。右耳には「ボタン・イン・イヤー」というシュタイフ・タッグが取り付けられている。ここに品番の他、生産年度、製造番号などが表示されている。

背中のネジを回すと、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」のメロディーが静かに流れる。このテディーベアを、オペラ座の少し東側でリンクの内側にある、リンクシュトラーゼ・ギャラリー(Ringstrassen Galerien)で購入した。



5.ウィーンでのオペラ鑑賞

今回の旅行の最大の目的は、ウィーン国立歌劇場で、小澤征爾さんが指揮するチャイコフスキーの二つのオペラを鑑賞することにある。2002年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した小澤さんにとって最後のシーズンとなる。JTBは昨年と同様、今回も非常に良い席を用意してくれた。


図100.国立オペラ劇場(Staatsoper)の地図

航空写真のとおり、国立オペラ劇場はケルントナー通りとオペルンリング(Opernring)の交わるところにある


図101.ケルントナー通り側から見た国立オペラ劇場


図102.中央のモニターには公演中のオペラが表示され、ここで鑑賞することもできる


図103.ケルントナー通りの南端から見た国立オペラ劇場


図104.国立オペラ劇場の座席図 赤丸が今回の座席(Parterre Loge と Parket)


図105.スペードの女王(PIQUE DAME)のチケット パルケット(平土間)左6列3番と4番(10月2日)


図106.パルケット(平土間)左6列3番から見たオペラ座 正面舞台


図107.パルケット(平土間)左6列3番から見た右側のボックス席


図108.パルケット(平土間)左6列3番から見た右側後方のボックス席


図109.パルケット(平土間)左6列3番から見た右側後方上部のボックス席


図110.エフゲニー・オネーギンのチケット パルテッレ・ロージェ13右 1列2番と3番(10月5日)


図111.私たちが座ったパルテッレ・ロージェ(平土間に接するボックス席)13右 1列2番と3番


図112.エフゲニー・オネーギンのプログラム


図113.立ち見席 こちらを向いている人の対面にあたるボックス席に私たちは座った


図114.開幕前の正面舞台とパルケット(平土間) ここからはオケボックスもよく見える


図115.パルテッレ・ロージェ13右 1列3番から見た左側のボックス席とパルケット(平土間)


図116.幕間の正面舞台とパルケット(平土間)と左右のロージェ(ボックス席)


図117.幕間の右側のパルケット(平土間)とロージェ(ボックス席)


図118.正面天井部分のロージェ(ボックス席)


図119.オペラ字幕の液晶モニタが座席にあり、独語と英語のどちらかを選べる


図120.オペラが終り退場、直ぐ前の平土間席では、TBSがビデオ撮影を行なっていた

昨年のベルリンでのカラヤン生誕百周年記念コンサートの席も、左後でNHKがビデオ撮影していたし、今回は、すぐ下の平土間席で、TBSがビデオ撮影をしていた。ツアーで一緒の方の席は全員がこのような良い席だった。このような良い席でコンサートを鑑賞できるのは、これからは難しいのではなかろうか。

私はイタリアオペラが好きで、自分でもアリアを発作的に大声で怒鳴っていることも良くある。しかし、チャイコフスキーのオペラはこれまで聴いたことがなかった。そこで、「スペードの女王」と「オネーギン」のDVDを購入して、旅行前に何度か下調べをしておいた。

今回の公演で、「スペードの女王」の余りにも現代的な舞台演出には度肝を抜かれたが、歌とオケについては、納得した。哀愁を帯びた甘美なメロディーのいくつかは、如何にもチャイコフスキーという感じだったが、それがマイナスに働くことはなかった。

「エフゲニー・オネーギン」の方も現代的な演出ではあったが、こちらは冷めたモダーンな美しさがあり、違和感はなかった。歌手が直前に総入れ替えをしたと聞いていたが、その影響は私にはまったく分らず、素晴しいと思った。

昨年この劇場で「ドン・ジョバンニ」を鑑賞した際には、字幕をうまく使いこなせなかったが、今回英語を選択してみると、簡単な英語なので、かなり役立った。

いずれにしても、私ども夫婦はオペラについてほとんど素人であり、チャイコフスキーのオペラを楽しんだと言うにはほど遠く、感想も的外れに違いないと思うので、これ以上は書かないでおく。



5.まとめ

今回の旅行は、天候に恵まれ、爽やかな初秋の中欧は素晴しく、美しかった。観光したのは音楽に関わりのあるところが中心で、普通のツアーでは行かないバルトークの家とか、カラヤンの墓なども含まれていた。11名の参加メンバーは、それぞれが個性的で、得るところの多い旅行だった。

私たち夫婦はクラッシク愛好家ではなく、小澤征爾さんの大ファンでもない。しかし、幹雄さんからお誘いをいただき、今回も喜んで参加させていただいた。そして、それは非常に良い経験となり、多くのことを楽しく学ぶことができた。

小澤征爾さんについては、昨年から、何度かお目にかかったことで、人生を思いっきり生きて来た人、全力投球の人、絶えず努力を続ける人、非常に義理堅い人、自然体の人、虚でなく実で生きる人という印象を強く受けた。このような人が存在するということを思うだけで、人間讃歌の気持が湧き上がってくる。偉大な人だ。

<2009.10.18.>

T-baさんの中欧三国への旅の写真が、1024×576(19:9)の大画面で、ものすごく美しくて、すっかり魅せられてしまいました。そこで、私の「ハンガリー・オーストリア オペラ鑑賞の旅」の一部、ザルツブルグの38枚について、試みに、このサイズにしてみましたが、やはり、迫力が違います。T-baさんのお陰で、HPの画像表示について、新しく教えていただきました。ありがとうございました。

<2009.10.25.>

ザルツブルグの写真に、ハイビジョン撮影した動画から切り出した「カラヤンの墓石」を加えたので、合計39枚となりました。

<2009.10.26.>

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