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酒、歌、女

<枚方市医師会会報第41号(94年1月)より>
1998.01.07. 掲載
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交野支部   野村 望

この夏の終わりで開業20年、還暦まであと3年、まとめの時期に向かいつつある。

] 外ではサッポロ生、家ではスーパードライ、冬は極熱燗、肴は鬼平

] 絶えず鼻歌、風呂場でカルーソーになり、車の中ではCDとデュオ

] もちろんカミさんだけを愛す。憧れはイングリット・バーグマン

    もう充分生きてきた。あとは悔いなく死ねるように生きるだけ。

(94年1月、記)

<補足説明>
以上は、枚方市医師会会報第41号(94年)が会員の近況を特集することになり、全員に近況報告が求められた際に、それに応じて書いた短文である。

宗教改革をおこなったマルチン・ルーテル(Martin Luther)の「酒と、女と、歌を好かない者は一生涯の馬鹿者だ」「Wer nicht leibt Wein, Weib, und Gesang, Der bleibt ein Narr sein Leben lang.」に倣って、[][][]と並べた。

その[]だが、スーパードライの発売以来ビール党に変わり、家では専らスーパードライを愛飲している。しかし、「」はサッポロが一番という好みは変わらず、外ではサッポロ生になる。とは言っても、冬の鍋物を食べながらの超熱燗もたまらない、ひれ酒もいい。テレビで鬼平犯科帳を放映していれば、これは最高の肴で、酒量は増え、至福の気分にひたれる。蛇足ながら、私は時代劇好き、西部劇好き人間である。

次の[]であるが、絶えず鼻歌を唄っている日が1年で350日はある。大声で唄うのは食堂か風呂場が多いが、気分次第では、トイレでも唄う。幸いなことに、我が家の周囲三方は田圃なので、近所に気兼ねをする必要がない。この環境を神に感謝しなければ罰を当てられるであろう。

唄って一番気持の良いのはもちろん風呂場である。エコーがかかり、湿り気があって、いくらでも上手く唄える。第一、カラオケのようにリズムを強制されないところがよい。気分のおもむくままに唄ってこそ、歌のこころは発揮できるというものだ。ある時はカルーソーに、ある時はデル・モナコに、またまたある時はドミンゴになっている。私はバリトンである。それなのに何故テナーなのか? テノール・コンプレックスがあるのだろうか?

もう一つの気持良く唄える場所は車の中だ。一人で運転している時にCDとデュオをする喜びは、経験者なら誰も認めるであろう。最近までの私の最高のお相手はミレーユ・マッチューだった。もちろんフランス語は皆目分からないので、歌詞はいい加減、ラ行を中心にでたらめに唄うが、そんなことはどうでもよい。彼女の張りのある素晴らしいトランペットヴォイスに合わせて唄うとき、歌はこのように唄うのだということを身体全体で感じる。そして気持が非常に爽やかになるのである。

最後の[]であるが、「もちろんカミさんだけを愛す」と書いてしまったのは、少しまずかった。あれを読まれた人は、私のことを余程の恐妻家と思い込まれたようで、困惑している。しかしあれ以外に、どのように書けば良かったというのか? これは「濡れ落葉」を恐れてカミさんに媚を売ったものでは決してないのである。

憧れはイングリット・バーグマン」というのは本当である。家族もファンも名声も財産も全てを捨て、轟々たる非難を浴びながら、ロッセリーニ監督のもとへと走った、美しい熱情の女の姿を見た時の感動を、私は忘れることはできない。

もう充分生きてきた。あとは悔いなく死ねるように生きるだけ」というのも正直な気持である。正確には「悔い少なく」というべきで、死に際に「したいことの80%くらいは果たせた」と思えるように生きて行こうと思っている。

この短文は実をいうと、夏の非常に暇だった夜の診察時間中に書き上げたものである。原稿を葉書で書くように指示されていたので、仕方なくこんなに短い文章になってしまった。これまでこのような短文は書いたことがなかったが、短時間で案外うまくまとまったのに気をよくし、そのまま医師会事務局に送付した代物である。

それを何時もの長さの文章に戻すと、このような補足説明文になる。やはり、私には俳句や短歌などの短文は性に合わないようだ。少し冗長な、分かりやすい文章が似合っているのだろう。


<1998.1.7.>

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