ホーム > サイトマップ > 言葉 > 生き方エッセイ > 校医を辞めました

校医を辞めました

2006.09.27. 掲載
このページの最後へ

学校医辞任の挨拶

おはようございます。校医の野村です。

皆さんは岡先生の紹介がなくても、私が倉治小学校の校医だと、分かりましたか?
分かっていた人、手を挙げてみて下さい。

ありがとう、いつもは白い服だから、分かり難いのでしょうね。

それじゃ、私が野村医院の先生だと、最初から分かっていた人は、どのくらいいますか?
手を挙げてみてください。

ありがとう。やっぱり少ないですね。

この倉治小学校は、1974年の4月に開校しました。今年は2006年だから、32年6ヶ月前のことです。どうです、よく知っているでしょう。(笑)

それはね、その半年ほど前に、野村医院を始めたから、よく覚えているのです。

今年の春の内科検診の時に、岡先生が1年生に、「野村医院の先生ですよ」、と紹介して下さったら、「野村医院の先生は、こんな先生と違う!」、というこどもが多くて、ビックリしました。「野村医院の先生はな、もっと若いねん、こんなお爺ちゃんと違う!」と言うのです。

それを聞いて、ちょっと寂しくなりましたが、ちょっと嬉しかったのも本当です。どうしてかというと、半年ほど前に、野村医院を息子に引継いだので、もう年寄りは忘れられてしまって、若い者が野村医院の先生になっているのが、分かったからです。

その息子は、倉治小学校が始まった次の年に、この学校に入学しました。だから、この小学校の卒業生で、たしか7回生になるはずです。

私は、倉治小学校の校医を、33年間させていただきましたが、今月一杯で辞めて、その後を、息子の野村 圭に引継ぎます。卒業生が校医になるのは珍しいことで、倉治小学校も、それだけ、歴史のある学校になったのだ、とつくづく思います。

ということは、この私も、それだけ年をとったということですね。(笑)

それじゃ、私の年齢は、いくつだと思いますか?
65くらいと思う人、手を挙げて下さい、それじゃ70くらいは?、75くらいは?
ありがとう。やっぱり70歳くらいと思った人が一番多いようですね。
その通りで、私は今年70歳になりました。

倉治小学校の、どの先生よりも、ずっとずっと年上です。初代の西沢校長から現在の関校長まで、校長先生は、11人も変わられました。だから、私は倉治小学校の主(ぬし)のようなものです。主(ぬし)というのは、その家や建物などに住み着いている動物を言います。しかし、あまり主(ぬし)が居り続けるというのは、良くないことなので、この機会に校医を辞めることにしました。

皆さんは、この世の中で一番大切なものは、何だと思いますか?
それから、一番大切なことは、何だと思いますか?

それは、人によって違っているかも分かりませんね。
誰か手を挙げて、自分が一番大切と思うもの、思うことを教えてくれませんか?

はい、君、教えてください。

わ〜、スゴイ!! 実は、私も君と同じことを思っているのですよ。

私も、70歳まで生きて来て、この世の中で一番大切なものは、「いのち」だと思ってきました。また、一番大切なことは、「いのちを大切にして、精一杯生きること」だと思っています。

草や木、花、野山にあるものは、どんなものでも、与えられた「いのち」を、精一杯に生きていますね、何百万年、何千万年いや何億年も前から、それは続いています。

けれども、「いのち」あるものは必ず無くなります。それぞれの「いのち」は、1回だけのものです。これには、例外がありません。自分の「いのち」も、他人の「いのち」も、1回かぎりです。死んでしまえば、もう生き返ることはありません。ゲームならリセットすると生き返りますが、実際は、そのようなことは絶対にありません。

だから、自分の「いのち」も、他人の「いのち」も大切にして、1回限りのいのちを、思う存分生きるようにしましょうね。

最近、「いのち」を粗末にする事件が続いています。悲しいことです。いけないことです。皆さんは、自分の「いのち」はもちろんのこと、他人の「いのち」も大切にして、思う存分生きて行って下さい。

これが、倉治小学校の校医として、私の最後のお願いです。

皆さん、さようなら、お元気で。
校長先生はじめ諸先生方、長い間お世話になりました。ありがとうございました。

2006年9月19日

交野市立倉治小学校校医 野村 望


こどもたちが贈ってくれた「野村先生へ」という文集

野村校医先生
ありがとうございます
けんさしてもらった時に「せすじがまがっているよ。おとなになったらそんするよ。」と言われて、ひっしに、せすじをのばしていました。次のけんさでは、ひっかかりませんでした。今までありがとうございました。
4年女子○○○

野村校医先生
ありがとうございます
いつも内科検診をして下さって、ありがとうございます。四年間だけでしたが、とてもかんしゃしています。長い間ありがとうございました。
4年女子○○○○○

野村校医先生
ありがとうございます
5年間内科検診で体をみてくださって、ありがとうございます。家で体の具合のわるいとき、野村いいんにいったことがあります。あのときは、かぜをひいて、くすりをもらって家でのんだら、元気になりました。本当にありがとうございました。
5年女子○○○○

野村校医先生
ありがとうございます
内科検診の時、体の具合を調べていただいて、ありがとうございました。他にも、病気になった時に見てもらって本当にありがとうございました。姿勢も気をつけます。
5年女子○○○○

野村校医先生
ありがとうございます
5年間ありがとうございました。体の具合が悪かったりするのが多いので、見てもらうことが多かったです。いろいろおせわになりました。
5年女子○○○○

野村校医先生
ありがとうございます
内科検診の時、いつも体の具合をみてくださって、ありがとうございます。体をみてくださった時、「いいよ、よろしい」といってくれて、とても安心しました。ながい間ありがとうございました。
6年女子○○○○

野村校医先生
ありがとうございます
かぜをひいた時、いつもお世話になっています。内科検診も毎年ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。

6年女子○○○○より


こどもたちが贈ってくれた花束



自宅のテーブルに飾った花束


あとがき

野村医院を開業したのが1973年9月で、交野市立倉治小学校の開設が、翌年の4月でした。私は開校当初から、その校医をさせていただき、今月一杯で辞めることになりました。そのことを学校側にお伝えしたところ、辞める前に何かこどもたちに話してもらえないかと、保健の岡先生からお話があり、喜んでお受けした次第です。

テーマの指定はなく、体育館で朝礼のあと、10分から20分くらいの予定とお聞きしました。プレゼンテーション用の装置も準備できるとことでしたが、私は直接こどもたちと向き合って、顔を見ながら話したいと強く思いました。といいますのは、600名ものこどもたちの前で話したことがなく、非常に興味があったからです。

最近は、小学校の高学年が荒れている、校内暴力が小学校に広がっている、などのマスコミの報道に接することが多く、この目で確かめたいという気持もありました。また、最近のこどもは、10分もじっとしておれない、という話もよく耳にします。600名以上のこどもの集団が、私の話をどんな風に聞いてくれるのか、それも興味津々でした。

体育館の壇上から見下ろすと、体操座りをした小さな可愛いこどもたちが、じっとこちらを見ています。何か嬉しくなって、私は微笑みつづけていたように思います。

保健の岡先生が、上手に、こどもたちの関心を私の方に向けて下さり、児童会の皆さんが進行係をしてくれるので、楽しい気分でした。

こどもたちに関心を持ってもらうため、何度か手を挙げてもらって、話が一方的にならないような工夫をしたつもりでしたが、あとから考えると、その必要はまったくなかったような気がします。こどもたちは、ざわつくことなく、私の話をよく聞いてくれました。600人のこどもたちは、礼儀正しく人の話を聞くことができました。本当に素直な、良いこどもたちでした。

そして、皆さんは何が一番大切と思うかと尋ねたところ、4年生くらいの男の子が手を挙げて、「いのち」と言ってくれました。それを聞いた途端、私は思わず、「わ〜、スゴイ!! 実は、私も君と同じことを思っているのですよ」と話したのです。

そのあと、命を大切にして、思う存分に生きて欲しいという私の願いを、不自然でなく、素直に伝えることができました。

この集いが終わったあと、こどもたちの代表が花束を贈って下さり、また「野村先生へ」という可愛い文集も贈ってくれました。そして、全員の拍手が続く中、何度も頭を下げ、手を振り、体育館を後にしました。それは、今まで経験したことのない素晴らしい感動でした。マスコミが伝える学級崩壊、荒れる小学高学年からは、想像もできない、すがすがしい光景でした。

校長室に戻り、校長先生や保健の岡先生に感動したことを申上げると、お二人は喜んで下さいました。また、この集いの準備をして下さった先生や、倉治小学校の卒業生で、私の患者さんでもあった先生も、挨拶に来て下さいました。感動のあとは感激です。この気持が薄れない間に、このことを記事にしてUPしておきます。

(2006.9.19.)

後日談

校医としてお別れのお話をして、その記事をここに載せていた時に、私のブログに、1年生の女の子が書き込みをしていてくれていました。母親に手伝ってもらったところも少しはあったかも分かりませんが、かわいいことばで、自分の気持を書いてくれていて、もう感動してしまいました。

そして、その二日後には、4年生の女の子が私に感謝のメールをくれました。今、小学生が荒れているといわれていますが、倉治小学校に限れば、決してそのようなことはない、インターネットも上手に活用して、素直に感謝の気持を表現できる良いこどもたちだと、心底思いました。

ご本人の了解を得て、名前を伏せ、ブログへの書き込みと、私へのメールをここに掲載しておきます。


1年女子○○○のブログへの書き込みです(9月19日)

今日学校に、きてくださりありがとうございます。この、世界のみんなが、大切に、しているものや、いろいろなことをおしえてくださりありがとうございました。マミーにもおしえてあげました。またしゅうかいにきてください。1ねん○○○より

その母親◇◇◇の書き込みです(9月19日)

今日、娘が帰ってくるなり、「学校にNドクターがきてお話があったよ!!」(←興奮状態)
と怒涛の報告が続きました。 「HPがあるって言ってはったから探すわ!」(またまた興奮) 近頃、Googleで自分で探すようになり、張り切っておりました。お友達のお家なども画像の中に発見し、ひとしきりKドクターのHPを探検しておりました。見慣れた風景、医院の様子に感動しておりました!

で、ローマ字表とにらめっこで上の書き込みをさせていただきました。

小学校へは定期的に講演をしにいらして下さるのでしょうか?次回を楽しみにしているようです。私も拝聴したかったですー。

「世界で一番大切なもののお話だったよ。」
「何か分かる?【いのち】だよ。」
と教えてくれました。


1年女子○○○に対する私のレスです(9月19日)

○○○ちゃん、ありがとう!! 倉小の皆があんまりお利口だったので、感心して、もう嬉しくて嬉しくって、ずっと今日の集会のことをホームページに書いていたので、お返事が遅くなり、ゴメンナサイね!!

だけど、○○○ちゃん、スゴイね!あんまり賢いので、もうマイッタマイッタです。

ありがとう。先生は涙が出るほどうれしいです。

また、ここに書いてね。

母親に対する私のレスです(9月19日)

◇◇◇さん
○○○ちゃんは神童ですね!

もう唖然となりました。

その内に抜かれそうな予感がしませんか?
早晩ライバルになるのではないですか(笑)

>「世界で一番大切なもののお話だったよ。」
>「何か分かる?【いのち】だよ。」

1年生なのに、私が一番分かって欲しかったことを、ちゃんと理解してくれたのですね!

スゴイ○○○ちゃんが、スゴイスゴイ○○○ちゃんになった、スゴイ!

これ、私の最大のほめことばです。過去に1〜2回しか使ったことがありません。○○○ちゃんに伝えて下さいね!


小学4年女子○○○○○さんからのメールです(9月22日)

野村校医先生
4年間でしたが有難うございました。私は、毎年いじょう無と言われてました。それに、野村医院にも、行ったことがありませんでした。でも野村先生に、会えてよかったです。また野村先生に会いたいです。

4年女子○○○○○さんに対する私のメール(9月22日)

○○○○○様

夕食を終えてこちらに来たら、○○○ちゃんからのメールが届いていました。

もう嬉しくて、すぐに妻を呼び、一緒に読ませていただきました。
ありがとうございました。倉治小学校の校医をしてきて、本当に良かったと思いました。

小学1年生の女の子も、私のブログに書き込みをしてくれたのですが、その子は患者さんとしても来られていたので、あなたのように野村医院に来られたことのない人からメールをもらって、とても嬉しいです。

○○○ちゃんは、どのようにして、私のメールアドレスを知ったのですか?
ホームページを見てくれて、そこから書き込んでくれたのでしょうか?

私が4年生の時の受け持ちの先生とクラスメートが、50年近く過ぎてから会って、クラス会を続けています。あなたと同じ学年のクラスメートなんですよ!

もし、興味がおありだったら、URL(ホームページのアドレスのこと)の上をダブルクリックしたら、その記事がでて来ます。4年生は大切な時だと思います。

syouno.html 小学4年庄野学級

calf_love.html 仔牛の恋のクラス会

syouno3.html 現役最後のクラス会

kokisyouno.html 庄野学級古希クラス会

今の「校医を辞めて」の記事に後日談を追加しようと思っています。○○○ちゃんのメールもそこに載せさせてもらっても良いですか?4年女子○○○○○と書いて、名前は分からないようにします。駄目だったらメール下さいね。

最後にもう一度、ありがとう!

このお嬢さんは、私のホームページから私のメールアドレスを知ったとのことでした。ここに掲載することの許可を得ましたので、追加させていただきました。

(2006.9.23.)

後日談その2

本日、郵パックが届き、開けてみると、それは倉治小学校の校長先生がご恵贈下さった記念パネルでした。同封のお手紙を、ここに掲載させていただきます。


平成18年9月27日
野村 望様

交野市立倉治小学校
校長 関 純二

お礼

秋冷の候、先生におかれましてはますますご清祥のこととお慶び申上げます。
平素は、本校教育推進に多大のご協力を賜りありがとうございます。 さて、過日は早朝よりお出ましの上、子どもたちにご講話をいただき、誠にありがとうございました。子どもたちは、先生のお言葉にございました『この世の中で一番大切なものは「いのち」』を心に、これからの生活を精一杯生きていってくれることと思います。

また、開校以来、長年にわたり学校医としてお世話になりましたことを改めまして心よりお礼申上げます。 記念に、パネルを作成いたしましたのでお納めいただけましたら幸いニ存じます。 先生の今後ますますのご健勝を心よりお祈り申上げます。



倉治小学校校長から贈られた記念パネル


演者の嬉しそうな顔を見てやって下さい

パネルの左下におそらく4年生の男の子が、私の話の感想を書いて下さっていました。ちょっと読みにくいかも分からないので、そのままここに転記します。嬉しい感想、本当にありがとう。


「野村先生の話を聞いて」

ぼくは、野村先生の話を聞いていろんな事が勉強になりました。野村先生が70才など、先生はこの倉治小学校が33年前にできてからずーっと校医をやってきたなんてすごいな〜と思った。校長先生は、もう11人もかわっているのに野村先生は、まだ1回もかわっていなかった。ぼくたちは、たった4年間しかみてもらえなかった事はちょっと悲しいことです。

あと、先生は命のことを話してくれました。木や葉、草とかそこらへんのものが生きているなんて、なんとなくジーンときました。今では、人をころす、けがをさせる、ゆくえ不明、いろんな命をそまつにする人がふえた。ぼくは、先生みたいな命を大切にする人になりたいです。


今の小学生はすばらしいですね。未来に希望が灯っているという気持にさせてくれました。
倉治小学校の校長先生はじめ諸先生方、こどもたち、ほんとうにありがとうございました。
倉治小学校のますますの発展を信じ、心からお祈り申上げます。


<2006.9.27.>

ホーム > サイトマップ > 言葉 > 生き方エッセイ > 校医を辞めました   このページのトップへ