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子を亡くした母の心

手記

2013.01.28. 掲載
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目次
1.はじめに
2.母の手記
3.手記の注釈
4.書籍「子を喪へる親の心」について
5.まとめ


1.はじめに

弟からのメールがきっかけとなり、母に関する私のまとめをしておくことにした。母の特徴の第一が歌であるので、まず「母と歌」としてこのサイトに掲載をした。

母の最大の悲しみであり、結核発病の大きな要因となったのは、私の妹順を、小学2年生になったばかりの5月に、麻疹で亡くしたことである。その3度目の命日のころ、順ちゃんへと呼びかける手記を遺している。粗末なB4版のわら半紙5枚半に、字の乱れもなく鉛筆で書き、訂正の跡もない。

原文の縦書きを横書きに、旧仮名遣いを現在使われている仮名遣いに変え、句読点を加えたほかは、手を加えずここに記録として残して置く。


2.母の手記

野山は新緑の若葉に包まれ、空は碧く、小鳥はさえずり、自然のすべての物が大きく成長をはじめる五月、一年中で一番気持の良い時節と人々が楽しんで迎える五月。

それだのに、順ちゃん、あなたは八年余りの短い成長(*1)を最後に、突然お父ちゃんはじめ、お母ちゃん、兄ちゃん、義の淋しく悲しむのもかまわず、ただの二、三日床についたきりで、皆とゆっくりお永別れすることもなく、だまって召されてしまいました。

ああ、あの時と同じように、庭のバラの花は咲き乱れ、アジサイも沢山な蕾をつけています。あれより最早三度目の五月(*2)を迎えました。何と言う早い月日であったでしょう。一日として忘れる事の出来ない順ちゃんのあの時のことがはっきりと思い出されます。

順ちゃん、五月二十二日(木曜日)担任の川見先生に連れられて、お友達と一緒に深田池(*3)へ行ってきましたね。何でも好きな物をどっさり持って行きなさいと、巻きずしをこさえ、大きなリンゴや三色の奇麗なあられ、飴、お煎餅などを持って喜んで出かけました。

四、五日前、義と一緒に病院(*4)の帰りに立ち寄り、順ちゃんの遠足の日の事を忍びました。黄色いカキツ(*5)が沢山咲いていました。水草の間を水すましがすいすいと泳いでいるし、きぬとんぼも気持良く飛んでいました。順ちゃんが来た時も、きっと同じだった事でしょう。

お昼過ぎにはもう遠足から帰り、まりつき歌をうたいながら、クラブ(*6)の前でスポンジのボールをついていましたね。翌朝、頭がいたいから学校を休むと言うので、遠足の疲れでも出たのかと思って、その日休ませましたが、小運動会のお遊戯が気になり、昨日休んでいる間に遅れた処を福原さんに午前中教えていただいたりして、お昼から学校へ行ってきましたが、やっぱり身体の具合が悪かったのでしょうね。

夕方、大阪のおばちゃんが、イチゴをはじめて買ってきて下さり、皆で美味しくいただいた後、いつもは御影の駅まで見送って行くのに、あの日はやっぱりしんどいと言って、余り食欲もなく寝てしまいました。

翌日曜日の朝は、手製のお餅を義ととりあいしたりして元気にしていましたから、気にもとめなかったのですが、今から思うと、その時もずっとはしかにかかっていたのですね。

夕方、お風呂へ皆で行く時は、あなたも一緒に行くと門口まで出ましたが、熱気があるから入らないない方が良かろうとお父ちゃんに言われると、つらそうにして、一人で留守番をしていましたね。

その晩、何ともなくやすみましたし、翌日学校にハシカが流行しているから、或いはハシカかも知れないと思い、えびの殻の煎じたのを呑ませました。発疹して来ましたので、いい具合だと思っておりました。

月曜日一日、昼の間、静かに眠り、その夜、お母ちゃんも横にいてほしいと言うので、一緒に添寝をしてやりましたら、十二過ぎでしたでしょう、熱に浮かされたように「お母ちゃん、出、出」と言う。

暑くなってきたので、二人でやすんでいては窮屈なのだろうと思い、寝床の外に出ると、「お母ちゃん、海へ入ろう、入ろう」と言う。

おかしいなと思ったのですが、兄ちゃんも小さい時は熱が出ると、このような事はよく言っていたので、熱に浮かされているのだけれど、ハシカだから冷やしたりしてはいけないとばかり思い、冷やしてやりませんでしたら、すぐ吐き気がして、少し水のようなものを吐きました。

同時に下痢便が出ているのもわからないようなので、下着をかえたり、寝間を敷きかえてやすませ、お父ちゃんと二人で両手を握ってやっていますと、義が目をさまし、泣き声が聞えてきましたら、「義、おいで」と呼び、それから、いつも遊んでいた時のように、「カラス、カラス、かんざぶろ、あの山火事だ」のお歌や、まりつきうたを、調子もはずさず歌った後、くたびれたようにすやすやとねむりかけたので、まあまあよかったと思って、隣室で休んだのは三時も過ぎていたと思います。

それからも、ゲエゲエ吐き気がするようなので、行って見ても別に何も出ていないので、手ぬぐいをあてがっておいて、義とうつうつしましたが、五時頃、医者を迎えに行って来ようと思って外へ出て、近所の方に順ちゃんの様子を話すと、「はしかの一番えらい二三日はとても苦しがってあばれますよと仰るし、発疹しているのなら大丈夫でしょう」と仰りもしたので、朝飯の準備をしていたのですが、何だか気にかかり、口を洗っていたお父ちゃんに、余り静かだから順ちゃん見てきてほしいと頼むと、最早顔つきが何だか変だと言う。

びっくりして、どうしたのだろうと、順ちゃん、順ちゃんと大きな声で何度呼んでみても、口唇一つ動かさない。ゆすぶってみても目も動かさない。ああ、あの時のつらかった事。

それでも、お医者さんが来て注射をしていただければ、気がつくだろうとばかり思っていましたのに、医者は見るなり、この方はもう瞳孔が開いていますから駄目です。私が一時間前に見ていても、おそらく助かる人ではありません。一体どうしたのですかと言われ、昨夜の様子をお話しますと、脳症をおこしたのでしょうとおっしゃいました。そして、そのまま、何にも言わず、昨夜の歌を最後に、帰らぬ人となりました。

順ちゃん、あなたのようにまで大きくなった方が、何処が痛いとも何とも訴える事をしないで、死んでしまったりするなんて、お母ちゃんは死ぬなどとは夢にも思っていないものだから、油断があったのでしょうね。

どうして遠足から帰った翌日、早速医者に連れて行かなかったのでしょうか。医者にさえつけていましたら、こんなにも早く召されるような事はなかったでしょうに、お母ちゃんの一生の失敗であり、悔やまれて悔やまれて泣いてお詫びしました。

何が悲しいと言っても、可愛い子供に先立たれるなんて、これ程悲しい事はありますまい。それ以来、お母ちゃんの心の中には、いつも順ちゃんを亡くした悲しさが宿っていて、何にかにつけて泣きたくなるばかりです。

人はもう悔やんでも致し方のない事、あきらめなさいと言ってくれますが、どうしてあきらめる事ができましょう。神様はお母ちゃんに何を教えようとして、順ちゃんをとっておしまいになったのでしょう。大勢の女の子を持った家でも、みんな元気なのに、順ちゃんはたった一人の女の子なのに、余りにもひどいと思って呆然となってしまいました。

淡路のお祖父ちゃん(*7)は、お父ちゃんとお母ちゃんに申しました。あなた達は養育が下手だから神さまがおとりになったのだと。すべては神の御意の中にある事であり「神与え、神とり給う」ので、折角神様よりお預かりしていた大事な幼子でしたのに、私達が不注意なのでとり給うたのだ。今後は注意してとは聖書を読み読み思わせられましたが、肉体を持つ私達、殊に信仰もない私達には、どうしてもそこまであっさりとあきらめてしまう事ができません。また、徳先生(*8)は、天国にいかりを下ろしたのですからと仰って下さいました。

快活で賑やかだった順ちゃん、一年生の時は兄ちゃん程も勉強が出来なかったので、よく教えながら叱る事がありましたね。可哀相なことをしましたわ。

でも、二年生になってからは、川見先生のお話では、算数もよく出来ていたようですし、二年生になってからは、義と二人で舌切り雀のお爺さんの劇を夕食後して笑わせたりして賑やかだったのに、一度に家の中は淋しくなりました。

あの恐ろしい戦争中、まずいものをいただいたり、大豆ばかりで夏中ほとんどお腹をこわして医者にばかりついていたり、また、空襲のおそろしい目に何度か逢いつつも、その中で大きくなって来たのに、終戦になって段々何でも買えるようになって順ちゃんを失うとは、残念で残念でなりません。

昭和十四年七月二十八日午後七時過ぎ、順ちゃんは須磨区~撫町二丁目三十七番地のお家で生まれました。野村家によく似た色の白い、卵に目鼻をつけたような赤ちゃんで、三ヶ月位までは順調に丸々太って来ましたが、お腹をこわし、それから支那事変勃発以来食料が不自由となりかけた為、四つ頃まではちっとも丸々肥るようなことはありませんでした。

昭和十七年、高松へ転任になってからは、割合に食料が豊だった為、よく太り、ピチピチした可愛いお嬢ちゃんでした。よく三越へ買い物に連れて行きましたが、兎のように足をピョンピョンはねるようにして先に走る、足の達者なお嬢っちゃまで、お父ちゃんが順ちゃん四つの時に病気(*9)になり、お世話の為にちっとも見てやる事が出来なくとも、賢く兄ちゃんと遊び、小さい時より世話をかけない子供でした。

お父ちゃんの静養の為、六ヶ月間郷里へ帰省していた時、お父ちゃんについて岡尾山へよく散歩に行きましたね。

それから翌年、お父ちゃんは再び兵庫県庁へ転任になり、家がない為に、私達三人だけ高松に居残っていた間中、よく海水浴に鬼ヶ島(*10)へ行ったり、春日川へ行って、貝とりをして過ごしたり、淋しい中にも楽しく過ごして待っていましたね。

昭和十九年九月、県公舎へ移ってくると、ここは高台であり、前は広場(*11)でもあり、子供達には恵まれた良い処だと喜んで来ましたのに、順ちゃんを亡くした悲しい思い出の土地となりました。

迷信でしょうが、金道さんが順ちゃんの手の平を見て、順ちゃんは早死にする、長生きはしないと言ったとか言っていましたが、十八、九の厄年位が気を付けなければいけないのだろうと思って、気にもとめていませんでしたが、今になれば、少しの事にも細心の注意が必要だったのですね。

時々、女の子同士、けんかをして来ることがありました。


6枚目の半分を書いたところで、この手記は終わっている。思いの丈をここまで一気に書き上げ、順のけんか友達に及んだとき、書き続けることができなくなったのかもしれない。



3.手記の注釈



図1.母の手記原文の3枚目 B4版のわら半紙5枚半に鉛筆で書かれている


図2.告別式のあとの二宮教会で 前列左端が徳牧師、2列目右から3番目が私、3列目右から2番目が母


(*1)八年余りの短い成長
1947年5月27日順死亡 年齢は7歳10ヶ月だった

(*2)三度目の五月
この手記を書いたのは、1950年5月で、その時の母の年齢は39歳9ヶ月

(*3)深田池
阪急御影駅から北へ2分のところにある。現在は深田池公園と呼ばれている

(*4)病院
順の死の1年後に母は結核を発病、通っていた甲南病院は御影の山手にある

(*5)カキツ
かきつばたの略

(*6)クラブ
県公舎クラブという名前の、県公舎約80戸の住人のための集会場で、約50畳くらいの広さだった

(*7)淡路のお祖父ちゃん
順や義、私の父方祖父

(*8)徳先生
順の告別式を執り行って下さった神戸二宮教会牧師

(*9)病気
父は1942年3月に結核発病、その時、順は数えで4歳、満で2歳8ヶ月

(*10)鬼ヶ島
高松港の沖合い約4kmの瀬戸内海に浮かぶ女木島

(*11)広場
県公舎クラブに隣接した広場で、テニスコート2面分くらいの広さがあった




4.書籍「子を喪へる親の心」について


「子を喪へる親の心」 村田勤・鈴木龍司編  岩波書店 昭12年刊


図3.「子を喪へる親の心」内表紙

この書籍は、妹が亡くなったあと、父の本箱で見つけた。「喪へる」を「うしなえる」と読み、「失える」と同じ意味であることが強く印象に残っている。子を亡くした多くの人の親の気持を集めてものであることは分かるが、私は読みたくはなく、読むのを避けてきた。しかし、捨てることもできなかった。

それは、母の悲しみだけでもう充分だ、という気持でいながら、子に先立たれることはあり得ることなので、ほかの親は、それに対してどのように対処してきたかを知りたい、という気持があったからかも分からない。

幸い、私は子に先立たれることがなかったので、このような母のまとめを書くようなことがなければ、この書籍も他の書籍と同様、読むことなく処分することになるはずだった。

この書に掲載されている事例は、数えたところ55篇ある。その内、内村鑑三、土井晩翠夫人の書かれたものは、いずれも親がクリスチャン、子もクリスチャンで、子はどちらも成人(20歳)になる少し前に結核で亡くなっている。

そこには、信仰の厚いクリスチャン親子の、すさまじいばかりの神を信じる生き方が書かれていて、このような信仰を持てない人間には、ついていけない世界だと思った。医師として、死を迎える人を多く看てきたが、クリスチャンは一般的に死を受容する覚悟のできている人が多い印象を持っている。

西田幾多郎は、「今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだり、して居た者が、忽ち消えて壺中の白骨となるといふのは、如何なる訳であろうか。若し人生はこれまでのものであるといふならば人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ。人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するといふのが人生の一大事である。死の事実の前には生は泡沫の如くである。死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。」(219ページ)と書いている。私が20歳を過ぎたころから考えてきたことに通ずると思う。

また、我が子の死に対して「何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりではなく内からも働く。我々の過失の背後には、不思議の力が支配して居る樣である。後悔の念の起こるのは自己の力を信じすぎるからである。我々はかかる場合に於いて、深く自己の無力なるを知り、己を棄て絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救ひ、又死者に詫びることが出来る。」(220〜221ページ)と書いている。この個所も私の生き方に似ていると思う。

他に、徳田秋声と島崎藤村のものを読んだが、私には共感できるところが少なかった。しかし、西田幾多郎の文を読んだことで、この書を処分せずにいたことの意味を見つけた。




5.まとめ

麻疹に罹り、わずか3日で我が子を亡くした母の悲しみは強かった。これは、その気持を書き綴った母の手記である。我が子順の死の1年ばかり後、母は結核を発病し、それから17年後に死亡した。

「母と歌」と、この「子を亡くした母の心」に続いて、私が知っている「母の一生」を、このあと、まとめておきたいと思っている。


<2013.1.28.>

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