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開業20年目の院長の息子の感想

Born under the doctor

<野村医院20年史(93年11月)から>

2000.12.29. 掲載
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"Born Under the Bad Sign"という曲がある。ブルースの3大Kingと呼ばれたAlbert Kingの曲であるが、ブルースにありがちな、おもしろい位の不幸を歌った曲である。これでいくならば、私はさしづめ、"Under the doctor"(医者のもとに生まれて)といったところであろうか。

幸か不幸か、私は Under the doctor という環境で生まれた。今日は野村医院開院20周年ということで、「知られざる医者の子供の生活」について書いてみようと思う。

結論から言うなら、医者の子供は不幸である。たしかに、様々な点で恵まれているかもしれない。それは十分認める。しかし、医者という仕事は、あまりに忙し過ぎる。

小学生の時だったろうか、当時我が家は、毎年秋の連休に1泊2日で旅行に行っていたのであるが、その年も、例年のように鳥羽にいた。しかも、その年はちょうど私の誕生日と前後していて、いつもより楽しみにしていたのである。楽しい夕食を終えて部屋に帰った時、不幸がおこった。

何と、大阪から電話があり、急患のためにすぐに帰らなくてはならないとのこと。心の中ではよく分かっているのだけれど、とても楽しみにしていただけに、ひどくがっかりした思いがある。医者にとって、急患のための予定変更というのは、日常茶飯の事である。おかげで、私はこの他にも、何度も涙をのんであきらめたことがあったが、さすがに、この時のショックは大きく、今でもはっきりと覚えている。大阪に帰ってから、私は「子供がかわいそうだから、僕は医者にならない」と言った。

また、病院が忙しい時など、晩ご飯は平気で9時10時とずれこむが、我が家は一人っ子であったから、その間の話相手はテレビだけ。それでも、みんなでやる遊びがしたくて、一人四役とか、人が見たら、ただのアブナイ子供のようなことをしていた。と書いていると、本当に不幸だなと思えてきたが、それでもまあ、真っ直ぐに育ってこれたのは、パラドキシカルではあるが、我が家が三人家族であったからだろう。

たしかに、両親は忙しかったし、放ったらかしにもよくされていたが、それ以上に、愛情を持って接してくれたし、その愛情を一人で受けられたように思う。この点では本当に感謝している。

小学生の時、私は「子供がかわいそうだから医者にはならない」と言ったと前に書いた。しかし、今、その自分はというと、医者への道を歩んでいる。我ながら大嘘つきだなと思う。しかも、この道は、父に言われたのでも、母に勧められたのでもなく、あくまで、自分で選んだというおまけつきである。

一体なぜだろう。自分でも思う時がある。人間が好きだから、人間に興味があったから、理由はいろいろあったと思う。しかし、一番大きかったのは、今から思うと父親の姿だったのかもしれない。何か照れるが、一生懸命に患者さんを診ている父はすばらしかったし、かっこよかった。そして、大きかった。私がこの道に進んだのは、案外そんなところにあった気がするのだ。父と同じ道を歩くのは難しい、容易に比較ができるから。

最近、私は下宿をして家を出ているのだが、家に帰ってきて、家の手前の三角道を回る時に思うことがある、「野村医院は父自身だな」と。多分、父は否定するであろうが、私には、野村医院は父にとって宝物であり、父の作ってきた父の人生の一つの具象化のように思えるのである。

自分はどんな医者になれるのかと思い、一番身近な父をみるとやはり大きい。しかし、私は父を越えてやろうと思っている。父と全く同じことをするつもりは、はなからない。父とは違った、自分らしい方法で、父にはない部分を持ってやろうと思っている。野村医院とは違う何か私なりのものを、生もうと思っている。

"Born Under the Doctor"であったことは、"Born Under the Good Sign"だったのかもしれない。少なくとも今は、そう思っている。だから、私は自分の子供にも、 Good Sign だったと思わせられるような医者になりたいし、またそれが父へのお礼であると思う。

少し誉めすぎたようだ。とにかく、20周年おめでとうございます。

(1993年8月、記)


<2000.12.29.>

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