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2015.10.15. 掲載
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目次
スペインを選んだ理由
バルセロナ
アンダルシア地方
●ミハス
●ロンダ
●セビーリャ
●カルモナ
●コルドバ
●グラナダ
ラマンチャ地方
●アルマグロ
●プエルト・ラピセ
●コンスエグラ
マドリード周辺
●トレド
●アランフェス
●マドリード
フラメンコ
パラドール
まとめ
体力の衰えから、今回の旅行を最後の海外旅行と想定してスペインを選んだ。なぜスペインを選んだのか、その理由をまとめてみた。
これまでの海外旅行の場所の選択は、1)自分の人生に関係してきたところか、2)自分が好きな国であるか、そのどちらかにほとんどの場合該当している。美しい景色、絶景、秘境などを見る暇があれば、前記の条件に叶う場所を旅したいと選んできた。
20年前、スペインを最初に選んだ時の理由を思い出してみた
歌謡曲「南の薔薇」 小学6年 12歳
野村俊夫作詞、米山正夫作曲、近江俊郎が歌うこの歌は、明るく軽快で、「君よ歌え 恋の歌を なやましこの胸 燃えたつ恋 南の国 スペインの 君はやさしの 薔薇」という歌詞がたまらなく魅力的だった。ラジオから聴こえてくるこの歌を自分も一緒に歌い、スペインの好印象が刷り込まれていった。
バイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」 中学1年13歳
中学1年から電気蓄音機(電蓄)でSPレコードを毎日聴くようになったが、そのときにハイフェッツが弾くこの曲に聞き惚れていた。作曲はスペインのサラサーテ、この人もバイオリニストなので、超絶な技巧を凝らした曲にしている。「ツィゴイネルワイゼン」とは「ジプシーの歌」というドイツ語である。スペイン音楽に魅了された最初の曲である。
唱歌「追憶」 中学3年 15歳
中学の音楽教科書に載っているスペイン民謡「追憶」は、メロディーも歌詞もセンチメンタルで、中学生に愛唱され、私も「ほしかげやさしく またたくみそら 仰ぎてさまよい 木陰を行けば」とよく歌っていた。
楽器ギター 高校1年 16歳
小遣いを貯めてギターを買った。ギターはスペイン的な楽器で、私は溝渕浩五郎編著のカルカッシ教則本で独習した。ギターの音を愛し、スペインのギタリスト、セゴビアのレコードを愛聴していた。
ピアノ曲「火祭の踊り」 高校1年 16歳
映画「カーネギーホール」で、ルービンシュタインが弾く「火祭の踊り」に圧倒された。ファリアのこの曲から、これまでの親しんできた西洋音楽とは別種の魅力溢れるスペイン音楽に引き込まれていった。
ギター曲「愛のロマンス」 高校2年 17歳
映画「禁じられた遊び」のテーマ曲「愛のロマンス」はスペイン民謡を基に、スペインのギタリスト、ナルシソ・イエペスが編曲、構成、演奏を行って大ヒットした。ギターを弾ける者は、こぞってこの曲にチャレンジしたが、私もこの頃には、この曲を演奏できるようになっていた。甘く切ない音色に陶酔していたと思う。
ギター曲「アルハンブラの思い出」 高校2年 17歳
スペインの作曲家タルレガの作ったギターの名曲「アルハンブラの思い出」は、カルカッシ教則本の最後のページに載っている。このころになると、この曲も何とか弾けるようになっていた。アルハンブラとはどのような宮殿なのか?憧憬の対象だった。
フラメンコギター 1958年 22歳
スペインのギタリスト、ヘスス・ゴンザレス・モイーノの来日公演があった1958年頃から、フラメンコギターに魅かれるようになり、勝田保世著「フラメンコギター教本」で独習し、「マラゲーニャス」などを好んで弾いていた。フラメンコまがいの演奏だが、ギター1本で情熱を発散させることができるフラメンコが好きだった。
ミュージカル曲「見果てぬ夢」 1972年 46歳
スペインと言えば「ドン・キホーテ」を連想するが、私はそれをミュージカル化した「ラマンチャの男」のテーマ曲「見果てぬ夢」を思う。私の生き方とは違うが、どこか尊敬しているところがある。
その他にも、オペラ「カルメン」の「ハバネラ」、「トレアドール(闘牛士の歌)」など、スペインを魅惑する音楽はたくさんある。歌手ではドミンゴ、カレーラス、フリオ・イグレシアスがいる。
以上で、最初のスペイン旅行でこの国を選んだん一番大きな理由が音楽であったことを説明できたと思う。
音楽ほどではないが、美術にも関心があり、海外旅行ではその地の美術館や絵画のある寺院などを訪問している。
私の好きな画家は数名いるが、その内の3人がスペイン人で、ミロ、ピカソ、エル・グレコである。だから、音楽ほどではないが、絵画からも魅力的な国と言える。
スペイン旅行を経験したあとで、スペインを選んだ理由を考えてみると、
まず、ローマ文化、ゲルマンによる制圧、キリスト教文化とイスラム文化の激突と共存という歴史が生んだ多様な文化が好きなこと。
フラメンコの激しい踊り、歯切れの良いギターよりも、フラメンコは歌(カンテ)が心に響く素晴らしいものであることを知り、それに魅せられてしまったこと。
フラメンコには激しさの中に喜びと悲しみがある。死を意識して、生きているかぎり精一杯楽しく生きようとする生き方を感じる。それは私の生き方と同じだ。
最初のスペイン旅行で、ラマンチャ地方のアルマグロという小さな町の広場を、妻と二人で散歩していた。そこへ数名の女子中学生が自転車で通りかかり、私たち二人を見て「イスパニヨーラ?」と尋ねてきた。「ノー」と答えると、笑いながら「ハポネス?」と尋ねる。「シー、シー」と答えると、ニコニコ笑って、手を振りながら去って行った。
このとき、なぜか無性に嬉しくなった。人懐っこく他民族に対して寛容な国だ、ここなら永住できるかもしれないと思った。そして、セビリアで、現地ガイドから、ここには「ハポン」という姓の人間がかなりたくさんいる。彼らは支倉常長の「慶長遣欧使節」に加わった者の子孫だと言われていると聞いたことを思い出した。
20年前の旅行記をホームページに載せた
今から20年前、2回目の海外旅行先にスペインを選んだ。この時の記録はビデオだけ、これを見るのは少々大儀である。そこで、ビデオから静止画(写真)を切り出し、これを使って旅行記をまとめ、真夏のスペイン旅行のタイトルでホームページに掲載した。
これは前回の旅行を思い出すことや、今回の旅行と比較することに役立った。未だホームページに載せていない3件の海外旅行の記録を、これからまとめて行こうと考えている。
選んだツアー
JTBの心ゆく旅 「美しき古都のパラドールとアルハンブラの思い出 情熱の国スペインの魅力総めぐり11」を選んだ。中高年が対象で、強行軍が少なく、ゆったりしていることから、最近では「心ゆく旅」を利用することが多い。
バルセロナから始まり、アンダルシア地方を中心にめぐり、ラマンチア地方を経て、マドリード周辺をめぐり、マドリード発で帰国する11日の旅だった。
バルセロナはスペイン第2の大都市であり、カタルーニャ地方の首都である。カタルーニャ地方独特の文化を持ちながら、スペインの中で最も西欧文化の香りがする地域でもある。
芸術家も非常に個性的で、私の好きなミロはここに生まれ、ピカソはここを踏み台にしてパリに出て行った、ガウディも、私の嫌いなダリも、ここで生まれた。
バルセロナへは1995年と2007年に訪れている。その際に、ミロ美術館やピカソ美術館、カタルーニャ美術館、ミロ公園、スペイン広場での壮大な噴水ショーなどを楽しんだが、今回はそのいずれも経験できなかった。
しかし、ガウディの作品関係では、サグラダ・ファミリアが目を見張る変貌を遂げているのに驚いた。また、バトリョ邸は屋根裏部屋まで登り、ガウディの奇抜な発想を堪能した。しかし、その作品のデザインは感性的に合わず、好きになれない。
彼の作品は曲線が多用され、大自然の生き物が常にモチーフとして登場する。「人間が作り出すものは、すでに自然という偉大な書物に書かれている。人間はそれを読む努力をしなければならない。」と言い、自然を師匠とした。そして自然をそのまま取り入れるだけでなく、極端にデフォルメしたデザインを取り続けたように思えた。
20年前にバルセロナを訪れたとき、グエル公園や、サグラダ・ファミリアの生誕のファサードを見てそれを感じた。 今回はグエル公園や、サグラダ・ファミリアの生誕のファサード、バトリョ邸、ミラ邸などを見て、やはり同じ思いだった。
しかし、サグラダ・ファミリアの教会内部を見て強く感動した。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは全く異なる、これまでにない見事な教会建築であると思った。
あの猥雑なデザインがなくなり、多数の柱群で構成されたユニークなすっきりしたデザインが出現している。20年前の教会内部は、鐘楼に取り囲まれた青天井の何もなしの空間、工事現場の物置きでしかなかった。このあまりの変貌に、妻は同じところを二度訪問するのも良いものだと呟いていた。
ガウディのパトロンで、友人だったエウセビ・グエルが依頼した都市開発プロジェクトが、資金不足などで中断し、現在は公園となっている。斬新なアイデアをたくさん使っているが、デザインが好きになれないものが多かった。以下の図2から図5までは、その中で良いと思った作品である。
既存の建物をリフォームした作品で、建物の正面は色ガラスが上にいくほど青色が薄れ、曲線が多用されたユニークな外観である。
ガウディが31歳から亡くなる73歳までの42年間にわたり、その建築家としての生涯を捧げた作品である。彼は路面電車に轢かれて不慮の死を遂げたが、生前に完成させていたのは、生誕のファサードにそびえ立つ4本の鍾塔のみであった。
以後、ガウディの書いた設計図や模型などを基に、弟子たちに建設が引き継がれたが、スペイン内戦でガウディが遺した模型や実験道具のほとんどは破壊され、ガウディの弟子たちが作成した資料の大部分も焼失してしまった。
それでも、この建築を継承する次世代の建築家たちによって、ガウディの求める姿を推測し、建設が続けられてきた。今回、教会内部を見て驚愕感動したのはその結果である。
この教会内部を見て、もう少し詳しく知りたくなり平面図を探したが、手持ちの書籍には適当なものがなく、Web検索でカタロニア語のwikipediaに載っていることを知り、それを取り込み、日本語の注釈をつけて図11とした。
トウモロコシ型の鍾塔については、この平面図では分からないので、Google Map の航空写真から切り出し、日本語の注釈をつけ図12とした。
20年前のサグラダ・ファミリアの教会内部は天井がなく、資材が乱雑に置かれた場所に過ぎなかった。鍾塔で鳴る時報を教会内部で聴いたことを覚えているくらいである。わずか20年でこれほど工事が進捗し、予想もしていなかった素晴らしい姿を現したことに感動し、これまで嫌っていたガウディの作品について考え直してみた。
ガウディは建築大学の学生のころからさまざまな様式を学び模倣し、試作を重ね、自然を師匠として独自の作風を確立して行った。
サグラダ・ファミリアの主任建築家にわずか31歳でなり、不慮の死で亡くなるまでの42年間をこの建築に没頭した。
この建築に対する構想はできあがり、それを石膏模型や設計図として残したが、スペイン内乱で破壊され、消失した。
彼の自然を取りいれたデザインは、幼児期の生活歴が大きく影響しているのではないか、極端なデフォルメは19世紀末にヨーロッパで流行したアールヌーボー(スペインではモデルニスモ)の影響が大きいのではないかと考えた。
路面電車に轢かれて不慮の死を遂げたが、弟子や次世代の建築家がこの建築を継承した。
ガウディのサグラダ・ファミリア建築の構想は壮大で総合的であった。それを次世代の建築家は尊敬し、継承したのであろう。
彼は心からのホモファーベル(工作人)であったと推定される。作ることが何よりも好きで、したいことであるという気質を持っていたと思われる。乞食と間違われる衣服をまとい、工事現場に寝泊まりをすることが多く、路面電車に轢かれたとき、余りにみすぼらしい衣服なので高名なガウディとは気づかれなかったという話はそれを裏付けていると思う。
20年前の1995年に訪れた時には、完成は200年後といわれたが、ガウディ没後100年目にあたる2026年に完成予定と変わった。それは技術の進歩の影響もあるだろうが、最も大きいのは、ここを訪れる観光客が増えて、入場料収入が増えたことによると聞く。
私が嫌ったあのトウモロコシに似た鍾塔や生誕のファサードの異様なデザインが人々の関心を呼び、観光客を呼び寄せたとしたら、これも彼の功績といえるかもしれない。
20年前、ガウディはスペインの美術関係者の中でダリとともに嫌いな二人だったが、今回の旅行でガウディは嫌いから逆に好きになった。デザインは相変わらず好きになれないが、人として好ましい。良く生きた人、幸せな人だと尊敬する。
アンダルシア地方はスペインの最南部に位置し、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向き合う。8世紀から800年近くイスラム教国の支配が続き、イスラム文化の影響が色濃く残っている地域である。
今回の旅行で一番行きたかったのがこのアンダルシア地方で、バルセロナから国内線でマラガに着き、そこからバスで、ミハス → ロンダ → セビーリャ → カルモナ → コルドバ → グラナダと巡った。
マラガはピカソの生まれた町で、コスタ・デル・ソルの玄関口、マラゲーニャはマラガ地方に起こった舞踊および舞曲である。
図30に書き込んだコスタ・デル・ソル(太陽海岸)は、マラガを中心に東西に広がる地中海沿岸で、スペインきっての国際的観光地である。ここにあるレストランで昼食を食べた。
また、コリア・デル・リオは、セビーリャの南方約15km、グアダルキビール川に面する町である。ここに「ハポン」姓のスペイン人が約600人住んでいて、約400年前に東北から海を渡った「慶長遣欧使節」の末裔とされている。
宮城県は1992年、コリア・デル・リオに佐藤忠良作の支倉常長像を寄贈した。この像はグアダルキビール川に沿った公園に立てられている。この川はコルドバ、セビーリャを流れ、大西洋に注いでいる。2013年、徳仁皇太子がコリア・デル・リオを訪問し、植樹式を行なった。
ツアーで自由時間があれば、ぜひ訪れたかった場所である。
眼下にコスタ・デル・ソル(太陽海岸)を遠望できる海抜420mにある小さな町で、白い家並みとみやげ物店でにぎわっている。世界最小の四角い闘牛場、たくさんのロバのタクシーがたむろしている。
ミハスからコスタ・デル・ソルに戻り、車窓観光をしながら、次の観光地ロンダに向かった
深い渓谷に臨む岩山の上に広がる町。ロンダ山地を流れるグアダレビン川にかかるヌエボ橋とタホと呼ばれる深い渓谷は、スペインを代表する景観のひとつに数えられる。
ここは近代闘牛発祥の地で、貴族が馬上から行っていた闘牛を変革し、赤いマントを使って徒歩で闘う現在のスタイルを闘牛の世界に持ち込んだ。
セビーリャは人口約70万人のスペイン第4の都市である。それよりも、オペラ「カルメン」「ドン・ジョバンニ」「フィガロの結婚」「セビーリャの理髪師」「フィデリオ」などの舞台になった町であることで知られている。
世界中でこれほど多くのオペラの舞台になった都市はほかにはあるまい。また、大航海時代にアメリカ大陸との交易港として繁栄した町である。
アンダルシア地方の地図の説明(図30)で、コリア・デル・リオについて「ハポン」姓のスペイン人が約600人住んでいて、約400年前に東北から海を渡った「慶長遣欧使節」の末裔とされていると書いたが、その話を初めて聞いたのが、ここセビーリャのアルカサールで、20年前、現地ガイドからだった。
そのあと、ラマンチャ地方のアルマグロという町で女子中学から、「エスパニヨーラ?」と尋ねられ嬉しかったが、その時この「慶長遣欧使節」の末裔をすぐ思い出した。
アルカサール(王宮)の少し南にあるスペイン広場は1929年のイベロ・スペイン万博時のメイン会場だったところで、現在は合同庁舎になっている。
セビーリャの北東約40kmにある小高い丘にある町。初夏には無数に咲き誇るひまわりの名所として知られる。14世紀に作られたペドロ1世の居城をを改造して国営ホテルのパラドールとして観光客を迎えている。
コルドバは紀元前のローマの植民地時代から、アンダルシアの中心地だった。哲学者セネカはこの街で生まれたと言われている。
8世紀以降13世紀まで、西のイスラム教国の中心都市で、全盛期は10世紀だった。当時の人口は100万、モスクの数は300を超えていたと言う。コンスタンチノープル(現イスタンブール)に次ぐ2番目に大きい都市だった。
数学、天文学、医学の分野では世界最高の水準を誇り、イスラム、キリスト教、ユダヤの文化が共存し、融合していくことで隆盛を迎えた。
レコンキスタによってイスラム教徒が去っていくと、コルドバの町は次第に衰退していき、現在は人口30万人の静かな町である。
コルドバを流れるグアダルキビール川はセビーリャを通り大西洋に注ぐ。この川にローマ時代に築かれたローマ橋が架かり、橋を渡ったところにカラオーラの塔が建っている。この塔はイスラム教徒時代に要塞として築かれたもの。
メスキータはスペイン語でモスクのこと、単にメスキータと言えば、コルドバのメスキータを指す。西ゴート王国時代に作られたカトリックの聖堂を、イスラム教国時代にモスクに転用し増築、10世紀には世界最大規模のモスクとなった。 レコンキスタ後再度カトリックの聖堂として使用されるが、アーチやミフラーブなどはそのまま残された。
メスキータの北側を囲むように広がる地域は10〜15世紀にかけてユダヤ人が居住していたが、1492年のカトリック二王(フェルナンド王とイサベル女王)によるユダヤ教徒追放令によって国外に追放された。
旧ユダヤ人街は白壁の家が連なり、入り組んだ石畳の小道が迷路のように入り組んでいる。
人が一人通れるほどの小道の白壁の両側に、鉢植えの花が咲き乱れた約20mばかりの小道を、花の小路と呼ぶ。
アルハンブラ宮殿はグラナダ王国最後のナスル王朝の宮殿と、その敷地内にカルロス1世(カルロス5世)が建てた宮殿があるため話がややこしくなる。そこで、図83にナスル朝宮殿の詳細図を載せた。
ナスル朝宮殿は メスアール宮、コマレス宮、ライオン宮の3宮からなっている。
カルロス1世宮殿
16世紀にイサベル女王の孫であるカルロス1世(カルロス5世)が建てたルネサンス様式の宮殿。音響効果がよく、毎夏開かれるグラナダ国際音楽舞踏祭の会場として使われている。なお、カルロス1世とカルロス5世は同一人物で、カルロス5世宮殿とも呼ばれる。
アルカサバ(城塞)
メスアール宮
入口を通って最初にある宮殿。メスアールの間、祈祷室、黄金の間、ファサード、メスアールの中庭からなる。
コマレス宮
アルハンブラ宮殿で最も重要な場所と言われる王の公的な住居。アラヤネスの中庭、大使の間、バルカの間から構成されている。
アラヤネスの中庭
大使の間
バルカの間
ライオン宮
アルハンブラ宮殿で一番のみどころで、王の住居空間。ライオンの中庭、アベンセラヘスの間、二姉妹の間、諸王の間から構成されている。ライオンの中庭を囲むスペースは、王以外の男性は入ることができないハーレムだったとされている。
アベンセラヘスの間
豪族アベンセラヘス一族が最後の王モハメッド12世に惨殺されたという伝説に因んで名付けられた。
二姉妹の間
左右にまったく同じ大理石の敷石があることから名付けられた。
リンダハラの窓
パルタール宮
ナスル朝王宮の出口を出るとすぐに見える別邸。パルタール庭園内にある。アルハンブラで最も古い宮殿。長方形の池の奥にダマスの塔(貴婦人の塔)を配するパルタール宮が建っている
アルハンブラ宮殿からヘネラリーフェへ向かう途中の景色
野外劇場
アルハンブラ宮殿を遠望
ヘネラリーフェの一番の見どころは、約50mのアセキア(水路)のある中庭。水路を緑の草木が縁取り、水路の周りにある左右の噴水から、絶えず水滴が飛び散っている。その周りにはたくさんの花が咲き乱れ、その外側左右を回廊が取り囲んでいる。
タルレガはこの水滴の音からクラシックギターの名曲「アルハンブラの思い出」を作ったと聞く。美しく、それでいてどこか物悲しい調べは、栄華を誇りながら消えたイスラム教徒への哀悼を感じる。
グラナダの王室礼拝堂に、この絵の複製が展示されていた。王室にとって重要な絵だと知り、Wikipediaでこの絵をダウンロードした。
これは歴史的場面を多く描き残した、スペインの画家 Francisco Pradilla が描いたもので、この絵はグラナダ王国最後の王 ボアブディル(Boabdil)が、フェルナンド2世王とイサベル女王が率いる 20万の軍によるアルカサール包囲に屈し、アルハンブラ宮殿を無血開城した1492年1月2日の場面である。
左側の黒い馬に乗っているのがボアブディル王で、手にアルハンブラの鍵を持っている。右側の茶色の馬に乗っているのが、アラゴン王フェルナンド2世、白馬に乗っているのが、カスティーリャ女王イサベル1世である。
二人の王は1469年に結婚したが、後に彼らの子孫の下で同君連合国家としてのスペイン王国が成立した。
グラナダの最後の王となったボアブディル王は、この二人の王に、彼が愛したアルハンブラの鍵を手渡そうとしている。レコンキスタが完成する瞬間である。イスラム王朝800年の歴史はここで終わった。
同年4月、二人の王はユダヤ教徒追放令を公布し追放した。このユダヤ人追放が将来スペインが衰退する原因となったと言う説がある。同年10月、コロンブスはイサベル女王の援助を得て新大陸を発見、スペイン発展のはじまりとなった。スペインにおけるイスラムスの滅亡、スペイン隆盛の始まり、そして、スペイン衰退の遠因の始まりが同じ年にあったということは興味深い。
イサベル女王は敵の宮殿を壊すことなく、逆にその宮殿を愛し、このイスラムの宮殿の敷地内に修道院を建て、自分が死んだら、この修道院に何の飾りもつけずに埋葬してほしいと遺言し、その遺言は実行された。このイサベル女王の生き方も興味深い。図134に見る彼女の顔は、愁いを帯びて優しく美しい。
この絵はそのようなことをいろいろ思い出し、考えさせてくれる。
ラマンチャ地方はマドリード周辺とアンダルシア地方の間にある地域で、ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ(ラマンチャのドン・キホーテ)の舞台である。
夏は格別に暑く冬は格別に寒い。マンチャはアラビア語で乾燥した土地と言う意味だと聞く。
今回の旅行では、アルマグロ、プエルト・ラピセ、コンスエグラを訪れた。
20年前にアルマグロのマヨール広場で嬉しい経験をした。それは、ここを妻と散歩していたときのこと、自転車に乗った数名の中学生らしい女の子に「エスパニョーラ?」と尋ねられた。「ノー」と答えると「ハポネス?」と聞いてくる。「シーシー」と答えると、ニコニコ顔で手を振って離れて行った。
私たち夫婦はこの会話ですっかり気分を良くした。エスパニョーラはスペイン人(女性)、エスパニョールはスペイン人(男性)である。私たちをスペイン人かと尋ねてくれたのは、どこかその雰囲気があるのだろうと解釈したからだ。
今、このアルマグロという町を調べてみると、今回の旅行の準備で買った2冊のガイドブックには記載されていない。20年前の旅行の準備で買ったガイドブック3冊では「地球の歩き方」1冊に、この地の紹介が載っていた。私たちはこれを参考にしてこの町を散策していたのだ。
このようなガイドブックにも載らない小さな田舎町で、若い女の子たちに声を掛けられ、スペイン人か?と尋ねられ、違うとわかると、日本人か?と尋ねられたことを嬉しく思った。日本の小さな田舎町では、ありえないことだろう。
スペインでは、どの町に行っても中心となる広場があり、その広場をマヨール広場(Plaza Mayor)と呼ぶらしい。スペインの田舎の一番美しい広場として、このアルマグロのマヨール広場を挙げる人が多いと聞く。
ここはドン・キホーテの作者セルバンテスがよく泊まった旅籠があった場所で、今はレストランと土産物店に代わっている。20年前もここに立ち寄ったが、その時もツアーの団体客で賑わっていた。
コンスエグラが風車見学の場所として選ばれたのなら正解だろうが、ドン・キホーテの舞台としての風車を見るのなら、ここは不適当だ。余りにも手が加えられ、美しすぎる。人工的観光的である。
ドン・キホーテに出てくる風車は、20年前に見たカンポ・デ・クリプターナの風車でなければならない。その場所は、ここコンスエグラの東南東約30kmにある。
トレドはマドリードから南、約70kmに位置する。三方をタホ川に囲まれ、古代ローマ時代から要塞都市として栄えた。トレドの文化は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の文化が融合された状態で残っている。
1561年にスペインの首都はマドリードに移ったが、宗教では今なおスペイン・カトリックの大司教座として中心地である。カテドラルはそれにふさわしい荘厳さと規模を誇っている。
また、トレドはエル・グレコが愛してやまなかった町としても知られる。
アランフェスは、マドリードの南50kmのところにある、タホ川沿いの緑の美しい王家の保養地である。16世紀に建設が始まり、18世紀後半に完成した。
盲目のロドリーゴが作曲したギターのための協奏曲、アランフェス協奏曲によって、この町の名は世界中に知られるようになった。
中でも、その第2楽章は、「恋のアランフェス」という名前で、ポピュラーとしても多くの人々に愛唱されている。
この「アランフェス協奏曲」は、1940年11月に、バルセロナで、この曲をロドリーゴから献呈されたサインス・デ・ラ・マーサのギターによって初演され、この甘味なメロディは世界中に響き渡った。
マドリードは1561年よりスペインの首都である。スペインには、マドリッドのほかに、セビリアとバルセロナにもスペイン広場がある。イタリアにもスペイン広場があり、それぞれが個性的である。
ここは20年前と比べ、入口も館内もかなり変わっている。写真撮影が禁止のため、Wikipedia より主要作品をダウンロードした。
ゲルニカを大塚国際美術館のコピー、画集やTVなどでは見たことはあるが、実物を見たのは初めてである。20年前は時間がなくて無理だったが、今回はマドリード最後の日の午後が自由時間なので訪問することができた。
市民戦争が始まった年の翌年1937年4月26日、スペインの北部人口6000人の小さな町ゲルニカはドイツ軍機に無差別爆撃をされた。この爆撃によって壊滅状態になったゲルニカの悲報を聞いて、ピカソは滞在中のパリで、構想から完成までわずか1ヶ月という早さで、この作品を仕上げたという。
この絵は、戦いに無関係な一般市民を無差別大量に殺戮する、近代戦争の不条理を示した最初の作品だろう。私たち日本人も太平洋戦争で爆弾、焼夷弾の絨毯爆撃を経験し、広島・長崎では原爆投下により、民間人が大量に死亡し、負傷した。現在アラブの世界を中心に、無人機による一般市民への爆撃が絶えず続けられている。
ピカソは私の好きな画家の一人だが、この絵は好き嫌いを離れて、私たちの心に戦争の理不尽さを強く訴える。彼の類まれな絵を描く力量と強靭な男らしい意志があって生まれた作品だ。この旅行でこの実物を観ることができて本当に良かったと思う。
トーレス・ベルメハス (Torres Bermejas) と言うタブラオでフラメンコ・ディナーショーを鑑賞した。フラメンコは写真ではなく動画で記録するのが正しいと思うので、前回と同じくビデオ撮影をした。
小さな舞台の最前列いわゆるかぶりつきの席で、ダンサーの激しい動きがもろに伝わってきて、緊張興奮の連続だった。
ショーは何回も続くようで、私たちが退席したあとに客が続々入ってくる。
踊りは非常に激しく、極限かと思う状態が続き、見ごたえがあったが、歌(カンテ)が非常に少なく残念だった。
前回はグラナダのサクラモンテの丘の洞窟で、ジプシーのフラメンコもどきの踊りを鑑賞し、バルセロナでは、コルドベス (CORDOBES) というタブラオでフラメンコ・ショーを見た。このフラメンコは、舞台が広く、多人数の出演もあり、華やかだった。しかし、それよりもここでのフラメンコ・ショーが良かったのは、歌(カンテ)にたっぷり時間がとられていたことだった。
私はもともとフラメンコギターに魅せられフラメンコ好きになった。ところが、ここでカンテを聴いて心底感動した。今まで聴いたことのない魂をゆさぶる歌が10分も20分も続く。それに聞き惚れながらカメラを向けビデオを撮り続けた。 踊りについては、前回のも今回のもそれぞれの良さがあり、不満はない。しかし、今回のフラメンコには、カンテがほとんどなく、踊りに合わせた短いものだけだった。期待が大きかっただけに失望も大きかった。
今回もフラメンコの記録をビデオで残したが、ビデオから切り出した写真を、ダンサー一人に2枚づつ載せることにする。
今回参加したJTB心ゆく旅のタイトルは「美しき古都のパラドールとアルハンブラの思い出 情熱の国スペインの魅力総めぐり11」で、パラドールが大きく取り上げられている。
そこで、今回利用したパラドールについてもう一度まとめてみた。前回のスペイン旅行でも一度パラドールに宿泊したことがあったが、その時、パラドールというのは修道院を改造したスペイン独特のホテルのことだと誤解してしまっていた。
しかし、今回の旅行でそれが全くの思い違いであることを知った。パラドールは修道院を改造して作られたホテルだけではなく、城を改造したり、新たに建てたりした「国営のホテル」のことをいうのだ。
パラドールをwebで検索すると、スペインには94ヶ所のパラドールがある。今回利用したパラドールを再掲し、その特色を記載した。
なお、スペインでは1階を0階と呼び、慣れるまでしばらくまごついた。このページでは4階を5階、0階を1階に代えて記載している。いちいち断るのは煩わしいためである。
パラドール・デ・ロンダ 図39.パラドール・デ・ロンダは絶壁のすぐ横に建っている
切り立った崖の上にある町として有名な町ロンダ。1761年に建造された旧市庁舎を改装したパラドールは、100mを越す絶壁を見下ろすヌエボ橋のたもとに建ち、窓からは渓谷のすばらしい眺望が広がる。
パラドール・デ・カルモナ 図67.パラドール・デ・カルモナの玄関
セビーリャから30kmの高台にある町、カルモナは、フェニキア、カルタゴ、ローマ、西ゴート、アラブ、ユダヤ、 リスト教徒と数々の民族が支配し、軍事上の要所としてきた。
14世紀には、ペドロ残酷王と呼ばれたペドロ1世の居城が建設され、数世紀の間、放置され、また2度の地震によって大きなダメージを受けたこの城を19世紀末に再建、復元したものがパラドールとなっている。
美しい庭園やプール、パティオ、ムデハル様式の噴水など、アラブの雰囲気漂う個性的なパラドール。
パラドール・デ・アルマグロ 図146.内側から見たパラドールの入口と中庭
スペインでも1、2を争う美しいマヨール広場を持つというアルマグロ。毎年8月には現代演劇フェスティバル、9月には国際古典劇フェスティバルが開催され、世界各地から演劇ファンがこの町を訪れる。
このマヨール広場から歩いて数分、16世紀のフランシスコ修道院を改装したのがアルマグロのパラドール。旧僧院をそのまま使用した部分と、僧院の畑だった所に増築した部分を合わせると約200平方メートル、その中に54室と14のパティオがあるという贅沢な造りである。
パラドール・デ・トレド 図169.パラドールの5階客室バルコニーから 18時29分
世界遺産に指定されているトレドの旧市街。パラドールはこの素晴らしい街を一望できる最高のロケーションにあり、ライトアップの際には美しい景観が映し出される。
客室の多くからのほか、サロンやテラス、プールからも、蛇行して流れるタホ川の向こうに、歴史そのものの街全景が広がる。パラドールの建物はこの地方独特の邸宅風の造りで、広々とした館内には、ラ・マンチャ地方とトレドの地域色豊かな調度品が飾られている。
1.最後の海外旅行と想定してスペインを選んだのは正解だった。
2.サグラダ・ファミリアの内部の、予想外の素晴らしい変化を見て、ガウディを見直した。
3.20年前、エスパニヨーラ?と声を掛けられたアルマグロは、全く変わりなく、そのままに見えた。
4.観光中は天候に恵まれ、スペインの青空の入った写真を多く撮ることができた。
5.アルハンブラ宮殿とヘネラリーフェ離宮の理解がかなり深まった。
6.アルハンブラを無血開城させたイサベル女王はこの宮殿を愛し、自分の埋葬場所とするよう遺言した。
7.無血開城のその年に、女王の援助でコロンブスは新大陸を発見し、スペインは隆盛へ向かった。
8.古代ローマ文化とイスラム文化の残存、ユダヤ人の追放、ロマ(ジプシー)の影響などを思った。
9.同じ場所を、時間をあけて再度訪れることは、意味があることだと知った。
10.これが最後の海外旅行だと思ったが、もう暫く海外旅行ができそうだという気持に変わった。
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