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ミレイユ・マチュー


2008.05.20. 掲載
2008.10.30. 補足
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2週間ばかり前に、歌の3部作の改定を終えた。2ヶ月間この作業にかかりきりだったので、暫くは一休みするつもりでいた。ところが、自分が最も影響を受けた歌手のことを記録に残しておきたいと思う気持が吹き出してきて、性懲りもなく、まだPCに向かい続けている。しかし、これが無性に楽しいのだから可笑しなものだ。

歌の3部作の一つである歌と思い出を改訂する際に、本文には手をつけなかったが、読み返しはしていた。それがきっかけとなり、自分はどの歌手に一番影響を受けたかを考えてみたくなったのだと思う。


過去に一番影響を受けた歌手

一番影響を受けた歌手の一人はゲルハルト・ヒッシュ(Gerhard Heusch)というドイツのバリトン歌手である。彼の歌うシューベルトの歌曲集「冬の旅」に合わせて大声で歌うことで、人生で最も悩みの多かった高校時代を乗り切れただけでなく、歌とはこのように歌うものだということを学んだ。

そのヒッシュを知る人も今は非常に稀となり、入手できるCDもなく、Youtube でビデオを見つけることもできない。結婚してからは、クラシックを聴くことが少なくなり、彼は私の記憶の中で生きるだけの存在となってしまった。それでも、受けた影響は非常に大きいと思っている。SPレコードは廃棄したが、LP3枚はまだ手許に残している。

私は幼い頃から、歌を聴くよりも歌うのが好きで、主に鼻歌、時には発作的に大声を張り上げて来た。好きな歌手はたくさん居て、CDを1枚以上持っている歌手は英語の歌だけでもざっと数えて50人はいる。しかし、歌い方で影響を受けた歌手はそれほで多くはない。ビング・クロスビー(Bing Crosby)、ナット・キング・コール(Nat King Cole)、トニー・ベネット(Tony Bennett)くらいだろう。


ミレーユ・マチューとの運命的出会い

1989年7月14日に、私は運命的な出会いを持つことになった。その日はフランス革命記念日(巴里祭)で、200周年の記念行事がエッフェル塔の下で行なわれていた。夕食を摂りながら、NHKの実況放送をぼんやり眺めていると、一人の女性歌手がフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌い始めた。

小柄ながら堂々と高らかに歌い上げる彼女を見て、オルレアンの乙女の再来を思い、突き抜けるような澄み切った歌唱を、身を震わせて聴き入った。この世にはこのような信じられないほどの素晴しい歌手がいる、その歌手ミレーユ・マチューに偶然出会えた幸運に心底感謝した。

95年夏、スペイン旅行でナナ・ムスクーリを知るまでの6年間、私の車のカーステレオにはミレーユ・マチューのCDが装填されていて、車に乗るや彼女とデュエットで声を張り上げる時間を至福としてきた。歌はこのように歌うべきだ、これこそ私の求めている歌だと思った。残念ながら、フランス語は皆目分からない。しかし、もともと私は歌詞よりも、メロディーとその歌唱法に歌の魅力を感じる生き方をしてきたので、ラララで歌ったり、ドレミで歌ったりして、あまり支障はなかった。ナナはミレーユの対極にあるような歌い方と声質で、好きな歌手の一人ではあるが、ナナの影響を私はほとんど受けていない。


かっては、日本でもミレーユは人気があったようだ

このように書くと熱狂的なファンと同じではないかと思われるかもしれない。しかし、私が入手できたCDはフランス製の輸入品で、彼女のことを何も知らず、ただ歌にだけ魅了され続けてきたのだった。彼女を知った1989年から10年経った1999年に、「ミレーユ・マチュー〜モリコーネを歌う〜」というCDが発売され、日本語解説を始めて読んだ次第である。ただ、96年からインターネットを始めたので、彼女の情報を少しは知ることができるようになった。

それによると、3度来日公演があったようで、第1回目は1974年11月〜12月、2回目は1976年1月から2月、3回目は1978年5月〜6月で、1回目と3回目はNHKでTV録画も行なっている。その中で、八千草 薫さんと対談しているが、『私、音楽が好きですもの。私の一日は歌で始まるの。』とか、『歌は思い出を連れてくるし、わかり合うための手助けもするわ、歌に心を奪われたら気持ちが晴れるもの。』ということばに共感した。

また、LPは日本で1967年から発売され、1983年までに50種類以上発売されたらしい。CDは1984年から1999年まで7回発売されたようで、その最後が、私の買った唯一の日本製CD「ミレーユ・マチュー〜モリコーネを歌う〜」で、それ以後日本でのCD発売はないようだ。いつもレコード店に立ち寄ると、彼女のCDを探すのだが、フランス製のCDも見つけることができないでいる。シャンソン歌手として、世界一の売り上げだというのに、日本ではシャンソン歌手としてまったく評価されていないのも不思議だ。

今回、これをまとめるため、Web検索をいろいろ試みた結果、HMVとAmazonで、幾つか欲しいフランス製のCDを見つけることができて、現在発注中である。どちらのサイトでも「ミレイユ・マチュー」では見つからず、「Mireille Mathieu」で検索して見つけることができた。輸入品なので入手できるまでに2週間近くかかるようだ。

以上のように、かってはわが国でも人気があったようだが、その時には彼女のことをまったく知らず、日本人ファンの熱が冷めたころに偶然彼女を知り、生涯で一番影響を受ける歌手となったことが面白い。私にはなぜか運命的出会いが多いような気がしてならない。


ミレーユの紹介

これは今回Web検索で得た情報をまとめたもので、日本語のサイトには見るべきものはほとんどなかった。50枚ものLPが発売され、来日公演3回、NHKTVで2回、フジTVで1回放映されたことがあったということが信じられない。かってのファンは今どうしているのだろう?

ミレイユ・マチュー( Mireille Mathieu ) は、1946年7月22日、南フランスのアヴィニョンの貧しい石切工の家で、弟7人妹6人の長女として生まれた。幼い頃から歌が好きで、4歳のときミサで歌ったのが公衆の面前で歌った最初だった。少女の頃から工場で働きながら、歌を歌っていた。

1965年、19歳のときに、テレビののど自慢番組に出場し、「愛の讃歌」を歌って優勝、エディット・ピアフ( Edith Piaf )の再来と言われた。この番組を見たイヴ・モンタンのマネージャーであるジョニー・スターク( Johnny Stark )が彼女のマネージャーとなり、以降、彼女を成功へと導くことになる。翌1966年、MON CREDO(愛の信条)でデビュー。この曲は、ポール・モーリア作曲、アンドレ・パスカル作詞で、以後、数々のヒット曲を出し、インターナショナルな歌手として、フランス語圏だけでなく英語圏をはじめ、ドイツやロシアでの人気も高く、最近はドイツ語盤CDが数多く売り出されている。

2005年11月、パリ・オランピア劇場でデビュー40周年記念コンサートを行った。40年間で発売されたディスクは1億5千万枚、 シャンソン歌手では売上世界一。 歌った歌は9カ国語で1200に及んでいる。英国のエリザベス女王、アメリカのレーガン大統領、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の前で歌ったことでも知られている。彼女の功績に対して、フランス政府はレジョン・ド・ヌール勲章を贈った。

身長153cm、ニックネームは Mimi。フランスのオフィシャルサイトには、ABC順のディスコグラフィーがあり、歌った曲目の年代を調べるのに重宝した。


歌手としてのミレーユの特質

彼女の歌の魅力は何なのか、私が彼女から歌はかく歌うべきものと学んだことは何だったのだろうか?
それは、歌が好きでたまらない気持があふれ、小細工をせず、ひたむきに生き生きと歌を楽しんでいることだと思う。それが、聴く者に感動と生きる喜びを与えるのだろう。

持って生まれた輝くような透き通った声質、153cmの小柄な体躯からはとうてい信じられない豊かな声量、そしてどこまでも真っ直ぐに突き抜けて行く唱法、これをトランペット・ヴォイスというのだろう。

トランペット・ヴォイスと言えば、私が知っている最も優れたテノール歌手マリア・デル・モナコを即座に連想するが、ポップス歌手の中では、彼女がその頂点に立っていると思う。


YoutubeにUpload されたミレーユのビデオ

彼女の歌を紹介したいが、歌をことばで表現することの無意味さは良く分かる。「100文は1聴に如かず」である。そこで、手持ちのCDから、歌のいくつかをMP3ファイルにして、このページに埋め込むことを考え、試みてみた。しかし、ファイルサイズが大きいこと、著作権がクリアーできないことが問題だった。

そこで、いろいろ思案をして、「Youtube」を活用することを思いつき、試してみると、以前に試した時よりも格段の発展がある。これは使えると喜び勇んで、動画で歌と映像を供覧することにした。これなら、著作権も大容量ファイルの問題もなく、歌っている映像まで見ることができる。実際、私は彼女のビデオを見たことがなく、CDケースの写真だけが私の知っている彼女の容姿のすべてだった。歌いぶりは想像していた通りだったが、CDケースで見た写真よりも彼女はずっと美しく、すっかりファンになってしまった(笑)。

YoutubeにUploadされている彼女の動画は、検索してみると580以上あったが、その中で、各年代を代表する曲を選んでみた。画面中央の再生ボタンを押すと、動画は再生され、中止ボタンで中止できる。

La Marseillaise ラ・マルセエーズ

フランス革命200周年記念の巴里祭で、ミレーユ・マチューはこのフランス国歌を歌った。それが彼女を知った最初で、私にとって運命的出会いだった。この動画は録画状態が余り良くないが、兵士たちを従え、格調高く歌い上げる姿に、ジャンヌダルクがオーバーラップし、私は釘付けとなり、魅せられてしまった。

La Marseillaise ラ・マルセエーズ

前の動画は録音状態が悪いので、彼女の歌う「ラ・マルセエーズ」だけを聴くのであれば、フランス国旗だけが表示されるこちらの動画?の方が良い。

Mon Credo 愛の信条 1966

これはミレーユ・マチューのデビュー曲で、ポール・モーリア作曲、アンドレ・パスカル作詞。彼女は20歳、まだ洗練されてはいないが、初々しく、彼女独特の歌唱法はもうこの時から認められる。

Pardonne-moi ce caprice d'enfant 気まぐれを許して1970

私はこの歌が好きで、カーステレオで彼女と一緒に大声を張り上げていた。ミレイユ24歳。この頃には、もう彼女の歌唱法は確立していたようだ。

Non je Ne Regrette rien 水に流して1986

この歌はピアフの最晩年、21歳年下の夫と最後の幸せに浸っていた時に作られた。「いいえ、私は何ひとつ後悔はしない。あなたとともにゼロから再出発するのだから」という歌詞だという。デビュー当時にピアフの再来と言われたミレイユは、敬愛し続けてきたピアフの最後のこの歌を、こころを込めて歌う。私もまたカーステレオで彼女と一緒にこの歌を何度も歌った。ミレイユの歌の真髄がここにあると思う。


ファンになってしまった

私が歌い方で一番影響を受けた歌手のことを、記録に残しておきたいと思って書き始めたが、いろいろ調べているうちに、もうすっかりミミ(Mimi)のファンになってしまった。そこで、ファンとしてのお気に入りの写真を掲載しておくことにする。いずれも、オフィシャルサイトからダウンロードしたものである。生まれてはじめてミー・ハーになった気分だが、それが決して嫌でないのだから可笑しい。

これをまとめていて、もう一つ新しい発見をした。それはめざましく発展を遂げた「Youtube」だった。この活用を考え、それを実行することは非常にエクサイティングである。また、したいことが増えてしまったが、それが嬉しい。



1966年 デビュー時 20歳


1978年 日本公演時 32歳


1981年 35歳 美しい!

(2008.5.20.)

YouTube の動画の6個のうち4個までが削除されてしまっていて再生できなくなっていたので、3個をYouTubeから、1個をその他の動画サイトから選んで貼り付けた。これほど短期間にYouTube の動画が削除されることを知って、大事な動画は積極的にダウンロードしておくことにした。


<2008.10.30.>

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