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感謝の集いと記念アルバム

2005.12.29. 掲載
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感謝の集い

開業20周年には野村医院二十年史を作り、記念パーティーを催すこともできました。ところが、開業30周年では30周年記念の会を持つことも、三十年史を作ることもできず、それに代わる、院長交代披露セレモニーを持つことも叶いませんでした。

そこで、せめて職員と旧職員に対する感謝の集いだけは持ちたいと思いました。気難しい私と、気忙しい妻に長い間協力し助けていただいたお陰で、充実した診療生活を送ることができたことに対して、心から感謝していることを伝えたかったのです。その会場としてリーガロイヤルホテルを選びました。ここは当院の忘年会として利用した回数が一番多く、5回あり、皆で宿泊したこともある思い出の多い場所だからです。

アルバム 思い出野村医院

その準備が一段落したところで、私たちの感謝の気持を表す記念品を差し上げたい気持が強く起こりました。幸いなことに、当院の忘年会・慰労会では88年から必ず記念のスナップ写真を撮ってきました。これを基にしてアルバムを作れば、私たちはもちろんのこと、職員旧職員の皆様にも思い出につながる良い記念品になる可能性があります。

野村医院のイベントは32年間に37回あり、そのうち写真撮影をしたのが32回ありました。そこで、それぞれのイベントから代表的な4枚を選び、ネガフィルムからあらためて印刷をし直しました。ネガフィルムからの印刷は初めての経験なので苦労しましたが、写真ができあがる度に妻とそのときのことを懐かしく思い出す楽しい作業でした。

4枚の写真を選んだ基準は、1)全員が写っているか、2)そのイベントに特徴的なものが写っているか、3)楽しい雰囲気が満ちているものとして、そのほかに1枚は私が写ったものを入れましたが、これは制作者のわがままです。最後のイベントとなった感謝の集いの写真も、これまで通りの形で差し上げると同時に、そのうちの4枚を選んでアルバムに加えました。

アルバムの最初には野村医院全景を載せました。

これは私の一番好きな角度から撮った写真で、93年8月31日撮影です。この写真を野村医院二十年史や野村医院のホームページに載せました。私にとって思い出多い写真です。そうして、145枚の写真からなる野村医院のイベントの記録アルバムが完成した時、その名を「思い出 野村医院」としました。

アルバムは17冊作りました。145x17=2465枚の写真を印刷するために使ったインクカートリッジの量は何と、イエロー:7個、マゼンタ:8個、シアン:8個、マットブラック:1個、フォトブラック:12個、レッド:3個、ブルー:3個、クロスオプティマイザ:3個で、合計:45個にもなりました。

写真のほかに、行事記録、職員名簿、「マイウエイ」を載せました。この歌は私が生きてきた道に一番近い感じがします。岩谷時子さん訳詞のほか、原詩も好きなので、その日本語訳も付けました。


野村医院行事関連年表
 
●    .
  月 日   野村医院行事関係 そのた
●1978       
  08.05   開院式
  09.01   開院
●1978       
  09.01   休診(木)→(日)
●1984    
  01.01   青色みなし法人
  11.29  忘年会 天安門  
●1985    
  12.12  忘年会 リーガロイヤルホテル 「レストランシャンボール」
●1986    
  12.07  忘年会 ホテルニューオオタニ大阪 「サクラ」
●1987    
  12.10  忘年会 ヒルトンプラザ 「海皇」
●1988    
  11.26    
    〜27  忘年会 リーガロイヤルホテル 宿泊
●1989    
  01.01   一人医療法人
  12.02    
    〜03  忘年会 千里石亭 宿泊
●1990    
  06.23  慰労会 天安門  
  12.23  忘年会 ニューポートホテル 「ディナーショウ」
●1991    
  06.20  慰労会 中納言大阪駅前第3ビル店  
  11.30  忘年会 リーガロイヤルホテル 「レストランシャンボール」
●1992    
  07.09  慰労会 ホテルプラザオオサカ 「大湖苑」
  12.10  忘年会 太閤園淀川邸 「二階菊の間」
●1993    
  07.15  慰労会 ひらかた仙亭  
  08.31   20年終了
  11.28  記念パーティー 守口プリンスホテル  .  
●1994    
  07.16  慰労会 守口プリンスホテル  
  11.26  忘年会 ホテル阪急インタナショナル 「マルメゾン」
●1995    
  06.24  慰労会 パノラマスカイレストランアサヒ  
  12.09  忘年会 太閤園 森崎さん表彰
●1996    
  06.22  慰労会 ひらかた仙亭  
  12.14  忘年会 帝国ホテル大阪 「レ・セゾン」
●1997    
  06.28  慰労会 ヒルトン大阪 「王朝」
  11.30  忘年会 ザ・リッツ・カールトン 「ラ・ベ」
●1998    
  06.21  慰労会 スカイビル タワーイースト 「燦宮」
  12.06  忘年会 「レストランシャンボール」 山口、馬場さん表彰
●1999    
  06.26  慰労会 ヒルトン大阪 「王朝」
  11.27  忘年会 ホテルニューオオタニ大阪 「サクラ」
●2000    
  06.24  慰労会 ホテル阪急インタナショナル 「吉兆」
  12.10  忘年会 南海サウスタワーホテル 「アルカンシエール」
●2001    
  07.15  慰労会 ヒルトン大阪 「王朝」
  12.01  忘年会 リーガロイヤルホテル 「ベラ・コスタ」
●2002    
  07.07  慰労会 阪急デパート 「クイーン・アリス」
  12.01  忘年会 阪急デパート 「クイーン・アリス」
●2003    
  07.06  慰労会 安田生命ビル 「ポンテ・ヴェッキオ」
  08.31   30年終了
  12.13  忘年会 「こきづ」
●2004    
  07.19  慰労会 ヒルトン大阪 「王朝」
  12.18  忘年会 「こきづ」  
●2005    
  07.23  慰労会 ヒルトン大阪 「ウインドーズオンザ ワールド」
  08.31   32年終了
  09.01   院長交代
  10.30  感謝の集い 「レストランシャンボール」 (サロンダルジャン)



マイ・ウェイ

日本語訳詞 岩谷 時子

やがて私もこの世を去るだろう
長い年月を私は幸せに
この旅路を今日まで越えてきた
いつも私のやり方で

こころ残りも少しはあるけれど 人がしなければならないことならば
できる限りの力を出してきた
いつも私のやり方で

あなたも見てきた私がしたことを
嵐も恐れずひたすら歩いた
いつも私のやり方で

人を愛して悩んだこともある
若い頃には激しい恋もした
だけど私は一度もしていない
ただ卑怯な真似だけは

人は皆いつかはこの世を去るだろう
誰でも自由な心で暮らそう
私は私の道を行く


作詞:ポール・アンカ
日本語訳 野村 望

And now, the end is near,
( さあ、もう終わりが近づいた )

And so I face the final curtain
( そして、私は最後の幕に向き合っている )

My friend, I'll say it clear,
( 友よ、はっきりと言おう )

I'll state my case of which I'm certain
( 確信を持って私の場合を語ろう )

I've lived a life that's full
( 私は充実した人生を生きてきた )

I've travelled each and every highway
( あらゆるハイウェイを旅してきた )

And more, much more than this, I did it my way
( しかし、それ以上にわが道を歩いた )

Regrets, I've had a few
( 悔いも少しは残っている )

But then again too few to mention
( しかし、それはほんのわずかだ )

I did what I had to do
( しなければならないことを私はやって来た )

And saw it through without exemption
( 逃れることなく、それをやり通してきた )

I planned each charted caurse
( 地図に書かれたコースはすべて試した )

Each careful step along the bi-way
( 脇道にも注意深く足を踏み入れた )

And more much more than this, I did it my way
( しかし、それ以上にわが道を歩いた )

Yes, there were time, I'm sure you knew
( そう、確かにあなたが知っての通りの時もあった )

When I bit off more than I could chew
( 噛み切れぬほどのものに食いついたこともあった )

But through it all, when there was doubt
( しかし、それが疑わしいと思った時には、それを全部 )

I ate it up and spit it out
( 飲み込み、それから吐き出した )

I faced it all, and I stood tall
( 全てに正面から向かい、胸を張って立ってきた )

And did it my way
( それがわが道だった )

I've loved, I've laughed and cried
( 人を愛し、笑い、泣き叫んだこともあった )

I've had my fill, my share of losing
( 充つる喜びも、失う悲しみも知った )

And now, as tears subside
( そして今、涙が乾くとともに )

I find it all so amusing
( すべてが楽しく思い出される )

To think I did all that
( 私はその全てをしたのだと )

And may I say not in a shy way
( そして、卑怯なまねはしなかったと言える )

Oh no ! Oh no, not me, I did it my way
( 決して、決してしなかったと、それがわが道だった )

For what is a man, what has he got
( 人は何のために生きているのだ、手に入れたものが何になるというのだ? )

If not himself, then he has not
( もし、自分自身がしたのでなければ、何も手に入れたことにはならない )

To say the things he truely feels
( 自分が本当に感じることを話すのだ )

And not the words of one who kneels
( 決して媚びる者が話すことばを使うな )

The record shows I took the blows
( いろいろ苦しい目に会った記録はあるが )

And did it my way
( それがわが道だった )


この「感謝の集いと記念アルバム」を、私の32年間の野村医院のまとめとします。


<2005.12.29.>

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