ホーム > サイトマップ > 言葉 > 心に生きることば > 第6章:思考 |
01<知覚> | 02<認識> | 03<ことば> |
04<程度問題> | 05<理屈> | 06<疑う> |
07<専門家> | 08<パラダイム・シフト> | 09<人間の可能性> |
10<生物の不思議> | 11<未知> |
この章を「認識」とするつもりでいたが、それには収まりきれない項目があり、「思考」に変更した。この場合の「思考」は、ものごとを「認識」し、「計画」「予測」「判断」「処理」することと考え、「思考」の出発点である「認識」を中心に、「思考」に関係する項目をまとめることにした。ただし、この領域は途方もなく広く、それに対して、私の心に生きることばは断片的なものであり、「情報」のように系統立ててまとめることはできなかった。「思考」の中心となる「問題解決」などについては、第4章:解決に詳述した。
人間の知覚というのは不思議なもので、その気がなければ、事物が存在していてもそれを知覚しないことが良くある。関心がなければ目に入らない、耳に聞こえてこないというのが、人間の特質かも知れない。
解説を読みながら音楽を鑑賞する人、自分の感覚の趣くままに音楽を楽しむ人、ものごとを理解するのに、ことばをより重視するタイプの人、自分の直感をより大切にするタイプの人、さまざまである。
そのように分けた場合、私は間違いなく自分の感覚、自分の直感を重視するタイプだ。能書き、解説書をもちろん活用はするけれど、一番大事なのは自分の感性、直感である。いくら高く評価されているものでも、自分に合わないものに合わすことをしない。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、嫌いなものを好きであるように見せようとすることは嫌いだ。
人間は、一度に多くの種類と量の情報を取り込まなければならないので、その取り込みはおおまかになる。その後で、注意を引いた情報に当たる。これは人間の認識の特徴であり長所であるが、時には欠点になることもある。
個々の事物に対して、例えば「歩行」とか「りんご」などの名前を付けて認識する。
違う名前の事物から、例えば「歩行」「水泳」「登山」などから、新しく「運動」とい名前を作り、「りんご」「みかん」「ぶどう」から「果物」という名前をつける。更、にこのような名前の事物から、より抽象度の高い(階層が上の)名前を付ける。
ことばには、ものごとを「認識」し「判断」する「思考」、ものごとを伝える「伝達」、ことばで作り出す「創造」という、3つのはたらきがあるが、この章では「思考」に関係することばを取り上げる。
私が11歳の春に、妹の順は麻疹で突然亡くなった。その時、はじめて聖書を読み、この「はじめにことばあり、ことばは神なりき」を知った。その時には、「はじめにことばあり」とは何と変なことを言うのかと思い、「ことばは神なりき」とは何を意味するのか、全く分からず、ただ、強く心に残ってきた。それから、もう55年が過ぎたというのに、今も忘れられない不思議なことばである。
この「ことば」とは、ギリシャ語のロゴスの訳だという。万物のはじめに真理があり、真理こそ神であるという意味なのかも分からないが、何ともわけの分からない、それでいて妙に心に残ることばではある。
人間にとって、「ことば」が何よりも重要なものであることは、疑う余地がない。しかし、はじめに自然があり、それを認識する手段として、人間はことばを作ってきた。それが思考、伝達、創造の手段として発展して行ったと考える方が、理に適っていると私は思う。
物の名前は、個々の物からその共通部分を取り出して、一般化したものであり、同じ名前であっても、個々に違いがあるのは当然で、抽象度が高くなるほど、個々の違いは大きくなる。その違いを考えず、一般名で考えると大きな間違いを犯すことがある。
私は「そば」が好きだが、それは私の好みの「そば」であり、その反対の嫌いな「そば」もある。ところが、私が「そば」好きだと知って、誰かが「そば」を下さった場合、それが「うどんもどき」の「そば」だったりすると、悪いとは思いながらも、腹立たしくなってしまう。
「そば1、そば2、そばN」という表現は、このように、個々の物の中でのバラツキが大きい一般名については、良くそのことを理解しておかなければならないという意味で、使うことが多い。
色彩についても、私は赤色が好きだと一般的には言えるが、嫌な赤もある。赤にもいろいろ違いがあることを示す場合に、「赤1、赤2、赤3....赤N」というフレーズを使う。
この、「コトバは物でない、地図は現地ではない」というフレーズは、「ことばと事実」との関係を「地図と現地」を例にあげて説明している。これはS.I.ハヤカワ著、大久保忠利訳「思考と行動における言語」1951年岩波書店刊、定価270円に記載されていることばである。
この本もまた、私が高校から大学に進んだ頃に読み、大きな影響を受けた書物の一つで、私が「ことばと事実」との関係や、「ことばの魔術」「ことばの限界」などに関心を持つきっかけとなった書物である。
今、これを50年ぶりに取り出してみると、ほとんどその中身を覚えていない。しかし、「ことばは、それが指示する対象そのものではなく、対象との関係を示している」という根本的な部分は、間違わずに覚えている。
読み返しているうちに、前項で「そば1、そば2、そばN」と書いたその由来が、この書物にあることが分かった。ここで、ハヤカワは、「牡牛1は牡牛2ではない」と書いているのだ。しかも、このような1、2などの見出し番号(index numbers)を付けるのは、コージブスキーという人の提唱であることも書いている。それを知って、50年前の読書の影響が、今も残っていることに驚いた。
いろいろな検査で、正常値とか正常範囲とかということばが使われる。これらは、ほとんどの場合、健康な人間の集団に属する95%の人間のデータが占める範囲を指している。つまり、正常な人間の5%は、この範囲から外れていることになる。
ところが、いったん正常値、あるいは正常範囲というレッテルを貼られると、そのよう条件は取り除かれ、この範囲を外れたものは、全て異常であるという風に、正常値がひとり歩きしてしまいやすい。
難儀なことには、検査の結果を説明をする側の者まで、正常値や正常範囲というものが、健常者の95%の者について当てはまるデータであることを知らないか、忘れていることが多いのだ。
実験とか統計で結論を出す場合、仮説検定という統計処理を行い、その結論が間違っている危険率が5%または1%以下の場合に、真実であると判定する。通常は危険率5%をとるが、危険率1%以下の場合は、より真実に近いと判断する。だから、実験や統計で得られた結論というものは、95%の真実、99%の真実と言うことができる。
それを、100%の真実のように誤解するところから、間違いが生じる。危険率は有意水準とも呼ばれ、最近はp値ということばが使われることも多い。
聖書に書かれているように、「ことばは神である」と思うことはないが、ことばが何ものにも変えがたい大切なツールであることは、疑う余地がない。
しかし、ことばというものは、上にも書いたように不完全なものである。そのことを充分承知した上で、ことばを使うことが、誤った思考に陥る危険を少なくする技術であろう。
ある文章の中に、知らないことばが少しあったとしても、その文脈から推測して、その知らないことばのおおよその意味は、理解できることがよくある。知らないことばの意味を、辞書から見つける場合でも、辞書に書かれている多くの意味の中から、適切な意味を見出すには、やはり文脈に当たらなければならないだろう。文脈の中で関係をつけてことばを理解するということも、大切なテクニックである。
私は中高生の頃から、すぐに一般化して意見を言う習癖があり、わずかのケースから、「男はおだてに弱い」とか「女は弱そうで強い」などと判断をするので、友人にたしなめられることが多かった。
確かに、少数例からの一般化による類推は、事実を誤る危険が大きい。しかし、一般化することによって、新しい発見や創造が生まれることがあるのも事実で、これは人間だけが持つ優れた能力であろう。
ことば抜きで考えることは、不可能ではないとしても、非常に困難である。ことばは、考えるための必須の道具だと言える。だから、ここで「ことばで考える人」と書いたのは、正確には、「ほとんど、ことばだけで考える人」という意味である。
ことばは確かに重要であるが、不完全でもある。事物と100%対応することはない。場合によっては、対応する部分がわずかしかない場合もあり得る。
「ことばで考える人」は、それを理解せず、現実と対応する部分の少ないことばに対しても、100%近い対応をしているとの前提でものごとを考える。そのため、考える度に現実から離れて行く可能性がある。
その場合、なるほど理屈は通っている、理路整然としているが、大きく間違っているということが起こり得るのだ。
私は少なくとも医師になったころから、定量化しにくい、好き、嫌い、痛い、美味いなどという質的なものも、定量的に表すように心がけてきた。
大抵は(ない)(少しある)(ある)(非常に)という4段階の半定量になるが、それでも役に立つことが多かった。診療の場面では、より簡略にカルテ記載ができるように、専ら(−)(±)(+)(++)を使ってきた。
私は日常でも、定量的に、できるだけ程度問題として、考えようとすることが多く、「天秤にかけてみる」などのことばも良く使う。
「五十歩を以て百歩を笑わば則ち如何」ということばがある。簡単には「50歩100歩」と言って、多少の違いはあっても大差がないとか、本質的には同じことだと言う意味に使われている。
しかし、へそ曲がりの私は、50歩逃げたのと100歩逃げたのでは、たとえわずかでも、差があることに意味を見つけたいと思う。臆病さに差がある、情勢判断力に差がある、あるいは行動力に差があるというように、その差を大切に考えたい。それは、その差が、他の状況では非常に大きな差となって返ってくることもあり得る、と思うからだ。
統計学の用語から援用した私の観念的な物の見方である。例えば、複数の要素から成り立っているものを評価するのに、それぞれの要素を単純に加算して平均を出すのではなく、各要素に重みをかけ、その平均を見ようという考え方だ。
例えば、一つのグループの中で、あることがらが好きという者が4名、嫌いという者が6名いたとする。「好き」を(+)とし、「嫌い」を(−)として、+4 −6 =−2 、このグループとしての「好き嫌い」を単純平均値、−2 ÷10 =−0.2、で代表させることもできる。
「好き」にも2段階の程度をつけ、(++)(+)、「嫌い」にも2段階の程度をつけ、(−−)(−)として、(++)が4名、(+)が0名、(−−)が1名、(−)が5名だった場合、加重平均では(+2 ×4 )+(+1 ×0 )+(−2 ×1 )+(−1 ×5 )=+1
このグループとしての「好き嫌い」の加重平均値は、+1 ÷10 =+0.1、となる。どちらがこのグループの「好き嫌い」の程度をより代表しているかと言えば、加重平均の+0.1をとるのが普通ではないだろうか?
「多数決」は民主主義の原則であり、そのグループの意思を決めるためには、いたしかたのない方法ではある。しかし、その判断が正しいか否かと多数決とは関係がない。99人の愚者と1人の賢人の意見が違った場合のことを考えると、そのことは明白である。
「単純平均」は「多数決」に似ているところがあり、正しい判断には「加重平均」の方がより望ましい。
私たち夫婦にはこどもが一人しかいない。そのことを大学時代の友人である浜田辰巳君に話したときに、即座に彼の口から出たことばが、「1は0と比べて無限大である」であった。いつも物静かで、知的だった彼らしい表現だと感心した。彼はこどもに恵まれなかった。そして、このことばを聞いてから、私たち夫婦は、こどもが「一人っ子」であることに拘らなくなった。
Indulged in too excess, reading becames a vice.
このことばを、私は大学受験の頃に知った。第3章:教育 03<学校教育>のところで述べた、朱牟田夏雄「英語の學び方」に載っていたことばである。当時の私は、読書を大切に思っていたので、読書も過ぎれば悪になるということばには、かなり衝撃を受けた。しかし、考えてみればその通りに違いない。そして、更に一般化して「度を越せばすべては悪となる」が、私の心に刻みこまれた。
この「読書も過ぎれば悪になる」を、今までサマーセット・モームのことばと思い込んで来た。50年ぶりに原本を見てみると、次のページに出て来る文章がモームのもので、これは昭和25年の某大学の入試問題の一部であることが分かった。いかにも私らしいハヤトチリで、ただ、苦笑あるのみである。
この「英語の學び方」に載っていた幾つかの英語のフレーズによって、その後の私の生き方や考え方は、かなり影響を受けていると思う。
これは、ものごとの程度を超えたゆき過ぎが、不足していることと同じように、良くないことだという孔子のことばである。「読書も過ぎれば悪になる」と少し似ているが、上記のことばのようなインパクトは受けなかった。それは、中庸を勧めることが目的のことばのように感じられるためかもしれない。
追加フレーズ(2008/11/11)
外見が似ているということで、中身がまったく違うものを、同じと誤って判断してしまう危険を教える諺である。味噌と糞を間違うことはないだろうが、現実には、本当は味噌であること、糞であることを見抜くことができず、それぞれを対等のものとして取り扱い、それが公平であると誤って考えることがしばしばある。
また、喧嘩両成敗という判定法が、何の疑いもなく容認される傾向にあるが、実際は悪い割合が90%の者と10%の者を、どちらも50%悪いと判定してしまう誤りを犯すことがある。
味噌糞は質の違いを同じとしてしまう誤り、喧嘩両成敗は異なる程度を同じとしてしまう誤りであるが、その誤りに気づかないことが多いので注意が必要である。
私は昔から理詰めで考えることが苦手だった。理屈よりも勘とか感覚が優先してしまうのは、左脳よりも右脳の方が発達してしまったせいかもしれないと思っている。ゲルマン系よりもラテン系の思考をするようだ。
このことわざについて、第5章:情報 03<情報の評価>でも取り上げた。よほど、このことわざに関心があるのかもしれない。
これはよく知られているように、「大風が吹くと砂ぼこりで盲人が多くなり、その盲人は三味線を習うから猫の皮が必要となる、そして猫が捕えられると鼠が増え、鼠は桶をかじって壊すから、桶屋が繁盛する」というお話である。
この話の論理の間違いは誰にもすぐに分かる。しかし、もう少し高級で、理路整然としているように見えるが、よく考えると論理が間違っていたり、事実と違っている議論に遭遇することがある。私は理屈っぽい話を好まぬ例証として、常にこのことわざを頭に置いているようだ。
このことわざは、「膏薬が、からだのどこにでも付けられるように、理屈を付けようと思えば、どんなことにも、もっともらしい理屈をつけられる」という意味である。理屈っぽい話が嫌いな例証の一つに加えている。
これも理屈っぽい話が苦手な私の、独善的なフレーズである。昔から、理屈よりも直感で考えるタイプなので、ゴチャゴチャ理屈を並べられると、もう嫌やだと、拒絶反応が起きてしまう。
このようなことばを作ったのは、言ってみれば自己防衛のためかもしれない。「そう言うお前も、ずいぶん理屈っぽいではないか」と言われると、返すことばが見つからないのだが、、、
どのような規則にも、それを適用しきれない例外は必ずある、ものごとは、理屈や規則通りには行かないことが多いという真理である。しかし、例外が多すぎるというのは、その理屈や規則に問題があることを示している。
理屈では納得できても、「嫌いなものは嫌い」という「感情論理」は、多かれ少なかれあるものだ。それはなぜか、女性の方に多いような気がするが、私の経験則であり、間違っているかもしれない。「感情」も「思考」と関わりがあり、人間の「思考」は総合的・直観的であると思う。
ここで「疑う」というのは、思想とか常識などに対してであり、人間を「疑う」ことではない。人間に対しては「信じる」が基本である。
私は元来へそ曲がりなのか、もっともらしい話でも、何か腑に落ちないところがあると、「ちょっと待てよ、本当かな」と思ってしまう。
フランス人は、あれほど脂っこい食べ物をたくさん食べるのに、狭心症や心筋梗塞になる人が少ないという「フレンチ・パラドックス」がある。その理由として、赤ワインをよく飲む、赤ワインにはポリフェノールが多く含まれている、それで動脈硬化が進み難いという説が最近盛んに唱えられている。
それに対して、確かにそれも関係しているかもしれないが、もっと他の理由があるのではないか? 例えば、赤ワインを愛飲する国は、フランス、イタリア、スペインなどのラテン系民族である。ラテン系の人たちは、くよくよせず人生を享楽しようとするので、ストレスがたまり難く、そのために狭心症や心筋梗塞が少ないとも考えられるではないか、と言う風に思ってしまうのだ。
常識的なこと、紋切り型の意見などを見聞きするうちに、生来のへそ曲がりが頭をもたげ、「健康には腹八分目」と誰もが言うのに反発して「腹十二分目でも健康」と唱えてみたり、「酒は人肌燗」という通の常識に「酒は超熱燗」と異議を唱え、「ビールは麒麟のラガー」には「ビールはスーパードライ」、「健康には良く噛んでゆっくり食べる」には「早食いでも健康」、「健康のために運動」には「運動をしなくても健康」という調子である。
「一人っ子はそれだけで病気」には「一人っ子でも普通の子に育てられる」、「自分に厳しいから他人にも厳しい」には「自分に厳しければ、他人に厳しくなれない」、「今日できることを明日まで延ばすな」には「明日できることを今日はしない」、「50歩と100歩は同じ」には「50歩と100歩は違う」など、書き出すときりがないので、このくらいにしておく。
ただし、私は反対のための反対をしてきたつもりはない。ステレオタイプの考え方、見方に対して、このような場合もあるのだ、いろいろな違った意見や考えを認めよう、画一化された社会は退屈なばかりか進歩発展がなく、一つの方向に流されてしまう危険があると言いたいのだ。
私は軍国少年で育ったが、敗戦で軍国主義は消滅し、民主主義、共産主義、社会主義、資本主義、ヒューマニズム、実存主義、科学主義などの流行を体験してきた。しかし、私たち世代の宿命か、あるいは私個人の嗜好からか、そのいずれに対しても、全幅の心酔をすることはなかった。
普通は「問題」に対して、それを「解決」をすることに疑いを持つことはない。しかし、時には、その「問題自体」に対して疑いを持つ場合もある。
例えば、「長生きをするには、どうすれば良いか?」と言う問題に対して、「長生きをすることに、どんな意味があるのか?」という疑問、あるいは自明のことされている「長生きすることは、価値がある」という前提が、どのような場合でも正しいのか、という疑問を抱く。
この「疑い深い化学者」ということばは、50年ばかり前の大学受験の頃に読んだ原光雄著「化学入門」の、私の要約のつもりだった。これまでも、受験勉強の頃に読んだ本で、それ以後の私の生き方、考え方に大きな影響を受けた書物について触れてきたが、これもまた「科学の方法」を教えてもらった大切な本である。
私は、自分が影響を受けた書物は、できるだけ残すようにしてきたので、9割近くは書庫に残っている。この原光雄著「化学入門」を50年ぶりに手にしてみると、岩波新書 昭和28年刊、100円とある。
読んでみると、細かいことはほとんど忘れているが、仮説を立て、それを実験で検証し、より真理に近づこうとする科学的方法について、この書物で学んだことを改めて確認した。
ただ、私がこの書物の内容の要約とした「疑い深い化学者」ということばは、探した限りでは見つからなかった。私のことばで要約した読後感なのだろう。
これは英国の哲学者バートランド・ラッセルのことばで、私もそのように思う。
「盡信書則不如無書」、書物に書かれていることをすべて信じるなら、書物などない方がずっと良い。書物は盲信的ではなく、批判的に読むべきである、という孟子のことばであるが、私もそう思ってきた。
追加フレーズ(2008/11/11)
私が人生で大きな影響を受けた最初の本が、「デミアン」高橋健二訳 岩波文庫1939年発行である。聖書に書かれていることを疑い、別の解釈ができるというデミアンのことばに、少年シンクレールが驚きながら、それを理解していく個所がある。中学2・3年頃、この主人公デミアンと友人のシンクレールを真似て生きようとしていた。
追加フレーズ(2008/11/11)
大学に入った頃、物理学者武谷三男などの一般啓蒙書から、科学とは何かということを学んだ。その中でおどろき、納得したことは、「ニュートン力学は相対性理論にとって代わられたが、ニュートン力学が否定されたのではなく、より包括的な理論に発展したもので、この相対性理論も、それを越える理論に発展的に包括されるかもしれない」という科学の方法であった。
理論は、またより包括的な理論にとって代わられる運命にある。理論も仮説の一種と考えられる。だから、科学とは一番新しい仮説であるということができる。
追加フレーズ(2008/11/11)
ノーベル賞受賞物理学者ファインマンの、このことばは不思議ではない。科学は限りなく真理に近づこうとするが、真理になり得ないものであると理解してきた。
追加フレーズ(2008/11/11)
正しい事実がいくら多く検証されたとしても、一つの反証が現れれば、その理論(仮説)は駄目になる。それを潔く認めるのが科学である。反証可能性のあるのが科学で、反証できないものはエセ科学であったり、宗教であり、何とか主義であるというポパーの規準は明解である。
一応この仮説で説明がつくが、説明がつかないことが現れ、それが新しい仮説で説明がつくなら、新しい仮説が最新の科学となるということだ。ある仮説が「科学的に正しい」とされるのは、反証されない間である。比較的短い期間で反証されてしまう仮説もあれば、数百年といった期間、反証されていない仮説もある。
科学上の仮説は「信じる」ものではなく、「疑う」ものである。疑って疑って、それでも反証できなかったから、とりあえず、今のところは正しいとしておこうというだけである。
追加フレーズ(2008/11/11)
03<ことば>の5. 95%の真実(望)で述べたように、医学や一般科学では「仮説検定」ということばがよく使われる。これは相対性理論とか進化論とかという根源的な仮説とまったく違う意味の仮説である。
仮説検定では、比較するものには差がないという「帰無仮説」と、比較するものには差があるという「対立仮説」を立てて、「帰無仮説」が正しくないと判定された場合は、仮説が棄却されると言う。この場合、比較するものには差があるという「対立仮説」が間接的に認めら、意味のある差(有意差)があると判定されたことになる。
その場合の判定を誤る確率を有意水準と呼ぶ。0.05(5%)の有意水準で「帰無仮説」が棄却されると、その結果、5%の危険率で有意差があると判定される。有意水準(危険率)は、小さければ小さいほど有意差の確かさが高まる。自然現象では通常5%が用いられるが、1%では、より真実に近くなる。
「餅は餅屋」ということわざがある。餅はやはり餅屋のついた餅がうまい。ものごとには、それぞれ専門家があり、素人より優れているという意味でよく使われている。それを信じている人は多い。しかし、素人に毛が生えた程度のプロや、素人にも劣るプロも居る。また、玄人はだしのアマチュアもいる。だから、餅は餅屋に、とは限らないと思っている。
いったん、プロフェッショナルというレッテルが貼られると、そのことばが一人歩きし、実体のないプロが、実体のあるものと認識され、誤った評価がされるという、これはその典型例だと思う。
産業の発達、技術の進化、知識の増大は社会を巨大にしてきた。巨大化した社会では、分業システムが著しく細分化され、それぞれの分野での専門家が重視されるようになった。政治は政治家に、病気は医者に、学問は大学に、餅は餅屋にすべて任せようという社会である。
しかし、この巨大化した現代の分業社会は、行き詰まっている。これからの新しい社会では、専門のことしか分からない「専門バカ」の必要度は低くなるのではなかろうか?
そして、これまで出番がなかったレオナルド・ダ・ヴィンチ、平賀源内のように、多方面に才能を持つ万能型の人間が求められるのではなかろうか? あるいは、二つ以上の専門を持った人間とか、社会の変化に対応できる能力を持った人間が求められるような気がする。
現代は混迷の時代である。これまでの問題の取り組み方では、問題をうまく処理できなくなっている。それは、政治、経済、社会、医療を含めて多くの分野、多くの組織で見られる現象で、過去の枠組み(パラダイム)が崩壊し、新しいパラダイムが求められている。
個人が組織に頼っておれば良かった時代は終わり、色々なことに対処できる知識や能力を、自分で身につけなければならなくなってきている。その場合に、情報処理ツールとしてのコンピュータの活用は、大きなウエイトを占めるのではないかという気がする。
とにかく、思考の転換がどのようなものになるのか、興味津々で、死ぬまでにその傾向を知ることができれば幸いだ。
始めての海外旅行でポンペイ遺跡を訪れた時、2000年前の文化や人間の営みが、私たちのそれと大差ないことを知って衝撃を受けた。その後も、アクロポリス時代のギリシャ文明の遺物に接し、また、トルコのエフェソス遺跡も目にした。そして、それよりもはるか昔の、今から3500年前、クレタ島にミノア文明が存在していたことを知って、その思いはますます強くなった。
人類の進化というものが、1000年のような単位ではなくて、もっと遅々たるものであり、自分の一生は、その流れの中のほんの僅かの期間に過ぎないことに感慨を覚える。何千年も昔から、変わることなく、人は生まれ、喜び、悲しみ、人を愛し、子を育て、争い、そして死んで行った。
この2〜3000年前の人を、タイムマシーンに乗せて現在に連れてきたとしたら、この現代社会で、私たちと同じようにコンピュータを駆使し、私たちと何ら変わらない生活を営むことができるのだろうと思う。
現在の私たちの文明は、人類の過去の遺産の集大成として成り立っているのであり、人間自身が進化したことによるのではない。技術が進歩し、知識がどれほど増大しても、それを使う人間自身は、ほとんど進化していない。人間自身の進化は遅々たるものであるが、文明の伝承という、他の生物にない能力を持ったことが、現在の高度な文明社会を築き上げることになった、と考えて間違いはないだろう。
以前から月曜日の夕食時にNHKの「生きもの地球紀行」を時々見てきた。それが2001年からは「地球・ふしぎ大自然」と変わると、俄然面白くなり、ほとんど毎週欠かさずに見ている。これを見る度に、何万年もの時間を経て動物が環境に適応しようとして変化してきた姿を知り、感動する。同時に、現在の私たち人間もまた、その莫大な時間の流れの中にいる1点であることを思い知らされる。
There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.
ローレンス・オリビエのハムレットを、神戸の阪急会館で父と観たのは、1949年だから中学1年である。私はこの映画に圧倒された。断片的に幾つかの光景を思い出すが、その一つは、ハムレットが友人のホレーショに「ホレーショ君、この世の中には君の哲学では分らないことがあるんだよ」と語りかける場面だ。
この英語の台詞は、高校に入って何かの本に載っていたのを、書き留めて置いたものだと思う。このことばは、それから50年も過ぎたというのに、今でも妙に心に残っている。いかに科学が進んだとしても、この世には分からないことがあるのだということばに、共感するからであろう。
この章の冒頭に書いたように、ここでは「思考」の出発点である「認識」に重点をおいてまとめた。「思考」の中心となる「問題解決」などについては、第4章:解決に詳述した。
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