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死期を想定して生きる

2006.02.08. 掲載
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昨秋に、32年間の開業医生活を終え、今は、余生に入っている。私は、50歳のころから、自分の死亡時期を70歳(71歳になるまで)と想定して生きてきたので、残りの人生は短い。もちろん、自死をするのでなければ、死期などを決めることはできない。死刑囚でさえ、刑執行直前になるまで、日時は分からないだろう。末期癌などの病人も、おおよその時期を予想できるかもしれないが、それもあまり確かではない。

それでも、私は自分の死亡時期を想定して生きてきた。どうも、このような生き方をする人間は少ないようだ。最初のころは、妻をはじめ友人も、また他のだれもが、まともに聞いてはくれず、「死ぬ、死ぬという者で死んだ者はいない」と軽くあしらわれてきた。しかし、最近になって、少し風向きが変わってきた気配がする。そこで、人とはちょっと違う、「死期を想定して生きる生き方」をご紹介したい。

お読みいただくとお分かりになると思うが、私の死生観は直感と、小学生でも分かる単純な論理と計算から成り立っている。古今東西の先人の叡智を比較検討し、学んで得たものではない。これを死生観というには、いささか恥ずかしいが、このような単純な考え方でも、私が生きていく上では有用であった。


死を強く意識した時

私が11歳の1947年5月に、8歳の妹が麻疹に罹り、3日目の朝、突然起き上がってうわ言をしゃべると、そのまま死んでしまった。死亡診断書の死因は麻疹肺炎だった。色白で可愛い妹は、食べるのが遅く、私はそのおやつを掠め取ってよく泣かせていた。このような幼い妹に対して、死という理不尽な運命が襲うことに、強い衝撃を受けた。そして、人の命の明日が分からないこと、それに逆らうすべがなく、運命だと諦めなければならないことを思い知らされた。


私はまた29歳で母親を失くした。悲しみはこのときの方が強かったが、死を意識した度合いは、妹の死の方が比べようもなく大きかった。私は、しようがないことはしようがないと、未練なく諦めることができる。また、始まりよりも終わりを、出会いよりも別れを大切に思う人間だが、それには、この11歳の体験が強く関係しているに違いない。


生きる価値を見つけた時

20代はじめの頃、生きる価値の基準について考え続けたことがあった。ある時、生き物が与えられた命を、精一杯発揮して生きること、「生命の発揮」を、生きる価値の基準と考えると、これまで漠然と自分の頭にあった生きる価値を、体系的に説明することができるという考えが閃いた。

個々の生き物が、精一杯生きて死ぬことだけでも価値はある。しかし、それを次に続くもの(子孫)につなげるとか、一緒に生きるものの生命を充実させるのに役立つことも、それに劣らぬ価値があることになる。

人が「与えられた命を、精一杯発揮して生きる」とは、単に生きているだけではなく、生きている実感が感じられるように生きること、つまりは、その生きていることを、喜び楽しむことで、私の場合は、自分のしたいことを精一杯する、ということとほぼ同じになる。

もちろん、それでは「なぜ精一杯生きることに価値があるのか」という問題は残る。しかし、それはいくら考えても分からないことで、大前提、公理、信仰のようなものである。とにかく、この価値の基準を見つけて私は満足した。そして、それ以上深く考えることをして来なかった。


悔いのないように生きたいと思い始めた時

私が29歳の時に母は亡くなったが、その頃から「死ぬ時に悔いのないように生きたい」と思うようになっていた。具体的には、「死ぬ時に悔いのないように、したいことを精一杯しよう」ということだった。

私が30歳の時に、故曲直部先生が第一外科の教授に就任すると、新医局長となられた西崎先生は、新しく身上調査票を医局員全員に書かせた。その中に将来像に関する項目があったが、私は「死ぬ時に悔いのないように生きたい」と書いた。その後、何かの機会で西崎先生とお話した時、生き方について書いていたのは私だけだったことを知らされた。そのことから、少なくとも30歳頃までには、今の生き方ができあがっていたと思う。


したいことをしようと本気で思い始めた時

したいことを精一杯しようと本気で思い始めたのは、今から30年ばかり前、不惑の年40歳になったころからではないかと思う。開業して3年が過ぎ、気持にゆとりが出てきた時だった。

この年を象徴する1冊の書物を持っている。オニール夫妻の共著で、広中和歌子訳の、「四十歳の出発 二度目の人生論」、昭和50年10月30日発行、河出書房新社刊である。今、この書を手にしてみると、そこに書かれているのは、他とのかかわりを持ちながらも、自分の価値観を持ち、他に動かされない人生、自分で納得のいく人生を選びとることの意義であり、そのための方法である。この著作に大きく影響を受けた記憶はないが、この頃から、また、生きることについて考えるようになり、実際的であるように、少しの修正と必要条件を加えた。それを具体的に言えば、「死ぬ時に悔いのないように」「悔いの少ないように」と修正し、死ぬ時までに、したいことの80%くらいをし終えれば満足であると目標を定め、最低の目標は60%とした。


したいことと、したいことをするための必要条件

したいことをするには、1)したいことの必要条件と、2)したいことをするための必要条件の両方を満たさなければならない。

「したいことの必要条件」は、他人に悲しみを与えるものでないことと考えた。もちろん、私のしたいことに、そのようなものはないと思う。しかし、自分ではその気がなくても、他人を傷つけてしまうことはあり得る。しかも、そのことに気づかないことがあるかもしれない。それを考えて「したいことの必要条件」は、他人に与える悲しみよりも、他人に与える喜びの方が、わずかでも多くなるものであることとした。

「したいことをするための必要条件」として、したいことをするには、「しなければならないことをそれ以上に果たすこと」が前提であると考えた。人は独りで生きていくことはできない。私が自分の生命を精一杯発揮できるのは、自分以外の人からの恩恵があり、あったからである。だから、自分もまた、他人に相応の貢献をする義務がある。

社会人としての客観的な義務を果たすのは当然である。ここに挙げた「しなければならないこと」というのは、社会人としての客観的な義務ではなくて、自分が思っているデューティーであり、まったく、主観的なものである。それは、人の評価が基準ではなく、Noblesse oblige でもない。したいことをするために支払う代価、というのが的を得ているだろう。具体的には、医師としての仕事がほぼそれに当たる。代価を払い過ぎておく方が、気分的にしたいことを多くできるので、こちらは「したいことをする」場合の80%よりも厳しく、95%達成が望ましいが、最低の目標は80%とした。

このように、不惑の年を迎えたころから、「したいことをするための必要条件=しなければならないことをする」を、意識するようになったが、それにはある歌が大きく関係している。それは「マイウエイ」だった。この頃からこの歌を好み、それは今も続いている。この歌は、自分の人生の終わりが近づいたことを感じ、それまでの、生きてきた道程を回想する歌である。私も人生の幕が下りるころ、この歌をうたうことができるように生きたいと思った。

その中に「人がしなければならないことならば、できる限りの力を出してきた」「I did what I had to do. and saw it through without exemption.」というところがある。先の歌詞は岩谷時子さんの訳詞、後は原詩である。私はこの歌を原詩でも訳詞でもよく唄うが、その度に、この部分が刷り込まれて行った気がする。


したいこと、しなければならないこと

このたび引退した機会に、これまでの人生と今後の生き方についてまとめているうちに、「したいことをするために、しなければならないことをする」ということについて新しい発見があった。と言うのは、今までは「したいことをする」方が「しなければならないことをする」よりも価値が高いように漠然と思ってきたが、必ずしもそうではないと思えて来たのだ。

思いっきりしたいことをするということが生きがいであり、生きる目的であるというのはよく分かる。そして、それは個人として、与えられた生命を思いっきり発揮すること、「生命の発揮」であり、私の価値の基準からは、それ自体に価値がある。

それに対して、義務として「しなければならないことをする」は、他人に関係する行動であるが、それが次に続くもの(子孫)とか、一緒に生きる人(社会)の生命を発揮させるのに役立つこともあり得る。その場合も、私の価値の基準によれば、個人が与えられた生命を思いっきり発揮することに劣らぬ価値があることになる。


赤ひげ型医師と義務型医師

最近、医師という職業に対して、したいと思って従事している場合と、私のように義務として従事している場合の、医療の違いを考える機会があり、それがきっかけとなって、このようなことを考えることになった。

シュバイツァーや赤ひげのように、世のため人のために尽くす目的で、医師の仕事をしたいと思う医師がいる。その対極にいる医師は、医師の仕事を、したいことをするための代償、義務と考えている。もちろん、どちらも極端な例で、実際の医師には赤ひげと義務の割合が混在しているのだが、それは置いておく。その場合、赤ひげ型医師から受ける医療の方が、義務と考えている医師から受ける医療よりも格段に望ましいものだと、これまでは疑うことなく思って来た。

ところが、必ずしもそうではないかもしれない、その逆の場合もあるのではないか、と医師を引退した今になって思うようになった。赤ひげ型医師のしたい医療が、受ける側にとっても望ましいものであれば、言うことはない。しかし、それが独りよがりであって、受ける側のあまり望むものでない場合もあるかもしれない。それに対して、義務を忠実に果たそうとして行なわれる医療が、受ける側にとって望ましい場合もあり得るだろう。つまるところ、医療を受ける側にとって、どれほど望ましいものであるかが問題となる。私の価値の基準から言えば、医療を受ける人の「生命の発揮」にどれほど資するところがあるかの問題だ。

赤ひげ型医師が、したいこととして思いっきり医師の仕事に従事することは、個人としての「生命の発揮」であり、価値がある。それに対して、義務型医師が、医師以外の自分のしたいことに精一杯エネルギーを注ぐことも、個人としての「生命の発揮」では変わらぬ価値がある。違いは、したいことが医師の仕事の場合は、一般には他人の「生命の発揮」にプラスに働くことが多く、したいことが医師の仕事以外の場合には、あまり他人の「生命の発揮」にプラスにならず、場合によっては、マイナスに働くこともあるということだ。

医師の仕事は、一般には他人の「生命の発揮」にプラスに働くと書いたが、自分の名声のため、金儲けのため、未熟のため、不勉強のため、そのほか色々の理由で、他人の「生命の発揮」にマイナスに働かせてしまう場合もあり得る。医師の仕事(医療)の価値は、したいから行なった場合と義務として行なった場合で異なることはない。違うのは、医療を受けた人の「生命の発揮」にどれほど貢献したか、どれほど望ましいものであったかであろう。


死亡時期を想定した時

これまでに述べたように、「死ぬ時に、悔いのないように生きたい」という生き方を30歳のころから選んできた。40歳のころからは、本気で悔いのないように生きようとし始めたが、そうすると実際的になり、「悔いのない」「悔いの少ない」に、具体的には、したいことの80%程度をすることに修正した。また、「したいことをする」には「しなければならないことを果たす」ことが前提であることを条件付けた。

年をとるにつれて、したいことは増える一方であるのに対して、果たしたことの割合が増えないことに焦りを覚えるようになった。そこで、死ぬ時期を想定して、それまでの期間に優先順位の高いものから済ませていき、80%到達を目指そうと考えた。

死ぬ時期として、70歳(71歳まで)を想定したのは、50歳ころからではないかと思う。もちろん、死ぬ時期など、分かるはずはないが、70歳を想定した根拠は、短命の家系であること(これは医学的にかなり関係がある)、父が71歳で亡くなったこと、医学部同期の卒業生80名の内の3名が、そのころ既に亡くなっていたことなどだったと思う。現在80名の内の15名、つまり、ほぼ4人に一人がこの世にいない。その15名のうちの8名は、特に親しくしてきた人たちである。このような状況なので、死期=70歳の想定は、ますます現実味を帯びてきている。

徒然草の中に「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるゆえなり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり」と書かれた第93段がある。私は早くから妹、母と死別したこともあり、30代から死を意識してきた。また、生きる価値の基本を「生命の発揮」つまり「精一杯生きること」と考えてきたので、この兼好のことばの意味するところがよく分かり、したいことをするタイムリミットとして想定死亡時期を考えた。

自分は、タイム・リミットを置いて、可能な限り努力するのが好きなタイプである、とつくづく思う。与えられたタイム・リミットはもちろん、自分で決めたタイム・リミットを守るのが、私の生きるスタイルのようだ。もちろん、タイム・リミットを守ることが良いとか、守らないのが悪いとかという問題ではない。それはその人の生き方、好みの問題に過ぎない。ただ、このタイムリミットを自分で決めてそれを守るという方法は、私の場合は効率的であった。


引退の時期

引退の時期は、デューティーを果たしておれば、早ければ早いほど良い。私は、50歳の時に60歳でそれを果たせると考えたが、現実はそれを許してくれず、60歳が65歳になり、69歳にまで延びてしまった。そのため、想定死亡時期までに2年しか残らないことになった。それが、さらに延びて1年7ヶ月になってしまった。こうなれば、残りの人生の時間は、ますます貴重になる。そこで、今は思いっきりしたいことをしようとしている。


現役人生

私の現役人生は、医師になった62年から、引退をした05年までの43年間である。その間、一般社会人としてのなすべきことは行なってきた。しかし、私がしなければならないこと、デューティーと思ってきたことは、医師という職業、医師としての仕事である。私にとっての現役人生は、しなければならないデューティーを果たす期間であった。そのデューティーを、自分は95%程度果たしたつもりでいる。これは、あくまでも主観的なものであるが、もともと、デューティー自体が主観的なものだから、自分でそう思うことができるのなら、それで間違いはあるまい。


残りの人生

私の残りの人生は、引退した時から始まり、想定した死亡時期71歳の誕生日までとなる。しなければならないことは、既に大きく前払いをしてしてあり、今から1年ばかりの時間が、したいことに専念できる期間である。これまでに、したいことの60%くらいを果たすことができたと主観的には思えるので、なんとか最低限はクリアできた。残りの人生で、したいことをあと20%程度できて、死亡想定時期には合計80%程度を果たすことができたなら、言うことはない。

したいことの60%程度を終えることができたと書いたが、そのことで思い出すことがある。2002年10月、小柴昌俊氏のノーベル物理学賞、田中耕一氏のノーベル化学賞受賞のニュースに感動しながら、これを書き終えておかないと、死ぬに死に切れないと、必死でキーボードに向かっていた。書いていたのは、私のしたいことの中の優先順位で2番目に当たる「心に生きることば」で、1番目と3番目は2000年に済ませていた。この私の様子を見て、いつもは批判的な妻も協力的になり、本気になって心配してくれた。

この年の終わりに、それを書き上げてWebサイトに掲載した時、したいことの50%程度は果たせたと思いほっとした。それから後の3年間で、したいことの10%程度を済ませたので、現在は60%程度を果たせたという気持になっているが、それには、このような過程があったことを思い出している。


オマケの人生

いろいろの条件を勘案して、想定した死亡時期であるが、それを越えて命があるかもしれない。そうなれば、それからは「オマケの人生」、したいことをしても良し、しなくても良し、目標を決めても良し、決めなくとも良しである。また、逆に想定死亡時期まで命が持たない場合もあり得る。その時は、それがさだめ、満足ではないが、後悔しないで死んでいく。このオマケの人生は「死期を想定した生き方」に連動している。「オマケ」を期待するわけではないが、あれば嬉しいし、あるかもしれないと思うだけでも楽しくなる。


生涯現役人生

私の人生は、修業時代、現役人生、残りの人生、オマケの人生に分かれるが、生涯現役人生を目指す人もいる。それはそれで、一つの生き方だと思う。そのような人は、現在の職業自体が、自分のしたいことなのではなかろうか?もしそうだとしたら、幸せな人なのかもしれない。

それに対して、私のように、職業はしたいことをするために支払うべき代価であり、義務である、と考える人間も多いだろう。それはまたそれで良いのではなかろうか?職業が医師の仕事である場合、先にも書いたように、受ける側にとってどれほど望ましい医療であるかが問題なのだ。


私が理想としてきた生き方

「アングルのバイオリン」という言葉がある。それは、フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることに、より重きを置いていたという話である。私も、職業である医師として評価されるのは当然のことであり、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来た。

この「アングルのバイオリン」を、次のように言い替えることもできる。「しなければならないこと」は、生きて行く上での義務、あるいは、当然支払わなければならない代価として、精一杯これに努めるが、生きる目標は「したいことをする」にあり、この自己満足こそが生きがいである。「したいこと」が有害では困るが、無益で結構、少しでも有益であれば、それに越したことはないという生き方である。

私は、この生き方を、20歳の頃から理想として生きてきた。現在の「残りの人生」は、その仕上げの最終段階である。

人生が終わるとき、しなければならないことはした、そして、自分の道を歩いた、と呟きたい。


補足説明
この原稿を2006年5月刊行の大阪大学第一外科同窓会会誌「汲泉」第40号に投稿した。

この文章は、そのままの形で、下都賀郡市医師会報 2014.9月号に転載された。


<2006.2.8.>

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