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頑固な私の総括

2004.06.20. 掲載
2017.08.11. 追加
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目次
1.はじめに
2.以前から変わらないライフ・スタイルがある
   1.肉の脂身を食べない
   2.朝食にパンは食べない
   3.真っ赤になるまで一味を入れる
   4.早やメシ食い
   5.腹十二分目
   6.アルコールはスーパードライ
   7.眼鏡は黒ぶちロイドメガネ
   8.妻の頭はポニーテール
   9.車は2ドア、ホワイト
   10.天井はできるだけ高く
   11.週に1回、命の洗濯
   12.浮気をしない堅物?
   13.変わらぬ購読雑誌・書籍がある
   14.タイムリミットを守る
   15.やると思えば、どこまでやるさ
   16.辞めると決めたら変えない
   17.一筋の道
   18.正攻法で行く
   19.教えてもらうのは嫌い
   20.明日できることを今日はしない
   21.願掛をしない
   22.人間あきらめが肝腎
3.以前から使い続けている道具や方法がある
   1.文章はエディターで
   2.データは表計算で
   3.辞書登録を活用
   4.他人が使う機器はカスタマイズ
   5.業務はマニュアル化
   6.80点主義
   7.集中力と集中主義
   8.略語の活用
   9.整理術
   10.データを残す
4.以前から持ち続けている価値観などがある
   1.生きている期間は限られている
   2.生きる価値の基準
   3.私にとって大切なこと
   4.行動の原理
   5.権威を疑う
5.まとめ


1.はじめに

近頃、自分は相当な頑固者かもしれないと思うことが良くあります。そこで、一度頑固者としての自分をまとめておこうという気になりました。ある掲示板でその記事を読まれた方が、「頑固総括」と書き込まれたのを読んで、思わず吹き出してしまいました。頑固で総括好きな私の性質を合体させたユーモアに脱帽したからです。

ところが、いざ「頑固総括」を書こうとして考えて見ると、自分は確かに頑固者と思うこともあるが、その反対に、今でも相当柔らかい頭をしていると思うこともよくあるのです。これは矛盾していますが、現実はどちらも本当なのだから、ややこしい。

そこで、「普通の人なら変えることを、変えずに続ける」という頑固者の特徴の中で「1)以前から変わらないライフ・スタイルがある、2)以前に習得し、今も使い続けている道具・方法がある、3)以前に納得し、今も持ち続けている価値観などがある」、という点からまとめることにしました。これであれば、柔軟な頭と相容れないこともないでしょう。

世間の人が「頑固者」ということばに抱くイメージは、意固地、石頭、意地っ張り、一途、一徹、かたくな、頑迷、強情、偏屈、昔かたぎ、といったところでしょうか? 私の頑固は、それとはちょっと違うと思うのですが、「お前も同じ穴の狢、似たり寄ったりだ」と言われるかもしれません。いずれにしても、私がしてきたこと、していること、これからもしそうなことの中から、普通の人なら滅多にしないと思われることを書いて行こうと思います。


2.以前から変わらないライフ・スタイルがある

1.肉の脂身を食べない

ものごころのついた頃から、肉の脂身の部分が嫌いで、親に叱られても頑として拒絶してきました。戦中戦後の食糧事情がものすごく悪く、また親の命令が絶対的であったときでさえ、それを押し通したのは、私の頑固な性癖を象徴しているような気がします。嫌なものは誰が何と言おうと、何が何でも、何時までも嫌、というのは持って生まれたものなんでしょう。

2.朝食にパンは食べない

私はかなり食いしん坊で、食欲のない日は年に数日もなく、夕食の後で「ああ、うまかった」と言わない日は滅多にありません。そんな食いしん坊なのに、自宅では、朝食にトーストパンを食べることはないのです。結婚して36年になりますが、ほぼ皆無です。

私は神戸、妻は枚方で生まれ育ったというのに、都会育ちの私が朝食にパンを食べず、田舎育ちの妻が朝食にパンを欠かさないというのは、環境のせいというより、持って生まれたものなのでしょう。

私の朝食は、多い方から言って、そば、うどん、ご飯、ラーメン、きしめん、の順のようです。大学にいた頃、医局の1年後輩にうどん店の息子がいて、朝はうどんだとと聞いた時、なんとも羨ましくて、以来、朝は麺類を中心に食べてきました。

硬いフランスパンは好きですが、トーストパンは口の中の唾液を全部吸い取られる感じがして、いやなんです。私も頑固ですが、妻も私に合わせることをしない頑固者で、面倒くさくても2種類の朝食を長年作って来ました。

3.真っ赤になるまで一味を入れる

昔から、うどんや掛け蕎麦に、たっぷり唐辛子を入れてきましたが、10年くらい前からそれが昂じて、うどんの表面が真っ赤になるまで、一味唐辛子を入れて食べています。唐辛子の辛さへの耐性は、年々エスカレートしてくるようで、普通の人が見たら、韓国人かと思うかも知れません。

4.早やメシ食い

私よりも速いスピードで食事をする人は、それほど居ないでしょう。喉元を通る時の味と快感がたまらなく美味いので、うどんを噛んで食べるとか、ご飯を甘くなるまで何回も噛んで食べるという話を聞くと、目を回し、美味いものも不味くなる、と思ってしまいます。好きなものほど、ガツガツと猛スピードで食べるのは、育ちが表れているのでしょう。

私の影響を受けたのか、我が家族もまた食べるのが速く、外食をすると、一番後で店に入った私たちが、一番早く店を出る場合も、なきにしもあらずです。

「早やメシ食い」は健康に悪い、ゆっくり食べると「満腹中枢」を刺激して、食べる量が減るので、身体に良いなどと、ゆっくり食べる食生活が喧伝されています。それはそうかもしれません。しかし、早やメシ食いで30年以上を過ごしてきたけれど、体重はそれほど増えず、結婚当時の服を、今も着ることができます。

5.腹十二分目

健康情報は、貝原益軒の昔から、腹八分目を勧めます。ところが、これもまた反対で、私は生まれてこの方、腹八分目で満足した例がありません。それどころか、腹十二分目の毎晩で、物理的にこれ以上入らないという満腹状態まで食べます。朝と昼は午前の診療の前後なので、ゆっくり食べている時間もムードもなく、腹八分目になるのは、致し方ありません。

それに対して、夜の診療を終えた夕食では、好きな食べ物をガツガツと猛スピードで食べながら、スーパードライをグイグイ飲み、新聞を読み、TVを見ながら、妻ととりとめのない話をします。この夕食どきの1時間余りは、私にとって至福の時であります。このことについては、腹十二分目でも健康というタイトルで、6年前にこのサイトに掲載しました。

6.アルコールはスーパードライ

私はアルコールが飲める体質ですが、酒飲みではありません。美味い酒と美味い食べ物があれば、迷うことなく美味い食べ物を選びます。私にとって「酒は肴」なのです。つまり、楽しい雰囲気を盛り上げるアシスタントだと思っています。

昔から、外で飲む生ビールは好きでした。しかし、家庭で飲めるビールはラガータイプしかなかったので、ウイスキーやブランディーを飲んでいました。サントリーから純生が出てからは、家でビールも飲むようになりましたが、スーパードライが世に現われてより、完全にビール党に転向しました。

休肝日は作らず、毎晩350mlを3〜5缶を飲み続けてきたのですが、最近下腹が出てきたり糖尿病気味なので、一応は3缶ということにしています。冷酒やワインはビール飲みをして失敗することが多く、また、それほど美味いとも思わないので、どちらもほとんど飲みません。それに、ビールは腹が膨れて、「腹十二分目」効果を助ける作用があるので、私に向いているのです。

7.眼鏡は黒ぶちロイドメガネ

眼鏡は高校3年から着用していますが、最初から、黒ぶちロイドメガネ風です。はじめてかけた時は、「トニー谷のメガネ」とからかわれたものです。彼は、「あんたのお名前何てぇの〜」と、そろばんを片手に司会などをしていた、アクの強い芸人でした。

私がはじめて眼鏡を着けたときから半世紀が過ぎ、その間に、世の中の眼鏡はいろいろな流行がありましたが、私はずっと同じタイプの黒ぶちロイドメガネで通してきました。「それは、お前にシャレ気がないからだ」と言われればそれまでですが、これで、結構このタイプの眼鏡を気に入っているのです。最近、手に入り難く、ほとんどの眼鏡店に置いてありません。

このいかつい眼鏡は、もう私のトレードマークになってしまっています。これと白髪を合わせると、指名手配でもされれば、すぐに発見されてしまうでしょう。ときどき、「そんな眼鏡を着けていると、こどもの患者さんに恐がられるでしょう?」と尋ねられます。ごもっともなご質問です。

ところが、ご期待を裏切り申し訳ないのですが、そうではないのです。私は診察に介助者を付けず、乳幼児が泣いて暴れたりした時だけ、介助を呼ぶようにしていますが、そのような乳幼児は、1割も居ません。それは、私が恐くて泣き声も出せないからだ、と言う可能性はあります。しかし、たいていの乳幼児はニコニコしているし、診察室を出て行く時に、バイバイと手を振ってくれる子も、半分近くはいるでしょう。

もう一つ、この眼鏡を乳幼児が恐がっていない証拠を書いてみましょう。私は小児科を標榜せず、それを承知の上で来院される乳幼児だけを、診療しています。半年ばかり前だったと思います。医師会から派遣されて、交野市の乳幼児の集団予防接種前の診察をしたことがありました。私の隣では、眼鏡なしの小児科ベテランドクターが診察しておられます。この時、ふと思いついて、診察をしながらこのドクターのところと、私のところで診察の際に乳幼児が泣く回数をメモしてみました。

その結果は意外なことに、小児科ベテランドクターの方が2倍近く乳幼児に泣き声をあげさせていたのです。これは、私が乳幼児の機嫌をとることに注意して、診察をおざなりにしているからに違いない、と批判されるかも分かりません。それも否定できませんが、それでも、この黒ぶちロイドメガネを子ども達は恐がっていない、という証拠にはなるのではないでしょうか?

子ども達は、このメガネを珍しいものとして、好奇の目で見ているのではないかと思うことがあります。小さいこどもほど、私の目を凝視します。余りに見つめられて恥ずかしいほどですが、視線をそらさず、微笑みを返します。すると、ほとんどのこどもは、同じように微笑んでくれるのです。

子ども達のことはこのくらいにして、おとな達には、このメガネと白髪から、司馬遼太郎氏に似ているとよく言われてきました。しかし、私自身は、かって東大の小児科教授だった小林 登氏に似ていると思っています。

長々と黒ぶちロイドメガネのことを書いている間に、これは私の行き方、ライフスタイルを象徴するものだと覚りました。最初に選ぶ段階では、比較検討するが、いったん決めてそれで良いとなると、何かよほどの不都合がない限り、それを大切に続ける。他にもっと良いものがあるのではないか、などとは思わない。こういう生き方をする人は、少ないかもしれません。

世の中の多くの人は、より似合うもの、より新しいもの、より美味しいもの、より美しいもの、より優れたもの、より、、、なものを追求せずには居れないように見受けられます。その欲求が少ない私は、やはり相当な頑固者、変わり者なのでしょう。

8.妻の頭はポニーテール

この私のライフスタイルの影響は、配偶者の頭髪にも及んでいます。妻の髪を下ろした姿は、新婚の頃に限り、その他は全て髪を束ねています。開業した頃は、患者さんに、「奥さんの気持ち良う分かるわ、忙しいから、髪なんか構う暇ないもんね」、とよく言われていました。たてがみを振り回し、慌ただしく買い物をしては、疾風の如く消え去るのを見ての同情の声でした。それがいつまで経っても変わらないのを知ってか、近頃は、誰も何も言わないようです。

妻の名誉のために書いて置きますが、彼女は何度もヘアスタイルを変えようと試みてきました。しかし、その度に「何やその髪、似合わん、いつもの方がええ」と即座に言われるので、その内に、自分でも他のヘアスタイルは駄目だと思い込んだのか、あるいは、洗脳されて、自分でも気に入るようになったのでしょう。だから、妻のヘアスタイルは「亭主の好きなポニーテール」なのです。現在61歳、いつまでこのヘアスタイルを続けることができるのか、今はそれも楽しみの一つです。

9.車は2ドア、ホワイト

車のデザインにも好みが強く、今まで乗ってきたのはすべて「2ドアのホワイト、スポーツタイプ」です。メーカーは最初が日産で16年、次いでホンダが14年でした。私はホンダのレジェンドが好きで、引き続きこれに乗りたかったのですが、2ドア車は製造中止となり、仕方なく最後の車を7年間乗り続けました。

その後の車を探すのに苦労をしました。老人の私が乗ってもおかしくない2ドア車で、私が好きなタイプの車は国産車にはなく、結局は英国車に乗ることになってしまいました。顔は栗鼠のように可愛く、ヒップはジャガーのようにセクシーで、気に入っています。これがおそらく、私の乗る最後の車となるでしょう。

これまでに乗り継いできた車の一覧
1)ローレル2ドアハードトップ(2000cc)白:71年購入、4年間乗車<日産>
2)グロリア2ドアハードトップ(2800cc)白:75年、77年購入、5年間乗車<日産>
3)レパード2ドアハードトップ(2800、3000cc)白:80年、84年購入、7年乗車<日産>
4)レジェンド2ドアハードトップ(2700cc)白:87年購入、4年間乗車<ホンダ>
5)レジェンド2ドアクーペ(3200cc)白:91年、94年購入、10年間乗車<ホンダ>
6)ジャガー2ドアクーペ(4000cc)白:01年購入、3年間乗車<ジャガー>

10.天井はできるだけ高く

30年以上も前に、私の好みを押し通した結果が、現在理想とされている建築基準を上回っているというお話です。

私は開業するにあたり、診療所付き住宅の設計図を、平面図だけでなく、立面図も自分で書きました。それを見て、工務店の担当者は、平面図を書く人はいても立面図まで書く人は居ないと言いながら、天井の高さ2.7mは高過ぎる、暖房や冷房効果が悪くなり、不経済だから、2.4mにするようにと強く求めてきました。設計事務所の設計士も同じ意見で、少し嘲笑気味だったように覚えています。

その時の私は36歳、大学を辞めて民間病院に勤めながら、実地で開業の勉強をしていました。親と住んでいた家は県の官舎、結婚してからは府営住宅に住んでいて、家を建てることなどとは皆目無縁だったのです。そんなずぶの素人でありながら、工務店や設計事務所という専門家のアドバイスを頑強に拒否したのは、若かったというだけでなく、持って生まれた強情さが、大いに関与しているのでしょう。とにかく、昔から専門とか権威ある人が高圧的に言うことに対しては、本能的にまず疑ってかかるのでした。

中年になって、ご自慢のお家を訪問する機会が増えましたが、広さが感じられず、どこか圧迫感を受けることがあります。天井の低さがその原因ではないかと思いながらも、最初から2.7mの天井の下で暮らしていたので、天井の高さを意識することはあまりなかったように思います。

ところが、今年に入って、大和ハウスがモデルハウスのPRに使った新聞広告を読んで、天井の高さが、住宅のセールスポイントとして取り上げられるようになったことを知りました。それによると、普通の家の天井の高さは2.4m以内なのだそうです。それと比べて、この大和ハウスの住宅は天井の高さを2.6mにしたので、同じ広さの部屋でも、天井が高い分だけ空間的に広がりが出て開放感があり、大きく感じられると宣伝しています。私が31年も前に、専門家の反対を押し切って設計した天井の高さ2.7mは、その基準よりもまだ10cmも高いのです。

平面を広げることは簡単で、土地さえあれば建て替える必要ありません。しかし、天井の高さを高くしようとすれば、建て替えるより他に方法はなく、それには、莫大な時間と費用が必要となります。今ごろになって住宅のセールスポイントの一つに使われ始めた「高い天井」は、我が家では31年前から、それ以上の高さで存在してきました。それを知って、頑固も捨てたものではない、と愉快になりました。

以上で私の好き嫌いに関する頑固さをまとめてみました。

11.週に1回、命の洗濯

開業してから息子が小学校の低学年の間は、週に1回以上梅田とか三宮に出かけていました。息子が親と一緒に出かけるのを嫌うようになってからは、しばらく途絶えていましたが、息子が大学に入った機会に再開し、以来今日まで16年間、私は妻と週に1回以上梅田に出かけています。

車で梅田に着くと、別れてそれぞれが自分の行きたい所へ行きます。そして夕食を一緒に摂り、それから帰宅することをくり返してきました。妻と別れてからの私の行く先は、本屋、パソコンショップ、映像関連の店、CDショップなど。妻はウィンドウ・ショッピングをしているようです。

夕食はビアレストランか居酒屋で摂るのですが、最近はほとんど3店に偏ってきています。ここで生ビールを飲み、肴をつまみ、お客の観察をしながら、妻ととりとめのない話をします。この夕食は、家で食べるのとは違って騒々しいのですが、それだけに活気があり、これもまた楽しい時間です。この梅田行きを私は「命の洗濯」と呼んでいます。これがなければ私は拘禁ノイローゼになるに違いなく、仕事を継続するために必要な、息抜きだと思っています。

12.浮気をしない堅物?

黒ぶちロイドメガネのところで「最初に選ぶ段階では比較検討するが、いったん決めてそれで良いとなると、何かよほどの不都合がない限り、それを大切に続ける」のが私の生き方と書きました。それは、他の人との信頼関係についても当てはまります。

金融面では、三井住友銀行と71年より33年間、建築面では中井工務店や大阪電化と72年より32年間、医療器具はユーシン医療器と、印刷関係は峰印刷所と、また薬品問屋は、最初の6社が吸収合併されて現在スズケン、アズエル、KSK、東邦、クラヤ三星堂の5社になっていますが、73年より30年間取引を続けています。レントゲン機器も、71年より日立メディコから購入し、保守点検を31年間受けてきました。

レセコンは、FMSと74年より30年間継続して購入と、保守点検を受けています。機種はシャープが3機種、富士通が2機種ですが、いずれも購入と保守はFMSです。また、会計事務所は、84年から20年間、近畿合同会計事務所にお願いしています。

13.変わらぬ購読雑誌・書籍がある

医学関係の雑誌では、中外医学社の「臨床医」を73年から30年間購読し、医学関係書籍としては、医学書院の「今日の治療指針」を71年から90年まで隔年で購入、91年からは電子書籍の「今日の診療CD−ROM」を毎年購入して現在に至っています。

これは、1枚のCDに、(1)今日の治療指針 本年度版、(2)今日の治療指針 前年度版、(3)今日の診断指針 最新版、(4)今日の整形外科治療指針 最新版、(5)今日の小児治療指針 最新版、(6)今日の救急治療指針 最新版、(7)臨床検査データブック 最新版、(8)治療薬マニュアル 本年度版という医学書院発刊の8冊の医学書籍が収納されています。

昨年(04年)からは、今日の診療プレミアムVol.13 というDVD−ROM版が発刊されたので、こちらを購入しました。これには、CD−ROM版に収録されている書籍のほかに、(9)新臨床内科学第8版、(10)内科診断学、(11)今日の皮膚疾患治療指針第3版の11冊が収録されています。

私は本が好きで、医学関係の書籍も多く購入して来ました。それらとは別に、同一出版社の同一書籍の最新版を継続的に購入することにより、偏らず継続的に、同じ視点からuptodateした医療情報を入手してきました。医学書を沢山購入する人は少なくないと思いますが、このように同じ視点でまとめられた医療情報を、30年以上も継続的に入手してきた人は稀だと思います。

また、わが国ではじめて出版された電子メディアによる医学書籍を初版から購入し、最新版の第13版まで、毎年購入して診療に利用している医師も、それほどいないでしょう。

電子書籍「今日の診療CD−ROM」'91〜03'

14.タイムリミットを守る

生きて行く上で、さまざまなタイム・リミットがあります。学生時代であれば宿題、試験など、社会人になれば仕事が、その大きな対象となるでしょう。これらは他から決められたもので、その環境にある限り、守らなければなりません。

それとは別に、自分で決めたタイム・リミットもあります。私はこのタイム・リミットが多く、年を取るにつれて、一層多くなって来ました。それは人生の最終ゴールが視界に入ってきたためです。残り時間がどんどん少なくなって行く中で、しておきたいことを多く片付けるために、自分で目標を作り、タイム・リミットを決め、それを守ることで問題を解決しようとしています。

最近になって、このタイム・リミットを守るというのも、頑固な私の生き方だということに気がつきました。振り返ってみて、これまでタイム・リミットを守らなかったことは無かったと思うのです。それは、私の要求水準が低く「80点主義」であること、「集中主義」「重点主義」であることが相乗的に作用して、可能となったのだと思います。

完全を求め、ゆっくり時間をかけて、着実に成果を積み重ねていくタイプの方であれば、タイム・リミットを守ることは困難かも分かりません。だからと言って、タイム・リミットを守ることが良いとか、守らないのが悪いとかという問題ではなく、それはその人の生き方、好みの問題だと思います。

15.やると思えば、どこまでやるさ

私はもともと体質的に演歌が合わないのですが、「やると思えば、どこまでやるさ、これが男の命じゃないか」はよく唄います。それはタイム・リミットの課題を果たさなければならないが、ちょっと気が進まないという時で、自分を鼓舞する効果があります。

この歌を、田中角栄元首相も好んだと聞きます。山下元利元防衛庁長官に「元、人生劇場をやろう」とよく歌わせたらしいのです。それを知って、角栄に親近感を覚えました。「メシも仕事も早い、...一生の間理想を追っても結論を見いだせないような生き方はキライだ。すべてのことにタイム・リミットを置いて、可能な限りの努力をするタイプなんだ」という田中語録を読んで、その点では、まったく同じであると思いました。

16.辞めると決めたら変えない

このように頑固な私ですが、今ふり返ってみて、これまでの人生で一番頑固だったと思うのは、大学を辞めたことです。いったん辞めると心に決めたからには、状況が変わり、周囲から慰留されても、変えることをしないで来ました。そのことについて少し詳しく書くことにします。

本邦最初の体外循環による心臓手術に成功した曲直部壽夫先生が、66年に教授に就任すると、阪大第一外科の心臓外科は年々成果を上げ、躍進を続けました。翌67年に私は文部教官助手になり、心臓外科の中の人工心肺グループに所属して、心臓外科医への道を邁進しました。

68年から学園紛争が吹き荒れ、それまで新入医局員が行っていた診療、教育、雑務は、助手層に負わせる状況となり、また、教官の存在を否定する青医連と呼ばれる青年医師たちに囲まれ、批判を受けてきました。心臓手術は、多くの人たちのチームプレイがなくては行えません。このような状況下では、心臓外科医としての将来に希望が持てず、また、身勝手な青医連の連中と付き合うのも面白くなく、大学を辞めることを口にしました。

この年の12月26日に、心臓グループ反省会の準備会が開かれ、私のクラスから6年下までの13名が参加しました。そこで、心臓グループを良くするための問題点を、3時間に亘って討議しました。誰もが、このままでは心臓グループは崩壊するのではないかという危機感を抱いて、非常に過激な意見が続出したのです。しかし、翌日の反省会では、前日あれほど厳しい発言をしていた者が沈黙を守り、結局、私が代表して意見を述べることになってしまいました。

その時に述べた問題点の項目だけを書いておきます。
1.時間がない、2.雰囲気が悪い、3.患者に対する多重支配は無駄である、4.手術について問題がある、5.システムが非民主的である、6.生活上経済的な面で問題がある、7.ライターに対する要望がある、8.来年度から新しい方針で臨んでほしい。

ライターの川島康生講師は、学年が6年上の、非常にシャープな頭の方で、また上下関係を大切にされ、私たちが入局した頃は「鬼軍曹」と呼ばれて恐がられていた人でした。その先生が部下から批判され、提言されたのだから、そのショックは非常に大きかったと思います。飼い犬に手を噛まれた思いをされたかもしれません。しかし、先生は結局それを受け入れられ、改善を約束されました。

翌日、御用納めの日の医局の反省会では、曲直部教授と医局員全員の前で、心臓外科グループを代表して、川島先生は前日の心臓グループの反省会の結果を報告し、男泣きして自分の非を認められました。後にも先にも、医局会で泣いた者はいないと思います。それが厳しくて恐いことで有名な川島先生だったから、その場に居合わせた者の衝撃は大きかったようです。

川島先生が私たちの意見を受け入れられたのは、青医連のような現状の破壊、解体ではなく、より成果を上げるための批判であり、建設的な提言であったためですが、事情を知らない心臓外科以外のグループの中には、このことを好奇の目で見る者がいて、私が川島先生をいじめたように言うのには困惑しました。そして、医局員の面前で泣かせてしまったからには、いつか私は責任をとって大学を去らなければならないと思いました。

今顧みると、新しい教授のもとで出発して課題が一杯のところへ、心臓移植と大学紛争という難問が加わり、その中で心臓外科を再建するために誰もが精一杯に努力をしてきた、それが限界に達したということでしょう。その努力が実を結んで行く状況は、心臓外科関係の雑誌発表の論分数が66年から69年までの間に、4、9、13、33、に増え、学会発表の論分数も、19、32、41、43、と増えていることに表れています。

69年8月に「大学の管理に関する臨時措置法」が公布されると、あれほど烈しかった大学紛争も、徐々に鳴りをひそめ、大学にも医局にも平和が戻ってきました。そして、心臓外科グループの活躍は目覚しく、わが国の心臓外科のリーダー的な存在になっていました。

心臓外科グループは、人工心肺グループと心臓カテーテグループに分けられてきましたが、私はその内の人工心肺グループのリーダーとして、診療に研究に従事してきました。人工心肺グループは、川島康生先生(阪大教授、国立循環器病センター総長などを歴任)、藤田 毅先生(循環器病センター副院長、りんくう総合医療センター総長などを歴任)などが所属した心臓外科グループの主流です。当時、私の下には、高野久輝循環器病センター研究所副所長や松田 暉阪大第一外科教授などがいました。

このような陽のあたる場所にいたのですが、70年の終りに、大学を辞めることを曲直部教授と川島講師に告げ、認められました。先に書いたように、大学紛争を経験している間に、大学に留まって心臓外科医になることに疑問を感じ、大学を辞めることを表明していました。その後、大学紛争は終焉を迎え、大学にも医局にも平和が戻り、曲直部教授や川島講師からも考え直すようにと言われましたが、いったん表明したことを翻す気持ちにはなれなかったのです。

今そのことを振り返ってみて、確かにいったん口にしたことを変えるのを潔しとしない性分ではありますが、川島先生を医局会で泣かせたことの責任をとる意味もあり、それ以上に開業医に対する夢とか憧れがあったからだと思っています。やるべきことはした、次はしたいことをするのだ、という気持でした。

そして、71年6月に大学を辞しました。医局での最後の挨拶で「医局が私に何をしてくれるかを求めず、私は医局にこれだけのことをしてきました」と言って自分が関係したデータを読み上げたのです。これはケネディー大統領の就任演説のことばを真似たもので、私はこのことばが好きでした。それにしても、このような挨拶をして医局を離れた者は後にも先にも居ないようで、同窓会などでたまに大学に出かけると、この話でからかわれたものです。

大学時代にいくつかの研究の結果を出してはいましたが、大学を辞めると宣言していた日までに、それをまとめることは時間的に困難でした。また、たとえできたとしても、学位を取得した途端に辞めるなどと言うことは、私にはできない話でした。しかし、自分がしてきた仕事のまとめはしておきたいと思い、学術誌に論文発表はしておきました。そうしたら、76年の正月、私が40歳になる年に、川島先生から以下のことばの書かれた年賀状をいただきました。

今年は発表会をやる予定の人が6人ばかりありますが、何とか一緒にやってしまわれませんか。あって邪魔なものではないと思うのですが。

このことばに、川島先生の気遣いを感じ、40歳の記念として学位を取得することにしました。大学に残っている2年後輩の橋本君に、その手続きを依頼し、6月24日(木)の公聴会を経て、7月28日付けで医学博士の学位を授与されました。その当時、木曜日は全日休診をしていたので、この学位取得のために休診などをする必要がなかったのは、運が良かったと思わざるを得ません。そして、これで大学時代の仕事から完全に離れることになったのです。

ここに書いたことの多くは、「歌と思い出」「心に生きることば」の中に載せていますが、大学を辞めることに的をしぼってまとめたのはこれが最初です。そして、最後となるでしょう。当時、なぜ辞めるのかと人に尋ねられて、大学紛争のせいだと答えてきました。それが間違いというわけではないのですが、微妙なニュアンスを付け加えると、以上のような長いものになってしまいました。

17.一筋の道

開業するにあたって、標榜科目は内科、循環器科、消化器科とし、外科は予定を変更して取り止めることにしました。これまで専門医として過ごしてきたのを止めるのだから、中途半端なことをせず一般医に徹しようと考えたからです。そして、開業してからは家庭医、ホームドクターとして今日まで働いてきました。

開業20年を終えたところで、それまでの開業医としてのまとめをして置きたく、「野村医院二十年史」を作りました。自分から医局を出て、ご迷惑をおかけしたことに対するお詫びの気持ちを込めて、93年の暮れに、この二十年史を恩師曲直部教授の許にお送りしました。その時、先生は重い病気で入院されていましたが、病床にあって、これに目を通された上、電話で妻に「野村君らしく一本筋が通っている」と言って下さいました。

94年2月3日の朝、診察をしているところへ先生の鮮やかな揮毫が届けられました。「一筋の道 野村望国手開業二十年を祝す 曲直部壽夫」のお言葉に感激で胸がつまり、涙がこぼれました。先生は勝手に自分の許を去って行った不肖の弟子を、お許し下さったのだとその時直感したのです。


曲直部壽夫先生の揮毫

この「一筋の道」「野村君らしく一本筋が通っている」という恩師のことばから、これもまた私の「生き方の規範」の一つであることに気がつきました。大学を辞める時も、いったん口にしたことを変えるのを潔しとせず、先生の慰留を固辞しました。そのほか何かにつけ、自分のしたいことを行い、したくないことをできる限り避けて生きてきました。その点、まことに私は頑固者だと思います。

18.正攻法で行く

これまでの人生を振り返ってみると、特別意識をしてきたわけではないけれど「正攻法で行く」ことを選んでいました。もちろん、私は聖人君子でありません。絶えず愚かなことを考え、愚かな失敗をしています。ただ、卑怯なこと、ずるいことはしてこなかったと思うのです。

とは言っても、道徳的な意味からではまったくなくて、「男らしくない」ことをするのが私の性に合わない。その結果として「正攻法で行く」ことになったという次第です。

「正攻法」と言うと、いつも思い出すことがあります。息子が中学か高校のころ、私が言ったことに対して、「そんなの、きれいごとだ」と反抗しました。当たり前のことを言ったのに、それを「きれいごと」と受けとめてしまう状況に、息子が置かれていることを知りました。その時、「正攻法でも人生はやって行けるのだ」ということを、いつか彼が分かるようになって欲しいと思いました。あれから20年ばかりが過ぎた今、彼もそれを分かりかけているようです。

正攻法の実例として医院経営について書くことにします。これは第三者も関与するので、客観性が強いと思うからです。

1)医師優遇税制から青色みなし法人に切り替えた
今からちょうど20年前に、白色による「医師優遇税制」を取り止め、「青色みなし法人」に切り替えました。その結果、世間から批判されてきた医師優遇税制が、優遇などとはほど遠い代物であることを知りました。当時、青色申告をする開業医はまれでしたが、正攻法で成功したことになります。

2)薬品の購入は年1回の入札で行ってきた
青色申告に変えてからは、薬の購入は年1回、薬品問屋6社に見積額を書いてもらって、メーカー毎の帳合を決め、その後1年間の薬剤の購入は、これに従う方式を続けてきました。見積は1回勝負で、情実を認めずにやって来ましたが、公平な上に、価格交渉をする時間が不要であり、これもまた正攻法で良かったと思っています。

3)MS法人などを採用せず、一人医療法人に切り替えた
これまで、会計事務所から、MS法人を含めていろいろの節税対策のアドバイスを受けてきました。[MS法人」と言うのは、正式にはメディカルサービス法人と呼び、病医院の関連会社を設立して、そこから医薬品・診療材料等の購入、医療機器等のリース、土地建物の賃貸などを受けることにより、節税を図ろうとするもので、医療の世界で広く行われているとのことでした。しかし、たとえこれらが合法だとしても、インチキ臭く思えて、すべてお断りしてきました。

ところが、医療法の改正で「一人医療法人」が認められるようになり、これは国が勧める制度であるとの説明を受けた時、ためらわずに、これに切り替え、平成元年1月より、「医療法人野村医院」に組織変更をしました。この「一人医療法人」への組織変更は、交野市の医療機関の中では最初、大阪府下の医療機関の中でも最初のグループに入っていました。国が奨励する方式によって節税ができるだけでなく、そのほかにも多くのメリットがあり、これもまた正攻法がうまく働いた例証になると思います。

4)ゾロ品を開業以来一度も使わなかった
新薬の特許が切れた後に発売される、同一成分の同種同効薬を「後発薬品」と呼びますが、中小の製薬会社からゾロゾロと発売されてくるので「ゾロ品」とも呼びます。ゾロ品は薬価と納入価と差が大きく、これを使う方が先発品を使うより利益が大きいという特徴があります。しかし、同一成分の同種同効薬だと言っても、実際の治療効果については、ゾロ品が先発品より劣っていると、誰もが認めていることでしょう。

私は開業31年間を通じて、一度もゾロ品を使うことがなかったのですが、そのために、薬剤については自信を持って使うことができました。治療薬について自信を持って診療できるということは、治療効果を高める方向に作用したに違いありません。そういうわけで、これも医院経営に正攻法が正解だった例に数えておきます。

19.教えてもらうのは嫌い

私はこどもの頃から、人に教えてもらうのが嫌いでした。自分で本を読んだり、調べたり、考えたり、作ったりする方がよほど好きでした。内科を開業してからは、成長途中の子どもの中に、親の手助けを嫌い、それに怒る子どもがいることを知って嬉しくなったことが幾度かあります。親の助けを借りず、自分ひとりでやり遂げたいという欲求を持った小さな子どももいるのです。

自己教育は、自分から進んで学ぶという点では独学と似ていますが、自分独りの環境を意味しない点では、独学とは異なります。ここで言う自己教育とは、優れた環境の中にあって、自分から積極的に学び、考え、自己の能力を発揮させようとする教育と定義します。それに対して独学は、往々にして独り善がりになり、偏りやすい危険があると思うのです。

教えてもらうのは嫌いですが、教えるのは嫌いではなく、どちらかというと好きな方です。もちろん、教えたがりではないし、自分独りでする方がはるかに好きですが、この傾向が生まれつきなのか、それとも大学に入ってインターンまでの7年間、ずっと家庭教師のアルバイトをしてきたことによるものなのか判然としません。

20.明日できることを今日はしない

「今日するべきことを明日に延ばすな」は当たり前の話です。ところが、フランクリンのように「明日するべきことを今日行え」となると、私はまったく反対です。なるほど、明日の命が分からないから、今日のうちに片付けておくというのは、もっともらしく聞こえます。また、それが自分の「したいこと」であれば、私も明日できることを今日するかもしれません。

しかし、明日「するべきこと」というのが「しなければならないこと」と言うのであれば、「明日できることを今日する」ことを私はしないできました。今日は今日の「したいこと」をする。それが少ない時間をできるだけ有効に使う「生きる知恵」だと思っています。

小学生時代からそうでした。夏休みの宿題は、始業式の翌日をタイム・リミットとして、それに間に合う最小限の期間で始めたし、中学以降の試験勉強も同じ、現在は会計事務所の監査、レセプト提出などがそれに当たり、タイム・リミットに間に合わせられるギリギリまで、とりかかることをしないでいます。

明日の命が分からないとしたら、一層今日できる「したいこと」をしておきたい。明日死ねば、それは仕方がないこと、死んでしまえば「しなければならないこと」も免責されるでしょう。死ぬかどうかが分からないのに、明日の分で今日の時間を費やされるのは、まっぴらご免だ、というのが「明日できることを今日はしない」第1の理由です。

もう一つは、「短時間で集中的にした方が効率が良い」、という経験則を持っているからです。嫌な「しなければならないこと」は、できるだけ短時間で済ませてしまいたい、それには、タイム・リミット一杯まで手をつけないでおくに限ります。

ただし、このタイム・リミットを正しく予想できることが重要で、それを間違えれば、単なるサボリになってしまいます。幸い、私の記憶している限りでは、タイム・リミットを守れなかったことはありません。そのことについては、「14.タイムリミットを守る」で書きました。

21.願掛をしない

これまでに、祈る思いをしたことは何度かありますが、願掛けをした記憶はありません。神仏に祈ったことがないとは、何たる傲慢不遜の輩かと思われることでしょう。そうかも分かりません。しかし、自分の欲しいもの、好きなものを断ち、百度参りとか難行苦行をして、その代わりに願いを叶えて欲しいと祈るのは、性に合わないのです。

自分の努力で解決できない危機的状況に遭遇した場合、私は運に任せます。なるようにしかならないと思うのです。そして、その結果が不本意なものに終わったとしても、しゃあないことはしゃあない、と諦めます。諦めは人一倍良いのです。

そうは言っても、成り行き任せではなく、積極的にまじないをかけることもよくあります。それがゲン直し(験直し)で、欲しいものを買うとか、楽しいことをするとかで、ツキをこちらに呼び戻そうとするのです。これが願掛けよりも、確率的に効果があるのだから、願掛けなどしない方が良いですよ!

22.人間あきらめが肝腎

私はあきらめが良い人間です。それは、身内の死を幼い頃から見てきたことも関係していると思います。中でも私が11歳の時に、妹が麻疹のため3日で亡くなり、29歳の時に母が肺結核で亡くなったことで、人は必ず死ぬということを強く自覚しました。医師になってからは、多くの死を見てきました。開業して書いた死亡診断書は、150通を越えます。人は必ず死ぬ。そして、その時期を誰も予測することはできません。「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」との蓮如の御文はまことで、「突然死」を何人も経験しています。

この、運命をそのまま受容するということは、なるようにしかならないのだから、努力をしても仕方がないといって、努力を放棄する意味では、まったくありません。精一杯努力をして望む結果が得られなかったとしても、それを受け入れ、同時に、次の努力に役立たせようとするアクティブな受容なのです。

あきらめなければいけない時に、あきらめることは大切です。しかし、あきらめるべきでない時に、あきらめるのは愚かです。あきらめるべきでない時には、never give up でこれまでやってきました。そのためには、「あきらめるべきこと」「あきらめるべきでないこと」を、見極めることができなければなりません。


3.以前から使い続けている道具や方法がある

問題解決方法として、以前に習得した道具・方法の中で、今も使い続けているものがあるというのも、ある意味で頑固だということになるでしょう。それらの内の幾つかを、思いつくままに書き出しておきます。

1.文章はエディターで

私が文章を書くのにワープロソフトを使ったのは、パソコンを始めた最初の1年ばかりで、当時発売されたばかりの「太郎」と次の「一太郎」を使いました。しかし、「Mifes」というテキスト・エディターを購入してからは、専らこれで文章を書き、編集してきました。その理由は、ソフトの立ち上がりが早く、操作が軽快で、文章の編集が比較にならぬほど簡単行えるからです。

「Mifes」を購入した86年から現在に至るまでの16年間、文章に関係するものの約98%を、このエディターで処理してきました。印刷をする場合には、エディターで作ったテキストファイルを、ワープロソフトに取り込んで、印刷用の整形をして印刷します。DOS時代には、「Word Perfect」というワープロソフトを専ら使い、Windows 時代になってからは、印刷に特化した3種類のワープロソフトを使い分けています。しかし、世間で標準的に使われている「Word」は、一度も使ったことがありません。

文章を書く、文をまとめる、整理する、ものを考える、そのほかの知的活動にも、このエディターをフルに活用してきました。ホームページを96年から開設し、これまでに230件ほどのタイトルを掲載して来ましたが、そのすべてを、このエディターで作り、ホームページ制作用のソフトを使ったことはありません。この「Mifes」というテキストエディターは、考えて見ると、私の知的活動にとって、何よりも大切なツールであったし、今も、そしてこれからも、そうあり続けるだろうと思います。

2.データは表計算で

文を書くのがエディターなら、データ処理は専ら表計算ソフトで行ってきました。数種類のデータベース・ソフトを使ったこともあるのですが、結局は、一番プリミティブなデータベース・ソフトでもある、表計算ソフトに戻りました。85年から、給与計算をはじめ、データ処理はすべて表計算ソフトで行って来ています。私が取り扱う数千件程度までのデータ処理であれば、これで十分役に立ちます。

表計算ソフトは最初が「スーパーカルク2」、それが3にバージョンアップされ、「ロータス1−2−3」、そして「マイクロソフトのエクセル」を並行的に使ってきました。表計算ソフトは、基本的には縦横マス目のマトリックスから成っていて、ソフトの本質は同じであり、CSVファイルの形式で保存すれば、どのソフトでもデータを交換することは可能です。それぞれのソフトの違いは、付加価値として、いろいろな便利さが加えられているところにあります。だから、データとその処理の基本は同じなのです。

これはちょうどエディターで書くテキストファイルが、機種やOSに依存しないグローバルな統一規格であるように、表計算ソフトでCSVファイルの形式で保存した場合、これもまた機種やOSに依存しないグローバルな統一規格である点が似ていると思います。これまでは、それぞれの表計算ソフトを並行的に使ってきましたが、02年からすべてを「エクセル」に移行させ、現在は専ら「エクセル」を使っています。マイクロソフトの「ワード」は、これからも使わない可能性が高いのですが、「エクセル」は、今後も使い続けることになりそうです。

表計算ソフトで覚えた「キーワードでソートする」というデータ処理の方法は、ほかのソフトでも活用して役立っています。フォルダ内のファイルを新しいもの順、あるいは古いもの順に時系列で並べ替えるとか、名前順で並べ替えるとか、メーラーなら件名、差出人、送信日時で並べ替えるなど、日常茶飯事に行っていることです。昔の非力なCPUでは、このソート(並べ替え)に、かなり時間がかかっていましたが、今のPCであれば、数千件のデータのソートでも一瞬に行われ、まるで魔法です。

3.辞書登録を活用

今から20数年前までは、コンピュータで使える文字は半角カタカナと英数字だけでした。日本語処理ソフトとして、ATOKなどのFEP(front-end processor)が開発され、ようやく漢字や平かなを使うことができるようになったのです。Windows3.0からは、IME(input method editor)という日本語処理が開発され、現在に至っています。

これらの日本語処理ソフトには、辞書登録機能があり、自分独自のことばを辞書に登録することができます。私はこれを活用し、自分が良く使うことばで、本来の辞書に載っていないものを積極的に登録して来ました。なかでも、病名については病名略語の読みで300病名ばかり登録してあります。例えば、「アレルギー性結膜炎」を「あれけつ」で、「骨粗鬆症」は「こつそ」の読みで登録してあります。これは日常の診療でも便利です。

IMEがバージョンアップしても、これらの登録したことば全部を、新しい辞書に登録し直すことで、自分用にカスタマイズした辞書を使い続けることができます。

4.他人が使う機器はカスタマイズ

当院の職員が使う機器は、できるだけ使いやすく、同時にできるだけ間違え難いように、カスタマイズして来ました。ここでは、分かり易いようにデジカメで撮影した画像で説明します。

例えば、レセコン(レセプト・コンピュータ)は74年から使い、現在5台目ですが、ご覧のようにキーの名前を変えたり、強調したり、使ってはいけないキーに赤ラベルを貼るとかということを行ってきました。


カスタマイズしたレセコンのキー部分など

電子レジスターの場合は、使わないキーはスプリングを外して、動かないようにしました。それができないキーは、名前をの代わりに白紙をキーの表に入れて、使うことがないようにしました。


カスタマイズしたレジスターのキー部分など

尿検査の機器クリニテック50の場合は、操作の手順を番号で表示した上、異常状態に陥った時に押すキーを、明示しておきました。


カスタマイズした尿検査機器クリニテック50の操作ボタンなど

以上は、現在毎日他人が使っている機器ですが、これまでも、他人が使う機器には、使いやすく、間違いの少ないようなカスタマイズを行ってきました。

5.業務はマニュアル化

今から21年前、開業10年目にあたる83年から「野村医院勤務マニュアル」を作り、以来、新規採用の職員の教育に使って来ました。先日その改訂第8版を作成し、そのあらましをこのサイトに掲載しました。

この作業手順をマニュアル化するというのも、私の昔からのやり方のようで、今から30年以上も前の、大学にいた頃から、研修医や看護師のためのマニュアルを作っていたようです。

85年にパソコンを始めてから、大阪府医師会のマイコンクラブとかパソコン通信のNiftyなどで、いくつものマニュアル作りをしてきました。また、交野市医師会のパソコン同好会で講義してきたことをまとめて、Windowsパソコンの使い方というマニュアルを出版しました。

マニュアル化することのメリットは、1)私自身の理解が深まる、2)思考の節約になる、3)ルーティーン化している業務を間違いなく行うのに役立つ、4)教育用テキストになる、5)使うものが同じレベルの知識と技能を身につけることに役立つ、6)記憶の不確かな業務を再確認するのに役立つ、7)自分が作ったものを使ってもらいたいという欲求が満たされる、ことを挙げておきます。詳しくは、マニュアルの意義をご覧下さい。

6.80点主義

80点主義は、小学校時代からの私の生きる知恵のようなものでした。昔から100点を取れない、いつもどこかケアレスミステークをしている人間だったため、逆に98点で良い、その代わりに他のことでも98点をとろう、という風な努力をするようになっていました。

この98点主義、一般には80点主義、例えば大学入試のような難しいものでは60点主義は、非常に効率がよく、また、ストレスを少なくする効果があります。力の無い者が、そこそこの成績を出す、あるいは、そこそこに人生を楽しむには、恐らく最良の方法ではないかと思っています。

80点主義のメリットは以下に要約できます。
1.努力対効果比が良い、2.総合点を増やすことができる、3.重大な失敗の確率が低くなる、4.ストレスが少なくて済む、5.他人の失敗に対して寛容になる、6.失敗を恐れない、7.人生を肯定的に生きることができる

この「80点主義」については、98年に、このWebページに詳しく書きましたが、私の生き方の中心となるものです。

7.集中力と集中主義

「潜在能力」が同じでも、熱中したり、集中したり、全力投球できるという「気質」がなければ、その能力を十二分に発揮することはできないでしょう。私の「潜在能力」は、普通並だと自覚していますが、「集中力」は、かなりある方だと思っています。しかし、それが生来のものか、後天的なものかは良く分かりません。

一方、「集中主義」というのは、大きな問題に対処する場合に、意識して、集中的に問題解決に当たろうとするやり方を指します。これは子どもの頃から、機械を分解したり組み立てたりするのが好きで、やり始めると寝食を忘れるほど熱中してきた経験から、身についた主義ではないかと思います。

「したいことをする」場合には、自ずとそうなって当然ですが、「しなければならないことをする」場合にも、この主義で臨むと、効果は大きいのです。例えば、大学入学試験を含めて、学校のいろいろの試験の場合、「80点主義」とこの「集中主義」は効果抜群でした。

「集中主義」のメリットは、1)中断することで加速度的に失われる記憶が、失われずに残っていること、2)集中することによって、頭の回転が高まるのか、良い思いつきが浮かびやすいこと、3)ダラダラ行動することが性格的に合わず、嫌なことであれば、なおさら早く切り上げてしまいたいので、それに適していることなどが考えられます。

8.略語の活用

開業をした73年以来、診療に関係する略号を繁用してきました。それは、1)私が速く書けて、2)職員が速く内容を理解できて、速く処理ができる、3)私も職員にも間違いが起こり難いというのが主な理由です。これによって診療のスピードは飛躍的に向上し、かつ過誤の発生する割合が低下します。

もしも、まったく略号を使わずにカルテを記載したとしたら、一人の患者さんが来られて、診療が終わり、薬剤投与と会計計算を済まして医院を去られるまでに要する時間は、略号を活用してカルテ記載を行う場合に比べて、3倍以上になると思います。

略号を使って記載するのは専ら私ですが、それを解釈するのは、私だけではなく、職員もそれを間違いなく理解できなければなりません。また、患者さんやその家族、あるいは関係官庁などにカルテを開示する場合、その略号が理解できるように、これに対応する正式用語の対照表を準備しておく必要があります。

これに対して、93年に自家出版した「野村医院二十年史」に野村医院カルテ用略語集としてまとめて掲載しました。そのうち、1)カルテの診療内容に記載する略号は、職員が必ず見るものですが、薬剤を除く一般的な略号を約60語、薬剤については約400語、2)カルテの病名欄に記載する病名略号は約300語、3)カルテの所見欄に記載する英文略語は、私が作った略号約150語、慣用的に使われている約略語300語を掲載しています。

そのためには、略号の作り方に一定の基準を決めておく必要があります。その要点は、1)簡潔である、2)内容を暗示し得る、3)早く記載できる、4)直感的に理解できる、5)間違いが起こりにくい、6)一般に慣用されている略号を活用する、7)薬剤などでは、半自動的に決まる略号の作成法を決めておく、などです。

9.整理術

私はよく整理魔とからかわれますが、実際は「常に手抜きを考え、できるだけ整理をしないからこそ、整理ができる」という逆説的な整理をしています。

そのさぼりで手抜きな個人データの整理法を、私の「(超々)整理法」で紹介していますが、その要点は「分類するな、群化せよ」「分類するな、配列せよ」です。

「分類するな、群化せよ」という整理法を簡単に言うと、大雑把に情報を置く場所を決めておき、その決めた場所にとりあえず情報を放り込んで置く。その置き場所の情報量が多くなり過ぎると、その情報の一部をを捨てるか別の場所へ移動させ、あるいは、元の情報の置き場所を幾つかに分ける。情報量の少ない置き場所は、廃止するか他と合併するという方法です。

この「群化(grueping)」こそ、私が受験勉強で身につけた最大の「生きる知恵」で、整理はもとより、問題解決のあらゆる場面で有用でした。

「分類するな、配列せよ」 群化したデータグループは必要に応じて2〜3のグループに分けるのは良いですが、細かい、がっちりした「分類」(classification)はせずに、「配列」(arrangement)するのが整理に有効です。

例えば五十音順に配列するとか、時系列順に配列するなど、一定の順序をきめて並べることによって、生きた整理を行うことができます。これにパソコンを使うと、時間、項目、名前などでソートすることで一瞬にして色々の切口で見たデータ整理が行えます。このことについては、表計算ソフトのところで書きました。

以上は、個人的な整理について述べたのですが、「業務用のデータの整理」の場合、きっちりした大分類とIDの時系列順に配列するのが、少なくとも医療関係では必須だと思います。

ただし、いくら整理法が良くても、元のデータが屑であれば、結果も屑以上のものにはなりません。間違ったデータをどれほど上手く整理しても、結果としては、間違いしか出てこないのは当たり前の話。そのようなデータの整理を行うのは、時間と労力の浪費以外の何ものでもありません。だから、整理法にうつつを抜かすより、有用なデータを集めることに力を注ぐ方が、より大切だと思っています。

10.データを残す

業務用情報は、それで生計を立てているのだから、それなりに重要ではありますが、個人としては「自分の関係した情報」が大切で、「自分に無関係な情報」は、どんどん捨てていかなければ、情報洪水に溺れてしまいます。

「自分の関係したデータ」とは、例えば私宛に届いた個人的な手紙類や、自分が書いた雑文、論文、設計図その他の自作のもの、あるいは、自分の関心があるまとめたいテーマ(キーワード)に合うものを指します。これらは、整理をしないでおくことが多いですが、決して捨てることはしません。この点では、かなり他の人と違っている可能性があります。

「自分の関係したデータ」は、それに結びつく思い出も多く、それをよりどころに、整理をしていくよすがともなり得るのです。


4.以前から持ち続けている価値観などがある

1.生きている期間は限られている

生物は、すべて生まれ、生き、死ぬのがさだめ、生きている期間は限られています。私は変わったところの多い人間ですが、その中でも、人と一番違うところは、「時間がない」という自覚をかなり早い時期から持っていたことではないかという気がします。つまり、死ぬことを早くから意識してきたということです。

メメント・モリ
メメント・モリ(memento mori)というのは中世の言葉で、ラテン語の「死を忘れるな」という意味です。自分の死がもう間近に迫っていると知れば、残された日々をどう生きるかを考え、限りある命を精一杯生きるでしょう。人が自覚的に生き始めるための一番強いきっかけは、死を知ることだと思います。

人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるゆえなり
兼好法師のこのことばは、昔から徒然草の中の一番好きな箇所でした。

明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは
また、親鸞のこのことばもまた、今を精一杯生きることの大切さを教えてくれます。

明日できることを今日はしない
このことばは、先のライフスタイルのところでも書きましたが、生きている間に、できるだけしたいことをしておきたい、という貪欲さが根本にあるように思います。

2.生きる価値の基準

医学部の学生だった20代のはじめ、生きる「価値の基準」となるものについて、真剣に考えた時期がありました。自分が納得できるものが得られるまでは、何とも落ち着かず、そればかりが頭にあって、悩んでいた記憶があります。

その結果、生きる「価値の基準」は、「生命の発揮」、つまり充実して生きることにあるという答えを出しました。私はこの結論に満足し、以来40年の間「生きる意味」について悩むことがなかったのは、性格によるところが大きいのだろうと思っています。言い換えれば、40年間進歩成長がなかった、ということであります。

3.私にとって大切なこと

私にとって大切なことは何かと考えた時、「生きる自由」が第1番です。これは生物として当然のことであり、誰にとっても同じでしょう。その次に来るのは、「したいことをする自由」で、3、4番目はなくて、5番目は「誇り」だと思います。その後は思いつきません。今ふり返ってみて、若い時からこれらは変わっていない気がします。

4.行動の原理

私の行動原理の第1は、「したいことをする」です。これは、おそらく子どものころからそうだったと思いますが、記録としては、61年に書いた小文「外科を選ぶか内科にするか」にそれが残っています。

それでは、現在したいことは何かと言うと、それは自分で創ること、何かを書いたり、作ったりすることのほかにも、計画をする、まとめる、整理する、編集する、発表する、公開する、情報を発信するなどもこれに含めます。私はこれを「能動的欲求」と呼んでいます。

しかし、「したいこと」をするだけで済ますことのできる人生は存在せず、その程度は違っても、「しなければならないこと」をして人間は生きているわけで、この「しなければならないことをする」というのが、第2の行動原理となります。これに対して、私は、たとえ、したくなくても、「しなければならないこと」を果たしてきたつもりです。

31年間の開業医生活は、必ずしも「しなければならない」ことばかりではなく、その中で「したいこと」も多くしてきました。しかし、嘱託医として19年間、毎週水曜日に府立自立センターを訪れ、行ってきた健診、あるいは交野市医師会設立以来10年間務めてきた理事の仕事などは、私にとって「したいこと」ではなく、「しなければならない」ことでした。

「アングルのバイオリン」という言葉があります。それは、フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることにより重きを置いていたという話です。私も、職業である医師として評価されるのは当然のことであり、いい加減な評価では、むしろ不快になるかも分かりません。しかし、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来ました。

この「アングルのバイオリン」を次のように言い替えることもできます。「しなければならないこと」は生きて行く上での義務、あるいは当然支払わなければならない代価として精一杯これに努めるが、生きる目標は「したいこと」をすることにあり、この自己満足こそが生きがいです。

5.権威を疑う

人と違っている一番頑固なところは、おそらく、「権威を疑う」ことだろうと思います。識者、専門家、プロフェッショナル、大学教授など権威がある人のことばを、直ぐに信奉することはせず、自分の頭で考え、「待てよ、ちょっとおかしいのと違うか」と疑い、調べたりします。

このような思考パターンが身についた一番の要因は、1945年8月15日の敗戦です。軍国少年として戦中を過ごし、敗戦で、それまで信じてきた価値の基準が180度転換し、教師、知識人、軍人、為政者の無能力無節操を知ったことです。この「権威を疑う」ことが判断を誤らない大切な心構えであることは、その後の人生で度々体験してきました。

この重要なフレーズを書き落としていたので追加します。(2017.8.11.)


5.まとめ

まだまだ、書き落としている部分もあるでしょうが、以上で頑固な私を総括してみました。最初に書いたように、自分は確かに頑固者と思うこともあるが、その反対に、今でも相当柔らかい頭をしていると思うこともあり、また、相当の新しもの好きでもあります。ただ、いったん手に入れて、それが有用であれば、いつまでも愛用する頑固な人間には違いありません。


<2004.6.20.>
<2017.8.11.>追加

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