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2015.12.17. 掲載
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目次
1.はじめに
2.ハイデルベルク
3.ローテンブルク
4.ロマンチック街道
5.ミュンヘン
6.ザルツカンマーグート
7.ザルツブルク
8.ウイーン
9.まとめ
私の3回目の海外旅行の記録は、1回目2回目で行ったビデオ記録ではなく、フロッピーディスク(FD)に収めた画像ファイルを、スライドショーで表示し、画像の説明は添付した印刷文書を読んで頂く方式とした。
しかし、この方式による旅行記録は、この回だけで終わった。それは、パソコンを持っている人で、スライドショーの操作ができる人にしか利用できないのが致命的欠点だったからである。
この方式を選んだのは、この年にSONYからFD(フロッピーディスク)に記録するデジカメ MVC-FD7 通称マビカが発売されたからである。このデジカメは旅行中の撮影に適していると考え、発売と同時に購入していた。
旅行先をドイツ・オーストリアとしたのは、自分の人生に関係してきたところであるからで、それは悩み多く苦しかった青春前期の頃に、自分が一番影響を受けた人達の国だからである。
具体的には、中学3年の頃の「デミアン」のヘッセ、高校時代の「冬の旅」のシューベルト、大学教養時代の「精神分析入門」のフロイト、「現代人の心理構造」のアドラー、これらによって精神的危機から抜け出す事ができた、という思いを今も持っている。
ヘッセは南ドイツ、残りの3人はウイーンの人である。私は多くの場合、かなり楽天的に生きてきたが、この時期だけは真剣に悩み苦しんだ記憶がある。
この海外旅行3回目から、私たち夫婦の旅行の場合の旅行会社はJTBに変え、それは今も続いている。
スライドショーに使った写真とその説明を活用して、Web文書として旅行記録にまとめた。
ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるハイデルベルク城は、ドイツで最も有名な城址として知られている。
また、ハイデルベルク大学はドイツ最古の大学であり、ドイツ有数の世界的な大学である。
アルテ・ブリュッケ(古い橋)の公式な名称は「カール=テオドール橋」である。この橋は、ドイツで最も古い橋の一つである。 ハイデルベルクからは東へ向かって、チェコのプラハにまで通じる古城街道が通っている。
ローテンブルクの正式名はローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)と言う。(ob der Tauber)と言うのは、(タウバー川の上にある)と言う意味。
入り組んだ路地や小さな公園、それを取り巻く木組み住宅といった、中世のようによく保存された旧市街は、ドイツの街の原型と言われている。
ロマンティック街道はこの街で古城街道と交差する。
ロマンチック街道は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートである。ローテンブルクで古城街道と交差する。
街道沿いに点在するローテンブルクなどの中世都市や、ノイシュヴァンシュタイン城などの美しい城、ヴィースの教会などの宗教建築で知られている。
「ロマンティック街道」とは、「ローマへの巡礼の道」の意味で、ローマ人たちによって作られたローマへの道路網の一環として整備されたものだと聞いた。夢みるようなロマンチックな道ではなかったのだ!
「ロマンティック街道」は終着点「フュッセン」を過ぎると、この後アルプスを越えてローマへと続く。
ミュンヘン(Muenchen)はドイツで3番目に大きな都市で、BMWやシーメンスの本社があるほか、ドイツ最大のビール醸造所がミュンヘン近郊にある。世界最大級のビアホールもある。そのビアホールの名はホフブロイハウス(Hofbraeuhaus am Platzl)という。
ここの1階は体育館ほどの広さのあるホールとなっており、木の長椅子と長いテーブルが並んでいる。原則として相席となる。1920年に 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党大会が開かれ、聴衆2000人がこのホールに集まったと聞く。
ドイツ人の大柄ウエイトレスが、1リットルジョッキを、両手の全部の指に通して、テーブルに運んでくるのにはたまげてしまった。
日本人客が入ってくると、「上を向いて歩こう」など日本の曲を演奏し、歓迎してくれる。アットホームな雰囲気にすっかり魅せられてしまった。ビール好きにはたまらない場所だ。
ザルツカンマーグート(Salzkammergut)はザルツブルク市の東方に位置する。サウンド・オブ・ミュージックの舞台となった地方で、氷河が削った様々なU字谷がうねり、変化に富んだ谷に、多くの美しい湖が点在する。
サンクト・ギルゲン(St.Gilgen)はザルツブルクに近く、モーツァルトの母が生まれた場所で、広場には有名な子供のモーツアルト像がある。
モント湖(Mondsee)の近くには「サウンド・オブ・ミュージック」の結婚式の舞台となったモントゼー教区教会 (Mondsee Pfarrkirche) がある。
ザルツカンマーグートは、2009年の「ハンガリーとオーストリ オペラ鑑賞の旅」でも訪れているが、12年間のITの進歩は著しく、掲載した写真の質からそれを実感できる。
ザルツブルク(Salzburg)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んでいた事で、音楽を愛する世界の人々にとっていわば巡礼地になっている。
とりわけザルツブルク音楽祭の開催される夏のシーズンはホテルはどこも満員となり、モーツァルトの生家(Mozarts Geburtshaus)のあるゲトライデ通り(Getreidegasse)は、もともと狭いのがなおさら狭く感じられるほどの混雑となる。
マカルト小橋かシュターツ橋のいずれかで旧市街へ渡ると、モーツァルトの生家のあるゲトライデ通りはすぐ近くにある。旧市街ではレジデンツというザルツブルクを支配していた大司教の住居がある。
レジデンツの東には2つの塔を持つドーム(大聖堂)(Dom)があり、レジデンツ広場(Residenzplatz)、さらにモーツァルト広場(Mozartplatz)とつづく。
ドームの南側には、大きなサンクト・ペーター寺院、その西隣には音楽祭に使われる祝祭大劇場、モーツァルトのための劇場(旧祝祭小劇場)、フェルゼンライトシューレ(岩壁に面した乗馬学校跡のコンサートホール)がある。 南の高台にはホーエンザルツブルク城(Festung Hohensaltxburg)がある。高台はメンヒスベルクという名の丘陵で、旧市街の南側を1.3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地となっている。
ザルツブルクは、2009年の「ハンガリーとオーストリ オペラ鑑賞の旅」でも訪れているが、12年間のITの進歩は著しく、掲載した写真の質からそれを実感できる。
ウイーン(Wien)は、第一次世界大戦(1914〜1918)までは、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、その後も19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われている。
そして、帝国各地から多くの民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えたとされている。
アメリカ合衆国より前に、このような多民族国家が存在したという事実を知って、私は感動した。結果的には、この形態の国家は長くは存続しなかったのだが、人類の実験の一つと考えることができるだろう。
ウイーンには、私が大学教養時代に影響を受けたフロイトやアドラーの卒業したウイーン大学があり、夜のウイーンの街を歩いて大学の建物を眺めた。
私が高校時代に愛聴し、愛唱した歌曲「冬の旅」の作者シューベルトはウイーンの郊外で生まれている。ウイーンの中央墓地に彼が敬慕したベートーヴェンと並んで墓があり、個人的とツアーで2回訪れた。
ウイーンには、2008年の「ウィーン・ベルリン音楽の旅」と、2009年の「ハンガリーとオーストリ オペラ鑑賞の旅」で2回訪れている。10年ばかりの間でのITの著しい進歩は、旅行記に掲載した写真の質から実感いただけると思う。
晩餐会を終えてレストランを出たところでデジカメのマビカを路上に落としてしまい、使えなくなった。仕方なく使い捨てカメラ「写ルンです」を使って、その後のウイーンの撮影を行った。画質は劣るが、雰囲気は分かると思えるので、ここに敢えて掲載をした。
私たち夫婦の3回目の海外旅行の記録をスライドショー形式でまとめたが、今回それをWebサイトの記事としてまとめ直した。
写真はこの年に発売されたばかりのデジカメ SONY MVC-FD7 通称マビカで撮影した。解像度が640x480で、当時としてはこれでも実用的だったが、ITは急速に発展し、それから数年も経たない間に廃物となってしまった。
自分の人生に関係してきたところとして旅行先にドイツ・オーストリアを選んだが、旅行はほとんどが観光旅行となり、ウイーンでシューベルトの墓を訪れ、フロイトやアドラーが学んだウイーン大学の建物を眺めるくらいしかできなかった。
ハイデルベルクとローテンブルクでは中世の街の魅力を鑑賞し、ロマンチック街道ではノイシュヴァンシュタイン城などの素晴らしい城に見惚れ、ミュンヘンでは世界最大のビアホール「ホフブロイハウス」でビールを大いに楽しんだ。
ザルツカンマーグートでは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の世界に浸り、ザルツブルクではモーツアルトに関係する諸々の建物、場所、宮殿、城を訪れ、城で催されたコンサートを鑑賞した。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われている。この歴史的事実を知って感動した。
ザルツカンマーグートとザルツブルクには2009年にも訪れ、ウィーンには2008年と、2009年にも訪れている。比較してみると、ITの発展を写真の画質から納得できる。
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