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10歳のころの遊び

2013.01.09. 掲載
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目次
1.はじめに
2.遊びに明け暮れた10歳
3.あの頃の遊びは何だったのか?
4.まとめ


1.はじめに

現在4歳の孫娘を、誕生から観察してきて一番驚いたことは、こどもが「遊ぶ」エネルギーのすさまじさであった。昨春、幼稚園に入園してからは、私ども祖父母のところへ来る回数は週1回程度に減ったが、5時間、8時間、10時間とぶっ通しで遊び続け、休むことをしない。遊び疲れて眠ってしまうこともない。まこと、昨年の大河ドラマ「平清盛」のテーマ曲「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ」である。

そこから、自分の幼児のころの遊びを思ってみたが、もちろん分かるはずがない。しかし、小学4年生の1年間は、ひたすら遊んだことを覚えている。その時に受け持っていただいた恩師とクラスメートの話からも、それは間違っていないようだ。

孫とは遊びの種類は違うが、私にも遊びに没頭した時期があった。それを記録に残しておこうと思う。



2.遊びに明け暮れた10歳

小学4年庄野学級

1945年(昭和20年)3月から神戸に空襲が始まり、私たち小国民は田舎へ疎開し、そこで8月15日の敗戦の日を迎えた。私が神戸に戻ったのは翌年である。

昭和21年の正月に、両親や妹弟のいる神戸に帰ってきた。神戸はほとんどが焼け跡で、その中にバラックが点在し、闇市がにぎわい、浮浪者や浮浪児が満ちあふれていた。進駐軍におびえ、パンパンに嫌悪感を抱き、雨上がりの夜、焼け跡の片隅で青い火の燃えるのが恐ろしく、逃げだしたことを覚えている。あれは、死体から出た燐が光っているのだと聞かされていた。

世の中は、そのような荒れ果てた状態だったが、親元に戻れた嬉しさは、何にも勝る思いで、喜々として毎日が過ぎて行った。ラジオから流れてくる音楽は、戦時中の軍歌とは違って、甘く、心をひきつけるものが一杯で、これをむさぼるように聞いた。

(以上、「歌と思い出」から抜粋)


3年生まで国民学校だったのが、4年から小学校に名前が変わった。4年は男子組、女子組、男女組の3クラスがあり、私は男女組で、担任は庄野千鶴子先生だった。あとから分かったのだが、私たちのクラスは男女共学のテストケースだった。阪神間の小学校の先生がたくさん授業見学に来られることが多かったのは、そのせいだったようだ。


山下哲男君といつも一緒

この小学4年の1年間、学校と食事と寝るほかは、ひたすら遊んでいた。そのときは、必ずと言ってよいほど、山下哲男君という相棒と一緒で、そのことを受け持ちの庄野先生や当時のクラスメートが覚えているのをクラス会で知った。庄野学級のクラス会は、小学4年より56年目の2002年から毎年行われ、10名以上が参加している。

彼とは、家がどちらも同じ兵庫県の公舎で、通学途中はもちろん、放課後も、家に帰ってからも、常に一緒に行動(遊び)をしていた。食事と寝るときを除いて、いつも一緒にいたような気がする。

彼はクラスで背が一番高くスポーツ万能だった。私はその頃から生意気だったので、6年生によくいじめられたが、彼はかばってくれたり、助けてもくれた。彼自身は、「気は優しくて力持ち」の温厚な性格だった。私はその頃から、何度も喧嘩をしてきたが、彼とは一度もしていない。

高校が別だったせいもあり、高校に入った頃から疎遠になってしまった。しかし、何かのきっかけで思い出すと、つい名前が出てしまうので、会ったこともない妻も、彼の名前を良く知っている。2002年に、55年ぶりでクラス会を持つことになったとき、一番会いたいと思ったのが彼、山下哲ちゃんだった。

そのクラス会で、クラスメートから、山下哲ちゃんといえば私、私と言えば山下哲ちゃんを思い出すと言われた。また、「野村さん、哲ちゃんに会えて恋人に会ったくらい嬉しいでしょう?」と尋ねられたりもした。それに対して、哲ちゃんは「恋人以上や」と即答していたが、私もそれに近い気持だった。

先生に赤鬼青鬼のあだ名をつけられていた!

庄野先生に、「あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼」とあだ名をつけておられたそうだ。その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していたと、ニコニコ笑って話される。「鬼」にされていたとは知らなかったが、愉快だった。

どんな悪いことをしていたのかというと、横山学級という男子だけのクラスを相手に、よく喧嘩をしていたらしい。そう言えば、そのクラス全員と喧嘩した記憶がある。馬場君は、私が横山学級の誰かの頭に、チューインガムを塗りつけたと言えば、先生は、私が悪いことをするくせに、叱られるとポロポロ涙を流す「鬼」さんだったと、笑われるのだった。

(以上、小学4年庄野学級より抜粋)


第1回のクラス会で、庄野先生は当時山下哲ちゃんと私に「赤鬼青鬼」と言うあだ名をつけていたと話された。そして、この赤鬼と青鬼は鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動して、いたずらをくりかえしていたとも言われた。確かに私たち二人は仲良しで、いたずらや喧嘩をよくしていたのは覚えているが、鬼にされていたと知らなかった。

第3回のクラス会で、先生からこの「赤鬼青鬼」について、もう少し詳しい説明をいただいた。先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、その中に出てくる「赤ノッポ青ノッポ」という小学生の鬼たちに、私たちがとても良く似ていたらしい。そこで「赤ノッポ青ノッポ」から「赤鬼青鬼」というあだ名をつけられたということだった。また、赤鬼(赤ノッポ)は私、青鬼(青ノッポ)は哲ちゃんだということも教わった。

赤鬼青鬼と言われて、やっぱり昔から悪餓鬼だったのかと苦笑していたのだが、それが先生お気に入りの絵本のキャラクターだと知って、なんだか出世した気分になった。

「赤ノッポ青ノッポ」はどんな絵本かをWeb検索してみると、それは、かなり有名な絵本のようだった。1934年に東京・大阪朝日新聞に連載された絵物語がまとめられ、鈴木仁成堂から単行本として出版されたもので、童画作家武井武雄という人の作品である。(図1)


図1.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 表紙

あらすじは、桃太郎の121代目の今野桃太郎から、その昔桃太郎に征服された鬼が島の村長のところへ招待の手紙が届いたので、2匹の鬼が日本にやって来て、小学校に入学して、珍騒動をくり返す生活風景を、ユーモラスに描いている。物語は4コマ単位の積み重ねによって構成されている。(図2)


図2.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 第1ページ

(以上、現役最後のクラス会より抜粋)


クラス会でお会いする度に、庄野先生は「あなた達は、ほんとに仲が良かったね、二人で悪いことばかりするので、青鬼赤鬼とあだ名を付けていたのよ。知らなかったでしょう。この鬼は「青ノッポ赤ノッポ」という絵本に出てくるの。」と、これまで、毎回お聞きしたことを話される。二人を見ると、条件反射的に連想されるのだろう。ただ、ちょっと良いことも言って下さった。「あなた達は、いたずらはするけど、正義感があって、弱いものいじめはしなかったね」

そこで、二人は口を揃えて、「そうです、弱いものいじめをしたことはありません。家に帰っても上級生とばかり喧嘩をしていました」と得意になって答えたものだ。

おまけに、「横山学級全部を相手によく喧嘩をしたけれど、あれは男女共学で仲良くしている私たちを嫉んで、いろいろチョッカイを出して来たのだと思います」とまで付け足した。

そうしたら、先生は素直にそれを認められ、私もそう思う、と話されるのだ。ここが庄野先生の素晴らしいところ、60年前も、常に自分の生徒を信じて下さるので、私たち悪餓鬼は、くすぐったい思いを何度か経験したのを思い出した。

(以上、庄野学級古希のクラス会より抜粋)



図3.左端:青鬼(山下)、右端:赤鬼(野村) 1946年の集合写真より


普通の遊び

私たち二人の遊びはもちろんいたずらだけではない。ほかのクラスメートなどと、いわゆる「かくれんぼ」「鬼ごっこ」「缶蹴り」、「駆逐水雷」などの戦争ごっこ、「ベッタン(メンコ)」や「ラムネ(ビー玉)」など、当時のこどものすることはほとんどしていた。

あの時期だけ流行った遊びに、「自転車のリム転がし」がある。焼跡から自転車のリム(タイヤやスポークのない金属の輪っか)を拾ってきて、その溝に棒を当て転がしていく遊びだ。また、どこかで手に入れたベアリングを、木の板に取り付け、それに乗って遊ぶ「スケートボードの原型」のようなものでもよく遊んだ。


危険な遊び

しかし、危ない遊びはそれ以上に私たちを引きつけた。その中で一番簡単なのは「石やり」で、一般にはパチンコと呼ばれているらしい。Yの形の木の枝を切取り、その上端に2本のアメゴムを張り、アメゴムのもう一方を皮の帯に結び、この帯に石を入れて挟んで弓のように引っ張って離すと、石が飛び出す仕掛けである。

石では威力が少ないので、鉛玉を使うことが多かった。この鉛玉は、焼跡にある鉛の水道管を切取って、それを缶詰のブリキ缶に入れ、たき火で鉛を溶かし、それを内径5〜8ミリ程度の細竹の中に流し込んで鉛棒とし、これをペンチで5〜8ミリ程度に切断して作るのだった。

鉛の水道管は焼跡でいくらでも見つかるが、この一部を切取ったあと、水が吹き出さないようにするにはちょっとした技術が要る。溶かした鉛を細竹の中に注ぐ場合も、注意をしなければ、時に中の水分と反応して吹き出して火傷をする危険がある。その作業を庭さきで喜々として行った。

「石やり」よりも危険だが、それよりもはるかに魅力的だったのは「空気銃」だった。哲ちゃんの家には、お父さんの空気銃があり、家の人の目を盗んで、これに触らせてもらったり、鉛の銃弾を込めて撃たせてもらったりした。それは、スリルのあるゾクゾクする快感だった。

「石やり」や「空気銃」の標的として、雀などはなかなか命中しないので、街灯の裸電球や、御影の大きなお屋敷の門灯などを狙ったこともあった。今なら非行児童として指導される行為だが、敗戦1年目の日本は、誰もが生きることに精一杯で、こどもに目が向かう余裕はなかったのだろう。一度も見つからず、発覚することもなかった。もちろん、親たちも、庄野先生もこのことはご存じあるまい。それは二人だけの秘密だった。

ただ、これらの飛び道具を人に向けることだけは絶対にしなかった。それは卑怯者のすることだという意識が戦争中から染みこんでいたのだと思う。とにかく、卑怯は恥ずべきことだった。

危険と言えば、阪急電車に石を轢かせたり、釘を轢かせてペシャンコにし、それを研いでナイフを作ったり、道路の上を通る阪急電車の陸橋にぶら下がって、きも試しをしたこともあった。



喧嘩も遊び?

そのほか、遊びとは言えないかもしれないが、喧嘩をよくした。それも、同じ年齢の者とすることは少なく、ほとんどが5〜6年生や中学生たちが相手だった。私たち二人は、常に行動を共にしていて、それが上級生には生意気に映ったのかもしれない。大きな箱の中にふたりが放り込まれ、その箱をゴロゴロ転がされるということをよくされた。それでも、決して許しを請うことをしないのだから、可愛げのない嫌な二人組だったのだろうと思う。

私ひとりでもよく喧嘩をした。相手はほとんどが5〜6年生で、生意気な下級生に見えたのだろう。喧嘩は殴り合いよりは取っ組み合いが多かったと思う。口喧嘩は一度もしたことがない。

このときの私の喧嘩の仕方は、皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れだった。こちらが被害を受けるのは承知で、できれば、それ以上の打撃を与えてやろう、それがだめなら相討ち、それも駄目なら、少しでもダメージを与えてやろうというつもりで闘うのだから、相手はたじたじになる。お互いの服はぼろぼろに破れ、ボタンは全部吹っ飛んでしまっていることもよくあった。

今ごろ、このような喧嘩をすれば殺されるかもしれないが、当時は、刃物などの武器を使うとか卑怯な真似をすることは、恥ずべきことだとする暗黙の了解があった。

これを書いていて、傷んだ服を弁償してくれと持って来た上級生がいたことを思い出した。彼は母親に叱られたのだろう。しかし、私は母からきつく叱られた記憶がない。この喧嘩好きは中学2年まで続いた。



3.あの頃の遊びは何だったのか?

孫娘3歳までの成長を記録し、孫の遊びを第10章:遊びで、そのまとめを行い、孫の遊びとホモ・ルーデンスの中で「こどもにとって遊びは価値があり、本質的なものであることが良く理解できる」と書いた。

10万年前にアフリカに生まれた人間は、地球上の各地に移動し、広がり、他の生物とはまったく異なる繁栄を遂げた。その進化の過程で不要な部分は淘汰され、必要な部分が残り、遺伝子に記憶されている。

こどもがこれほど遊びに没頭することは、この人類の進化の過程で遊びが淘汰されなかったことを示している。進化と言えば、環境に適応するための合理的な変化と直感的に思うが、遊びは進化の対象でなく、人間という種が持っている固有の特徴で、これがあるため、他の生物と異なる進化ができたと考えることもできよう。

遊びの本質は「面白さ」「楽しさ」にあることに異論はあるまい。単に生きるだけでなく、それを思う存分に楽しみたいという気持ちを人間は最初から持っていた。この「ホモ・ルーデンス」が、進化に適応できた一つの理由ではないかと思う。

もう一つの理由は、人間が物を作る(工作する)という特徴を持っていたことで、これは「ホモ・ファーベル」に対応する。他にも「考える」とか「記録をして伝承する」なども挙げることができる。私の10歳のころの遊びも、人間の固有の特徴を発揮する機会があったということであろう。

発達心理学では小学校の中学年、9歳〜10歳をギャング・エイジと呼ぶようだ。ギャングとは暴力団のギャングではなく、徒党、仲間の意味で、この年齢の友人関係は、他の世代を寄せ付けず、また同じ世代であっても、特に認めた相手だけを友人とする特徴があるという。

哲ちゃんと私の関係は、まさにギャングエイジそのものであった。これをたっぷり経験したことも意味があったと思う。

私には、もう1度遊びに耽った時期があった。それは1955年から1956年までの2年間で、大学に入ってすぐ二つの男声合唱団と一つの混声合唱団に入部し、講義にはほとんど出ず、大学は歌を歌うだけに通った。それが許される時代に生きることができた幸運に感謝している。この経験も意味があったと思っている。



4.まとめ

孫娘の「遊び」に圧倒され、自分のこどものころの遊びをふり返り、まとめてみた。それによって、「遊び」が人間にとって本質的なものであるのではないかという思いを一層強く持った。

「遊び」には他に、「遊興」「ゆとり」などの意味もあるが、ここで取り上げたのは、普通に使われる「遊び楽しむ」である。


<2013.1.9.>

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