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 鬼が来た!  「鬼が来た!/鬼子來了(DEVILS ON THE D00RSTEP)」の画像です

 2000年作品。中国映画。140分。配給=東光徳間。監督・製作・共同脚本=姜文(チアン・ウェン)。脚本=尤風偉(ユウ・フェンウェイ)、史建全(シー・チェンチュアン)、述平(シュー・ピン)。撮影=顧長衛(クー・チャンウエイ)。音楽=崔健(ツイ・チエン)、劉星(リウ・シン)、李海鷹(リー・ハイイン)。録音=呉凌(ウー・リン)。編集=張一凡(チャン・イーファン)、フォルマー・ヴァイジンガー。美術=唐世云(タン・シーユン)。マー・ターサン=姜文(チアン・ウェン)、花屋小三郎=香川照之(カガワ・テルユキ)、ユイアル=姜鴻波(チアン・ホンポー)、通訳トン・パンチェン=哀丁(ユエン・ティン)、ユイアルの義父=叢志軍(ツォン・チーチュン)、酒塚猪吉=澤田謙也(サワダ・ケンヤ)、野々村耕二=宮路佳具、丸山通信兵=長野克弘、国民党兵士=呉大維(デビッド・ウー)


 2000年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作が、ようやく公開された。1945年、日本軍に占領された中国・掛甲台(コアチアタイ)村が舞台。旧正月直前、マーの家に、日本兵と通訳の入った麻袋が投げ込まれたことから、村は思わぬ災難に見舞われる。衝撃作であることは予想していたが、その予想をはるかな上回るパワーに打ちのめされた。迫力だけではない。素晴らしい脚本、映像、音楽が高いテンションを支える。ち密な計算によって的確にまとめられている。

 高みから見下ろした戦争批判ではない。生活に密着したところから、戦争の理不尽さを描いている。そして、笑っているうちに、一転おぞましい殺りくの場面を突き付けられる。ラストシーンで、私の後ろの席の人がうめいた。私も心の中でうめき声を上げていた。とてつもない傑作に出会いながら、なかなか言葉にならない。人間への希望を失わせるような無気味な質感は、ドキュメンタリー「リーベンクイズ」とつながっているが、「鬼が来た!」からは中国の大地に根を下ろした不敵な笑いを感じた。首を切られたマーの最後の微笑みのように。

 中国の村人たちの描き方が生き生きとしているのは、言うまでもないことだが、日本兵もひとり一人が、とてもリアルに描かれている。研究の跡がうかがえる。香川照之の熱演は高く評価していい。並々ならぬ困難を乗り越えた偉業と言えるだろう。歴史を描くという点では、最近ふがいない日本映画に活を入れる刺激になるかもしれないが、何よりも私自身のふやけた感性に活を入れられた。


 暗い日曜日  「暗い日曜日/Gloomy Sunday」の画像です

 1999年作品。ドイツ・ハンガリー合作。115分。配給=ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ。監督・脚本=ロルフ・シューベル 。原作=ニック・バルコウ「暗い日曜日」 。製作=リチャード・ショップス。脚本=ルース・トーマ、ロルフ・シューベル 。撮影=エドヴァルド・クオシンスキ。編集=アーシュラ・ホフ。音楽=デトレフ・ピーターソン、ラズロ・セレス 。イロナ・ヴァルナイ=エリカ・マロジャーン(Erika Marozsan)、アンドラーシュ・アラディ=ステファノ・ディオニジ 、ラズロ・サボー=ヨアヒム・クロール、ハンス・ヴィーク=ベン・ベッカー


 地味な題名ながら、必見の傑作。ドイツとハンガリーの合作が成功した。ユダヤ系ハンガリー人レジョー・セレッシュが作曲し、シャンソン歌手ダミアが歌って世界中で大ヒットした名曲「暗い日曜日」にまつわる物語。「耳に残るは君の歌声」でも、クリスティーナ・リッチが歌っていた。最近ではビョークも歌っている。当時、曲を聴きながら自殺する人が相次いだため「自殺の聖歌」と呼ばれ、BBCが一時放送禁止にしたほどだった。人間の尊厳が簡単に崩壊していく悲しみ、そして絶望の甘美さ。時代の雰囲気にマッチしたということだろう。しかし今聞いても、心がふるえる。時代が、再びこの曲を呼び寄せているのか。

 ババリアン映画賞で監督賞・撮影賞。紋切り型ではない男女の3角関係(正確にはFMMMの4角関係)を描いた大人の恋愛ドラマだ。情念と理性、華麗さと重苦しさのバランスが素晴らしい。簡潔に切り取られた各場面は、どれも深い意味を持つ。1930-40年代のハンガリー・ブタペストという過酷な時代を背景にしながら、会話がとても粋。困難な状況の中でも、これくらいの余裕を持てるのが大人というものか。エドヴァルド・クオシンスキ撮影監督の映像のキレもすこぶる良い。ラストは、あっと驚くサスペンス仕上げ。最初のシーンの意味が解き明かされ、重苦しいドラマが痛快に幕を下ろす。観てのお楽しみだ。

 登場する4人の人物。皆キャラがたっている。「暗い日曜日」を作曲したアンドラーシュは、美形で痛々しい。「カストラート」(ジェラール・コルビオ監督)のステファノ・ディオニジ が演じている。レストランを経営するラズロは、誠実さも含めた懐の大きさが魅力。ラズロに命を救われながら最後は裏切るドイツ人ハンスは、悪役ではあるが人間的な弱さには共感できる。そして、中心にいるのが花のように艶やかで、木々のようにしなやかで逞しいイロナ。女優エリカ・マロジャーンの作品は初めて観たが、外見の美しさだけではなく、確かな演技力に魅せられた。


 タイムマシン  「タイムマシン」の画像です

 2002年作品。アメリカ映画。96分。配給=ワーナー・ブラザース。製作総指揮=ローリー・マクドナルド、ジョージ・サラレギー、アーノルド・リーボビット。製作=ウォルター・F・パークス、デイビッド・バルディズ。監督=サイモン・ウェルズ。脚本=ジョン・ローガン。原作=H.G.ウェルズ。撮影=ドナルド・M・マカルピン。音楽=クラウス・パデルト。美術=オリバー・ショール。編集=ウェイン・ウォークマン,A.C.E。衣装=ボブ・リングウッド。アレクサンダー・ハーデゲン=ガイ・ピアース、エマ=シエナ・ギロリー、デイビッド・フィルビー博士=マーク・アディー、ウォチット夫人=フィリーダ・ロウ、モーロック・リーダー=ジェレミー・アイアンズ


 知らない人はいないSFの古典中の古典H・G・ウェルズの「タイムマシン」の映画化。ウェルズの曾孫サイモン・ウェルズが監督した。デビュー作としては、相当に荷が重かったと思う。19世紀のシーンは、とても雰囲気がある。タイムマシンの周りの風景が変化する場面は、CG技術の進歩でこれまで見たことのないほど魅力的になっている。ただ、脚本の出来は良くない。主人公は、過去に戻って恋人の死を食い止めようと必死になって研究しタイムマシンを発明したはずなのに、1度試しただけで「過去は変えられない」と諦めてしまい、未来に解決方法を探しに行く。最低10回は試してみるのではないか、普通なら。

 そして80万年後の人類の驚くべき進化(食べられる人種と食べる人種に2極分化)に憤り、食べられる人種の方が人間的だったためか、頼まれもしないのに彼等のためにタイムマシンを殺人兵器に変えて闘う。シュワルツネッガーのように強い。この辺の心変わりが良く分からない。科学者が何故ここまで急に強くなるのか、その御都合主義にうんざり。主人公は自由のために立ち上がるアクション・ヒーローにならなければならないというハリウッド映画の鉄則に沿って、「不自然」街道をばく進する。図書館の電子検索システムが80万年も稼働し続けているというのも、リアリティがない。近未来の人類が月を破壊し、月が地球に衝突という展開も、はるか昔のB級SFのレベル。ガイ・ピアースの魅力も生かされていない。

 いちおう正当派タイムマシンものだが、「バック・ツー・ザ・フューチャー」(ロバート・ゼメキス監督)の世界ではなく、「A.I.」プラス「猿の惑星」といった感じ。


 ノー・マンズ・ランド  「ノー・マンズ・ランド」の画像です

 2001年作品。フランス=イタリア=ベルギー=イギリス=スロヴェニア合作。98分 。配給=ビターズ・エンド。監督・脚本・音楽=ダニス・タノヴィッチ。プロデューサー=フレデリック・デュマ、マルク・バシェ、チェドミール・コラール。撮影=ウォルター・ヴァンデン・エンデ。録音=アンリ・モレル。美術=ドゥシュコ・ミラヴェツ。衣裳=ズヴォンカ・マクツ。編集=フランチェスカ・カルヴェリ。チキ=ブランコ・ジュリッチ、ニノ=レネ・ビトラヤツ、ツェラ=フィリプ・ショヴァゴヴィッチ、ジェーン・リビングストン記者=カトリン・カートリッジ、ソフト大佐=サイモン・カロウ、マルシャン軍曹=ジョルジュ・シアティディス、ミシェル=サシャ・クレメール、デュボワ大尉=セルジュ=アンリ・ヴァルケ、セルビア老兵士=ムスタファ・ナダレヴィッチ


 2002年アカデミー賞外国語映画賞受賞など、20以上の賞に輝いた。1993年、ボスニアとセルビアの中間地帯にボスニア軍兵士とセルビア軍兵士が取り残された。一人の兵士の下には地雷を仕掛けられ、動くと爆発する。ユーモラスで身動きできない悲惨な状況。舞台劇のような設定である。作品は、誰の立場に立つこともしないが、兵士たちのどうしようもない行動よりも、マスコミのいい加減さと国連防護軍の無責任さ、陰険さが強調されている。

 戦争なのに、身近な視線。戦場と兵士をとらえる構図が、日常性をおびている。そんな雰囲気だから、兵士たちの行動や会話に少し笑える。そして、その雰囲気が結末の救いのなさを際立たせる。監督は、すべての戦争の無意味さを告発しているのだろうか。国連兵士の善意の無力さを示すことで、その告発自体を相対化しているようにすら感じる。戦争の愚かさではなく、人間存在の底なしの愚かさを示しているように感じた。しかし、そこにスタンリー・キューブリックの辛らつさのような切れ味はない。私は、ラストシーンで言い様のない徒労感に包まれた。21世紀は、ここから出発するしかないのか。

 「『ノー・マンズ・ランド』が意図するのは、責任追及ではない。悪いことをしたのが誰なのかを指摘する映画ではない。私が言いたいのは、あらゆる戦争に対して、異議を唱えるということだ」 (ダニス・タノヴィッチ監督)


 愛の世紀  「Eloge de l'Amour/愛の世紀」の画像です

 2001年作品。フランス=スイス合作。98分。配給=プレノンアッシュ。監督=ジャン=リュック・ゴダール。脚本=ジャン=リュック・ゴダール。製作=アラン・サルド、ルート・ヴァルトブルゲール。撮影=クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ。録音=フランソワ・ミュジー、クリスチャン・モンハイム、ガブリエル・ハフナー。音楽=「エピグラフ」ケティル・ビョルンスタ(ピアノ)、デヴィッド・ダーリング(チェロ)。エドガー=ブリュノ・ビュツリュ、彼女=セシル・カンプ、祖父=ジャン・ダヴィー、祖母=フランソワーズ・ヴェルニー、ローゼンタール氏=クロード・ベニェール、フォルラーニ氏=レモ・フォルラーニ、市の職員=ジャン=アンリ・ロジェ、歴史家=ジャン・ラクチュール、助手=フィリップ・ロワレット、エグランティーヌ=オードレー・クルバネール、ベルスヴァル=ジェレミー・リップマン、アメリカ人記者=マーク・ハンター、マジシャン=ブルーノ・メスリーヌ、アルジェリア人=ジェユール・ベグゥーラ、女性1=ヴィオレッタ・フェレール、女性2=ヴァレリー・オルトリーブ、ホームレスの男=セルジュ・スピラ、若い女=ステファニー・ジョベール、合衆国の助手=レミー・コンスタンティーヌ、合衆国の役人=ウィリアム・ドハーティ


 資金難とか闘いながら、5年ぶりに完成させた新作。予告編の圧倒的な美しさで、すでに打ちのめされた。第1部の白黒フイルムの懐かしい美しさ、第2部のデジタル映像の人工的な美しさ。これまでのゴダール作品とは、また違った映像美に出会って、衰えぬ実験精神に驚かされる。しかし、通常のストーリー展開を拒絶した編集は、見る者に忍耐を強いる。ゴダールのリズムに乗ることができれば、深く入り込んでくる映像なのかもしれないが、私は取り残されてしまった。

 若き芸術家エドガーは、出会い、性愛、別れ、再会という四つの瞬間を若者、大人、老人の3組のカップルを通じて描こうという構想を持って、主演女優を選ぶためのオーディションを繰り返している。2年前に出会った、清掃員をしながら子供を育て、コソボ問題の集会に通っている女性が主演にふさわしいと考えている。しかし、彼女は自殺していた。二年前のブルターニュヘの旅が思い返されると、画面はカラーに変わる。ハリウッドが、かつてレジスタンスの闘士だった老夫婦の回想録の映画化権を求めていた。その孫娘が彼女だった。彼女はアメリカに映画化する権利はないと主張している。すごく人工的な物語だ。

 ベルグソン、シモーヌ・ベイユ、トリスタンとイゾルデ、スピルバーグ、ロベール・ブレッソン、アウグスティヌスなど、今回もおびただしい引用が行われるが、とりわけあからさまなハリウッド批判が印象的。個人のかけがえのない記憶を大切にするゴダールにとって、派手な演出とともに一面的な価値観を押し付けるアメリカのハリウッド映画が、許せない存在であることは、十分理解できる。しかし、こうまで単刀直入に非難すると、笑えてしまう。こういう批判が、どこまで有効なのかは疑問だが、あいまいにしたまま自己保身しているよりは数段ましだと思う。愚直なまでにアメリカや国家を批判する姿勢は、新鮮ですらある。ゴダールじいさんは、いつまでも若い。


 バーバー  「バーバー」の画像です

2001年作品。アメリカ映画。116分。配給=アスミック・エース。監督・脚本=ジョエル・コーエン。製作・脚本=イーサン・コーエン。製作総指揮=ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー。撮影=ロジャー・ディーキンズ。美術=デニス・ガスナー。音楽=カーター・バーウェル。衣装=メアリ・ゾフレス。編集=ロデリック・ジェインズ(コーエン兄弟)、トリシア・クーク。エド=ビリー・ボブ・ソーントン、ドリス=フランシス・マクドーマンド、フランク=マイケル・バダルコ、テイヴ=ジェームズ・ガンドルフィーニ、クレイトン・トリヴァー=ジョン・ポリト、バーディ=スカーレット・ヨハンスン、リーデンシュナイダー=トニー・シャループ


 原題は、「Man who wasnt there」(「そこにいなかった男」)。コーエン兄弟が念願していた初の全編モノクロ作品。コントラストが目立つトーンではなく、夢のように柔らかなタッチのハーフトーン・モノクロ。カンヌ映画祭でも「今までに見たことのないモノクロ」と話題になった。1949年のアメリカの雰囲気を醸し出しつつ、見る者を不思議な悪夢へと誘っていく。コーエン作品は、色彩の妙を楽しむものが多いが、今回はシャープな構図と微妙な陰影を味わうことができる。転がり落ちるような荒唐無稽なストーリーには、1940年代のヒッチコック作品への屈折したオマージュも込められている。

 主人公のエドは、ほとんど話さず、どんな事が起きようと、表情を変えない。笑わない。そして髪の毛が伸びることを不思議に思っている。かなり人間ばなれしているキャラクターだ。物語の中に、唐突にUFOに連れ込まれる話しが出てくる。これも、摩訶不思議、不可解。だから、エドは宇宙人だったという深読みも登場するわけだ。ビリー・ボブ・ソーントンの名演技には頭が下がる。周囲の人々が、あくの強い個性の持ち主なので、その寡黙さがよけいに際立つ。平凡な日々をおくっていた男が、ちょっとした思いつきがもとで理不尽にも破滅する。悲劇的な結末にもかかわらず、光に包まれたラストシーンは、冤罪の国・アメリカへの皮肉を超えて、これまでのコーエン作品とは別の映画的な味わいをもたらす。


 
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