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「双生児」の画像です

 双生児 

1999年作品。日本映画。84分。配給=東宝。監督・脚本・撮影・編集=塚本晋也。原作=江戸川乱歩(「双生児〜ある死刑囚が教誨師にうちあけた話」)。製作=セディックインターナショナル。製作協力=海獣シアター。プロデューサー=西村大志。美術プロデューサ−=種田陽平。美術=佐々木尚。衣装=北村道子。ヘアメイク監督=柘植伊佐夫。音楽=石川忠。大徳寺雪雄、捨吉=本木雅弘、りん=りょう、父・茂文=筒井康隆、母・美津枝=藤村志保、シゲ=もたいまさこ、僧侶=石橋蓮司、角兵衛=麿赤兒、復讐者=浅野忠信、富豪=竹中直人、中年患者=田口トモロヲ

 腐乱した動物にわいた蛆とねずみのシーン。ごく短いショットではあるが、最初のタイトルから塚本テイストをたたき付けた新作。江戸川乱歩を取り上げた点も期待させた。本木雅弘が持ち込んだ企画だという。「バレット・バレエ」のように全編を塚本晋也色で覆ったものではなく、多くの人たちとの協同作業を試みたものと言えるだろう。そのため、徹底したパラノイア的な暴走は味わえない。

 本木雅弘は大徳寺雪雄と捨吉の2役を楽しんでいた。りょうは鋭角的な容姿が塚本ワールドにぴったり。美術の佐々木尚、衣装の北村道子、ヘアメイクの柘植伊佐夫が個性を発揮している。奇抜なファッションの貧民窟の場面をもっとたくさん見たかった。半面、いつもはノイズが炸裂する石川忠のサウンドはややおとなしい。東宝という制約の中でカルトな作品を作り上げた努力は認めるが、限界もまた感じられた。しかし、狭い世界に閉じこもらず、大林宣彦監督のように挑戦しつづける姿勢は買いたい。


「エリザベス」の画像です

 ELIZABETH 

1998年作品。イギリス映画。124分。配給=日本ヘラルド映画。監督=シェカール・カプール(Shekhar Kapur)。製作=アリソン・オーウェン、エリック・フェルナー、ティム・ビーヴァン。脚本=マイケル・ハースト。撮影監督=レミ・エイドファラシンBSC。プロダクション・デザイナー=ジョン・マイヤー。編集=ジル・ビルコック。衣裳=アレクサンドラ・バーン。音楽=デヴィッド・ハーシュフェルダー。キャスティング=ヴァネッサ・ペレイラ、シモーヌ・アイルランド。ライン・プロデューサー=メリー・リチャーズ。共同製作=デブラ・ヘイワード、リザ・チェイザン。エリザベス1世=ケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)、サー・フランシス・ウォルシンガム=ジェフリー・ラッシュ、ノーフォーク卿=クリストファー・エクルストン、レスター伯、ロバート・ダドリー=ジョセフ・ファインズ、サー・ウィリアム・セシル=リチャード・アッテンボロー、メアリー・オブ・ギーズ=ファニー・アルダン、メアリー女王=キャシー・バーク、フランス大使、ド・フォア=エリック・カントナ、スペイン大使、アルヴァロ=ジェームズ・フレイン、フランスのアンジュー公=ヴァンサン・カッセル、ローマ法王=ジョン・ギールグッド

 第71回アカデミー賞の再優秀メイクアップ賞を受賞したように、現代的なセンスによる充実したコスチューム劇。重厚な映像により、スキャンダラスで崇高なエリザベス像を打ち出している。しかし、全編を救いのない残酷さが覆い尽くしている。宗教をめぐる血塗られた争い。権謀術作の限りをつくす人々。「ドーベルマン」(ヤン・クーネン監督)のヴァンサン・カッセルの女装と乱痴気パーティだけが明るい場面で、後は抑圧的なシーンが続く。

 エリザベス1世を演じたケイト・ブランシェットは確かにうまい。しかし、共感できない。登場人物は、みな存在感はあるものの好きにはなれない。監督は感情移入を拒絶して重く暗い歴史を描き出す。「恋におちたシェークスピア」(ジョン・マッデン監督)のように明るくまとめろとは言わないが、あまりにも救いがない。そして、今この映画を作る意図が伝わってこない。まさか、こういう専制君主でなければイギリスの黄金時代が来ないというのではないだろうけれど。


「オフィスキラー」の画像です

 OFFICE KILLER 

1997年作品。アメリカ映画。84分。配給=エース ピクチャーズ。監督=シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)。脚本=トム・ケイリン、エリーズ・マカダム。製作=クリスティン・バション、パメラ・コフラー。製作総指揮=トム・カルーソ、ジョン・ハート、テッド・ホープ、ジェームズ・シェイマス。撮影=ラッセル・ファイン。編集=メリル・スターン。特殊メイク=ロブ・ベネビデス。衣装=トッド・トーマス。音楽=エバン・ルー。ドリーン=キャロル・ケイン、キム=モリー・リングウォルド、ノラ=ジーン・トリプルホーン、ヴァージニア=バーバラ・スコーバ、ダニエル=マイケル・インペリオ

 セルフポートレートを原点に、絶えずスタイルを変えながら人間の変容と解体を追い続けている写真家・シンディ・シャーマン。彼女の待望の初監督映画が公開された。これから始まる殺人と死体加工を暗示するタイトルは凝っていて期待が高まる。しかし、本編に入るとスタイリッシュさが薄れ、コミックB級ホラーへと転落する。アーティストの独りよがり、嫌味さがないのはいいが、シャーマン特有の屈折したユーモアをもう少し強く押し出してほしかった。

 長年勤めた出版社をリストラされたドリーンは、わがままな母親の介護疲れのストレスも重なり、会社の幹部や同僚を殺して自宅の地下室で弄ぶ。シャーマン自身が「ファニーなホラー」と名付けたように、奇妙な味わいで収まりがつかない。この居心地の悪さを意図したのだとしたら、監督の狙いは達成されたと言えるだろう。ただ、この監督の個性を映画に生かすという意味では、不満も残る。次回作に期待したい。


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 BUFFALO'66 

1998年作品。アメリカ映画。113分。配給=キネティック。 監督・音楽=ヴィンセント・ギャロ。オリジナル・ストーリー=ヴィンセント・ギャロ。脚本=ヴィンセント・ギャロ、アリソン・バグナル。製作=クリス・ハンレー。製作総指揮=マイケル・パセオーネック、ジェフ・サックマン。撮影=ランス・アコード。編集=カーティス・クレイトン。美術=ギディオン・ポント。照明=オザワ・トシアキ。助監督=ミケランジェロ・ボラ。サウンド=ブライアン・ミクシス。製作経理=ロバート・フェファー。編集助手=ショーン・ヴァラ。ビリー・ブラウン=ヴィンセント・ギャロ、レイラ=クリスティーナ・リッチ、ビリーの母親=アンジェリカ・ヒューストン、ビリーの父親=ベン・ギャザラ、片思いの恋人=ロザンナ・アークエット、ノミ屋の顔役=ミッキー・ローク

 多才ぶりを遺憾なく発揮したヴィンセント・ギャロの初監督作品。サイレントの短編から始まり、ビリー出所後のトイレ捜し、そしてレイラを拉致し結婚を装って両親を訪問した時の両親の異様な態度。どんどん引き込まれていく。ラストは、あっと驚かせておいて、ハッピーエンドに持って行った。情けないが心優しい男へのオマージュに満ちた純愛映画。個性が強いのにしっくりくるサウンド選択もグ−だ。

 厳つい顔をしたヴィンセント・ギャロだが、身勝手さに唖然としながらも憎めなくなってくる。巧みな人間造形。そして、愛くるしいという表現がぴったりのクリスティーナ・リッチ。彼女のぽっちゃりとした肢体が、ぎすぎすした映像を温めている。常軌を逸したアメフトファンの母親をアンジェリカ・ヒューストンが怪演。歌手だった父親役のベン・ギャザラも不気味な味を出している。


「マトリックス」の画像です

 MATRIX 

1999年作品。アメリカ映画。136分。配給=ワーナー・ブラザース映画。製作=ジョエル・シルバー。脚本・監督=ウォシャウスキー兄弟(Wachowski Brothers)。撮影=ビル・ポープ。美術=オーウィン・パタソン。編集=ザック・スティンバーグ。衣装=キム・バリット。ネオ=キアヌ・リーブス(Keanu Reeves)、モーフィアス=ローレンス・フィッシュバーン(Laurence Fishburne)、トリニティー=キャリー=アン・モス、エージェント・スミス=ヒュ−ゴ・ウィービング、預言者=グローリア・フォスター、サイファー=ジョ−・パントリアーノ、タンク=マーカス・チョン、エイポック=ジョリアン・アラハンガ

 スタイリッシュなキアヌ・リーブスの動き。それを上回るローレンス・フィッシュバーンのアクションの優美さ。「バウンド」で映像センスが評価されたウォシャウスキー兄弟の新作は、各方面で絶賛されている。たしかに、独自のアングルからの圧倒的な銃撃戦、ヘリコプターがビルに激突して爆発するシーンの大胆で繊細な表現は、特筆に値する。

 しかし、サイバーパンクの傑作などと言われているのを聞くと、首をかしげたくなる。むしろ、思う存分カンフーを盛り込むために仮想現実にしたというのが本音ではないか。複雑そうに見えて、物語はひどく御都合主義だ。電話回線では移動できるのに携帯電話ではできないというのは単にアクションシーンが描けないからだろう。仮想現実を作り出しているシステム側が物理法則に縛らわれいるのも理解できない。カプセルの中で生まれ死んでいく人間が、意識が移ったからといってすぐに動けるはずがない。何故原形のまま栽培されているのかも疑問だ。人間を支配した人工知能は、間抜けなのか。

 ネオは、日常の違和感から現実を疑い始める。そしてマトリックスの存在を知る。この映画自体も刺激的で楽しいが、ひとたび疑い始めるとほころびが見え始める。でも、それに眼をつぶるなというのが作品のメッセージなのだから、正直に「不快だった」と告白しよう。もうひとつ、相変わらずの「救世主」志向も鼻につく。個個人の自発性ではなく「救世主」に頼ろうという発想こそが、私たちを自己規制させているのではないか。死んだネオが「愛の力」(!)で蘇り、最後にはスーパーマンになってしまった。どうとでもしたまえ。どうせこの映画は、マトリックスそのものなのだから。


「運動靴と赤い金魚」の画像です

 運動靴と赤い金魚 

1997年作品。イラン映画。88分。配給=エース・ピクチャー。監督・脚本=マジッド・マジディ(Majid Majidi)。製作=児童青少年知育協会。撮影=パービズ・マレクザデー。編集=ハッサン・ハッサンドスト。美術=アスガル・ネジャッド=イマニ。メイク=モフセン・ムサヴィ、ナジ・ヘシュマティ。アリ=ミル=ファロク・ハシェミアン、ザ−ラ=バハレ・セッデキ、アリの父=アミル・ナージ、アリの母=フェレシュテ・サラバンディ、アリの先生=ダリウシュ・モクタリ、ローヤー=ナフィセ・ジャファール=モハマディ、ローヤーの父=モハマド=ハッサン・ホセイニアン、ローヤーの母=マスメ・ダイール

 少年は靴屋に直してもらった妹の靴をなくしてしまい、貧しい生活を理解しているために親に言えず、自分の靴を二人で共有する不便な学校生活を始める。妹の靴をはいている少女をみつけるが、父親が盲目なのを知って何も言わずに帰ってくる。少年も少女も多くを語らないが、そのしぐさと表情から痛いほど気持ちが伝わってくる。どうしてこんなにも子供たちの笑顔や涙に心が動かされるのだろう。子供たちの目線で素直な気持ちになっていく。さり気ないが、丁寧に仕上げた傑作だ。

 アリ少年の困り果てた顔、少女ザ−ラの微笑みの愛らしさ。二人だけで困難を乗り越えていこうとする兄妹。貧しさゆえに心優しい。日本では、もうこのようなテーマで実写映画を撮ることはできないだろう。「オサムの朝」(梶間俊一監督)の貧しさの描写ともニュアンスが違う。そしてマジッド・マジディ監督は、マラソンで疲れ果てた少年の足を金魚がいたわるというメルヘンをはさみ、やがて来るハッピーエンドのシーンを描くことなく映画を終える。抑制のきいた見事な配慮だと思う。


山田勇男90年代作品集

札幌のまるバ会館で山田勇男監督の近作をまとめて見ることができた。山田監督は寺山修司の美術スタッフを務めた後、80年代は札幌を中心に制作。92年には「アンモナイトのささやきを聞いた」を監督し、カンヌ映画祭に招待作品となる。その後は東京に移り、作品を撮り続けている。今回はプログラム1「アヌュス・エロテーク」で「衣装哲学」(1993年、20分)「古風記」(1994年、30分)「ニッケルの夢」(1996年、10分)「ロンググットバイ」(1997年、32分)、プログラム2「ヤマビカの鞄」で「僕はずっと続けて夢を見ている」(1998年、22分)「沼」(1998-99年、12分)「檸檬」(1999年、20分)「星月塔」(1999年、15分)「プリズム」(1999年、20分)を紹介した。「ヤマビカ」とは、山田監督がピカビアに触発されてつけた名前だ。

 「衣装哲学」は寺山修司親子をモチーフにしたもの。ゆったりとして妖しい雰囲気。小学5年生の押部麗央少年の裸体がまぶしい。「古風記」は、山田風味で太宰治の世界を切り取った。切なく震えつづけるナレーションと映像が忘れがたい。「ニッケルの夢」は、山田作品としては乾いた質感。中空な気配だけの世界がほのかな官能を醸し出す。「ロンググットバイ」は、これまでの映画との決別を思い立って、自分の「田園に死す」を目指した。かつての撮影場所を回り「自分が何もないという手ごたえを得た」という。自らの根拠をつかもうという切実さがにじむ。しかし、寺山のような帰っていくべき足場はもともとない。山田監督の持ち味は、つかみどころのない思春期の揺れ動く叙情を大切にしているところ。それがとても懐かしい。

 「僕はずっと続けて夢を見ている」は、「ロンググットバイ」のテストフィルムなどを使ったスケッチブック。映像はせわしなく変化するが、心に響いてこない。全体に散漫すぎる。「沼」は遠藤彰の撮影センスが光る。力強い映像と求心力のあるイメージ。新しい山田作品の可能性を感じさせる佳品。「檸檬」の男女の耽美的な触れ合いに酔う。いかにもといった焦らしにはまる快感。プラネタリウムをモチーフにした「星月塔」は、稲垣足穂に向かうためのウォーミングアップか。「プリズム」は、写真集のように映画を撮る試みが結実した作品。美しい。映像が微動しながら緊張している。現在の山田監督の到達点といえる。


「オースティン・パワーズ・デラックス」の画像です

 オースティン・パワーズ 

 デラックス 

1999年作品。アメリカ映画。95分。配給=日本ヘラルド映画。製作=マイク・マイヤーズ、ジョン・ライオンズ。監督=ジェイ・ローチ(Jay Roach)。脚本=マイク・マイヤーズ、マイケル・マクリース。撮影=ユーリ・スタイガー。編集=ジョン・ポール、デボラ・ニ−ル・フィッシャー。音楽=ジョージ・S・クリントン。衣装=ディーナ・アッペル。オースティン・パワーズ、ドクター・イーブル、ファット・バスタード=マイク・マイヤーズ(Mike Myers)、CIAエージェント、フェリシティ・シャグウェル=ヘザー・グラハム、ヴァネッサ・ケンジントン=エリザベス・ハーレー、若きナンバー2=ロブ・ロウ、ロビン・スワロウズ=ジーア・カリディス、ベイジル・エクスポジション=マイケル・ヨーク、1999年のナンバー2=ロバート・ワグナー、スコット・イーブル=セス・グリーン、ミニ=ミー=ヴァーン・トロイアー、フラウ・ファルビッシナ=ミンディ・スターリング、ロシア人エージェント、イワナ・ハンパロット=クリステン・ジョンストン、ムスタファ=ウィル・フェレル

 第1作がとても気に入ったので、続編を撮ると聞いて不安だった。しかし、「オースティン・パワーズ・デラックス」のシンクロナイズド・スイミングばりのド派手な水中レビューを観て、不安は霧散した。全裸のオースティン・パワーズの局部をタイトルが隠すアイデアに、ジェーン・フォンダ主演のエロティックSF「バーバレラ」を思い出した。ストーリーはいい加減さの爆発。しかし、面白い。おバカ映画の王道を突き進んで恥じるところがない。「007」シリーズだけではなく、「スターウォーズ エピソード1」もちゃっかりいただいてしまう抜け目のなさは天晴れ。バカにできないおバカ映画だ。

 今回は、ドクター・イーブルと8分の1のクローン「ミニ=ミー」が笑わせてくれる。そして、何とタイムマシーンが登場。ここでも、コテコテのパロディが炸裂する。タイムパラドックスを蹴散らして、オースティン・パワーズが2人になっても全然気にしない図々しさには、頭が下がる。歴史がぐちゃぐちゃに入り交じった現代を風刺しているなどとは、誰も思わないだろうな。とにかく、最後の最後までギャグが満載。明るくなるまで、決して席を立たないように。


「セレブリティ」の画像です

 Celebrity 

1998年作品。アメリカ映画。モノクロ。114分。配給=松竹富士。脚本・監督=ウディ・アレン(Woody Allen)。 キャスティング=ジュリエット・テイラー、ローラ・ローゼンタール。衣装=スージー・ベイジンガー。編集=スーザン・E・モース,A.C.E.。プロダクション・デザイナー=サント・ロクアスト。撮影監督=スヴェン・ニクヴェスト,A.S.C.。製作=ジーン・ドゥーマニアン。デヴィッド=ハンク・アザリア、リー・サイモン=ケネス・ブラナー、ロビン・サイモン=ジュディ・デイヴィス、ブランドン・ダロウ=レオナルド・ディカプリオ、ニコル・オリバー=メラニー・グリフィス、ボニー=ファムケ・ヤンセン、ドクター・ルーバス=マイケル・ラーナー、トニー・ガーデラ=ジョー・マンテーニャ、娼婦=ベベ・ニューワース、ノラ=ウィノナ・ライダー、スーパーモデル=シャーリーズ・セロン

 ウディ・アレンのファンは、どの映画を観ても満足するといわれている。私は、ほとんどの作品を観ているが、狂喜する作品と失望する作品がある。だから本当のファンとはいえないかもしれない。今回の作品「セレブリティ」には失望した。「マンハッタン」のパロディになるのだろう、どんな仕掛けがあるのだろうと観ていたが、ほんの少しひねっただけで、意外性のない単純な反復に終った。有名俳優を詰め込めばいいと言うものではない。捨てられた小説のアイデアも活きていない。

 ウディ・アレンの決まり役、もてるけれどどうしようもなく優柔不断な男をケネス・ブラナーが演じている。そこが見所と言いたいところだが、しっくりこない。やはりアレンの私生活のパロディという隠し味がないと、この役はリアリティが乏しくなってしまう。このところ、新しい切り口で自らの作品を再編集してきたアレンだが、今回はあまりにも単調すぎた。「地球は女で回ってる」 のようなアイデアがほしい。


「ラン・ローラ・ラン」の画像です

  ROLA RENNT 

1998年作品。ドイツ映画。81分。 監督・脚本=トム・テュクヴァー(Tom Tykwer)。製作=シュテファン・アルント(Stefan Arndt)。音楽=ラインホルト・ハイル、 ジョニー・クリメック、フランカ・ポテンテ 、トム・テュクヴァー 。撮影=フランク・グリーベ 。衣装=モニカ・ヤコプス。メイク=クリスタ・クリスタ、マルギト・ノイフィンク、カタリナ・オェルテル。ローラ=フランカ・ポテンテ(Franka Potente)、マニ=モリッツ・ブライプトロイ(Moritz Bleibtreu)、ローラの父=ヘルベルト・クナウプ、ユタ・ハンゼン=ニーナ・ペトリ、シュスター(警備員)=アルミン・ローデ

 「バンディッツ」(カーチャ・フォン・ガルニエ監督)、「キラーコンドーム」(マルティン・ヴァルツ監督)など、とびきり面白い作品が紹介されているドイツ映画。かつての堅苦しいイメージが変わりつつある。そして「ラン・ローラ・ラン」。ガンガンのジャーマン・テクノに乗せてアニメも盛り込み、痛快に爆走する。恋人を助けるために金策に走るローラ。残された時間は20分。ほんの少しのすれ違い、くい違いで結末は大きく変わっていく。

 少しの違いで人生が変わるというのは、良くあるパターンだが、3回繰り返すしつこさがいい。しつこいが飽きない。81分間にアイデアをぎっしりと詰め込み、息つく暇もないほど。カメラアングルも大胆だ。意志的な顔のローラは、「ブリキの太鼓」(フォルカー・シュレンドルフ監督)のオスカルのように超能力を持っている。叫ぶとガラスが割れる。これが、ラストの意外なハッピーエンドにつながっていくのも楽しい。


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