ARLINGTON ROAD |
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1998年作品。アメリカ映画。119分。配給=日本ヘラルド映画。 監督=マーク・ペリントン(Mark Pellington)。製作=ピーター・サミュエルソン、マーク・サミュエルソン。脚本=アーレン・クルーガー。撮影監督=ボビー・ブコウスキー。編集=コンラッド・バフ,A.C.E。音楽=アンジェロ・バダラメンティ。タイトル・デザイン=カイル・クーパー。 マイケル・ファラデー=ジェフ・ブリッジス、オリバー・ラング=ティム・ロビンス、シェリル・ラング= ジョーン・キューザック、ブルック・ウォルフ=ホープ・デイビス、ウィット・カーバー=ロバート・コゼッティ
見事などんでん返し。「やられた」という快感の後に、ハリウッド作品には珍しい後味の悪い、現実を直視させるような重たい問いが残される。強引な展開で、どんでん返しに次ぐどんでん返しという映画は珍しくない。最近では、「ワイルドシングス」(ジョン・マクノートン監督)がそうだった。さり気なく伏線を忍ばせておいて、あとで効いてくるという「愛と死の間で」(ケネス・ブラナー監督)などでは、脚本のうまさに唸った。しかし、「隣人は静かに笑う」は、本筋でしっかりとヒントを示し続けながら、予想できない結末に連れていくという離れ業をやってのけた。カイル・クーパーのネガを多用したタイトルは、安全なはずの住宅街が暗転するというイメージそのままで、やや物足りない。
FBIのテロ捜査で妻を殺されたマイケル・ファラデーは、大学でテロリズムの歴史を教え、安易に自爆による単独犯行と決めつける警察と、それで安心してしまう世論に鋭い批判を投げ掛け、真相に迫ろうとしている。怪我をした隣人の子供を助けたことを契機に、隣家族との交際を始めるが、隣人が偽名を使っており、かつて爆弾犯として逮捕されたという経歴を隠していることを突き止める。彼等は新しいテロを計画しているらしい...。そして、人間の心理を巧みに利用した企みが動き出す。テロ事件が続く限り長く記憶に残る、サスペンス・スリラーの結末だ。必見。
ワンダフルライフ |
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1998年作品。日本映画。118分。配給=テレビマンユニオン・エンジンフイルム。 監督・脚本・編集=是枝裕和。ゼネラル・マネージャー=重延浩。撮影=山崎裕。照明=佐藤譲。美術=磯見俊裕。作曲=笠松泰洋。望月隆=ARATA、里中しおり=小田エリカ、川嶋さとる=寺島進、杉江卓郎=内藤剛志、中村健之助=谷啓、伊勢谷友介=伊勢谷友介、庄田義助=由利徹、天野信子=白川和子、西村キヨ=原ひさ子、吉本香奈=吉野紗香
人間は死ぬと施設に送られ、人生の中で一番大切な思い出を選ばされる。施設の職員はその思い出を映画にし、7日後死者たちはその思い出だけを胸に抱いて天国に行く。大胆な設定である。古びた建物の中で物語はゆっくりと進み、観ている者も自分の大切な思い出を考え始める。俳優たちに混じって一般の人たちが実際の経験を話すという構成が、不思議な現実感を醸し出している。前作の「幻の光」は作為が鼻についたが、「ワンダフルライフ」は、さりげない映像に高いセンスを感じた。遊びに満ちていながら、CGなどの特殊効果を使わないのも清清しい。ハリウッドならどんどん使うだろうが。
ほのぼのとした雰囲気ではあるが、作品の問い掛けはある意味で恐ろしい。その後の人生を変えたような切実な経験があるのか、人生の核となるような記念碑的な思い出を持っているか。年輩者の思い出を聞きながら、日本の歴史、状況の変化と自分の生きざまをたどり直した。そして物語は「愛する人の大切な思い出になる」ことのかけがえのなさへと、静かに展開していく。ARATAと小田エリカの透明で時代を感じさせない美しさも収穫だった。意外とアベック向けの作品だ。
THIN RED LINE |
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1998年作品。アメリカ映画。171分。配給=松竹。 監督・脚本=テレンス・マリック(Terrence Malick)。原作=ジェームズ・ジョーンズ。撮影監督=ジョン・トール,A.S.C.。編集=ビリー・ウェバー、レスリー・ジョーンズ。プロダクション・デザイナー=ジャック・フィスク。 音楽=ハンス・ジマー。ウェルシュ曹長=ショーン・ペン、ウィット二等兵=ジム・カヴィーゼル、ベル二等兵=ベン・チャップリン、ファイフ伍長=エイドリアン・ブロディ、ボッシュ大尉=ジョージ・クルーニー、ガフ大尉=ジョン・キューザック、ケック軍曹=ウディ・ハレルソン、スタロス大尉=エリアス・コーティアス、トール中佐=ニック・ノルティ、ストーム軍曹=ジョン・C・ライリー、マクローン軍曹=ジョン・サヴェージ、ホワイト少尉=ジャレッド・レト
アメリカは、好戦的な国ゆえに、まだ戦争の不毛さと残酷さを正視することができない。テレンス・マリック監督が、20年ぶりに映画を撮ったのは、そんな状況への苛立ちからなのだろうか。「プライベート・ライアン」(スティーブン・スピルバーグ監督)が、戦争の惨劇を臨場感あふれる演出で見せながら、結局アメリカ人の正義を持ち上げたのに対し、「シン・レッド・ライン」は戦争の空しさ、人間の脆さを大自然の息吹と対比させてみせた。誰もが心うたれた兵士が隠れた草むらでおじき草にそっと触れるシーンは魅力的。しかし、その視線は神のごとく高い。
メラネシアの人々を無垢な存在として描き、戦争によって彼等がどれほど生活と文化を破壊されたかという史実を示さない。日本人の描き方が中途半端過ぎる。いっそ、人間性を無視され方が筋が通っていた。美しい自然と目的を失った戦争の映像を観続けた私は、兵士のように疲れ切っただけだった。「人間とは」という平凡な問いだけが残った。
コキーユ |
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1998年作品。日本映画。95分。配給=日本へラルド映画。監督=中原俊。製作=中川滋弘。プロデューサー=成田尚哉、榎望。企画=畠中基博。アソシエイト・プロデューサー=霜村裕。原作=山本おさむ[コキーユ〜貝殻]。脚本=山田耕太。音楽= 山田武彦。撮影=上野彰吾。録音=志満順一。美術=稲垣尚夫。装飾=尾関龍生。衣裳=宮本まさ江。ヘア・メイク=小沼みどり。 編集=冨田功、冨田伸子。浦山達也=小林薫、早瀬直子=風吹ジュン、谷川次郎=益岡徹、黒田聡=深水三章、藤崎君枝=吉村実子、中村和夫=林泰文、松木恵子=梶原阿貴、浦山悦子=金久美子、早瀬香織=浜丘麻矢、五十嵐先生=ニ瓶鮫一、黒田の妻=高瀬春奈
同窓会で30年ぶりに再会した45歳の浦山達也(小林薫)と早瀬直子(風吹ジュン)。浦山達也は早瀬直子から、ずっと思っていたと告白され、気持ちを抑えながらも不倫へと進んでいく。つかの間の一夜をともにした後、直子は自ら身を引き、やがて交通事故で死ぬ。こうストーリーを紹介すると、中年男性の都合の良い妄想映画と思われてしまうだろう。しかし、さり気ないシーンの積み重ねによって、静かに燃え上がっていく二人の恋愛に「失楽園」(森田芳光監督)のような不自然さはない。こういうファンタジックな夢に浸れる作品も捨てがたい。
小林薫、風吹ジュンというキャスティングがいい。時代や家族の姿をさりげなく盛り込みながらも、二人の恋愛は中学生の初々しさを漂わせている。風吹ジュンの代表作は「無能の人」(竹中直人監督)だと考えてきたが、これからはこの作品が女優としての勲章になる。幼さの残る笑顔と年輪を重ねた淋し気な表情が抜群に美しい。小林薫は真面目で誠実で最後は情けない男を演じた。
LOVE IS THE DEVIL |
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1998年作品。イギリス映画。90分。配給=アップリンク。 監督・脚本=ジョン・メイブリィ(John Maybury)。プロデューサー=キアラ・メナージュ。エクゼクティブプロデューサー=フランシス・アン・ソロモン、ベンギブソン、パトリス・ハダド、浅井隆。監修=ダニエル・ファーソン。製作進行=イヴォンヌ・イシメン・イバゼボー。撮影監督=ジョン・マティエソン。編集=ダニエル・ゴダート。プロダクション・デザイナー=アラン・マクドナルド。衣装=アニー・シモンズ。 音楽=坂本龍一。フランシス・ベーコン=サー・デレク・ジャコビ、ジョージ・ダイアー=ダニエル・グレイグ、ミリュエル・ベルチャー=ティルダ・スウィントン、イザベル・ロースソーン=アン・ラムトン、ダニエル・ファーソン=エイドリアン・スカーボロー、ジョン・ディーキン=カール・ジュンソン、ヘンリッタ・モラエス=アナベル・ブルックス、リチャード・ニューボルト=ブロンド・ビリー
独創的な絵画の地平を切り開いたフランシス・ベイコンの伝記的作品。「バスキア」(ジュリアン・シュナーベル監督)は、その感傷的な甘ったるさに閉口したが、「愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」は、ベイコンのアーティストとしての残酷なまでのエゴイズムを無慈悲に描いていた。ベイコン絵画の痙攣的イメージを律儀に取り込み、史実を丹念にたどりながら構成しているのだが、あまりに遊びがなく、ときに息苦しく感じた。坂本龍一の無機質な音楽は、スタイリッシュな映像をさらに美しく凍らせていた。
ジョン・メイブリィ監督の前作「リメンバランス」は、コンピュータグラフィックスを多用し映像的な技巧を凝らしていたが、全体に平板な印象か残った。「愛の悪魔」は画家のイメージに沿う形でダイレクトに迫り、それなりの効果を上げている。しかし、画家との格闘が感じられず、創作の内面にまでは届いていない。ただ、名優サー・デレク・ジャコビを得て、ベイコンの多面的な性格を浮かび上がらせることには成功した。
札幌市南区澄川のまるバ会館で、自主製作映画の第1回上映会が4月9-11日の三日間行われた。しまだゆきやす監督の8ミリ4作品は、いずれも道内初公開。10日には上映後にしまだ監督と伊藤隆介道教育大助教授のトークも実現した。「連歌」シリーズは、監督の個人的な思いとフィクションが混ざり合ったユニークな作品。伊藤助教授は「ウディ・アレンの『アニー・ホール』に似ている。新しいタイプのエンターテインメントに近い」と評価。しまだ監督は「個人映画と劇映画の面白さを足してみたかった。日本人の個人映画は暗い方に行ってしまうが、第3者に見せるなら面白いもの、印象に残るものをと考えた」と話した。また、しまだ監督が影響を受けた山田勇男監督の「青き零年」も併映された。この作品は、7年前にイメージ・ガレリオの「ラストショー」最終日に上映された。今回の上映は、とても象徴的なつながりだと思う。
「連歌-つらなるうた-」(1993年、26分)は、監督自身の片思いにこだわったプライベートフィルムだが、その切実な思いから果敢に距離を置き、フィクションを持ち込んで笑いを取る姿勢は見事。大坂出身の芸人気質、サービス精神といえようか。「連歌2-さらにつらなるうた-」(1994年、24分)は、迷いながら自身の過去に立ち帰っていく。逃避することを隠さない誠実さが伝わってくる。「トランタ(連歌30)」(1995年、26分)は、技術的な水準、映画的な構成力が確実に向上していた。たえず過去にとらわれながらも、未来に進んでいこうという決意に満ちている。後味は良いが、その分きれいにまとめたといった感じも受けた。
「ケガレハライタマエ」(1996年、17分)は、自身の思い出から離れた虚構の作品。カメラの技術はうまく、映像に力がある。青春の狂おしさが映像に焼き付いている。しかし、実験映画の枠に回帰した印象で、しまだ作品のオリジナリティが薄れたように思う。監督は個人的な映画はもう撮らないと言っていたが、「連歌(40)」のように長いスパンで現在と思い出を反復する「連歌」シリーズを続けてほしいと思う。
KILLER CONDOM |
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1996年作品。ドイツ映画。107分。配給=アルバトロス・フィルム。 監督=マルティン・ヴァルツ(Martin Walz)。脚本・原作=ラルフ・ケーニッヒ。クリーチャー・デザイン=H.R.ギーガー(H.R.Giger)。撮影=アレクサンダー・ホーニッシュ。編集=ジモーヌ・クリアー。衣装=アンヤ・ニーハウス。ウド・ザメール(Udo Samel)、ペーター・ローマイヤー、イリス・バーベンマルク・リヒター、ゲルト・バーメリンク
H.R.ギーガーがクリーチャー・デザインしたということで話題になったドイツのB級映画。しかし、「エイリアン」(リドリー・スコット監督)の卓越したデザインに比べればお遊びようなもの。全体にテレビの深夜に放映されるようないかがわしい雰囲気の作品。何といってもニューヨークを舞台にしながら、大統領候補まで皆ドイツ語を話しているのがいい。こういう無茶はハリウッドだけにさせて置く必要はない。
キリスト教原理主義者とマッドサイエンティストによる仕業というお決まりの線でストーリーは進むが、キラーコンドームが可愛らしい動きをしながら突然牙をむいてペニスを食いちぎる豹変ぶりがナイス。とりわけバスタブでアヒルちゃんの背中に乗っていたコンドームが大統領候補に襲い掛かるシーンが素敵だ。ゲイの刑事マカロニ役のウド・ザメールはいい味出していた。ゲイ・テーストが全体を包み、名作のパロディも随所に盛り込んでいるが、最後に説教をしてしまうのはドイツ映画の真面目さか。最後までオバカに突き抜けてほしかった。スキンのような箱に入ったスキン状につながったパンフは笑える。
LA VERITE SI JE MENS |
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1997年作品。フランス映画。100分。配給=アート・キャップ。 監督=トマ・ジル。脚本=ミッシェル・ミュンズ、ジェラール・ビトン。撮影=ジャン=ジャック・ブオン。編集=ナタリー・ユベール。音楽=ェラール・プレギュルヴィック。美術=オリヴィエ・ラウー。製作=アイサ・ドジャブリ、ファリッド・ラウアサ、マニュエル・ミュンズ。製作総指揮=ベルナール・ボルザンジェール。エディ=リシャール・アンコニナ、サンドラ=アミラ・カサール、ビクトール=リシャール・ボーランジェ、モーリス=アンソニー・ドロン、ドーブ=ヴァンサン・エルバズ、エリー・カクー、ジョセ・ガルシア 、ブルーノ・ソロ、オーレ・アッテカ
今どき「原色パリ図鑑」という邦題はないだろう。失業中の青年がユダヤ人が多く住むサンティエ地区で、ユダヤ人に間違われ、職を得て頭角を表し、社長の娘と結婚するという、良くあるサクセスストーリー。ただ、パリのユダヤたちの活気に満ちた生きざま、価値観の微妙な違いを描いていく点が新しい。
主人公のエディを演じるリシャール・アンコニナは、ダスティ・ホフマンを彷佛とさせる風貌。ハンサムとは思えないが、美貌の社長の娘サンドラと恋に落ちる。サンドラ役のアミラ・カサールは確かに美しいが、そのほかの女性たちも皆魅力的だった。ユダヤ人の文化を扱ってはいるが、軽めの青春映画といえるだろう。
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