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 Larry Flynt 

「ラリー・フリント」の画像です
1996年作品。129分。アメリカ映画。配給ソニー・ピクチャーズ。監督ミロシュ・フォアマン。製作オリヴァー・ストーン、ジャネット・ヤン、マイケル・ハウスマン。脚本スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー。撮影監督フィリップ・ルスロー。編集クリストファー・テレフセン。音楽トーマス・ニューマン。フリント=ウディ・ハレルソン、アルシア=コートニー・ラブ、アイザックマン=エドワード・ノートン、キーティング=ジェームズ・クロムウェル

  基本的にアメリカ礼賛の映画である。ラリー・フリントの自由を求める闘いは、最高裁判所の無罪判決を引き出す。「アメリカって、やっぱり自由の国なのね。それに比べて日本はすぐに自主規制してしまって情けない」と思ってしまいかねない。しかしアメリカにはもう一つ、気に食わない奴を狙撃する自由も保証されているらしい。フリントを下半身不髄にしたテロリストはつかまっていない。

 星条旗のパンツまでつくって国家と闘うフリントは、確かに魅力的だ。しかし、スキャンダル好き、雑誌のための話題づくりという側面も見逃せない。一筋縄では扱えない人物であるが、ミロシュ・フォアマンは上品に仕上げすぎたと思う。もっと悪趣味さを前面に出してよかった。また、下半身不髄になった後の苦悩をもっと描いていれば、振幅の大きな映画になったと思う。

 ただ、オリヴァー・ストーンが監督しなかったのは正解だろう。たぶん観ているこちらが、恥ずかしくなるような図式を押し付けられたことだろう。その点、フォアマンは持ち前のユーモアのセンスで作品を包んでいた。


「コンタクト」の画像です

 CONTACT 

1997年作品。150分。アメリカ映画。配給ワーナー・ブラザース映画。監督・製作ロバート・ゼメキス。脚本ジェイムズ・V・ハート、マイケル・ゴールデンバーグ。製作スティーブ・スターキー。共同製作・原作・原案カール・セーガン。撮影ドン・バージス。美術エド・バリュー。編集アーサー・シュミット。音楽アラン・シルベストリ。エリー・アロウェイ=ジョディ・フォスター、パーマー・ジョス=マシュー・マコノヒー、S・R・ハデン=ジョン・ハート、マイケル・キッツ=ジェイムズ・ウッズ、ディビッド・ドラムリン=トム・スケリット、テッド・アロウェイ=ディビッド ・モース、ケント・クラーク=ウィリアム・フィシュナー、リチャード・ランク=ロブ・ロウ

 カール・セーガンの希望に満ちたメッセージを手堅くまとめ上げ、「2001年 宇宙の旅」「惑星ソラリス」という名作を連想させる展開。導入が似ている「インデペンデンス・デイ」よりも、盛り上げ方ははるかにうまい。移動装置ポッドのデザインや作動による変化も、いかにも映画的で美しい。ジョディ・フォスターは、トラウマを抱えながらも前向きに生きる知的な女性をリアルに演じている。

 しかし、重大な難点を抱えているのではないか。まず、大量の爆弾を持った顔の知れているテロリストが、最も重要なポッドの中核部分に入り込んでいるという設定には、無理がある。また、北海道の部屋の奇妙なつくりは笑ってすませるにしても、たとえ北海道が無人の島でも、巨大な建造物がマスコミに分からないうちに建設されるはずはない。

 だいたい、あれほどのテクノロジーがあれば、搭乗者に負担を与えながら力づくで宇宙を移動しなくても、宇宙人のメッセージをデリケートに地球に伝えられるはず。何故直接行かなければならなかったのか、納得がいかない。始まりのCGも宇宙の広さを描こうとしたのだろうが、宇宙の星の密度はあんなに濃くはない。肝心の点で誤ったイメージを与えるのではないだろうか。

 こういう無神経さが、感動的になるはずの作品を台無しにした。いや、それ以上に「フォレスト・ガンプ 一期一会」と同じく、ゼメキス監督のしたり顔の演出が肌に合わないのだ。  


「人間椅子」の画像です

 人間椅子 

1997年作品。86分。製作・配給ケイエスエス。監督・脚本水谷俊之。原作=江戸川乱歩。撮影監督=長田勇市。美術=磯見俊裕。音楽=澄淳子。編集=菊池純一。篠崎佳子=清水美砂、篠崎昭一郎=国村隼、家具職人=山路和弘、歌手=澄淳子

 水谷俊之監督はスタイルを徹底的に追及するタイプの監督だ。前作「勝手に死なせて!」は、ブラックなスラプスティック・コメディをパワー全開で走り抜けていたが、「人間椅子」は昭和初期の退廃的で耽美なエロティシズムを、鋭角的な映像で切り取った。江戸川乱歩の原作に谷崎潤一郎的な膨らみを持たせ、独自の世界を構築している。

 清水美砂の濡れた瞳となだらかな肩が忘れられない。潔癖な性格の裏に退廃を育てていく役に、新鮮な発見があった。「うなぎ」では運命に翻弄される女性を演じたが、今回は自ら淫靡な世界へとのめり込んでいく作家をみせてくれた。十分に説得力ある。

 美術、音楽、カット割り、どれ一つおろそかにしていない。そして燃え上がる絹の手袋など、映像的なアイデアも豊穰。ただ、触覚的なエロスの追及と子供の出産がうまく結び付いていないのが不満だ。子供を抱いて連れ添うライトシーンの平安は、視覚的なまやかしに見える。


「愛する」の画像です

 愛する 

1997年作品。114分。製作・配給=日活。監督・脚本=熊井啓。原作=遠藤周作。撮影=栃沢正夫。音楽=木村威夫。編集=井上治。森田ミツ=酒井美紀、吉岡努=渡部篤郎、知念=宍戸錠、大学病院教授=岡田真澄、シスター山形=松原智恵子、稲村看護婦長=三条美紀、奥原院長=上条恒彦、西山医師=西田健、加納たえ子=岸田今日子、上条老人=小林桂樹

 遠藤周作原作、熊井啓監督とくれば「海と毒薬」、「深い河」という名作を連想する。新作に期待しないほうが嘘だが、「愛する」は底の浅い作品で失望した。少女の成長も差別の根深さも描けていないので、青春映画としても社会派映画としても中途半端に終った。無理に泣かせようとするラストシーンは、熊井作品としてはあまりにも無策だ。

 始まりのシャープな自然描写、伏線としての沖縄、流れるような展開と、見事な導入で期待が高まる。森田ミツと吉岡努は出会い愛しあうが、ミツはハンセン病と診断され、療養施設での精密検査を求められる。この辺からの運びが不可解だ。沖縄出身の吉岡努がハンセン病をまったく知らないのは不自然。知ってからも感染を恐れて取り乱したりしない。飲み屋のマスター・知念も冷静に差別を語る。今も残るハンセン病への差別を描こうとしていながら、誰も怖れをみせない。これでは差別の深刻さが伝わってこない。

 最大の疑問は、誤診と分かったミツが恋人のもとに帰ろうとせず、療養施設で働くことを選択するシーンだ。いかに施設の人たちが優しく魅力的で、その過酷な境遇に同情したからといって、一度も逢わないでとどまるというのは尋常ではない。何故ミツがそこまでの深い奉仕の精神を宿すようになったのかも不明だ。どう考えても私には納得できなかった。


 BOUND 

「バウンド」の画像です
1996年作品。108分。配給K2エンタテインメント。監督・脚本・製作総指揮アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー (Andy Wachowski&Larry Wachowski)。撮影ビル・ポープ。編集ザック・スタンバーグ。衣装デザイン=リジー・ガーディナー。音楽ドン・デイヴッス。ヴァイオレット=ジェニファー・ティリー(Jennifer Tilly)、コーキー=ジーナ・ガーション(Gina Gershon)、シーザー=ジョー・パントリアーノ、ミッキー=ジョン・P・ライアン、ジョニー・マルゾーニ=クリストファー・メローニ、ジーノ・マンゾーニ=リチャード・C・サラフィアン、シェリー=バリー・キヴェル、ルー=ピーター・スペロス

 伏線をふんだんに盛り込んだスリリングな脚本に舌を巻いた。シカゴの匂いがあふれるストーリーを、多彩なアングルを駆使してリズミカルに盛り上げる映像は、あざといほどに決まっている。基本は清い悪女のアクション映画。愛情でむすばれたタフな女性二人が活躍するのだから、男はとうてい太刀打ちできない。

 コーキー役のジーナ・ガーションは、はまり役だ。「ショーガール」(ポール・バーホーベン監督)でも賢くてたくましい女性を演じ、同性愛的なシーンも巧みにこなしていた。ブリーフがあんなに似合う女優は、ちょっと他にいないだろう。ヴァイオレット役のジェニファー・ティリーも、後半かったるさが賢さに見えてきて、急速に輝きを増していく。

 注目すべきはウォシャウスキー兄弟の独自のユーモア感覚だろう。血みどろのアクションシーンに笑いを添えるテクニックは、小道具の生かし方とともにハイレベルにある。音楽のセンスも一筋縄ではいかないが、ラストに流れるトム・ジョーンズの「She's a lady」には思わず笑ってしまった。


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