Pola X |
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1998年作品。 仏・独・スイス・日本合作。134分。配給=ユーロスペース。監督=レオス・カラックス(Leos Carax)。脚本=レオス・カラックス、ジャン=ポル・ファルゴー、ローラン・ゼドフスキー。原作=ハーマン・メルビル「ピエール」。撮影=エリック・ゴーティエ。音楽=スコット・ウォーカー。美術=ローラン・アレール。衣装=エステル・ヴァルツ。編集=ネリー・ケティエ。ピエール=ギヨーム・ドパルデュー(Guillaume Depardieu)、母マリー=カトリーヌ・ドヌーブ(CatherineDeneuve)、イザベル=カテリーナ・ゴルベワ(Katerina Golubeva)、婚約者リュシー=デルフィーヌ・シュイヨー、ペトルーツァ=ペトルータ・カターナ、ミハエラ=ミハエラ・シラギ、ティボー=ローラン・リュカ、マルグリット=パタシュー
絶望的でありながら美しく、多面的でありながら純粋なストーリー。心をわしづかみにするような鮮烈なシーンの連続。その映像的な強度に打ちのめされ魂を揺すられて、映画が終ってもしばらく立ち上がれなかった。これほどまでに監督の熱い思いが乗り移った壮絶な映画は、稀だ。フランス社会を横断しながら、愚直に真実を求め謎の中に堕ちていく青年のおろかさがまぶしい。Pola Xという題名は、メルビルの仏語訳原題「ピエール、あるいは諸々の曖昧さPierre ou les ambiguites」の頭文字に、謎を表すXを加えたもの。
ギヨーム・ドパルデューとカテリーナ・ゴルベワの熱演は認めるが、カトリーヌ・ドヌーブがこれまでのキャリアを踏み越えて、熟年ヌードを見せバイクに乗り事故死するという思い切った役を演じていたのに感動した。前半の城の中での優雅な母親と息子のセクシーな戯れにも、彼女ならではの味わいがあった。それは、後半の廃屋での「姉」と「弟」の狂おしいベットシーンと対の関係にある。愛しながら理解し合えないという基調音を響かせながら、そのコントラストが胸を撃つ。ラストの射殺の衝撃からは、まだ回復していない。
御法度 |
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1999年作品。日本映画。100分。配給=松竹。製作=大谷信義。プロデュニサー=大島瑛子、中川滋、清水一夫。監督・脚本=大島渚。原作=司馬遼太郎「新選組血風録」(角川文庫・中公文庫)のうち「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」。撮影監督=栗田豊通。美術監督=西岡善信。衣装デザイン=ワダエミ。音楽=坂本龍一。企画・製作=大島渚プロダクション。土方歳三=ビートたけし、加納惣三郎=松田龍平、沖田総司=武田真治、田代彪蔵=浅野忠信、山崎蒸=トミーズ雅、錦木太夫=神田うの、湯沢藤次郎=田ロトモロヲ、近藤勇=崔洋一、井上源三郎=坂上二郎
厳しい戒律でまとまっていた新撰組が、一人の美少年の入隊によって衆道が広がり混乱していく過程を冷徹に描いた大島監督の13年ぶりの新作。スケール感や時代に切り込むテーマ性はないが、色彩を抑えた映像は力強く、簡潔な物語の中に引き込んでいく。その手さばきはさすがだ。幻影的な雰囲気の中で描かれる辛らつなラストシーンが、いかにも耽美。
これぞ配役のマジックと呼べそうなキャスト。ビートたけしと崔洋一という優れた監督を新選組の指導者に据え、トミーズ雅と坂上二郎を脇役に置き、美形で存在感ある若手俳優の武田真治と浅野忠信をうまく絡ませ、魔性の美少年の松田龍平を引き立てている。松田龍平は美形というよりは妖しい表情が印象的。男たちを狂わせていく魅力がある。
ゴジラ2000 ミレニアム |
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1999年作品。日本映画。107分。配給=東宝。製作=富山省吾。脚本=柏原寛司、三村渉。監督= 大河原孝夫。特殊技術=鈴木健二。本編撮影=加藤雄大。特殊技術撮影=江口憲一、村川聡。本編美術=清水剛。音楽:服部隆之。本編録音=斉藤禎一 。特美=高橋勲。本編照明=粟木原毅 。特殊技術 照明=斉藤薫。本編編集=奥原好幸 。特殊技術造型=若狭新一。キャステイング=田中忠雄。 特殊効果=渡辺忠昭。篠田雄二=村田雄浩、篠田イオ=鈴木麻由、片桐光男=阿部寛、一ノ瀬由紀=西田尚美、宮坂四郎=佐野史郎
ローランド・エメリッヒ監督の「Godzilla」は、どう考えても巨大なイグアナだった。それに対して日本の元祖ゴジラは、自然の象徴のように超然としている。今回、1954年の原点に帰ったゴジラの復活を、大いに期待して待った。しかし出来は「ゴジラ対デストロイア」よりもはるかに悪い。期待は満たされなかったが、新たな幕開けと割り切って今後に期待しよう。
まず、ストーリーがちぐはぐ。まとまりがない。深まりがない。近年のSF映画からつまみ食いしているようで芯がない。せっかくVSシリーズをやめたはずなのに、結局UFOの宇宙人を怪獣化させて決着をつけざるをえなかった。ゴジラ・ネットの主人公たちに魅力が乏しいのも残念。唯一、ゴジラ抹殺に燃える危機管理情報局長・片桐光男役の阿部寛の屈折した演技が光った。ゴジラがリベンジするはずだ。
THE BLAIR WITCH PROJECT |
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1999年作品。アメリカ映画。87分。配給=クロックワークス、アスミックエース。監督・脚本・編集=エドアルド・サンチェズ(Eduardo Sanchez)、ダニエル・マイリック(Daniel Myrick)。製作=グレグ・ヘイル、ロビン・カウイ。製作総指揮=ボブ・アイク、ケヴィン・J・フォックス。撮影=ニール・フレテリクス。音楽=トニー・コーラ。ヘザー=ヘザー・ドナフュー、マイク=マイケル・ウィリアムス、ジョシュ=ジョシュア・レオナルド
1994年10月、メリーランド州バーキッツヴィルの森で、「ブレアの魔女」をテーマにしたドキュメンタリーを撮影していた映画学校の生徒3人が行方を絶った。1年後、彼らの不気味なフィルムだけが発見される。この作品は、それを編集したものとして映画化されている。16ミリとハンディカムの映像が巧みに組み合わされて不思議な臨場感を醸し出している。俳優たちにストーリーを伝えずに心理的に追い詰めるという擬似的なドキュメンタリーの手法が成功した好例だ。それにしても、わずか3万ドルの製作費とは。
正確に言えば、この作品は映画だけで評価すべきではない。インターネットのホームページ、テレビの特番、解説本などを多角的に組み合わせ、謎を増幅させていくというプロジェクト全体が、作品と言える。新しい形態のエンターテインメントだ。映画は、その一部に過ぎない。面白さの点では、この映画をさらに掘り下げる内容のテレビの特番「ブレア・ウィッチの呪い」やウェブ・サイトがはるかに上だろう。
海の上のピアニスト |
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1999年作品。アメリカ=イタリア合作。125分。配給=アスミック・エース エンタテインメント、日本ビクター。監督・脚本=ジュゼッペ・トルナトーレ(Giuseppe Tornatore)。 特殊効果スーパヴァイザー=デイヴィッド・ブッシュ。製作=ローラ・ファットーリ。製作総指揮=フランチェスコ・トルナトーレ。原作=アレッサンドロ・バリッコ(白水社刊)。撮影=ラヨシュ・コルタイ。音楽=エンリオ・モリコーネ(サントラ盤=ソニー・クラシカル)。プロダクション・デザイナー=フランチェスコ・フリジェリ。衣装=マウリツィオ・ミネロッティ。アート・ディレクター=ドメニコ・シーカ。編集=マッシモ・カグリア。ナインティーン・ハンドレッド=ティム・ロス(Tim Roth)、マックス=プルート・テイラー・ヴァンス、少女=メラニー・ティエリー、ジェリー・ロール・モートン=クラレンス・ウィリアムズ三世、ダニー・ブードマン=ビル・ナン、楽器店主=ピーター・ヴォーン、港湾のチーフ=ナイオール・オブライアン、アコーディオンを持った男=ガブリエレ・ラヴィア、メキシコ人技師=アルヴェルト・ヴァスケス、船長=ハリー・ディッスン、ナインティーン・ハンドレッド(4歳)=イーストン・ゲイジ、ナインティーン・ハンドレッド(8歳)=コリー・バック
1999年の終りに、夢のように美しい映画に出会い、心が震えた。楽器屋にトランペットを売りに来た落ちぶれたトランペッターは、海で生まれ一度も陸に降り立つことなく、豪華客船ヴァージニアン号と運命をともにした天才ピアニストの物語を始める。そのストーリーは、スケールが大きく、ピュアで面白い。懐かしく愛おしい傑作「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、また一つ忘れがたい傑作を生み出した。
船が大きく揺れピアノが滑るのを楽しみながら心地よく鍵盤をたたくナインティーン・ハンドレッドと船酔いしたトランペッター・マックスの出会い、船の楽団と共に一等船客のために演奏する傍ら三等室に詰め込まれた移民たちのためにピアノをひく和やかなシーン、ジャズの創始者ジェリー・ロール・モートンとの息詰まる音楽の決闘、どの場面もうっとりする出来映えだ。ナインティーン・ハンドレッド役のティム・ロスは、文句のつけようがない。全編をオリジナルで包んだエンリオ・モリコーネの作曲家としての力量にも脱帽する。
The Fight Club |
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1999年作品。アメリカ映画。149分。配給=20世紀フォックス。監督=デイビッド・フィンチャー(David Fincher)。原作=チャック・ポーラニック。脚本=ジム・ウールス。製作=アート・リンソン、ショーン・チャフィン、ロス・グレイソン・ベル。製作総指揮=アーノン・ミルチャン。撮影=ジェフ・クローネンウェス。編集=ジェームズ・ヘイグッド。美術=アレックス・マクドウェル。衣装=マイケル・カプラン。音楽=ザ・ダスト・ブラザーズ。ナレーター=エドワード・ノートン(Edward Norton)、タイラー・ダーデン=ブラッド・ピット(Brad Pitt)、マーラ・シンガー=ヘレナ・ボナム・カーター(Helena Bonham Carter)、ロバート・ポールマン=ミート・ローフ・アディ、リチヤード・チェスラー=ザック・グレニアー、インターン=リッチモンド・アークエット、トーマス=デビッド・アンドリュース
映画に殴られるという経験は、そうたびたびあることではない。「ファイト・クラブ」は、正面から殴り掛かってくる作品だ。私たちのふやけた日常を指弾する。ファミリー映画のフィルムにポルノを挿入したり、レストランでスープに尿を混ぜたり、美容整形で吸引された脂肪から石鹸を作って売ったりと、随所に観る者の神経を逆なでする企てをちりばめ挑発する。ブラッド・ピットがこれまでのイメージをかなぐり捨てて暴れ回る。エドワード・ノートンのあいまいな挙動がラストのオチを際だたせる。 死に取り付かれながら無軌道と自律に揺れるヘレナ・ボナム・カーターの演技も「鳩の翼」(イアン・ソフトリー監督)とともに傑出している。
ブランド指向の消費生活に浸りつつ不眠症に悩み、密かに睾丸ガン患者たちのセラピーなどに参加するナレーターの存在は、ぞくぞくするほどリアル。タイラー・ダーデンとの殴り合いによって痛みの充実感を得る展開も、心の深い所で納得できる。殴り合うことに共感する男たちが増え、クラブを設立し、やがて社会を根底から破壊するテロ集団に変ぼうしていく。ファシズムと、安易に規定して目を背けることはたやすい。しかし、ここで描いているのは、満たされない男たちの赤裸々な欲動そのものだろう。目をそらしても何も解決しない。見つめながら、危険な道を回避しようと試みるしかない。
ラストは、幻想的な寓話に昇華されている。フィンチャーの作品は、「セブン」も「ゲーム」も、リアリティに欠ける部分を持っていた。今回も組織が整然と巨大化し、大規模なテロがあまりにも簡単に成功する点が気になったが、力強い映像がその欠点を補っていた。ハリウッドが、人間の暗部をえぐった希有な映画として、長く記憶されることになるだろう。
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア |
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1997年作品。ドイツ映画。90分。配給=K2エンタテインメント。監督=トーマス・ヤーン(Thomas Jahn)。脚本=トーマス・ヤーン、ティル・シュヴァイガー。製作=ティル・シュヴァイガー、アンドレ・ヘンニッケ、トム・ツィックラー。撮影=ゲーロ・シュテフェン。編集=アレクサンダー・ベルナー。音楽=ゼーリッヒ(サントラ盤=イーストウェスト・ジャパン)。美術=モニカ・バウアート。衣裳=ヘイケ・ヴェーバー。マーチン・ブレスト=ティル・シュヴァイガー、ルディ・ウルリツァー=ヤン・ヨーゼフ・リーファース、ヘンク=ティエリー・ファン・ヴェルフェーケ、アブドゥル=モーリッツ・ブライプトロイ、フランキー・ボーイ・ベルーガ=フープ・シュターベル、シュナイダー=レオナルド・ランジング、ケラー=ラルフ・ヘアフォート、マーチンの母=コーネリア・フローベス、カーチス=ルトガー・ハウアー
このところ、面白いドイツ映画が相次いで公開され、「ドイツ映画は重苦しい」という固定観念が崩れ始めた。「バンディッツ」(カーチャ・フォン・ガルニエ監督)、「ラン・ローラ・ラン」(トム・テュクヴァー監督)、「キラーコンドーム」(マルティン・ヴァルツ監督)は、いずれもアメリカのエンターテインメント性を意識しながら、生きざまにこだわるドイツの味わいも感じさせた。しかし「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」は、少し違う。無国籍な軽さが支配している。死を前にした患者がギャングの車を奪い、銀行強盗をしながら、海に向かう。そこには、不思議に悲壮感はない。
派手な銃撃戦やすれ違いのセンスは、タランテイーノを連想させる。しかし、ストーリーのうまさはタランテイーノ以上だ。最後まで、男同士の友情で押し通したのも新鮮。最近は、こういうドラマが少なすぎる。荒唐無稽に陥りやすい展開を、気の利いたユーモアで救いながら最後まで飽きさせない。それにしても、ボブ・デイランの名曲が、こんな形で蘇るとは。嬉しい限りだ。
白痴 |
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1999年作品。日本映画。146分。配給=松竹。企画・製作=松谷孝征(手塚プロダクション)。原作=坂口安吾。プロデューサー=古澤敏文。脚本・監督=手塚眞。撮影=藤澤順一。照明=安河内央之。録音=浦田和治。音響効果=柴崎憲治。美術=磯見俊裕。セットデザイナー=花谷秀文。装飾=尾関龍生。衣裳=伊藤佐智子。ヘアメイク=柘植伊佐夫。音楽=橋本一子。伊沢=浅野忠信、銀河=橋本麗香、サヨ=甲田益也子、木枯=草刈正雄、仕立て屋=藤村俊二、仕立て屋の妻=江波杏子、アキ=あんじ、落合=原田芳雄、宇津木=小野みゆき、編成局長=岡田真澄、編成部長=筒井康隆、吉田=松岡俊介
映像作家・手塚眞の夢が実現した作品。豪華多彩な俳優をそろえ、戦火の焼跡と近未来のセット、斬新なアートを合体し、8ミリから最新のCGまでを盛り込んで映像の歴史までも再現した。自分の気に入ったものをすべて取り込んだかのような多彩な展開。しかし、手塚眞ワールドとしてのユーモアと透明感が全体を包んでいる。紋切り型の結末と、深まらない人間造形が物足りないもの、全身全霊を傾けたような熱気には圧倒された。
絶望している浅野忠信と無垢な甲田益也子の演技ばかりが、取り上げられているようだが、この作品で最も輝いているのは、国民的なカリスマアイドル・銀河役の橋本麗香だ。彼女のエキゾチックな踊りからCGに移る華麗さに息を飲んだ。美しい。小悪魔というよりもサロメに近い妖艶さとわがままさを持っているが、一方で自分の虚像に怯えている。その振幅が魅力的だった。
M/OTHER |
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1999年作品。日本映画。147分。配給=サンセント。プロデューサー=仙頭武則。 監督=諏訪敦彦。撮影=猪本雅三。照明=佐藤譲。録音・整音=菊池信之。美術デザイナー=林千奈。音楽=鈴木治行。編集=掛須秀一(J.S.E)。織田哲郎=三浦友和、松野アキ=渡辺真起子、俊介=高橋隆大、多田=梶原阿貴、中村成子=石井育代、マネージャー=北見敏之
1999年カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。デザイン会社に勤めるアキは、レストランを経営する哲郎は、自由な同棲生活を続けている。しかし、哲郎の別れた妻が交通事故に遭い、事前にアキに連絡もせず、8歳の息子・俊介を連れ戻る。アキは不満を抱えながらも共同生活を始めるが、次第に情緒不安定になり、哲郎との関係が壊れていく。痛いほどのリアリティに引き込まれた。「私の事なんか知らないじゃない」「一人にするなよ」。クライマックスでの会話は、現在の男女の位相を端的に表している。人間がともに生きていくということの困難性が、生々しく浮き彫りになる。
この作品は、最初に簡単なプロットだけがあり、リハーサルを行いながら台本をまとめるという諏訪敦彦監督の独特の方法が取られている。台本は、決定的なものではなく、どう動き、何を話すかは、俳優に委ねられている。そこから、自然さや緊迫感がにじみ出てくる。まさに、その手法が大きな成果を上げた。アキ役の渡辺真起子は、等身大の揺れ動く現代女性の感性そのまま。三浦友和も優柔不断で利己的な中年男性を演じた。何よりも驚いたのは、8歳の高橋隆大の即興演技と会話の自然さだ。「子供はいつも即興で生きている」という、諏訪監督の言葉が納得できた。
96年 | 4月 |
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97年 | 1月 |
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98年 | 1月 |
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