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1995年作品。107分。監督・脚本:利重剛。撮影:篠田昇。美術:磯見俊裕。音楽:めいなCo.。キョーコ=中谷美紀、鉄夫=永瀬正敏、オガタ=ダンカン

もったいぶった凡庸な作品と見るか、新しい少女像を追った切実な作品と見るか、意見が分かれるところ。性風俗で仕事をしながら、けっして社会に妥協しない自由な女性たちを描いた『愛の新世界』などの作品と通じるものがあるが、手触りはかなり違う。

利重剛監督は、自分の感性とは明らかに異なるキョーコに迫ろうとしている。それは、現代の「新少女」と呼ばれる新しいタイプの少女の登場に対応するものだ。その存在を、あからさまに肯定するのではなく、キョーコに魅せられた男性たちの視点を中心に物語は進む。ただ、ドキュメンタリー番組の製作という設定は、リアリティがないのではないか。「壁」のかけらをお守りにしているというキョーコのこだわりも生かし切れていない

キョーコは、傘が好きで「みんな頑張れ」というのが口癖。都市の舗装やマンホールの蓋を作った人に会いたいと言う彼女は、確かに魅力的。中谷美紀は、ピュアでとらえどころのない彼女を好演した。永瀬正敏は、相変わらず自然体でうまい。しかし、ラストがあまりにも平凡だったので、作品的に損をしている。


聖なる狂気

1995年作品。101分。監督・脚本フィリップ・リドリー。製作総指揮ジム・ビーチ。製作アラン・キーツマン。撮影レス・ビーリ。音楽ニック・ビキット。出演ブレンダン・フレイザー、アシュリー・ジャッド、ウィゴ・モーティンセン、ローレン・ディーン

フィリップ・リドリーの初作品『柔らかい殻』を、92年のベスト1に選んだ私としては、札幌で未公開の『聖なる狂気』を取り上げない訳にはいかない。

厳格な宗教の教えで育ったため性的な欲望を抑えてきた青年が、偶然出会った女性に恋をし、次第に錯乱していくというストーリー。『アンダルシアの犬』の蟻をはじめ、さまざまな作品へのオマージュで満たされている。大きな靴が川を流れてきた時には、寺山修司へのオマージュかと思ったくらいだ。あるいは本当にそうかもしれない。

サイコスリラーとしては、評価できない。いろいろなアイデアをちりばめているものの、うまくかみ合っていない。前作『柔らかい殻』は、独創的な全く新しい世界を切り開いていたが、今回は既存の枠に収まってしまい、物足りなさが残った。


ONCE WERE WARRIORS

1994年作品。104分。監督リー・タマホリ。原作アラン・ダフ。脚本リウィア・ブラウン。撮影スチュアート・ドライバーグ。美術マイク・ケーン。音楽マレイ・グリンドレイ、マレイ・マクナビ。ベス=レナ・オーウェン、ジェイク=テムエラ・モリソン

タマホリ監督は、マオリ族の父とヨーロッパ系の母を持つ。都市で生活する等身大のマオリ族の人々を骨太に正面から描いている。94年モントリオール国際映画祭で、グランプリを獲得、レナ・オーウェンは最優秀女優賞に輝いた。

先住民族問題、女性差別問題、などをひとつの家庭の崩壊という視点で見つめた作品。ベスの苦しみ、ジェイクの悲しみが伝わってきて、いたたまれない気持ちになる。暴力的な ジェイクを捨て、子どもを連れて故郷に帰るベスの力強い選択に、監督の思いは込められている。しかし、ジェイクの精神的な弱さにはあまりにも冷たすぎないか。

マオリ族の文化、とりわけ葬儀のシーンは印象に残った。それらを含め、問題が絡み合った過酷な現実に肉薄しようとする監督の気迫が伝わってきた。日本においても、先住民族問題はクローズアップされてきている。このような果敢な映画を期待することはできないのだろうか。


フランク・ロイド・ライトの落水荘

1993年作品。55分。アメリカ映画。製作・監督・脚本・録音ケネス・ラブ。撮影ジョー・シーマンズ。編集ロビン・ハットマン。音楽ナット・カー。出演=エドガー・カウフマンJr.、ライトの弟子たち

森に囲まれた家の下から表情豊かな滝が流れ落ちるー。フランク・ロイド・ライトの落水荘は、アメリカ建築史上最も美しい住宅と言われている。この作品は、27年間その家に住み、ライトの弟子でもあるエドガー・カウフマンJr.が、建築当時を回想する形で、この家の素晴しさを紹介している。

落水荘は息を飲むほど美しい。そのたたずまいだけでなく、ライト自身がデザインした家具や窓などの細部に至るまでが見事に調和している。自然の一部としての建築というライトの思想が結実した住宅だ。

エドガー・カウフマンJr.が明かす数々の逸話が、また楽しい。特に、当時の専門家の「このような住宅は不可能で壊れる」という報告書を受けたエドガー・カウフマンが、家の壁にその報告書を塗込めたという話は、出来すぎなほど面白い。ドキュメンタリーとしての情報を盛り込みながら、飽きさせない映画となっている。


ジョエル・ピーター・ウィトキン-消し去れぬ映像

1993年作品。52分。フランス映画。監督・脚本ジェローム・ド・ミソルツ。撮影アリアーヌ・ダマン。録音パトリック・ジュネ。編集エリザベス・ジュスト。 出演=ジョエル・ピーター・ウィトキン、シシリア・ウィトキン

1994年第12回モントリオール国際アート・フィルム・フェスティバル最優秀創造賞を受賞した。ジョエル・ピーター・ウィトキンは、死体、フリークを配しながら神話的な世界を撮り続けているが、この作品は初のドキュメンタリー。写真家の製作現場に踏み込む監督の執念を感じさせる。

彼のファンとしては、撮影現場の雰囲気を知ることができて大変にうれしい。しかし、平凡な自作の解説をはじめ、全体に単調で平板な印象が残った。彼の生い立ち、戦争体験などウィトキンを多面的に分析するまでには至らなかった。


BLUE IN THE FACE

1995年作品。84分。配給:日本ヘラルド映画。監督ウェイン・ワン。共同監督ポール・オースター。製作ピーター・ニューマン。共同製作黒岩久美。撮影アダム・ホレンダー。美術カリーナ・イヴァノフ。編集クリストファー・テレフセン。衣装クローディア・ブラウン。音楽総指揮デイヴィッド・バーン。オーギー・レン=ハーヴェイ・カイテル、ドット=ロザンヌ、ダンサー=ルポール、ボブ=ジム・ジヤームッシュ、ヴァイオレット=メル・ゴーラム、ヴィニー=ヴィクター・アーゴ、妙な眼鏡の男=ルー・リード、電報配達の女=マドンナ

『スモーク』の製作過程で生み出された作品。続編ではなく、ブルックリンの同じ煙草屋を舞台にしながら、全く別の物語が展開する。撮影はわずか3日間。しかし、不思議な味わいのある佳品に仕上がっている。

『スモーク』は、しみじみとした深みのある全体に静かな雰囲気のストーリーだったが、 『ブルー・イン・ザ・フェイス』は騒々しくエネルギーに満ちたコメディ・タッチ。とりわけ、罵り合う時のマシンガンのような言葉の連射には圧倒される。トラブルと喧嘩ばかりの映画だが、見終わると人の暖かさが残って後味がよい。

映画の中にも出てくるが、混在する人種は90。ブルックリンの活力はそこから生まれる。 そして、今でもドジャースの本拠地移転を悔しがり、下町のような雰囲気が残っている。 オーギー・レンの煙草屋がたまり場になっているのも自然だ。

オーナーは、赤字続きのこの煙草屋を閉めようとするが、なんとドジャースの名選手ジャッキー・ロビンソンが現われてドジャース移転の例を引き、閉店を思いとどまらせる。なんとも、脳天気だがこの映画のお祭りの乗りにはぴったりだった。

違う文化や歴史を持つ人たちが集うことの楽しさ。いろいろと問題はあるが、多民族が共存していく豊かさをさりげなく示した映画でもあった。


白い嵐

1996年作品。129分。アメリカ映画。配給:日本ヘラルド映画。監督・制作総指揮リドリー・スコット。製作ミミ・ポーク・ギトリン、ロッキー・ラング。脚本トッド・ロビンソン。撮影ヒュー・ジョンソン。美術ピーター・J・ハンプトン、レスリー・トムキンス。シェルダン"スキッパー"=ジェフ・ブリッジス、アリス・シェルダン=キャロライン・グッダール、マックレア=ジョン・サーベジ、チャック・ギーク=スコット・ウルフ、フランク・ビューモント=ジェレミー・シスト

1961年5月2日の「アルバトロス号」沈没事故を映画化したもの。リドリー・スコットは、光と影を巧みに演出する監督だが、今回はドキュメンタリー・タッチで随所に美しい風景を盛り込み、少年たちの争いと友情、海の脅威を描いている。

嵐のシーンは、とてもセットとは思えない迫力。マルタ島のウオーター・タンク・ステージを使用し、250万ガロンの水槽で時速650マイルの風を起こした。シェルダン"スキッパー"役のジェフ・ブリッジスが「生きて帰れるかだけが心配だった」と語っていたのが、納得できた。

ただ物語の展開は、やや平板な印象を与える。少年たちの成長と過酷な体験を共有することによる堅い連帯感。自然の力と人間としての責任。それらのテーマが素直に心に届いてこなかった。キューバ危機直前、米ソの宇宙競争という格好の時代背景が、十分には生かされていない。30年後に映画化したという必然性を感じさせない。

見終わって、事故で死んでいった2人の表情がいつまでも心に残った。兄を転落事故で失い家庭的にも不幸なギルの悲痛な叫び、一方見ずからの運命を受け入れるアリス・シェルダンの穏やかさ。自然の力の理不尽さという当り前の現実を、久しぶりにかみしめた。

リドリー・スコットは、70年代に『エイリアン』(78年)、『ブレードランナー』(79年)と、映画史に残る傑作を立て続けに生み出した。暗闇における光の演出、閉塞空間におけるアクションの妙は、他の追従を許さない。そして90年代には、より広いフィールドでの物語に取り組んでいる。広大な歴史や自然描写とかつての緊迫した映像美を総合した作品が待たれる。


Before the Rain

1994年作品。115分。イギリス=フランス=マケドニア作品。配給:大映。監督・脚本ミルチョ・マンチェフスキー。プロデューサー:ジュディ・コーニハン、セドミル・コラル、サマンサ・テイラー、キャット・ヴィリアーズ。音楽アナスタシア。アレックス=レード・セルベッジア、アン=カトリン・カートリッジ、キリル=グレゴワール・コラン、ザミラ=ラビナ・ミテフスカ

年に1度か2度しか観ることができない傑作。ミルチョ・マンチェフスキー監督のデビュー作は、映像、音楽、ストーリー、どれを取っても一級品だ。うわついた日常生活を送っている自分を問い返させる力に満ちている。94年のヴェネチア国際映画祭のグランプリは当然の結果だろう。

まずマケドニアの自然に圧倒される。乾いた大地と山々の連なり。その美しさが、人間の争いを無言で包んでいる。そして、伝統的な楽器を駆使した力強いアナスタシアの音楽が、私たちの感性を揺さぶる。

作品は3つのパートに分かれている。第一部「言葉」、第二部「顔」、第三部「写真」。いずれも失われたものを示している。斬新で振幅の大きなストーリー展開は感嘆するに値する。ロンドンでの無差別発砲による死とマケドニアでの民族的憎悪を背景とした親族殺人の対比。対極にありながら、やりきれない理不尽さは通底している。

ラストがあたかもプロローグにつながるような構成なので、映画的なめまいを起こさせるが、けっして歴史の閉塞を暗示しているのではない。「時は流れる」という老僧の言葉が歴史の変革可能性を示している。出口の見えない泥沼化した民族紛争も、アレックスのような一人ひとりの苦悩に満ちた決断によって変えていけるかもしれない。マンチェフスキー監督は、そう控えめに主張している。

マンチェフスキー監督は、黒沢明監督の「羅生門」を観て映画づくりを志したという。その巧みな展開は、「羅生門」に匹敵するだろう。2時間足らずの長さだが、大作を観たような満足感に浸ることができた。

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