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 ボディドロップアスファルト  「ボディドロップアスファルト」の画像です

 2000年作品。日本映画。96分。「愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品」第9弾。監督・脚本・衣装=和田淳子。制作=愛知県文化情報センター。エグゼクティブ・プロデューサー=越後谷卓司。 制作主任=藤田功一 。撮影・照明・編集 =白尾一博 、宮下昇 。録音 =小林徹哉 。記録 =横山響子 。ヘアメイク= 小野明美 。音楽=コモエスタ八重樫 。CG制作=高島秀夫(E-MALE)、花岡岳 、中川善二 、芳賀正寿 。真中エリ=小山田サユリ、リエ=尾木真琴 、東条冬樹=田中要次、ホシノ=岸野雄一、円山=マチュー・マンシュ、若松学=あがた森魚、野村京太郎=鈴木慶一、広岡哲夫=手塚眞、関根潤三=大久保賢一、木佐一久=沼田元氣、レモン=大川高弘、古田美保=安藤純子、ヒロ=磯部啓之、コウタ=加藤幸太、神様(?)=金井勝


 足だけの表情で女性たちの思いを表現する可愛らしい導入部。22歳の真中エリが、自分の位置をつかめずに「どうしよう、どうしよう」と、悩み空回りするシーンのユニークなカメラアングルと映像編集。女性版ゴダールか。妄想の世界を恋愛小説化し、大ヒットした後のコミカルで、少し意地悪な展開。世界が破壊された後に清明が訪れる。大予算ではないが、CGの使い方はなかなか効果的。登場人物も、衣装同様にカラフルだ。手塚眞、あがた森魚、鈴木慶一に続いて、「時が乱吹く」が強烈に印象に残っている金井勝監督が、神様(?)役で登場したのには驚いた。多彩な表情を持つ作品だが、全体としてとてもチャーミングに思えるのは、小山田サユリの可愛いキャラクターと和田監督の編集センスのたまものだろう。

 「ボディドロップアスファルト」は、長篇デビュー作だが、和田監督の短編作品もまとめて観ることができた。「閉所嗜好症」(1993年、6分)は、雲を閉じ込めたり、煙りを計ったりする不思議な指向が面白かった。ただ「アイスクリーム38℃」(1994年、9分 )、「桃色ベビーオイル」(1995年、16分)、「アスレチックNo.3」(1995年、8分)は、オリジナリティは感じるものの自身を含めた女性ヌードが前面に出過ぎて興醒め。アメリカのポルノを挿入した「パパイヤココナツ激情」(1995年、22分)は、失敗作としか思えない。白尾一博との共同監督作品「SHOCKING PEACH」(1996年、20分)は、スピード感がありパンクっぽい映像は魅力的だが、物語が迫ってこない。4年間の充電期間を経て完成した「ボディドロップアスファルト」が、いかにジャンプアップした作品であるかが如実に分かった。


 ムーラン・ルージュ  「ムーラン・ルージュ」の画像です

 2001年作品。オーストラリア・アメリカ合作。128分。配給=20世紀フォックス。監督=バズ・ラーマン(Baz Luhrmann)。脚本=パズ・ラーマン、クレイグ・ピアース。製作=マーティン・ブラウン、バズ・ラーマン、フレッド・バロン。撮影=ドナルド・M・マカルパイン、ACS/ASC。プロダクション・デザイン=キャサリン・マーティン。編集=ジル・ビルコック。共同製作=キャサリン・ナップマン。衣裳デザイン=キャサリン・マーティン、アンガス・ストラティー。振付=ジョン・オコネル。音楽=クレイグ・アームストロング。音楽監督=マリウス・デ・ブリーズ。キャスティング=ロンナ・クレス。音楽スーパーバイザー=アントン・モンステッド。メイン・メイクアップ・デザイナー=モウリジオ・シルヴィ。メイン・ヘアー・デザイナー=アルド・シニョレッティ。サティーン=ニコール・キッドマン(Nicole Kidman)、クリスチャン=ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)、トゥールーズ・ロートレック=ジョン・レグイザモ(John Leguizamo)、ジドラー=ジム・ブロードベント、ウースター公爵=リチャード・ロクスボロウ、医者=ギャリー・マクドナルド、アルゼンチン人=ジャセック・コマン、サティ=マシュー・ウィテット、マリー=ケリー・ウォーカー、ニニ=キャロライン・オコナー、オードリー=デビッド・ウェンハム、アラビア=クリスティン・アヌー、チャイナ・ドールー=ナタリー・メンドーザ、マム・フロマージュ=ララ・マルケイ、緑の妖精=カイリー・ミノーグ、ル・ショコラ=デオビア・オパレイ


 ジェットコースターに乗って大掛かりなミュージカルを観る感覚。悪くない。あふれる色彩と人を食った華麗なCGに幻惑されて夢の世界を味わえる。映画や女優へのオマージュもたっぷりと盛り込まれている。「紳士は金髪がお好き」の中で歌われていた「ダイヤモンドは女性の親友」を、サティーン役のニコール・キッドマンが歌いながらきらびやかに登場するシーンは、うれし涙が出るほど。そしてクリスチャン役ユアン・マクレガーとの美しい悲恋が展開される。「象の部屋」での名曲の歌詞を生かした愛のメドレーの高揚感は、とりわけ忘れがたい。

 監督が、いたって単純なストーリーにしたのは、観客とともにとことん遊ぶためだったに違いない。前半の過剰なまでのコミカルな処理が、クリスチャンのジェラシーによって一転してタンゴを基調とした重苦しい雰囲気に変わる。その群舞もなかなか見物だ。そして、インドを舞台にした目もくらむミュージカルでクライマックスを迎える。ニコール・キッドマンとユアン・マクレガーの美声とともに、ロートレック役のジョン・レグイザモの熱演を書き留めておこう。

 19世紀末パリの「ムーラン・ルージュ」は、まさに祝祭空間。さまざまな階層の人たちが出会い、影響し合う。1977年、ニューヨークにオープンした「スタジオ54」に似ている。そういえば、「 54  フィフティ・フォー」(マーク・クリストファー監督)という作品があった。現在は、日常が疑似祝祭化したために、本来の祝祭が見えにくくなっている。「ムーラン・ルージュ」という祭りを経験した後に、そんな淋しさを感じた。


 テルミン  「テルミン」の画像です

 1993年作品。アメリカ映画。83分。配給=アスミック・エース。監督・製作・脚本=スティーヴン・M・マーティン。撮影監督=エド・ラクマン。音楽=ハル・ウィルナー。テーマ曲=サン・サーンス「白鳥」、ラフマニノフ「ヴォカリーズ」(CD「アート・オブ・テルミン」クララ・ロックモアより)、ビーチ・ボーイズ「グッド・バイブレーション」。出演=レオン・テルミン、クララ・ロックモア、ロバート・モーグ、リディア・カヴィナ、ビーチ・ボーイズ&ブライアン・ウィルソン、トッド・ラングレン、レーニン


 後のシンセサイザーへとつながる世界初の電子楽器「テルミン」を発明したレフ・セルゲイヴィッチ・テルミンの驚くべき生涯を追ったドキュメンタリー。あまりの先駆性と悲劇性に、フィクションを含んだ「コリン・マッケンジ−/もうひとりのグリフィス」(ピーター・ ジャクソン、コスタ・ボーテス監督)を連想したが、こちらは全て真実の記録だ。1994年のサンダンス・フィルム・フェスティバル「ベスト・ドキュメンタリー賞」を受賞している。何故これまで広く劇場公開されなかったのかが不思議。愛すべき傑作である。 

 スティーヴン・M・マーティン監督は、器用なタイプではないが、テルミンの真実に迫ろうとする一途な思いが伝わってくる。オーソドックスな構成でも波瀾に満ちた生涯は十分に魅力的。弟子にして恋人でもある天才奏者クララ・ロックモアとの再会は、とりわけ感動的だった。戦争と冷戦がふたりを引き裂きながら、半世紀以上経って再会できた奇跡。「年をとって再会するって素敵ね」「背が伸びたね」と、機知に満ちた会話が交わされ、クララがかつてのテルミンを使って演奏する。そして若き日の可憐なクララ、セクシーなテルミンの愛に満ちた映像が重なる。私は涙した。映画は、手を取り合ってデートに出かける二人の幸せそうなシーンで終わる。素晴らしいエンディング。テルミンはこの作品が完成した直後に97歳で他界、クララも1998年に死去している。


 オー・ブラザー!  「オー・ブラザー!」の画像です

 2000年作品。アメリカ映画。108分。配給=ギャガ・コミュニケーションズ。監督・脚本=ジョエル・コーエン。製作・脚本=イーサン・コーエン。撮影監督=ロジャー・ディーキンス。美術監督=デニス・ガスナー。衣装=メアリー・ゾフレス。音楽=T=ボーン・バーネット。編集=ロデリック・ジェインズ、トリシア・クック。共同製作=ジョン・キャメロン。ユリシーズ・エヴェレット・マックギル=ジョージ・クルーニー、ビート=ジョン・タトゥーロ、デルマー=ティム・ブレイク・ネルソン、ペニー・ウェーヴァリー=ホリー・ハンター、片目の聖書セールスマン=ジョン・グッドマン、バビー・オダニエル知事=チャールズ・ダーニング、ジョージ・ベビーフェイス・ネルソン=マイケル・バダルーコ、トミー・ジョンソン=クリス・トーマス・キン


 コーエン兄弟の新作は、「ビッグ・リボウスキ」の濃厚さはないが、適当に肩の力を抜いた、その力の抜き具合が絶妙で、気持ち良く笑わせ続けてくれる。ち密な脚本による小技の連続。ストーリーを味わうというよりも、1つひとつのコントを音楽や映像とともに楽しむ作品だ。ホメロスの「オデュッセイア」を原作にして、こんなに遊んでしまえる監督は、ほかにいない。人種差別主義団体KKKの秘密集会のパロディは、かなり危ない笑いだが、脱走囚3人の「ずぶ濡れボーイズ」が政治集会で歌い、おおいに盛り上がるシーンへとつなげて軽妙に処理している。重くならない仕掛けが、さりげなくちりばめられていた。

 「ポマード缶」の画像です主人公ユリシーズを演じるのはジョージ・クルーニー。何、ジョージ・クルーニー?、キャスティングのミスでは、と考えた私が浅はかだった。コーエン・ワールドに、見事にはまってい た。頭脳明晰で口達者だが、ポマードに異常なほどこだわる伊達男を好演している。スコーンと抜けたコミカルさがたまらない。ジョージ・クルーニーは、キザなニ枚目俳優としてではなく、この作品の三枚目俳優として、記憶されることになるだろう。そして、コーエン兄弟もアクの強い作品ではなく、この一見明るく、神話に似せたほら話が代表作になるのかもしれない。


 アート・ドキュメンタリー

2001 

「アート・ドキュメンタリー2001」の画像です

 北海道立近代美術館で、11月3、4の両日、「アート・ドキュメンタリー2001」が行われた。これまでアート・ドキュメンタリーの上映を続けてきたが、今回は特別展「永遠へのまなざし」のボルタンスキーと連動しながら、ナイジェル・フィンチ特集の側面も持っている粋な企画。相変わらず音響も映像も設備が悪すぎるものの、フィンチ監督の得難い傑作に出会うことができた。


 「C・ボルタンスキーについて彼らが思い出すこと」(2000年、33分、佐藤京子監督)は、ややまとまりに欠けるドキュメンタリー。それでも、カタコンブに「命を感じる」というボルタンスキーの感性に接することができる。さまざまな人たちがボルタンスキーの印象を語る構成になっているが、資料を読むと、そのテキストはボルタンスキー自身が書いたものだということが分かった。すべてを煙にまいてしまう。あいかわらず、人を食ったアーティストだ。

 1996年の「アート・ドキュメンタリー」で取り上げた10年前の作品「ボルタンスキーを探して」(1990年、45分、アラン・フイッシャー監督)も再上映されたが、こちらはさらに手の込んだ仕掛けに満ちている。時代と真摯に向き合いながら、虚構と真実の境界を故意にあいまい化し、自己韜晦するボルタンスキー。彼の肉声は、象徴性をたたえる作品群と共振する。シリアスさとユーモアが溶け合っている緊張感に満ちた秀作ドキュメンタリーで、「C・ボルタンスキーについて彼らが思い出すこと」が色褪せて見える。

 ボルタンスキーと同じように彫刻家ルイーズ・ブルジョワのドキュメンタリーも2作品用意されていた。比較すると面白い。「CHERE LOUISE 〜親愛なるルイーズ」(1995年、50分、ブリジット・コルナン監督)は、ルイーズが作品を示しながら、深い精神的な傷を負った自己史とのかかわりを説明していく構成。途中で少し機嫌を損ねるシーンはあるものの、全体におだやかな仕上がり。しかし、1911年生まれとは思えない鋭さが印象に残る。

 「ルイーズ・ブルジョワ」(1993年、54分、ナイジェル・フィンチ監督)は、フィンチ監督とルイーズ女史との口論から始まる。警戒心を露にするルイーズと作家性をゆずらないフィンチ。それでも撮影は続けられ、暴力的なまでに感情の起伏が激しいルイーズの内面が照らし出される。記録者と当事者の葛藤を通じて信頼関係が築かれていくスリルに満ちた展開。そして穏やかなルイーズの表情で終わる。見事だ。見終わって「苦悩なんて他人から見れば滑稽なだけ」と言い放つルイーズが、とても好きになっていた。

 「チェルシー・ホテル」(1981年、55分)もフィンチ監督作品。ニューヨークにある多くの芸術家が滞在した伝説のホテル。アンディ・ウォーホルが記念碑的な「チェルシー・ガールズ」を撮影、バロウズが「裸のランチ」を、アーサー・C・クラークが「2001年宇宙の旅」を執筆し、若きメイプルソープとパティ・スミスが暮らし、シドとナンシーが人生最後を過ごした。貴重や映像記録が盛り込まれているものの、ドキュメンタリーとしては、思いきった奔放な構成で、それが芸術家たちを包容したホテルの柔軟さや奇妙さを浮かび上がらせている。

 フィンチ監督の「ロバート・メイプルソープ」(1988年、52分)は、写真家メイプルソープが42歳で死去する直前の記録という貴重さ以上に、ドキュメンタリーとしての傑作。鋭い美意識に貫かれた彼の独創的な作品が紹介され、メイプルソープ本人と関係者のコメントが的確に挿入される。ルイーズ・ブルジョワも登場する。スキャンダラスな事件ばかりが強調されるメイプルソープ作品の水準の高さがひしひしと伝わってくる。あらためてポートレートや花々を見て、あまりの美しさに息を飲んだ。ほかの誰が、あるような深い表情、鋭角的な花々を撮影することができるだろうか。

 パフォーマンスの映像記録には、格別の難しさがある。「ダムタイプ/p H」(1992年、68分、映像演出=古橋悌二)と「ダムタイプ/OR」(1998年、68分、映像演出=高谷史郎)を観て、作品との対峙の仕方について考えさせられた。観客の視点のように固定するのか、思いきって解釈を持ち込むのか。ダムタイプという先駆的なパフォーマンスの質の高さを感じながら、映像から伝わってくるどうしようもないもどかしさを忘れることができなかった。

 


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 Visitorssince2001.11.05