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 東京マリーゴールド 「東京マリーゴールド」の画像です

 2001年作品。日本映画。配給=オメガ・エンタテインメント。監督・脚本=市川準。原作=林真理子(「東京物語」より「1年ののち」)。撮影=小林達比古。美術=間野重雄。照明=中須岳士。音楽= 周防義和。劇中歌=螢「カゼドケイ」。酒井エリコ=田中麗奈、タムラ=小澤征悦、宮下先輩=斉藤陽一郎、邦夫=寺尾聰、酒井律子=樹木希林


 冒頭「ほんだし」発売30周年記念作品と大写しになり、思わず苦笑。樹木希林と田中麗奈だものなあ。確かに大切な場面で味噌汁が登場していた。田中麗奈初の大人の恋愛もの。1年間で終わるせつない恋を、1年間で枯れてしまうフレンチマリーゴールドに例えている。これを未熟な恋愛とみる向きもあるだろうが、1年で別れなければならないという緊張感が、恋を情熱的にしたともいえる。古今東西、ハンディがあるほど燃え上がるのが恋愛というものだ。

 さまざまな東京の風景が切り取られ、その空気がただよってくる。市川監督お得意のシーンだが、エリコの揺れ動く心と共振し、現在の東京を浮かび上がらせている。そんな市川流の心地よいスケッチを揺さぶるのが、芯の強そうな田中麗奈の存在感、その瞳だ。恋に振り回されながらも、懸命に自分らしさを保とうとする彼女の決断が、この作品を爽快な青春映画にしている。


 15ミニッツ 「Fifteen Minutes」の画像です

 2001年作品。アメリカ映画。121分。配給=日本ヘラルド映画。監督・脚本=ジョン・ハーツフェルド。製作=ニッタ・ウェクスラー/キース・アディス。製作=デヴィッド・ブロッカー/ジョン・ハーツフェルド。製作総指揮=クレアー・ラドニク・ポルステイン。撮影監督=ジャン・イヴ・エスコフィエ。プロダクション・デザイン=メイン・パーク。編集=スティーヴ・コーエン,A.C.E.。音楽=アンソニー・マリネッリ。音楽=J・ピーター・ロビンソン。衣装デザイン=エイプリル・フェリー。キャスティング=ミンディー・マリン。エディ・フレミング=ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro)、ジョーディ・ワーソー=エドワード・バーンズ(Edward Burns)、ロバート・ホーキンス=ケルシー・グラマー、レオン・ジャクソン=エイヴリー・ブルックス、ニコレット・カラス=メリーナ・カナカレデス(Melina Kanakaredes)、エミル・スロバック=カレル・ローデン、ウルグ・ラズグル=オレッグ・タクタロフ、ダフネ・ハンドローバ=ヴェラ・ファミーガ、ボビー・コーフィン=ジョン・ディレスタ


 「2days トゥー・デイズ」から4年。今回も時間の長さの題名。アンディ・ウォーホルの「誰でも15分間は有名人でいられる時代がくる」というマスメディア社会を預言した有名な言葉から取られている。視聴率を上げるために血なまぐさい事件を追い掛けるマスコミを安易に批判するだけの映画かと思ってみていたら、もっと骨のある良質な作品だった。コメディ風の導入部から一転して殺人が起こり、緊迫感のある展開になる。主人公と思っていたエディ刑事が、あっけなく殺されてしまって唖然。そこから、手に汗握る映画の見せ場が始まる。ブラックなユーモアをたたえたラストシーンは、爽快さを感じていた私をあざ笑うかのようだった。まったく、やられたぜ。

 エドワード・バーンズに「片腕を切り落としてでも共演したかった」と言わせたロバート・デ・ニーロは、相変わらずの渋い味を発散。出過ぎだよ、という思いをすぐに消し去ってしまう。放火捜査官ジョーディ役のエドワード・バーンズは、最初は頼りな気だが、困難な状況を見事に切り抜けるタフガイぶりをみせる。そして、カレル・ローデンとオレッグ・タクタロフの得難いキャラクターに拍手。彼等の存在がこの作品を重層的なものにした。忘れてはならないのがメリーナ・カナカレデスのギリシャ彫刻のような美しさ。彼女のひとすじの涙がエディの死に、何ものにも変えがたい花を添えている。


 トラフィック 「Traffic」の画像です

 2000年作品、アメリカ映画、148分、配給=日本ヘラルド映画。 監督=スティーブン・ソダーバーグ。脚本=スティブン・ギャガン。製作=エドワーズ・ズウィック、マーシャル・ハースコヴィッツ、ローラ・ビックフォード。製作総指揮=リチャード・ソロモン、マイク・ニューエル、キャメロン・ジョーンズ、グラハム・キング、アンドレアス・クライン。撮影=ピーター・アンドリュース。プロダクション・デザイナー=フィリップ・メッシーナ。編集=スティーブン・ミリオン。コスチューム・デザイン=ルイーズ・フロッグレー。音楽=クリフ・マルチネス。ロバート・ウェークフィールド=マイケル・ダグラス、モンテル・ゴードン=ドン・チードル、ハビエール・ロドリゲス=ベニチオ・デル・卜ロ、レイ・カストロ=ルイス・ガスマン、アーニー=デニス・クエイド、ヘレーナ・アヤラ=キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、カルロス・アヤラ=スティーブン・バウアー、マノ一ロ・サンチェス=ヤコブ・バーガス、キャロライン・ウェークフィールド=エリカ・クリステンセン、フランシスコ・フロレス=クリフトン・コリンズJr.、エドゥアルド・ルイス=ミゲル・フェラー、セス・アブラハムス=トファー・グレイス、バーバラ・ウェークフィールド=エイミー・アーヴィング


 スティーブン・ソダーバーグ監督が、アメリカとメキシコを結ぶ巨大な麻薬組織に迫った渾身の傑作。ひとまず、そう言っておこう。アメリカとメキシコを色彩によって描き分け、麻薬をめぐるさまざまな場面が浮かび上がる。困難を極める麻薬との闘い。その深刻さを映像に刻み付け、映画は静かに終わる。複雑な展開が完璧に決まったとはいえないが、安易な解決を避け手応えのある作品に仕上がっている。ただ、ラストシーンは麻薬問題を家族の問題に狭めているような印象を与えたかもしれない。

 大勢の人物が登場するが、実に手際良く動かしている。ただ、欲を言えば不満はある。優等生キャロラインが麻薬に手を染めていく過程は、もう少し彼女に寄り添ってほしかった。警官ハビエールの頑固さ、信念の強さは伝わってきたが、それが何によって支えられているのかは理解しづらい。前宣伝が盛んだったマイケル・ダグラスとキャサリン・ゼタ=ジョーンズの夫婦初競演。マイケル・ダグラスは、主役ではあるが、やや弱気な役。今回存在感を放ったのはキャサリン・ゼタ=ジョーンズの方だ。華麗な小悪魔性が、貫禄ある悪魔性に成長していた。怖かった。


 山崎幹夫の短編世界 「V.M.」の画像です

 「山崎幹夫の短編世界」が、まるバ会館で開かれた。今回は2プログラム。Aプログラムは、V.M.シリーズ8編を合体し追加編集した「V.M.」(1997年、8ミリ80分)。1999年に独自の多重露光を生かした「VMの夢想」「VMの漂流」を観ているが、それらの作品をつなげたというよりは、廃虚を基調にして多次元的な空間を開いた新作といった方が正解だろう。山崎監督自身でなければ上映できないというパフォーマンスがうれしい。

 Bプログラムは、11作品。「泥のなかで生まれた」(1986年、8ミリ17分)は、危ない映像がちらつく独自の露悪性が魅力。 「うまうお」(1986年、8ミリ3分)は、ショート特有のアイデア。「りりくじゅんび」(1987年、8ミリ10分)は、学童クラブの子供たちに8ミリカメラを渡して勝手に撮らせたものを編集した作品。映像を撮ることの特権性がまだ生きていた時代だけに、子供の世界の生々しいサスペンスが記録されている。不滅の作品。「あいたい」(1988年、8ミリ11分)は、変色したフィルムをめぐる熱い想念。映像として定着した時間と現在との隔たりとつながり。かけがえのなさの発酵。山崎監督の友への叫び、その肉声がとりわけ胸を打つ。

 「くねひと」(1991年、8ミリ3分)は、ビルの壁の亀裂など街の「気になるもの」のスケッチ。「破壊市を探して」(1992年、8ミリ15分)は、過去の作品に出演していた犬飼久美子の死去の知らせを聞いたことがきっかけになった作品。外に開こうとする思いは伝わるが不発気味。「6月15日の赤いバラ」(1993年、8ミリ3分)は、「虚港」のために撮影された断片。「コージョルの鳩」(1996年、8ミリ3分)は、インド映画への疑問を、強引に日本への皮肉につなげた力技の小品。「8ミリシューター論理狼」(1998年、8ミリ3分)は、自身のパロディ化。おちゃめな側面をみせる。「夜にチャチャチャ」(1999年、8ミリ14分)は、1999年にも観た。カメラからレンズを外して撮った作品。山崎監督の声が響き渡る。「モーロー牛温泉」(2000年、8ミリ3分)は脱力的なナンセンス。21世紀の山崎作品は、新しい広がりを見せていくのか。そういえば、「グータリプトラ」にも、いくぶんナンセンスの側面があった。

 それぞれの作品の間にある振幅や落差の大きさは、驚くべきものがある。そして短編個々の面白さとともに、まとめて観ることで、それが長編へと組み込まれていく様子も知ることができた。さらに、過去の自作を引用・改編していく自在な境地にまで、すでに達していそうな気配も感じた。20世紀の全自作を再構成した、スピード感あふれる壮大な新作が生まれるかもしれない。


 ガールファイト 「girlfight」の画像です

 2000年作品。アメリカ映画。110分。配給=松竹。監督、脚本=カリン・クサマ(Karyn Kusama)。プロデューサー=セーラ・グリーン、マーサ・グリフィン、マギー・レンジィ。エグゼクティブ・プロデューサー=ジョン・セイルズ、ジョナサン・セーリング、キャロライン・カプラン。撮影=パトリック・ケイディ。編集=プラミー・タッカ―。プロダクションデザイナー=スティーブン・ビアトリス。音楽=テオドール・シャピロ。ダイアナ・グズマン=ミシェル・ロドリゲス、ヘクタ―=ジェイミー・ティレリ、サンドロ=ポール・カルデロン、エイドリアン=サンティアゴ・ダグラス、マリソル=エリサ・ボカネグラ、教師=ジョン・セイルズ


 2000年サンダンス映画祭でグランプリ、最優秀監督賞を受賞した。カリン・クサマは、父親が函館出身、日米ハーフの女性監督。20歳前半にボクシングを始めた経験を持っている。孤独で禁欲的なボクシングの決勝戦で、恋人たちを闘わせるというアイデアは、なかなかのもの。攻撃的でひたむきなラブシーンだ。ここには「ファイト・クラブ」(デイビッド・フィンチャー監督)のような、屈折したいかがわしさはない。まっすぐなに青春映画に素直な賛辞を送ろう。

 何といっても、ダイアナ・グズマン役のミシェル・ロドリゲスを賞賛しない訳にはいかないだろう。まず、オープニングでの、むき出しの怒りをあらわにしたまなざしが衝撃的。全身から日常への激しいいらだちを放っている。そんな彼女がボクシングの試合を見つめる時には、はっとするような可憐な表情をみせる。この落差がリアルだ。トレーニングに励むひたむきな横顔も美しい。フラメンコのリズムをアレンジしたテオドール・シャピロの音楽も印象に残った。


 LOVE SONG 「LOVE SONG」の画像です

 2001年作品。日本映画。100分。配給=ソニー・ピクチヤーズエンターテインメント。監督・脚本=佐藤信介。プロデューサー= 一瀬隆重。音楽プロデューサー=須藤晃。撮影監督=河津太郎。美術=斎藤岩男。編集=田中慎二。松岡=伊藤英明、彰子=仲間由紀恵、哲矢=一條俊、千枝=原沙知絵、和美=三輪明日美、石川=津田寛治、美代子=石堂夏央、香織=奥貫 薫、高橋=坂本 真、自転車の青年=長谷川朝晴、小林=石倉 力、小野=木下明水、岩間=坂田聡、鈴木=マギー、レコードの店員=六角慎司


 主題歌に尾崎豊の曲が流れることで、注目された。しかし、尾崎の曲とは似ても似つかないつまらない映画だった。尾崎の歌には、青春の切実さが込められている。赤裸々な憤り、怒り、怯え、不安、とまどいが心を打つ。この作品は、夢を求める若者を描いてはいるが、表面をなぞるだけ。ストーリーは、すかすかのまま拡散し、紋切り型の結末を迎える。あまりにも平凡な終わり方で、欲求不満がつのった。

 仲間たちとレコード店を開きながら友人に裏切られて挫折した松岡を演じた伊藤英明には、もっともがき苦しんでほしかった。「ブリスター!」(須賀大観監督)の方が、何倍もいきいきと青春していた。高校最後の夏に松岡を訪ねて北海道から東京に出てきた彰子を演じた仲間由紀恵も、不完全燃焼。「リング0〜バースディ〜」(鶴田法男監督)の方が、まだ魅力的だった。ファンとしては、こんなふやけた作品で、尾崎の曲を聞きたくなかった。


 日本の黒い夏 冤罪 「DARKNESS IN THE LIGHT」の画像です

 2000年作品。日本映画。119分。配給=日活。監督・脚本=熊井啓。製作総指揮=中村雅哉。企画=猿川直人。製作=豊忠雄。原作=平石耕一「NEWS NEWS」。照明=矢部一男。美術=木村威夫。音楽=松村禎三。録音=久保田幸雄。編集=井上治。監督補=錦木康敬。キャスティング=吉川威史。裏作担当=宮川偉治。笹野誠=中井貴一、花沢圭子=細川直美、島尾エミ=遠野凧子、浅川浩司=北村有起哉、 神部俊夫=寺尾聰、野田太郎=加藤隆之、藤島教授=藤村俊二、鈴木捜査一課長=梅野泰靖、小田営業部長=平田満、古屋教授=岩崎加根子、神部の妻=二木てるみ、大出女医=根岸季衣、吉田警部=石橋蓮司、永田威雄=北村和夫


 「日本の黒い夏 冤罪」とは、かなり抽象的な題名だ。素直に「松本サリン事件 冤罪」で良かったのではないか。まず、映画的な盛り上げを意識的に避けた構成が心に残った。サリンによる被害者の中毒症状の衝撃的な場面から始め、マスコミや警察の対応、そして冤罪へと話を進めていくのが、普通だろう。しかし熊井啓監督は、高校の放送部が地元のローカルテレビ局を訪れるシーンから始め、冤罪事件が何故起こったのかを冷静に追求していく。物語は、たえずテレビ局の会議室に戻り、当時の状況を分析する。そして、冤罪が明らかになった後、初めて人々がばたばたと倒れる事件の映像が流れる。ちぐはぐに見えるこの構成を、下手と断ずることは易しい。しかし私は、意図的にセンセーショナルな展開を避けた監督の志の高さを評価したいと思う。あざとさが微塵もない格調の高い作品である。

 冤罪事件は何故起きるのか。マスコミが犯している過ちは何か。しっかりとした事実確認よりも、不確実であってもスクープ性が優先されるマスコミの実情が明らかにされていく。それが警察の情報操作に利用される側面も。高校性の取材に応じた地元テレビ局は、取材力では他社にかなわなかったものの、事実の裏をとる慎重な報道を行った。スクープ性に傾きがちな東京主導の他社と違い、誤報の恐ろしさを知る報道部長の判断が生かされたとともに、現場取材に徹した地元の強みが発揮されたといえる。この作品は、特にマスコミ関係者に観てもらいたいものだ。それにしても地下鉄サリン事件がなかったら、松本サリン事件がどのような展開になっていたのかを考えると、そら恐ろしい気がする。


 郡上一揆 「郡上一揆」の画像です

 2000年度作品。日本映画。112分。製作・配給=映画『郡上一揆』製作委員会。製作=大池裕、坂本由之、神山征二郎。プロデューサー= 永井正夫、平野寛。監督=神山征二郎。原作=こばやしひろし(戯曲「郡上の立百姓」より)。脚本=加藤伸代、神山征二郎。撮影=南文憲。美術=春木章。照明=小林芳雄。録音=福田伸。編集=西東清明。テーマ音楽=姫神(星吉昭)「大地炎ゆ」より。音楽監督=和田薫。定次郎=緒形直人、かよ=岩崎ひろみ、喜四郎=古田新太、孫兵衛=永島敏行、四郎左衛門=林隆三、助左衛門=加藤剛、平右衛門=前田吟、善右衛門=山本圭、秩父屋半七=篠田三郎、たつ=林美智子、つる=日色ともゑ、はる=須藤温子、清兵衛=犬塚弘、伊藤弥一郎=平泉成、七右衛門=樋浦勉、増右衛門=並樹史朗、依田和泉守=高橋長英、青木次郎九郎=内藤武敏、秋山亀之助=尾美としのり、金森兵部少輔頼錦=河原崎健三、喜平治=鈴木浩介、由蔵=岡野進一郎、藤次郎=田中壮太郎、弁次郎=有薗芳記、治右衛門=浜田晃、伝兵衛=平尾仁、太郎右衛門=井上智之、藤吉=神山兼三、長助=内田紳一郎、吉右衛門=筒井巧、弥十郎=竹内修、彦吉=松渡治郎、嘉右衛門=深山義夫、三郎左衛門=渡辺健、甚助=榎本貴、三郎右衛門=出光秀一郎、甚兵衛=島英臣、吉郎治=丹野由之、善左衛門=中野誠也、本多長門守=山下洵一郎、佐吉=安藤一夫、すえ=箕浦康子


 江戸時代中期の宝暦年間、現在の岐阜県に位置した美濃国郡上(ぐじょう)藩で、増税に反対する農民一揆が起こった。この作品は、その史実に基づくもの。製作委員会や支援組織ができ、「県民映画」としてつくられた。困窮した農民が短期的に闘うという一揆のイメージとは、かなり違う。増税が行われた場合の困窮を予想し、作戦を立て、長い時間とお金をかけて交渉していく。最後は、闘いは勝利するものの、首謀者は獄死するか、さらし首にされる。現在の祭りのシーンから始まり、その平凡さにイスからずり落ちそうになったが、物語が進むうちに俳優の熱演もあり、映像は熱をおびてきた。武士の役が多かった加藤剛を、農民の智恵者としてキャスティングしたことで、イメージが大きく変わったと思う。

 ストーリー運びは悪くない。しかし、観ていて複雑な思いにとらわれた。製作者の意図は何だろう。社会のために命をかけて闘うことを賞賛しているのか。単にその地域の史実を紹介しようとしているのか。一揆に立ち上がり、命をかける人々の迷いや苦悩はあまり描かれない。何故か。家族の心配や哀しみも慎ましやかに表現されている。何故だろう。もっと深刻なあつれきや激しい葛藤が描かれても良いのではないか。なかでも、さらし首になった父親の姿を誇らしげに子供に見せる母親の姿が、どうしても納得いかない。駄作ではけっしてないが、今一つ心に響いてこなかった。


 ブレアウィッチ2 「Blair Witch 2= Book of Shadows」の画像です

 2000年作品。アメリカ映画 。91分。配給=日本ビクター・K2エンタテインメント。監督=ジョー・バーリンジャー。 製作=ビル・カラッロ。脚本=ディック・ビーブ、ジョー・バーリンジャー。撮影=ナンシー・シュライバー(A.S.C.)。編集=サラ・フラック。音楽総合プロデューサー=マリリン・マンソン。ジェフ・パターソン=ジェフ・ドノヴァン(Jeffrey Donovan)、エリカ・ギーアセン=エリカ・リーアセン(Erica Leerhsen)、トリステン・ライラー=トリステン・スカイラー(Tristine Skyler)、スティーヴン・ライアン・パーカー=スティーヴン・バーカー・ターナー(Stephen Barker Turner)


 「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(エドアルド・サンチェズ、ダニエル・マイリック監督)の続編。映画がヒットしたために、バーキッツヴィルには観光客が押し寄せていた。ウェブでグッズを売っていたジェフ・パターソンは、「ブレアウィッチ・ハント」を企画し、一癖ある観光客とともに森に入っていく。 そして、恐ろしい出来事が。なかなか面白い展開だなと思っていたら、話はどんどん横道に逸れて、B級ホラーの終末へ。 思いつきは良かったのだが、それだけに終ってしまった。

 自称・魔女として登場するエリカ・ギーアセン役のエリカ・リーアセンがなかなか魅力的。ホラーには、こういう存在が必要です。ただ、怖くない。前作は、手ブレの映像が恐怖を引き出した。今回はチラシにもあるように「酔いません」。しかし、チラシにあるように「ブレアの呪いの謎が全て明かされ」る訳ではない。ただ、事実と写っていた映像が大きく異なるという結末は、映像の相対化という意味では、前作とつながっているとも言える。深読みすればの話だが。

 


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