ポーランド旅を写真ご案内します

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2010・05・13(木)〜20(木)まで8日間

ポーランド見出し

ポーランド国旗
ポーランド共和国の国旗

首 都… ワルシャワ
人 口… 3850万人
通 貨… ズウォティ(1ズウォティ≒33円)
言 語… ポーランド語
面 積… 32万平方km(日本の約8割)
宗 教… 国民の95%がカトリックの信者

2010年はポーランドが生んだ作曲家兼ピアニストのフレデリック・ショパン生誕200周年!1927年ワルシャワで第1回ショパン・ピアノ・コンクールが開かれ、5年ごとにショパンの曲に限定して行われるショパン国際ピアノ・コンクールはピアニストを目指す者にとっては最高の登竜門で世界的に最も権威のあるコンクール。
今年の第16回はショパン命日の10月17日前後3週間にわたって開催され、多くの日本人も出場するようです。

「広島原爆ドーム」と共に世界に2つだけの「人類が忘れてはならない負の遺産」世界遺産「アウシュヴィッツ強制収容所」と第2アウシュヴィッツ「ビルケナウ強制収容所」…。
1927年に悲願の独立を果たしながら異民族のドイツやロシアに繰り返し侵略を受け、さまざまな歴史に翻弄されてきたポーランド。ナチス・ドイツのポーランド侵攻からはじまった第2次世界大戦で廃墟と化した美しいワルシャワの町。

ショパン生誕200年の記念の年に特に選んだ初めてのポーランド。「人類の負の遺産」をも深く心に刻みながら今までとまた違った思い出深い旅となることでしょう。

日本とポーランドを結ぶ直行便はなく関西国際空港からフィンランド航空11:10発で森と湖の国フィンランドのヘルシンキへ、所要時間は約10時間。
ヘルシンキ空港は北欧4カ国訪問時以来で、懐かしいムーミングッズや美味しいKarlFazerのチョコレートがありました。
2008年3月30日よりシェンゲン協定により乗り継ぎの際に初めに入国審査を行えばその後施行区域内の移動に関しては入国審査が省略されています。
ヘルシンキからワルシャワへ所要時間は1時間40分でワルシャワ・オケンチェ国際空港(別名フレデリック・ショパン空港)へ。夏時間中で日本との時差は−7時間。夕刻6:05分着、8時くらいまで明るい。
関空からの便が減りポーランドへは乗り継ぎ便しかないが、スムーズに陽の高いうちに到着。宿泊のホテルは「メルキュール フレデリック・ショパン」。ロビーではピアノの生演奏と大きなショパンの顔写真が飾られている。スウィートメロディーからショパンの「ワルツ」のメロディーと共に美しきポーランドの旅をご覧ください。



ポーランドは北にロシアとバルト海、東にベラルーシとウクライナ、南にスロヴァキアとチェコ、西にドイツと接し、日本より国土面積は少し小さいのに90%が平野で広々している。

地図から国名が消える経験もし、歴史に翻弄されてきたポーランドはショパンやコペルニクス、キュリー夫人という3人の偉人を生みだした国であり、ポーランド人が一番誇りに思う人という前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(1920・5・18〜2005・4・2)の出身地でもある。
歴史地区の旧市街や新市街と共に6つの世界遺産を巡りながら、ポーランドの歴史や人々の国を愛し文化を大切にする心、情熱と誇り高き国民性の一端に触れてみたい。



ポーランドの首都ワルシャワは満開のマロニエの花と大きな木が茂りとても綺麗な町。
イギリスのロンドンのように町の中に緑がいっぱいの大きな公園がいくつもある。
ポーランド人は多くイギリスで働いており、イギリス人はポーランドで働いている人が多いと聞いたが、旅行中延々と続く緑や大きな公園はイギリスとよく似てとても美しい国だ。
最初に訪れたサスキ公園はワルシャワの中心部にある広大な公園。1925年に造られた無名戦士の墓があり、儀礼用の軍装に身を包んだ衛兵が直立不動で見守っている。毎時丁度に大統領官邸とのあいだで衛兵交代式が行われている。
綺麗なサスキ公園と噴水
綺麗で大きなサスキ公園は市民の憩いの場
大きな大きなマロニエの樹
満開のマロニエの樹を見上げる
  
サスキ公園の無名戦士の墓
無名戦士の墓を見守る衛兵
毎時丁度に衛兵の交代式
24時間毎時丁度に衛兵の交代式が行われる

ヨーロッパで最も美しい公園のひとつと言われているワジェンキ公園は18世紀に造営されたもの。「ワジェンキ」とはポーランド語で「お風呂場」の意味。公園内の池の脇に建つワジェンキ宮殿(水上宮殿)は18世紀最後のポーランド王の夏の離宮として建てられ内部には素晴らしいお風呂場が造られた。
緑いっぱいの散歩道
広いワジェンキ公園
満開のライラック
公園内のライラックの花が満開
  
水上宮殿=お風呂宮殿
18世紀に建てられたワジェンキ宮殿
水上宮殿の前庭
広々とした前庭と池
  
白い館
4面同じに建てられた白い館
白い館
公園内に散在する離宮
  
ワルシャワ中心部から南のはずれにあるヴィラヌフ宮殿は17世紀に建てられた王の離宮だったが今は博物館となっている。ポーランドの子供たちの遠足では絶対行く所とか。バロック様式の建物は壮麗で美しく、第二次世界大戦で唯一残った宮殿でもある。
小ベルサイユとも言われコの字型の建物に後に美しい庭園、建物の色もベルサイユ宮殿に似ている。
バロック様式の建物
博物館となっているヴィラヌフ宮殿
ベルサイユ宮殿のよう
とにかく綺麗な宮殿
  
高さに驚く文化科学宮殿
ソ連が造った文化科学宮殿
高さ234m、37階建ての高層ビル。塔の先が雲に隠れるくらい高く、アレッ!!ロシアのモスクワ大学とよく似ている…と思ったらこの文化科学宮殿はソ連のスターリンが贈った建物で1952年から4年もかけて造られたそうだ。テレビ局やホール、各種研究所、映画館、劇場などがあり、ショパン・コンクールの予選の会場にもなったとか。ワルシャワの中心部にあり高層建築が少ないので見渡せば必ず見えている。市民には威圧的で支配されているように感じるらしいこの宮殿は不評らしい。言われてみれば確かに町の雰囲気にはちょっと不釣合いの違和感のある建物のようにも〜〜。
  
世界遺産 「ワルシャワ歴史地区」 第2次世界大戦末期ナチス・ドイツ軍は建物を焼き払い20万人以上の犠牲者と8割以上の市街が廃虚となり、都市の形をとどめぬまでに破壊されてしまったのです。しかし戦後にワルシャワ市民の熱い不屈の精神で市民の記憶をもとに建物の一つ一つの色・形など寸分変わらず見事に復元している。ワルシャワ歴史地区の旧市街広場には首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の碑や博物館になっている旧王宮がある。旧市街の中心地・旧市街市場広場にはワルシャワ地名の語源となった伝説の人魚像が建っている。周囲には当時のままの姿に忠実に再現した多くの建物があり、まるで時が止まっているような美しい街だ。郵便局や民芸品店、レストラン、お花屋さん、琥珀のお店などがあり多くの観光客でにぎわっている。
旧市街の北にはバルバカンという15〜16世紀に造られたバロック様式の砦がある。旧市街同様見事に復元されている。
旧市街広場
旧市街広場のジグムント3世の像と旧王宮
旧市街市場広場
旧市街市場広場の人魚像と復元された建物
  
バルバカン
1954年に復元されたバルバカン
バルバカン
重厚なレンガ造り
  
ポーランドが生んだノーベル賞学者キュリー夫人(1867〜1934)は私達にもなじみの深い人である。夫のピエール・キュリーと共にラジウムとポロニウムを精製発見し1903年ノーベル物理学賞受賞。夫亡き後1911年にはラジウムでノーベル化学賞受賞。女性として最初のノーベル賞受賞者であり、物理学賞と化学賞を受けた唯一の人物である。
キュリー夫人の生家は現在博物館として公開され、資料や実験道具の数々、写真などが展示されている。3階建ての建物の壁に小さな金属製プレートが埋め込まれている。
キュリー夫人の生家
キュリー夫人生家
壁にかけられたプレート
壁に埋め込まれたプレート
  
フレデリック・ショパン(1810.2.22〜1849.10.17)はワルシャワ郊外(西へ50q)のジェラゾヴァ・ヴォラで生まれました。6歳の時に音楽講師の指導を受け、幼いショパンは音楽とは何かを吸収し、初めての曲「ポロネーズト短調」を作ったのは7歳のときでした。1818・2・24ポーランド大統領官邸で公開演奏の幕があきました。8歳で幼くして社交界の寵児となったのです。第2次世界大戦で全壊だったワルシャワで奇跡的に全壊をまぬがれた聖十字架教会。パイプオルガンはショパンが奏でていました。16歳でワルシャワ音楽院入学、19歳で首席で卒業しています。
1830年20歳の時、郵便局前から出る馬車に乗りワルシャワを去りウィーンからパリへ向かいました。「異国の地で死ぬということはなんと寂しいことだろうか…」と。政治亡命者となったショパンは祖国に帰ることはないと思っていたようです。
20歳でワルシャワを離れたショパン、パリの社交界で大人気作曲家として活躍し故郷に思いをはせる曲もたくさん作られています。ショパンのピアノ曲は多くの作曲家たちに感動を与えました。
後半生は大部分をフランスで過ごしましたが、ワルシャワはショパンの心の風景であり望郷の思いは終生止むことがありませんでした。病弱で39歳の若さで亡くなりましたが、遺言により姉ルトヴィカによってショパンの心臓がかろうじて故郷ワルシャワに持ち帰られ、聖十字架教会の石柱の下に埋められ静かに眠っています。彼は死の間際まで作曲に励んでいました。主を失ったグランドピアノ、人生の半分を外国で暮らしたショパン、しかし彼の心の中はいつもワルシャワであったのです。
2010年の今年はショパン生誕200周年の記念の年。ワルシャワ大学の前にあるポーランドを離れる直前まで住んでいた家、ワジェンキ公園のショパン像や毎週開かれているそばのコンサート会場、心臓が埋められている聖十字架教会などワルシャワでの足跡をたどり、ジェストラ宮殿にてピアニスト「マリア・シルビア」さんのショパンリサイタル・ミニコンサートも楽しみました。ワルツ、ピアノ協奏曲、幻想即興曲、ノクターンなど私の耳にもなじみの曲はショパンの生涯に思いを馳せるひとときとなりました。ワジェンキ公園のベンチに腰をかけるとショパンのメロディーが流れてきます。
  
ショパンの肖像画
ジェストラ宮殿にあるショパンの肖像画
   
聖十字架教会の正面
聖十字架教会の正門
ショパンの心臓はこの柱の下に埋められている
ショパンの心臓が埋められている石柱
  
毎週コンサートが開かれている
ワジェンキ公園にあるショパンの像
ポーランドを離れる直前まで住んでいた家
ワルシャワ大学の前にあるポーランド最後の家
  


   
早朝ワルシャワからスーツケースのみ一足早く観光バスで出発。私達はワルシャワ中央駅から国際急行列車(1等)コンパートメント(6人の個室席)に乗車し、南部にあるクラクフへ向かう。綺麗な列車、ゆったりとした広い座席に延々と続く平野や雑木林を見ながら、ソフトドリンクのサービスを受け、旅の友と語らいながら約3時間を過ごす。お昼前到着したクラクフの駅には観光バスがすでに到着して待っている(ドライバーのユーレックさんお疲れ様でした)。
国際急行列車
国際急行列車1等にてクラクフへ
列車の内部
1等車のコンパートメントは左側
 

  
 
かって永くポーランド王国の首都であったクラクフ。第2次世界大戦でポーランドの他の都市が壊滅的な打撃を受けた中、クラクフにはドイツ軍の司令部が置かれていたため戦災を免れたという。人口75万人、18世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われ、王が住んでいたヴァヴェル城や旧市街をはじめ町全体に13〜14世紀の古い建物が多く残っており、ポーランドの「京都」とたとえられている。世界遺産「クラクフ歴史地区」には毎年欧州各国から多くの観光客が訪れているそうです。
ヤギェヴォ大学
ゴシック様式のヤギェヴォ大学の中庭
ヤギェヴォ大学は1364年にポーランドで最初に創設された歴史ある大学、コペルニクスや前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の母校でもある。ゴシック様式の建物で中庭は回廊に囲まれている。いろいろな催しに使われるとか、訪れた時はたて看板にポスターがたくさん貼ってあった。
     
ヴァヴェル城
ヴァヴェル城・金色のドームが大聖堂
ヴァヴェル城
ヴァヴェル城はヴィスワ川畔にそびえている
  
馬車もいる旧市街の広場
中世そのままという感じの佇まい
旧市街広場
旧市街広場の人達
  



  
 
クラクフの南東15kmの所にあるヴィエリチカの世界遺産「ヴィエリチカ岩塩抗」 は地下300mに総距離300q、1250年頃から1950年代まで稼働していた世界有数の岩塩採掘場が広がっている。エスカレーターで地下64m下り、坑道や階段を歩いて地下135mの所まで公開されている部分を見学する。気温は年中14℃で少し寒い。女性ガイドの案内で進むが地下通路は迷路のようで迷子にならないように注意が必要。坑道の周りはすべて塩、30kgもの塩を背負って200段もの塩の階段を上っていたという採掘の様子や採掘工の像、コペルニクスの像、礼拝堂と天井から下がっている見事なシャンデリア、キリストの最後の晩餐の様子など数々の彫像が全て塩でつくられている。幾つもの地底湖や地下に広がる塩の芸術で飾られた規模の大きな世界は驚きの連続だった。
岩塩抗の入り口
岩塩抗の入り口の建物
塩のトンネル
坑道の周りもすべて塩
  
聖キンガ礼拝堂
採掘跡につくられた広々とした聖キンガ礼拝堂
塩のシャンデリア
大きなシャンデリアも祭壇もすべて塩
  
急な塩の階段を下りる
急な塩の階段
コペルニクスの像
地球儀を掲げるコペルニクスの像も塩の彫刻
  



  
 
人類が忘れてはならない負の世界遺産「アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所」
ポーランド南部、オシフィエンチム市郊外にある「アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所」はホロコースト、第2次世界大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺のための施設のことです。ドイツにはすでに強制収容所はありましたが、1940年第2次世界大戦の勃発によりドイツ領となったポーランドのオシフィエンチムにまずドイツア名ウシュビッツとして収容所を造り、いろいろな国のユダヤ人、ナチス政権に反対していた人々、刑事犯などを送り大量虐殺をしたのです。
ナチスの思想には反ユダヤ主義、反民主主義、反共産主義とドイツ民族の優越がありました。人種的に純粋な社会を築こうとし、ユダヤ人の絶滅、そしてスラブ人とジプシーとその他の民族の絶滅を計画していたのです。
アウシュビッツ収容所は交通の便も良くヨーロッパ各地から110万人ものユダヤ人が連行されています。ユダヤ人の国籍はポーランド、フランス、ベルギー、ハンガリー、イタリア等々……ユダヤ人のほか14万人のポーランド人、2.3万人のロマ人(ジプシー)などが犠牲になっています。平均寿命3ヶ月と。
28棟の収容棟があり、博物館として公開されている。当時撮られた顔写真や情景などの貴重な資料、部屋いっぱいの女性の頭髪、子供の服や靴、めがね、スーツケースなどが想像を絶する量で保存展示され、焼却炉、ガス室、立ち牢など当時のままの恐ろしい情景。あいにくの雨模様、気温がぐっと下がって4℃。ナチス・ドイツの最高司令官ハインリッヒ・ヒットラーの指示に従ったというなおさらに痛ましい胸に迫る収容所の実態。広島の原爆ドームと共に2度と同様の惨劇がおきないよう当時のままに保存され、「負の世界遺産」として私達の心に深く刻まれる場所となっている。
入り口の「ARBEIT MACHT FREI」働けば自由になると書かれたスローガン。よく見ると「ARBEIT」の「B」の文字が上下反対に書かれている。収容者達がせめてもの抵抗の証として作ったのだろう…と。
収容所入り口の文字
入り口のBの文字が上下反対に
花束が絶えない…
銃殺用の「死の壁」
  
収容棟が並ぶ
収容棟
有刺鉄線が恐ろしい
380ボルトの高圧電流が流された有刺鉄線
  
裸のままで入れられたガス室
唯一内部撮影が許された300人収容のガス室
当時のままの焼却炉
ガス室から隣の焼却炉へと…
  
  
アウシュビッツ強制収容所から2km程離れた所にある膨大な敷地の第2アウシュビッツ「ビルケナウ」 1944年には9万人以上の囚人(ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなど)が収容されていました。300棟以上の木造の囚人棟があり、アウシュビッツを超える最大規模の強制収容所であり一大殺人工場だったのです。粗末な囚人棟、13qを超える収容所の囲い、10qに及ぶ収容所内の道路と2km以上の線路、死の門をくぐって鉄道の引き込み線がまっすぐに敷地内にはいりこんでいる。国際慰霊碑が建ち20ヶ国の小さな慰霊碑も並んでいる。
線路が収容所の中にのびていく
死の門をくぐって伸びる線路
粗末な木造の囚人棟
囚人棟は高圧の有刺鉄線が囲っている
  
監視台
監視台から囚人棟を見張っている
囚人棟の中
寒くて暗い収容棟内部
  



  
 
クラクフの街から高速道路に乗り、ポーランド南西部のシヴィドニツァへ。車窓からの風景は一面の菜の花畑が満開で麦畑とのグラデーションが美しい。
世界遺産「シヴィドニツァの平和教会」は1618年に始まった新旧キリスト教国の30年戦争で敗れたプロテスタント派がカトリックよりさまざまな条件を課せられ、釘一本も使わず木とわらと土壁だけで造った美しい教会。1655年に完成。3500ものオークの木が使われ現在も95%オリジナルを留めている。教会の内部は広く7000人が入ることができ、一見大理石のように見える祭壇や天使の彫刻もすべて木でできているのでびっくりする。
シヴィドニツァの平和教会
ヨーロッパ最大級の木造教会
すべて木造に驚く
素晴らしい内部、天使の彫刻もすべて木造
  



  
 
ポーランド建国の968年〜1039年にかけてポーランド王国の首都だったポズナニ。古くからワルシャワとベルリンを結ぶ東西交易の中継地として栄えていました。現在ではワルシャワ、クラクフに次いでポーランド第3の都市として発展しています。やはり第2次世界大戦でドイツとソ連の両方から侵略を受け大部分が消失しています。町の中には数多くの中世の建物が随分きれいな状態で残っていると思ったが、戦後の復興期に戦災によって破壊されし尽くされた建物を当時のままに忠実に復活させたそうだ。ポーランドの人達の国を愛する熱い不屈の精神を感じ取ることができました。
旧市役所
旧市場広場にある市庁舎
中世の歴史的建造物
旧市庁舎のからくり時計
  
旧市街広場の建物
旧市街広場の趣のある建物
旧市街広場の建物
新旧のビルが並び博物館やカフェも
  
 
ポズナニ大聖堂は中州の島に浮かぶポーランド最古のキリスト教会。最初に造られたのは10世紀、3度消失し現在の建物は14〜15世紀のスタイルでゴシック様式を生かす形で再建されている。大聖堂の中に入るととても大きく、王族の墓碑、宗教画、彫刻、まばゆいばかりの豪華な金の装飾の礼拝堂などがある。
ポズナニ大聖堂
ポーランド最古のポズナニ大聖堂
すべて金の礼拝堂がある
豪華な金の礼拝堂
  



  
 
ポズナニからヴィスワ川の流れに中世の面影を映すトルンへ。地動説を唱えたポーランドが誇る偉大な天文学者「コペルニクス」が生まれた町である。古くはバルト海沿岸のクダンスクで採れる琥珀をクラクフやワルシャワへ運んだ町として、またドイツ騎士団の根拠地の一つでどことなくドイツ風の雰囲気のある世界遺産「中世都市トルン」を訪れます。
豪華な郵便局舎
立派な郵便局舎
東洋美術館
1311年と1891年に再建された美術館
  
旧市街広場の建物
レンガ造りの16世紀の建物
今は博物館になっている
ゴシック様式の旧市庁舎
  
ポーランドが誇る偉大な天文学者コペルニクス(1473.2.19〜1543.5.24)はトルンの町で生まれ、地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)を提唱しました。生家は旧市街広場の一角にあり、6階建ての建物で現在は博物館となっている。家の模型、クラクフのヤギェヴォ大学当時の天文学を勉強していた写真、地動説という重要な発想、手書きの本や肖像画(いずれもコピー)、ガリレオガリレイなど彼の地動説を支持した人の写真、科学・医学・心理学・経済学など好奇心旺盛でいろいろなものに挑戦して勉強した様子、地動説を勉強していた定規・日時計・太陽を取り巻く惑星の月の月令を測る機械など6階までたくさん展示されていて興味深く見学できる。
  
コペルニクスの生家
博物館になっているコペルニクスの生家
   
コペルニクスの像
旧市街広場にそびえるコペルニクスの像とかわいい子供達
   
 
ヴィスワ川に面して残るドイツ騎士団城跡 
1454年トルン市民軍の蜂起に遭いほとんど破壊され、赤いレンガの所が修復されたくらいで保存されている。夜にはライトアップされるようだが雑草が生え廃虚のままの様子が印象的だ。
ドイツ騎士団の砦
ドイツ騎士団城跡の入り口
騎士団のプレート
騎士団の砦にあるプレート
  

現在も破壊されたままの状態

雑草が城跡を覆う
  



  
 
ポーランドのお料理はスープ類が特に美味しいです。多くの野菜、ニョッキなどのパスタ類、ゆで玉子、ライ麦、ソーセージ、魚介類など中の具が色々な組み合わせでたくさん入って栄養豊富。家庭料理の参考になります。最初に供されるスープがいつも美味しいので後に続くお料理もきれいでおいしいです。
旅行の前に見るポーランドの天気予報は20度前後となっていましたが予報より随分寒い日がありました。温かい美味しいスープは身も心も温まります。
   
赤カブのスープ
バルシチ
ライ麦のスープ
ジューレック
マッシュルームのスープ
マッシュルームのスープ
  
ニョッキが美味しい
ニョッキと香草のスープ
野菜のスープ
クルプニク
ポーランド風カツレツ
コトレット

チキン・ビーツ・人参
ロールチキン
お米、ミンチ、玉ねぎのロールキャベツ
お米のロールキャベツ
ポテトパンケーキ
ポテトパンケーキ
  
煮込み料理
ビゴス
大きな蒸し餃子
ポーランド風餃子 ピエロギ
メダル型の丸いステーキ
メタリオン


(update:2010/06/30)
旅の撮影:CASIO EXILIM-Z300 10.1MEGA PIXELS


 

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