kinematopiaの3Dロゴです

kinematopia1999.09


 「『オースティン・パワーズ・デラックス』(ジェイ・ローチ監督)が公開された。第1作がとても気に入ったので、続編を撮ると聞いて不安だった。しかし、冒頭のシンクロナイズド・スイミングばりのド派手な水中レビューを観て、不安は霧散した」「全裸のオースティン・パワーズの局部をタイトルが隠すアイデアに、ジェーン・フォンダ主演のエロティックSF『バーバレラ』を思い出した」「ストーリーはいい加減さの爆発。しかし、面白い。おバカ映画の王道を突き進んで恥じるところがない。『007』シリーズだけではなく、『スターウォーズ エピソード1』もちゃっかりいただいてしまう抜け目のなさは天晴れ」「バカにできないおバカ映画だ」

 「今回は、ドクター・イーブルと8分の1のクローン『ミニ=ミー』が笑わせてくれる。そして、何とタイムマシーンが登場。ここでも、コテコテのパロディが炸裂する。タイムパラドックスを蹴散らして、オースティン・パワーズが2人になっても全然気にしない図々しさには、頭が下がる」「歴史がぐちゃぐちゃに入り交じった現代を風刺しているなどとは、誰も思わないだろうな」「とにかく、最後の最後までギャグが満載。明るくなるまで、決して席を立たないように」

 「ウディ・アレンのファンは、どの映画を観ても満足するといわれている。私は、ほとんどの作品を観ているが、狂喜する作品と失望する作品がある。だから本当のファンとはいえないかもしれない。今回の作品『セレブリティ』には失望した」「『マンハッタン』のパロディになるのだろう、どんな仕掛けがあるのだろうと観ていたが、ほんの少しひねっただけで、意外性のない単純な反復に終った。有名俳優を詰め込めばいいと言うものではない。捨てられた小説のアイデアも活きていない」

 「ウディ・アレンの決まり役、もてるけれどどうしようもなく優柔不断な男をケネス・ブラナーが演じている。そこが見所と言いたいところだが、しっくりこない。やはりアレンの私生活のパロディという隠し味がないと、この役はリアリティが乏しくなってしまう」「このところ、新しい切り口で自らの作品を再編集してきたアレンだが、今回はあまりにも単調すぎた。せめて『地球は女で回ってる』 のようなアイデアがほしい」

 「『運動靴と赤い金魚』(マジッド・マジディ監督)は不思議な味わいのイラン映画。少年は靴屋に直してもらった妹の靴をなくしてしまい、貧しい生活を理解しているために親に言えず、自分の靴を二人で共有する不便な学校生活を始める。妹の靴をはいている少女をみつけるが、父親が盲目なのを知って何も言わずに帰ってくる」「少年も少女も多くを語らないが、そのしぐさと表情から痛いほど気持ちが伝わってくる。どうしてこんなにも子供たちの笑顔や涙に心が動かされるのだろう。子供たちの目線で素直な気持ちになっていく。さり気ないが、丁寧に仕上げた傑作だ」

 「アリ少年の困り果てた顔、少女ザ−ラの微笑みの愛らしさ。二人だけで困難を乗り越えていこうとする兄妹。貧しさゆえに心優しい。日本では、もうこのようなテーマで実写映画を撮ることはできないだろう」「マジッド・マジディ監督は、マラソンで疲れ果てた少年の足を金魚がいたわるというメルヘンをはさみ、やがて来るハッピーエンドのシーンを描くことなく映画を終える。抑制のきいた見事な配慮だと思う」

 「『バンディッツ』(カーチャ・フォン・ガルニエ監督)、『キラーコンドーム』(マルティン・ヴァルツ監督)など、とびきり面白い作品が紹介されているドイツ映画。かつての堅苦しいイメージが変わりつつある」「そして『ラン・ローラ・ラン』(トム・テュクヴァー監督)。ガンガンのジャーマン・テクノに乗せてアニメも盛り込み、痛快に爆走する。恋人を助けるために金策に走るローラ。残された時間は20分。ほんの少しのすれ違い、くい違いで結末は大きく変わっていく」

 「少しの違いで人生が変わるというのは、良くあるパターンだが、3回繰り返すしつこさがいい」「しつこいが飽きない」「81分間にアイデアをぎっしりと詰め込み、息つく暇もないほど。カメラアングルも大胆だ」「意志的な顔のローラは、『ブリキの太鼓』(フォルカー・シュレンドルフ監督)のオスカルのように超能力を持っている。叫ぶとガラスが割れる。これが、ラストの意外なハッピーエンドにつながっていくのも楽しい」

 「『エリザベス』(シェカール・カプール監督)は、第71回アカデミー賞の再優秀メイクアップ賞を受賞した。現代的なセンスによる充実したコスチューム劇。スキャンダラスで崇高なエリザベス像を打ち出した。全編を救いのない残酷さが覆い尽くしている。宗教をめぐる血塗られた争い。権謀術作の限りをつくす人々。『ドーベルマン』(ヤン・クーネン監督)のヴァンサン・カッセルの女装と乱痴気パーティだけが明るい場面で、後は抑圧的なシーンが続く」

 「エリザベス1世を演じたケイト・ブランシェットは確かにうまい。しかし、共感できない。登場人物は、みな存在感はあるものの好きにはなれない。監督は感情移入を拒絶して重く暗い歴史を描き出す。『恋におちたシェークスピア』(ジョン・マッデン監督)のように明るくまとめろとは言わないが、あまりにも救いがない。そして、今この映画を作る意図が伝わってこない」「まさか、こういう専制君主でなければイギリスの黄金時代が来ないというのではないだろうけれど」

 「セルフポートレートを原点に、絶えずスタイルを変えながら人間の変容と解体を追い続けている写真家・シンディ・シャーマン。彼女の待望の初監督映画『オフィスキラー』が公開された。これから始まる殺人と死体加工を暗示するタイトルは凝っていて期待が高まる。しかし、本編に入るとスタイリッシュさが薄れ、コミックB級ホラーへと転落する」「アーティストの独りよがり、嫌味さがないのはいいが、シャーマン特有の屈折したユーモアをもう少し強く押し出してほしかった」

 「長年勤めた出版社をリストラされたドリーンは、わがままな母親の介護疲れのストレスも重なり、会社の幹部や同僚を殺して自宅の地下室で弄ぶ。シャーマン自身が『ファニーなホラー』と名付けたように、奇妙な味わいで収まりがつかない」「その居心地の悪さを意図したのだとしたら、監督の狙いは達成されたと言えるだろう。ただ、この監督の個性を映画に生かすという意味では、不満も残る。次回作に期待したい」

 「多才ぶりを遺憾なく発揮したヴィンセント・ギャロの初監督作品『バッファロー'66』。ビリー出所後のトイレ捜し、そしてレイラを拉致し結婚を装って両親を訪問した時の両親の異様な態度。どんどん引き込まれていく」「ラストは、あっと驚かせておいて、ハッピーエンドに持って行った。情けないが心優しい男へのオマージュに満ちた純愛映画。個性が強いのにしっくりくるサウンド選択もグ−だ」

 「厳つい顔をしたヴィンセント・ギャロだが、身勝手さに唖然としながらも憎めなくなってくる。巧みな人間造形。そして、愛くるしいという表現がぴったりのクリスティーナ・リッチ。彼女のぽっちゃりとした肢体が、ぎすぎすした映像を温めている」「常軌を逸したアメフトファンの母親をアンジェリカ・ヒューストンが怪演していた。歌手だった父親役のベン・ギャザラもえも言われぬ不気味な味を出している」

 「スタイリッシュなキアヌ・リーブスの動き。それを上回るローレンス・フィッシュバーンのアクションの優美さ。『バウンド』で映像センスが評価されたウォシャウスキー兄弟の新作『マトリックス』は、各方面で絶賛されている。たしかに、独自のアングルからの圧倒的な銃撃戦、ヘリコプターがビルに激突して爆発するシーンの大胆で繊細な表現は、特筆に値する」

 「しかし、サイバーパンクの傑作などと言われているのを聞くと、首をかしげたくなる。むしろ、思う存分カンフーを盛り込むために仮想現実にしたというのが本音ではないか。その意味ではカンフーファンは面白くないのでは」「複雑そうに見えて、物語はひどく御都合主義だ。電話回線では移動できるのに携帯電話ではできないというのは単にアクションシーンが描けないからだろう。仮想現実を作り出しているシステム側が物理法則に縛らわれいるのも理解できない。カプセルの中で生まれ死んでいく人間が、意識が移ったからといってすぐに動けるはずがない。何故原形のまま栽培されているのかも疑問だ」「人間を支配している人工知能は、じつは間抜けなんじゃない」

 「ネオは、日常の違和感から現実を疑い始める。そしてマトリックスの存在を知る。この映画自体も刺激的で楽しいが、ひとたび疑い始めるとほころびが見え始める」「でも、それに眼をつぶるなというのが作品のメッセージなのだから、正直に『不快だった』と言っちゃおう」「もうひとつ、相変わらずの『救世主』志向も鼻につく。個個人の自発性ではなく『救世主』に頼ろうという発想こそが、私たちを自己規制させているのではないか」「死んだネオが『愛の力』(!)で蘇り、最後にはスーパーマンになってしまった。続編が作られるが、どうとでもしてくれ。どうせこの映画は、マトリックスそのものなのだから」

「札幌のまるバ会館で山田勇男監督の近作をまとめて見ることができた。山田監督は寺山修司の美術スタッフを務めた後、80年代は札幌を中心に制作。92年には『アンモナイトのささやきを聞いた』を監督し、カンヌ映画祭に招待作品となる。その後は東京に移り、作品を撮り続けている。今回はプログラム1『アヌュス・エロテーク』で『衣装哲学』(1993年、20分)『古風記』(1994年、30分)『ニッケルの夢』(1996年、10分)『ロンググットバイ』(1997年、32分)、プログラム2『ヤマビカの鞄』で『僕はずっと続けて夢を見ている』(1998年、22分)『沼』(1998-99年、12分)『檸檬』(1999年、20分)『星月塔』(1999年、15分)『プリズム』(1999年、20分)を紹介した。『ヤマビカ』とは、山田監督がピカビアに触発されてつけた名前だ」

 「『衣装哲学』は寺山修司親子をモチーフにしたもの。ゆったりとして妖しい雰囲気。小学5年生の押部麗央少年の裸体がまぶしい。『古風記』は、山田風味で太宰治の世界を切り取った。切なく震えつづけるナレーションと映像が忘れがたい。『ニッケルの夢』は、山田作品としては乾いた質感。中空な気配だけの世界がほのかな官能を醸し出す。『ロンググットバイ』は、これまでの映画との決別を思い立って、自分の『田園に死す』を目指した。かつての撮影場所を回り『自分が何もないという手ごたえを得た』という。自らの根拠をつかもうという切実さがにじむ。しかし、寺山のような帰っていくべき足場はもともとない」「山田監督の持ち味は、つかみどころのない思春期の揺れ動く叙情を大切にしているところ。それがとても懐かしい」

 「『僕はずっと続けて夢を見ている』は、『ロンググットバイ』のテストフィルムなどを使ったスケッチブック。映像はせわしなく変化するが、心に響いてこない。全体に散漫すぎる。『沼』は遠藤彰の撮影センスが光る。力強い映像と求心力のあるイメージ。新しい山田作品の可能性を感じさせる佳品。『檸檬』の男女の耽美的な触れ合いに酔う。いかにもといった焦らしにはまる快感。プラネタリウムをモチーフにした『星月塔』は、稲垣足穂に向かうためのウォーミングアップか。『プリズム』は、写真集のように映画を撮る試みが結実した作品。美しい。映像が微動しながら緊張している」「新しい山田映画の達成といえる」

 「塚本晋也監督の新作『双生児』。腐乱した動物にわいた蛆とねずみのシーンから始まる。ごく短いショットではあるが、最初から観客に塚本テイストをたたきつけた。本木雅弘が持ち込んだ企画だというが、江戸川乱歩を取り上げた点も注目させた」「『バレット・バレエ』のように全編を塚本晋也色で覆ったものではなく、多くの人たちとの協同作業を試みたものと言えるだろう。そのため、徹底したパラノイア的な暴走は味わえない」

 「本木雅弘は大徳寺雪雄と捨吉の2役を楽しんでいた。りょうは鋭角的な容姿が塚本ワールドにぴったり。美術の佐々木尚、衣装の北村道子、ヘアメイクの柘植伊佐夫が個性を発揮している」「奇抜なファッションの貧民窟の場面をもっとたくさん見たかった。半面、いつもはノイズが炸裂する石川忠のサウンドはややおとなしい。東宝という制約の中でカルトな作品を作り上げた努力は認めるが、限界もまた感じられた」「しかし、狭い世界に閉じこもらず、大林宣彦監督のように挑戦しつづける姿勢は買いたい」

kinematopia1999.10


 「コーディネーター・安田和代氏による『境界の映像』と題したイベントが、1999年10月2日に札幌のフリー・スペースPRAHAで開かれた。60年代の貴重な実験映画と飯村隆彦氏の作品をまとめて観ることができる得難い企画だった」「順に観ていこう。『窓、水、赤ん坊、動き』(1959年、12分、スタン・ブラッケージ監督)は、奥さんの出産を中心に記録したもの。どーんと出産シーンを見せられて、それだけでも感動した。『モスライト』(1963年、4分、スタン・ブラッケージ監督)は、カメラなしで撮った蛾と葉のコラージュ。夢のような完成度に驚く。『サーカス・ノートブック』(1966年、12分、ジョナス・メカス監督)は、ちかちかするほど早回しの連続。上映するときには、医者を配備したらしい」

 『フライ』(1970年、25分、オノ・ヨーコ監督)は、女性への視線をテーマにした社会派作品。『ツー・ヴァージンズ』(1968年、9分、オノ・ヨーコ監督)は、時間の引き延ばしが新鮮。最近は、短い時間に多くの情報を詰め込むことが流行りだから。『愛(LOVE)』(1963年、12分、飯村隆彦監督)は、メイク・ラブをクローズ・アップで撮影したもの。当時イェール大学で上映し、大騒ぎになった。ジョナス・メカス監督に、日本の実験映画として最初に評価された記念すべき作品。『リリパット王国舞踏会』(1964年、12分、飯村隆彦監督)は、パフォーマンスを駆使したシュールな味わいのコメディ。風倉匠が主演している。『ピース・マンダラ』(1966年、5分、ポール・シャリッツ監督)は、残像を生かした骨太のコンセプトが衝撃的。しかし退屈でもある。

 「映像の可能性を鋭く追求した飯村隆彦監督のコンセプチュアル・シネマに移ろう。『イン・ザ・リバー』(1969-70年、17分)は、カトマンズ郊外の川で水浴びする男性のショットを少しずつづらしながら反復する。時間が無限に引き延ばされていく感覚。『フィルム・ストリップス2』(1967-70年、11分)は、黒人の暴動を写したコマ撮りを複雑な操作で変形している。そのテクニカルな興味よりも、この作品は映像そのものが時代の困難性を力強く訴えてくる。『シャッター』(1971年、25分)は、フェイド・インとフェイド・アウトだけを繰り返し繰り返し写しつづける。最初は酷く苦痛だった。しかし、見続けるうちに脳の普段使っていない部分が刺激され始める。いわゆるポンモン効果のように酩酊感が生まれる。『1秒24コマ』(1975-78年、12分)は、映画の基本に立ち返った実験。『シンク・サウンド』(1977年、9分)は、映像と音の同期について考えさせる。『トーキング・ピクチャー(映画を見ることの構造)』(1981年、15分)は、文字どおり観客を巻き込んで映画を見ることの意味を問い返させる試みだ」「飯村氏は、現在も映像の可能性の探究を続けている。驚異的なパワーだと思うな」

 「札幌のまるバ会館で山崎幹夫監督の8ミリを中心とした7作品が上映された。Aプログラムは『夢のライオン』(1996年、14分)『VMの漂流』(1990年、9分)『100年後』(1994年、56分)、Bプログラムは『8ミリの女神さま』(1994年、4分)『夜にチャチャチャ』(1999年、12分)『VMの夢想』(1989年、8分)『グータリプトラ』(1999年、56分)。8ミリの驚くべき可能性と山崎幹夫監督の比類のない力量に打ちのめされた」「最終日の10月3日には監督が来札し、作品を解説した。監督は、自分の中にある破滅願望と作品を作る妄想力の大切さを強調していた。 山崎幹夫監督は、1959年東京生まれだが、北大在学時代に『映像通り魔』を結成。これまでに60本以上の作品を発表している」

 「『夢のライオン』は、ほんわかとした雰囲気で、オチが決まった。『VMの漂流』のたゆたう映像に驚く。その揺らぎの心地よさ。暗闇の中で未使用のフイルムの上に現像済みのフイルムをラフに載せてペンライトを揺らせて光を当て、フイルムをしまいこんで製作した。『徹底したローテク』と監督は言っていたが、デジタルで同じ効果を出すためには非常に複雑な作業が必要だろう」「『100年後』は撮りためたフイルムを編集したもの。さまざまなジャンルの作品が入っている。多方面に挑戦し続けた監督の歴史が手に取るように分った。20年しか経っていないのに、記録されている映像は随分と古く感じる。時代の変化の早さを実感した」

 「『8ミリの女神さま』は監督のほのぼのとしたユーモアが良く出た短編。『夜にチャチャチャ』はレンズを外して像を結ばない映像にナレーションを付けている。『言葉をおろそかにしていたと思ったので何も映ってない映像にした』そうだが、ちょっと実験映画っぽい。『VMの夢想』は『VMの漂流』と同じ技法で撮られた。いつまでも眺めていたい懐かしさに満ちている」「そして『グータリプトラ』。言葉を失うほど素晴らしい。四畳半的な世界を描きながら、それを一気に開放するような清清しさがある。さまざまなアイデアに加え、コマ撮り、多重撮影で8ミリの可能性を最大限に引き出している」「監督は『当て所なく撮影したが、自分と飼い猫しか出ない、物語や会話をなくすと決めていた。昔の映画を上映して言葉の青さが恥ずかしかったので、ナレーションだけにした。風流な作品にまとめた』と解説していたが、私が今年観た邦画のベストワンかもしれない」

 「『ファザーレス』(茂野良弥 監督)は、日本映画学校ドキュメンタリーゼミによる卒業製作として、茂野良弥と村石雅也が企画、ニューヨーク大学国際学生映画祭をきっかけに海外映画祭から続々と招待を受け、98年マンハイム・ハイデルベルグ国際映画祭ドキュメンタリー部門グランプリ&国際批評家連盟賞受賞などに輝いている」「村石氏は、家族を捨てた実の父親と被差別部落出身の義理の父親に本音をぶつけ、対決する。母親にも心情を吐露する。ドキュメンタリーを製作するという動機によって。自分の切実な問題に向き合っていく」「『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)とは、別の意味で記録映画の作成が現実に関与していくスリリングな展開だった」

 「何といっても焦点は義理の父親の歴史から浮かび上がる部落差別の問題だろう。差別をきっかけに小学1年から一人で生活してきたというすごい過去を持つ義父が、村石氏に衝撃を与える。傷の深さにたじろき、同じ傷を持つ者として急速に接近する」「バイセクシャルの問題は、告白としての意味は重いが、あまり深められてない。母親の言葉によって『淋しさ』のせいにされたようで、納得いかなかった」「甘過ぎる結末などストーリーには欠点もある、撮影技術にも未熟さが目立つ、しかしそれを補って余りある人間と人間の真摯な出会いが描かれている。そのリアリティに感動する」

 「『秘密』は、『お受験』に続く滝田洋二郎監督の新作。深刻なテーマをユーモラスに描く才能が十二分に発揮され、傑作が誕生した」「斉藤ひろしの脚本も良くできている。何度か涙をしぼり取られ、最後は『やられたな』と苦笑した。妻と娘が乗っていたバスが谷底に転落し、妻の肉体は死ぬが意識は娘に乗り移る。過酷な現実を受け止めようとする不器用な夫を小林薫が熟練の芸で演じてみせた」

 「広末涼子はなんでこんなにうまくなったのだろう。『鉄道員 ぽっぽや』(降旗康男監督)でも、爽やかな演技をしていたが、まだアイドルの領域だった。今回は娘の藻奈美と妻の直子の二役(?)を演じ分けなければならなかったが、本当に岸本加世子が乗り移ったような芝居をしていた」「今年『大化け』した俳優の一人だろう。今度は汚れ役に挑戦し、個性派俳優として成長してほしいものだ」

 「『金融腐蝕列島 呪縛』(原田眞人監督)は、最近の不正融資問題を取り上げ、企業再生に努力する『ミドル世代』の誇り回復を描いた『BUSINESS PANIC』ムービー。個性派俳優が80人顔をそろえる、最近珍しい邦画で、少し得した気分になる」「そして力強くシャープな映像は、ハリウッドで経験を積んだ原田眞人監督ならではの世界だ。細部の取材を積み重ねただけあって、銀行内部の様子や株主総会の雰囲気にリアリティがある」

 「が、しかし。肝心の会社再生の過程のリアリティは乏しい。自己犠牲の少数のヒーローたちによって立ち直るほど、この社会は甘くない。『ミドル世代』の葛藤といやらしさも不足している。そして、事件の渦に巻き込まれた人たちが描けていない。北野の妻はもっとぼろぼろになるはずでは。この種のテーマで2時間以下の長さでは、苦悩する人間を表現するのは難しい」「70年代の社会派ドラマのように、じっくり掘り下げてほしかった」

「 北海道立近代美術館で映像フェスティバル99『ワイド・スクリーン フランス映像の今日』が、10月23、24の両日行われた。今回は『パサージュ:フランスの新しい美術』展に連動して企画したもの。インデペンデント・キュレータ−であるジェローム・サンスが9作品をセレクトした」「フランスは、1920年代からシュールレアリズムの作家たちが前衛的な映画を制作するという先駆的な歴史を持っているが、今回の作品を見る限り新しい地平を切り開いているようには思えなかったな」

 「『ウェット・ドリーム』(ディディエ・ベイ監督)は、1994年に発表後、何度もバージョンを変えている。囁くようなナレーションに乗ってアメリカで撮影した写真を次々に映していく。単純な構成。それでも眠くならないのは、視点の多様性があるからだろう」「『堕ちた天使』(マルクス・ハンセン監督、1997年)は、わずか45秒の作品。内容よりも、CMの間に紛れ込ませるとうアイデアが命だろう。『白雪姫リュシー』(ピエール・ユイグ監督、1997年)は、白雪姫の声優が裁判をおこして勝利する明快な作品。内容は字幕で説明し、映し出されるのは声優のハミングだけ」

 「『物の上を歩く』(マリー・ルグロ監督、1997年)は、ハイヒールが大写しになって、床に下りずにイスやソファなどを渡り歩くだけ。しかし、会場で爆笑が起きる。別の視点で家具や生活を問い返す、ハイヒールの暴力性を引き出すと言うよりもドリフターズのギャグか」「『マルコ』(ライナー・オルデンドルフ監督、1992-1997年)は、ファスビンダ−監督の『第三世代』を下敷きに、さまざまな言語が絡み、物語は交錯を深めていく。しかし、色調が統一されているので意外性は乏しい。『隣人』(フィリップ・パレノ監督、1995年)は、三人の男性のとりとめのない会話。さんざ話した後『世界を変えるのは遊びを楽しむ心だ』で終わる。つまりは無駄話の勧め」

 「『私が手を青く塗ろうと決めた日 1997年8月』(ジョルジュ・トニー・ストール監督)は、手を青く塗って身ぶりする作品。こんなパフォーマンスは60年代、70年代の作品で飽きるほど見てきた。今どきこんなの見せられても」「『美しき島』(アンジュ・レッチア&ドミニク・ゴンザレス=フォースター監督、1996年)は、コルシカ島から日本への旅を断片的な映像で構成しもの。前半はありきたりなロードムービーだったが、中盤から独自性が発揮され始める。北野武や宮沢りえの映像を取り入れているのはさすがだ」「『Riyo』(ドミニク・ゴンザレス=フォースター監督、1999年)は、一番心に染み込んだ作品。京都鴨川に沿ってカメラは移動する。高校生の男の子に旅先でナンパした横浜に住む女の子から携帯電話がかかってくる。話しがはずみ、また会うことを約束して電話は切れる。二人の姿は見えない。会話がとてもリアルで面白い。明るい話題の中から二人の孤独が伝わってくる。電話が切れた後の街の様子が、切ない気持ちに追い討ちをかける」「企画の勝利だね」

 「『スカートの翼ひろげて』(デビッド・リーランド監督)。第2次世界大戦下のイギリスでは、男たちが農地を離れて戦場に駆り出されたため、さまざまな階層の女性たちが男性の代わりに農家で働くことになり『ランド・アーミー』と呼ばれた。偶然一緒になった3人の女性、ステラ、アグ、プルーは、農場の 一人息子ジョーに特別な感情を抱くようになる。苛酷の状況の下での人々の出会いと別れ。いくらでも観客を泣かせる感動的ドラマに仕立てることができるテーマだが、デビッド・リーランド監督は紋切り型のクライマックスを避けて、一人ひとりの感情のデリケートな変化を静かに描いていく。その姿勢を高く評価したい」

 「聡明なステラ役のキャサリン・マコーマック、世間知らずなアグ役のレイチェル・ワイズ、奔放なプルー役のアンナ・フリエル。それぞれに個性的で魅力的。ジョーをめぐって互いにいがみ合うのではなく、分かち合うしなやかさが素敵だ」「中でも婚約者とジョーへの愛に揺れたキャサリン・マコーマックの、激しい情念を押さえ込んだ寡黙な演技が印象的。もっとも慎重なはずの彼女が、もっとも大胆な選択を行ったのには驚いた。『ブレイブハート』(メル・ギブソン監督)での演技以上に心に染みた」

 「『ブラス!』で注目を集めたマーク・ハーマン監督の新作『リトル・ヴォイス』。今回も音楽ものだが、結末はシニカルだ。主人公のエルヴィは、愛する父親を失い口うるさい母親を嫌って自閉的になっている。唯一の慰めは父親が残したレコード。繰り返し聴くうちにジュディ・ガーランドやマリリン・モンローそっくりに歌えるようになっている。母親とつきあっていた芸能プロモーターが偶然この歌を聞き、ショーを開くことで一躍注目を集めるが、それは一夜の出来事だった。しかし、エルヴィはそれをきっかけに自立する」

 「それまでおどおどしていたエルヴィが舞台で生き生きと歌い始めるシーンが涙が出るほど素晴らしい。吹き替えなしで歌ったジェイン・ホロックスの歌唱力には驚かされた」「ものまねに多少の出来不出来があるのは致し方ないだろう。『ブラス!』のように有名にならず、一度限りの出来事にした点はほろ苦い。母親マリー役のブレンダ・ブレシンの滅茶苦茶に濃い演技と死んだ父親が現れてエルヴィを支援するファンタステックな展開の混在に、ハーマン監督の個性が発揮されている」

 「『アンダー・ザ・スキン』(カーリン・アドラー監督)は、トロント映画祭批評家賞、エディンバラ映画祭イギリス映画最優秀作品賞を受賞。私はあまり女性監督だと言うことを強調したくないが、イギリス映画でも女性の監督は少ないので、まずは新しい才能の開花を喜びたい」「イギリス映画のシニカルさを持ちながら、愛する人を失った時の言葉にできないほどの痛みや辛さを表現する手腕に独自性がある。日常の細部を丁寧に描きつつ、孤独と性の問題にも力強く踏み込む。そして、安直ではない希望を残していく」

 「アイリス役のサマンサ・モートンは、まさに体当たりの演技。悲しみの深さに耐えきれず、自堕落になっていく切実さを全身で表している。その身体が孤独に泣いている」「決してうまくはない『アローン・アゲイン』の歌声に込められた思いに胸が詰まる。ラストの『花は大好き。名前を覚えよう』というアイリスの前向きな言葉にほっとした」「ローズ役のクレア・ラッシュブルックは、母親を失った孤独や不安を飼いならしながら日々を過ごす姉の生きざまを、嫌味なく演じた。これはこれで難しい役柄だね」

 「『マスク・オブ・ゾロ』(マーティン・キャンベル監督)で、気品に満ちたゴージャスな雰囲気が注目されたキャサリン・ゼタ=ジョーンズが、ショーン・コネリーと互角にわたりあったアクション・ラブストーリー『エントラップメント』(ジョン・アミエル監督)。出だしから、マックがレンブラントの絵画を盗み出す斬新なアイデアで期待が高まる」「そしてジン役の美しきキャサリン・ゼタ=ジョーンズが登場し、マックとのかけ引きが始まる。中国の秘宝・黄金のマスク強奪、そしてコンピューターの2000年問題を利用した銀行預金の操作という大掛かりな仕事へと物語は進んでいく」

 「ストーリーも配役もなかなかいい。しかし、盛り上がらない。ジンが赤外線を避けるしなやかな動きは、もっとセクシーに写せたはず。マレーシアのツインタワーでのアクションシーンは、手に汗握る展開にできたはず。そして、ラストの大どんでん返しは、会話による伏線はあったものの、登場人物の動きを振り返ると疑問が残り、すっきりしない」「さらに、どうしようもなくダサいオチをラストに持ってきてしまったセンスのなさ。それでも、古典的な味わいがあり、懐かしい恋愛映画を観たような感触が残った」

 「『葡萄酒色の人生ロートレック』(ロジェ・プランション監督)は、1999年のセザール賞・最優秀衣裳賞・美術賞を受賞しているだけに、『ムーラン・ルージュ』など19世紀末の風俗が見事に蘇っている。ルノワール、ドガ、ゴッホら著名な画家が登場し、古い絵画との闘いが描かれる」「大変に贅沢な作品のはずなのだが、手応えが残らない。ジョン・ヒューストン監督の『赤い風車』の暗いロートレックに対して、明るく優しいロートレックを表現しているからではない。陽気なモーツアルトを描いたミロス・フォアマン監督の傑作『アマデウス』のようにじっくりと腰が座っていないからだ」

 「ロートレックとシュザンヌ・ヴァラドンの恋愛を中心に据えているはずだが、周囲の喧噪にまぎれて葛藤が伝わってこない。印象派の画家たちとの交友も駆け足過ぎて印象に残らない。娼婦たちを愛したロートレックの心情も、言葉以上には響いてこない。張りつめた美しさが忘れがたいエレーヌの解剖シーンの意味が理解できない」「豪華なつくりなのだが、ストーリーに芯が通っていないのでロートレックがあっけなく死に、中途半端なまま終ってしまった感じだ」


kinematopia1999.11


 「花村萬月原作の『皆月』(望月六郎監督)は、面白いね。『萬月』が『皆月』を書き『望月』が 映画化した。仕事ひとすじの中年男性・諏訪の妻が、ある日『みんな月でした。がまんの限界です。さようなら。』という手紙を残して失踪する。諏訪は、ヤクザな義弟、知り合ったソープランド嬢とともに、妻を捜す旅に出る。それぞれの弱さと淋しさを抱えながら。やや中年男性好みの展開だが、 かつての良質な日活映画のような深い味わいのある傑作だ」「同性愛者の描き方はいただけないが」

 「冴えない諏訪役の奥田瑛二は、ベテランらしい余裕の演技。ソープ嬢・由美を果敢に演じた吉本多香美からは、若い熱気が伝わってくる。そして、作品を引っ張っていたのはヤクザ・アキラ役の北村一輝。暴力性と優しさを合わせ持つとらえどころのない存在だが、ラストで意外な愛の形を見せる。思わずうなった」「そして、線が細いようで太々しさを隠している妻・沙夜子役の荻野目慶子は、少ない出番ながら独特の存在感を放っていた」「実にバランスのいい配役だ」

 「呪われた洋館『ヒル・ハウス』に実験と称して学者と被験者が集まり、恐怖の体験をする『ホーンティング』『ツイスター』など、ジェットコースター・ムービーを得意とするヤン・デ・ボン監督の新作だ。しかし、今回は思いっきり外してしまった」「最新のCGを使い、いかに派手な演出をしても、室内空間では迫力に限界がある。予測通りの展開と結末。人物造形の甘さという欠点だけが浮き彫りになった」

 「いかがわしい学者マローに、実直そうなリーアム・ニ一ソンを配したのは、監督の計算だろうか。そうなら、最初から種明かしをしない方がいいだろう」「被験者のうち、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ演じるテオだけが浮いている。こういうホラー作品にゴージャスで艶やかな美女は不釣り合いだと思う」「その点、ダドリー夫妻はいかにも一癖ありそうで雰囲気にぴったりだった。肝心の主人公ネルは、さんざんいたぶれるのに最後まで影が薄い」

「 札幌のまるバ会館で『コラージュ作家』伊藤隆介氏の映像作品が上映された。伊藤氏は、1963年札幌生まれ。シカゴ美術館付属大学修士課程で映像、現代美術を学んだ。『視る虫』(1988年、22分)『猫のいた世界』(1989-90年、24分)『SENTINEL』(1991-93年、18分)という『日記映画3部作』のほか、ビデオ作品の『ONE DAY』(1988年、13分)『大人になる』(1998年、3分)、16ミリ映画の『演習』(1991年、3分)『版♯2、♯1、及び♯3』(1999年、4分)『版♯7、♯5、及び♯8』(1999年、6分)。知識に裏打ちされた実験はシャープな仕上がりだが、心に届かない作品もあった。感心するのと感動するのは違う」

 「『視る虫』『猫のいた世界』は、嫌いな虫に触れるという冒険をしながら、生活をモンタージュしている。センスの良いカット、美しい映像が続くが、感情の像を結ばない。あえて結ばないようにしている。しかし、『猫のいた世界』のサイレントはつらい。『視る虫』にはNICOの音楽が使われていて救われた。『SENTINEL』は、知的な操作が複雑化し、皮肉な仕掛けが目立つ。アメリカ・ブラックマライア映画祭で『Director's Choice』賞を受賞した」

 「『ONE DAY』は、ハンディカムを使って、自分の顔を一日中撮影し続け、13分間に編集したもの。もっとも入り込みやすい作品。デートでの恋人との喧嘩などは実にリアルだ。『大人になる』は詩人の宮田裕之氏の作品に影響を受けて制作しが、3分ではあまりにも短い。『演習』は光学合成の練習フイルム。それ以上ではない。変化する版画を目指した『版♯2、♯1、及び♯3』『版♯7、♯5、及び♯8』は、発想は面白いが、何かを訴えかけている訳ではない」「その点が、独創的なアイデアでは共通する山崎幹夫監督のVMシリーズとの決定的な違いだ」

 「沖縄を舞台にした暴力的でない崔洋一作品『豚の報い』が誕生した。暴力的でない、という点が興味深い」「生活の中に宗教が溶け込んている沖縄の文化をユーモラスに寓話的に描き、アジアへとつながる糸口を静かに示している」「前作『犬、走る』のアクの強さから、一転して明るく淡々とした表現に変わった。そのため、強烈なインパクトはないが、アジアの中の日本を描こうとする監督の幅の広がりを感じさせる仕上がりだ」

 「豚小屋で生まれた大学生の正吉を、小澤征悦がひょうひょうと演じている。それに対し、スナック『月の浜』のネーネーたち、ミヨ(あめくみちこ)、暢子(上田真弓)、和歌子(早坂好恵)は、パワフルだ。それぞれに辛い過去を背負いながらも、どん欲に食べて飲んで騒ぎまくり、欲望のままに正吉を誘惑する」「そのたくましさは気持ちいい。特にあめくみちこの演技が印象的だった」

 「『娼婦ベロニカ』(マーシャル・ハースコビッツ監督)は、マーガレット・ローゼンタールの自伝が原作。1583年、ベネチア。通常の女性に自由はなかった。身分違いを理由に貴族マルコと結婚できなかったベロニカ・フランコは、男たちと対等の自由を得るため、コーティザン(高級娼婦)になる決心をする。母親に性の技法を学び、詩の才能と美貌を合わせ持つベロニカは、たちまち男たちの注目を集める。ベロニカ役のキャサリーン・マコーマックは、目も眩むという表現がぴったり。しっかりとした演技とあでやかさに魅せられる。『スカートの翼ひろげて』(デビッド・リーランド監督)以上に華やかだ」

 「物語はベテランのスタッフによって手堅く進められていく。『恋におちたシェークスピア』(ジョン・マッデン監督)のような巧みさはないが、豪華さの点ではこちらの方が上だ。クライマックスはベロニカの魔女裁判だろう。誇りを捨てないベロニカがまぶしい。彼女を愛した男たちが、土壇場で命を賭けて次々と彼女に味方するシーンは、ベネチアの開放性を印象付ける」「史実でなければ、ややハッピーエンド過ぎるけれど」

 「『HOLE』は、『河』で父親と息子の近親相姦を描いたツァイ・ミンリャン監督の注目の新作だ。その自在さは、テーマだけではなく映像構成にまで広がった」「2000年まで後7日。奇病が流行り始めた街。古びたアパートに住む上の階の男と下の階の女。絶えまなく降り続く雨に悩まされながら、孤独でつまらない生活を送っている。しかし、配管業者の空けた穴から、二人の交流が始まり、意外なラストを迎える。第51回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した」

 「かったるい日常生活に突然挿入されるミュージカルシーンに驚かされる。華麗な踊り、1950、60年代のグレース・チャンのチャーミングな曲が、かえって薄汚ないアパート空間の悲しみを際立たせている。奇病にかかった女性に、男性が一杯の水を手渡す。そして、高みへと連れていく」「なんという美しい結末だろう。この荒唐無稽すれすれのハッピーエンドは、深い閉塞感の裏返しでもある。絶望を希望に変えるミンリャン・マジックに酔った」

 「18世紀末ロンドン。温厚そうに見える理髪店のトッドは、裕福そうな客の喉を切り裂き、金品を奪い、地下でつながるパイ屋に死体を卸していた。さまざまな動物の肉に人肉が混ざったミートパイは独特の味で人気を拍する。『スウィーニー・トッド』は、いかにもありそうな都会のミステリー。ジョン・シュレシンジャー監督は、当時の風俗を忠実に再現しながら重厚に物語を進めていく」

 「この猟奇事件の背景に戦争による大量死、戦場における人肉食があると、社会風刺劇に仕立てたのはひとつの見識だろう。しかし、作品的には成功していない。この企画は当初ティム・バートンが監督するはずだったもの。彼なら、ミュージカル仕立ての強烈なブラック・ユーモアにまとめたことだろう」「監督の資質によって、映画のトーンががらりと変わる好例だ」

 「『シックス・センス』(M. ナイト・シャラマン監督)は、すごい。29歳の監督が自ら考えた脚本を映画化した。最近のハリウッドでは稀なケースだろう。ストーリーも素晴らしいが、映像にも品と風格がある」「最近の映画はコンピューターによる特殊効果や派手なアクションシーンばかりだが、この作品は違う。俳優たちの演技がすべてと言っていい。ホラー映画であるとともに、上質の人間ドラマでもある。『隣人は静かに笑う』(マーク・ペリントン監督)に迫る大どんでん返し、そして古典的な味わいを残す見事な結末だ」

 「何と言ってもコール・シアー役のハーレイ・ジョエル・オスメントがうまい。逸材という言葉がぴったりの少年だ。 『死者が見える』能力を持つ恐怖と諦念が全身から感じられる。ブルース・ウィリスが『これまで共演した中で最高の俳優』と語ったことに嘘はない」「そしてブルース・ウィリスも渋い演技をみせた。彼が主役の近年の作品は、どれもいただけなかったが、今回ばかりは賛辞を送りたい」

 「『プレイバック』(ジェラール・クラウジック監督)のヴィルジニー・ルドワイヤンが輝いている。『カップルズ』(エドワード・ヤン監督)の美少女が、振幅の激しい役に挑んだ」「レオナルド・ディカプリオ主演で来年春公開予定の『ザ・ビーチ』(ダニー・ボイル監督)では、フランソワーズ役で出演。ハリウッドのメジャー作品初出演でメイン級の役柄を獲得した。『ザ・ビーチ』が公開されたら、ちょっとしたルドワイヤン・ブームが起こるはずだ」

 「実際のシンガーソングライターのマイディ・ロスが、もうひとりのヒロイン・ジャンヌ役。艶のある歌声に聞き惚れてしまう。繊細な容姿も悪くない」「ルドワイヤン演じるジョアンナが彼女の吹き替えをバックに歌手としてデビューする。単純なストーリーだが、歌手を目指す二人の切実さ、人気が出た後での反目、そして和解の過程は納得できた。ラストのデュエットは見事なまでに様になっていた」「魅力的な二人だったが、監督のセンスが悪いためにまとまりのない作品になった。とても残念」

 「札幌デジタル映画祭1999が、11月25日から開かれ、12作品を公開した。最大の成果は『コリン・マッケンジ−/もうひとりのグリフィス』だが、その他の作品も高い水準だった」「ワークショップとして製作された『R』(早川渉監督、35分)は、全編デジタルハイビジョンとノンリニア編集で完成。ピルの屋上に閉じ込められた大学生のPHSに偶然かかってきた女性との会話が中心で、ほとんど主演の巻口直哉の独り芝居に近い。軽いノリでほんわかと終るが、青年の開かれた閉塞感とコミュニケーションの質が描かれていて、悪くない」

 「『ブレア・ウィッチの呪い』(エドゥアルド・サンチェス、ダニエル・マイリック監督、44分)は、近々公開の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の仕掛け役となったアメリカテレビ放映の作品。なかなか良くできた特番もの。この作品だけでも、かなり怖い」

 「『うつしみ』(園子温監督)は、舞踏家・麿赤児の振り付け、写真家・荒木経惟の撮影、荒川真一郎のパリ・コレ準備と、園監督の『息をつめて走りぬけろ!』のリハーサルという4つのパートを組み合わせている。麿赤児の振り付けシーンが、もっとも密度が濃い。執拗にカメラが肉体を追い詰め、この部分だけでハイレベルのドキュメンタリーになるほど。荒木経惟と荒川真一郎に対しては、やや遠慮が感じられる。『息をつめて走りぬけろ!』の部分は中途半端。物語がおちゃらけているので、全体のトーンに合わない。身体へのこだわりという意味でも、異質なものを感じた」

 「『コリン・マッケンジ−/もうひとりのグリフィス』(ピーター・ ジャクソン、コスタ・ボーテス監督)を観て、イスから落ちそうになるほど驚いた。『ブレイン・デッド』『乙女の祈り』の監督・ピーター・ ジャクソンは、近所に住んでいたハナというおばあさんに夫が昔撮ったフイルムの処分を頼まれる。それは、幻の映画監督コリン・マッケンジ−のほぼ全部のフイルムだった。彼は世界初のトーキー、世界初のカラ−映画を発明し、劇場公開していた。密林の中に巨大なセットを築き、一万人以上のエキストラを使って撮影された『サロメ』のフイルムも見つかり、修復の上公開される。スペインでは、彼がカメラマンとして従軍し射殺されたシーンのフイルムまで発見された」「映画史を塗り替える新事実!!、何というドラマチックな人生!。映画に対するコリン・マッケンジ−の情熱が詰まったドキュメンタリー作品に心が震えた」

 「森の中で『サロメ』のセットが発見したり、道具室の奥でフイルムを見つけたりするシーンはともかく、コリン・マッケンジ−の天才的な業績は事実だと確信した。あれだけのセットとエキストラはねつ造とは思えない。ニュージ−ランド大使館が後援しているわけだし」「しかし、巷では『完全なフィクション』という映画評が幅を利かせている。パンドラ発行の『コリン・マッケンジ−物語』という本は、なかなかの曲者だが、すべてがデタラメとは信じがたい」「何が真実なのかは、今もあいまいのままだ。しかし、事実と虚偽はそう簡単に分けられるものではないだろう」「その間に真実が隠されていることもある。私は作品に出会い興奮し、久しぶりにわくわくした。たとえすべてが嘘でも、素敵な作品だったことに変わりはない」「映画への愛に満ち満ちた創作なのだからね」

kinematopia1999.12


 「『白痴』は、映像作家・手塚眞の夢が実現した作品。豪華多彩な俳優をそろえ、戦火の焼跡と近未来のセット、斬新なアートを合体し、8ミリから最新のCGまでを盛り込んで映像の歴史までも再現した。自分の気に入ったものをすべて取り込んだかのような多彩な展開。しかし、手塚眞ワールドとしてのユーモアと透明感が全体を包んでいる」「紋切り型の結末と、深まらない人間造形が物足りないもの、全身全霊を傾けたような熱気には圧倒された」

 「絶望している浅野忠信と無垢な甲田益也子の演技ばかりが、取り上げられているようだが、この作品で最も輝いているのは、国民的なカリスマアイドル・銀河役の橋本麗香だ。彼女のエキゾチックな踊りからCGに移る華麗さに息を飲んだ。美しい。小悪魔というよりもサロメに近い妖艶さとわがままさを持っているが、一方で自分の虚像に怯えている。その振幅が魅力的だった」

 「『 M/OTHER』(諏訪敦彦監督)が、1999年カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。デザイン会社に勤めるアキは、レストランを経営する哲郎は、自由な同棲生活を続けている。しかし、哲郎の別れた妻が交通事故に遭い、事前にアキに連絡もせず、8歳の息子・俊介を連れ戻る。アキは不満を抱えながらも共同生活を始めるが、次第に情緒不安定になり、哲郎との関係が壊れていく。『諏訪監督』の画像です痛いほどのリアリティに引き込まれた。『私の事なんか知らないじゃない』『一人にするなよ』。クライマックスでの会話は、現在の男女の位相を端的に表している」「人間がともに生きていくということの困難性が、生々しく浮き彫りになってぃる」

 「この作品は、最初に簡単なプロットだけがあり、リハーサルを行いながら台本をまとめるという諏訪監督の独特の方法が取られている。台本は、決定的なものではなく、どう動き、何を話すかは、俳優に委ねられている。そこから、自然さや緊迫感がにじみ出てくる」「その手法が大きな成果を上げた。アキ役の渡辺真起子は、等身大の揺れ動く現代女性の感性そのまま。三浦友和も優柔不断で利己的な中年男性を演じた。何よりも驚いたのは、8歳の高橋隆大の即興演技と会話の自然さだ。『子供はいつも即興で生きている』という、監督の言葉が納得できた」

 「厳しい戒律でまとまっていた新撰組が、一人の美少年の入隊によって衆道が広がり混乱していく過程を冷徹に描いた大島渚監督の13年ぶりの新作『御法度』。スケール感や時代に切り込むテーマ性はないが、色彩を抑えた映像は力強く、簡潔な物語の中に引き込んでいく。その手さばきはさすがだ」「幻影的な雰囲気の中で描かれる辛らつなラストシーンが、いかにも耽美だね」

 「これぞ配役のマジックと呼べそうなキャスト。ビートたけしと崔洋一という優れた監督を新選組の指導者に据え、トミーズ雅と坂上二郎を脇役に置き、美形で存在感ある若手俳優の武田真治と浅野忠信をうまく絡ませ、魔性の美少年の松田龍平を引き立てている」「松田龍平は美形というよりは妖しい表情が印象的。男たちを狂わせていく魅力がある」

 「ローランド・エメリッヒ監督の『Godzilla』は、どう考えても巨大なイグアナだった。それに対して日本の元祖ゴジラは、自然の象徴のように超然としている。今回、1954年の原点に帰ったゴジラの復活を、大いに期待して待った。しかし『ゴジラ2000ミレニアム』(大河原孝夫監督)の出来は『ゴジラ対デストロイア』よりもはるかに悪い」「期待は満たされなかったが、新たな幕開けと割り切って今後に期待しよう」

 「まず、ストーリーがちぐはぐ。まとまりがない。深まりがない。近年のSF映画からつまみ食いしているようで芯がない」「せっかくVSシリーズをやめたはずなのに、結局UFOの宇宙人を怪獣化させて決着をつけざるをえなかった。ゴジラ・ネットの主人公たちに魅力が乏しいのも残念」「唯一、ゴジラ抹殺に燃える危機管理情報局長・片桐光男役の阿部寛の屈折した演技が光った」「ゴジラがリベンジするはずだ」

 「このところ、面白いドイツ映画が相次いで公開され、『ドイツ映画は重苦しい』という固定観念が崩れ始めた。『バンディッツ』(カーチャ・フォン・ガルニエ監督)、『ラン・ローラ・ラン』(トム・テュクヴァー監督)、『キラーコンドーム』(マルティン・ヴァルツ監督)は、いずれもアメリカのエンターテインメント性を意識しながら、生きざまにこだわるドイツの味わいも感じさせた」「しかし『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』(トーマス・ヤーン監督)は、少し違う。無国籍な軽さが支配している。死を前にした患者がギャングの車を奪い、銀行強盗をしながら、海に向かう。そこには、不思議に悲壮感はない」

 「派手な銃撃戦やすれ違いのセンスは、タランテイーノを連想させる。しかし、ストーリーのうまさはタランテイーノ以上だ。最後まで、男同士の友情で押し通したのも新鮮」「最近は、こういうドラマが少なすぎる。荒唐無稽に陥りやすい展開を、気の利いたユーモアで救いながら最後まで飽きさせない」「それにしても、ボブ・デイランの名曲が、こんな形で蘇るとは」「嬉しい限りだ」

 「話題の超低予算映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(エドアルド・サンチェズ、ダニエル・マイリック監督)は、確かに怖い」「1994年10月、メリーランド州バーキッツヴィルの森で、『ブレアの魔女』をテーマにしたドキュメンタリーを撮影していた映画学校の生徒3人が行方を絶った。1年後、彼らの不気味なフィルムだけが発見される。この作品は、それを編集したものとして映画化されている」「16ミリとハンディカムの映像が巧みに組み合わされて不思議な臨場感を醸し出している。俳優たちにストーリーを伝えずに心理的に追い詰めるという擬似的なドキュメンタリーの手法が成功した好例だ」「それにしても、わずか3万ドルの製作費とは」

 「この作品は映画だけで評価すべきではない。インターネットのホームページ、テレビの特番、解説本などを多角的に組み合わせ、謎を増幅させていくというプロジェクト全体が、作品と言える。新しい形態のエンターテインメントだ。映画は、その一部に過ぎない」「面白さの点では、この映画をさらに掘り下げる内容のテレビの特番『ブレア・ウィッチの呪い』やウェブ・サイトがはるかに上だろう」

 「夢のように美しい映画に出会い、心が震えた。『海の上のピアニスト』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)。楽器屋にトランペットを売りに来た落ちぶれたトランペッターは、海で生まれ一度も陸に降り立つことなく、豪華客船ヴァージニアン号と運命をともにした天才ピアニストの物語を始める。そのストーリーは、スケールが大きく、ピュアで面白い」「懐かしく愛おしい傑作『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、また一つ忘れがたい傑作を生み出した」

 「船が大きく揺れピアノが滑るのを楽しみながら心地よく鍵盤をたたくナインティーン・ハンドレッドと船酔いしたトランペッター・マックスの出会い、船の楽団と共に一等船客のために演奏する傍ら三等室に詰め込まれた移民たちのためにピアノをひく和やかなシーン、ジャズの創始者ジェリー・ロール・モートンとの息詰まる音楽の決闘、どの場面もうっとりする出来映えだ」「ナインティーン・ハンドレッド役のティム・ロスは、文句のつけようがない。全編をオリジナルで包んだエンリオ・モリコーネの作曲家としての力量にも脱帽する」

 「『ファイト・クラブ』(デイビッド・フィンチャー監督)は、正面から殴り掛かってくる作品だ。私たちのふやけた日常を指弾する。ファミリー映画のフィルムにポルノを挿入したり、レストランでスープに尿を混ぜたり、美容整形で吸引された脂肪から石鹸を作って売ったりと、随所に観る者の神経を逆なでする企てをちりばめ挑発する。ブラッド・ピットがこれまでのイメージをかなぐり捨てて暴れ回る。エドワード・ノートンのあいまいな挙動がラストのオチを際だたせる」「死に取り付かれながら無軌道と自律に揺れるヘレナ・ボナム・カーターの演技も、『鳩の翼』(イアン・ソフトリー監督)とともに傑出している」

 「ブランド指向の消費生活に浸りつつ不眠症に悩み、密かに睾丸ガン患者たちのセラピーなどに参加するナレーターの存在は、ぞくぞくするほどリアル。タイラー・ダーデンとの殴り合いによって痛みの充実感を得る展開も、心の深い所で納得できる」「殴り合うことに共感する男たちが増え、クラブを設立し、やがて社会を根底から破壊するテロ集団に変ぼうしていく。ファシズムと、安易に規定して目を背けることはたやすい。しかし、ここで描いているのは、満たされない男たちの赤裸々な欲動そのものだろう」「目をそらしても何も解決しない。見つめながら、危険な道を回避しようと試みるしかない」

 「ラストは、幻想的な寓話に昇華されている。フィンチャーの作品は、『セブン』『ゲーム』も、リアリティに欠ける部分を持っていた。今回も組織が整然と巨大化し、大規模なテロがあまりにも簡単に成功する点が気になったが、力強い映像がその欠点を補っていた」「ハリウッドが、人間の暗部をえぐった希有な映画として、長く記憶されることになるだろう」

 「レオス・カラックス監督の『ポーラX』が、ついに公開された」「絶望的でありながら美しく、多面的でありながら純粋なストーリー。心をわしづかみにするような鮮烈なシーンの連続。その映像的な強度に打ちのめされ魂を揺すられて、映画が終ってもしばらく立ち上がれなかった」「これほどまでに監督の熱い思いが乗り移った壮絶な映画は、稀だ」「フランス社会を横断しながら、愚直に真実を求め謎の中に堕ちていく青年のおろかさがまぶしい」「Pola Xという題名は、メルビルの仏語訳原題『ピエール、あるいは諸々の曖昧さPierre ou les ambiguites』の頭文字に、謎を表すXを加えたものだというね」

 「ギヨーム・ドパルデューとカテリーナ・ゴルベワの熱演は認めるが、カトリーヌ・ドヌーブがこれまでのキャリアを踏み越えて、熟年ヌードを見せバイクに乗り事故死するという思い切った役を演じていたのに感動した。前半の城の中での優雅な母親と息子のセクシーな戯れにも、彼女ならではの味わいがあった」「それは、後半の廃屋での『姉』と『弟』の狂おしいベットシーンと対の関係にある。愛しながら理解し合えないという基調音を響かせながら、そのコントラストが胸を撃つ」「ラストの射殺の衝撃も後をひく」「90年代を締めくくる作品だ」


99年1月へ


99年5月へ


キネマ検索へキネマトピアへ キネマやむちゃへカウンター(HOME)へ

Visitorssince1999.10.04