歌合戦:出場歌手 荻野目洋子


トップページへ戻る


[ 歌合戦の歴史 ] [ 過去の出場歌手 ] [ 司会者 ] [ 審査員 ] [ 記録 ] [ できごと ] [ 思い出の紅白歌合戦 ] [ 雑記 ] [ リンク ]


雑記
歌合戦感想 | 出場しなかった歌手 | 出場歌手に関する雑文 | 戯言 | 出場歌手希望

出場歌手に関する雑文
岩崎宏美 | 藤井フミヤ | 中森明菜 | 河合奈保子 | 布施明 | 小泉今日子 | 森高千里 | 森口博子 | 高田みづえ | フォーリーブス | 伊東ゆかり | 桜田淳子 | 田原俊彦 | 中山美穂 | 森山良子 | 松田聖子 | 由紀さおり | 工藤静香 | 南沙織 | 山口百恵 | 郷ひろみ | 安室奈美恵 | 西田ひかる | ピンク・レディー | 佐良直美 | チェッカーズ | 荻野目洋子

荻野目洋子: 昭和61、62、平成元、2、4年

 荻野目ちゃんである。

 1984年(昭和59年)デビュー。 これは歌手としてソロデビューしたという意味で、芸能界ではもう少し前から活動していた。 1979年(昭和54年)、小学生の頃に、女子3人でミルクというグループを結成して活動していたことは、荻野目ちゃんファンでない私でも知っているが、ウィキペディアによると、さらにはその2年前に姉・荻野目慶子が出演した映画にも出演していたらしい。 アニメファンなら、1983年(昭和58年)に放送されたアニメ「みゆき」のヒロインの声を担当していたということも知っているかもしれない。
 1984年デビューの同期としては、翌1985年(昭和60年)の第36回歌合戦に初出場を果たして問題を起こした吉川晃司、逆に第36回歌合戦を辞退したらしい菊池桃子、初出場を果たす前にこの世を去った岡田有希子、1987年(昭和62年)の第38回歌合戦で初出場を果たした神野美伽、そしてアイドルから演歌に転向後、1993年(平成5年)の第44回歌合戦で初出場を果たした長山洋子などがいた。
 荻野目ちゃんは新人賞レースには顔を出すものの、まだブレイクはしておらず、最優秀新人賞はもっぱら

という、レコード売り上げもあり、賞獲りに積極的な事務所に所属する2人の対決だった。

 翌1985年の夏、ドラマ主題歌となった「心のままに~I’m just a lady~」で初のTOP20入りを果たす。 このとき、TOP20内で最高順位を争ったのが、後に仲の良い友達となる森口博子のデビュー曲「水の星へ愛をこめて」である。
 そしてその次、11月にリリースしたのが「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」。 今(2010年代)はめっきり少なくなったが、1980年代はまだ洋楽を日本人歌手がカバーすることが多かった。 「ダンシング・ヒーロー」も、当時ディスコシーンでヒットしていたアンジー・ゴールドという女性歌手の「Eat You Up」(邦題「素敵なハイエナジー・ボーイ」)をカバーしたものである。
 それまで、いわゆるアイドルポップスで、振り付けも手先だけだったり軽くステップを踏むくらいだった彼女が、スタンドマイクで歌ったり、全身を使った振り付けで歌い踊るようになったわけで、のちに彼女自身も「最初は踊りがぎこちなかった」と言っている。

 この曲で初のTOP10入りを果たし、最終的にオリコンのデータで30万枚を超えるヒットとなり、第37回(1986年、昭和61年)の歌合戦に初出場を果たす。
 当時、大晦日は日本レコード大賞とNHK紅白歌合戦を掛け持ちする歌手も多く、荻野目ちゃんも日本レコード大賞の金賞を受賞した「Dance Beatは夜明けまで」(「ダンシング・ヒーロー」は洋楽カバーのため、大賞選考対象外)を披露した後、NHKホールへ駆けつける形となっている。
 彼女は日本レコード大賞では赤い衣装を着ていたと思うが、歌合戦のオープニングでは白い衣装に着替えている。 この年の歌合戦の歌い始めとして「ダンシング・ヒーロー」を歌唱。 第32回(1981年、昭和56年)からこの年まで、紅組先攻でスタート。 紅組トップバッターのバックでは、紅組歌手が踊りながら応援した。 その最後の歌手が荻野目ちゃんだったわけである。
 1コーラス目、荻野目ちゃんがクルっと回ると、白い衣装の下に赤いミニスカートが見え、「レコ大から歌合戦まで時間がなかったから、レコ大の衣装に歌合戦の衣装を重ね着したのか」と思ったが、そうではなく早がわりでスカートのみ白のロングスカートから赤のミニスカートに変わるという趣向だった。 このとき、間奏部分で荻野目ちゃんが白いスカートをはぎ取る前に実況のアナウンサーが早がわりがあることをしゃべってしまい、ちょっと興ざめだった。

 翌第38回は前年の10月に発売され、ロングセラーとなった「六本木純情派」を歌唱。 初めてこの曲を歌う姿を見た時、タイトルに含まれる「六本木」という地名や、ちょっと泥臭い歌詞、やや歌謡曲っぽい曲調、そして独特な振り付け全てに「荻野目ちゃんらしくないな」と思ったが、そういう曲がロングセラーとなるわけで、素人の目や耳なんてあてにならないものである。
 前年とこの年の対戦相手は少年隊。 前年はトップバッター対決、そしてこの年は紅組白組各20組中12組目という、若手ポップス歌手としては一番遅い時間帯の対戦だった。 当時の人気アイドル同士の対決であるが、この年は少年隊の「君だけに」が3分25秒だったのに対し、荻野目ちゃんは2分10秒と、かなりの差がある。 「六本木純情派」はもともとアップテンポな曲だけど、普段の歌番組で歌っている時より、かなりテンポが速くなっていた。 バラードの「君だけに」をテンポアップしろとは言わないから、荻野目ちゃんもいつも通りのテンポで歌わせたげて。
 「君だけに」は少年隊の代表曲の一つで、「六本木純情派」は荻野目ちゃんの代表曲として挙げられることは少ない。 でも、オリコン調べによる2曲のレコード売り上げは、どちらも2番目に売れた曲で、実はあまり差がない(「君だけに」が約29万枚、「六本木純情派」が約26万枚)。

 翌1988年(昭和63年)。 荻野目ちゃんは「ダンシング・ヒーロー」や「六本木純情派」のようなロングヒットはなかったものの、オリコンシングルチャートの1位に2作、2位に1作送り込んだので、歌合戦連続出場も確実と思っていたら、発表された出場歌手の中に彼女の名前はなかった。 これには彼女も相当ショックを受けたようで、平成に入ってから発売された歌合戦に関する本に、この年の歌合戦への落選がわかった後の彼女のコメントとして「今は言葉が出てこない」といった内容が記されていた。
 ちなみに、この年の出場歌手数は紅組白組各21組。 出場した紅組のアイドルは、オリコンシングルチャートの年間TOP10にヒット曲を入れ初出場となった工藤静香中山美穂、トップアイドルだった小泉今日子中森明菜松田聖子の5人。 当時工藤静香中山美穂と共に「アイドル四天王」と呼ばれた浅香唯や南野陽子も出場していない。 他に演歌だけでなく歌謡曲、ミュージカル、クラシック、ニューミュージック、民謡など様々な分野の歌手もいたので、荻野目ちゃんをはじめとする他のアイドルが入り込む余地がなかったのではないか。 白組でも、8月にレコードデビューして、デビュー曲が大ヒットとなったジャニーズの男闘呼組も、最初は出場歌手の中にいなかった(当初出場歌手として発表された田原俊彦が辞退したことで、彼らは繰り上げで初出場となっている)。

 1989年(平成元年)頃から、彼女のレコード(CD)売り上げがかなりのこう配で下降し、歌合戦出場にはかなり厳しくなるが、1989年の第40回歌合戦に返り咲いている。 この年は初めてニュースを挟む2部構成が取られ、その年活躍した歌手はいつも通りニュース後の午後9時開始となる第2部登場となったが、第2部は紅組白組各20組と、落選した前年よりさらに少なくなっている。 それで返り咲いてしまうのがなんとも不思議なところ。 前年出場した紅組トップアイドルの小泉今日子中森明菜松田聖子がそろって出場しなかったこともあり、紅組アイドル枠が若干空いたのかもしれない。 小泉今日子のところでも書いたが、噂話レベルの情報として、小泉今日子が事務所の後輩だった荻野目洋子に枠を譲ったという説もある。
 歌唱曲「ユア・マイ・ライフ」も最高10位と、かろうじてTOP10入りしたというヒット曲であるが、なぜか年末の音楽賞レースではよく聴いた。 前年、昭和天皇の体調に配慮する形で開催を自粛した多くの音楽賞が、この年は予定通り開催されたからなんだけど、ほとんどの音楽賞で、ノミネート歌手が自粛された1988年に活躍した歌手をそのままスライドさせたような顔ぶれとなっており、しかも光GENJI以外はヒットの規模がだいぶ小さくなっていたため、荻野目ちゃんも含め、グランプリを受賞する光GENJIの添え物のような存在になっていた。
 歌合戦に話を戻すと、対戦相手のチェッカーズの「Friends and Dream」に合わせるように、短いながらも今までの人生を振り返るような歌詞ということもあって、1989年に発売された何枚かのシングルから「ユア・マイ・ライフ」が選曲されたのかな。 この曲が、彼女が歌合戦で歌った唯一のミディアムテンポな曲ということで、歌詞としてはほぼ1コーラスながら、歌唱時間が約3分と一番長くなっている。

 翌年の第41回(1990年、平成2年)も連続出場を果たすが、歌唱曲「ギャラリー」はTOP10入りも10万枚突破もしなかった曲。 この年の出場は、朝の連続テレビ小説「凛凛と」で主演の相手役(朝ドラとしては珍しく、女性キャラが主人公ではない)を務めたことによる、いわゆるNHKへの貢献度が評価されたのかと思うが、今考えても「うーん」と思ってしまう。
 歌合戦でのパフォーマンスは、歌合戦における彼女の衣装としては珍しく肩から手にかけて素肌を露出したもので「彼女ってこんな肌の色白かったっけ?」と思うような美白を前面に押し出したものだった。 ドレスの色彩はいろいろ意見が分かれると思うが、井上陽水作の独特のメロディーに乗せ、なにやら怪しげなダンスを披露していた。

 1990年後半から1991年はさらにヒットとは縁遠くなった彼女ではあるが、当時としては独自のダンス・ミュージック路線を展開していた。 そして1992年(平成4年)に、CD売り上げで最後の一花のような山が来ることになる。
 まず、1991年(平成3年)12月に発売された「ねえ」がVictoriaのCMソングとして起用されたことで、スキー場でヘビーローテーションとなり、翌年にかけて20万枚を超えるヒットとなる。 シングルが20万枚を超えたのは、1986年に発売された「六本木純情派」以来。 続いて発売された「STEAL YOUR LOVE」は銀座ジュエリーマキのCMソングとして深夜のテレビで大量に流れ、こちらも10万枚を突破。
 そして5月にYO-CO名義で「コーヒー・ルンバ」がリリースされる。 もともとは日本では1961年(昭和36年)に西田佐知子をはじめ何組かの歌手がカバーした洋楽のヒット曲で、同年の第12回歌合戦で初出場を果たした西田佐知子が歌唱していた。 発売当時、缶コーヒーのCMソングとしてコーヒーがらみの昔の曲をカバーするので、歌手のイメージを壊さないように「荻野目洋子」という名前は使わなかったらしいが、曲の浸透に合わせて本人が歌番組で歌う機会も増えた。 ヒットに一役買ったのがとんねるず。 当時荻野目洋子は「とんねるずのみなさんのおかげです」に準レギュラーとして出演しており、出演した際には「コーヒー・ルンバ」を歌っていた。 このため、歌番組が少なかった当時としては「コーヒー・ルンバ」を歌う機会は多く、オリコンシングルチャートでは最高35位ながら、テレビで「コーヒー・ルンバ」を歌うたびにチャートを再浮上するロングセラーとなった。 オリコンシングルチャートのTOP100に滞在した週としては、この曲が彼女としては一番長い記録を持ち、売り上げも「ダンシング・ヒーロー」「六本木純情派」「ねえ」につぐ4番目となっている。

 そして、この曲を2年ぶりに返り咲いた第43回(1992年、平成4年)の歌合戦で歌唱することになる。 曲紹介の際、「1961年に詳しい人」として登場したのは森口博子。 台本通りと思われる森口博子の1961年のうんちくを受けて、紅組司会の石田ひかりが何か言うべきセリフをど忘れした感があるが、潔くあきらめて曲を紹介している。 もともと、ダンサーを従えて口パクで歌うことが多かったこの曲だが、歌合戦では若干テンポが速くなったこともあってか生歌で、そしてダンサーの数が多かったからか、いつもと違うダンスも取り入れてパフォーマンスしていた。 赤を基調にしたスカート部分はシースルーの衣装で、胸元の白い花はおそらくシャネルなのでは、という話もあった。 今だと、赤い帽子のデザインが一部の視聴者から「軍国主義的」とクレームがあったかもしれないが、次に登場する本木雅弘のパフォーマンスで、お茶の間はそれどころではなくなる。 荻野目ちゃんは、パフォーマンス後に白組司会の堺正章から「そんな格好で、お風邪など召しませんように」と言われていた。 これは、紅組トップバッターとして登場し、早がわりで露出度の高い衣装になった森口博子も言われていた。

 3回目の出場が、本来出場してもよかった年とずれていたり、4回目の出場は何だったんだろうと思うが、一度落選すると返り咲きが難しいと言われていた時代の歌合戦で、過去のヒット曲ではなく、ちゃんとその年にヒット曲を出して第43回に返り咲き「コーヒー・ルンバ」を踊りながら生歌で披露したのはかっこよかったな。

 最近は「ダンシング・ヒーロー」が盆踊りで流れたり、ヒット当時を知らない高校生がダンス曲として使用するなど、再び脚光を集め始めている荻野目ちゃん。 今や「なつメロ歌手」という位置づけになるのだろうが、再度出場する機会はあるのだろうか。

最終更新 2017年10月14日