[ 歌合戦の歴史 ] [ 出場歌手の希望 ] [ 過去の出場歌手 ] [ 司会者 ] [ 審査員 ] [ 記録 ] [ できごと ] [ 思い出の紅白歌合戦 ] [ 雑記 ] [ リンク ]
昭和54年にドラマ「3年B組金八先生」に出演し人気爆発。
昭和55年に「哀愁でいと」でデビューしいきなり大ヒット。
同期にはレコード売り上げではほぼ互角、歌唱力では大差をつけられた松田聖子がいたが、新人賞レースでは連戦連勝。
ちなみに当時は田原俊彦ファンがテレビ番組や雑誌で共演の多い松田聖子に嫉妬し、テレビ番組で隣同士になればもちろん、新聞のテレビ欄で二人の名前が隣になるだけでも抗議の電話が殺到したらしい。
アホか。
同年の歌合戦には二人そろって初出場。
共に2番手として登場し、ヤングアイドル同士の対戦となる。
田原俊彦の応援には「3年B組金八先生」で共演し、当時たのきんトリオとしてグループとしても活動していた近藤真彦と野村義男が登場。
スクールメイツ、ジャパニーズ、近藤真彦と野村義男の応援をバックに、倍速モードのようにテンポの速い「哀愁でいと」を歌唱した。
その後、昭和56年、57年は歌の下手なアイドルにありがちな序盤での登場が続く。
しかし、そんな彼の扱いが昭和58年から変わる。 昭和58年と言えば、日本歌謡大賞で彼の歌う「さらば…夏」(ポール・アンカ作曲)が大賞を受賞した年。 同年、「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭」でゴールデングランプリを受賞した松田聖子と共に後ろから数えて6番目という位置に登場する。
その後は「実は当時のジャニーズの中でも踊りが抜群にうまい」という彼の利点と「聴かせることだけでなく魅せることも重要」という時代の流れに気づいたNHKの演出方針がうまくかみ合い番組の要所に登場することになる。
この時期に常に田原俊彦とセットになっていたのが、この時期やはり歌唱力よりもダンスに重点を置くようになっていた小柳ルミ子。
昭和61年は二人の対戦となり、今で言うところの豪華衣装対決のような見せ場となった。
しかし昭和62年、突然の歌合戦落選。
徐々に下降していたレコード売り上げが問題視されたのかもしれないが、既に61年からシングル1位から遠ざかっていたし、売り上げ枚数も10万枚を下回るようになっていた。
61年に出場して62年は出場できなかった最大の理由はこの年の歌合戦の方針変更(アイドルより実力のある歌手を重視)だろうか。
出場歌手の選考に関しては、選考に漏れた歌手のファンから抗議があるのは毎年のことだが、この年は田原俊彦ファンからの抗議の電話が殺到。
特に中年女性からの抗議が多くて関係者を驚かせたらしい。
若者人気だけではないことがわかっていたら、NHKも落選させなかったかもしれない。
落選翌年の昭和63年、テレビドラマ「教師びんびん物語」がヒット。 主題歌「抱きしめてTONIGHT」もレコード売り上げ的には大ヒットではないもののロングセラーとなり、有線リクエスト、ザ・ベストテン、ザ・トップテンなどで軒並み年間1位を獲得。
昭和63年の歌合戦にも問題なくカムバック。
のはずだった。
発表された出場歌手の中には田原俊彦の名前もあったが、これは出場依頼を受けたレコード会社が承諾しただけで本人はOKしていなかったらしく、後日田原俊彦は辞退を表明。
彼に言わせれば、「別れた女性から『またつきあって欲しい』と言われたような感じでOKできなかった」んだそう。
その後、平成元年の「ごめんよ涙」、平成3年の「雨が叫んでる」などドラマ主題歌をヒットさせるものの、やはり歌合戦の舞台へは戻ってこなかった。
ところで、本当に歌が下手なのだろうか。
こんな証言がある。
後年ミュージカルへも進出した田原俊彦は平成2年に「マランドロ」というミュージカルに主演した。
このミュージカルは曲が独特な曲調で他の出演者が苦労したらしいが、いち早く正しい音程で曲を覚えたのが田原俊彦だったとか。
デビュー当時は確かに歌が下手だったと思うが、踊りだけでなく歌に対しても向上心も持っていた数少ないジャニーズ事務所出身の歌手だったのか。
そんな向上心から生まれた高いプライドが仇となったか、芸能界を干される形になって現在に至るのが残念。