歌合戦:出場歌手 郷ひろみ


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郷ひろみ:昭和48~60、平成2、6~13、22年~

 昭和47年レコードデビュー。 デビュー曲「男の子女の子」がいきなりTOP 10入り、セカンドシングル「小さな体験」でTOP 5入りを果たすもこの年の初出場はならず。 昭和47年といえば、彼以外にも演歌の三善英史森昌子、アイドルの麻丘めぐみなど、デビューと同時にヒットを飛ばした新人が多かったが、歌合戦初出場となった新人は青い三角定規だけ(青い三角定規は新人というより、当時出場する歌手が少なかった「フォーク枠」という説もある)。 上半期に大ヒットとなった青い三角定規以外は、年齢制限で出場できなかった森昌子に配慮した形となったのだろうか。 郷ひろみ三善英史森昌子麻丘めぐみは翌年にそろって歌合戦初出場となる。 第24回(昭和48年)、郷ひろみはデビュー曲「男の子女の子」を歌唱。 デビュー2年目での初出場なのに、デビュー曲を歌唱したのは森昌子も同じ。

 第25回(昭和49年)は第23回(昭和47年)から出場していた野口五郎、第24回からの連続出場となった郷ひろみに加えて西城秀樹も初出場となり、新御三家そろい踏み。 同じように、初めて3人がそろって出場した花の高1トリオ(森昌子山口百恵桜田淳子)の桜田淳子森昌子山口百恵による応援を背に歌った後で登場した郷ひろみも、「花とみつばち」を歌唱する後ろで野口五郎西城秀樹が踊りながら応援した。 なお、正式な対戦相手は桜田淳子ではなく、郷ひろみの次に歌った、この年の紅組司会も務めていた佐良直美

 第29回(昭和53年)まではまさにトップアイドル。 昭和49年秋に発売されシングルチャート1位を獲得し、50万枚を突破した「よろしく哀愁」をはじめ、ほぼすべてのシングルがTOP 10ヒット。 歌合戦でも前述の第25回の「花とみつばち」、第26回(昭和50年)の「花のように鳥のように」、第27回(昭和51年)の「あなたがいたから僕がいた」とTOP 3ヒットとなった曲をはじめとする数々のヒット曲を披露するが、「よろしく哀愁」は第25回にも26回にも歌われていない。 年をまたぐ形で民放ドラマ主題歌に起用されていたからだろうか。

 昭和50年、郷ひろみはジャニーズ事務所からバーニングプロダクションへ移籍している。 今だと大手事務所から移籍すると数年間はテレビに出演できないとも言われるが、NHKや歌合戦はそのあたり比較的寛大で、郷ひろみも前年に続き連続出場を果たしている(当時はまだジャニーズ事務所がそれほど大きな力を持っていなかったから、という説もある)。 この事務所移籍には郷ひろみだけでなく、ジャニーズ事務所の若手も一部行動を共にしていた。 第26回の歌合戦で郷ひろみが歌うバックで踊っていたジャニーズっぽいダンサーは、おそらく一緒に移籍した若手だったんだろうが、確認はしていない。

 昭和53年を過ぎると、リリースするシングルすべてがTOP 10ヒットということはなくなるが、歌合戦で披露した曲はTOP 10ヒットという状態が昭和59年まで続く。 アイドルとしては中堅からベテランの域に達していたが、ドラマやCMのタイアップといったバックアップもあり、年に1作はTOP 10ヒットを出し続けていたということ。 この時期にも昭和57年に「哀愁のカサブランカ」という50万枚を超える大ヒットを出している。 これは同年の歌合戦でも披露されている。

 アイドル全盛期から安定期にかけて、郷ひろみは昭和52年から4年連続で白組のトップバッターを務めている。 切り込み隊長みたいな位置づけだったんだろう。
 そして、初期の郷ひろみの衣装は、「がんばりすぎた」感が漂うものが時々ある。 その「がんばりすぎた衣装」だけでも切り込み隊長としての役割は十分果たしていたと思う。 あの衣装を見たら、紅組はいろんな意味で力が抜けたことだろう。 白組トップバッターかつがんばりすぎた衣装としては、第28回(昭和52年)の「悲しきメモリー」の衣装も捨てがたいけど、第29回(昭和53年)の「バイブレーション」の衣装が個人的にはおすすめ。
 20代半ばの一時期、カーリーヘアーにしたり口ひげを蓄えたりしてファンから不評だったらしい。 おそらく昭和55年と思われる。 興味のある方は画像検索でこの年の第31回歌合戦で歌唱した「How many いい顔」のレコードジャケットの画像を探していただくと、カーリーヘアーは確認できる。 幸い、歌合戦ではそんな不評だった姿は見られない。

 昭和50年代中旬には音楽賞授賞式への出演拒否、昭和57年以降は、ランキング形式の番組への出演拒否を表明するが、歌合戦への連続出場は昭和60年まで続く。 第35回(昭和59年)は当時交際が話題になっていた中森明菜近藤真彦、そして松田聖子郷ひろみの曲順を連続させる構成。 4曲の最後を飾った「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」のアウトロでは両カップルがダンスするというベタな演出もあった。 4人とも、今はそれぞれの人生を歩んでいる。
 第36回(昭和60年)に歌唱した「Cool」は彼としては珍しくシングルチャートに入らなかった曲。 ダンスの振り付け練習をしている際、動きを止めるふりのときに、振付師に「鼻に指突っ込んでいいですか?」とたずね、振付師も「鼻毛つまんで」と返すなど、ダンスが得意な彼ならではのリラックスした姿を見せていた。
 翌昭和61年は芸能活動を休止していたこともあり、美空ひばり安全地帯などとともに辞退組となる。

 次に出場したのは第41回(平成2年)。 なつメロが正式に解禁となった年だが、彼が歌ったのはお世辞にもヒット曲とは言えない新曲の「Wブッキング」。 NHKはなんで新曲を歌わせたのだろうか。 個人的には、歌合戦でなつメロを歌うのは最低限にしていただきたいので、売れていなくてもその年の曲を歌うことは賛成ではあるが、興味のあるところ。

 その後再び歌合戦から遠ざかるが、平成5年に楠瀬誠志郎のバラード「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」をカバーしロングヒットとなる。 この曲では歌合戦に出場しなかったものの、続く平成6年の「言えないよ」、平成7年の「逢いたくてしかたない」とバラードをヒットさせ、歌合戦に戻ってくる。
 第45回(平成6年)は、衣装としてスカートをはく予定だったらしい(もちろん、ズボンを着用して)。 でも結局「ひょっとしたらこれがスカートだったのかも」という布を腰のあたりにつけたスーツ姿となる。 第46回(平成7年)の「逢いたくてしかたない」は前年の「言えないよ」よりもヒットしたのに、登場がニュース明けからニュース前の時間帯になってしまったのが残念。

 その後しばらくヒット曲がなく、当時のポップス歌手としては珍しくなつメロを歌うことになる。 第47回(平成8年)は昭和59年のヒット曲「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」、第48回(平成9年)は昭和56年のヒット曲「お嫁サンバ」と昭和54年のヒット曲「マイレディー」、そして昭和49年発売のヒット曲「よろしく哀愁」をメドレーにした「お嫁サンバ'97」。 「よろしく哀愁」はここで歌合戦初披露となる。 第49回(平成10年)に歌唱した「セクシー・ユー」も歌合戦初披露。 「セクシー・ユー」は南佳孝の昭和54年の作品「モンロー・ウォーク」の歌詞を変え、翌55年に発売された曲である。 モンローはもちろん1950年代に絶大な人気を誇ったアメリカの女優マリリン・モンロー、モンロー・ウォークはマリリン・モンローの特徴的な歩き方のことであるが、郷ひろみのファンはマリリン・モンローも、モンロー・ウォークの意味も知らないだろうとタイトルが変更され、作詞家の来生えつこはご立腹だったとか。 1番の歌詞にちゃんと「モンロー・ウォーク」という言葉は出てくるけど。
 この時期は一組の歌手あたりの歌唱時間が全体的に長くなっていたこともあり、「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」や「お嫁サンバ'97」も最初に歌合戦で歌ったときよりも歌唱時間が長かった。 そして何回なつメロを歌おうが、ヒット曲がたくさんあり選曲に困らないのが彼の強み。

 ポップス歌手としてはぼちぼちベテランの域だし、もう売り上げ枚数的なヒット曲は出ないかと思っていた1999年(平成11年)、ラテン歌手Ricky Martinの世界的ヒット"Livin' la Vida Loca"をカバーした「GOLDFINGER '99」が50万枚を超える大ヒット。 第50回(平成11年)の歌合戦では第35回(昭和59年)以来の松田聖子との対戦となる。 今回は番組前半ではなく後半での対戦。

 第51回(平成12年)も「なかったコトにして」で番組後半に登場。 この曲も10万枚をギリギリ突破するヒット曲。 そして、今のところ最後のオリコンシングルチャートTOP 10ヒットである。

 第52回(平成13年)、翌年からしばらく歌手活動を休止するということで、ゴスペラーズのコーラスをバックに「この世界のどこかに」を歌い、再び歌合戦から離れる。

 次の出場はだいぶあいて第61回(平成22年)。 加山雄三和田アキ子といった歌合戦のベテラン歌手が代表曲を含むメドレーを披露したこの年、郷ひろみも「GO! GO! イヤー紅白スペシャルメドレー」を披露。 しかし、彼の場合は往年のヒット曲でなく、平成21年と22年に発表した曲によるメドレーだった。
 第62回(平成23年)も「Go Smile Japan!!」というタイトルでメドレーを披露。 これはこの年の新曲「笑顔にカンパイ!」と「2億4千万の瞳」のメドレー。 それにしても、彼がメドレーを歌うとき、タイトルにとりあえず「GO」を入れるのはなんとかならんか。

 平成22年以降は大きなヒットがなくなるものの、なつメロでなく新曲を披露することが平成26年まで続く。 この時期は一組あたりの歌唱時間が短くなってきており、郷ひろみも第65回(平成26年)は2分ちょっとと、もったいない歌唱時間だったりする。

 そして第66回(平成27年)、歌合戦における彼の代名詞のような曲「2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-」で35年ぶりとなる歌合戦のトップバッターを務める。

 第67回(平成28年)は、22年前のヒット曲「言えないよ」を、体育会系朝ドラヒロインという妙な肩書きを身につけた土屋太鳳のダンスと共に披露した。 土屋太鳳のダンスをフィーチャーするため、第45回と比べると間奏長め、歌詞短めだったのがちょっと残念。

 第68回(平成29年)は、2年前に歌唱した「2億4千万の瞳」をまたしても歌うことに。 この年荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」を使った「バブリーダンス」で注目を集めた大阪府立登美丘高校ダンス部との共演で「~GO! GO! バブルリミックス~」という変なサブタイトルがついていた。 「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」が発売された1984年はバブル前だという、そこを指摘しても仕方がないだろというツッコミもあったが、彼が歌えば何でもバブルなのである。 彼が「ジャパン!」と言えば、そこには景気のよい日本があるのである。

 第69回(平成30年)は、昔のヒット曲とはいえ19年ぶりとなる「GOLDFINGER '99」。 この年に流行ったできごとや人に扮したダンサーが登場する演出があったため、「~GO! GO! 2018~」というサブタイトルがついた。 こういうへんてこなサブタイトルがついても笑顔で応えてくれそうな郷ひろみである。
 第70回(令和元年)も歌唱曲が「2億4千万の瞳 -エキゾチック "GO!GO!" ジャパン-」となっただけで、趣向は前年と変わらず。

 第71回(令和2年)は、この年亡くなった作曲家筒美京平を追悼して「筒美京平 トリビュートメドレー」。 「男の子女の子」「よろしく哀愁」という、郷ひろみの筒美京平作品としておなじみの2曲を披露。 もうちょっと曲数を増やしてもよかった気がする。

 新御三家の中ではシングルチャートで1位を獲得した作品が1作だけと一番少ない。 西城秀樹はマイクスタンドを振り回しながら歌うといったようなワイルドさ、野口五郎は歌謡曲・演歌寄りで歌唱力をアピールするタイプ。 郷ひろみは二人に比べると一つに絞る売りがないが、声質や歌い方が本当に軽かった少年時代から青年、中年へと成長する中で、うまく時代時代に合わせた自己表現をできたのかもしれない。 1970年代から2000年までヒットを出し続けた息の長さもあり、出場回数は新御三家の中でぶっちぎりで多い。

最終更新 2021年1月15日