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昭和55年デビュー。
翌56年の「スマイル・フォー・ミー」のヒットで一躍スターダムに踊り出たような印象があるが、55年の暮れに早くも「ヤングボーイ」という曲をヒットさせている(もちろん、歌合戦出場に関わるようなレベルではないが)。
昭和56年の出世作「スマイル・フォー・ミー」も実は大ヒットではない。 オリコンのデータでは25万枚を超えた程度。 そして、彼女にとってはトップクラスの売上である。 そんな彼女が歌合戦に6回も出場できた裏には、レコード売上を上回る世間への浸透度が挙げられるだろう。 昭和56年、歌合戦の出場歌手発表と同時期にNHKの好きなタレント調査の結果も発表されているが、デビュー2年目の彼女が女性部門で早くもTOP 10に顔を出している。
また、この年彼女はNHKの歌番組のリハーサル中に舞台上から奈落へ転落し重傷を負っている。 多少なりとも責任を感じたNHKが順調に回復していることを世間一般にアピールする意味合いもあったのではないか。
翌57年から60年までの彼女は自分の立場をよく心得ていた。 歌がうまいから、あるいは爆発的なヒットがあったから歌合戦に出場しているのではなく、あくまでも知名度の高いアイドルとしての出場しているからには、歌以外の要素で視聴者を引きつけなくてはいけない。
57年にはスクールメイツを従えて間奏部分で早がわりというアイドルの王道。 58年には孔雀の羽をつけたマントを広げ、 59年には光ファイバーで作った花を衣装につけ、間奏部分で花の色を変えるという最先端の演出を採り入れた。 60年も熱によって色が変わるという特殊なインクを使用したドレスを着用、歌い始めには無地だったドレスに花の模様が浮かび上がるという趣向だったようだ。
しかし、この60年に一つのハプニングが起こる。
河合奈保子の前は白組トップバッターの吉川晃司。
自分の歌が終わり、河合奈保子の曲のイントロが始まってもステージ中央から去らず、自分が持っているギターに火をつけた。
さらにたちの悪いことに、バックバンドのメンバーがステージ後方から登場する河合奈保子の前に立ちはだかるような形になる。
台本通りでない展開に河合奈保子は歌い出すことができず、周りで踊るスクールメイツ、歌詞字幕を出すNHKスタッフも固まるばかり。
結局、歌いはじめのサビを完全に飛ばすことになった彼女はトレードマークの笑顔もこわばり痛々しい限りだった。
翌61年、彼女は大人への脱皮をはかり、その中で発表したのが本人作曲によるバラード「ハーフムーン・セレナーデ」。 年末にヒットしたこの曲を弾き語りで披露する。
翌62年、歌合戦の大幅な路線変更の波に飲まれ、アイドルという位置づけだった河合奈保子の名は歌合戦から消えた。 彼女は62年までシングルチャートのTOP 10に顔を出していたので、 歌合戦の路線変更があと一年遅かったら、あるいは彼女の位置づけが大人の歌手に変わっていたら出場回数があと1回多かったかも知れない。