歌合戦:出場歌手 ピンク・レディー


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ピンク・レディー:昭和52、平成元、2、12年

 一大ブームを巻き起こした女性2人組。 オリコンシングルチャートで1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて連続9曲1位、うちミリオンセラーは1977年と1978年(昭和53年)に5曲。 通常版とCD+DVD版とか、収録曲違いの複数バージョンとか、握手券・投票券なんかなかった時代である。
 ピンク・レディーの全盛期を知っている世代からすると「そんなに出てたの?」と思われるかもしれない。 噂では、昭和50年代に発売された子供向けおもちゃのクイズで「ピンク・レディーの歌合戦出場回数」という問題の答えが「0回」(もちろん誤り)だったというものもあったらしい。 あとで出てくるけど、全盛期の1978年の歌合戦に出場していないことから、当時は1回も出場していない、とおもちゃの開発担当者が思ってしまったのかも。

 いわゆる「スター誕生」組である。 オーバーオール姿でフォークソングを歌い合格した2人が、1976年(昭和51年)8月に「ペッパー警部」で、超ミニスカートでがに股で足を開く振り付けで歌うという強烈なデビューをしたため、「田舎から出てきた姉ちゃんが芸能界の悪い大人の言いなりになってこんなことを・・・」と思った人もいたかもしれない。 でも、彼女たちはアマチュア時代から、ヤマハでセミプロとして活動しており、当時からホットパンツ姿など、露出度の高い服装で歌ったりしていたそうだ(ケイによると、業務用カラオケマシンを売り込みに行き、「まず私達が歌いまーす」とかやってたんだとか)。 「スター誕生」での衣装は、その前に受けたオーディションで「素人っぽさがない」という理由で不合格だったため、合格するための戦略だったとのこと。 よって、デビュー時からのピンク・レディーのファッションやダイナミックな振り付けは、彼女たちにとってもともと目指していた道であった。

 1976年の秋から冬にかけての新人賞レースで彼女たちを見かける機会は多かったが、この年は歌合戦に出場していない。 「ペッパー警部」が60万枚を超える大ヒットであることを考えると、「当時は新人は歌合戦に初出場できない時代だったから…」と思うかもしれないが、この曲は発売当初は余り売れず、大ヒットになったのは11月末から翌年2月にかけて。 1976年の新人としては売れた方だが、この年の歌合戦にはタイミング的に間に合わなかった。

 翌年は「ペッパー警部」、「S・O・S」という前年発売した曲を含め、「カルメン’77」、「渚のシンドバッド」、「ウォンテッド」、「UFO」とTOP10入り。 特に「S・O・S」以降は1位、「渚のシンドバッド」以降はミリオンセラーの大活躍で、第28回(1977年)の歌合戦に初出場を果たす。
 1977年から1978年は彼女たちの人気のピークであり、仕事量もピーク。 年末にケイが過労でダウンし、ある音楽賞では、司会者が入院中のケイの代わりに歌ったこともあった。 しかし、ケイの体が弱かったからではなく、文字通り殺人的なスケジュールが原因。 たしかに、体格ががっしりしたミーの横に立つとケイは華奢に見えるけど、2人とも体力は十分にあって、多忙なときにはまず付き人が倒れるくらいだった。
 初出場の話に戻ると、大晦日までにはケイも無事退院し、2人そろって紅組2番手で「ウォンテッド」を歌唱した。 この時の衣装はピンク・レディーということでピンク。 当時の歌合戦でよくあったことだけど、テンポがかなり速い。 でも、2分20秒くらいだったので、他の出場歌手と比べて短いというわけでもない。 通常のテレビバージョンを歌合戦で割り当てられた時間内に歌うためにテンポ速くしたんだろうね。 最後の振り付けでは、ミーが髪飾りを飛ばすくらいの勢いで頭を振っていた。

 再び話が歌合戦から離れるが、彼女たちのチャート上でのすごさを示すデータとして、「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」での1位獲得がある。 「渚のシンドバッド」は3週間1位を獲得したあと、4週間1位から退き(この4週間は沢田研二の「勝手にしやがれ」が1位)、その後返り咲きで5週間連続1位となっている。 翌週からは入れ替わりで「ウォンテッド」が12週連続1位。 1週中島みゆきの「わかれうた」を挟んで、「UFO」が10週連続1位。 28週中、27週はピンク・レディーが1位だったということである。 「渚のシンドバッド」が最初に1位を取った週から見ると、35週中30週はピンク・レディーが1位。

 1978年は前述の「ウォンテッド」「UFO」の2曲同時TOP10入りからはじまり、「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」が1位を獲得。「モンスター」まではミリオンセラーである。 瞬発力も持久力もあり、ピンク・レディーの曲が1位でなくなっても、一月半もすれば次のピンク・レディーの曲が1位を取るという状態だった。
 この年の日本歌謡大賞、FNS歌謡祭、日本レコード大賞など数々の音楽賞で大賞(グランプリ)を受賞し、歌合戦の連続出場も当然と思われたが、ピンク・レディーは第29回(1978年、昭和53年)の歌合戦出場を辞退する。 民放の裏番組に出ることが理由だった。

 1979年(昭和54年)に入ると、ピンク・レディーのレコード・セールスは急降下し、前年に発売して1月まで1位だった「カメレオン・アーミー」を除くと1位はなし、秋以降はTOP10入りもしなくなる。 とはいっても、この年はシングルを6作リリースしており、前年から売れていた「カメレオン・アーミー」を除いても3曲がTOP10入りしている。 第30回(1979年、昭和54年)の出場歌手の選考には最後まで残っており、いわゆる「ご意見を伺う会」の結果、選に漏れたらしい。 この年、TOP10ヒットのない石野真子榊原郁恵桜田淳子は出場しているから、やっぱり前年の辞退が印象悪かったんだろうね。

 またまた話が歌合戦からそれるけど、この時期、ピンク・レディーは全米進出を果たしており、"Kiss in the Dark"がアメリカのBillboard HOT 100(当時はシングル・セールスとラジオ・エアプレイ回数から順位を算出していたチャート)で最高37位を記録している。 Billboard HOT 100で成功した日本人としては、何と言っても「上を向いて歩こう」が"Sukiyaki"というタイトルで1位を獲得した坂本九が挙げられるが、彼の場合は日本語でレコーディングしたバージョンがいつの間にかアメリカに持ち込まれて話題となり、アメリカでのレコード発売が決まったという珍しいケース。 最初からアメリカ進出を見据え、英語でレコーディングしたシングルをBillboard HOT 100でTOP 40入りさせた日本人アーティストは、2017年(平成29年)現在ピンク・レディーだけである。
 また、ピンク・レディーはアメリカで短期間ではあったもののレギュラー番組を持ち(低視聴率で打ち切りと言われることが多いが、放送期間延長のオファーを断ったという説もある)、"Kiss in the Dark"以外にも、後にアメリカの舞台女優Irene Cara(アイリーン・キャラ、日本では映画「フラッシュダンス」の主題歌でも有名)が歌うことになり、Billboard HOT 100の4位を記録した"Fame"や、Diana Ross(ダイアナ・ロス)が所属していていたThe Supremes(ザ・スプリームス)が1960年代にBillboard HOT 100で1位を獲得した"You Keep Me Hangin' On"のカバーをアメリカでシングルとしてリリースする予定があったらしく、もう完全にアメリカのマーケットを意識して売り込みをはかっている状態だった。 いろいろ事情があって、アメリカ進出は途中で終わってしまったのが残念。 なお、"Fame"はアイリーン・キャラ版の日本での発売と前後するタイミングで、もともと歌うはずだったピンク・レディーが「リメンバー(フェーム)」というタイトルでカバーしている。 残念ながら、日本でヒットしたのはアイリーン・キャラ版だけだった。

 ピンク・レディーの活動は1981年(昭和56年)の解散コンサートでいったん終了したため、この時点での出場回数は1回である。

 元号が変わって初の歌合戦となった第40回(1989年、平成元年)は、40回という切りの良い数字だったこともあり、番組をニュースを挟む2部構成として、第1部は「昭和の紅白」と称して、昭和の名曲・ヒット曲が数々披露された。 その中で話題となったのが、意外にも初出場となったザ・タイガース同様、番組の中だけの再結成となったピンク・レディー。 第1部終盤にセリから登場したピンク・レディーは、蝶のような羽を付けた衣装で、「ペッパー警部」をサビ前まで歌い、照明が暗くなると衣装が電飾で光る中、互いの羽を剥ぎ取って、次に歌ったのはもちろん「UFO」。 これもサビまでの歌詞が半分にカットされて、すぐにサビへ行く構成。 そして最後に「サウスポー」を1コーラス歌って終了。 「ヒット・メドレー」だったので、当然どれも大ヒットだったが、世間に強烈なインパクトを与えたデビュー曲と、最大のヒット曲とその次に売れた曲。 ベストな選曲。 それでも、この3曲の中で「サウスポー」だけを1コーラスちゃんと歌ったというのが意外だった。
 この再結成にあたり、事前に2人で振り付けを確認していると、「サウスポー」あたりでどうも2人の意見が合わない箇所(ミーは「あった」と言い、ケイは「なかった」と言う)があり、当時のビデオを見て確認したところ、当時からケイは問題の部分の振りを省いていたらしい。 そんなブランクや、30代になったことを感じさせないパワフルなパフォーマンスだった。

 そして、翌1990年(平成2年)も11月と12月の2ヶ月だけの再結成。 日本各地でディナーショーを開催した。 12月まで活動するわけだし、新曲「二年目のジンクス」が「NHK歌謡パレード」で11月と12月によく歌われていたことから、歌合戦連続出場もあるかなと思っていたら、やはりこの年の第41回歌合戦にも出場し、「ピンク・レディー・メドレー」を披露した。 前回もメドレーだったが、曲目を変え「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」と往年のヒット曲を歌い、早がわりをしてラストに歌ったのはもちろん「二年目のジンクス」。 ちなみに、この「二年目のジンクス」は、当時は2人が所属していたレコード会社が違ったことでシングル発売はされず、ずっとあとになってベスト盤に収録されている。
 2人の連続出場の影で、当時現役の若手女性2人組で人気もあったWinkが落選したのは残念。

 次の出場は第51回(2000年、平成12年)となる。 20世紀最後の歌合戦ということでまた登場し、「スペシャルメドレー ピンクレディー2000」を披露。 第40回と同じようにセリから登場した2人。 バックでは「ウォンテッド」のメロディー、「モンスター」のイントロのようなモンスターの声、「カメレオン・アーミー」のイントロも一瞬流れたが、歌ったのは第40回と同じ「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」の3曲。 でも第40回と構成がちょっと違う。 「ペッパー警部」は1番のサビ前の歌詞のカットはあったもののサビあり。 「UFO」はイントロの冒頭と1番のサビ前の歌詞をカットした短縮版の1コーラス。 「サウスポー」は第40回では途中からだったイントロもフルの1コーラス。 やっぱり、「サウスポー」の扱いが一番よかった。 そして、これまた、40代とは思えないパフォーマンスだった。

 最終的に、4回出場しているので、活動期間からすると妥当なところかな、とも思う。 強いて挙げるなら、第30回の歌合戦にも選出して、「アメリカでもヒット中です」と言って「キッス・イン・ザ・ダーク」を歌ってもらえば、NHKの懐の深さを見せられたのに。

最終更新 2017年8月11日