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昭和33年にデビュー。 その年既に「ロリポップ」などヒット曲を出していたらしいが、やはり当時11歳という超低年齢がネックとなったか、初出場は16歳となった昭和38年まで待つことになる。
その昭和38年はテレビ番組「スパークショー」で共演していた園まり、中尾ミエと3人一組で出場し、それぞれが一曲ずつ歌うという変則的な出場。
伊東ゆかりは「キューティ・パイ」を3人の一番手として歌唱。
二番手園まりの「女王蜂」のバックでは中尾ミエと共に変なダンスを披露し、スタッフから「ふざけすぎだ」と怒られたとか。
翌39年も3人一パックでの出場。
歌唱曲は「夢みる想い」となっている。
当時の写真を見ると、前年同様一人ずつが持ち歌を歌っていたように見える。
そして前年のようなおふざけはなさそうに見える。
「夢みる想い」は彼女の持ち歌(イタリアン・ポップスのカバー)なので、他の二人は何を歌ったのだろう。
昭和40年、ついに3人がそれぞれソロとして出場。
この40年と41年はイタリアン・ポップスを歌っていたが、42年に歌謡曲へ転向し「小指の想い出」が大ヒット。
20歳にして大人の歌手の仲間入り。
翌43年の「恋のしずく」も大ヒット。
昭和41年までの年相応か、やや幼めな衣装と比べて、この2年の雰囲気の違いにはびっくりさせられる。
昭和44年には紅組司会者に抜擢される。 司会を務めたことよりも気になるのがこの年の歌唱曲である「宿命の祈り」。 この年の彼女はオリコンのシングルチャートに4曲ランクインさせているが、「宿命の祈り」はランクインした記録がない。 「宿命の祈り」は実はこの年の10月に発売したシングル「青空のゆくえ」のB面だった。
その後も最後のTOP 10ヒットとなった「誰も知らない」を歌唱した昭和46年まで出場を続ける。 翌47年は「彼」「陽はまた昇る」など前年ほどではないが売れた曲があったものの、 出産を控えていたため出場を辞退したらしい。 48年、49年も出場していないが、オリコンチャートイン記録がないため育児休暇中だったのかもしれない。
昭和50年に4年ぶりの歌合戦返り咲き。
しかし、歌唱曲「わたし女ですもの」が返り咲きするほどのヒットだったかどうかは疑問が残るところ。
前年から歌合戦の出場歌手の選考に世論調査を取り入れ、ベテラン歌手の出場を求める声が多かったらしいので、ベテラン歌手としての返り咲きとなったのかもしれない。
もしくは育児が一段落して歌手活動を本格的に再開したのか、はたまたレコード会社枠や所属事務所枠が関係したのかもしれないが、詳しいところは不明である。
紅組司会者の佐良直美から「歌手生活21年のベテラン伊東ゆかりさんを再び紅白の一員としてお迎えできた…」と紹介されるが、佐良直美声のトーンが最後若干小さくなり、伊東ゆかりの顔も少し曇ったように見える。
佐良直美:「やばい、これじゃ褒めてないか」という無言のやりとりがあったかのような気まずさを感じるのは私だけだろうか。 前述のように、「産休の間歌合戦から遠ざかっていた伊東ゆかりが仕事復帰により歌合戦もカムバック」という状態だったのであれば、気まずさは私の勘違いということになるが。
伊東ゆかり:「ええ、どうせ私はしばらく紅白の一員じゃありませんでしたよ」
その後、その佐良直美からバトンを引き継ぐ形でTBSの音楽番組「サウンド・イン・“S”」の司会を務め、昭和53年に「あなたの隣に」が「わたし女ですもの」を超えるロングセラーとなったりするが、この時期は歌合戦出場はない。
当時の彼女は番組の内容と同じく、歌謡曲よりもニューミュージックのような洒落た音楽路線。
歌合戦の中で扱いづらい路線だったこともあるかもしれないが(昭和52、53年とかなり惜しいところで選に漏れていたらしい)、個人的には「わたし女ですもの」よりも「あなたの隣に」を歌合戦で歌って欲しかった。
時は流れ、時代は平成へ。
すっかりお茶の間には女優としてのイメージが定着した彼女は平成4年に朝の連続テレビ小説「ひらり」に主演の石田ひかりの母親役として出演。
この年、この石田ひかりが歌合戦の紅組司会者に大抜擢される。
同年の歌合戦のテーマに「家族」があったため、親子共演という名目で伊東ゆかりもまさかの歌合戦返り咲きを果たすことになる。
歌唱曲は60年代のヒット・ポップス「ボーイ・ハント」。
初レコーディングから30年近く経つが安定した歌声を聴かせた。
NHKでは毎年のように60年代ポップスを振り返る番組を放送する。 それなら伊東ゆかりをはじめ、60年代ポップスに造詣の深い人を毎年一人くらい歌合戦に出場させてもよいのではないだろうか。