歌合戦:出場歌手 伊東ゆかり


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伊東ゆかり:昭和38年~46年、50年、平成4年

 昭和33年にデビュー。 その年既に「ロリポップ」などヒット曲を出していたらしいが、当時11歳という超低年齢がネックとなって出られなかったか、初出場は16歳となった昭和38年まで待つことになる。

 その昭和38年当時は、同じ渡辺プロダクション(ナベプロ)所属の園まり中尾ミエとセットで売り出されていたため、「ナベプロ3人娘」とか、テレビ番組「スパークショー」に出ていたから「スパーク3人娘」と呼ばれていた。 この年の第14回歌合戦では、同年に3人で主演した「ハイハイ3人娘」という映画タイトルのまま、紅組司会の江利チエミから「ハイハイ3人娘」と呼び出されている。 伊東ゆかり園まり中尾ミエ(前年「可愛いベイビー」の大ヒットで一足先に歌合戦出場)と3人一組で出場し、それぞれが1曲ずつ短めに歌うという変則的な出場。 これまでも、歌合戦では白組のコーラス・グループに対抗して、女性歌手が即席でグループを結成することはあったが、一組の枠で出場して、持ち歌をそれぞれが披露したのは、おそらく彼女たちが初めて。 伊東ゆかりは、アメリカン・ポップスで同年発売されたジョニー・ティロットソンの日本デビュー曲「キューティ・パイ」を3人の1番手として歌唱。 2番手園まりが「女王蜂」を歌うバックでは中尾ミエと共に変なダンスを披露し、後にスタッフから「ふざけすぎだ」と怒られたとか。
 翌15回(昭和39年)も3人1パックでの出場。 この時は「張り切り3人娘」と呼ばれていた。 歌唱曲は「夢みる想い」。 後に日本でも人気が出たイタリア人歌手ジリオラ・チンクェッティが、イタリアのサンレモ音楽祭で歌唱し優勝した曲の日本語カバー。 伊東ゆかりもシングル発売していた。
 オリジナルは1人のボーカルのみでバックコーラスも入らない曲。 間奏なしの1ハーフ約3分を、伊東ゆかりのレコーディングバージョンでは、サビのラストをロングトーンにする、ストリングスとピアノが印象的なオリジナルからオルガンとギターが印象的なアレンジに変えるといった独自性を出していた。 歌合戦ではジリオラ・チンクェッティのバージョンとも伊東ゆかりのバージョンとも違う、ブラス強めの演奏に、3人のソロパートありハーモニーありのアレンジになっていた。 歌詞は1番のみで、前後に3人のコーラスを付けているが1分45秒くらいという短さ。 3人の個性のあるボーカルが織りなすパフォーマンスはあっという間。

 ついに3人がそれぞれソロとして出場した第16回(昭和40年)は「恋する瞳」を歌唱。 伊東ゆかり自身がこの年のサンレモ音楽祭に出場し3位入賞を果たしたときの曲である。 イタリアン・ポップスのようだが日本のオリジナルらしい。 そして翌17回(昭和41年)は再びイタリアン・ポップスのカバーである「愛は限りなく」を歌唱。

 昭和42年に歌謡曲へ転向し、「小指の想い出」が大ヒット。 20歳にして大人の歌手の仲間入り。 もちろん、「小指の想い出」はこの年の第18回歌合戦でも歌唱。
 翌昭和43年の「恋のしずく」も創世記のオリコンシングルチャートで計5週間1位を獲得する大ヒットとなる。 この曲は、オリコンシングルチャートで、初めて1位返り咲きを記録した作品らしい。 当然、第19回歌合戦の歌唱曲はこの曲。
 昭和41年までの年相応か、やや幼めな印象と比べて、この2年の雰囲気の違いにはびっくりさせられる。

 第20回(昭和44年)には紅組司会者に抜擢される。 司会を務めたことよりも気になるのがこの年の歌唱曲である「宿命の祈り」。 この年の彼女は、オリコンのシングルチャートで最高3位を記録した「知らなかったの」をはじめ4曲ランクインさせているが、「宿命の祈り」はランクインした記録がない。 「宿命の祈り」は、この年の10月に発売したシングル「青空のゆくえ」のB面だった。
 この時の映像は、後年「思い出の紅白歌合戦」で放送されたが、ちょうどイントロ部分の映像が切れているのと、1コーラスだけで終わっているのが残念。 1コーラスとはいっても、「構わない」という最後の歌詞を何度も繰り返しているため、約2分の歌唱時間となっている。 もともとフルが2コーラスで4分近いから、1ハーフでも長かったのね。

 第21回(昭和45年)の歌唱曲は「さすらい」。 大人のポップスという曲調で、紅組の後ろから3番目という好位置で歌唱している。 この年はカラーのフィルム映像があるが、ところどころ欠落している。 紅組の伊東ゆかりの前に歌った由紀さおりは欠落していると言われていて、紅組で伊東ゆかりの後に歌った青江三奈の映像は残っている。 もし、映像が残っているのであれば、一度観てみたい。

 第22回(昭和46年)も最後のTOP 10ヒットとなった「誰も知らない」で出場している。 この年も、家庭用ビデオテープで録画した映像が残っているが、伊東ゆかりが登場した番組中盤の映像は乱れがひどく、NHKアーカイブスの放送ライブラリーでも公開されていない。 ただ、紅組で伊東ゆかりの2つ前に歌った朝丘雪路や、ひとつ後に歌ったいしだあゆみは、2回ほど民放の番組で放送されている(音声はレコードのものを使ったり、ライブっぽいけど映像と徐々にずれていくので、音声はラジオ音源など別のものを使っているっぽい)ので、こちらも可能であれば観てみたい。
 翌昭和47年は「彼」「陽はまた昇る」など前年ほどではないが売れた曲があったものの、出産を控えていたため出場を辞退したらしい。 昭和48年、昭和49年も出場していないが、オリコンチャートイン記録がないため育児休暇中だったのかもしれない。

 第26回(昭和50年)に4年ぶりの歌合戦返り咲きを果たす。 しかし、歌唱曲「わたし女ですもの」が返り咲きするほどのヒットだったかどうかは疑問が残るところ。 前年から歌合戦の出場歌手の選考に世論調査を取り入れ、ベテラン歌手の出場を求める声が多かったらしいので、ベテラン歌手としての返り咲きとなったのかもしれない。 もしくは育児が一段落して歌手活動を本格的に再開したのか、はたまたレコード会社枠が関係したのかもしれないが、詳しいところは不明である。
 紅組司会者の佐良直美から「歌手生活21年のベテラン伊東ゆかりさんを再び紅白の一員としてお迎えできた…」と紹介されるが、佐良直美の声のトーンが最後若干小さくなり、伊東ゆかりの顔も少し曇ったように見える。

佐良直美:「やばい、これじゃ褒めてないか」
伊東ゆかり:「ええ、どうせ私はしばらく紅白の一員じゃありませんでしたよ」
という無言のやりとりがあったかのような気まずさを感じるのは私だけだろうか。 前述のように、「産休の間歌合戦から遠ざかっていた伊東ゆかりが仕事復帰により歌合戦もカムバック」という状態だったのであれば、気まずさは私の勘違いということになる。

 その後、その佐良直美いしだあゆみが司会を務めたTBSの音楽番組「サウンド・イン・“S”」の司会を務め、昭和53年に「あなたの隣に」が「わたし女ですもの」を超えるロングセラーとなったが、この時期は歌合戦出場はない。
 当時の彼女は番組の内容と同じく、歌謡曲よりもニューミュージックのような洒落た音楽路線。 歌合戦の中で扱いづらい路線だったこともあるかもしれないが(この時期はかなり惜しいところで選に漏れていたらしい)、個人的には「わたし女ですもの」よりも「あなたの隣に」を歌合戦で歌って欲しかった。
 ついでに言うと、昭和54年に発表された「あなたしか見えない」も、大ヒットでもロングセラーでもないが名曲だと思うので、ベテラン歌手という位置づけでの出場ができていたなら歌合戦で聴きたかった。

 時は流れ、時代は平成へ。 すっかりお茶の間には女優としてのイメージも定着した彼女は、平成4年に朝の連続テレビ小説「ひらり」に主演である石田ひかりの母親役として出演。
 この年、石田ひかりが第43回歌合戦の紅組司会者を務めることになる。 歌合戦のテーマに「家族」があったため、親子共演という名目で伊東ゆかりも、まさかの歌合戦返り咲きを果たすことになる。
 歌唱曲は1960年代のヒット・ポップス「ボーイ・ハント」。 初レコーディングから30年近く経つ歌い込んだ曲を安定した歌声で聴かせた。

 当時、NHKでは毎年のように1960年代ポップスを振り返る番組を放送していた。 それなら伊東ゆかりをはじめ、60年代ポップスに造詣の深い人を毎年1組くらい歌合戦に出場させてもよいのではないだろうか、と思っている間に、歌合戦が完全に若者向けの人選になってしまった。

最終更新 2019年1月7日