歌合戦:出場歌手 由紀さおり


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由紀さおり:昭和44~53、62、平成元、4~13、24年

 デビューは童謡歌手(当時の歌手名は安田章子)。 姉の安田祥子とともに、幼い頃から童謡歌手として名を馳せたらしいが、この時代に童謡歌手としての歌合戦出場はなし。 そもそも「童謡枠」なんて、歌合戦にほとんどないけど。

 1965年(昭和40年)からは歌謡曲歌手としてレコードをリリース。 このとき(安田章子名義で歌謡曲を歌っていた頃)はヒットは出ず、最初のヒットは由紀さおりとして初めてリリースした1969年(昭和44年)の「夜明けのスキャット」。 ミリオンセラーとなったこの曲で、この年の第20回歌合戦に初出場する。 当時の歌合戦は「歌は2コーラス」という原則があったらしいが、2コーラス(この曲は2コーラスがフルコーラス)歌うと当時としては歌唱時間が長くなるので、スキャットのみの歌詞である1番の途中から、2番の途中の歌詞に飛ぶという構成。 NHKにはモノクロの映像しか残っていないが、かえって夜明けのような幻想的な雰囲気となっている。

 翌第21回(1970年、昭和45年)に歌唱した「手紙」もオリコン1位の大ヒット。 でも、NHKには第21回の映像は残ってはいるものの、ところどころ欠損しており、由紀さおりの歌唱する部分も残っていないらしい。 第21回の映像は、海外在住の日本人向けにビデオテープをカラーフィルムにコピーしたもの、モノクロのもの(白組司会だった当時NHKアナウンサーの宮田輝宅で家庭用ビデオデッキで記録されたもの?)などいくつか残っているので、どれかに残ってないのかな、と淡い期待を持っているものの、今まで一度も放送されたことはない模様。
 一方、TBSには日本レコード大賞のカラー映像が残っていて、1969年より派手な衣装と、いつも通りのきれいな歌声で歌う彼女の姿を見ることができる。 歌合戦での歌唱も聴きたかったし見たかった。

 第22回(1971年、昭和46年)はあまりヒットしなかった「初恋の丘」を歌唱。 こちらも、現在NHKに保管されている映像の乱れが激しいらしく、今まで再放送されていないのではないかと思う。 でも、今は閉鎖された由紀さおりのファンサイトでは画像を見かけたことがあるので、部分的に(例えば静止画に音声を重ねるなどして)放送されたことはあるのかも。
 翌23回(1972年、昭和47年)はもっとヒットしなかった(オリコンチャートインの記録がない)「故郷」を歌唱。 「故郷」とはいっても、のちに姉・安田祥子と歌唱する唱歌の「故郷」とは同名異曲。 なぜチャートインしなかったのか、不思議なくらい良い歌。 NHKにも美しい映像が保存されている。

 第24回(1973年、昭和48年)は、久々にヒット曲を歌唱。 日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞した「恋文」。 歌唱後に軽く司会者や白組出場歌手とコントをするなど、芸達者ぶりもアピール。
 1988年(昭和63年)に、日本レコード大賞の30回記念番組が放送された際、由紀さおりのレコ大で最も古い映像となる1969年の映像が放送され、1988年と外見があまり変わっておらず、笑いのネタにできなかったことがあった。 その時、由紀さおりは「『恋文』の時の方が違ってかもね」とコメントしており、たしかにひな人形のお雛様のようなボリュームのある髪型になっているような気もする。
 第25回(1974年、昭和49年)もヒット曲「挽歌」で、紅組の後ろから数えて3番目に登場。 司会者の佐良直美が「紅組が自信をもってお届けします」と紹介している。 この頃の歌合戦は、ヒットした・しないに関わらず、歌唱時間は長くても2分30秒くらいであったと言われているが、「挽歌」はアウトロがオリジナルと違って短くなっている以外は、間奏のカットもなく、歌詞もちゃんと2コーラス(フルコーラス)で3分近い歌唱時間だった。
 実はこの年、由紀さおりが紅組司会を務めるという話もあったらしい。

 この後、第29回(1978年、昭和53年)までは、いわゆる歌謡曲歌手として出場。 1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)までは、オリコンのシングルチャートに入った曲は2曲。 しかもいずれも歌合戦では歌われていなかったりする。 紅組歌手がお色気たっぷりの衣装で応援した第28回(1977年、昭和52年)の「う・ふ・ふ」や、第29回に歌唱した夜のムード満点の「トーキョー・バビロン」は、これぞ歌謡曲といった感じでなかなか良い。

 その後、しばらく歌合戦から遠ざかり、第38回(1987年、昭和62年)に9年ぶりに歌合戦返り咲きを果たす。 この年、「お先にどうぞ」という歌謡曲のヒットがあったので、歌謡曲歌手としての返り咲きと思ったが、童謡歌手として出場し、「赤とんぼ~どこかへ帰ろう」を歌唱する。
 第40回(1989年、平成元年)に2年ぶりに出場した際には姉・安田祥子との共演で、やはり「赤とんぼ~どこかへ帰ろう」を披露した。

 第43回(1992年、平成4年)に、3年ぶりに出場した彼女は3回目となる「赤とんぼ~どこかへ帰ろう」を歌唱し、紅組トリを務めることになった。 彼女としては、当然安田祥子との共演ができると思っていたが、NHKは「トリは一人」とソロでの歌唱を要求。 「二人で歌えないならトリを辞退する」と彼女も粘り、妥協案として安田祥子は舞台上には現れず、歌声だけの参加となった。 このとき、安田祥子は出場歌手でもゲストでもない人という扱いで、出演まで他の出演者・関係者の目に付かないよう、幽閉されていたんだとか。 後にSMAPが何度も大トリを務めたことを考えると、何をそんなに「一人」にこだわっていたのか、と思ってしまうエピソード。

 この回以降第52回(2001年、平成13年)まで童謡や唱歌など、お年寄りでもよく知る曲を歌う歌合戦に欠かせない二人として出場を重ねる。 歌唱曲も第45回(1994年、平成6年)・第51回(2000年、平成12年)にも歌った「赤とんぼ~どこかへ帰ろう」だけでなく、第44回(1993年、平成5年)の「月の砂漠」、第46回(1995年、平成7年)・第50回(1999年、平成11年)の「ふるさと」(第50回の表記は「故郷」)、第47回(1996年、平成8年)の「この道」、第49回(1998年、平成10年)の「ゴンドラの唄」など多岐にわたった。 第45回と第51回の「赤とんぼ~どこかへ帰ろう」は、ミュージカルに使うような小型マイクを髪に仕込んでのマイクなしのような歌唱スタイルだった。

 異色だったのが、第48回(1997年、平成9年)の「トルコ行進曲」。 クラシックを二人のスキャットで歌うという大胆な試み。 アルバムにも収録されている曲で、NHKの別の歌番組でも披露したことがあるし、二人のコンサートでもおなじみではあったが、一般視聴者にとってはびっくりな選曲。 さらにX JAPANの解散ステージのあとに登場というタイミングもあってインパクト大。

 そして、今のところ安田祥子と最後の共演となる第52回は、歌合戦で様々な歌手が歌っている「花~すべての人の心に花を~」を歌唱。

 その後、しばらく歌合戦から遠ざかっていたが、2011年(平成23年)暮れにアメリカのグループであるピンク・マルティーニと共演したアルバム「1969」が世界中で大ヒットと報道される。 実際は、音楽配信チャートの非常に細かいジャンルで1位を獲得した、という意味だったりしたが、世界中にピンク・マルティーニの名とともにSaori Yuki(由紀さおり)の名も紹介されることとなり、日本でも逆輸入の形でアルバム「1969」がTOP10入りするなど大ヒットを記録。 第63回(2012年、平成24年)の歌合戦に返り咲きを果たすことになる。
 当日は現地時間では早朝となるアメリカから、ピンク・マルティーニとの共演で「1969」収録曲である「夜明けのスキャット」を披露した。

 2013年(平成25年)以降は再び歌合戦の出場歌手から外れてしまったが、歌謡曲歌手として毎年出場してもいいんじゃないの?と思う。

最終更新 2017年8月11日