歌合戦:出場歌手 布施明


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布施明: 昭和42~55、62、平成2、12、13、15~22年

 1965年(昭和40年)デビュー。
 初の大きなヒットは、翌1966年(昭和41年)暮れの「霧の摩周湖」らしい。 暮れのヒットなので、初出場は翌年の第18回(1967年、昭和42年)となる。 当時20歳になりたて。
 歌合戦での話ではないが、デビュー当時口を大きく開けて歌っていた布施明を見た、同じ事務所の先輩中尾ミエが「口を開けすぎ」とアドバイスしたとか。

 第19回(1968年、昭和43年)、第20回(1969年、44年)と初期の映像を見ると、当時から歌唱力は抜群だったが、衣装にも目が行く。 白組歌手といえば、大半がスーツ、時々演歌歌手が袴姿だった歌合戦において、GSスタイルだったりコート姿だったりする。 よく、歌合戦における白組のベストドレッサーは沢田研二と言われるが、初代ベストドレッサーは布施明だったのではないか。

 第21回(1970年、昭和45年)、それまで番組前半で登場していたが、この年から番組後半に登場するようになる。 歌唱曲「愛は不死鳥」のイメージに合わせ、袖に短冊状の布を縫いつけた衣装(母親が夜なべをして縫ってくれたとか)で登場。 見せ場になるまでなるべく腕を上げないように気をつけたらしい。 「蒼空高く舞い上がる」と歌いながら腕を広げ、喝采を浴びる。

 この第21回と翌22回(1971年、昭和46年)は作・編曲家の宮川泰が指揮を担当。 布施明以上に衣装やパフォーマンスが目立つ指揮者だったので、少しご立腹とか。
 第21回なんて、ステージ中央の階段を布施明が降りて登場するのに、宮川泰が階段の中段で指揮棒を振り回しているもので、メインであるはずの布施明の方が階段の端を下りなければならなかったとこぼしていた。

 第23回(1972年、昭和47年)には、フランク・シナトラで有名な「マイ・ウェイ」をトリの一つ前で歌唱。 この「マイ・ウェイ」は日本でも様々な歌手がカバーしている世界的なスタンダードナンバーであるが、シングルとしてヒットしたという話は聞かない。 布施明のシングルとしてもチャートインした記録がない。 この年に発売した彼のシングルの中で最も売れた「愛すれど切なく」のB面だった。
 当時すでにベテランの域に達していたフランク・シナトラの歌詞をそのまま訳すと、まだ20代半ばだった布施明には合わないので、これからの人生の生き方について歌うような日本語詞となっている。 壮大なバラードだが、当時の歌合戦で歌うには時間が長かったため、イントロはほとんどなし、テンポも速めで、1番が終わると間髪入れずにサビに戻るというちょっともったいないアレンジ。
 この年、胸元に400個の豆電球から作ったバラの花を付けており、途中何度も胸元に目をやって光っているか確認していた。
 ご本人曰く、「照明が強過ぎてバラが全然目立たなかった」とのことだが、ちゃんと赤く光っていた。

 第24回(1973年、昭和48年)には第20回以来2回目となる白組トップバッターとして登場。 歌合戦で歌った中では一番アイドルっぽい曲ではないかと思う「甘い十字架」を歌唱。 曲調はアイドルっぽいが、サビでは広い音域、そしてラストには相当な肺活量を必要とする。 他のアイドル歌手が歌ったら大変だろうが、布施明は余裕綽々。 ただし、この年の歌唱時間がやけに短い。イントロに入る前(布施明がステージに登場して歌う場所に着くまでの場持たせ)の女性コーラスを入れても間奏なしの1ハーフで約2分。

 第25回(1974年、昭和49年)はスパンコールが光るセーターを着て、オリコンのデータ(1968年、昭和43年以降)では初となる50万枚超えとなった「積木の部屋」を歌う。 歌唱順も番組後半へ戻る。

 第26回(1975年、昭和50年)、27回(1976年、51年)はヒット曲をひっさげてトリの一つ前に登場。 第26回は最終的にミリオンセラーとなり、レコード大賞など各音楽賞を総なめにした「シクラメンのかほり」を歌唱。 この曲も歌唱時間が長いので間奏ありの1ハーフ構成だが、それでも3分を超える当時としては破格の扱い。 翌27回は自身の作詞作曲による「落ち葉が雪に」。 いずれもオリコンシングルチャート1位に輝く。 ちなみに、この2回とも対戦相手はちあきなおみ。 若手実力派の対決だが、トリで対戦してもよかったと思うのは私だけだろうか?

 第28回(1977年、昭和52年)と第29回(1978年、昭和53年)も出場しているけど省略。

 第30回(1979年、昭和54年)の歌唱曲は、最後の大きなヒットとなる「君は薔薇より美しい」。 これも広い音域と豊かな肺活量を求められる曲であるが、布施明は笑顔で歌いこなす。

 1980年(昭和55年)、映画「ロミオとジュリエット」で有名なイギリスの女優オリビア・ハッセーと結婚。 この年の第31回歌合戦で歌唱した「愛よその日まで」は、歌合戦で初めて歌われたアニメ主題歌らしい(映画「ヤマトよ永遠に」)。
 この出場を最後に歌合戦から遠ざかる。 日本からも遠ざかっていたらしい。

 第38回(1987年、昭和62年)、何の前触れもなく歌合戦復帰。 なぜか白組2番手という早い時間に登場し(この年のトップバッターが森進一八代亜紀、そして紅組2番手が岩崎宏美というのも何とも不可解)、「そして今は」というジルベール・ベコーの曲を歌う。 歌唱力重視の年だったため、彼が復帰したのはわかるが、なぜこの曲を歌ったのかは私にはわからなかった。
 この曲、海外で歌合戦を視聴した人からの反響が大きかったらしい。

 時代は移り、1990年(平成2年)。 この年からNHKは「21世紀へ残したい歌」を歌合戦で歌ってもらうという方針を打ち出す。 それまでは長い期間「その年に発表された(またはその年に売れた)曲」を歌うことが原則だった歌合戦で、正式になつメロが解禁されたことになる。 その記念すべき一回目である第41回の歌合戦に布施明も当然のごとく出場し「シクラメンのかほり」を歌唱。

 第51回(2000年、平成12年)、20世紀のしめくくりとして、やはり「シクラメンのかほり」で10年ぶりにカムバック。 賞レースの結果を見ても、レコード売り上げを見ても、この曲が布施明を代表する曲に間違いはないが、個人的にはなぜか「マイ・ウェイ」の方を聴きたくなってしまう。
 第52回(2001年、平成13年)には新曲「ア・カペラ」、第54回(2003年、平成15年)には「君は薔薇より美しい」を歌唱し、第55回(2004年、平成16年)についに「MY WAY」が32年ぶりに選曲された(なぜかタイトルは英語表記に)。 そして第56回(2005年、平成17年)は「仮面ライダー響鬼」主題歌である、この年の新曲「少年よ」を歌唱した関係で、ステージ上で仮面ライダー俳優・細川茂樹と共演。

 第57回(2006年、平成18年)には、ジョン・レノンの「イマジン」を歌ったりしている。

 意外なことに、歌合戦で彼が最も多く歌ったのは、ヒットした年の第30回と、21世紀に入ってから第54回、58回(2007年、平成19年)、59回(2008年、平成20年)と後年に歌唱回数を稼いだ「君は薔薇より美しい」の4回。 その後、「シクラメンのかほり」と「マイ・ウェイ」が3回で続く。 2000年(平成12年)から2009年(平成21年)の間に9回出場し、「君は薔薇より美しい」「シクラメンのかほり」「マイ・ウェイ」を計6回歌っている。
 このように、ベテラン歌手は過去の財産である大ヒット曲や代表曲を繰り返し歌うことで連続出場ができるが、歌唱曲が限定されてしまうこと、中堅・若手ポップス歌手へ道を譲りたいということから、第60回(2009年、平成21年)の歌合戦を機に、歌合戦から勇退する。

 彼は、ヒット曲を出した年に相応の歌唱順で歌うことができた数少ないポップス歌手ではないだろうか。 もちろん、その卓越した歌唱力があればこそだろうが、一時期のような番組後半に演歌・なつメロが固まる歌唱順の構成の中に、彼が入ればどれだけいいアクセントになるかと何度思ったことか。 現在は番組後半の演歌・なつメロは少なくなったが、それでもやはり彼のような歌手も番組後半に必要だと思う。

 ちなみに、本当に短足なのだろうか。 「布施明 お尻の下は すぐかかと」という白組司会・山川静夫(当時NHKアナウンサー)の句が懐かしい。

最終更新 2017年8月11日