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1967年(昭和42年)のデビュー曲「世界は二人のために」がいきなりの大ヒット。 2年後の1969年(昭和44年)には早くも「いいじゃないの幸せならば」で日本レコード大賞を受賞。
というか、大ヒットはこの2曲しかない。 でも、第18回(1967年、昭和42年)から第30回(1979年、昭和54年)まで13回も出場している。
ヒット曲が少なくても、幅広いジャンルを歌いこなす歌唱力があり、司会もこなせるくらい話術に長けていれば、これだけ長く出場できる場合もあるということ(白組には歌唱力と「知りたくないの」「今日でお別れ」の二つのヒット曲で22回出場した菅原洋一がいるが、彼の場合は「タンゴ歌手」というニッチ歌手だった点も大きい)。
佐良直美と言うと歌合戦では「世界は二人のために」と洋楽のカバーしか歌っていないんじゃないか、という印象があるが、案外そうでもない。
出場回 | 出場年 | 歌唱曲 | 備考 |
---|---|---|---|
第18回 | 1967年 昭和42年 | 世界は二人のために | 持ち歌(ヒット曲) |
第19回 | 1968年 昭和43年 | すてきなファニー | 持ち歌 |
第20回 | 1969年 昭和44年 | いいじゃないの幸せならば | 持ち歌(ヒット曲) |
第21回 | 1970年 昭和45年 | どこへ行こうかこれから二人 | 持ち歌 |
第22回 | 1971年 昭和46年 | 片道列車 | 持ち歌 |
第23回 | 1972年 昭和47年 | オー・シャンゼリゼ | フレンチ・ポップスのカバー |
第24回 | 1973年 昭和48年 | 世界は二人のために | なつメロ |
第25回 | 1974年 昭和49年 | 花のフェスティバル | 佐良直美自身の作曲 |
第26回 | 1975年 昭和50年 | オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ | ビートルズのカバー |
第27回 | 1976年 昭和51年 | ひとり旅 | 持ち歌 |
第28回 | 1977年 昭和52年 | ラブ・ミー・テンダー~ハウンド・ドッグ | エルヴィス・プレスリーのカバー |
第29回 | 1978年 昭和53年 | 愛の消しゴム | 持ち歌 |
第30回 | 1979年 昭和54年 | 世界は二人のために | なつメロ |
持ち歌(ヒット曲)→持ち歌→持ち歌(ヒット曲)→持ち歌→持ち歌→洋楽カバー→なつメロ→持ち歌→洋楽カバー→持ち歌→洋楽カバー→持ち歌→なつメロという流れで、後半は過去のヒット曲と洋楽カバーと持ち歌で回しているが、なつメロとして歌ったのは「世界は二人のために」だけで、これがヒット当時も含めて3回、洋楽のカバーが3回で全体の半分以下である。
それ以外はその年に発表した曲を歌っている。洋楽カバーも、実はシングルとして発売していたのか?と思ったが、それはない模様(LPはチェックしてないけど)。
初出場だった第18回は、ギターの弾き語りをしながら、一本のスタンドマイクに向かって、応援する紅組出場歌手と共に「紅組のため世界はあるの」と一部歌詞を変えて歌っていた。
翌19回は大きなヒットにはならなかったが「すてきなファニー」という曲を歌っている。
この曲、途中で何度も転調し、曲の最後はファルセットで高い音を伸ばす必要があるが、佐良直美は終始淡々と歌っている。
スタンドマイクが多かったこの頃の歌合戦としては珍しく、ハンドマイクを持って登場し、ステージ中央に歩きながら歌い、持っていた一輪の花(バラ?)を客席に投げる余裕もある。
そして、第20回、レコード大賞受賞曲「いいじゃないの幸せならば」を披露する。 この時も珍しくハンドマイクで、ステージ上を移動しながらの歌唱となっている。 2コーラス目の「あの晩 あなたに抱かれた私」というところでは、歌いながらこの年の白組司会だった坂本九に近づいて慌てさせるなど、終始白組側で歌い続け、白組を攻撃した。 最後、「いいじゃないの幸せならば」の「幸せ」を「紅組」と言い換えて歌っても、もう誰も驚かないような貫禄。 当時24歳。
第21回は、残念ながら歌唱シーンを見たことがない。
翌年の第22回は、紅組の後ろから3番目という好位置。
この年の紅組司会だった水前寺清子の背後にぴったりくっついて登場し、水前寺清子が「ショートカットの女は女らしい…」と言うと、佐良直美がニコニコしながら自分を指さし「私も私も」と無言でアピールし、水前寺清子に無理やり「かわいい」と言わせる小芝居から歌に入っている。
この曲、間奏部分で女性二人(一人は真帆志ぶき、あと一人は朝丘雪路?)がダンスを披露するが、宝塚男役の真帆志ぶきをもう一人の女性を引き寄せると思わせて、逆に引っ張られる形で笑いを誘うようになっており、応援ではなかったような。
第23回は、当時日本で人気のあったフランス出身のダニエル・ビダルが前年歌い、日本でもおなじみのフレンチ・ポップスの1曲となる「オー・シャンゼリゼ」を歌っている。
この曲は、佐良直美の前に歌った村田英雄に語りかけた後、そのまま無伴奏で歌い始め、その後伴奏がついてくる。
音程にぶれはない。
ピアノのすぐそばで歌い始めたので、マイクが拾わないよう音合わせをしたのかもしれないが、イヤーモニターのない時代である。
この年、彼女が初めて紅組司会を務めたこともあって、歌の後に紅組応援団長の水前寺清子がリードして、紅組歌手が佐良直美にエールを送るところまで含めたパフォーマンスのようになっている。
第24回は、当時の歌合戦としては珍しくなつメロを歌う歌手が多かった年。
ヒット曲のなかった彼女もデビューヒットの「世界は二人のために」を6年ぶりに歌った。
紅組司会の水前寺清子から「直美ちゃん、来年こそは自分たちのために歌うようにしような。」と言われている。
ちなみに、当時2人とも28歳。
今であれば、結婚していなくても何も言われない年齢である。
初出場時の歌唱をフルで見たことがないので、同じだったのかわからないが、この年は間奏で結婚式で流れるメロディーに合わせたコーラスが加わり、3コーラス目のサビ以降のコーラスも演奏もゴージャスだった。
第25回に歌った「花のフェスティバル」は、この年2年ぶりに紅組司会を務めていたこともあって、彼女のバックで紅組歌手が一列に並んで腕を組んで踊った。
ちなみに、彼女の曲の前に、対戦相手で先に歌った郷ひろみが当時西城秀樹、野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれていたことに触れ、紅組の桜田淳子、森昌子、山口百恵の「花の高1トリオ」を紹介し、最後に「この3人(佐良直美、島倉千代子、水前寺清子)は?」とお千代さんにマイクを向け、「花のババアトリオ」と言わせている。
台本で書かれたセリフだろうが、当時のお千代さんは36歳、佐良直美と水前寺清子は29歳である。
これで「ババア」なら、今の紅組なんてババアだらけである。
第26回はビートルズのヒット曲である「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」を歌唱。
ビートルズがイギリス出身のバンドだからか、東京パイピング・ソサエティーによるバグパイプの演奏が終わってから「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」へつなぐ予定だったと思われる。
しかし、バグパイプの音がなかなか鳴らず(バグパイプは袋に空気をためてから音を出すので、いきなりキューを出されても対応できない)、この年も紅組司会を務めていた彼女は、歌手の持ち時間は決まっていることを重々承知しているので、焦ったらしい。
結局、バグパイプの演奏が終わる前に「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」の伴奏が始まり、見切り発車のような状態で歌に突入しているように見える。
ステージ上に紅組歌手、ダンサー、そして東京パイピング・ソサエティーがいる中、勢いよくステージ後方から歌いながら飛び出してきた佐良直美は、すぐさまステージ後方に引き返している。
おそらく、ステージ中央近くで鳴っていたバグパイプの音がでかすぎて、伴奏が一瞬聞こえなくなったのだと思う。
何度も書くけど、イヤーモニターのない時代。
東京パイピング・ソサエティーに演奏を止めるよう合図があったのか、ちょうど予定していた演奏が終わったのか、バグパイプの音も止まり、佐良直美は再び姿を見せて歌を続けた。
ところで、歌合戦で歌った「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」、訳詞さがゆうこ(前年の「花のフェスティバル」の作詞者でもある)となっているが、どこまでさがゆうこの訳詞なのかわからないくらい、歌合戦独自の歌詞になっている。
ひょっとしたら、この歌合戦独自の歌詞がさがゆうこによるものなのかもしれない(でも、それだったら訳詞ではなく、日本語詞が正しい)。
第27回は、久々にその年の持ち歌を歌う。 紅組応援ゲストの浅茅陽子、仁科明子の進行によるデニム地の衣装を着た紅組歌手のミニ・ファッションショー(モデルは八代亜紀、桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子、南沙織)があり、最後に登場したのはカウボーイハットに白いシャツとデニムのジーンズというカントリー風の衣装の佐良直美。 ファッションショーに参加しなかった紅組歌手も何人もデニム地の衣装で応援する前で、ギターの弾き語りで「ひとり旅」を歌った。 間奏部分で、白組応援ゲストの中条静雄と前川清がバックバンドの前(紅組応援の後ろ)で「花婿募集中!只今大バーゲン!」という文字が書かれた白い横断幕を掲げるが、文字の上にある矢印は佐良直美ではなく、彼女の応援に参加していない紅組歌手席方向を向いているので、佐良直美には効果なし。 2人は浅茅陽子に追い返された模様。
第28回は、再び洋楽のカバーとなる。 この年亡くなった世界的な人気歌手、エルヴィス・プレスリーの曲をメドレーで披露した。 ダンサーを従えて白いマントをまとった姿で登場した佐良直美は、「ラヴ・ミー・テンダー」を歌い、マントを脱ぐと、おなじみのパンツスタイルになり、アップテンポな「ハウンド・ドッグ」を歌う。 間奏ではダンサーとともに白組歌手席へ向かう振り付けがあるのも、彼女ならでは。
第29回と30回は、紅組歌手をバックコーラスに従えての歌唱というスタイルだった。
第29回に歌われた「愛の消しゴム」はその年の新曲。
キャンドル型のライトを持ってバックコーラスを務めたのは桜田淳子、森昌子、榊原郁恵、高田みづえ、研ナオコ、和田アキ子、八代亜紀、芹洋子、西川峰子、太田裕美、石川さゆり、由紀さおり。
そして、最後の出場となった第30回で歌われたのは、6年ぶりの「世界は二人のために」だった。
青江三奈、都はるみ、ジュディ・オング、山口百恵、大橋純子、渡辺真知子、金田たつえ、八代亜紀が「紅」という文字を大きな赤い紙で作る前を通って歌い始める佐良直美。
2コーラス目に入ると赤い紙を持った8人がバックに来てバックコーラスをするという豪華な演出。
当時、時代はスタンドマイクからハンドマイクが主流になって久しかったが、コード付きのハンドマイクが多かった。
このため、「世界は二人のために」のラスト、紅組歌手が赤い紙で大きなVの字を作る真ん中で、佐良直美はマイクコードを首にかけ、両手でVサインをするという、なんとも彼女らしいパフォーマンスだった。
彼女の歌合戦でのパフォーマンスは、当時としてはかなり自由奔放だった。
歌詞を少し変えて紅組と白組の対戦をあおるのは当たり前。
司会も務めていた年は、白組の司会者を引っ張り出して「男」という歌詞があればこいつ、みたいに強調したり、第26回の「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」みたいにもはや歌詞が歌合戦仕様になってしまったものもあった。
そして、(第21回と22回は見ていないのでわからないが)第23回以降は彼女の曲だけのために演奏がついたり、ダンサーがついたり、紅組歌手の応援がついたり、と豪華な演出だった。
佐良直美を語る時に忘れてはならないのは歌手として5回も司会を務めた強者であるということ。
当時は、司会者がある程度自由にしゃべることが許されていたらしく、アドリブでの白組司会(当時NHKアナウンサーだった宮田輝か山川静夫)との掛け合いもあったらしい。
また、白組の変な演出や失敗には容赦のないつっこみを入れていた彼女。
つっこみの切れ味が鋭すぎて、観客が引いてしまうこともあったが、それを察すると「さて」と素早く話を切り替えて進行していた。
その一方で、彼女と同時期によく司会を務めていた水前寺清子とは、互いをフォローする間柄で、自分が司会を務めていない年には、当時ステージ上にあった歌手席に一人でも多くの歌手が座るよう、舞台袖でお願いしていたらしい(そうしないとリラックスしたい歌手や、自分の本番に備えて集中したい歌手は楽屋に引っ込んでしまうので)。
陰に日向に紅組歌手をまとめていた人だった。
2010年(平成22年)に久しぶりにレコーディングをして、穏やかな歌声を聴かせたが、歌番組やライブで歌うことはないらしい。 司会でもゲストでもいいから、歌合戦の舞台に戻ってきてほしいものである。