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1971年(昭和46年)6月デビュー。
デビュー曲が「17才」だから、17歳でのデビューかと思ったら、正確には17歳になる一か月前のレコードデビュー。
そして、今では沖縄県出身であることは有名だけど、デビュー当時は鹿児島県出身と言っていた時期があったらしい。
「17才」がデビュー曲にして最大のヒット。
新人が歌合戦に出場するのは難しいと言われた時代であったが、「私の城下町」がミリオンセラーとなった小柳ルミ子と共に、デビューした年に第22回の歌合戦に初出場。
紅組のトップバッターを飾る。
新人らしく、とても初々しい。
1970年代の歌合戦で時々見かけた、セットの階段を下りながら歌い始めるという形だったり、初出場の緊張というハンデを考えても、なんかすごく下手に聴こえる。
レコード大賞では普通に歌っていたように思ったんだけど。
歌は2コーラスだけど、間奏をちょっとカットして2分弱という長さ。
第23回(1972年、昭和47年)、沖縄が日本に返還されたことが曲紹介の際にも触れられる。
ということは、この時はプロフィールはすでに沖縄出身ということになってたのね。
歌ったのは「純潔」。
同年に、日中国交正常化を果たしたことにより中国からパンダが寄贈されたことにちなんで、南沙織のバックでは3匹のパンダが、まだレコードデビュー前だったキャンディーズと共に踊っていた。
曲が終わると、パンダの中の人が、当時南沙織と共に「清純派三人娘」とも呼ばれていた小柳ルミ子と天地真理だったことがわかる。
あと1匹は?
なぜか谷啓だった。
「純潔」も前年の「17才」同様、2コーラス歌っても2分ちょっとという歌合戦にとってありがたい長さ。
第24回(1973年、昭和48年)も、曲紹介で前年の沖縄返還に触れられている。 ネタがなかったのだろうか。 この年の歌唱曲は「色づく街」。 曲構成がちょっと変則的で、歌合戦でお決まりの2コーラスにもできないし、アイドル定番の1ハーフも難しい。 当時の他の歌番組ではどのような構成で歌っていたのか、資料がなくてわからないが、歌合戦では、当時としては珍しい1コーラスだった。 しかも、イントロもアウトロもカットするという残念な扱い。 イントロやアウトロをカットしなくても、1コーラスだけなら2分にもならないのに、何をそこまで切り詰めたかったのか。 ちなみに、この年は歌唱時間の長い歌手と短い歌手の差が大きくて、南沙織以外にも無残にヒット曲を切り刻まれた歌手がいた。
1974年(昭和49年)、この年彼女は大学へ進学したらしい。 髪型も、それまでのストレートからパーマをかけ、彼女のパフォーマンスの間奏部分でそのことに触れられている。 この年の第25回歌合戦で歌った「夏の感情」は、歌合戦で歌唱した曲としては初めてオリコンシングルチャートのTOP10に入らなかった曲であるが、歌唱時間は第28回(1977年、昭和52年)までの連続出場の間では一番長い。
1975年(昭和50年)、秋をイメージした「人恋しくて」が久々にTOP10入りとなる。
この年の日本レコード大賞では、大賞候補となる歌唱賞5人に選ばれる。
参考まで、歌唱賞候補の10人から歌唱賞5人に選ばれなかった歌手には、翌年と翌々年に最優秀歌唱賞を受賞する八代亜紀や、前年レコード大賞を受賞した森進一がいた。
歌唱力に絶対値があるのであれば、この二人に勝つことは難しいけど、南沙織はこのころ歌い方を変えて歌がうまくなったとされる時期。
加速度的な歌唱力の向上が認められたのかな、と勝手に解釈。
日本レコード大賞では2コーラス、3分ほどの歌唱であったが、この年の第26回歌合戦では2年前をほうふつとさせるイントロとアウトロのカット、そして1ハーフで2分20秒ほどの歌唱時間だった。
ただ、2分20秒という時間は、当時の歌合戦のアイドルとしてはごく普通の時間。
第27回(1976年、昭和51年)は、当時日本でも人気のあったアメリカの歌手ジャニス・イアンから提供された「哀しい妖精」を歌唱。
大きなヒットとはならなかったが、彼女にとってお気に入りの曲と言われている。
しかし、曲前のコント中にイントロが始まり、コントが歌い出しにかぶってしまうという結果に。
歌合戦独自の梓みちよ、由紀さおり、小柳ルミ子による即席のバックコーラスがよかっただけに、コントの件はとても残念。
コントをしていたのもこの3人だけど、明らかにコントがおさまらないタイミングで曲のイントロ始まってるから、進行が押していたんだろうね。
そして、この3人だから、歌い出しにかぶらないようにコントを打ち切ったりはしないよね。
第28回、一度引退する前の最後の出場となったこの年は、「メリー・ジェーン」でおなじみのつのだひろによる「街角のラブソング」を歌唱。 カラッとしたポップスで、彼女にはこんな面もあるのでは、という歌詞。 歌唱時には、アメリカの南カリフォルニア大学のチア・ガールがダンスで応援したが、その人数はわずか3人。 航空チケット代とか宿泊費の関係でこれ以上呼べなかったのだろうか。
1978年(昭和53年)、学業に専念することを理由に引退。 デビューした1971年から、引退する前年まで、現役期間中すべての年の歌合戦に出場するという快挙を成し遂げた(当時としては、ほかには1959年(昭和34年)から1974年(昭和49年)まで出場したザ・ピーナッツがいたくらい)。
時は過ぎて1991年、元号も変わり平成3年。
この年の第42回歌合戦の出場歌手が決まったと家族から聞かされた私は「南沙織とか言ってたよ」という言葉が一瞬理解できなかった。
「だって、南沙織はもう引退しているし・・・」と思いながら、NHKのニュースを見ていたら、「南沙織さんは、14年ぶりの出場となります」と紹介されていた。
第42回と言えば、南沙織だけでなく、山本リンダ、欧陽菲菲、森山良子など昭和40年代に活躍した歌手が多数返り咲いた年だった。
歌唱曲については、「17才」を歌ってほしいNHK側と、ピアノの演奏をバックに「哀しい妖精」を歌いたいという南沙織の間で調整が続けられ(この年のNHKの番組情報誌「ステラ」では歌合戦出場歌手の歌唱曲の歌詞が掲載されており、南沙織については「歌唱曲はまだ決まっていません」という注意書きと共に「17才」の歌詞が掲載されていた)、最終的に「色づく街」となった模様。
当時37歳とは思えない若々しさと落ち着いたドレス、そしてアイドル当時の面影を残す歌唱で、今回はフルコーラスに豪華なアウトロが加えられた「色づく街」を歌唱した。
現役アイドルだったころは、歌唱時間が短かったり、演出が裏目に出たりと残念な結果に思えることも多かったけど、1970年代の出場シーンが全てNHKに保管されているのは貴重なところ。 また、DVDで全ての歌合戦歌唱シーンを見ることができる数少ない歌手でもあるので、興味のある方はぜひ。