歌合戦:出場歌手 桜田淳子


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桜田淳子:昭和49~57年

 1973年(昭和48年)デビュー。 新人賞を総なめにするが、その年の第24回歌合戦初出場はならず。 逆に、新人賞レースでは桜田淳子の前に涙を飲むことが多かったアグネス・チャンは初出場。
 なぜか? 理由は単純明快でレコードが売れていたのはアグネス・チャンの方だったから。 たどたどしい日本語で愛嬌を振りまくアグネス・チャンは、すぐにものまねされるほどの人気者になり世間への浸透も早かったが、鼻にかかった、芝居がかった桜田淳子がものまねされるにはもう少し時間がかかった。 のかな? 当時の記憶がないのであくまでも憶測。

 翌年の第25回(1974年、昭和49年)、前年に初出場を果たした森昌子に続き、山口百恵と共に初出場。 「花の高一トリオ」揃い踏み。

 花の高一トリオの中では群を抜く完成された美しさ。 山口百恵はデビュー当時は男の子のようで色気を感じさせない風貌であったが、三浦友和との愛を育むことで後を追うように美しさを磨いていったのはもう少し後のこと。 美しさとは無縁かと思われた森昌子も、田舎臭さを残しつつも最大の弱点であった堅い髪質を克服。 化粧をして髪を伸ばすと「あらこんなにきれいだったのね」状態。
 しかし、桜田淳子は高校一年の時、すでに十分美しかった。

 そして美しさと共に、歌唱力もこの時点である意味「完成」していたような気もする。 デビュー当時から歌唱力が評価され、のちにレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞する森昌子、デビュー当時にはお世辞にもうまいとは言えなかったが、年を重ねるごとにぐんぐん歌唱力を伸ばしていった山口百恵と比べると、桜田淳子は若干フラット気味になることはあっても、デビュー当時からそれなりの歌い方で安定していた。 後に表現力が加わったせいか、デビュー当時と比べて逆に音程が不確かになるという不思議な成長の仕方をしていたような。

 彼女の人気は絶大で1978年(昭和53年)まではヒット曲のオンパレード。 思わず歌合戦出場シーンを集めたDVDを作りたくなってしまう。
 第25回(1974年、昭和49年)はバックを花の高一トリオの森昌子山口百恵がコーラスと軽いダンスでサポートする中「黄色いリボン」を歌唱。
 第26回(1975年、昭和50年)は、意外にも唯一のオリコン1位獲得曲「はじめての出来事」を歌唱。 彼女の場合、どうしても賞レースでの頂点は最優秀新人賞を取りまくっていた1973年(昭和48年)で、その頃の映像が頻繁に放送されていた時期があり、全盛期をリアルタイムで知らない者としては「デビュー以降はパッとしなかった」というイメージが強いが、この「はじめての出来事」は山口百恵の「冬の色」と1位を争った曲(共に1位を獲得している)。 もちろん「はじめての出来事」は彼女にとって最大の売り上げの曲であるし、新人賞レースで歌いまくった「わたしの青い鳥」より売れた曲はいくらでもある。 「はじめての出来事」は本番ではちょっと声がひっくり返っちゃうけど、そこもご愛嬌で、バックに紅組歌手が並んで応援していた。
 第27回(1976年、昭和51年)は歌合戦中盤戦のトップを飾り、バックコーラスをはじめ紅組歌手の大半がバックに登場するような大応援ぶりで「夏にご用心」を歌唱。 ヒット曲かつ歌唱も問題なしなのは「黄色いリボン」とこの曲かな。
 第28回(1977年、昭和52年)は紅組トップバッターでパンチラものの超ミニスカート。 冒頭の歌詞を変更して「去年のトマトは白くてダメだったわ」と白組を口撃するのも、対戦意識が高かった当時を感じさせる。
 そして第29回(1978年)には20歳を迎え、ぐっと大人っぽく中島みゆき作品の「しあわせ芝居」を披露。 この頃になると、他の歌番組(「ザ・ベストテン」など)では十分な歌唱時間を与えられていたが、歌合戦では他のアイドル同様短い歌唱時間で、1ハーフだったのが残念。 中島みゆき作品と出会ったことで、彼女の歌唱に「ただ正しい音程で歌えばよいわけではない」という思いが芽生えたのか、ちょっと変化が出たような気もするが、私は彼女の大ファンでも音楽評論家でもないので、そのあたりの詳しい話はその道のプロにお任せする。

 第30回(1979年、昭和54年)の「サンタモニカの風」も10万枚を突破しており、ぎりぎりヒット曲と考えてもよいか。 細くて長い足を惜しげもなく披露している。
 1980年(昭和55年)以降はミュージカル「アニーよ銃を取れ」など舞台での活躍を増やすもののヒット曲はなし。 それでも歌合戦出場は続き、この年の第31回歌合戦では「美しい夏」という曲を歌唱。 彼女としては珍しくツンとした雰囲気で歌っており、あまり歌に不安定感はなかった気がする。 例年に比べれば。

 第32回(1981年、昭和56年)の歌合戦で歌ったのは、ヒットチャートに入らなかった「This is a “Boogie”」。 俳優・女優対決なのか、対戦相手は当時の歌合戦としては珍しいヒットメドレーで攻めてきた加山雄三。 そして、彼女の前に歌った、これまた俳優の西田敏行が彼女のステージでダンスを披露するという演出もあった。
 この頃から、歌は同じ事務所の後輩・松田聖子に任せて、自分は芝居に専念したいと言っていたらしい。

 歌手として最後の出場となった第33回(1982年、昭和57年)に歌ったのは、持ち歌ではなくこの年歌合戦に出場しなかった薬師丸ひろ子の大ヒット曲「セーラー服と機関銃」。 最後に歌った歌が他人の歌というのは、最後の出場で口パクだったと思われる中山美穂くらい残念。 この年の歌唱曲に際しては、出場歌手側から歌いたい曲を3曲提示してもらい、「それも参考にした上で歌唱曲をNHKが決める」というものだった(歌唱曲の希望は出せるが、最終的な決定権はNHKにあるということは、小泉今日子も以前「歌のトップテン」という番組の中で言っていた)。 更にはこの年は過去の曲、他人の曲でもOKだったため、前年からのまさかの連続出場となった西田敏行は、前年の大ヒット曲「もしもピアノが弾けたなら」を含め、自分の持ち歌を計3曲提示したが、NHKから歌うよう依頼されたのは1964年(昭和39年)の井沢八郎のヒット曲「ああ上野駅」だった。 桜田淳子も、NHKから「セーラー服と機関銃」を歌ってください、と依頼を受けた時は耳を疑ったのではないだろうか。 歌合戦のエピソードについて書かれた本の中には、この年「セーラー服と機関銃」を人前で歌ったことがあり、評判もよかったと書かれているため、NHKも桜田淳子に歌ってもらおうと決めたのかもしれない。
 若い頃から音程は若干フラット気味になることもあったが、この年は特に歌と伴奏のキーが違うのではないかと疑うくらい派手にフラットな音程で歌い出している。 本番2週間前くらいにいきなり他人の歌を歌うよう言われ、歌い込みが足りなかったのではないか。 それでも1番では男性ダンサー(ダンディーズ?)が周りをかため、間奏ではコートを脱ぎ早がわり(コートも、中の衣装も白が基調だからあんまり変化ないんだけど)、2番の途中で男性ダンサーと入れ替わるように登場した大人数のスクールメイツを引き連れて、歌合戦最後のステージを飾った。

 第34回(1983年、昭和58年)、歌合戦出場が途切れたのを機会に女優業に専念すると発表。

 個人的には第32回の歌唱曲は地味ながらロングセラーとなった中島みゆき作品の「化粧」がよかったと思うけど、1コーラスが長いので、「歌は2コーラス」という原則が(建前上は)残っていた当時の歌合戦では、歌うことが難しかったかな。 第33回の歌唱曲も、チャートインしなかったのでもともと歌われる可能性は低かっただろうけど、シャンソンのような曲調の「窓」の方がよかったと思う。 この2曲を歌合戦で歌っていれば、ちゃんとアイドル歌手から大人の歌手に変身していたことがお茶の間の皆様にもわかっていただけたのではないかと思う。

 歌合戦との縁はあと1回だけある。 最後の出場から3年後の1985年(昭和60年)、花の中三トリオ以来の仲である森昌子が第36回(1985年、昭和60年)の紅組司会を務めたこの年、レギュラー出演していた朝の連続テレビ小説「澪つくし」が高視聴率をマークし、歌合戦の中で「澪つくし」のコーナーが設けられたため、女優として紅組応援に駆けつける。

 その後女優としての活躍が目立ち始めた矢先に芸能活動から遠ざかる形になってしまった。 時折ステージに少し出演して歌を披露することもあるが、当然のようにプラチナチケットとなって簡単には鑑賞できないので、ぜひテレビで今の歌声を聴いてみたい。 今となっては、一人でも公演できる歌手の方が、女優よりも活動しやすそう。

最終更新 2018年5月27日