笑わぬでもなし
更新履歴をかねた、よしなし事

2018.08.07 ヘロドトス 「歴史」 第九巻113節
ヘンデル作オペラ「セルセ(Xerxes)」のことなど
「セルセ」は「Xerxes(クセルクセス)」のイタリア語読み

本文中に小生の注釈という形で感想を書いてありますが、その部分だけを抜き出して ここに転載しておきます。これはその第三。

ギリシャとの戦いにことごとく惨敗を喫したクセルクセスは、しっぽを巻いて祖国ペルシャに逃げ帰り、その後は精神の箍がはずれたようになってしまった。そして女狂いに走った。ペルシア宮廷内におけるクセルクセスの邪恋をもとにして、はるか後年、ドイツ人作曲家(イギリスに帰化)ヘンデルによって「セルセ」というオペラが書かれている(1738年初演)。その恋の騒動は史実とは異なり、一般受けするように変更されている(弟の恋人に横恋慕)。現在では上演されることはないようだが、主人公セルセが開幕冒頭で歌うアリア(独唱)が、ことのほか有名で、小生が高校時代の音楽教科書にも掲載されていた。それが「ラールゴ(Largo)」または「なつかしい木陰(Ombra Mai Fu)」という美しい曲である。

1986年にニッカウヰスキーが、Kathleen Battleによるこの曲をTV-CMに用いたところ、「スーパーニッカ」の売り上げが2割伸びたという。歌ったKathleen BattleのLPも25万枚を売り上げたと記録されている。ただし、オペラではカストラート(声変わりしていない男性)が歌う設定になっている。

ラールゴ(Largo)またはオンブラ・マイ・フ(Ombra Mai Fu)という曲をYouTubeで探すと、それこそ佃煮にするくらい多くの歌手、演奏が聴けます。このたび「歴史」を訳していて、高校生の頃から知っていた、あのラールゴという曲が、ペルシア戦争後のペルシア宮廷の恋愛劇のアリアだということを知りもしませんでした。それもこれもインターネットのお陰です。Kathleen Battleのオンブラ・マイ・フ:You Tube

なお,このラールゴ(Largo)というイタリア語の意味は、「ゆるやかに」で、この曲を嚆矢として、そのまま音楽記号として用いられています。

オペラ作品で古代ペルシア、ギリシャ時代の史実に材を取った作品は、多くあるようですが、有名なのは、ヘブライ人のバビロン捕囚を材に取った、ヴェルディ作「ナブッコ Nabucco」があります。この第三幕でヘブライ人の奴隷たちが祖国を思って歌う「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」という合唱曲が感動的です。実はこの曲、イタリアの第二の国家と言われるほどイタリア人に愛されていて、イタリアが出場する国際試合ではイタリア人観客が一斉に歌って応援しています。 行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って:You Tube

ヘブライ人のバビロン捕囚は、ユダ王国を征服した新バビロニア王たるネブカドネザル二世(=ナブッコ)によって、B.C.597とB.C.586の二度にわたって行われています。そのヘブライ人を解放したのが、後に新バビロニアその他の国を征服し、オリエントを統一したキュロス大王(キュロス二世)なのです。すなわちアケメネス朝ペルシアの初代国王。

キュロス大王の次はカンビュセス2世、ダリウス一世、クセルクセス一世と続き、ダリウスの時代からペルシア戦役に突入するのです。

そういえば、ヴェルディのオペラには「アイーダ」というのもありますね。こちらは古代エジプトが舞台。

ちなみに、英国の第二の国家と言われているのはエルガーの「威風堂々」という曲。これはもともと器楽曲で、歌詞はついていなかったのですが、国際試合では、歌詞をつけて歌われています。これも聞いていて元気が出ますね。壮観です。 威風堂々:You Tube

2018.08.03 マラソンの起源 ヘロドトス 「歴史」 第六巻116節

本文中につけた注釈の転載。これはその第二。

近代オリンピックのマラソン競技は、ギリシャとペルシャが会戦したマラトン平原の名に由来することはあまりに有名。マラトンでの勝利の報せをできるだけ早く祖国アテネに知らせるべく、一人の兵士がマラトンの平原(およそ三十六Km)を突切って走りきり、アテネに勝利を知らせた直後に絶命したという逸話が伝えられているが、本書には記載されていない。どうやら後からつけ足された架空の話らしい。本巻105節に登場する韋駄天フィリピデスの話と混同している人もあるようだ。

その後の調査結果;プルターク(PlutarchまたはPlutarchus;46年〜48年頃ー127年頃、言わずもがな、対比列伝、または英雄伝の著者)の倫理論集(Moralia)中の、(De gloria Atheniensiumアテナイびとの名声は戦によるか、知によるか?)の巻に当の記述を見つけた。それによると、

「マラトンの勝利を最初にもたらしたのはエロエアダイのテルシッポスであると、ポントスのヘラクレスは語っているが、大方の史家の伝えるところでは、それはエウクレスという兵士で、かれは完全武装のまま、戦闘で負傷して血まみれになりながらも走り続け、アテネについて最初に目についた家の扉を開けて倒れ込むと、次の言葉だけを口走って息絶えた、ということである。"神は我らを救へり。我らが勝った。"」

これに続けて、この逸話のうさん臭さついて言及し、「やらずもがなのこと」と一蹴している。

ちなみに上記プルタルコスの倫理論集(Moralia)は、世界最古の随想録とされているが、未だ邦訳はなされていない模様。

2018.08.03 ヘロドトス 「歴史」 第六巻116節

本文中に記載した小生(前田)の注釈:第一。

ペルシャ戦争 マラトンの会戦

アテネとペルシアがそれぞれ一万と一万五千の軍勢をもってマラトン平原で会戦し、辛うじてアテネが勝利をおさめたのだが、ダティス麾下のペルシャ海軍(一万)は船でアテネの街に向かった。そこは女子供と奴隷だけしかおらず、兵士は全員がマラトンに出払っている。無防備の街なら、負けたとは言え、マラトン戦の生き残りと手つかずの船団兵一万を合わせれば悠々と占領できるはず。

アテネ軍としてはペルシャ軍よりも早く街に帰って迎撃態勢を取らねばならない。で、何とかそれは達成し、ペルシャの攻撃に備えていたところ、当のペルシャ軍はアテネ沖にしばらく碇泊したのち、突然帆を上げ、アテネを後にしてアジアへ向けて帰って行った。

さぞかしアテネはほっとしたことだろうが、この間のペルシャ司令官、ダティスとアルタフェルネスの動向が本文には全く記されていない。なぜペルシア軍はアテネを攻撃せずに撤退したのだろうか。塩野七生氏の説では、ペルシアの二将軍の官僚的な気質がそうさせた、ということである。つまり、さらなる失敗を怖れ、取りあえずはエレトリア征服と奴隷という成果をダリウスへ持ち帰ることで、自らの安泰を図ったということらしい。

それにしてもヘロドトスの調査力(ヒストリアイ)がこの場には及ばなかったということか。他の場面では、ペルシャの内部事情についてやたら詳しいのだが。ここは「どうした、ヘロドトス」と野次が飛ぶところである。もっとも、ダティスとアルタフェルネスが、身の回りの雑用をこなす奴隷身分の従者たちを完全に排除し、文字通り二人きりの密談を行なったとしたら、その内容は決して外部には漏れないだろう。

ほかの場面では、ペルシャやギリシャの貴人たちの会話が筒抜けのようにヘロドトスによって聞き取られ、書き込まれているのは、こうした奴隷たちが会話の場に空気のごとく居合わせていたからと思われる。 ヘロドトスはその者たちから「聞き取り調査」を行なったのだろう。

2018.01.28  『ギリシャ人の物語 V」塩野七生著:これにて完結。

昨年末に発売され、早速購入して一気に通読。今回も楽しませていただきました。 格別印象に残ったのは、ソクラテスの裁判に関する記述と、アレキサンドロスの事績に関する部分。

ギリシャ哲学は、高校時代の「倫理・社会」で少し囓った程度。全く興味がないこともあり、何しろ退屈な授業だった。試験で「ソクラテスの用いた問答法を何というか?」と問われ、「産婆術」という正解を答えられなくて、地団駄を踏んだことがある。

試験前に教科書を一夜漬けで斜め読みしていたが、そんなこと、どこにも書いてなかったようだし、授業でも教師は言及していなかったような気がするーもっとも、居眠りしていた可能性が高いー。そんなこんなで、「授業で言ってないことを問題に出すなよ」と心の中では憤慨していたことを思い出した。以上、半世紀前の話。

今でいうところの五百名の裁判員裁判で「有罪」とされたソクラテスが、毒杯を仰いだ当時のアテネのどうしようもない凋落ぶりが強く印象に残った。

そういえば、「ソクラテスは亡命できたのに、なぜ敢えて毒杯を仰いだのか?」という設問もあったような。・・・その答えは本書に書かれています。

アレキサンドロスに関しては、本書のおよそ7割(全455頁中329頁)を費やして語られていて、これが滅法面白い。『偉人伝』のたぐいは何歳になって読んでも(小生、今年68歳)面白いものです。ただし書き手によりますが。

『ギリシャ人の物語・完結インタビュー』が、例によって新潮社の「波」2018年1月号に掲載されていますので、リンクしておきます。
『私は二千五百年を生きた・前編』
ついでと言っては何だが、次のようなインタビューもあります。
『ローマ亡き後の地中海世界』刊行記念対談

2017.12.23  アトス修道院にいる日本人司祭

その人の名は、日本ハリスト正教会、およびギリシャ正教会に所属するパウエル中西裕一司祭。

この人の息子で、カメラマンの中西裕人氏が、聖地アトスの写真集を出版するという記事が、新潮社のPR誌「波」の2017年12月号に掲載されているので、ここに紹介しておきます。写真集の題名は『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』。対談記事がネットに掲載されていますので、リンクしておきます。ギリシャ正教の祈りとは--中西裕人×最相葉月・対談

ヘロドトスの『歴史』に何度も出てくるアトス岬は、第六巻44節や第七巻22節で述べられている地中海の難所。ペルシア軍が夏の強い季節風で何度も大損害を被った場所だが、ここはギリシャ正教の聖地で、アトス自治修道士共和国というギリシャ正教最大の聖地となっていて、信徒以外の立ち入りは禁止されている(女人禁制)。1988年に世界遺産に認定。

この聖地には、およそ二千人の修道士が修行をしている由。撮影に当たり、息子の中西裕人氏もギリシャ正教に入信したという。

本邦ではギリシャ正教の聖堂は全部で60あまり、そのうち最も有名なのは東京、お茶の水にあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)。信者数は1万人あまり。対してカトリック信徒は44万人、聖堂は971との由。

2017.8.14  ペルシア戦争に吹いた神風

最初はB.C.492年。ダリウスの命を受けたマルドニオスが水軍を率いてアトス岬を迂回しているとき、アトス山から吹き下ろす強烈な北風に見舞われて軍船300隻、兵員2万人以上を失った。第六巻44節参照

二度目はB.C.480年。クセルクセスがサルディスを発してヘレスポントスに架橋工事を完成させたとき。一旦は完成した橋が、その直後,大嵐によって破壊された。 第七巻34節参照

三度目は同じくB.C.480年、アルテミシオンの海戦時。12年前にダリウスの水軍がアトス岬で暴風に襲われたのに懲りて、今回はその岬の根元に軍船を通すため、わざわざ大運河を開墾したというのに、やはり夏に吹く季節風で海戦の最中、風にやられている。 第七巻188節参照

四度目も同じくB.C.480年。クセルクセスがアジアに逃げ帰り、あとを任されたマルドニオスが水軍をマグネシアの海岸に碇泊させている時。ペリオン山から吹き下ろす強風によって大損害を被っている。 第八巻12節参照

ちなみに,日本の鎌倉時代にあった二度の元寇に対して神風が吹いたという説は、単純に暴風雨に遭って元軍が撤退したのではなく、日本の武士団が粘り強く抗戦している中で、暴風雨が到来したということらしい。。 神風 - Wikipedia

2017.8.13  小よく大を制す。テルモピュレー(熱き門)、サラミス、桶狭間

「衆寡敵せず」という言葉があるが、第二次のペルシア戦役では、ペルシア側はまさにこれを地で行くつもりで、20万人(塩野七生氏の説)もの大軍でテルモピュレーに押し寄せ、鎧袖一触のつもりだったはず。

対するギリシャ側は、テルモピュレー(長さ約10Km、片側は急峻な崖、片側は海に落ち込む崖、道幅は最も狭いところで15m)の隘路で待ち受けた。内訳はスパルタの重装歩兵300人を中核としておよそ5千〜7千。これがほぼ全滅するのだが、ペルシア側の損害はこれを大きく上回って、およそ2万。そしてここでペルシア軍の南下を食い止め、時間稼ぎをしたお陰で、次のサラミスにおける海戦の準備ができたのだ。そしてサラミスも狭い湾内での戦闘である。

これを要するに、寡兵が大軍と対等に戦うには、「狭い空間」に限るということ。はるか後年、A.D.1560(永禄3年)、ところも変わり東洋の東のはずれ、日本の戦国時代における新興勢力たる織田信長の小軍(2千)が今川義元の大軍(5千〜6千;全勢力としては3万前後)を破ったのも、桶狭間という隘路での奇襲戦だった。もっとも当日の桶狭間は、今でいうところのすさまじい集中豪雨だったので、これも織田方に有利にはたらいた。

ペルシア戦役での大勝利によって、アテネを初めとするギリシャ人は自信を深め、その後の文明発展を遂げることになった。もちろん織田信長もこの勝利によって大いに自信を持ち、破竹の勢いで勢力を拡大していったことは、諸賢ご承知の通り。

クセルクセスとしては、ギリシャという、狭く痩せた地など「ほんの一握りの麦」ほどの価値しかないと思い、また大軍で押し寄せれば、ただちに征服できると思っていたのが、相手は刃向かう態度を見せ、それでも鎧袖一触と考えていたのが、逆にどこの戦場でも惨敗をきたし、ことごとく自分の予想を裏切る結果となり、クセルクセスは絶望と恐怖に陥ったのであろう。

その恐怖心から大慌てでアジアに逃げ帰ったが、それがきっかけでクセルクセスの中で何かが壊れたようだ。自信喪失のあまり、女にうつつを抜かすようになった(第九巻108節〜113節)。
2017.8.10  第八巻のGodleyによる注釈終了

先にMacaulayの注釈を訳しておきましたが、それも残しておいた。

2017.7.29  ヘロドトス 歴史 第九巻122節(最終節)について

ヘロドトスさん、最後にこんな話を持ってくるなんて、ひねりか効いてますな。 ペルシアのアケメネス朝初代王キュロスがいよいよメディアを滅ぼし、オリエントを統一しようとしている時期に、もっと豊饒な地に移住するべきだと建言されても、それを一蹴したエピソードを、この長大な物語の掉尾にもってくるとは。

もともと、キュロス大王のペルシアという領土は、現在のペルシャ湾の出口に近いホルムズ海峡の奥地にある高原地帯だった。それゆえ狭く、起伏の多い地から移住しようと考える者がいてもおかしくはない。(もっともその後、ペルシア王国の首都は、そこからずっと北西のペルシャ湾最奥部のスーサに移っているのだが。)

それなのに、どうして後に続く王たちが、あの狭く凸凹の多い、それほど肥沃とも言えない、ギリシャという土地をほしがったのか、という謎かけのようでもある。

もっとも、この「歴史」が九巻で完結しているのかどうか、学者の間では議論が分かれるところらしい。というのも、さまざまなエピソードを話している途中で、「後述する」と表現されている箇所がいくつかあり、それが尻切れトンボのままになっているためである。

素人ながら私の感想では、この最終節の構成からして、本人は実際に、書いている途中では書き足りないエピソードを後で書くつもりであったのかもしれないが、九巻まで書いてきて気が変わり、ここで終えることにしたのではないかと、思っている。あるいは長い話を書き継いでいる中で、「あとで説明する」といったことなど全く失念していた可能性も、なきにしもあらず。

かりに書き継ぐとするなら、最終節の前にそれらを配置しなければ、物語の構成がまったくおかしくなる。それほどまでに、この最終節の構成上の役割は重いと愚考する。

2017.7.25  ヘロドトス 歴史 第九巻 カリオペの巻

ようやく最後にたどり着きました。
あとは、第八巻の注釈を手直しすることと、第六巻から第七巻を口語文に 変更するつもりです。

第八巻だけ、Godleyの訳文になぜか注釈がついておらず、やむなくMacaulayの訳文についているものを用いましたが、その内容はギリシャ語の原文解釈に関することが主で、一般読者の読解の手助けになることが、殆どないのです。ただいまAMAZONでGodleyの第八巻を注文していますので、それが届いたら、注釈を完成させます。

口語文に変更する作業は、あまり手がかからないと思います。変えるのは「筆者」という用語を「私」に変えることくらいでしょう。

2017.6.7 ヘロドトス 歴史 第八巻 ウラニアの巻

第七巻の後半以後、話が横道にそれることずいぶん少なくなってきました。 そしてその時点で、はたと気がつきました。この『歴史』は口語体だということに。これに気づいてからは、訳文を会話体,口語体に変えてみました。

どうりで細かな枝葉の多い文章なのですな。調べてみたら、ヘロドトスさん、各地で人を集め、講談師よろしく、そのときどきの聴衆に合わせて『歴史』の中の一節を講釈(口演)していたようです。おそらく木戸銭を取っていたはずですが、それがいかほどだったのか、そんなことも気になります。

従って、この『歴史』は、言ってみれば講談の筆記録という側面があるのかもしれません。日本では『平家物語』や『太平記』に相当するでしょう。もっとも平家物語や太平記は原文が日本語ですから、五七調で語りやすく,耳に心地よい語調になっていますが・・・。

ヘロドトスの文章は英訳文からの判断とは言え、かつて小生がカイロプラクティックの教本を訳していたときの英文の語調とそっくりです。まず議論好きなところ(悪く言えば屁理屈)、そしてひとつの文章に、自分の思いを何でもかんでも詰め込もうとするところ。

その典型例が第一巻の冒頭に挙げた『序言』です。そもそもどんな本でも、序言は著者が気合いを入れて、格好よく見せようという意識が働くために、気取った文章になることが多いもの。ヘルドトスの序言もその例に漏れず,気合いを入れすぎて、ほぼ全文がひとつのセンテンスになっていて、最初と最後で文章が破綻してしまっています。

欧米の小中学生の作文では、先生が口を酸っぱくして「クリアに書きなさい」と指導していると聞いているが、さもありなんと思われる。放っておけば、議論好きな気質から,ぐちゃぐちゃと書き込んで訳が分からなくなるんだろうね。

欧米人の書き癖、気質は少なくとも2千5百年前には、すでにできあがっていたのですな。

2017.4.25  ヘロドトス 歴史 第七巻 ポリムニアの巻

やっとテルモピュレ-(熱き門)の戦いにたどり着きました。
例によって話が横道にそれること多く(?)、ペルシア軍がなかなか前進しません。 特に54節から100節にかけて、ペルシア軍の部隊紹介の部分は、 太古の風俗などに関心のある方を除き、飛ばされても一向にかまわないでしょう。

なんなら前半を大幅に飛ばして101節以降とか、172節以降から読まれてもかまいません。

第六巻の倍ほどの分量だったので、読了に3ヶ月を予想していたのですが、 それに反して早く終わりました。それもこれもインターネットのお陰、パソコンのお陰です。

この二つがなければ、そもそもこんな翻訳作業をしようなどと思いもつきませんし、 ネット環境がない状態で翻訳中の疑問点を解決するとして、図書館で調べるには 膨大な時間がかかります。事実上不可能です。

それゆえにこそ、パソコンやインターネットが普及する前の時代では、身近に膨大な資料を備えたり、図書館を利用できる大学の先生などでないと、このような特殊な文献を邦訳できなかった、というのも、むべなるかな、デス。

2017.3.5  ヘロドトス 歴史 第六巻 エラトの巻

ヒポクラテス「養生法」を掲載してから2年4ヶ月経ちましたが、 新たにヘロドトスの「歴史」、後半のペルシャ戦役の部分訳を 掲載しました。

総司令官の輪番制

これは第六巻110節に出てくるが、Godreyの注釈では一日交替、 塩野七生氏(ギリシャ人の物語T)では四日ごととされている。

国の存亡がかかっている戦闘時にも総司令官を輪番制ですと。 どこぞの国の「お手々つないで皆でゴール」を想起して嗤ってしまうが、 さすがに国家存亡時にはまづいと思うくらいの常識は、 持ち合わせていたものとみえます。

アテネの種々の行政官が1年ごとに交代することに 習ったものであろうが、それにしてもなあ。

そもそもアテネ人が僭主制や寡頭制を嫌ったのは、 市民各人が権利意識が強いため、心の底に 「あいつばかりがなぜ目立つ!」という妬み、そねみがあるに違いないと、 小生などはゲスの勘ぐりをしてしまうのである。

「手柄の独りじめは絶対に許さない」という意識が強いのであろう。 出る杭は打ちたいし、足も引っ張らねばならないのである。 そこで、ゲスな気持ちは表にださず、 相手を凹ましたり、手柄の独りじめを阻止するために考え出したのが、 後世賞賛されている「民主制」という制度ではなかったかと、 ゲスな人間は考えるのである。

「歴史」を読むまでもなく、この世を動かしているのは、 「妬み、そねみと色と欲(ゼニ)」だと私は見ている。そしてこれはしばしば、 「正義」という錦の御旗をまとって表出する。 だから、正義を振りかざす言説は眉につばして 聞いたほうがよいのである。

見てごらん、まなじりを決して正義を振りかざしている人間の腹の底には、 妬み、そねみと色と銭の塊が、しっかり鎮座ましましているから。 とかく「正義」はうさん臭い。

ヘロドトスが「歴史」の序言に、ギリシャとペルシャの いさかいの原因を探究した、と書いているが、「そんなこたあ、あなた、 色と銭、妬みそねみに決まっているじゃあないの。」と言ってやりたい。 が、如何せん、相手は2千5百年前に幽冥境を異にしている。詮方なきや。

しかし、こんなことを言うと、身も蓋もないか。
2014.11.02  ヒポクラテス集典:「養生法 W または夢」

「養生法」シリーズの第四番目です。

フロイトの「夢判断」とは似ても似つかぬ内容ですが、二千年以上も前に夢に注目していたことには感嘆します。「養生法 V」のあと、原稿用紙10枚ほどの分量を訳すのに3ヶ月もかかってしまいました。というのも遊びにかまけていたせいです。

これにてヒポクラテスの著作の翻訳は終了します。英訳文で著作権フリーになっているものはまだ10編あまりありますが、これで打ち止めにします。

17編の著作の邦訳総ページ数は原稿用紙四百枚あまり、要した年月は足かけ三年となります。

2014.08.06  ヒポクラテス集典:「養生法 V」

「養生法」シリーズの第三番目です。

最初は各季節ごとの養生法が述べられているが、全体の3/4ほどは『食べ過ぎ』の徴候と対策に費やされている。

二千年前の古代ギリシャ時代からすでに人類は飽食傾向にあったようです。

『健康時の養生法』でも述べられているが、とにかく意図的に嘔吐することが繰り返し述べられている。

何はともあれ、自戒を込めて、食べ過ぎないように心がけることが肝心ということでしょうか。

2014.06.14  ヒポクラテス集典:「養生法 U」

「養生法」シリーズの第二番目です。

「風」を視点の中心においた季候、さまざまな動植物の食材の特徴、入浴や運動に関して説明されています。

食材に関して、調べかたがまづいせいか、どうしても判明しなかったものがいくつかあります。 それをここに書いておきますので、諸賢のお知恵を拝借したいとお願いする次第です。 どなたかご存じでしたら、ご教示をお願いします。

*第48節:δρακων:dragon fish:Jonesの注では「greater weaver」ともいう。
プログレシブ英和中辞典(小学館)による「weaver」の解説:
ミシマオコゼに似たスズキ目の小形の海産魚(ヨーロッパ産)

*第48節:γλαυκοζ:grey fish:魚の名称

*第48節:κιχλη:thrush fish:魚の名称

*第48節:ελεφττζ:elephitis:魚の名称

*第48節:κεστρευζ:cestreus:魚の名称

*第48節:πiννη:pinna:貝の名称

*第55節:αχραζ:wild winter pears:アクラス?果実の名称

*第55節:κρανiα:cornel berry:クラニア?果実の名称

2014.03.26  ヒポクラテス集典:「養生法 T」

前回、「気が向いたら翻訳する」と宣言していましたが、ゆるゆると翻訳に取りかかりました。人体は火と水から構成されているという基本概念をもとにして、人間および健康を解説している二元論。

冒頭の数節には、明らかにギリシャ哲学の影響を受けたと思われる箇所や、弁証法の嚆矢と思われる言説が認められるようである。

しかし、現在の常識的観点からみれば、どうしても荒唐無稽の感は否めませぬ。乗りかかった舟で、訳してはみたものの、忌憚なく言えば全く面白くありません。そのため、原稿用紙(400字)にして60枚ほどの分量を訳すのに2ヶ月以上かかってしまった。もっとも、翻訳の優先順位を二の次三の次くらいにしましたので、毎日翻訳していたわけではありませんが。

個人的な好みを言えば、具体論を読みたいものです。どうやら次の養生法Uは具体的な食材に関する議論がなされているようなので、少し面白くなりそうです。

2014.01.15  ヒポクラテス集典:「予後」

これぞヒポクラテスの真作と見なされている一編。さまざまな病態の観察記録が系統的かつ帰納的にまとめて記述されている。現代風にいえば、病態分野におけるフィールド・ワークといえるだろう。彼の全著作の内容は今でいう内科、外科、整形外科、婦人科など多岐にわたっている。祖父も父も医師であったらしいので、彼らの臨床経験も受け継がれ、反映されていると思われるが、それにしてもヒポクラテスは一体どれほどの症例を経験したのであろうか。感嘆の念を禁じ得ない

なお、類似の著作には他に「箴言」(既訳)、「予言1・2」、「コス学派の予後」などがある。興味のある方は、大きな図書館で「新訂ヒポクラテス全集」を借りてお読み下さい。

さて、これで十三編の邦訳が完成したが、これにて一旦邦訳作業は終えることにする。ざっと目を通したところ、著作権の切れている残りの英訳文の中には、訳してみたいものはあまりないので。以前にも書いたが、取りかかるとすれば、「養生法1〜4」になるだろうが、何時になるか自分でも分かりませぬ。邦訳に取りかかってからおよそ2年が経過し、少し疲れました。翻訳作業を再開するとしても、今までよりもずっとペースを落とすことになるでしょう。

それにしても、「自然治癒力」に言及している部分はまだ発見できていない。こちらの方の探索作業は継続します(ただ読むだけなので)。ご存じの方がおられましたら、ご教示下さると有り難いことですが。

2013.12.30  ヒポクラテス集典:「人間の本性」

ヒポクラテスが唱えた「四体液説」に関する著述。「血液」、「粘液」、「黄胆汁」、「黒胆汁」のバランスの上で健康維持がなされることを説き、血液→春、粘液→冬、黄胆汁→夏、黒胆汁→秋、という対応を唱えている。

ここでまた余談:
amazonnからヒポクラテス全集の古書出品が消えてしまった。
つい二ヶ月ほど前にamazonnでヒポクラテス全集を検索すると、結構な数で古書の出品が掲載されていたのに、2013年12月になって再び検索してみると、「全集」に関しては全く出品がなくなっている。かろうじて今裕氏の訳本が出品されているのみである。比較的安価と思っていた「古い医術について」(小川政恭;訳、岩波文庫)についても、最安値でも1500円程度まで値上がりしている。
これは一体どうしたことであろうか? まさかこのサイトで邦訳を公開したことが影響しているとも思わないが・・・・・。

ちなみに、今裕氏による全集(岩波書店 1931年 1352p)は個人で55編もの邦訳を成し遂げたもので、これは充分畏敬に値するが、いかんせん底本にしたFuchsによるドイツ語訳が原典から少しかけ離れているようである。つけ加えるに、昭和6年の刊行ゆえか、文章が少々古すぎるように思う。というか、漢字の使用が多すぎるため、現在では極めて読みづらくなっている。

2013.12.19  ヒポクラテス集典:「健康時の養生法」

貝原益軒「養生訓」の西洋版と言いましょうか。類似の論説には他に「養生法T〜IV」、「急性病の養生法」などがある。気が向いたら、これらも訳してみたいと思うが、果たして気が向くかどうか。

ここでまた余談を。古代ギリシャの計量単位について。
時々長さや容量の話が出てくるので、自分ための備忘録としてここにまとめておく。
まず長さの単位。

*1スパン(span):手の指をいっぱいに広げたときの親指の先から小指までの長さ。約9インチ=約23cm

*1キュービット(cubit):中指先端から肘までの長さ=約45Cm〜約52.4Cm。地域によって異同があるようだ。本サイトでは切りがよいので45Cmを採った。

*1ファゾム(fathom):主に海で用いる長さの単位で6フィート=約1.83m。この単位はAdams訳の「関節について」第72節において、ベンチの厚さとして用いられているが、なんとしても1.8mの厚みのベンチというのはおかしいので、Withingtonの用いている数値(1スパン)を採用した。

*1ステード(stade):約180m:ネット検索にて判明

次に容量単位。

*1コチレ(kotyle):約270ml。コチレとはカップのこと。英訳文には「cotyle」とあったので、探し出すのに少し手間取った。これもネット検索で判明

*1クース(chous):約3.24L=12コチレ。これもネット検索

こうしてみると、インターネットがなければ全くお手上げのことがある。これ以外にも、ネットがない時代のことと比較すると、調べ物に関しては天と地ほどの格差がある。

2013.12.15  ヒポクラテス集典:「診療所における心得」

「医師」と類似の内容だが、後半は「骨折」の場合の包帯法に関する解説になっている。

包帯の解説は「骨折」の中で充分語り尽くされた感があるのに、また繰り返されている。少し食傷気味。

そもそもヒポクラテスの邦訳を始めた動機は、脊柱彎曲の矯正に関する解説を読んでみたかったことと(これは「関節について」の中に見つけた)、「自然治癒力」に関する記述を読んでみたかったことにある。しかし自然治癒力に関する記述はまだ見つけ出せていない。

ひょっとしたら、英訳されている31編の中には書かれていない可能性がある。いずれにせよ、見つけた時にはここで報告します。
2013.12.08  ヒポクラテス集典:「術:医術擁護論」

医術を否定する者たちに対する反論の書。原題だけでは内容が分かりにくいので、表記のような副題をつけてみた。

これはB.C.5世紀後半からB.C.4世紀初頭に成立したと見なされている。既訳書の解説によると、いわゆるソフィストたちからの詭弁による誹謗・中傷に対して医術を擁護するために書かれたらしい。

他の技術指導書的な論説と異なり、持って回った修辞には閉口した。高校生の頃の倫理学の教科書の文章を思い出す。

日本語は「膠着語」であるため、文章がだらだらと続くのが欠点、といわれているが、 欧米語だって関係代名詞や現在分詞、過去分詞を使って結構だらだらと続いていますぜ。一つのセンテンスに何でもかんでも詰め込もうとするのは、やめてもらいたいものだ。頭の悪い人間には、一度読んだだけでは全く理解できませぬ。頭の中が欧米語のシステムに慣れていない者(小生のことです)に理解しやすいように、文章をぶつ切りにし、「ワン・センテンスに一つの内容」だけを盛り込むことを心がけて邦文に焼き直してみた。

2013.11.30  ヒポクラテス集典:「医師」

医師が備えているべき技術的なことに関する著述です。「診療所における心得」と同種の内容と思われる。

笑ってしまうのは、第1節の最後の部分。古代ギリシャの昔から、医師という職業は高収入で、女性によくもてていたようです。

2013.11.25  ヒポクラテス集典:「品位」

これまでの「法」、「訓戒・心得」に続き、いわゆる「医の倫理」に関する訓示シリーズの一編です。

ヒポクラテスの著作には、それほどくどい繰り返しが認められないが、それでも同じような内容があちこちで語られている。これも西洋人の習性のようである。

2013.11.20  ヒポクラテス集典:「訓戒・心得」

原題の「precepts」は「教訓、戒め、金言」という意味だが、内容は「医師の心得」のようなことであるので、先訳の例にならって「心得」という題名も併記した。

この中で注目は第13節における他の学派に対する批判ないしは反論である。2500年前の当時は、ヒポクラテスの一派以外にも、派手な衣装に身を包み、これ見よがしのはったりや神頼み、加持祈祷などをこととする医療一派がまかり通っていたことが、文面から推察できる。

一方でヒポクラテスの一派(コス派)は、第1節の内容、その他の著作から判るように、徹頭徹尾、現実主義である。加持祈祷や神頼み的な言辞は一切出てこない。あくまでも多くの病状を観察し、その中から普遍的な法則を抽出しようとする、いわば帰納法的な手法である。これは文化人類学におけるフィールド・ワークに近い態度であろう。

このような態度ないしは考え方が、「医学の父」として現在でも崇められるゆえんであろう。

2013.11.13  ヒポクラテス集典:「箴言」

「aphorism=箴言・格言」というのは、「物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句」というほどの意味である。これに掲載されているのは、ヒポクラテスのさまざまな著作から抜粋されたエッセンスである。

ここでちょっと余談を。
底本とした英訳文は明治維新以前になされているので、現在では意味がすたれている単語が散見される。一例を挙げると「crude」という形容詞。通常の意味は「粗野な、粗雑な、未加工の」という意味であるが、これらの用語を用いると、どうにも意味不明となる文章がある。ネットの辞書(ランダムハウス)その他を調べてみても、めぼしい訳語に遭遇しない。

ふと思いついて本棚に長年眠っている研究社の「新日本英和大辞典」で調べてみると、「((廃))未消化の」という訳が掲載されていた。これでしたね。((廃))というのは、「現在では使用されていない」という意味。
さすがは研究社、これ以外にも似たような例が数件あった。しかしこの辞書、3Kgくらいの重さなので、頻繁に調べるには、年寄りにはこたえます。

余談その二
2500年前の古代ギリシャの時代から、欧米人の思考法の中には、数値にこだわるところと、比較級にこだわるところがあるようだ。
英語を習い始めの頃、「英語(欧米語)というのは、えらく単数・複数にこだわり、他と比べる言い方にうるさいな」という印象を持ったものだが、この傾向は古代ギリシャの時代から連綿としてヨーロッパ人に受け継がれてきているようだ。

しかし、これを正直に邦文に移し替えると、数を指定したり、比較する言い回しが眼(耳?)について、煩わしいこと、この上ない。さり気なくこれを邦文に紛れ込ませるのが、翻訳者の腕の見せ所のひとつといえるだろうか。

最後に、第一章第1節の上方落語調口語訳を。本編で何度も遊ぶと顰蹙を買う恐れがあるので、ここに書いておきます(笑福亭鶴瓶、明石家さんまなどの口調を想像してお読み下さるのも一興かと)。

「箴言」第一章第1節
人の命いうても短いもんやのに、技の道いうたら、なんとまあ遠いことだすなあ。いつになったらたどり着けるんやろか?こらえらいこっちゃ。せやのに、せっかくええチャンスやと思うても、あっという間にどっか行ってしまいよるし、何やってもしくじってばっかりや。もうわて、どないしたらええのか、さっぱり分からんようになってしまいましたがな。

だいたいお医者さんいうてもやね、自分一人だけ診立てがようても、なあんにもならしまへんで。患者さんとかお手伝いさんとか、周りのみんなと力合わせんと、治るもんも治らへんのと違いますやろか?

蛇足:
上記冒頭の文章は、Adams訳では、「Life is short, and Art long」、Jones訳では「Life is short, the Art long」となっているが、ラテン語訳では「ars longa, vita brevis」となっていて、ラテン語訳がなぜか語順が逆転している。

このフレーズはヒポクラテス集典の中でも結構有名であるらしく、「人の命は短いが、芸術作品は後々の世まで長く生きながらえて、鑑賞される」というような解釈がされていた時期もあったようである。しかし、医術を話題にしている中で、「芸術作品」を持ち出すのは、いかにも唐突である。よって、「art」の訳語としては「技術」を用いる方が適切であろう。

2013.11.13 ヒポクラテス集典:「整復装置」
「整復装置」という表題ゆえに、ヒポクラテスのベンチや梯子の解説かと思いきや、何のことはない、「関節について」の抄録でした。これは後代の弟子がまとめたもの、というのが定説だそうです。最後の方になると、単語の羅列ばかりで、文章になっていません。あえてそのままにしておきました。これは完全に肩すかし。

ヒポクラテス集典:「法」
これはごく短いものです。これに類する文典には他に、「訓戒・心得」、「品位」、「医師」などがあるようです。

これら三編についても、順次邦訳に挑戦します。
2013.10.27 ヒポクラテス集典:「骨折」

ヒポクラテス集典の第2弾です。もう暫くすると、「整復装置」の訳を掲載します。

2013.9.29 ヒポクラテス集典:「関節について」

一年ほど前のこと、カイロプラクティックの歴史に関するページを 自分なりに作ってみようと思い、手技療法の起源をWEBで調べていたら、 オーストラリア・アデレード大学の先生が、 ヒポクラテス集典の一部を英訳し、奇特なことにWEB上で 公開してくれていることを発見した。

そこで、カイロの歴史に関するページ作りは中断し、ヒポクラテスの論文を 翻訳することを決意。

取りかかってはみたものの、一割ほど進んだところで, どうしても理解不能の箇所,具体的にはある単語につまずき、 先に進めなくなってしまった。

仕方がないので、翻訳作業は一時中断し、以前から取りかかっていた、 パソコンの中にジュ-ク・ボックスを完成させる趣味の作業を 再開することに。

で、この8月頃にそれが一応完成したので、気を取り直して 再度翻訳に挑戦開始。

以前つまずいた箇所も、ひょんなことから理解できたので、 (それがどこか、何かは、あまりにも初歩的なことになりますので、 恥ずかしくてとても公表できませぬ) 一気に作業がはかどり、9月末に一つ完成しました。

一休みして、できればあと二つの論文を翻訳してみたいと考えています。

英文(おそらくギリシャ語の原典も)は、 コンマやセミコロンを用いて延々と続いており、 指示語が何を指していて、それが前の文章にかかるのか、 はたまた後ろの文章にかかるのか、読み解くのに非常に苦しみました。

これは完全に会話体の講義録で、しかも技術(医術)の指導書です。

この前の更新はちょうど4年前になります。 このサイトはもうそろそろ閉じようかと 思っていたのですが、 もう暫く続けることになりそうです。
2009.10.28  気になる病気

つい最近のこと、重症の線維筋痛症の方が劇的に回復したことを 知りましたので、そのことを追加しました。
2009.8.9  SOT デジャネット物語(4)

2009年初頭から、身内に相次いで発病者が続いたせいで サイトの更新ができなかったが、ようやく時間の余裕ができたので、 カイロ・ジャーナル紙への投稿記事を転載します。
2008.7.3  SOT デジャネット物語

カイロ・ジャーナル紙への投稿記事を転載
2007.9.27  SOTの著作権に関して

管理人の所属しているカイロの協会(PAAC)から、 カイロの著作権問題を提起する記事の掲載を依頼された。
2007.3.20  管理人の運営している治療院の治療結果を集計し、公開する。 まずは腰痛から取り敢えず掲載します。
2006.6.21  サイトの画面構成を変更

わがサイトも開設10年になり、フレーム構成の画面に 飽きてきましたので、少し変えることにしました。

英文翻訳の仕事で、サイトの手入れをする時間が 取れなかったのですが、やっとその時間ができました。

しかし、ファイルの数が多いので、手直しも結構な 作業量でした。


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