人間の本性   ヒポクラテス著
Nature of man  Hippocrates


掲載日 2013.12.30
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英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. IV 1923
Loeb Classical Library

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邦訳者(前田滋)の序

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追記:
英訳文は(そしておそらくギリシャ語の原文も)、コンマ(、)やセミコロン(;)で延々と文章が続いていて、段落が全くない。しかしディスプレイ上で読む際には、画面に適度な空白がないと極めて読みづらいので、英文のピリオドを目安にして、訳者の独断で適宜改行をつけ加えたことをお断りしておく。

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人間の本性   ヒポクラテス著
Nature of man  Hippocrates


英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. IV 1923
Loeb Classical Library
邦訳 : 前田滋 (カイロプラクター、大阪・梅田)
( http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jh-nature-man.html )

1.
人間の本性について、医術に関連すること以外の話を聞き慣れている人は、この話題に興味をそそられることはないだろう。というのも、人間が空気であるとか、火や水や大地であるとか、その他明らかに人間を構成するものではないものから人間が成り立っているなどと、私は決して言わないからである。そのような話はそれに関心のある人に任せておこう。

しかし、そのような話をする人たちが正しい学識を備えているとは、私は思わない。というのも、彼らは同じ概念に則っていながら、同じ考えを表明するわけではないからである。彼らは、その概念に同じ補足を追加しておきながら - 「存在」というのは単一体で、しかもこれは単一にして全体であると彼らは主張する - その名称は同じではないのである。すなわち彼らの中のある者は、この単一にして全体であるという存在は空気であると言い、別の者はそれを火であると言い、また別の者は水であり、大地であると言う。ところが、彼らはそれぞれが自分の主張に対して愚にもつかない証拠や証明を挙げているのである。

実際のところ、彼らは同じ概念を基盤にしているのに、同じ主張をしないと言うことは、彼ら自身の学識もまた誤りであることを示しているのである。

これを理解するための最も良い方法は、彼らの論争の場に立ち会ってみることである。同じ論争に同じ聴衆が集まっているというのに、決して同一人物が三度続けて勝ちをおさめることはなく、ある者が勝てば、次は別人が勝ち、その次は群衆を前にして、たまたま最もよく舌先が回った者が勝つのである。

しかし、事実に関して正しい知見を得たと主張する者は、その知見が事実に基づく知識であるなら、またそれを正しく論述するなら、その者の主張が常に勝ちをおさめ続けるはずである。

私の考えでは、そのような人たちは自身の無理解から彼らの議論において自分自身を覆しているので、図らずもメリッソス(*)理論の正当性を立証しているのである。

*Jones注; B.C.440年頃に隆盛を極めたエレア学派の哲学者。実在は永遠、無限、不変、単一であると唱えた。実在と四つの要素のどれかを同一視することに、どれほどの困難があるのかを提示することによって、論者は「メリッソス理論の正当性が立証される」としている。

*小学館、国語大辞典(新装版)1988 より:エレア学派:B.C.6世紀後半からB.C.5世紀初頭にかけて南イタリアのエレアでパルメニデスの創始したという哲学学派。一切の生成変化を否定し、真の存在は単一で不変であると説いた。代表者は創始者のほか、ゼノンが有名。

2.
このような者たちに関しては充分語り尽くしたので、話題を医師に転じることにしよう。医師たちのうち、ある者たちは人体は血液であると言い,他の者たちは人体は胆汁であると言い、またある者たちは人間は粘液であると言う。ここで、医師たちは形而上学者と同様に同じ補足をつけ加えているのである。というのも、彼らは人体というのは単一体であると唱え、彼らが望む通りにそれぞれ別個の名称をつけているからである。そしてこれは暑さや寒さによって形と力を変え、甘くなったり苦くなったり白や黒その他さまざまに変化すると唱えているのである。

しかし私の考えでは、これらの考えもまた誤りである。ほとんどの医師たちは、これらと全く同じでないとしても、これと似たような考えを持っている。しかし人体が単一体であるなら、決して痛みを感じるはずはないと私は考えている。人体が単一体なら、それによって痛みに苦しめられるものはありないはずであるゆえ。たとえ人が苦しんでいるとしても、治療法もまた単一となるはずである。しかし、実際には治療法は多数ある。

実のところ、身体の中には多くの構成要素がある。それらはお互いが自然の性状に反して加熱、冷却、乾燥、加湿によって病気を引き起こすのである。その結果、病気の形態も多数あり、それらを治療する方法も多種多様なのである。

人体は血液であり、それ以外の何物でもないと主張する人に対して、人体が形態を変えることがないままでさまざまな性状を呈し得ることを証明してもらいたいと私は思うのであり、また血液のみが明らかに人体の構成要素であると見なされる時間や、年間の季節や人生における時期を明示してもらいたいと私は思うのである。というのも、血液そのものが唯一の構成物であると判る季節があるはずと考えるのが自然であるので。

人体は粘液のみで構成されていると唱えている人に対しても、また胆汁のみで構成されていると唱える人に対しても、私は同じことを言いたい。

私としては、次のような提言を証明するつもりである。すなわち、人体を構成するものは慣例と性状に従って常に同じであり、それは人間の老若、季節の寒暖に拘わらず違いはないのである。また私は、個々の構成要素が人体中で増減する原因の必然性の証拠を提示し、論述するつもりである。

3.
まず最初に生殖は単一体からは生起し得ないものである。交配せずに、どのようにして単一体が生殖しうるだろうか。再び言うが、同種のしかも同質の相手と交配しない限り、生殖もどんな子孫もあり得ないのである。

さらには、寒と暖、乾と湿などの組み合わせにおいて、一方の構成要素が他方より優勢になり、優勢な方が劣勢な方よりさらに優勢になると、生殖は起こらないだろう。

それゆえに、複数のものから、これらが相互に充分調和しない限りは生殖が生起しないというのに、事物が単一体から生起するというのは、どのようにすればあり得るだろうか。他の全ての事物も人間の本性もこのようなものであるので、人間の必然性は単一ではなく、生殖に関わっている個々の構成要素は、生殖に寄与する能力を体内に備えているのである。

再び言うが、個々の構成要素は人間の身体が死を迎えた時に、それ自身の本性すなわち湿は湿に、乾は乾に、熱は熱に、冷は冷に戻るはずである。このことは動物その他全ての事物の本性でもある。全ての事物はこれと同じように誕生し、またこれと同じように死を迎える。それらの本性は、私が上で述べた構成要素から成り立っていて、そして個々の事物は、これまでに述べたように、構成物そのものに帰結するのである。またこのことが出発点なのである。

4.
人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を有している。これらのものが人体の本性を作り上げていて、これらを通して人間は痛みを感じたり、健康を謳歌したりするのである。そして、これらの要素が、混合体の点から、また機能の点から、お互いに然るべき比率である時、またこれらが完全に混じり合っている時に、人間は最も完全な健康状態を獲得するのである。

痛みは、これらの要素のうちのあるものが不足したり過剰になったりした時に、あるいは体内で他の構成要素と混じり合わずに単離した時に、感じるのである。ある構成要素が単離して孤立している時には、その部位が病気になるだけでなく、その部位は過剰な構成要素で溢れ、痛みや苦痛を起こすのである。

実のところ、ある構成要素が過剰になるのを避けるために、必要量以上に身体から流れ出すと、それが欠乏して痛みを引き起こすのである。一方、体内で構成要素の欠乏、移動、他の構成要素からの分離が起きると、これまでに述べた通り、二つの苦痛を被ることになる。すなわち、一つはそれが流出してきた部位と、もう一つは流入した部位である。

5.
さて、人体の構成要素が慣例と性状に従って常に同じであると提言していたが、その由来を提示してみせると私は約束していた。これらの構成要素は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁であると私は考えている。

最初に私は次のように主張しておく。すなわち、これらの名称は慣例によって区別されていて、それらのうちどれ一つとして他のものと同じ名称ではない。さらに性状によって、それらの基本形態は区別され、粘液は血液とは全く別物で、血液は胆汁とは全く別物で、胆汁は粘液とは全く別物である。

一瞥してもそれらの色が似ているようには見えないし、手で触れても似ているようには思えないというのに、どうしてそれらがお互いに似ていると言うことがあり得るだろうか。それらの構成要素は暖かさも、冷たさも、乾き具合も、湿り具合も同じではないのだから。

それら本来の形態や能力はお互いに違いが大きいので、そもそも火と水が同じでないなら、それらも単一ではあり得えないのである。

次に挙げる論拠から、これらの構成要素が全て単一ではないこと、そしてそれぞれが独自の能力と本性を備えていることが分かるだろう。すなわち、粘液を取り除く薬を人に与えると、その人は粘液を嘔吐するだろうし、胆汁を引き寄せる薬を与えるとその人は胆汁を嘔吐するだろう。同様に、黒胆汁を引き寄せる薬を与えると、その人は黒胆汁を嘔吐するだろう。また、人の身体を傷つけると血液が流れ出るだろう。

どんな日でもどんな夜でも、冬でも夏でも、人が息を吸い、息を吐いている限りは、あるいは生まれつき持っているそれらのうちのある構成要素が奪われるまで、上記のようなことは全て生起することが分かるだろう。それらの構成要素が生まれつき備わっている(そうでないことがどうしてあり得るだろうか)ことは既に述べている。

そして、人間が生きている限りは、これら全ての構成要素は明らかに、また常に身体の中にある。そして人は、これら全ての構成要素を持っている人間から生まれ、またこれら全ての要素を持っている人の体内で養育されるのである。つまりそれらの構成要素とは、私が根拠を挙げて論述したものである。

6.
人間は単一の要素から構成されていると主張する人たちは次のような思考形式に影響を受けているものと私には思える。すなわち、人が過剰な浄化剤を服用して、ある時には胆汁を嘔吐したり、またある時には粘液を嘔吐して死亡するのを彼らが見ていて、嘔吐して死亡した吐瀉物から、人間は単一体から成り立っていると考えるのである。

人間は血液から作り上げられていると主張する人たちもまた同じ思考形式を用いている。この人たちは、喉を切られて出血する人を見て、血液が人間の霊魂になっていると考えるのである。彼らは全員が論説中において、このことを根拠として用いている。とはいうもののまず、過剰な浄化剤を服用して死亡する場合、胆汁だけを吐く人は誰もいないのである。しかし、胆汁を除去する薬を飲むと、最初に胆汁を吐くが、続いて粘液も吐く。その後、これらに続いて力むことで黒胆汁を吐き、最後には混じり気のない血液も吐く。

同じことは、粘液を引き寄せる薬を飲んだ時にも起きる。これを飲んだ人は最初に粘液を吐き、次に黄胆汁、その次に黒胆汁、そして最後に混じり気のない血液を吐き、それから死亡する。薬剤が体内に入ると、これは最初に、それ自身に最もよく似ている人体構成要素を引き寄せ、その後ほかの構成要素も引き寄せて浄化するのである。

これと同じように、大地に種をまかれ、成長する作物もまた、それらが地中に入ると、大地の構成要素のうちで、それに最もよく似ているものを引き寄せる。それらは酸味や苦み、甘み、塩味その他のものである。そして最初に植物は自分自身に最もよく似ている要素を引き寄せ、その後に他の要素も引き寄せるのである。

体内の薬もこれと同じ作用をする。胆汁を引き寄せる薬は最初に全く純粋な胆汁を引き寄せ、その後に混じり気のある胆汁を引き寄せる。粘液を引き寄せる薬は最初に全く純粋な粘液を引き寄せ、それから混じり気のある粘液を引き寄せる。そして喉を切られた人からは最初に非常に温かくて赤い血液が流れ出し、その後に粘液や胆汁の多く混じった血液が流れ出るのである。

7.
人体中の粘液は冬に増加する。粘液は身体の構成要素の内で最も冷たいものであるゆえ、冬に対して最も親和性が高いからである。粘液が最も冷たいという根拠は次のことにある。すなわち、粘液、胆汁、血液に触れてみると、粘液が最も冷たいことにある。また粘液は最も粘度が高いが、黒胆汁の後で最大の力を加えることで排出される。しかし、力で動かされるものは、その圧力によってより熱くなる。これら全てにも拘わらず、粘液はそれ自身の本性から最も冷たい要素であることが明らかである。

冬には粘液で身体が満たされることが、次に挙げる根拠から分かる。冬には、痰や鼻からの排出物には粘液が最も多く含まれる。そしてこの季節には、大部分の腫れ物は白くなり、病気全般は粘液質となる。

そして春には依然として粘液が強勢なままであるが、他方で血液が勢いを増す。寒さが緩み、雨季がやってくると、驟雨と暖かな日々に応じて、血液が増えるからである。一年のうちのこの時期すなわち春は湿度が高くて温かいので、血液の本性と最も親和性が高い。このことは次の事実から間違いないと知れる。人々が赤痢と鼻からの出血に襲われ、それに最も熱くなって紅潮するのが主として春と夏なのである。また夏には血液が依然強勢であるが、胆汁が体内に増えてきて、これが秋まで続く。

秋には血液の量が減るが、これは秋が血液の本性と反対であるためである。一方で体内の胆汁は夏と秋に強勢である。このことは次の事実から間違いないと知れる。この季節には、人々は催吐剤を用いずに嘔吐するが、浄化剤を用いた場合の吐瀉物は、ほとんどが胆汁である。このことは人々の体熱と顔色からも明らかである。しかし夏には粘液が最も弱い。それは、この季節が粘液の性状と反対で乾燥して温かいためである。

秋には体内の血液が最も少なくなる。秋は乾燥して身体を冷やし始めるからである。秋に最も大きく強くなるのは黒胆汁である。

冬が来ると胆汁が冷やされて量が減り始める。そして雨が多くなって夜が長くなるので、再び粘液が増える。

これら全ての要素は常に人の身体の中に含まれているが、季節の巡回に合わせて、それらは順に、またその性状に従って増えたり減ったりする。

年々歳々、全ての年は、全ての要素すわなち熱、冷、乾、湿気に関わっているので、実にこれらのどれ一つとして、この宇宙に存在する全ての事物がなければ一瞬たりとも持ちこたえられない。そしてその一つでも欠けると全てが消滅する。それは、同じ必然性の理由から、全ての事物は相互に構築され育成されているからである。そして正に、生まれつき持っているこれらの要素がどれか一つでも欠けると、その人は生きていられないだろう。

一年のうちで、時には冬が最も強く、また時には春が、時には夏が、時には秋が最も強くなる。同様に人間もまた時には粘液が盛強となり、時には血液が、時には胆汁が、すなわち最初に黄胆汁が、その後いわゆる黒胆汁が盛強となる。

このことの最も明白な根拠としては、同じ人に同じ薬を年に四回飲ませてみると、冬には最も粘液の多いものを嘔吐し、春には最も水分の多いものを嘔吐し、夏には最も胆汁の多いものを嘔吐し、秋には最も黒の多いものを嘔吐することが挙げられる。

8.
このような事情から、冬に増加する病気は夏には減少するはずである。また夏に増加する病気は冬には減少するはずである。ただし、ある日数の期間内に変化しない病気を除く。ある日数の期間については後に述べるつもりである。

春に始まる病気は秋には終結することが期待され、秋に始まる病気は春には終結するはずである。

ある病気がこれらの日限を超えて続く時には、これは一年続くものと知るべきである。医師もまた、体内の個々の構成要素は、これに最もふさわしい季節に応じて盛強となることを弁えて、病気を治療しなければならない。

9.
さらに、充実によって生じる病気は減弱によって治り、減弱によって生じる病気は充実によって治る。また、運動によって生じる病気は休息によって治り、怠惰によって生じる病気は運動によって治る。これを総括すると、諸々の病気、体質、季節、年齢に関する既定の性状に対抗するように、医師は専念しなければならない。そして、緊張しているものは緩め、緩んでいるものは引き締めねばならない。このようにすることで、病気になっている部位が最も休まるからである。そして私の考えでは、これが治療というものなのである。

ある場合には食餌が病気を引き起こすことがある。またある場合には呼吸して生命を維持している空気が病気を引き起こすことがある。これら二つの間の区別は次のようにしてつけるべきである。多くの人たちが同時にある病気にかかる時には常に、その原因を最も共通すること、また我々全員が最もよく利用するものに求めるべきである。このようなものと言えば、我々が呼吸するものである。なぜなら、各人が摂る食餌が原因でないことは明白であるゆえ。というのも、病気は万人を順に襲い、老いも若きも、男も女も、酒飲みも下戸も、大麦のパンケーキを食する人もパンを食する人も、重労働する人も身体を動かさない人も冒すからである。たとえ人々がどんな食餌法に従っていようとも全ての人たちが同じ病気にかかるのであるから、食餌は原因となり得ないのである。

しかし、あらゆる種類の病気が一箇所で同時に起きる時には、個々の例で、それぞれの食餌が原因であることは明らかである。そして治療法は、病気の原因に対抗するように行なうべきで、これはすでに他の所で説明していることだが、食餌を変えるべきである。というのも、そのような患者が欲する食餌は、全てまたは大部分、あるいはある部分がその人に適合していないからである。医師はこのことを学んで変えるべきである。そして患者の体質、体格、季節、病気の種類などを調べてから治療に取りかかるべきで、すでに述べたように、時には除去し、時には追加して、年齢や季節、体格、病気などいくつかの条件に適合するように薬や食餌を変えるべきである

しかし、一つの病気が流行する時には、食餌が原因ではなく、我々が呼吸するものが原因であることは明らかである。そしてこの呼吸するものには有害な排出物が含まれていることが明らかである。

この期間には、患者たちに向けて勧告するべきことがある。すなわち、食餌は病気の原因ではないので、人々はこれを変えるべきではない。しかし、普段の食物と飲み物を徐々に減らして、身体をできるだけ痩せさせ、弱くするべきである。食餌を急激に変えると、それによって身体に何らかの障碍が生じる恐れがあるゆえ。食餌が患者に害をなさないことが明らかである時には、このようなやり方で食餌を摂るべきである。

そして、空気の吸入はできるだけ少なくし、原因となるものをできるだけ遠ざけるように気をつけねばならない。また病気が流行している地域からできるだけ移動し、身体を痩せさせるべきである。このようにして痩せると、深くて頻繁な呼吸の必要性を最小限に抑えることになるからである。

10.
身体の中で最も頑健な部位にできる病気は最も危険である。病気が発生した部位に留まるなら、最も頑健な部位が痛みを感じるので、全身もまた必ず痛むはずであるから。病気が頑健な部位から軟弱な部位に移動する時には、その病気を除去することは難しい。しかし病気が軟弱な部位から頑健な部位に移動する時には、それを除去するのは比較的簡単である。というのも、頑健な部位の強さのために、そこに流れ込む体液を消耗させるのも簡単に成し遂げるからである。

11.
血管のうちで最も太いものは次のような性状を呈する。これらは身体の中に四対ある。一対は頭部の後ろから首の後を通り、脊柱横の外側部を通過して腰部と大腿に達している。その後は脛(すね)を経て足首の外側から足へと延びている。従って、背部と腰部の痛みに対する瀉血は膝窩か足首の外側で行なうべきである。

もう一対の血管は頭の耳の横から頚を通っているので、頸静脈と呼ばれている。この血管は脊柱両横の内側部を走って腰部に至り、睾丸と大腿に達している。その後は大腿内側を走って膝窩を通り、最後には脛(すね)から足首内側と足に達している。従って、腰部と睾丸の痛みに対抗するには、瀉血は膝窩内側と足首内側に行なうべきである。

三対目の血管は左右のこめかみから頸部を経て肩甲骨の下を通り、肺の中で合流し、右からのものは左側に、左からのものは右側に達する。右の血管は肺から乳房の下を通り、脾臓と腎臓に達する。左の血管は肺から右へ走り、乳房の下を経て肝臓と腎臓に達する。これら二つの血管は共に肛門で終わる。

四対目の血管は頭の前面と目から始まり、頚と鎖骨の下を経て腕の上部から肘に至り、前腕から手首と四指に達している。その後は四指から逆に戻り、手の膨隆部から前腕を肘へと上昇し、上腕下部を経て腋下に至る。そこから胸郭を経て上方の血管は脾臓に達し、下方の血管は肝臓に達する。そして最後には共に腹部を通って陰部に終わる。以上が太い血管の配列である。

腹部からも非常に多くの、またあらゆる形態の血管が全身に出ていて、これらによって栄養が身体に運ばれている。太い血管から出ている血管もまた腹部に達し、身体の内側と外側両方から他の体部に分布している。それらはお互いに交通し、内方の血管は外方の血管と、外方の血管は内方の血管と交流している。それゆえ、瀉血はこれらの状況に従って実施するべきである。切開する時は、痛みが起きやすく、血液が集まりやすい部位からできるだけ離れた部位に行なう習慣をつけるべきである。このようにすれば、突然で急激な変化が最小限になるだろう。そして血液が同じ部位に集まる習癖を変えることになるだろう。

12.
発熱を起こさずに多量の痰を吐く人や、痛みを伴わないで尿に濃い膿の沈殿物がある人、赤痢のように血便を排出する人で、これが長期間続き、35才以上の年齢なら、これらは全て同じ原因による病気である。というのも、これらの患者たちは若年の頃勤勉に精励して重労働に携わっていたはずで、仕事から解放された後は以前の肉づきと大きく異なる軟らかい肉がつき、そのために以前の身体の状態と肥大した状態との間に大きな違いが生じて、もはや調和が取れなくなっているのである。

従って、このような状態の人が病気にかかると、最初は気がつかないが、やがて身体が衰弱し、漿液状の物質が広い通路を求めて血管を流れる。

異常な体液流が下腹部に向かうと、便は体内にある時の状態に非常に近いものとなる。これは、腸が下方に出やすくなっているので、内容物が小腸に長く留まらないからである。

異常な体液流が胸に向かうと膿胸が発生する。これは浄化物が上方に向かう経路を通過し、それが胸部に長時間大量に留まって膿に変わるためである。

異常な体液流が膀胱に流入すると、その部位の熱のために体液が熱く白くなって分離する。上澄み部分は灰汁となり、重いものは底に沈んで膿と呼ばれる。

子供の場合には、この部位の熱と全身の熱のために結石ができる。しかし、成人では身体が冷たいので結石はできない。人間は誕生した最初の日に最も体温が高く、最後の日に最も冷たくなることを知っておかねばならない。また成長し、力強く発達する身体は熱くなることや、体力の衰えと共に身体が衰退し始めると、冷たくなることは必至である。

このようなわけで人間は最初の日に最も成長し、それに比例して熱くなる。その後、最後の日には衰退が最も強く、それに比例して冷たくなる。このような状態にあるほとんどの患者は衰弱の始まった日から数えて45日経過すると自発的に健康を取り戻す。この期間を過ぎる人は、他の病気が発生しない限り、1年で自発的に回復する。

13.
病気を発症してから間もなく、その勢いが強くなり、その原因が明らかである場合には、その経過を予想するのは極めて容易である。この時には、患者自身が病気の原因と戦うことによって治癒をもたらさねばならない。このようにすれば、体内に病気を引き起こしたものが取り除かれるであろうから。

14.
尿に砂や白い沈殿が含まれる患者は、初期には太い血管の傍にできた化膿性の腫瘍を患い、その後腫瘍が早期に破れなかったために膿が白い沈殿となって血管の外に流出し、尿と共に膀胱に流れ込んでいるのである。

尿に血液だけが混じっている患者の場合には血管に病気がある。尿が濃くて毛髪様の小さな肉片が混じっている場合、この徴候は腎臓の病気と関節炎によるものであることを知っておかねばならない。尿は澄んでいるが、時々はふすまのようなものが混じる患者は、膀胱に乾癬ができている。

15.
ほとんどの発熱は胆汁に由来する。発熱には、明らかに痛みとは別に起きるものを除いて四種ある。それらの名称は、持続熱、毎日熱、三日熱、四日熱である。

持続熱は最も多量で最も純粋な胆汁によって起きる。その分利は最も短い間隔で起きる。身体が多量の熱で温められるので、身体は冷える間もなく急速に衰弱するからである。

毎日熱は持続熱に次いで多量の胆汁によって起き、持続熱よりは長くかかるが、原因となっている胆汁の少なさに比例して、他のどれよりも早く終結する。これは、持続熱では身体に休息の時間が全くないのに対して、この発熱は休息の時間があるためである。

三日熱は毎日熱よりは長くかかり、それより少なめの胆汁から起きる。三日熱は、毎日熱よりは身体が休息する時間が長いので、それだけ長期にわたる。

四日熱は概ね同様であるが、三日熱よりは長くかかる。これは熱を起こす胆汁の量が少なめであるのと、身体が冷える休息時間が長いためである。この過度に執拗な状態は黒胆汁に由来している。というのも、黒胆汁は体液中で最も粘度が高く、そのために最も長い時間にわたって粘着するからである。

ここにおいて四日熱は怒りっぽい性格に関わることが分かるだろう。というのも、人々が四日熱に襲われるのはほとんどが秋で、25才から45才の年齢の人であるため。全ての年齢のうちでこの年代は黒胆汁が最も多く、秋もまた全ての季節の中で最も黒胆汁に支配される季節なのである。

この季節以外、またこの年齢以外で四日熱にかかる人は、別の病気にかからない限り、長期間患うことはないと、知っておくべきである。

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