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梅田なつかし
Umeda Antigua


2020年7月21日


当サイトの管理人は1950年に生まれた。1955年頃に鳥取市内からJR大阪駅(いわゆる梅田)と天六の中間あたりに引越し、小学校卒業直前の2月末に守口市内に移った(1963年)。

しかし中学校は元の居住地区の市立扇町中学校に進学(いわゆる越境入学)。 その後、高校は阪急電車の十三駅(梅田からわずか二駅)に近い府立十三高校(自称)に進学。大学は京都市内の北部にあった。

そこを卒業後は5年間、横浜、東京方面に棲息していたが、30の時(1980年)に大阪、守口に舞い戻り、治療院を開業。

その後紆余曲折をへて41の時(1991年、天六の居住地を離れてからほぼ30年後)から、卒業した中学校の校区(いわゆる「東梅田」)で治療院を営んでいる。 現在地に移ってから、これまたほぼ30年になる(2020年現在)。

こうやって振り返ると、25才から30才までの期間を除き、ハナ垂れ小僧の頃からずっと大阪市内の北部、いわゆる梅田近辺をウロチョロしていたことになる。 そしていつのまにか七十路を迎えてしまった。そこで、わが子供の頃の『梅田』を偲び、いわば自分自身の備忘録のつもりで、このページを作ってみた。


★阪急三番街阪急百貨店うめだ本店

1969年:ここの管理人が高校を卒業した年だが、 この年の2月には阪急電車の梅田駅の北方移転工事が着工し、 11月30日に完成している。

同時期に阪急三番街という地下街も完成している。高校卒業後は京阪電車で京都の大学に通っていたので、梅田に行くことがなかった。夏休みになって久しぶりに梅田に出かけ、阪急電車のホームが、いつもの場所から消えてしまっているのにビックリしたことを覚えている。

三番街の北東出入口の上部には、線の画家と言われるベルナール・ビュッフェ(1928~1999)による「Hankyu Sanbangai」という、直線を多用した看板文字が掲げられていたのだが、この看板も数年前に撤去されてしまった。
Bernard Buffet
出典:umedahigashi.com
この映像は南東側の出入り口


1929年(昭和4年)に旧阪急百貨店ビルの完成以来、1969年までの40年間、 阪急梅田駅のコンコースは阪急百貨店ビルの一階にあった。 1960年以降の生まれの人にこの話をすると、「えっ、あんなところに駅のホームがあったの!」と ビックリされることが多い。おそらく、その翌年に開催される大阪万博に合わせての改変だっただろう。

なお、阪急梅田駅の変遷に関しては阪急梅田駅の歴史 3に詳しい。

当時のコンコースのデザインは建築家の伊東忠太によるものとされている。いにしへのヨーロッパを想わせる様式で、ステンドグラスが印象的だった。当時のスナップ写真をごらんあれ。

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出典:ja.wikipedia.org

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出典:kannnon.blog11.fc2.com

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出典:ateliermm.exblog.jp

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出典:ja.wikipedia.org

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出典:kannnon.blog11.fc2.com 見よ!このステンド・グラス

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2001年1月撮影

上は南から北に向かっての眺め:ここがかつての発着ホームだった。ただし、両側から内方に店舗がせり出しているので、実際のホームの幅は見えている通路の3倍以上あったはず。

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2001年1月撮影:南から北に向かっての眺め


そして2005年(H17)8月から旧ビルの南半分の解体建て替え工事が始まり、
2009年(H21)9月から北半分の立て替え開始。
2012年(H24)10月20日には、全館新装開店を迎えた。

ご覧の通り、ただひたすら明るいだけの通り道になってしまった。

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出典:news020.blog13.fc2.com 北から南に向かっての眺め



★楽譜の ササヤ書店国鉄大阪駅前のバラック街


高校生のころ、梅田界隈にもひとりで出かけられるようになり、ときどき楽譜(主に合唱曲)を買うために梅田のササヤ書店に行った。楽譜といえばこの店が随一で、楽譜の品揃えでは全国的に有名だったようだ(当時はそんなこと全く知らずに利用していた)。

この店は当時、敗戦直後にできた闇市から続く、大阪駅前バラック街(梅田線維街)の東端(御堂筋側)にあった。たしか二階建ての小さなビルだったと思う。その店に出入りする際、西の方をヒョイと見ると、通りの北側に木造のバラック街が見えた。 見るからにいかがわしい雰囲気があって、高校生の分際では、その街に入って行くのは、多少の恐怖心もあり、ためらわれた。

梅田線維街
1951年4月の梅田線維街 出典:「なにわ今昔」

1962年頃の大阪駅前
1962年頃の大阪駅前 出典;「おおさか100年」
大阪駅西端上空から南東方向の眺め。左端が旧阪神百貨店、その右側が増築中のビル


1970年開催の大阪万博に合わせて駅前再開発が計画され、まず1969年9月1日には新大阪駅の近くに「新大阪センイシティ」が完成し、繊維関係の商店や問屋はここに移転、その他の商店も(おそらく優先的に新ビルに入居できることを条件に)このバラック街から立ち退き、ビル建設が着工された。それが現在の大阪駅前第一ビルから第四ビルである。

第一ビル完成:1970年4月(12階、大阪万博開催とほぼ同時)
第二ビル完成:1976年11月(16階)
第三ビル完成:1979年9月(35階)
第四ビル完成:1981年7月(25階)


駅前第一ビル~第四ビルの配置図
駅前ビル群
出典:https://www.toshohouse.co.jp

駅前第一、第二ビル
駅前第一ビル 駅前第二ビル

駅前第三、第四ビル
駅前第三ビル 駅前第四ビル
出典:ja.wikipedia.org


第一ビルは完成から50年経過しているので、今後の処遇をどうするか議論が始まっているようだ。 ただし、このビル群、賃貸ではなく分譲形式のため、区分所有者の意見とりまとめが難しく、 再建計画がなかなか進まないようだ。

くだんのササヤ書店も第二ビルに入居し、現在も営業している。ここの管理人が横浜から舞い戻り、治療院を開業したのが1980年10月。その翌年には駅前第四ビルが完成し、入居者募集のニュースが幾度となく流れていたのを記憶している。一区画が当時の金額で数千万円と高額なのにもかかわらず、高い応募倍率だったようだ。それは、第四ビルの近くに地下の新駅ができる計画が発表されていたからである。

その後、開業してみたものの、いつまで経っても新駅ができないので、人の流れがおよばず、営業不振で撤退した店が徐々に増えていった。結局、地下新駅(東西線の北新地駅)が開業したのが1997年3月8日。第四ビルの完成から16年後のことだった。

なお、この闇市で台湾出身の劉盛森という青年が27才(1947年)で開店した純喫茶マヅラは、梅田界隈では有名な喫茶店で、バラック街から立ち退き後も第一ビルの地下で営業を続け、 2018年でもなお現役(98才!)で店に出ているという取材記事が残っている。 この青年の娘が私と同じ高校の同期生であることを、はるか後に知った。姉妹店「キングオブキングス」も営業している。うーむ、手広い!


★旭屋書店本店

そういえば、旭屋書店もこの線維街の西の端、四つ橋筋の角にあって、高校卒業まではよく足を運んだ。いつも目についていたのが哲学関係の場所にあった「ユリイカ」という雑誌。それから建築関係の場所にあったラーメン構造という用語。全く興味がなかったので、調べもしなかった。世の中には面白い用語があるのだな、という感慨しかなかった。

特に「ユリイカ」は、そういう種類の烏賊がいるのだろう、それにしてもなぜ烏賊が哲学なのか?と頭をひねるばかり。その後何十年も経ってから、疑問が氷解した。くだんの言葉はもう少し正確にいうなら、「ヘウレーカ」というギリシャ語だった。これは「われ発見せり」という意味で、古代ギリシャのアルキメデスが浮力の原理を発見したとき、思わず叫んだ言葉であるそうな。

閑話休題。
その旭屋書店も立ち退きによって御堂筋沿いの細長いビルに移転(1969年)し、 跡地にはヒルトンプラザとヒルトンホテルが建設されている。 そして2011年(H23)12月には、この本店も閉店してしまった。

1969年~2011年まで営業していた旭屋書店の本店ビル
旭屋書店ビル
出典:bb-building.net



★梅田のスケートリンク

正式には「梅田阪急スケートリンク」というらしい。阪急梅田駅東側で中津寄りの地域の再開発計画によって、この場所にあったスケートリンクもなくなってしまった。その跡地には阪急電鉄本社ビル(19階)が1992年に竣工している。

正確な年月は不明だが、再開発の着工前、1988年頃までは営業していたのではなかったかしらん。

中学、高校時代、時々はここに遊びに来ていた。高校二年生の二学期末試験の終わった当日の午後、 学年一同だか学級一同だかで滑りに行ったのが最後だった。同級の女子生徒に手をつないでもらって 脚をクロスしてコーナーを回ろうとしたら派手に転倒してしまったのが、今となってはいい想い出になっている。

これもずっと後になって知ったことだが、このスケートリンク内で歌手・女優のいしだあゆみ(1948~)の母親が喫茶店を経営していたらしい。その縁で娘の美人四姉妹がスケートを始めるようになった、というのは有名な話だ。

少女の頃のいしだあゆみ四姉妹:左端がいしだあゆみ
いしだあゆみ四姉妹
出典:『徹子の部屋』 2005年4月8日放映


母親の顔は見たことはないが、この四姉妹の上を行く美人だったようで、 NHKの朝ドラで主人公にもなっていた(「てるてる家族」、なかにし礼;原作、2003年放映)。

長姉の治子は1968年のグルノーブル冬季オリンピック出場。次子がいしだあゆみ、末子の石田ゆりも歌手デビューしているが、すぐに作詞家、作家のなかにし礼と結婚している。


★梅田コマ劇場
上記の再開発に伴い、大阪における有名な梅田コマ劇場も1992年に大阪駅近くの線路際から この地に移転し、その名も「梅田芸術劇場」(当初は「飛天」)と名称を変えて営業している。

阪急梅田駅北側の見取り図:1955年(S30)
芝田町商店街
出典:umedahigashi.com
上図の右上端部が梅田スケートリンク(現在の阪急電鉄本社ビル)



★我が母校;大阪市立扇町中学校

この学校も今はない。とはいえ、ほぼ同じ場所に隣の菅南中学校と合併して「天満中学校」と名前を変えて1995年から開校している。

扇町中学校の前身は扇町高等女学校、その前は大阪監獄(刑務所)だったということを聞かされていた。 その名残りで、隣接する北野病院に面した塀は4~5mもの高さだった。

この「大阪監獄」というのは1882年12月に現在の扇町公園から北野病院一体の地域に「堀川監獄」 として発足し、1903年に「大阪監獄」と改称され、1920年6月に堺市に移転している。

その跡地に扇町公園や高等女学校、病院が作られたようだ。

扇町公園内には東洋一と言われる水泳競技場があり、夏場は公式の水泳大会が しょっちゅう開かれていた。「1番のコース、○○高校、ヤマダクーン」などという、 出場選手を紹介する拡声器の声が授業中にも聞こえてきて、今でも耳に残っている。

小学生の時には、この公園が格好の遊び場で、クラスの仲間と一緒に野球なんかしていると、 この競技場に大型バスが停車し、中からなにやら大きな箱のようなものを搬入しているのを、 何度も見かけた。

そのときは、「あれは何だろう?」ぐらいにしか思っていなかったのだが、 はるか後年、それは朝比奈隆が主宰する大阪フィルハーモニー交響楽団の大型楽器を 保管するためだったことを知った。大フィルは当時金がなかったため、 専用の稽古場や倉庫を持っておらず、大阪市に談判して水泳場の一階一部を 保管場所に借りていたそうな。

ちなみにその後大フィルは1991年に西成区岸里の大阪フィルハーモニー会館に拠点を構えている。

その他、隣の北野病院が元の扇町中学校の敷地に移転し、2004年には近隣の北天満(私の母校)、斉美の小学校が統合されて北野病院の跡地に扇町小学校となって開校している(2007年に大阪市北小学校を統合)。そして北野病院の前にあった大阪市立大学工学部もどこかに移転してしまった。結果、北から順に北野病院、扇町小学校、天満中学が並ぶこととなった。

IR大阪駅から扇町公園
北野病院付近
出典:kitano-hp.or.jp

上の拡大図:北から北野病院、扇町小学校、天満中学校
北野病院付近
出典:kitano-hp.or.jp



★梅田OS劇場とOSミュージックホール

JR大阪駅から天神橋筋六丁目に向かって進むと、最初の交差点を過ぎたところの 左にOSミュージックホール、右に梅田OS劇場があった。

すなわち梅田OS劇場は現在のOSビルの地である。1947年(S22)に開業。 1954年(S29)から1991年(H3)2月に閉館するまでは、70mmのシネラマ映画を専門に上映していた。

たしか映写機3台で上映していたと思う。これすなわち通常スクリーンの倍の幅ということで、あまりに前の席で見ると左右の視野角が広すぎて見切れないことになる。閉館後は1993年に現在のOSビルが完成している。

ジュリーアンドリュース主演の「サウンド・オブ・ミュージック」は、この映画館で見た。

この映画館の筋向かいには、東宝直営のOSミュージックホールというストリップ劇場があった。

それが今のHEP NAVIOのあるビルの一階部分。1954年(S29)7月9日から、 またしても1969年(S44)3月30日に閉館するまで、関西・大阪あたりにしては、 やや上品な内容の演し物をやっていた。いや、小生その当時は小・中・高校生だったので、中に入って観劇したことはありませぬゾ。これは巷の噂話として耳にしていたことデス。かの谷崎潤一郎も、ここへよく通っていたそうな。あのスケベオヤジなら、さもありなん。

小生の母親が結婚前の看護婦仲間が、この劇場の事務員をやっていたので、小学生の頃は時々母に連れられてここを訪れたことがある。たいていは事務室に入っていったが、小学5-6年生の時だったか、あるとき母がいきなり劇場に入ってゆき、「おまえ、ここで見てるかい?」といわれ、ドギマギしたことがある。

興味は人一倍あったけれど、眺めて楽しむ度胸と勇気はございませんでしたナ。 結局母の尻について事務室へ直行。それにしても小学生の息子にヌード・ショーを見せるとは、何という母親でありましょうや。

この劇場の大通りに面した壁には、出演している踊り子たちのスチール写真が ベタベタと張り出されていたので、そこを通るたびに、決して顔をねじ曲げることなく、横目で半裸女性の写真を眺めてワクワクしておりました。


天六ガス爆発事故

これは、大阪市営地下鉄の谷町線、東梅田駅から都島までの延伸工事の途中で、天神橋筋六丁目駅(天六)地下の工事中に発生した事故である。1970年(S45)4月8日17時15分頃、工事中の地下に埋設されているガス管からガスが漏出し、対策処理に来ていたパトカーのエンジンに引火して大爆発を起こした。死者79名、重軽傷者420名の大惨事となった。

小生、その時大学2年生に進級する直前の春休み中だった。その数日は実家にいて、当日の午後、突然オヤジが、天六にうまいモツ鍋屋があるから行くぞ、ということで早めに仕事を切り上げ、守口市内の家から二人でタクシーに乗って天六に向かった。出発したのが夕刻6時前だったような気がする。あとから思い返せば、ちょうどその頃にガス爆発が発生したようだ。

都島あたりまで来ると、大通りの交差点中央に警官が立っていて交通整理をしている。そして梅田方面に向かう車を制止し、迂回するように誘導していた。わがオヤジは頭の中はモツ鍋を食べることに気持ちが集中していたのか、その警官の制止を振り切って前進するよう、運転手に懇願した。

その場はうまく切り抜けたものの、しばらく進むとあたりは爆風で壊れた家々が目につき、少し先のガソリンスタンドの僅か10mほどしか離れていない場所で、地面から大きな炎が3~4mの高さまで吹き出しているのが見えた。タクシーの運転手はさすがに、「もうこれ以上は先に進めまへん」と運転を拒否したので、仕方なくタクシーを捨て、大通りを避けて、両側に二階建て長屋の連なる裏筋を歩いて行った。道には割れた窓ガラスの破片が一面に散乱しているので、それをバリバリ踏みならしながら現場を通り抜け、目指すモツ鍋屋にたどり着いた。

そのモツ鍋屋は、チリ取りに似た浅い鍋でホルモンを水炊き風に煮て食べさせる店で、それなりにうまかったのだが、何せ爆発現場から数百メートルしか放れていない場所ゆえ、ひっきりなしに救急車のサイレンが飛び交っていて、店の亭主も「いつガスが止まるか知れまへん。そうなったら店じまいだっせ」とつぶやく中でのモツ鍋だった。モツ鍋の味よりも、飛び交うサイレンの音の方が強く記憶に残っている。

この事故の写真つきの解説は次のブログに詳しい。 カメレオンの独り言

1960年(S35)頃の天六駅舎。まだ地上の駅舎で、
ここから千里山ニュータウンに向かう電車(いまの北千里線)が走っていた。
天六駅
出典:blog.goo.ne.jp7makemono-8n8n

事故直後の状態
天六事故
出典:blog.goo.ne.jp7makemono-8n8n


その後、1974年5月29日に東梅田ー都島駅間が開業。
1977年(S52)4月6日に都島駅ー守口駅間が開業。
1983年(S58)2月8日には大日駅まで延伸開業。


JR大阪駅周辺

ここは改変が激しく、文字にするのも煩雑で、ついて行けないので、ほとんどスルーする。 ルクア(2011年5月開業)だの、グランフロント大阪(2013年4月開業)だの、旧貨物停車場跡地にできた今時の新施設には、全く興味がないし、感慨もない。いまだに行ったこともない(ほんの目と鼻の先なのだが・・・)。

・梅田大丸:1983年(S58)4月開業‥JR大阪駅舎の南側に直結する形でビルを建築。2011年に増改築。

・ヨドバシカメラ:旧大阪鉄道管理局の跡地に2001年11月開業。大阪では悪評高い店だが、 ほかの量販電気店が撤退してしまったので、仕方なく利用している人が多いようだ。かくいう私も緊急に必要な小物を購入するとき以外は利用しないようにしている。なぜだか、この店は訪れるたびに不快感を覚える。なお、このビルの北側空き地にリンクス梅田が2019年11月に開業。


中崎町商店街

地下鉄中崎町駅から天神橋筋5丁目(天五)に向かう500mほどの道が「中崎町商店街」だ。私が5才から12才まで住んでいたのは、この商店街の真ん中あたり、 天五に向かって右側に松竹と東映の映画館が並んでいた少し手前を左に折れて 100mほど行ったところの借家だった。

この映画館には両親に連れられてよく行った。松竹は文芸作品、東映はチャンバラや大衆向けの娯楽作品が多かった。もちろん、入るのはもっぱら東映の方。

はるか後年、筒井康隆(1934年~) の『不良少年の映画史(文春文庫、1985年刊)』を読んでみたら、 このひと、学校をサボって、ここの映画館に入り浸りだったことが書かれていて、 ある種の感慨を覚えた。その当時、かれの父親は 大阪市立自然史博物館 の館長で、その父の書棚から洋書を持ち出し、中崎町商店街にある 青空書房 という小さな古本屋に持ち込んで売り払い、その金を元手に 同じ商店街の並びにある映画館に飛び込んで映画を見ていたらしい。

この青空書房も結構長く営業を続け(開業は1947年)、店主が80才を過ぎた頃から結構メディアに取り上げられていたが、2016年にはついに店主の死(93才)と共に閉店したようだ


阪急電車の宝塚線

私は1988年に守口市から阪急電車宝塚線の服部天神駅(豊中市)近くに転居し、 その後、同市内で二度の引越を繰り返し、1997年からは豊中駅付近に住んでいる。 指折り数えてみると、豊中市内に住み続けて32年になる。したがって、 阪急電車の宝塚線で梅田に通勤することも同じ年数が経過している。 その間、多少の変遷があったので、これも忘れないうちに書き留めておくことにする。

この路線は開業当初、 『箕面有馬電気軌道』 として1910年(M43)3月10日に開業している。梅田から終点の宝塚駅まで、開業当初は知らず、 わずか35分間という非常な短距離路線だ。

創業者の小林一三(元テニスプレーヤーの松岡修造は娘の子、すなわち孫にあたる)は、電車の乗客を増やすためにあの手この手を繰り出し、 まず手始めに沿線に分譲住宅を開発して住民を増やすようにした。

そして終点の宝塚に 遊園地(1911年~2003年) を開設した。その2年後には宝塚新温泉パラダイスを開園し、そこに室内プールを作ったのだが、 山中ゆえ水が冷たくて不評だったため、これを舞台に改造して『宝塚唱歌隊』を結成。 これが後の宝塚少女歌劇団に発展する。

これ以外にも豊中駅前にあった運動場を利用して『全国中等学校野球大会』を企画し、 1915年(T4)7月1日には第一回大会を開催した。ただし、たった一輛だけの営業で、輸送力が貧弱なため観客の増加に対応できず、2年後の第3回大会からは兵庫県西宮市の鳴尾球場に場所を移した(1917年~1923年)。 その後は甲子園球場で開催されていること、ご存じの通り。

わが家の近くには当時の記念碑があり、その近くの民家の塀に、当時の野球場のブロック塀がまだ使われていると、20年ほど前の新聞記事にあった。

鉄道路線を敷いたあと分譲住宅を開発し、人の集まる施設を建設したり、大きなイベントを 開くというビジネスモデルは、西武鉄道がこれを踏襲し、成功している。

★阪急曽根駅

この駅は1994年に上り線が高架化、2000年に下り線も高架化完了。 しかしコンクリート作りのホームや駅舎では、どの駅も同じような印象で、風情のないこと夥しい。 それまでの「田舎の駅舎」が懐かしい。小生が小・中学生の頃はもちろん地上駅だった。 この駅から『服部緑地公園』まで10分ほどかかった。

かの 北大路魯山人(1883年~1959年) の主宰する会員制料亭 『星ヶ岡茶寮』 の大阪店(敷地4千坪!)が、この駅の東側駅前にあったことは、 はるか後年になってから知った。おそらく曽根駅前のロータリーあたりと思しい。 1935年から1970年頃まで営業を続けていたようだ。その横にあるダイエー曽根店の開業が 1972年9月15日だから、つじつまが合う。

★阪急岡町駅

この駅も1997年(H7)に高架化が完了している。

★阪急豊中駅

ここは1997年(H9)11月8日に下り線の高架化完成。着工はその2-3年前だったはずだが、 毎日利用しているのに正確な日時は覚えていない。そして2000年(H12)11月29日に上り線も 高架化完了。

これに伴い、駅の西側に高層ビルが建設され、上部は分譲マンション、一階から四階まではショッピングセンターと食堂街、地下にはスーパー(阪急OASIS)が開店し、賑わっている。

駅前の新開地デパートも2008年秋に取り壊され、2011年には新しいビルが竣工している。

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著作権所有(C)1996-:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田)