仙骨後頭骨テクニックの歴史
Sacro Occipital Technicの歴史
Major Bertrand DeJarnette, D.C. 著
初版発行:1958年
Copyright C 1992 Dr. M. B. DeJarnette
前田滋(大阪・梅田):訳
掲載日:2018.8.30
"カイロプラクティック・アーカイブス"へ
訳 者 序 言
「Sacro Occipital Technic]という表記に関して、まず最初にお断りしておく。
「テクニック」の正しい綴りは「Technique」であるが、DeJarnetteが
自身の新しいカイロプラクティック・テクニックに名前をつける際、
その独自性を強調するためにわざと「Technic]としたもので、
決して誤植ではありませぬ。
さて、つい先日,パソコンに保存してあるデータを整理していたら、
10年ほど前に訳したこの文書があることに気づいた。
カイロプラクティック創始者による回顧録は珍しいので,
所属する協会に、売れるものなら販売してみたら?といって
渡した記憶があるものの、その後売ったとも売れたとも聞いていないし、
稿料を受け取った覚えもないので、ここに公開してみます。
協会(PAAC)からクレームが来たときには削除しますので、
いつまで掲載を続けられるか定かではありません。悪しからず。
A4用紙に印刷すると27ページになる長文ですので、
本来ならば印刷した方が読みやすいことはわかっているのですが、
そうすると出典不明となってコピーが拡散したり、
他のサイトに無断転載されることが眼に見えていますので、
他のページと同様、やむなく暗号化を施してあります。
そのため、ディスプレイ上でしか読んでいただけません。申し訳ない。
とにかく、無断転載や剽窃が多くて困ったもんだ。
最近はネットの検索機能が進化しているので、元ネタがどこにあるかなんて、バレバレだよ。結局は物笑いのタネになっていることがわかっているのかな。ねえ、そこの、お若いの。
そういうことで、本サイトの内容を一部なりとも
引用、転載する場合には、必ず下記のURLを明記するか、リンクを張って下さいな。
そうすれば全く問題ありません。
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jsot-history.html)
2018年8月30日:記
緒 言 : Joseph F. Unger, Jr., D. C.
科学史における偉大な精神というものは、同時代人から嘲笑されるか、認められないかのどちらかである。ガリレオは、その科学上の発見のゆえに処刑された。ジョセフ・リスター(1)は外科手術時の殺菌に関する自身の信念をさまざまな医療関係者からあからさまに卑下された。アントン・メスマー(2)は、その生前において決して賞賛されることはなかった。そしてアルバート・アインシュタインの素晴らしい学説は、未だに誤りであると証明されようとしている。おそらく人体機能に関する最も偉大な科学的探求者であり、かつ我々と同時代人であるDr. Major Bertrand DeJarnetteは、学生と支援者たちの狭い社会サークルを除けば、現在でもほとんど無名であろう。
Dr. M.B. DeJarnetteによって著された本書は、この驚くべき探求者による長年の研究に関する、ごく短い回顧録である。DeJarnetteによる詳細な努力の大部分は、彼自身によって省略されている。数え切れないほど多くの時間が記述されていない。時にはDr. DeJarnetteは不眠不休で何日もオフィスに籠もり、研究に没頭している。彼の努力の成果は「どのようにして」カイロプラクティックの現象が実際に作用するのかを科学的に説明したことである。本書はDr. DeJarnetteが著した138冊の著書中の単なる一冊である。情熱に燃える学生ならば、研究過程の全体像を徹底的に洞察するために、これらの書籍それぞれを吸収する必要性に気づくであろう。
Dr. DeJarnetteの理論には、カテゴリー・システム、後頭骨線維と僧帽筋線維に関する理論とその操作法、頭蓋縫合操作法、カテゴリー1に属する頭蓋骨調整法などが含まれる。自身の開発した理論を研究するために、Dr.DeJarnetteは、大学、医科大学において、その当時の最新の医学機器や設備を利用した。黎明期のカラー写真術の開拓者として得た巨額の資金は、瀕死の重傷から彼の人生を救ったカイロプラクティックの科学的基礎に関する研究に振り向けられた。DeJarnetteが後頭骨線維を探求している時に、彼のためにゴルジ腱器官を研究し始めたのがアーサー・ガイトンであった。
アーサー・ガイトンと異なり、Dr. DeJarnetteの理論はカイロプラクティック界では常に「科学的証拠がない」として批判されている。ゴルジ腱器官の存在を証明するための研究データを提示せよとガイトンに要求する者は誰一人としていない。ところが、すべての人がDeJarnetteの後頭骨線維の「存在証明」を求めるのである。Dr.ガイトンの自筆原稿やノートが今まで長い年月忘れ去られているように、DeJarnetteの場合もまた同じである。彼の多数の著書と、それ以上のパンフレットと論文が、彼のすべての研究結果に対する証明である。究極の証明は、実践しているそれぞれのカイロプラクターによる探求に託されている。
献身的な研究を実践したDeJarnetteの人生は、真の意味での探求の印象的な例である。探求することが今現在を確実なものとし、そしてこれがその人の世界像を変革する。深い内部の選択から生じる事象の流れの中で、生涯の大きな岐路が拡がるのである。ゲーテの対句に表現されているように、
「汝が何をするとしても、何を夢見るとしても、それを始めるが良い。
非凡なる才能、強大なる力、魔力、これらをわが物とするためには大胆であれ」
ここでDeJarnetteの人生訓を引用しておこう。
1. 触れるなかれ、感じ取れ
2. 存在するなかれ、生きよ
3. 見るなかれ、観察せよ
4. 読むなかれ、吸収せよ
5. 聞くなかれ、聴き取れ
6. 考えるなかれ、熟慮せよ
7. 喋るなかれ、何事かを主張せよ
DeJarnetteは、これらの人生訓を自身の実証的研究のすべての場面に適用した。科学的、組織的な研究によって、DeJarnetteは人体の神経機能とカイロプラクティックの科学における謎を解明したのである。彼の概念、理論、発見の多くは、西欧世界における自然療法者のほとんどに知られていない。カイロプラクティックにおける論証可能な真実に対する彼の情熱は、人体の状態を分析し処置するための強力なシステムを我らにもたらした。その熱情はまた、ドクターと患者との関係におけるDeJarnetteの洞察をも、もたらした。それゆえ、彼は我々に「ただ単に触れるよりも感じ取れ」と忠告するのである。
真理に対するDeJarnetteの強烈な熱情は、自身の研究によって費消し尽くされた。これと同様に、成功しているドクターならば、患者とうまく交流できている時にも情熱を費消しているはずである。従って、練達のドクターは人生においても同じく練達者であるに違いない。それは、生涯をかけた実践を強いる時間と献身的な努力を要するだろう。人体に関する真理と理解に向けての果てしなき旅の結果は、我らの世界における未来のドクターたちに、創造的刺激をもたらす源泉となるであろう。本書は、開かれ、考えるすべての精神に対する科学的献身と取り組みの一例を提供するものである。本書の内容が、読者諸氏の健康と病気に関する研究のため、またその人生を高揚させるための霊的感化とならんことを。
Joseph F. Unger, Jr., D. C., F.1.C.S. (1992年当時のSORSI会長)
St. Louis, Missouri
August 27, 1992.
1)Joseph Lister(1827-1912);英国の外科医。彼の主張する無菌または滅菌法により近代外科学が確立された。外科療法の父といわれる。
2)Anton Messmer(1734-1815);ウィーンの医師。動物磁気説の提唱者で、催眠の発見者
-1-
仙骨後頭骨テクニックの歴史
Major Bertrand DeJarnette, D.C.
序 言
私が最初にオフィスを開業した時に無力感を経験したことが、私のカイロプラクティック・キャリアにおいて早期に研究に入ることを決定づけた理由のすべてではない。私は常に探求心が強かったのである。飛行機の実物を見る前にさえ、私は模型飛行機を作ったことがある。実物の自動車に乗る前にも、私はペダルで動く自動車を作っている。私が医学、カイロプラクティック、力学の一分野に入っていたかどうかは重要ではない。どんな分野で働いていたとしても、私は依然として探求心が強く、改善を目指していただろう。私の入学したカイロプラクティック大学は、優れた教育を私に授けてくれた。その仲間は、金銭に関することを主として多くの事柄に欠けていた。しかし彼らが持っていたものに関しては、力強く素晴らしい仕事を成し遂げた。職業としてのカイロプラクティックは私の期待にそむかなかった。私がカイロプラクティック研究に参入したことに対する唯一の説明は、その時に我々が知っていた事柄に、私が何かを追加できるかどうかを知りたいという願望が強かったことに帰する。
私は教えることを決して熱望しなかった。私は生活の糧を得るために研究に入ったのではない。開業早々から、私は国中のどんなカイロプラクターよりも多くの患者を抱えていた。私はオフィスで一日のうちおよそ15時間を過ごしたものであった。
私は、この業界のリーダーになるために研究を始めたのではない。また私は、リーダーシップに必要な義務に対する願望などは持ち合わせていない。私にとってカイロプラクティックは計り知れない挑戦であった。1925年の時点で、カイロプラクティックのように新しい職業には未開拓の領域があるに違いないことを、私は知っていた。そして私は探索に乗り出したのである。
カイロプラクティックの研究に携わっていた33年間というもの、私は同時にカイロプラクティック開業医であった。私は世界最大のクリニックの所有者たることを熱望したことは一度もない、しかし私は、カイロプラクティックが奏功しなかった多くの人たちのための駆け込み寺を長年にわたって営んでいた。私の研究が、4千人あまりのカイロプラクターに考えさせること以上のことを成し遂げなかったとしたら、それは有意義なことである。
私の妻Toddeには、果てしなく大きくまた返しきれないほどの恩義がある。Todde は、私に語り続けた人間の一人であった。「もう一度やってみなさい。今度はうまくゆくかも知れないわ」。私には、カイロプラクティック対して、決して返済しえない恩義がある。カイロプラクティックは私の人生を救い、そして私の娘が6才で髄膜炎に罹患した時にも、娘の人生を救う知識を授けてくれたのである。もし私がカイロプラクティックを勉強していなかったなら、私はカイロプラクティックの開発に33年間の研究を捧げたという栄誉を手にしなかっただろう。また、そうでなければ、何千人もの、またその多くが個人的にも親しい、素晴らしいカイロプラクターたちにも出会わなかったことだろう。
-2-
仙骨後頭骨テクニックの創始
仙骨後頭骨テクニックは1925年に創始された。従ってこのテクニックは現在、33年の歴史がある(訳注;本書の初版発行は1958年)。SOTはカイロプラクティックの範疇に属するのではなく、むしろ、それはカイロプラクティックの一様式であり、それゆえに完全な科学である。カイロプラクティックにおけるこのシステムは、ある必然性から生まれたものである。
1924年当時では、おおかたのカイロプラクティックは背部の矯正音を目指すものであった。そして矯正音が大きければ大きいほど、その施術者は上手なカイロプラクターであると言われていた。カイロプラクティックは、椎骨の位置を復位させるためのさまざまな手法が基礎となっているが、どの椎骨にサブラクセイションがあるか、あるいは椎骨がどの方向に変位しているかに関して、二人のカイロプラクターの意見が一致することは滅多にない。このような訳で、我々の活動方針は決して一つに定まらなかったのである。
私が研究を始めた当初、Dr. Willard Carverは、私が学びかつ憧れた人物であった。Dr. Carverは、その人の全体像を掴むコツと、歪みの観点から何が悪いのかを説明するコツを身につけていたようである。
1924年のことであったが、私の同級生の一人が非常にひどい心臓病に罹っていた。アジャストメントを施しても見込みがなく、彼の心臓の状態は着実に悪化していった。そして彼はカイロプラクティックの学習を中断せねばならないことが明らかであった。彼の治療をするために、上級生である私が彼の自宅に呼ばれた。彼は左上腕の神経炎によるひどい痛みを訴えていた。私は教わっていたアジャストをすべて試みたが、少し動かしただけで患者の痛みは非常にひどくなった。困り果てた結果、私は熱湯の入った鍋と毛羽の長いトルコ・タオルを持ってきて、その熱いタオルを患者の肩と上背部にあてた。すると3分ほど後に私の仲間は失神してしまったので、彼を正気に戻そうとして、私は水差しの中の非常に冷たい水を、彼の顔面と背部に勢いよくかけた。数秒後に彼は息を吹き返し、驚いたことに肩の痛みもかなり軽減していた。
さて、二人の非常に若いカイロプラクターがジレンマに直面していた。失神中の触診では椎骨の変動がないことが確認された。聴診器がなかったので、心機能が回復しているかどうかを確認できなかった。私は5日間毎日、このカイロプラクターのもとを訪れ、そして毎回浴槽に彼を座らせ、非常に冷たい水の入っている手桶をその両肩の上に載せさせた。6日後に、この青年は大学に戻ってきて、およそ36年後の今日に至るまで、心臓疾患の徴候を示していない。私が10人の幽霊を見ていたとしても、私はこの時以上に煙に巻かれなかっただろう。大学のインストラクターは、私がその手桶で何をしたのか、決して告げられることはなかった。そして何年間も、彼らはこの学生を、カイロプラクティックによる調整の成功例として言挙げしたことだろう。
-3-
次の数年間、私は、椎骨をアジャストして結果が得られるのは、椎骨を動かして神経圧迫を除去しているからではなく、刺激あるいは抑制をもたらしているからであるという考えに取りつかれた。この頃、Abramsがスポンデロテラピーを提唱して世に現われた。そこで冷水の手桶を患者にあてる代わりに、私は患者の棘突起を押し込もうとした。私は、スポンデロテラピーによる結果を全く認めることができなかった。
1925年頃のこと、私は古ぼけた書店の書棚を何気なく眺めていた。すると、LANDOISの生理学書のコピーを見つけた。非常に古い時代のこの著者は、それまで私が考えていたことについて書いているように思われた。皮膚反応に関連して生理学上の異常なプロセスの効果を探求し始めた結果、私の頭のなかは、解剖学や病理学よりも生理学が大きな比重を占め始めた。私は患者の脊柱を四指でなでてゆき、数分後に生じる色の変化を観察した。僅か1分間の圧によって、ある脊柱部位では非常に紅くなり、また別の部位では完全に白くなることを発見した。数ヶ月後、私は、このような変化は血圧に反映するはずであることを思いつき、そして脊柱に加えた圧がどのように血圧に影響するか、また逆に、神経支配を受けている部位にどのように影響するかを確かめるために、長い一連の実験に取りかかった。
1926年頃には、脊柱筋が圧によって非常に紅くなったり、白くなったりする時には、その中の血管が収縮しているからであるという仮説を私は展開した。1928年に、私は「血管運動神経コントロール・システム」を発表した。我々は実際には椎骨を調整しなかった。むしろ「血管運動システム」を用いて、強く赤色化した部位またはひどく白色化した部位を特定し、赤色化した部位には冷却を、白色化した部位には熱を加えた。血管運動コントロール・テクニックによって、ある時には極めて劇的な結果を得た。しかしそれは、あまりにも長い時間を必要としたので、一般のカイロプラクティック・オフィスで用いるには不向きであった。当時、アジャストメントの料金は1ドルであったので、一日にできるだけ多くの患者をアジャストせねばならなかったからである。
私の古いノートには、1928年4月の日付で広い分野に研究を開始した旨の記述が残っている。その時の患者は、左側の腸骨と下肢にひどい痛みを訴えていた。血管運動神経テストを行なったところ、左の第3仙骨孔に強い反応を見つけた。そして、それを続けることで、左腸骨と下肢の痛みが完全に消失したのだが、今度は後頭骨の左側に瞬間的に痛みが移動したのである。このことは、私がカイロプラクティックを始めてから最も驚いたことであったが、骨盤と下肢の痛みが消えたことについて、患者は少しも嬉しそうでなかったことを付け加えておかねばならない。
明らかに仙骨からの反射によって生じた頭部の痛みを解消しようとして、患者の後頭骨を触診したところ、驚いたことに葉巻ほどの太さで、股関節の骨折に匹敵するほどに痛む線維が指に触れた。その線維が何であるか、あるいはそれに対して何をなすべきかが判らなかったので、私はすべての読者がするであろうことを行なった。すなわち「できる限り強くそれを押圧した」のである。数分後には、その患者の後頭骨痛は消え、そして彼は元気よく私のオフィスを後にした。今でもそうなのだが、幸いにも、私はすべてのアジャストメントの極めて詳細な記録を残していた。その患者は10日後に再びやってきて、今回は3日前からの激しい頭痛を訴えた。私は前回の操作を覚えていたので、再び仙骨の左側に冷却操作を施したところ、驚いたことには数分後には頭痛が消えた。この患者は、その後の3年間に27回来院した。そして彼は前立腺癌によって亡くなったのだが、亡くなる1週間前まで、第3仙骨左側への冷却によって痛みを抑えることができた。入院中においてさえ、彼は担当医に私の治療を依頼していた。
-4-
私はすでにその時、仙骨と後頭骨の間に何らかの反射が存在しているという結論に達していた。その反射が筋肉であるか、内臓神経であるか、神経内であるか、私には判らなかったものの、解決の糸口が見え、そしてそれは、すぐ手の届くところにあった。ほとんどの歪曲は仙骨を中心としており、そしてほとんどの痛みが後頭骨に疼痛性の線維を伴っていることが明らかであった。そこには関連があるはずで、私はそれを見つけ出そうとした。前に進もうとしているのが茨の道であることが判っていたなら、またこの研究にどれほどの費用が必要か判っていたなら、そしてまた幾百という悲嘆が待ち受けていると知っていたなら、私は1928年の時点で、この研究に取りかかることを諦めただろうと断言できる。
1929年初頭のこと、私はBingというドイツ人の書いた小冊子を見つけた。Bingは、脊髄内部の神経路に関して独自の研究を多く行なっていた。そして、その書籍から、私は仙骨と後頭骨との関係を証明できるという着想を得たのである。1929年に、私は電流刺激を用いて筋肉運動を起こし、その動きの結果を観察してみた。そして直ぐに二つの主要神経路が脊髄中に存在することが明らかになった。その一つは、インパルスを受け取り、その信号を骨盤神経叢を通して下方へ伝達し、次に上方の脳へ伝達している。二つ目は仙骨を経由せずに刺激信号を上方へ伝達している。そして私は、第9胸椎のレベルより下方の脊髄に入る刺激信号は、骨盤神経叢と仙骨に関係していることに気がついた。第9胸椎より上位の脊髄に入る刺激信号は直接上方へ伝わる。すなわち、第9胸椎より下位のニューロンに関連する痛みは仙骨の配置を変えることによって抑えることができ、第9胸椎より上位に入る刺激信号は、アトラスに対する後頭顆の配置を変えることによって変更できることを発見したのである。
カイロプラクティックにおける、この新しいアプローチを私は「仙骨後頭骨テクニック(SACRO OCCIPITAL TECHNIC)」と命名した。そして私のカイロプラクティック・システムは、現在でもその名が用いられている。1929年から、すべての私の研究は「SACRO OCCIPITAL RESEARCH SOCIEIY INTERNATIONAL」を通して行なわれている。
さて、仙骨が疼痛制御に直接関係することが判り、そして仙骨を観察する最適な配置は患者立位の状態であることが判ったので、1930年初頭から、私は足底板を作り、壁からのばした腕木に固定した垂線を使用し始めた。これが私の「歪曲テクニック(DISTORTION TECHNIC)」の始まりである。視診によって仙骨が正中線からずれている場合には、構造配置を調べ、そしてこの異常配列の原因となっている筋肉、靱帯を調べ、次に徒手によって仙骨の配置を調整してみた。この時期が、私の研究生活の中で最も多忙な時期であった。ひどい頭痛で来院した患者は、私が脊柱の反対側の端を調べている理由が理解できなかったことだろう。
-5-
私は1931年初頭から、すでにカイロプラクティック・アジャストメントを受けて奏功しなかった患者だけを受け入れるようにした。1931年から1940年の間、私はカイロプラクティックを受けたことがない患者は決して受けつけなかった。私が試行していることは他のカイロプラクターが誰一人として行なっていることではないことを、私は証明せねばならなかったのである。長年にわたって貧困に陥ったことが、私のノートには書きつけられている。私の受容できる患者のほとんどが金を持っていなかった。そして大方の患者が回復の望みを持っていなかったが、私は次から次へと患者を窮地から救い続け、いま現在においても、私はそれらの患者とその家族を治療している。
1930年に、私は「人体の運動系(THE HUMAN MORTOR)」という題名の書籍を読んだ。その著者名も忘れ、その本の所在も今は判らなくなっているが、この著者は、FISHERという人物と共同して、何百という屍体を用いて、人体の重心を特定しようとしていた。彼らは、一点で支えられた水平板を用い、その上で屍体を移動させ、重心が第3仙骨孔の真横に存在すると推定した。このことから、私にある考えが閃いた。屍体に水平方向の重心があるなら、生きている人間は縦方向の重心を持っているはずである。作成できる限りの装置を用いて私は実験を行なったが、最終的には左右2本の示指を用いることで活路が開けた。およそ4千回ほど失敗した後で、遂に私はそのスポットを発見し、示指でそのスポットに触れるだけで、実際に患者のバランスを取ることができた。私は患者の脊柱を伸ばすことも曲げることもできたのである。これは「マスター・テスト」として知られるようになり、そして1934年に出版された私の「脊柱歪曲(SPINAL DISTORTIONS)」という著書で解説した。これまでに行なったすべてのマスター・テストによって、すべての人が平衡中心を有しているので、うまくコンタクトすれば、その人の体重に関係なく、どんな方向にでも身体を動かせることが証明された。結局のところ、これによって患者がコントロールを失い、くるくる回り出したことが、私の学生たちを怖がらせてしまった。これは実際に何らかの重要性があったので、現在では「I.B.A. TECHNIC」という用語で呼ばれている。
1931年には、多くの患者で頭蓋骨上に疼痛部位が出現する原因を調べることに、私は没頭した。そして、最後には後頭骨上に極度に痛む線維を見つけるのが常であった。運命は好奇心に伴われるというが、今まで誰一人として患者の頭部の疼痛部に何もしなかったと誰も訴えなかったなら、私は後頭骨を研究しなかっただろう。
私はあらゆる解剖学的見地から、後頭骨を含む他の頭蓋骨を研究した。なぜならそれしか方法がなかったからである。しかし解剖学はあくまでも解剖学であり、どのドクターもこの対象には精通していたが、それでも私は後頭骨にはこれまで誰も論じたことのない何かが存在すると確信した。後頭骨線維は私の頭にこびりついて離れなくなった。
1930年のある日、たまたま私は1924年にDr. Carl Hawkinsのクラスに出席した時の古いノートを見つけた。Dr. Hawkinsは、原因不明とされる多くの病気の鍵を握っているのが後頭顆のサブラクセイションであると考えていた。Dr. Hawkinsが講義で使用していた厚紙製の後頭顆-アトラスの模型のスケッチを、私は保存していたので、私自身が用いるためにその模型を作成してみた。Dr. Hawkinsは、後頭顆-アトラスの触診とその不整配列のアジャストメントを我々に教授した。後頭顆を触診している時、常に私は後頭骨の別の部位に痛む線維があることに気づいていて、Dr. Hawkinsから教えられたアジャストメントでは、その線維の痛みは解消できないことが判った。私はその線維をマニピュレートすることを試みたが、後頭骨線維をマニピュレートした時の他は、直接的な結果は得られなかった。私は脊柱、体幹、四肢などに痛みを引き起こした。
-6-
私は、多くの異なるタイプの線維を後頭骨上に見いだした。あるものは短く太く、あるものは長くて細い。あるものは非常に過敏で、その他は中程度の痛み、またあるものは無痛であった。日時が経過したが、私はまだ後頭骨について考えを巡らせていた。急性疾患の患者は、後頭骨上に急性の痛む痛い線維を示した。自己限定性疾患(self-limited disease:訳注;病気の経過がある一定の期間で自然に終息する傾向を持つ疾患:風邪気味、ギックリ腰、腹下しなど)から回復した患者は、中程度に痛む後頭骨線維を示した。生涯続く病気を抱えている患者は、一般に非常に堅いが無痛性の線維を示す。急性の脊柱痛を訴える患者は、内臓痛を訴える患者とは異なる後頭骨線維を示す。高血圧症の患者は低血圧症の患者と異なる後頭骨線維を示す。さまざまな程度の痛みがあっても、また感情の起伏があっても、常に正常血圧を維持している患者は、痛みのある後頭骨線維を発現しない。
1930年から、私はアジャストメントを行なう前に後頭骨線維をチェックし始めた。アジャストメントのうち、あるものは後頭骨線維の緊張と痛みを軽減するが、他のものは緊張と痛みを増悪させた。今回、私は後頭顆にまったく調整を行なわなかった。特定の脊柱領域の充血を伴うひどい低血圧においては、脊柱部位を冷却することが、特定の後頭骨線維の緊張を解消する傾向があるものの、他の線維には影響しないことを私は見いだした。同様に、虚血状態の特定脊柱領域に湿熱を加えると、同じく特定の後頭骨線維に影響することを、私は見いだした。充血している脊柱領域に熱を加えると後頭骨線維の緊張と痛みは増悪し、逆に虚血を起こしている脊柱領域を冷却しても同様の結果になることが判った。
1930年中頃には、後頭骨の触診に関して、ある規則が存在することに私は気づいた。言い換えると、後頭骨上部の触診では左右それぞれに同じ数の線維があるように思われたが、後頭骨下部の触診では、その規則は当てはまらなかった。これは私にとって最大の課題となった。私は調査したが、すでに発表されている論文の中から、病気に関連する後頭骨線維について言及しているものを発見できなかった。私は三人のカイロプラクターに手紙を書き、私の抱えている問題を説明し、それを調べてくれるように依頼した。一人だけが返事を書いてくれたが、ほとんど助けにはならなかった。今回は、Dr. Wigelsworthの「PATHONEUROMETER」が参考になった。私はその機器を購入し、それを用いて脊柱、骨盤、の検査と共に後頭骨を調べた。私はおよそ6ヶ月間それを使い続けた。しかしこれは、すでに触診で見つけた脊柱の痛みを見つけ出す以外に、ほとんど役に立たなかった。次に私は、すべての患者の後頭骨-アトラス領域のレントゲン撮影を開始した。その当時、レントゲン撮影はその多くが当たりはずれの多い代物だった。
-7-
しかし私はある面白い事実を突き止めた。例えば、後頭骨の片側が下がっている時、同じ側の下肢が常に短い。そして下方側の後頭骨を牽引することによって、短い下肢が長くなった。その下肢は長いままではなかったが、しかし少なくとも私は手がかりを掴んだ。1930年の終わり頃、私は後頭骨線維に関連する椎骨反射の問題に集中して取り組んだ。私は特定の椎骨を選択し、必要とされるアジャストメントの真逆のことを行ない、後頭骨に何が生じたかを触診して調べた。ある後頭骨線維が常に緊張を増すこと、次に本来必要とされるアジャストメントを問題の椎骨に行なうと、その後頭骨線維は間もなく弛緩することを、私は見いだした。これはゆっくりしたプロセスであった、なぜなら、変化が起きるまで何日も待たねばならなかったからである。最終的には、上部胸椎を悪化させると後頭骨外側の線維が反応することを私は発見した。下位腰椎または仙骨を悪化させると、内側の後頭骨線維が反応する。私は経験に従って第1胸椎を出発点として選んだ。なぜなら私は依然として「血管運動神経」の問題に取り組んでいて、血管運動神経は第1胸椎から始まることを知っていたからである。第1胸椎を悪化させると、乳様突起の隣接部に線維が現われた。しかし私は頭蓋の左右どちら側に線維が現われるか全く判らなかった。1930年の終わりには、椎骨と後頭骨との間に特定の反射野があることを突き止めた。私は、それらの反射経路の概略を掴んだ。そして最初の関連図を1930年の終わりまでに作成した。1931年に私は、この「関連反射チャート・システム」を記した最初の著書を出版した。
前進はしていたものの、しかしそこからどれほど遠くに進まねばならないかを知っていたなら、正直なところ私は敗北のタオルを投げ入れたことだろう。私は1931年に非常に重要な研究プログラムを開始した。私はカイロプラクティックが奏功しなかった患者だけを受け入れることにした。私はそれぞれの患者の後頭骨のチャートを作成した。私は、各患者の血圧反応に関して胸椎と腰椎を検査した。私は、各患者の後頭骨の下方変位を調べ、短下肢を記録した。その後、私の信じる矯正コースを開始した。選択したグループでは、私は特定の椎骨に温熱または冷却を用いた。それから短下肢を矯正するために後頭骨を牽引し、そして来る日も来る日も後頭骨の触診を繰り返し、その線維に起きることを調べた。ある場合には、その線維は手品の如く姿を消し、そしてその患者の症状も消えた。他の場合には、その線維は一層ひどくなり、そして患者の症状も悪化した。私は死にもの狂いで、それらの患者が私の所に帰ってくるように努力しなければならなかった。他の患者グループでは、特定椎骨に対して刺激または抑制のアジャストメントを施し、比較観察した。総括すれば、私は温熱・冷却よりもアジャストメントを多用したが、収縮と弛緩の理論を諦めなかった。そして1940年には、まだ温熱と冷却を用いていた。
1931年から1932年にかけて、私は400人あまりの患者を扱った。1949年になって初めて、ついに私は三つの後頭骨ラインを発見したが、それらのラインを今日知られているように分類できたのは1949年以後のことであった。1930年から1958年まで、私は仙骨後頭骨テクニックの他の分野を調べるために、何度も後頭骨から脇道にそれた。
-8-
1932年頃、私はペイン・ローカライゼイションの過程を開始した。私は既知の疼痛領域を取り上げ、脊柱と視床の間の経路を調べた。私は話を先に進めようとしているが、28年あまり前のことを振り返っているので記憶が曖昧になっている。1931年に、私は胸部、腹部、脊柱、骨盤のレントゲン写真を撮り始めた。そして私は多くの患者で横隔膜が歪(いびつ)になっていることを見いだした。それらの患者は常に、特にその季肋部線に沿って、肋骨の過敏を有していた。これらの患者の多くが、胃、腸、結腸に大量のガス塊を示していたので、その患者に炭酸水を飲ませ、そのガス塊が消失するかどうかをレントゲンで確認してみた。また、これらの患者は、第5胸椎の右横突起、第10胸椎と第2腰椎の両横突起が常に過敏であることを見いだした。そこで、これらの三椎上に圧をかけると、多くの例で即座に横隔膜が均等化することが判った。私は、生理学の教師が、肺と血管の中において二酸化炭素と酸素の移送に関して教えていたことを思い出した。私は酸素ボンベと炭酸ガスボンベを購入し、実験を開始した。横隔膜の歪曲している患者は、炭酸ガスに対する耐性が低く、酸素はうまく利用した。私はこの過程を逆転させ、患者の呼気を袋に集め、その中の炭酸ガス濃度を測定した。その後、私は、5-10-2テクニックが常に炭酸ガスの排出量と酸素摂取量をともに増やすことを見いだした。
CO2テクニックと私が命名したこのテクニックは、それまでに用いていたどの方法よりも速く横隔膜を均等化し、そして今日に至るまで、私の古くからの仲間の幾人かは今でも用いている。また全員がそれを用いるべきである。発熱しているすべての患者は常にCO2テクニックを行なった後に気分が良くなることを私は知った。すべての心臓病患者がCO2テクニックに良く反応した。その後、私は驚くべき発見をした。ある患者の血圧は、CO2テクニック後にかなり低下し、他の患者では血圧が上昇した。このことによって、心臓研究のための機器の購入が必要になった。私はすべての機器を入手し、それらの操作法に習熟するために2年の歳月を費やした。そして過剰なCO2が血流中に蓄積すると、衰弱した心筋は常に血圧を下げ、強い心筋は同じ状況下で常に血圧を上げることを証明したことによって、私はこの研究を終えた。
さて、ペイン・ローカライゼイションに話を戻す。私は、背部の一疼痛領域の位置を特定し、次に特定の脊柱分節に関連することが判っている後頭骨領域をチェックし、そして、その後頭骨部を刺激して、特定した痛みを抑制しようと試みた。その後、私はこのペイン・コントロールのための後頭顆をアジャストする方法を開発したが、後頭骨が痛みを抑制すると思われる時にのみアジャストメントを行なった。後頭骨が背部の痛みを抑制しないと思われる時には、関連分節を調べ、これに適合するアジャスト・テクニックを選択した。
その後、私は背部の反射部位の特定から前面の反射部位の特定に移行した。前面の位置特定は紛糾した。1時間もの努力にも拘わらず、しばしば多くの患者から落胆させられる感想が返ってきたこともあったが、私は遂に前面の疼痛をコントロールする前面領域を見いだした。幸いなことに、私はそれらすべての前面領域を記録しており、そしてそれが現在の骨格反射点になっている。
-9-
前面の制御は後面の制御にテストされ、そして表出してきたものはすべて後頭骨に対してテストされた。私は、このペイン・ローカライゼイションに関して決定的なシステムを開発しなかったが、発見した反射点は、現在でも充分に価値がある。
1933年には、私は後頭骨-脊柱反射を完全に自家薬籠中のものにしたという感じを掴んだ。我々は、毎日惨めにも他のタイプのカイロプラクティック・アジャストに反応し損ねた患者を見ていたが、CO2テクニックと後頭骨-脊柱テクニックを用いることによって、それらの患者はしばしば素晴らしい回復を見せた。私は未だ下肢長を調整するために、下肢長を測定してから後頭骨をアジャストしていた。私は患者を急性、亜急性、慢性の三種に分類し、それぞれのためのテクニックを開発した。1933年に初めて私に会い、その年からSOTを勉強し始めたドクターが、ある時我々のシカゴ会議にやって来た。彼は、私が1933年に教えたテクニックをまだ用いていて、それは、他のどんな方法よりも依然として有効であると私に語ったのである。
1932年には、私は患者を立位にさせて、その背部を観察し始めた。私は、他のカイロプラクターによって10回から100回のアジャストを受けている患者たちを観察した。アジャストを多く受けている患者ほど、脊柱の歪みが酷くなっていたのである。これは道理にあわないことで、私は何かを行なうべきであると考えた。脊柱が真っ直ぐな患者が、脊柱の歪んでいる患者よりも強い痛みを訴える場合がある。これは再び道理にあわないことであった。1932年に私が検査した患者の中で最も健康であった患者は、二重回旋側弯症によっておよそ8インチも身長が低くなっていた。ところが同年中に私が検査した患者の中で最も重症の患者は、真っ直ぐな脊柱を有してた。私が教えられた事のすべては3ヶ月もかからずに誤りであることが証明されてしまった。
そこで私は、「脊柱歪曲(SPINAL DISTOTIONS)」の研究を開始する時がやって来たと考えた。私はまず足底板を作り、次に金属の腕木を壁の上下に二本取り付け、それに垂線を張った。そしてその垂線が足底板の中心に来るように調整した。私は足底板上に患者を立たせ、その脊柱がどのように見えるかを観察した。ある患者は臀部の中心線が右にずれ、ある者は左にずれていた。ある骨盤は臀部が足の上で横向くほど回転していた。すべてが解剖学的に正常であるなら、臀部の中心線は垂線に一致することは判っていた。それは以前に私が論じた「マスター・テスト」を始めた立脚点である。私はコンタクトし、指を捻り、それから観察した。ある患者は右に移動し、またある患者は左に移動した。時には足底版から落ちる患者もいた。そこで、患者が崩れ落ちそうになった時に身体を支えられるようにサイドバーを設置した。
「脊柱歪曲を矯正」する最初の操作には、再び後頭骨が関係した。まず観察し、それから患者を仰臥位にさせて下肢長を測定し、短下肢側の後頭骨を牽引し、その後に患者を立たせてもう一度観察した。ある時には改善を見、またある時には悪化した。今日SOTで用いているものとほぼ同じ脊柱歪曲を分類するのに、私は三千人の患者を観察しなければならなかった。
-10-
私は結局、垂線が左臀部を通過する場合には右臀部が前方になり、逆はまた同様になるという結果を得た。骨盤と脊柱歪曲の矯正においてマスター・テストがどれほどの効果があるかを、私は再び検証してみた。より幸いになことに、既知の歪曲側にコンタクトし、既知の方向に指を回旋すると、その歪曲が正常に回復する方法を私は開発した。それはまず患者を腹臥位にさせ、既知のコンタクトを行なって保持し、他方手で脊柱筋の収縮を感じ取る。その収縮を感知しておき、臀部にコンタクトしている指を回旋し、筋の収縮が弛むところを感じ取った。ある場合には、臀部コンタクトは奇跡的な効果を発揮したが、他の場合には、痛みを増悪させ、歪みがひどくなった。1932年から1933年にかけて、私は「脊柱歪曲」の考えに従って治療を行ない、その間に「反射痛」という著書を出版した。この著書は1934年から書店に流通し始めた。「反射痛」を出版した直後から、私は再び後頭骨の研究に戻り、「脊柱分析器を用いて常に脊柱分析」を行なった。私は歪曲分析器の特許を申請し、そしてこれは市販されるようになった。最初の分析器は一台7.5ドルで販売された。Dr. Randolph Stoneは二台購入し、その内の一台は自分のために、もう一台はDr. Bluthのためであった。そしてこの二人はまだSOTを勉強しているが、彼らがそれを使ってくれていることを私は願っている。
1933年と1934年には、私は後頭骨-脊柱反射を開発し、また骨盤の歪曲を矯正するテクニックを開発し始めた。この間、私は成人の骨盤は正常時には単一の不動骨であり、異常時にのみ寛骨と仙骨に可動性が生じ、その時に痛みと歪みが発生するという理論を提起した。その理論は今日に至るまで有効である。異常時には骨盤に可動性が生じることを、我々は知っている。我々のアジャストメントはその動きを制限し、正常配置を復活させようと努めるものである。
この間に私は、痛みを抑えるのに後頭骨を用いる代わりに、痛みを見いだすためにそれを利用し始めた。また、疾患を引き起こしているものが何であるかを探るために後頭骨を調べるのではなく、後頭骨が疾患を示す可能性を有するものとして、さらには病気や疼痛抑制の一部であるかもしれないものとして、これを研究し始めた。
私は、反射現象を後頭骨に見いだそうとする代わりに、後頭骨を障害部の指標として用い始めた。それは前進に向けての大きなステップとなった。この考えに到達するまでに私は何年も費やした。研究というものはしばしば、障壁に突き当たるまで後ろ向きに着実に進むことである。そこで立ち止まり、向きを変えて再び試行するものである。
ここで私は、後頭骨の触診が物語を告げ始める状態にまで到達した。私は後頭骨の位置に目盛りをつけた。後頭骨上で、あるラインに沿って触診すると、後頭骨上に7本のラインが整列していることが判った。
1934年には私は3例の結核と11例の肺炎を治療した。結核の1例では、後頭骨第2線とD3に非常に鋭い痛みがあった。11例の肺炎のうち、8例が後頭骨第2線とD3に痛みがあった。
-11-
結核の他の2例では、完全な後頭骨第2線を現わさず、一つは後頭骨第2線上に非常に堅く長い線維を示し、またそれぞれがD3とある程度は関連があるものの、それは決定的ではなかった。肺炎の3例は、後頭骨第2線に反射を示さないもの、D3が後頭骨第2線に反射を示したもの、D3には何も示さなないもの、であった。後頭骨第2線とD3に完全な反射を示した結核の1例は回復して今現在も健康である。不完全な後頭骨第2線とD3の反射を示した結核の2例は、この病気で亡くなった。後頭骨第2線とD3の不完全な反射を示した3例の肺炎のうち、1例は肺膿瘍を起こし、その後結核に移行した。もう1例は大腸癌を発症して亡くなり、最後の1例は完全に回復することなく、退役軍人病院で何ヶ月も入院した後に亡くなった。後頭骨線維は防禦装置でもあり、また表示装置でもあることが明白となった。1934~1936年にかけて、明らかに絶望的な例で完全な後頭骨-脊柱反射を有する症例に、しばしば遭遇した。軽症の人々が不明確な後頭骨-脊柱の反射の故に反応しない例に私は遭遇した。私は、研究上の最大の謎の一つに直面した。後頭骨上の非常に目立たない線維が、疾患を発症を予測するのに、どれほど重要であり得るか?後頭骨線維-脊柱の明確な関連を有している患者が、なぜアジャストメントに良く反応するのか?その答えを見いだすのに、私は何年もかかった。私はその答えを、栄養学、衛生学、休養、感情矯正、その他多くの非アジャスト、非カイロプラクティック治療に見いだした。
人体の軟部組織が、より一層大きな重要性を持ち始めた。外科手術の例が次から次へと押し寄せてきた。外科手術で臓器を摘出されていても、後頭骨-脊柱に明確な関連を有している患者は良く反応した。より軽症の患者で、相互に関係しない後頭骨-脊柱反射を有している例では、外科手術後に腸閉塞を起こして亡くなったことがある。
臓器の動きに関することが、今や私の研究時間の多くを占めるようになった。私は、臓器が健康で、しかも周囲の組織が健康であるなら、臓器がどんな配置にあっても機能を発揮できるのかを理解しようと努めた。私は、なぜ特定の配置が内臓痛を強めたり機能を高めるかを理解しようと努めた。私は、答えを見いだすために1500回以上のバリウム検査を行なわねばならなかった。私は、どれほど多くの外科手術を観察したか判らないし、またどれほど多くの検死を目撃したか計り知れない。その答えは、腸間膜にあるように思われた。臓器に疾患をもたらすものは、その外にある何者かであった。胃潰瘍のある例では、完全な後頭骨-脊柱の関連性を示すが、より重症例あるいは軽傷例で、望ましい後頭骨-脊柱の関連性を示さないものは反応しない。その答えは、「動き」または機能的余地であるに違いない。私は何百例もの腹部を触診し、何百例もの腟や直腸の検査を行なった。私は利用可能なすべての開口部を調べた。私は、X線透視下で非常に多くの腹部を調べたが、そのために私の両手が灼けるほどであった。
一つのことが常に最前面に立ち上がってきた。すなわち、すべての腹部が異なる打診音を発するように思われたのである。私は叩いては聴き、ついにある日、音叉を持ってきて、それを靴の踵に打ち付けてから患者の腹部にあてて、耳をそばだてた。
-12-
音の響きは、2インチ離れた部位でも異なって聞こえた。最終的に私は、聴診器に取り付ける感知器を開発し、音叉が組織を浸透して局部に響く音を聴き取った。その音を聞いて私は驚いた。私は限局部位をマニピュレートし、再び聴診した。ある時には正常な音が響き、ある時には異常なままであった。正常音が戻ったときには痛みが消えた。これは難問であった。
この時までに私は、完遂するのに2時間以上を要する診断手順を開発していた。私は後頭骨を触診し、前面と後面の疼痛部を特定した。そして疼痛部上の軟部組織に音叉と聴診器を当てた。その後、患者を足底版上に立たせ、視診を行なった。私はすべての異常を確認し、「マスター・テスト」を行なった。患者を腹臥位にさせ、マスター・テストを行ない、堅くなっている筋肉に何が生じるかを調べた。次に患者を仰臥位にさせ、下肢長を測定し、必要なら後頭骨を牽引-調整した。それから、後頭骨の疼痛部を特定した時には、患者を急性、亜急性、慢性に分類し、後頭骨あるいは脊柱のアジャスト計画を練った。
心機能を判定するためにCO2テストを行なった。私には、これらすべてが重要であると判っていたが、一日に僅か6人の患者しか扱えなかった。マスター・テストに反応しない骨盤や脊柱を見いだした場合、私はレントゲン撮影を行ない、それを調べてマスター・テスト時の力の方向を修正して再び実施し、前回動かなかったものが動いたこと確認するために、再度レントゲン撮影を行なった。私は常に、正確で詳細な結果を獲得せねばならなかった。私は多くのことを学んだ。また私は何千という過ちを犯した。患者のために計画したアジャストメントが奏功しなかった時、そのアジャストメントを私自身に行ない、何が起きるかを調べた。私は何度も人生の終焉を迎えるところであった。
1936年には、脊柱歪曲に関する研究に多くの時間を費やした。この時までに私は、誰のアジャストにも反応しなかった脊柱歪曲患者の治療例が、およそ400例に達していた。私は臀部の回旋を測定する装置を作成し、その他に仙骨の傾きを測定する装置、脊柱側面の輪郭配置を正確に測定する装置も作った。私は、実験装置で満杯になっている三つの部屋を持っていた。私は、「筋肉刺激研究のための血管メーター(VASOMETER)」も開発した。私はすでに血圧とそれが機能に及ぼす効果を研究するための「血管緊張メーター(VASOMETER TENSION METER)」を開発していた。私は、脊柱筋の充血と虚血を研究するためのネオン分析器を開発した。
1936年中に、私は200枚以上の脊柱の紫外線写真分析を行なった。私は患者を固定するための枠を作成し、そして後頭骨の片側を押し上げ、脊柱と骨盤に対する後頭骨の影響を調べた。脊柱の動きを調べるために、私は骨盤固定装置を作った。1936年中に、私は250人以上の患者のレントゲン写真を撮影したが、これは大変困難な仕事であった。私は一週間のうち7日間とも、朝7時から深夜まで働きづめであった。私は金を儲けなかったが、多くの事実を蓄積した。
1936年に私は、現在では1B.A.N0.2と呼んでいる「ハンマー・アジャストメント(HAMMER ADJUSTMENT)」と、1B.A.N0.3と呼んでいる臀筋の上方-下方アジャストメントを開発した。1B.A.は1936年に開発されたが、これは我々が今日用いている1B.A.ではない。私は1B後方アジャストメントを開発した。私は次の「脊柱歪曲(SPINAL DISTORTIONS)」を出版するために、空き時間に資料を集めた。この著書は1937年に出版された。
-13-
脊柱歪曲を出版した後、私は再び軟部組織の問題に取り組んだ。私は、トラック一杯分の1932ー1933年のノートを集め、それらを分類し始めた。私は反射現象を探しだしたが、それらのノートには世界中で最も多くの資料が蓄積されていた。もし物語の最初の文章を書くとすれば、ともかくも人体には急所となる領域があると、私は感じていた。
私は、私の患者の大多数が外科手術を経験していることを知っていた。そこで私は、残っている痛みを解決するために、手術の切開部を調べることにした。私は腹部上の瘢痕と、背部、肩、坐骨神経痛とを関連づけようと試みた。私は依然として、すでに開発していたものをすべて用いていたが、余分なものを排除しようとしていた。私は多くの患者が明らかな内臓下垂症を有しているのを観察していたので、内臓を持ち上げて、その位置で保持させる方法を探索し始めた。私は、後に「カイロプラクティック無血手術(CHIROPRACTIC BLOODLESS SURGERY)」と命名される手法に近づいていた。この研究によって、私は特定の内臓に効果のある手技を開発した。私は癒着を緩める方法を見いだしたのである。私は位置異常を起こしている腎臓と子宮を復位させる方法を見いだしたが、これは誰もまだ発見していなかった。私は位置異常を起こしている前立腺を実際に復位させるテクニックを発見した。私は「無血手術のテクニックと実践(THE TECHNlC AND PRACTICE OF BLOODLESS SURGERY)」という著書を準備していたが、これは1939年に出版された。無血手術は多くの私の学生にとって、あまりにも難しかった。彼らは単に技術をマスターすることができなかっただけである。彼らは方向ではなく力を使うことを望んだ。次に私は「視覚色彩麻酔(OPTIC CHROMATIC ANESTHESIA)」の手法も開発したが、これは時期尚早の発明であった。というのも、このような冒険的手法をカイロプラクターたちが受け入れる準備ができていなかったことと、数例の酷い事故を起こしたからである。
今や私に課せられた大きな課題は、これまでの研究を関連づけることであった。私は極めて深い泥沼に陥り、しかもそれはかなりひどい泥濘であった。私のもとから幾人かの学生が去ってゆき、二度と再び顔を見せなかったが、私はそれを非難しない。それまでに、私は椎骨をアジャストする位置と方法を判定するのに後頭骨を利用しようと堅く決めていた。後頭骨には、まだ多くの秘密が隠されていることが判っていたので、もし時間が許すなら、さらに深く研究することを私は提案した。その時、私の念頭にあったことは副交感神経系であった。私はしばらくの間これを探究し、その一部を無血手術の著書にも取り入れた。人間は、二つの神経系統を単独で使用していないことを、私は経験から知っていた。そして経路中のどこかに増幅システムがあるはずであると私は考えていた。治療法の空白を埋めるため、また病気の人々のための特殊な操作を仲間のドクターたちに提供するために、私は「痔核テクニック(HEMORRHOIDAL TECHNIC)、圧迫テクニック(PRESSURE TECHNIC)、メジャー、マイナー、肋骨テクニック(MAJORS AND MINORS AND RIB TECHNIC)」を書いた。これらは非常に単純な操作であったが、多くの症例で実に有効であった。
-14-
観察を通して、患者が第5腰椎サブラクセイションを持っているときには常に環椎サブラクセイションを持っていることを、私は学んでいた。経験から、第5腰椎の棘突起が右に回転しているなら、環椎後結節が左に変位して補正することが判った。この事実は、単なる偶然の一致とするにはあまりにも一貫性のある出来事であった。
私は翌年に向けて、1940年に出版され、主著となる「脊柱治療のための仙骨後頭骨テクニック(SACRO OCCIPITAL TECHNIC OF SPINAL THERAPY)」 のための資料を準備するのに多忙を極めていた。まる三ヶ月間、私と妻(Todde)は、昼も夜も常に校正刷りを読むために電話に呼び出された。私は、研究によって得た多くのことを、この著書に盛り込もうとしたが、研究成果の大部分が私の後ろに控えていると勘違いしていて、それは私の前方にあったのである。私はまだ、「仙骨後頭骨テクニック」の偉大さを見渡す扉を開いていなかった。
1941年、私は新しい研究に取りかかった。私は後頭骨ー脊柱反射の研究は完了したと確信した。この反射を用いることによって、どこを、どのようにアジャストするか、そしてとりわけどんな時にアジャストすべきでないかを判断する段階にまで、この反射を開発したと私は考えていた。もし私が1941年から1946年まで見返すことができたなら、そして健康上あるいは疾患治療に対する後頭骨の影響に関する知識を深めたことを見返すことができたなら、私はむしろ私の研究段階が完了したと信じることを恥じたであろう。
最も出来映えが良いと思われる著書を出版したので、私は腰椎に関心を集中し、その研究結果を著書に書くよりも、セミナーで教えることにした。限られたカイロプラクターのメンバーとの年間契約によって、我々全員が共に研究できると私は思ったが、研究心旺盛なメンバーがあまりにも少ないことも判った。専門職としてのカイロプラクターは研究者であるという立場を公表していないだけである。彼らはカルテを書いていない。結局のところ、テクニックの改善方法について示唆してくれたのは、ごく少数のカイロプラクターだけであった。私は、教えることが幸運への高邁な道であることを判っている数人の人たちを見いだした。彼らはわずかな仲間を誘って出発した。
1941年には、私は第5腰椎を集中的に研究した。脊柱全体を理解するには、個々の椎骨を研究するべきであることが私には判っていた。脊柱を理解できるようになるには、個々の椎骨が他のすべてに及ぼす影響を知らねばならないことを、私は知っていた。私は、おそらくカイロプラクティックの研究において、これまで行なわれたことのないことを試みた。私は、第5腰椎サブラクセイションを矯正するためのテクニックを開発したので、第5腰椎にサブラクセイションを起こすテクニックを開発しようとした。第5腰椎のサブラクセイションを起こすことによって、実際に脊柱歪曲を引き起こせない限り、第5腰椎の歪曲や脊柱歪曲がどのように見えるかは、決して理解できないだろうということを、私は知っていた。奇妙に聞こえるかもしれないが、意図的に椎骨のサブラクセイションを起こすことは、それを矯正することよりも、おそらく遙かに困難である。
-15-
第5腰椎の研究において遭遇した問題は多種多様であった。この椎骨は、身体を支える脊柱の中で重要な位置を占めていて、また梅毒のオスラー徴候に至るまで幅広い症状を呈するので、現実に第5腰椎に特定の焦点を当てるようになるまでに、ほとんど2年の歳月を要した。
私は、腰仙部にストレス症状のない患者をできる限り多く集めることから始めた。私の最初の目標は、直立位で膝を曲げずに前屈し、指先が床に触れる患者、そして背屈時に背腰部と下肢に痛みの出ない患者を少なくとも24人集めることであった。私は18才から50才までの患者を選んだ。18名の適格者を選び出すまでに、私は200人以上の人々を調べた。これら18名の人々は、実験に参加していることを知っていて、その大部分が申し分なく協力してくれた。私は、個々の患者に対し、歪曲分析器を用いて三つの完全な検査を、日を続けて行なった。私は前もって焦点を合わせておいた距離で脊柱写真を撮影した。これを連続して3日間繰り返し行なった。それらのフィルムを重ね合わせ、日毎の写真に明らかな違いがあるかどうかを調べた。18名のうち2名は、あまりにも脊柱が変動しやすかったので、除外せねばならなかった。残りの16名は、実験が完了するまでほとんど2年間、私のもとに留まってくれた。16名の人々は、それぞれが同じタイプのアジャストメントを受けた。そのアジャストメントは、第5腰椎の棘突起を患者の右方向に動かし、この腰椎にストレスをかけるように意図したものであった。そしてこのアジャストメントは4日間毎日繰り返された。5日目には、再び16人の患者それぞれの背部の写真を撮影した。1人の患者は、最初のアジャストメントの10分後にひどい反応を示したが、20分後には不快感は静まったので、彼は実験に参加し続けることができた。10日以内に、2人の患者を除いてすべてが、明らかな右方向への筋肉溝の回転を示した。7日目に2人の患者が左臀部に痛みを発した。1人は寝違えを訴えたが、彼は球技を続けていたので、これはアジャストの結果ではなかった。2人の患者が中背部に痛みを訴えた。1人の患者が膀胱炎にかかった。1人の患者は、腰の周りにきついベルトをしているようだと訴えた。1人の患者は右下肢が1/2インチ短くなった。1人の患者はひどい風邪をひいた。ただ2人だけが同じ徴候、すなわち右臀部痛を示した。
良好なレントゲン側面像を得るための強力なX線装置を持っていなかったという点で、私はこの実験に大きなハンディキャップを負っていた。この実験において、私は少なくとも2度、16名全員のA-P像を撮影した。
一貫して変わらない非常に重要なことが判明した。16名の患者が、それぞれアトラスの左横突起に圧痛を示したのである。16名の誰一人として、最初の実験的なアジャストメントの前に、このような痛みを持っていなかった。
-16-
第5腰椎棘突起を右に回旋させる最後の試験アジャストメントを行なってから4ヶ月以内に、16名の患者のうち5名が急性の腰部障害を起こした。1人は3週間入院した。レントゲン検査では11名に実際の回旋が認められた。5名には、明らかな変化はなかった。急性腰痛を起こしたグループのうち2名が、試験アジャストメントによって回旋を示さなかった被験者であった。
最も顕著な出来事は、この第5腰椎の試験アジャストメントによる骨盤への影響の及ぼし方であった。最初の試験アジャストメントの前に、16名の患者のうちただ1人だけが骨盤帯に全く歪曲がなかった。試験アジャストメントの後、16名の患者のうち2名を除く全員が骨盤の回旋を起こした。奇妙なことだが、全員が左骨盤の回転を起こしたわけではない。このことは、我々が予測していたことと全く正反対であった。我々は、L5棘突起を右に動かしたなら、右寛骨が前方に、左寛骨が後方にシフトしてこれを補正するだろうと予測した。しかし、このようなことは起きなかったので、これが問題となった。実際のL5サブラクセイションに対して骨盤はどれほどの適応力があるのか?骨盤の回旋とL5のサブラクセイションはどちらが先か?この最後の疑問には、統計学的事実から回答を得た。16名のうち14名の患者が、我々が考えた方向とは全く逆の方向に骨盤が回転した。我々は今、この事実を手に入れた。意図的なL5棘突起の右方向へのアジャストメント・・16名の患者の試験・・2名の右骨盤の回転・・11名の左骨盤の回転と2名の無反応・・1名は右骨盤が回転し、翌日には左骨盤が回転。
この実験においては、我々は下肢長のバランスを取る研究を計画した。我々は立位で腸骨稜の高さを計測した。またレントゲン撮影によって大腿骨頭の高さを計測した。仰臥位と腹臥位で内顆の位置を計測した。両下肢の体重分布を判定するために、二つの体重計を用いて患者の体重を毎日計測した。これらの統計所見はあまりにも複雑であったが、次のように総括される。不安定な仙骨を有している患者は腹臥位で両下肢が揃わない。不安定な寛骨を有している患者は仰臥位で両下肢が不揃いとなる。そして、次の事柄が間もなく判ってきた。高い下肢側に向けて回旋するよりも、低い下肢側に向けて棘突起は回旋しやすい。短下肢があって、それが棘突起の回旋している方向と逆側であるなら、シュー・リフトによって両下肢が揃うだろうが、棘突起の位置や棘突起の配置に起因する痛みは変わらない。
我々は最初の患者14人とともに実験を終えた。1人はカリフォルニアに転居した。入院した人は帰ってこなかった。14名に対しては、慎重な分析を行なった後に矯正のためのアジャストが行なわれた。多くの変化が現われた。1人の患者が上部胸椎のひどい側弯症を発症した。1人の患者が偏頭痛タイプの頭痛を起こした。1人の患者が花粉症になった。1人の患者がひどい吹き出物を出した。1人の男性患者が遺尿症になった。しかしこれらの症状のいくつかは、L5の試験的アジャストメントを受けなくとも現われたかも知れないという事実を知っておくべきだろう。カイロプラクティックの研究においては、患者を完璧に管理していない場合には大きな困難が発生するものである。
-17-
残ってくれた14名の患者は、L5の矯正アジャストメントを受けた。矯正が完了するまで、アトラスの左横突起の痛みは残っていた。1人の患者が矯正テクニックにほとんど反応しなかった。この1人を除き、残りの患者は良好な反応を示した。さて私は多くの問題に直面していた。1942年から1943年にかけて、私は骨盤の歪曲に関して研究し、特に寛骨から仙骨を分離しようと試みた。
私の研究生活を通して、カイロプラクターなら誰でも持っている問題をこれきりで終わらせるほどの驚くべき新発見の場面に、見知らぬカイロプラクターが突然現れるのを耳にして驚かされることがしばしばあった。私はしばしば、彼らが困難な道のりを努力して実現したのか、それとも天啓によってそれを得たのかを考えた。
脊柱と骨盤に関する研究においては、腰椎と骨盤のどちらか一方が障害を起こすと、残る方も常に関係する、という事実を掴んだ。腰椎サブラクセイションは骨盤の歪曲を誘発し、骨盤歪曲は腰椎の歪曲を引き起こす。どちらが原因で、どちらが結果であるかを判定する方法を、我々は確立する必要があった。L5に関する研究によって、私はこれだけにサブラクセイションを起こすことができ、そしてそれが特殊なタイプの歪曲を引き起こすことを確信したが、患者がどのようなタイプの症状を発現するか、まだ正確に予測できなかった。私はまだ、後頭骨ー脊柱の経路と脊柱・骨盤のサブラクセイションとを関連づけていなかった。
次に私は仙骨と寛骨の歪曲を1年かけて研究した。患者を歪曲分析器に立たせると、大多数が片側の臀部が後方に、他方が前方になっていることを、私は何年も前に発見していた。私は、垂線が後方側の臀部を通過する関連事項も突き止めた。私はこのタイプの歪曲を「仙腸筋歪曲(SACROILIAC MUSCULAR DISTORTION)」と命名した。垂線が右臀部を通過している時、その歪曲を我々は「左仙腸筋歪曲」と呼ぶことにした。それ以前に私は、寛骨の回旋に関する「腸骨窩診断徴候」を発見し、それを1940年に出版した著書の中で解説した。
寛骨が後方に回旋した時には上部腸骨窩が緊張し、大腿骨の内下方に圧痛が現われ、仰臥位では下肢が短くなることを、私は発見した。これ以外にも、寛骨が前方に回旋した時には、腸骨窩の下方部が緊張し、大腿外側の筋に圧痛が現われ、仰臥位では下肢が長くなることも、発見した。我々は、それらを「U.M.S.とL.L.L.寛骨病変あるいはサブラクセイション」と呼ぶことにした。1943年までに多くの事柄が解決したが、まだ多くの事柄が未解決であった。
私はまだ、骨盤がサブラクセイションを起こした時にはどの部位がサブラクセイションを起こしているのかを判定する特別な方法と、それを何時、どのようにアジャストするかを判定する方法を開発せねばならなかった。私は1936年に、ある場合には寛骨の回旋が第1肋骨に反射現象を起こすことを発見していたが、これは常に起きるわけではなかった。ある場合には反射が発生し、他の場合には反射が起きなかった。
-18-
私の実験には、仕事に従事している人々がおよそ2ダース参加していた。私は、1/4インチの厚みの合板を片側の足にかませて、仕事をして貰った。その目的は、骨盤のバランスを崩すような持続的、反復的な支えを用いた時に、脊柱に何が生じるかを正確に判定することにあった。奇妙に思われるかも知れないが、ほとんどの労働者が両足に均等に体重をかけていなかったので、この実験からはほとんど情報を得られなかった。その後も同じ2ダースの労働者を実験したが、今回は片側の靴の踵の部分を除去した。今度はほとんど即座に反応があった。最初の反応が機械的なものであるのか、心理的のものであるのか判らないが、ある種の非常に顕著な骨盤と脊柱のアンバランスが発生した。
私は骨盤と脊柱のアンバランスについて特に関心があったのではなく、むしろ、患者に出現すると予測していた、いわゆる多くの反射痛に関心があった。実験を始める前に、各人のレントゲン撮影を行ない、「歪曲分析器(DISTORTION ANALYZER)」を用いて肉眼分析を行なった。個々の患者の歪曲は写真撮影され、スケッチされた。その後、すべての患者を入念に触診し、すべての圧痛点を図示した。この実験準備のために、ほとんど2ヶ月を費やした。
この実験においては、すべての患者は週に一度来院し、骨格の痛みが出現したら、すぐに報告するよう指示された。この実験によって今まで知られていなかった多くの事実が判明した。この実験から我々は「寛骨インディケーター(INNOMINATE INDICATOR)」を開発した。また、L5下方位のインディケーターも発見した。仙骨インディケーターの手がかりも得られた。上部4腰椎に関するインディケーターも発見した。今日に至るまで、この年の実験は、他のどの年よりも最も実りの多い年であった。恐らく我々は、実験を行なう手法をとうとう獲得していたようだ。
1945年には、「仙骨後頭骨テクニック1946」を出版する準備のために、私はノートを整理した。この著書は1946年に出版され、この中で「RプラスCファクター・テクニック」が提起された。「RプラスCファクター・テクニック」は、それまでに開発された筋収縮とそれによる痛みを抑制するどんな治療技術よりも、おそらく最も優れたテクニックである。我々はこのRプラスCファクター・テクニックが「抵抗と収縮」を取り扱うものであると考えている。ここで化学式を説明する必要はないが、これは、すべての収縮現象が抵抗現象と異なる化学反応を起こすという理論に基づいている。収縮現象はすべてのカイロプラクターが知っていることである。病気に対する患者の抵抗力に関して話す時に、抵抗現象という言葉が軽く使われるが、RプラスC形式における抵抗現象というのは、これとは全く異なるものである。それは侵略者と戦う患者固有の能力である。これは、筋肉が永久的な損害を被る前に、その収縮を停止する能力である。これは片側の骨盤や脊柱に発生するが、それは身体の反対側に病気を生じさせる傾向を抑えるためである。これは横紋筋だけでなく、非横紋筋にも発生する。
-19-
「RプラスCテクニック」を開発する前に、我々はアジャストのためのインディケーターを開発する必要があった。アジャストのインディケーターは、「反射抵抗の部位」である。
歪曲がどれほど痛いかは重要ではなく、もし歪曲が「インディケーター」を作り上げるとすれば、それは特定の歪曲に対する防禦のための「RプラスCファクター」のネットワークを作るだろう。環椎がL5の反対方向に回転する理由が、ここにある。L5の下方変位がある時に頭蓋が傾くのも、このためである。寛骨の髄膜過敏が存在する時に肩が下がるのも、このためである。寛骨サブラクセイションがある時、多くの患者が耳の不調を訴えるのもこのためである。
1947年から1949年にかけて、私は、後頭骨と脊柱との関連領域に関してすでに行なっていた仕事を再び調べ直すことに没頭した。以前の研究において、この問題に関して多くのデータを見逃していたと、私は感じた。それまでに収集していた事実が理屈に合わない例があまりにも多く見つかった。私はまだ、急性の脊柱痛に対する特定アジャストメントのインディケーターとして後頭骨を用いようと試みていた。そしてまだ、体調不良時のペイン・コントロールとして後頭骨を利用することを試みていた。私は多数の線維を後頭骨上に見いだしたが、これらは私を完全に困惑させた。私は仲間に助けを求めたが、沈黙しか返ってこなかった。仲間の多くが「後頭骨は無理だ。それは夢だ。私はただ後頭骨をいじくり廻したくないだけだ。」と言った。D.C.連中は、いまだに音のするアジャストメントをやりたがっていた。彼らはまだ、科学的な事実を欲するのではなく、骨を動かすことに執着してたのである。
それまでに、「特定の非横紋組織が脊柱痛のトリガー・ポイントとなっている」時にのみ、後頭骨線維が形成されるという事実が判っていた。
私は数名の若年者グループを試験患者として選んだ。最初の試験には、6名の非喫煙者を選んだ。まず、私はこれら6名の後頭骨を触診し、見いだされたすべての線維を図示した。完全な図が出来上がるまで、私は4日間、この作業を繰り返した。私はそれぞれの患者の脊柱の棘突起と横突起を触診した。我々は、一人の被験者を6日間にわたって毎日、10セントの葉巻を用いて実験を開始した。6名中4名が、非喫煙者に予想された反応を劇的に起こした。4例すべてにおいて、後頭骨エリア3とD5がすぐに反応した。反応は棘突起上に現われた。反応しなかった2例は、この試験から外された。反応した4例は、すべてD5棘突起へのリコイル・スラストによって素早くコントロールできた。横突起をアジャストするとコントロールは効かず、エリア3の状態が悪化した。私は深刻な問題に直面したので、必要な答えを得るために外からの助けを求めなければならなかった。反応した4例が、典型的なショック症状、すなわち冷や汗、速くて浅い呼吸、速く弱い脈を常に発現するのを私は確認した。典型的な黄緑色の顔貌、嘔吐、倦怠感、頭痛が出現した。3名の被験者の血圧は数分間、危険なほどに下がった。
-20-
私は典型的な交感神経性の障害に遭遇していたが、障害の真相は何であったか?読者の多くが、少年の頃に葉巻を最初に一噛みした時や、その煙を吸った時に同じ経験をしたことがあると思うが、しかしそれは物陰であったり、ロッカー室内のことであり、対照試験の下ではなかった。
助けになった一つの手がかりは、4例それぞれが経験した軽度の後頭骨痛であった。後頭骨には脳室の脈絡叢があり、これは脳脊髄液を分泌している。そこで、この試験は脈絡叢にある種のショックを引き起こしたに違いなく、どのようなタイプのショックが発現したのか、私は突き止めようとした。
脳脊髄液は髄膜のクモ膜下腔に収容されていること、髄膜がどこにあるか、などは衆知の事実である。次に私は、どのような脊柱アジャストメントが髄膜に干渉し得るのかを調べねばならなかった。実際の脳脊髄液の圧に関してはカイロプラクティックの範疇外であるので、この点に関して私は助けが必要であった。一連の長い実験によって、胸椎や腰椎の棘突起先端に前方圧をかけると、クモ膜下腔の脳脊髄液圧に影響を及ぼすことができることが証明された。逆に影響を与えることができるとすれば、ちょうど正反対すなわち棘突起を頭方に動かすことで、脳脊髄液の圧に好影響を及ぼすはずである。
この実験における最も驚くべき発見は、後頭骨線維が反応する仕方であった。後頭骨の両側上部にはそれぞれ7本の線維があることをことを、私は何年も前から知っていた。また後頭骨の中央部と下部には連続する線維がないことも、私は判っていた。このような構成が、なぜ、特に何を意味するのか、私には全く判らなかった。棘突起先端を前方に圧すると、対応する上部後頭骨ラインの線維が膨隆して痛み出すことを、私は見いだした。これに至るまで、日々後頭骨を触診する日々が続いた。「我々は未だ(三本の)ラインに分割することを知らなかった」。
後頭骨の上部が確かに脳脊髄液の圧と関係があること、そして髄液圧が変動すると後頭骨上部の線維(群)に影響を及ぼすことを、私は見いだした。私はまず最初に、後頭骨線維をマニピュレートして、これによって線維の痛みが解消するかどうかを調べてみた。それはただ痛みを増悪させただけであった。またこのような操作は脊柱の痛みを引き起こすことも判った。時には腕や脚が痺れだす場合もあった。
さて私は、精密な脊柱の写真撮影検査と側面のレントゲン撮影検査を開始した。私は再び脊柱筋の紫外線照射撮影に戻った。何千という患者に何年間も確かに存在していたものに、いま光があてられたのである。私は脊柱のさまざまな部位に窪みを見いだし、それらの窪みが常に棘突起上に存在することを確かめた。それらの窪みに圧をかけると痛みが誘発され、しばしば身体の背部痛の部位に反射現象が発生した。「神よ、アジャストによってそれらの窪みを何度悪化させたことであろうか?」と、自ずから私は思いを巡らせた。
-21-
遂に私は重要な真理を発見した。窪んでいる部位の直下の椎骨を用い、術者の母指球を梃子にして、仰臥位患者の下にこの梃子を挿入し、患者の前面に反作用の圧をかけることで、その窪みを持ち上げることができるのである。これは、「前方変位アジャスト・テクニック(ANTERIOR ADJUSTING TECHNIC)」へと発展した。
この手法はいくつかの点で我々の問題を解決するように思われたものの、これが後頭骨線維に変動をもたらすとは思えなかった。前方アジャスト・テクニックが脊柱の痛みを永久的に解消する事を、我々は証明できなかった。
壁にぶつかった時の最善策は、できる限り過去に遡って古い記録を探究することである。この問題を解決するために、二人の人物が現われて私を助けてくれた。それはテキサスのJim DrainとデンバーのLeo Spearであった。Dr. Drainは、患者の脊柱を反り返らせてアジャストするテーブルを1920年代に既に開発していた。Dr. Spearは、頭方へのスラストを推奨した。この二つの考えを合わせることによって、私は脳脊髄液の動きに関連する問題を解決し始めた。私には、この流体が移動することが判っていたので、さらに呼吸が脊柱の運動を引き起こすことを証明した。強制呼吸によって、脳脊髄液の圧を高めることが可能であること、また軽い呼吸によってその圧を下げることが可能であることを、私は明らかにした。Dr. Drainによって推奨された脊柱を反り返らせる考えと、Dr. Spearが推奨する頭方へのスラストを用いて、遂に私は問題解決に迫っていた。
しかし、問題解決に近づいた時には、しばしば意外な問題が起きるものである。さて、後頭骨は脳脊髄液の流れの遅延に関係する椎骨を示すことが判った。我々には、この浸食が関連椎骨の特別な配置によって硬膜に発生することが判っていた。また、脊柱を反り返らせると、窪みが平滑になることが判った。頭方へのスラストが、他のどんなスラストよりも容易に椎骨を動かせることも判ったが、ーここが大きな問題なのだがーしばしば多くの椎骨を動かしすぎて、患者を悪化させてしまった。ある日のアジャストメントのこと、患者が極めて劇的に反応した。患者が気を失ったのである。私は元来がD.C.であるので、頚椎をマニピュレートしようとして頚椎に触れたところ、それがひどく湿っているのに気がついた。一体全体、何が起きたのか?それ以来、脳脊髄液のサブラクセイションを解消しようとする時には、まず最初に頚椎を触診し、その後にアジャストメントを行ない、再び頚椎を触診することにした。ある場合には頸椎棘突起が強く湿っていて、このような時にはアジャストメントの結果は良好であった。振り返ってみて、私は血管運動系に対して何を行なったのであろうかと考え始めた。私は、血管運動神経はD1から始まっていることを知っていたが、頸椎神経叢、迷走神経、反回神経あるいは他の脳神経に何か線維が走っているに違いないと考えた。その答は、神経学に関する詳しい書籍を読むことで得られた。
-22-
次に私は、関連する棘突起をスラストしないで、指で圧をかけ始めた。ある場合には、ごく軽い圧でも頸椎に湿り気が現われた。またある場合には、どれほど強く棘突起に圧をかけても湿り気が現われなかった。私は最後には棘突起先端に指で振動を与え始めた。そしてこれは、持続圧よりも好結果を得た。その結果から、私は1951年までに「脊柱ポンプ(SPINAL PUMP)」を提起した。その動きが矯正を維持するのに不十分であったので、私は棘突起先端へのリコイル(反跳)を追加し、それが脳脊髄液の狭窄問題を解決することを確認するために、さらに数ヶ月の実験を行なった。追加の情報が蓄積されて、現在では硬膜圧とそれによる髄膜狭窄を矯正するための特殊な分析とアジャストが行なわれている。
一度に何ヶ月間も一つの研究プロジェクトに留まることは不可能である。もしそれを実行すると頭がぼやけ、街の噂になるだろう。私は依然として、軟部組織が反射痛の大部分を引き起こすと信じていた。そしてずっと、私はそれらの疼痛領域を図に描き続けた。1947~1949年にかけて、私は新しい反射を探し続けた。その間、私は冠動脈テクニック、心臓テクニック、その他多数の軟部組織反射を開発した。
1948年までに、後頭骨には三つに別れた反射ラインが存在することが判っていた。「カイロプラクティック無血手術、神経学的内臓反射テクニック」というテキストにおいて、私は三つの後頭骨ラインを提起し、それらを「分析、診断、治療のライン」と呼んだ。
1949年から1952年にかけては、研究に忙しい年月であった。この間に、私は「寛骨髄膜病変(INNOMINATE MENINGEAL LESION)」、特殊な寛骨サブラクセイション、仙骨傾斜サブラクセイション、種々のタイプの胸腰椎の歪曲、軟部組織反射とマニピュレーションの改良などを発表した。私は、頭蓋骨が関係している事例を次々と見つけ出していた。明らかに通常の不調を呈してる患者が、全く反応しなかった。痙攣性の患者や、脳性麻痺の患者が次々と私のもとに連れて来られた。それらの患者は、私が知っていた治療法に反応しなかった。私は常に解剖学に興味を持っていたので、長年にわたり、ある特定の解剖学領域を見直す作業に毎日数分間を費やしていた。
これより遡ること1933年に、ネブラスカ市内で地面を掘削中あるいは家の新築中に、穴掘り作業員が非常に良い状態の頭蓋骨の骨格を見つけ出した。私はその頭蓋骨の所有者となり、これほど若い人が、何故この世から去らなければならなかったか、時々物思いにふけったものであった。ある時、私は、片側の側頭骨がひどく歪んでいるのに気がついた。私はその頭蓋骨の縫合を充分に弛めて側頭骨を取りはずし、その内部を調べた。そして、その内側には物語があった。それ以来、私は来院した患者すべての頭蓋骨を触診するようになった。私は、頭蓋骨に隆起や窪みなどの興味深い異常を見つけ出したが、それは脊柱や骨盤に見いだしたもの以上であった。そして間もなく私は脊柱に関する研究から離れ、頭蓋骨の研究に時間を割くようになった。人はどうにかして糊口を凌がねばならない。だからこそカイロプラクターは農夫の頭蓋骨を触診する時間的余裕がなかったと言える。
脳脊髄液病変に関する研究の中で、私は患者の呼吸を変えさせて、これが脳脊髄液の流れにどのような影響をもたらすかを調べた。そしてこの呼吸変動が、しばしば頭蓋の陥凹を一掃するのを確認した。1952年に「仙骨後頭骨テクニック」を出版した時には、まるまる二つの章を割いて頭蓋テクニックを解説した。
-23-
歪曲した脊柱や骨盤を観察していると、自ずと脚、足首、足にも眼が届くものである。私はしばしば、患者が片側の内顆を床に密着させるように立っていることに気がついた。私はまた、足の内側で歩く人がいるのに気がついた。曲がった足首は突出するが、回内した足関節を真っ直ぐにすることが、歪曲している多くの脊柱に及ぼす効果は実に驚きである。足関節の回内は別に新しいことではない。オステオパシー・ドクターたちは、長年これを取り扱ってきているが、筆者には新しい事柄であり、我々のアプローチと問題は新しいものであると私は感じた。この期間に、私は「仙骨後頭骨・カイロプラクティック無血手術会議」の参加者に向かって、筆者が発見したことを伝え続けてきた。会議に参加していた数百人のドクター連からの財政援助によって、私は研究を続けることが可能となった。資金がなければ研究を継続できない。そして私の治療は常に上出来であったが、金銭的には充分成功していたとは言えなかったのである。我々の会議に参加し、また私が出版した多くの著書を購入してくれたすべてのドクターたちに対して、私は深甚なる感謝を捧げたい。
1953年までに、私は後頭骨に関する謎の多くを解決していた。私は後頭骨の上位部が、脳脊髄液の流れの増減によって異常を起こすことを見いだした。そして後頭骨上位部が、唯一線維を数えることのできる部分であることを突き止め、またある特定の脊柱領域が特定の後頭骨領域に異常を起こすことも突き止めた。1953年に私は、内臓に関する後頭骨反射弓を発見した。私は、椎骨の横突起が常に交感神経の異常に反応すること、および後頭骨ライン2または後頭骨の上下の中心が、異常な横突起刺激に反応することを発見した。その問題は、脳脊髄液の異常な流れによって生じる刺激に対して脊柱が反応する神経路と、交感神経のための神経路が異なるという確固たる事実によって自ずと解決された。そこで私は、指定された後頭骨上のライン2エリアへ至る脊柱からの経路を再び図示することに多くの時間を費やさねばならなかった。ある種の特殊治療の指針として後頭骨を利用している一群の治療家たちにとって非常に重要な事項がある。それはすなわち、「後頭骨ライン2が本当に関係している時には結節が出現する」と言う事柄である。ライン2が後頭骨メジャー線維に出現する時には、この結節はライン2上の最も痛む部位に現われる。後頭骨ライン2は異常な内臓反射によって反応し、そしてすべての内臓反射は交感神経起源である。ウィルス性のすべての内臓障害においても、後頭骨ライン2はウィルス活動に対するインディケーターとなり得る。
1955年までには、組織膠原構造のあらゆる構造変動が、現在我々が後頭骨ライン3と呼んでいる部位に反射性線維を発現させて反応することを、私は提起した。我々は再び延髄内での異なる神経路に立ち向かうこととなり、また再び新しい脊髄神経路を図解する必要性が生じたことなどによって、これは再び長期にわたる頭痛の種となった。
-24-
ここで栄養学が我々の問題の一部になってきた。我々は、サブラクセイションが原因ではなく、ある重要な食物要素の欠乏によって病気になる人が多いことを知っている。筆者は栄養学の開発に関しては実際に研究しなかったが、特定の栄養素を仙骨後頭骨テクニックに取り入れようと試みた。
どれほどうまく仕事をこなしたとしても、それは決して完璧に仕事を成し遂げたことと同義ではない。1924年からの私の研究が、多くの未探検の道を開いていたと私は思い、そして患者は我々のオフィスに通い続けたが、ある者は反応しなかった。我々はまだ他の人たちが解決していなかった腰痛に遭遇していたが、我々もまた答えを持っていなかった。何年間も私は特定の問題にかなりの時間を割いていたが、私は常に人間を、すべての部品が適合し、一つのユニットとして作動しない限り、どの部分も完璧に機能しえない総合的な機械として見ていた。特殊な原理であろうが総合的な原理であろうが、これらを用いて私は常に患者を良好な機能に戻すことを熱望していた。何年にもわたる以前のノート、あるいは昨日のノートを見返しても、多くの疑問符が、そこには記されていた。私はすべてに解答できるカイロプラクターになろうとは考えていなかった。なぜならそんな人間は存在しないからである。
ある一連の実験において私はある装置を作成したが、これは呼吸動作に関する多くの情報をもたらした。その実験装置とは、くねくね曲がるプラスチックであった。これは、どんな曲面にも沿うように接合された定規である。私はこの定規にドリルで数個の穴を開け、この穴を通して短いワイヤーを吊し、ワイヤーの先端にゴム糊の丸い塊をつけた。この可変定規を腹臥位患者の8インチ上方に吊し、それぞれの短いワイヤーの先を椎骨の棘突起に当たるようにした。この装置によって、患者の呼吸に伴うワイヤーの動きを実際に観察できた。ある椎骨領域では他の部位よりも大きく動いた。すべての中で、仙骨が最も大きく動いた。次に私は、ハイロー・テーブルに患者を逆向きに寝かせて、患者の頭をできるだけ低くしてみた。この配置では、呼吸に伴う脊柱の動きはほとんど失われたが、仙骨の動きは増大した。その他、私は種々の程度の傾斜を呈している患者に、この可変定規を用いた。この実験から、ある重要な事柄が導き出された。それは仙骨が呼吸運動をほとんど起こさない配置は、常に頚椎の緊張を引き起こすと言うことであった。この発見は「呼吸テクニック(RESPIRATORY TECHNIC)」の開発につながった。
呼吸メカニズムとして、また脳脊髄液の源泉として仙骨を見なすことによって、仙骨が寛骨との間の正常に機能する配置を失って多くの人々が病気になるということに、我々の注意が向けられた。仙腸部病変を教わっているオステオパシー・ドクターにとっては、これは目新しい事ではなかった。しかし我々は仙骨に関する現象を仙腸部病変として見ておらず、特殊な「仙骨サブラクセイション」として見ていた。次に我々は、立位、仰臥位、座位の三つの姿勢で患者の骨盤のレントゲン撮影を開始した。我々は以前に、腹臥位での仙骨のレントゲン撮影を試みたが、結果は芳しくなかった。
-25-
上記と共に、脊柱傾斜を有する大多数の患者が仙骨の傾斜も持っていることを、我々は視診によって確認した。立位の静止状態では、それらの患者はバランスを取るのに問題があったので、彼らは片足を外方に回転し、一種のカスガイのようにして身体を支えていた。L5サブラクセイションの多くが、L5のサブラクセイションではなく仙骨のサブラクセイションであることが明らかになった。我々が気付いた重要なことは、仙骨サブラクセイションを示したすべての患者が、項靭帯にも強い緊張を有していることであった。
長年にわたる研究生活を通して、私は一般的治療も続け、他のカイロプラクターと同様に、しばしば肘、肩、足、膝、足首、その他諸々の治療を頼まれた。私はそのような四肢テクニックの独自性を主張するわけではない。何故ならば、ある関節のサブラクセイションの素地となっている機械的な問題を理解したなら、他のすべてのメカニズムを理解したことになるからである。私は、力を用いることはカイロプラクティックには不要であることを知った。そして激烈な力を用いる日々は永遠に過去のものとなったと確信した。矯正の目的は方向と配置の二つである。配置とは、その分節が抵抗するのに最も不利な位置に持ってゆくことである。方向とは、「異常な位置から正常位に戻る」ために取らなくてはならない経路のことである。
私のすべての研究年月を完全に記述すると膨大な分量となるので、誰も読む気はしなくなるだろう。この小冊子には私の研究経験の中で最も興味深いものを記述したが、これを読んだ読者諸氏が、私が見たことより以上に深く見、私が見なかったことを見るように勇気づけられることを望むものである。
研究はゲームである。それは片手間の、あるいはある種の斜に構えた楽しみである。我々は、すべてが未知の事柄を発見することにわくわくする存在である。研究は金がかかり、時間のかかるものである。何週間も、何年も浪費できるものなら、より一層多くのことを達成できるだろう。私にとって研究は刺激剤であった。研究することによって私は生かされてきたと、私は心から確信している。研究することが一銭たりとも浪費だとは私は思わない。私のもとに参集してくれたドクターたちと患者たちが研究を支援してくれた。私が治療で成し遂げたことと同じほどに、研究分野においても私は力を尽くしたと思っている。また私は、より多くの貢献を成し遂げたと信じている。
私は、自分自身をテクニックの切り売り人であると考えたことは一度もない。私は、カイロプラクターが利用できることを開発しようと試み、また彼らがそれを利用し続けるのに充分な創造的刺激を盛り込もうと試みた。私の努力を通して、多数のカイロプラクターがこの業界に留まり、うまく仕事をこなしたと私は感じている。
私が教え始めた頃、私は全く未熟だった。聴衆よりも私自身が混乱していたことがしばしばであった。彼らすべての忍耐に、神のご加護があらんことを願っている。
学生たちが私の支援を必要とし、またそれを望む限り、そしてまた私の支援が役に立つ限り、私は教えたいと願っている。成し遂げるべきことが多く残っている。「仙骨後頭骨テクニックは、あらゆる人間を探査し、その未調整部位を見つけ出し、再調整によって患者を回復させようと努めるものである。」
我々は人体の完璧な神経系ー両耳の間に存在する部分までもーを研究した。我々は人体構造を研究し、その欠陥を見いだし、それを修復しようと努めた。我々は人体の軟部組織を研究し、それらの組織に見いだされたあらゆる欠陥を除去しようと努めた。
-26-
さて総括に移ろう。後頭骨は人体の三種の神経系を明らかにし、それらの系の欠陥を示唆し、どこを如何にして再調整すべきか、知らせてくれる。
*「肉眼観察」によって人体構造の歪曲部を知り、「インディケーター」によってその歪曲を如何に戻すかを決める。
*「RプラスCファクター・テクニック」によって、力を用いることなく人体の筋緊張を調整し、「配置と方向」を考慮した解剖学的調整を行なう。
以上で、最初の「仙骨後頭骨分析」にかかる平均時間は5分である。二度目の来院なら、さらに時間は短い。
「RプラスCテクニック」が必要な場合、これにかかる時間は平均で2分である。
上記のアジャストメントにかかる時間は、いかに早く何かをボキッとさせる時間を計測したものではなく、「患者の配置を取り、アジャストメントの方向を決める」時間を計測したものである。
我々はどのような装置を用いるか?
「歪曲分析器(DISTORTION ANALYZER)」を用いて肉眼分析を実施。
四指を用いて後頭骨と脊柱を触診する。
レントゲン撮影を行なって所見の是非を確認する。
徒手によってアジャストメントを行なう。
最後に、我々のカイロプラクティック大学の位置と、それらの大学から見た仙骨後頭骨テクニックに関する見解に関して短い私見を披瀝したい。カイロプラクティック大学が仙骨後頭骨テクニックを教えていないことに対して、私は今まで一度も批判したことはなかった。ほとんどのカイロプラクティック大学は私の業績のいくつかを知っている。その証拠に私のテキストがほとんどの大学の図書館に納められている。すべてのテクニックや探求者の精神に起源を発するテクニックを教えることが大学の務めではない。大学の義務は、カイロプラクティック治療の精神を学生に植えつけることにある。大学というのは、高校を卒業した若者を受け入れ、そのほとんどが予備的心構えのない者たちを科学の中に放り込む所である。どのテクニックを用いるかを決めずにカイロプラクティック実践科学をマスターすることは全く難しいことである。医科大学は、単にどの医学分野を実践するかを学生に選択させるためだけの所である。医学生は、M.D.になった後で、その分野を修得する。大学卒のカイロプラクターは、自分の治療の実施方法を選択せねばならないのである。
-27-
未来に向けて
カイロプラクティックの研究は永遠に継続されねばならない。誰かが、この仕事をこなさねばならない。なぜなら研究というのは、それ自身のための単なる手入れではないからである。専門職というものは、一所にじっと留まっているものではない。モチベーションは常に創出されねばならない。カイロプラクティックの研究には、現在有していない多くのものが必要である。(世界)大恐慌の期間中は、患者は治療のための金銭的余裕がなかったので、研究のために患者を集めるのは容易であった。現在では、状況は大きく異なっている。ほぼすべての労働者が保険に加入している。研究のための患者は、砂中の金ほどに稀少となっている。研究用の患者がいなくては研究は成り立たない。研究用患者の唯一の実際的供給源は刑務所であるが、我々は刑務所との交流機縁を持っていない。カイロプラクターとして公立学校に入り、脊柱の研究をすることは不可能である。我々がどれほど先まで研究を進められるかは、次の二つのことに依存している。それはすなわち、「研究対象の利用可能性と私自身の精神力」である。私には構想があるが、長期の研究のために管理できる十分な研究用患者を準備できない。管理された実験対象を用意しないことには、何事も発見できないのである。
すべてのカイロプラクティック・テクニックと同様に、仙骨後頭骨テクニックは一層の研究が必要である。他のいかなるグループもそうであるように、我々もまた確かに人間のすべての障害に対して答えを持っているわけではない。ある構想を他人に伝え、それを立証することをその人に頼むことなどできるわけがない。カイロプラクターは、そのように育成されているのではない。彼らは独創的な探求者と言えるほどの者ではない。医者もまた探求者ではないが、彼らは、欲求を満たすのに必要な金と時間を持っていて、医療費を支払ってくれる何百人もの素人患者を抱えているのである。
"カイロプラクティック・アーカイブス"へ
著作権所有(C) 1996-:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田) |