術:医術擁護論   ヒポクラテス著
The Art      Hippocrates


掲載日 2013.12.8
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英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. II 1923
Loeb Classical Library

英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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追記:
英訳文は(そしておそらくギリシャ語の原文も)、コンマ(、)やセミコロン(;)で延々と文章が続いていて、段落が全くない。しかしディスプレイ上で読む際には、画面に適度な空白がないと極めて読みづらいので、英文のピリオドを目安にして、訳者の独断で適宜改行をつけ加えたことをお断りしておく。

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術:医術擁護論    ヒポクラテス著
The Art       Hippocrates


英訳:W.H.S.Jones (1876-1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. II 1923
Loeb Classical Library
邦訳 : 前田滋 (カイロプラクター、大阪・梅田)
( http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jh-art.html )

   前田注;Jonesによる序文が興味深いので以下に掲載しておく。
W.H.S.Jonesによる序文

「術」と題されたこの論説は、医術の存在を証明しようとするものである。数段の前置きの後、医術は病気の苦痛を取り除くが、治りそうにない病気は受けつけないという定義づけを否定する理不尽さに対して、著者は反論する。

医術に対する四つの異論が幾分詳しく述べられる。誹謗者は次のような主張をしている。
1. 病気が治るのは運による。
2. 患者は医術の助けがなくても治ることが多い。
3. 患者の中には医師の治療を受けたにも拘わらず死亡する人がいる。
4. 医師は、手に負えない病気は引き受けない。

これらの異論に対して、著者は病気を身体の表面にあるものと内部にあるものの二種類に大別する。そして表面にある病気は治りやすく、内部にあるものは治りにくいという。この治りにくさについては、ある程度詳しく論じられる。そして治療が奏功しないことの責めは、医術それ自体にではなく、周囲の事情にあるとしている。

ざっと目を通しただけで、この論説は医師ではない者によって書かれていることは明らかである。この著者の目指しているところは巧妙な理論づけと文章表現のスタイルにあって、科学そのものにはない。それに加え、最終節で「医術に熟達している人たち」を、仕事を基盤とする医術の存在証明として挙げている。そして本論の中で挙げられている証明のように、言葉による証明をしていない。明らかに、この著者は医師ではない。

本論の最も顕著な二つの特徴は、論理構成が弱いことと、詭弁的な修辞を好んで用いていることにある。本論を通してみられる修辞上の特徴は疑いもなくソフィストのそれである。巧妙な隠喩と対句、語句と語句の均衡などは、説明するまでもない。

しかし、これ以上先に進もうとすると、深刻な問題に直面する。すなわち、ゴンペルツ(Gomperz)はとりわけ第2節を取り上げて、この著者はプロタゴラス(Protagoras )に違いないと明言している。一方でテイラー(Taylor)教授は、同じく第2節を取り上げて、この著者はエレア学派の信奉者であるとしている。この節の鍵となる文章である「実在する物は眼に見え、感知できるが、実在しない物は見えもしないし、感知することもできない」というのは、プロタゴラス派やエレア派の際だった特徴ではないように思われる。ありていに言えば、この文脈には、形而上学的な言辞は全く見られず、明白なことを否定するという論理矛盾を単に指摘しているだけのように思われる。

1.
さまざまな術を誹謗する術に長けている人たちがいる。しかし、彼らは私が言うところの誹謗をしているつもりはなく、ただ彼ら自身の考えを開陳しているつもりなのである。

しかし私の考えでは、未知なるものが未知のままであるよりも世に知らしめる方がよいことである時には、それを発見することは知性の目標となり、また知性の果たすべき務めとなる。またそうすることが、未完のものを完成させることになるのである。

一方で、他人の発見したことを悪態の限りを尽くして中傷したり、何も改善しようとせず、知識ある者が見いだしたことを無知な人々の前で貶めたりすることは、知性の目標ないしはやるべきことではなく、性格がねじれている証であったり、術が身についていないことの現れであるように、私には思える

実際のところ、術を身につけないままで、能力がないのに野心だけを抱き、このようなやり方で行動する人だけが、隣人の功績の正当性を中傷したり、見当外れのけちをつけて憎悪を募らせるのである。

さて、他のさまざまな術に対する、この種の攻撃に関しては、注意する人またできる人によって、そして彼らが注意したい観点について撃退させるのがよい。

この論考は医術に対してこのような攻撃をしかける者たちに対抗するためのものである。そしてこの対抗策は、医術を非難する者たちの存在によって却って奮い立たせられるのである。そしてこの対抗策は守るべき医術を通してよく防禦され、教え込まれた知恵によって力を得ているのである。

2.
さて一般論として、実在しない術というものはないと私は思っている。実際のところ、実在している事物を実在しないと考えるのはばかげたことである。存在しないものが実在しうるなら、誰がそれを観取し、それが実在すると明言できるだろうか?

実在するものを見る如く、実在しないものを実際に目の当たりにできるなら、眼で見たり、心の中で存在すると認めることのできるものを実在しないと、どのようにして判断できるのか、私には分からない。

いや、そんなことはあり得ないのであって、実在するものは常に見えるし認識でき、実在しないものは見えもしないし、認識もできない。さて、術が公にされると、その実体が知られるので、ある種の真の実体の結果として見ることができない術というものはないのである。

また私は、術の名称もその真の実体から与えられるものであると思っている。その名称から真の実在が生まれると考えるのは、馬鹿げているだろうか?いやあり得ないだろうか?というのも、名称というのは慣例的なものであり、真の実在は慣例的なものではなく、自然から生じるものであるから。

3.
この主題の全体に関して、私が述べたことから充分に理解できない時には、他の論述から明快な教示が得られるだろう。さてこの論述の主題である医術に話を移し、その説明をすることにしよう。最初に、私が考えている医術とは何であるかを明らかにしておこう。医術とは一般に、病人の苦痛を取り除き、病気の勢いを鎮め、 病気に負けている人に対しては、医術は無力であることを悟り、治療を引き受けないことである。

医術はこれらの条件を満たすものである。そしてまた常にこれらの条件をみたし得るものでもある。この観点から医術を論じてみよう。

医術の解説において、同時に私は、医術を辱めようと考えている人たちの論拠に反論を唱えてみるつもりである。また、医術を誹謗することに何らかの成果を挙げたと信じている人たちについても、その論拠を厳しく論駁してみるつもりだ。

4.
まず最初に誰もが認めることから話を進めてみよう。医術の治療を受けた人の中には治る人がいるというのは広く認められていることである。しかし、全ての人が治るわけではないことによって医術が非難されるのである。医術を中傷する人は、病気によって死ぬ人がいることから、病気から回復するのは医術のおかげではなく、幸運によるものであると言い募っている。

私もまた幸運からその特権を奪うつもりはない。それにも拘わらず、間違った治療をすると、概して不幸が引き寄せられ、上手に治療すると幸運が引き寄せられると、私は思っている。再び言うが、医術を利用して病気が治ったのを目の当たりにしているのに、治ったのは医術以外の何かのおかげであると、患者はどうして考えられるのであろうか?

そして、彼らは幸運の実体を見たくないという気持ちを露わにして、医術に身を委ねるのである。その結果、幸運には依存しなくて済んでいるが、医術には依存しているのである。また、彼らは、医術を信頼してこれに身を委ねた結果、それによって医術の実体を知り、医術の仕事が完了した時には、その力の程を理解するのである。

5.
さて、反対論者は、これまでも医師の診察を受けなくとも多くの人たちが病気が治っていると反論するだろう。私もそれは正しいと認める。しかし、何が正しい医学処置で、何が間違った処置であるかを知らずに、偶然にも医師が用いるのと同じ手法を自分で用いることによって、医師の診察を受けなくとも医術の恩恵を受けることはあり得ると、私は考えている。

医術の存在を信じていない人でさえ医術によって回復することが明らかになることが、医術は存在していて、しかもその能力は高いということを強く証明している。

医師の診察を受けないで病気が治った人たちでさえ、病気が治ったのは何をしたためか、あるいは何をしなかったためか、必ず知っているはずである。実際のところ、絶食するか飽食するか、過剰に飲むか飲まないか、入浴するかしないか、激しい運動をするか休息するか、睡眠を取るか取らないか、あるいはこれら全てのことを取り混ぜて行なうことによって、病気が治るのである。

そして彼らは、効果があったことによって何が有効であったかを学び、害になった時には何が有害であったかを学ぶはずである。際だって効果のあるものと際だって有害なものとを見分けることは、誰でもできることではないのである。

そして、このようにして患者が学ぶなら、回復をもたらした養生法を組み込んだものを、如何にして讃えたり、そのお陰であると見るべきかを患者は知り、またこれら全てのことが医術に属していることを患者は理解するだろう。

再び云うが、医術による利益に劣らないほど、その間違いも医術の実在を証明している。というのも、有効な結果は医術を正しく用いたからであり、有害な結果は医術を誤って用いたからである。そして、正しいことと間違ったことにそれぞれ明確な境界がある所には、必ず術があるはずである。なぜなら、私が言うように、術のないところには正しいことも間違いもなく、この両者が存在する所には、術が存在しないことはあり得ないからである。

6.
さらに、医術および医師が、催吐剤や収斂剤だけによって治療しているなら、私の主張の説得力は弱いだろう。しかし、大きな評判を得ている医師は、養生法やその他のもの-医師だけでなく医術のことを知らない一般人も含めて、その名を聞いて誰一人として医術に関係ないとは言わないもの-を用いて治療していることが明らかである。優秀な医師や医術そのものによって用いることができないのもは何もないことを理解し、また自然に発育したり人工的に作られたりするものの大部分が治療のエキスとなったり薬となりうるのを理解すれば、医師の診察を受けずに回復した患者は誰一人として、回復したのは自発的なものであると理論立てて言えないだろう。

実際、詳しく調べれば、自発的な治癒というものはないといえる。およそ生起するものは全て何物かによって生起することが分かり、またこの「何物かによって」ということによって、自発性というのは単なる言葉であり、実体がないことが示されているのである。

しかし、医術は「何物かによって」作用し、その結果も予想できるので、現在も、またこれから先もずっと、その実体を明らかにしてゆくだろう。

7.
以上述べたことが、病気が治るのは偶然であると考え、医術の実在を否定する人たちに対する反論である。

病気が瀕死状態になることを取り上げて医術を攻撃する人たちに対しては、彼らはどんな理由で、瀕死状態になったのは運が悪かったのではなく、医術を実践している人たちの知力のせいにするのか、私は不思議に思う。これは次のように言うことと同じである。すなわち、医師は間違った指示を与えるかもしれないが、患者は指示にそむくことは決して許されないということである。それでも、医師が間違った指示を与えることよりも、患者が指示に従えないことのほうがずっと多くありえることである。

医師は健康な心と身体を持って治療に向かい、今受け持っている症例と、それと同じような特徴を有する過去の症例を考慮するので、彼らがどのような治療を受けて回復したかを説明できる。一方で、患者は自分がどんな病気かも知らず、その原因も知らず、今の状態がどうなってゆくかも知らず、同じような病気が普通はどのような結果になるかも知らないのである。この状態で患者は医師の指示を受けるのである。そして今現在を苦しみ、これから先のことを恐れ、完全に病気に冒されて食餌も摂れず、健康を取り戻すことよりもむしろ早く症状が軽くなる治療を望んで死を望まず、しかし苦痛に耐える力もないのである。

次のうちどちらがありそうに思われるだろうか。すなわち、この状態の患者が医師の指示を変えることなく従うのと、これまでに説明したような医師が間違った指示を患者に与えるのと。確かに、医師が正しい指示を下し、無理もないことだが、患者がそれに従えず、そのために死に至ることの方が、ずっとありそうなことである。そして合理的な推論を立てられない人たちは、死の原因を罪なき者にかぶせ、罪をかぶるべき者を放置するのである。

8.
また、治る見込みがない症例を引き受けない医師がいることを非難する人たちがいる。そしてまた、自然に治癒する症例だけを引き受け、手間のかかる治療が必要な症例には手をつけない医師がいるが、医術が実在するなら、全ての症例が同じように治るはずだと言う人がいる。

さて、このようなことを言う人たちが、精神錯乱状態でそのような言辞を吐くのだから、治療を拒否されたとして医師を非難するなら、この人たちの方が、上記のような非難をする人たちよりもずっと理屈に合っていると言えよう。

ある人が医術や自然が持っていない力を求めるなら、その人の無茶な要求は学識がないというよりも狂気に等しいといえる。自然の摂理や医術によってもたらされた方法によって医術の専門技能を獲得した場合には、それは医術の専門職人としてであって、それ以外の分野の職人ではあり得ない。

従って、医術処置の方法に打ち勝つほどのひどい病気に苦しんでいる患者に関しては、医術が病気を克服できると期待してはならない。例えば、医術で用いる焼灼法の中では、火を利用する方法が最も強力であるが、これより効果の小さい方法は他にも多数ある。そこで、効果の小さい焼灼法よりも勢いが強い病気は、治療できないわけではないことは明らかである。しかし、最強の治療法よりも病勢が強い病気は治療できないことも明らかである。火を用いても病気を克服できない時には、火を用いる方法以外の別の医術が必要である。

医術に用いる他の手法についても同じ論法が当てはまる。医師がそれらのうちのどれを用いても結果が得られない時には、病気の勢いを責めるべきで、医術を責めるべきではない。

さて、治る見込みのない症例を引き受けない医師を非難する人たちは、治る患者も治らない患者も同じように、医師に治療させようとするのである。彼らがそのようにする時、名ばかりの医師たちからは賞賛されても、真に科学的方法論を備えている医師たちからは嘲笑の的にされるのである。

医術の経験を積んだ人たちは、そのようなばかげた非難や、ばかげた賞賛を全く必要としてしない。彼らが必要としているのは、熟練技能者の操作が最後まで完璧に仕事をこなしたことが分かり、また技能者がどこまでできるかを分かっている人たちからの賞賛なのである。そしてまた不首尾に終わった例のうち、どれが技能者に責めを帰すべきか、どれがその術を施した物に責めを帰すべきかを分かっている人たちからの賞賛なのである。

9.
他の術に関する展望は別の機会、別の論考で論じることにしよう。医術に関しては、その本質やどのようにそれを判断するかを論じてきたが、これ以後も論じてみよう。

この術を正しく理解している人たちは、見える場所に病気があるのは数種しかなく、他の多くの病気は感知できない場所にできることを知っている。感知できる病気は皮膚に発疹ができたり、その色や腫脹によって判る。これらは視覚や触れた時の堅さ、湿気、熱いか冷たいかによって感知できる。そして個々の病気において、これらの徴候があるかないかによって、その性質の病気を引き起こす状態が何であるかを感知できるのである。

このような病気は全ての症例において、治療が簡単であるという理由からではなく、治療法がすでに判っているという理由で、治療を間違ってはならない。しかし、そのような治療法は、発見したいという願望だけを持っている人々によって見いだされたのではなく、見いだすだけの能力を有している人々によって発見されたのである。そしてそのような能力は、充分な教育を受け、生まれつき高い能力を有している人々が持っているのである。

10.
上で述べたような医術は、露わになっている病気には対応できるはずである。しかし、隠れた病気の前でも、医術は対処する術を持っていなければならない。隠れた病気というのは、骨や空洞にできる病気のことである。身体には、これらの骨や空洞が一つだけではなく、いくつか存在する。食物を摂取するのと排泄するのと合わせて二つの空洞があり、これ以外にもいくつかの空洞がある。これらの事に興味のある人たちは、このことを知っているはずである。実際、全ての四肢には、筋と呼ばれている肉に囲まれている空洞がある。全てが連続して発育するわけではないので、骨を覆っているのが皮膚であろうと肉であろうと、そこには空洞があり、この空洞は健康な時には空気で満たされ、病気の時には体液(Jones注;膿)で満たされる。

そのような肉は腕や大腿、下腿にある。さらに肉のない部分にも、肉のある部位に示したような空洞がある。肝臓が収まっている胴体、脳が収まっている球形の頭部、肺の横にある背中、これら全てはそれ自体が空洞になっていて、多数の隙間があり、多くのものが中に入っている。そして中に入っているものは、あるいは身体に害となり、あるいは身体のためになっている。

これらに加えて、多数の血管や腱がある。腱は肉の表面にはなく、骨に沿って伸びていて、ある部分で骨に付着して関節そのものを結合している。そして関節では動ける骨が接合し、関節を回している。これらは全て多孔性で、その周りに小さな空洞がある。この小さな空洞が破裂すると大量の膿が流出し、強い痛みを発するので、その存在が分かるのである。

11.
前記の病気のどれ一つとして、目で見ただけで確認できる人はいない。そのために、これらの病気を不確定と私は名付けたのであるが、医術によっても不確定と見なされている。しかし、これらの病気が感知できないからといっても、我々がそれに打ち負けているということではなく、できるだけ克服しようとしてきているのである。そして、克服する可能性は、検査される病人の許容限度と、検査する者の検査能力に依存している。

実際、このような病気を眼に見えるかのように見つけるには、さらに苦心と時間が必要である。というのも、眼に見えない病気は、心眼によって克服されるからである。そして、病気を素早く見つけてもらえないことによる患者の苦しみは、医師の責任ではなく、患者の本性や病気の性質によるものなのである。実際のところ、医師は障碍部を眼や耳で確かめることができないので、推論によって探っていたのである。

不確定な病気にかかっている患者が、医師に対して病気に関するさまざまなことを知らせようとすることは、学識に基づくものではなく、自分の個人的な考えである。患者が自分の病気のことを理解していたなら、その病気にはかかっていなかっただろう。というのは、病気の原因を知ることと、病気が悪化するのを防ぐためのあらゆる処置と共に、その病気をどのように治療するかを理解することは同じ種類の理解力が要求されるのであるから。

さて、患者が伝えることが完全に信頼できない時、医師は新しい方面から病気を探らねばならない。そして、このように治療が遅れることの責任は医術にあるのではなく、患者の体質にある。また治療することが正しいと医術が判断した時にのみ治療するべきで、その時には無鉄砲を避けて分別を持ち、乱暴にではなく穏やかに治療する方法を考えながら治療する。患者の体質に関しては、病気が発見されるまで耐えられるなら、治療にもまた耐えられるだろう。しかし、病気が見つかっても医師にかかるのが遅れたり、病気の進行が早かったりして身体が病気に負けてしまうと、患者は死亡するだろう。

病気の発症と治療の開始が同時であるなら、この競争に病気が勝利することはないだろう。しかし人体構造が密集しているために病気が隠れて潜伏したり、患者の不注意で病気を軽視した結果、病気が治療に先行した場合には、病気が競争に勝つだろう。

このような病気の先行は不思議なことではなく、患者が治療を受ける気になるのは、病気が進行している時ではなく、それが定着してからであるので。

12.
治る見込みのない病気を治療しようとして失敗した時よりも、不確定な病気に苦しんでいる患者を治療する時の方が、医術の力はずっと驚嘆される。・・・・・・・すでに見いだされている他の専門職では、このような突飛な要求をされることはない。火を用いる術は火がないと作業できないが、火を燃やすと作業できる。

形を整えるのが容易な材料を扱う技術としては、木や革、顔料、青銅、鉄その他類似の材料を扱う非常に多くの技術がある。それらの材料を用いてその技術で出来上がった製品は、私が言うように、形を整えるのは簡単であるが、それでも速く完成させるよりも正確さを重視して作られるものである。またそれらはおざなりなやり方で作られるわけではなく、道具がないと作業は止まる。これらの技術では、仕事が遅すぎるのは利益に反することだが、それにも拘わらず、好ましいことではある。

13.
蓄膿症、肝臓や腎臓の病気、空洞全般は、全てのものを最も完璧に知ることのできる視覚によっても確認できない。しかし、医術はそれを補う他の手段を見い出している。声が澄んでいるか嗄れているか、呼吸が速いか遅いか、常習的な排泄物については、それぞれの経路、臭い、色、その濃さと薄さ。医術はこれらを通して病気を推定するのである。そして、これらの徴候がどんな病気を示唆しているか、どの徴候が身体のある部分がすでに病気に冒されているか、またこれから病気に冒されるかなどを、医術は推量するのである。

このような徴候が現れず、患者の体質も自発的に何も現わさない時には、医術は強制的に調べる方法を見い出している。それは害をなさずに病気の徴候を強制的に引き出す方法である。このような方法を用いると、医術に精通している者には、どのような治療法を用いるべきかがはっきりする。

例えば、辛い食物や飲み物によって粘液を散らし、以前は見えなかった病気を目に見えるようにする。呼吸が病気の徴候となる時には、登り坂を走らせ、徴候を引き出す。すでに述べたような方法で汗を出させ、火で湯を沸かした時に出る蒸気と同じ結果を引き出す。膀胱からの排泄物も、肉からの排出物よりもずっとはっきり病気を示唆する。また医術は、自然な体温よりも熱くして物質を溶かすような食物や飲み物を見出している。そして、このような処置を行なわないと決して溶けないような物を流出させるのである。

このような処置による排出作用と、そこから得られる病気の情報との関連性は重要であるが、この関連性は、病気の種類によって変化する。従って、得られる情報に対する不信感が続いたり、処置を中断したりしても、これは驚くべきことではない。というのも、そのような情報を医術によって活用できるようにするには、それぞれ別種の要素を用いて解釈せねばならないからである。

14.
医術はそれ自身の中に、その処置を正当化する多くの理論を備えていること、難治性の病気を引き受けないのは正当なことであること、あるいは病気を引き受けた時には、誤りを犯さずに治療するだろうということは、この論考において述べているし、医術に関する詳細な解説においても述べている。一般大衆は、聞いたことよりも、見たことの方を信用すると考えるのがより自然であるという考えに従って、それらの解説は、言葉によるよりも行動によって示されている。

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