養生法 I ヒポクラテス著
Regimen I Hippocrates


英文訳者:W.H.S. Jones (1876~1963)
「HIPPOCRATES」 VOL. IV 1931
Loeb Classical Library
邦訳:前田滋 (カイロプラクター:大阪・梅田)
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jh-regimen-1.html )

掲載日 2014.03.26

英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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追記:
英訳文は(そしてギリシャ語の原文も)、コンマ(、)やセミコロン(;)で延々と文章が続いていて、段落が全くない。しかしディスプレイ上で読む際には、画面に適度な空白がないと極めて読みづらいので、英文のピリオドを目安にして、訳者の独断で適宜改行をつけ加えたことをお断りしておく。


1.
先人たちの誰かが健康に関する養生法を書き留め、そしてこれに関して人知の理解できる全てのことを、正しい知識に基づき完璧に書き留めていると私が考えるなら、私にとっては他人の労作が正しく機能することを学べば充分であっただろうし、それぞれが有用であると思われる限りにおいて、その結果を利用すれば十分であっただろう。

実のところ、このことに関してすでに多くの人々が書き残しているが、どのようにそれを扱うべきであるかを正しく理解している人は誰もいない。ありていに言えば、それぞれの一面で正しいことを書いている人たちはいるものの、全体として正しく書いている先人は誰もいない。しかし、完璧な知見を得られなかったからと言って誰も咎められるべきではなく、逆にそのような探究を試みたことに対して全ての先人たちは賞賛されるべきである。私はこれから間違った言説を批判しようとしているわけではなく、充分考え抜かれた事柄は受け入れるつもりである。

先人たちの正論に関しては、私が何か他の書き方で正確に書き記す必要はない。間違っている説に対しては、それらの間違いを暴露したところで何かが成し遂げられるわけでもない。ただ、彼らの説の一つ一つが私にとっては遥かに真実から遠いと思われることを説明することが、私の考えを説明することになる。

このようなことを前もって書くのは次の理由による。ほとんどの人は、あることについて他人から一度詳しく説明を受けると、後からそのことを議論しようとする人の言うことを聴きたがらないものである。そして彼らは、何が正しい説であるかを学ぶには、最初の知見を見いだすことと同等の知力が必要であることが判っていない。従って、すでに述べたように私は正しい説は受け入れるが、間違っている説に関しては真実を解説するつもりである。これに加えて、先人たちが誰も説明しようとしなかった事柄の本質についても説明するつもりである。

2.
私が言いたいことは次のようなことである。すなわち、人の養生法を正しく取り扱いたいと切望する人は、まず人間の本性と人体の基本構造に関する全般的な知識と洞察力を身につけておかねばならない。そしてまた人体を支配している、その構成要素に関する知識も身につけておかねばならない、ということである。というのも、人体の基本構造を知らなければ、それらから帰結する結果を知ることができないだろうから。また体内で支配しているものが分からなければ、患者を適切に治療することもできないだろうから。

従って記述者はこれらのことを知っておかねばならないし、さらに食餌に供せられる全ての食物や飲み物に関して、それぞれが元々有している効力と人工的に手を加えたときの効力とを知っていなければならない。なぜなら、必要に応じて、時機を逃すことなく、元来が強い効力を有しているものの効力を減じるやり方と、元来弱いものを人工的に強めるやり方の両方を知っておく必要があるからである。

これらの事を知っていても人の世話をするのは完全とはいえない。なぜなら、食べることだけが人の健康を良い状態に維持するわけではなく、人は運動もしなければならないからである。食物と運動は反対の性質を持っているが、これらは共に健康に寄与している。というのも、運動は材料を消費するものであり、食物や飲み物はさまざまな不足を補うことにあるからである。

そして明らかなように、自然なものと人工的なものを含め、さまざま運動の効力を見分ける必要があり、またどの運動が肉質を増やし、どの運動が肉質をそぎ落とす傾向があるかも知っておく必要がある。これだけに留まらず、運動と食物量との釣り合いや、患者の体格との釣り合い、その人の年令との釣り合い、年間を通した季節との釣り合い、風向きの変化との釣り合い、患者の居住地域の地勢との釣り合い、年間の季候との釣り合いなども知っておかねばならない。

そしてまた諸々の星の出入りも観察するべきである。そうすれば病気をもたらす食物や飲み物、風、宇宙全体の変化と過剰を注視するやり方が分かるだろう。しかし、これら全ての事柄を判別できたとしても、完全に分かったとは言えない。実際問題として、これらの諸事項に加え、運動と食物との過不足の釣り合いに関して、その人個人の体質の見極めが間違わずにできるなら、人間の健康に関する正確な判断がつくだろう。このような事情で、これまでに述べたこと全ては分かっているが、最後に挙げたことは分かっていない。

さて、患者が裸で運動しているところにある人がいて、それを見ていたなら、その患者の健康を保つには何を削り、何を追加するべきか分かるだろう。しかしその場にいないと、食物と運動の量を正確に指示することは不可能である。この状態では、すでに説明した判断を行なうことは遥かにできにくいからである。実際、食物か運動のどちらに僅かな不足が生じただけで、やがては過剰な方によって身体に無理がかかり、病気になるのが必至である。

さて、他の人たちもこの点までは調べようと試みたが、誰も解説できる状態には至っていない。しかし私は以上の諸事項のことに関して見極めがつき、どちらかが過剰になることで患者が病気になる前に、それを予想することもできるようになった。

病気というものは突然に出現するものではなく、徐々に集積してから一気に出現するものである。そして私は、患者の健康が病気によって損なわれる前の徴候を発見し、それらの徴候を健康状態に戻す方法も発見した。すでに書き留められた事柄に対してこのことを加えれば、私自身に課された以前の課題は完了することになる。

3.
さて、人間を含む全ての動物は、効力は異なるが共に使用して作用する二つのものから構成されている。それはすなわち火と水である。これは共に、お互いに充足していて、他のもの全てに対しても充足している。しかしそれぞれ単体だけではそれ自身も他の全てものも満たすことはない。これらのものが持っている効力は次の通りである。火は全てのものを常に動かすことができ、水は全てのものを常に養うことができる。しかしこれらはお互いが順繰りに可能な限り最大限度まで、あるいは最小限度まで支配したりされたりする。

そしてこの二つは、次の理由によってどちらも完全な支配状態にはなりえない。火は水の際まで進んでくると栄養がなくなり、栄養のつきそうな方向に向きを変える。水は火の際まで来ると動きがなくなり、そこで止まる。水が停止すると、その力は失われ、水を攻撃する火に栄養を消費される。そして次の理由でどちらも完全には支配し得ない。もしどちらかがまず最初に支配されたとしたら、今あるものはどれもそのままの状態ではあり得ないだろうから。

しかし事態は現状の通りであるゆえ、同じものが常に存在し、単独であろうが両方一緒であろうが構成要素を失うことはない。従って火も水も同じく、すでに述べたように、天地の万物に対して、最大また最小に充足している。

4.
これらの要素はそれぞれ次のような特性を有している。火は熱くて乾燥しており、水は冷たく湿っている。また火は水から湿気を受け取るので、火の中にも湿気がある。また水は火から乾燥を受け取るので、水の中にも乾燥がある。

両者はこの通りであるので、それ自身から互いに外観も効力も似ていない多様でさまざまな形態の諸々の種子や生物へと分岐してゆく。そして、水と火は同じ状態に留まることはなく、絶え間なくあれこれと変化するので、これらの要素から分岐してゆく事物もまた必然的に似ていないのである。

万物は消滅することなく、また以前から存在しなかったものは生起しない。事物は単に混じり合い、分離することによって変化する(Jones注;この文節はシンプリキウスが残したアナクサゴラスの断片からの引用である)。

人々が現在信じていることは、あるものは増大して死者の国から生まれ、あるものは縮小して死者の国へ消滅してゆくということである。というのは、眼は見えるものさえも判断できるわけではないのに、人々は心よりも眼で見ることを信用するものであるゆえ。私は心を用いて次のように解説する。この世の事物に命があるのと同様に、あの世の事物にも命がある。命があるなら、万物が死なない限り、死はあり得ない。そして、死んでどこへ行くというのか?存在しないものは生まれ出ることもできない。また、それはどこから生まれ出るのか?実は万物は可能な限り最大限度または最小限度まで増減している。

私が「生起」あるいは「消滅」という時には常に、一般の人たちが分かりやすい表現を用いている。その実際の意味は「混合」と「分離」である。事実は次の通りである。「生起」と「消滅」は同じことであり、「混合」と「分離」は同じで、「増大」と「減少」は同じ、「生起」と「混合」は同じ、「消滅」と「減少」と「分離」は同じ、また個と万物の関係も万物と個との関係も同じである。しかし万物は同じではない。これらのことに関しては慣例と本質とは対立しているものであるから。(Jones注;第4-5節にはエンペドクレス、アナクサゴラス、ヘラクレイトスの哲学説が混在している)

5.
万物は、人間的なものも神的なものも共に交代しながら上下に流動している。昼と夜は最大また最小にまで変動している。あたかも月が極大極小に満ち欠けするように、火と水が交互に優勢となる。太陽が最長の経路をたどったり最短の経路をたどるように、全ての同一物は同時に同一ではないのである。

ゼウスに光あれば冥府に闇があり、冥府に光あればゼウスに闇がある - あの世のものはこの世に到来し、この世のものはあの世に行く。全ての場所を通して全ての季節の間に、あの世のものがこの世の仕事を行ない、この世のものがあの世の仕事を行なう。

人々は自分の行なっていることが分からず、自分の行なっていないことが判っていると考えている。また彼らは見えていることが理解できないが、彼らが望むと望まざるとに拘わらず、天与の必要性から万物は人々に対して生起する。あの世の事物はこの世に到来し、この世の事物はあの世に行きつつ両者はお互いに連合し、増えたり減ったりしながら、それぞれが定められた運命を果たしている。そして万物はお互いに破壊しあって、大きなものは小さいものによって、小さいものは大きなものによって破壊され、大きなものは小さなものから増大し、小さいものは大きなものから減少してできる。

6.
人間の精髄やその身体も共に他の全ての事物は秩序立てられている。人体中には部分の部分が、また全体の全体が入り込むが、これらには火と水が、あるいは獲得し、あるいは与えつつ、混在して含まれる。獲得するものは増大し、与えるものは減少する。
*前田注;英文では「soul」という用語は通常は「霊魂」と訳されることが多いが、先訳の例にならって「精髄」という語を用いた。

木材を鋸で切り出す時には、片方で引っ張り、片方では押している。しかし彼らは同じことを行なっているのであって、一方で減少させながら一方で増加させている。これが人間の本性である。ある部分が押せば他の部分が引き、ある部分が与えると他の部分が獲得する。またこれには与え、あれからは取る。そして与えれば与えるほど増え、取れば取るほど減る。

各々はそれ独自の配置を保っているが、小さくなろうとしている部分はより小さい場所に振り分けられ、大きくなろうとしている部分は混ざり合って、より高度な段階に進む。未知の部分は不適切であるゆえ、その不適切な場所から押し出される。

それぞれの精髄は諸々の大きな部分と諸々の小さな部分を持ち、それらの間を巡り巡っている。それ自体の諸部分に与えるものもなく、またそれらから獲得するものもなく、ただしすでに存在していて増減するものに応じた場所を必要としながら、入って行く場所でそれぞれの努めを果たし、襲いかかってくるものを受け入れる。不適切なものはそれに適合しない部位に留まることができないので。

さて、それらは考えもなくさまようが、互いに結合すると集合していることが分かる。というのも、適切なものは適切に結合し、不適切なものは衝突し合い、争いあってそれ自身が分離してしまうからである。このため、人間の精髄は人間の中で成長し、他の生命体の中では成長しない。このことは他の下等動物についても当てはまる。異質なものは他のものから強制的に分離される。

7.
さて他の動物について述べるのではなく、話を人間に限定することにしよう。精髄は火と水が混合していて人の中に入り、人体の一部となっている(Jones注;精髄は火と水の混合物であり、その特徴はその混合物に相応している、というのはヘラクレイトスに直接由来している教義である)。男女ともにこれらは多数かつ多様で、人間の食餌によって養われ増大する。そして精髄に入るものは全ての部分を含んでいる。というのも、部分を含まないものは、栄養が多かろうが少なかろうが、成長するものを持っていないので、成長しないだろう。

しかし、全てを含んでいると、それぞれの部分は乾性の水と湿性の火から栄養を受け取り、それ自身の位置で成長する。そしてあるものは内側に押しやられ、あるものは外側に押しやられる。

大工が木材を鋸でひく時、一人が引き、もう一人が押しやるのだが、彼らは同じことをしている。。一人が下に押すと、もう一人は上に押し上げる。そうしないと鋸は下に下りて行かれない。力をかけると全てが無に帰すだろう。このようなものが人間の栄養となる。ある部分が引くともう一方が押す。そして内側に押しやられたものが外側に来る。しかし時宜を失した力を加えると失敗する(Jones注;ここは体内における一種の「一方通行」である。回路の障碍は病気や死を意味する)。

8.
それぞれの部分は、栄養を受け取れなくなるまで、また最大限に成長する余地がなくなるまで同じ位置に留まっている。その後は、男女とも同じように強制的かつ力づくで、より広い場所に移動する。

最初に割り当てられた場所が満たされると、それが最初に分離され、同時に混ぜ合わされる。それぞれが最初に分離し、それと同時に混合する。位置が変わると、それらは正しく調和する。これはすなわち、八度を含む三つの比例調和であり、以前と同じように、これと同じものによって、それらは生きながらえて成長する。

それらが調和しない時には、すなわち低音が四度、五度、八度で高音と調和しない時には、調和が失われるので、一つの不調和が全体を損なうことになる。しかし、それらは定められた結末に至る前に、より大きなものから小さなものへと変化する。それらは何をすれば良いか分からないからである。

9.
男性と女性に関しては、それぞれがなぜそのようになったかを後で説明するつもりである。男女どちらであっても生起して調和すると、それは湿気を帯び、火によって動き続ける。それは動きながら燃焼し、母体の中に入る食物と呼吸からそれ自身の栄養を引き寄せる。最初は、それは、まだ希薄であるが、全体に均一に生じる。しかし動くことと火によって、それは乾燥して堅まる。固まると全体が強固になり、火は閉じ込められて充分な量の栄養を引き寄せられなくなる。そして周りが堅くなっているので、息を吐き出せない。そこでそれは利用できる内部の湿気を消費する。

また諸部位は堅く締まり、固まって乾燥した塊は、栄養として火によって消費されない。しかしそれらは強力になり、湿気がなくなると堅く締まり、これが。骨や腱と呼ばれている。

一方で、火は湿気と混合しているところから移され、次のような要件から本性に従って身体を整える。すなわち、これは栄養がないので、堅くて乾燥している部分を通って通路を延ばせない。しかし湿気があって柔らかい部分なら、栄養があるので通過できる。とはいえ、これらの中にも火によって消費されない乾燥部があり、これらはお互いに密集し合う。

最深部に閉じ込められた火は、最も多量なために最大の通路を形成する。というのも、そこには湿気が豊富にあるからで、これは腹と呼ばれている。火は、栄養を獲得していないので、そこから噴出し、呼吸のための通路を確保して栄養を供給して分配する。火はその他の身体の部位に閉じ込められ、それ自身のための三つの通路を形成している。それらの中で、最も湿気の強い火の部分は中空血管と呼ばれている。これらのうちの中間の通路には残りの水が密集して凝固し、これが肉と呼ばれる。

10.
要するに、全てのものは火によって身体自身に適合するように体内に整えられている。全体の写しとしては、大きなものは小さく、小さなものは大きくされる。

腹は最も大きく作られていて、乾いた水と湿気を準備し、さながら海のごとくに、これを全てのものに与え、また全てのものから受け取る。そして適合するものにとっては養育者となり、適合しないものにとっては破壊者となる。

その周りでは冷たい水と湿気が凝縮し、冷気と暖気の通路を形成し、大地の写しとなって、ここに落ちてくる全てのものを変える。

それは消費と増大を続けながら、混じり気のない水と軽い火を拡散し、見えないものも見えるものも、それぞれ割り当てられた部分に従って、凝縮した物質から分泌し、そこにもたらせられ、出現する。

この火の中では三組の回路が形成され、それぞれが内と外で互いに接している。湿気のある空洞に向かう回路は月の働きをこなし、外縁すなわち堅い壁に向かう回路は星の働きをこなし、中間の回路は前記の内側と外側に接している。

最も熱く強力な火は全てのものを支配し、自然の性状に従って全てのものを秩序づけているが、これは見ても触れても感知できない。そこには、魂、精神、思考、成長、運動、衰退、変異、睡眠、覚醒などがある。これは全てのものを絶えずあれこれと支配し、決して休むことがない。

11.
人間は、見えるものを通して見えないものを観察する方法が分からない。人々が用いている技術は人間の本性に似ているのだが、それを人は理解していない。神々の精神は自身の能力を模倣するように人々に教えた。人々は自分が何を行なっているかは理解しているものの、自分が何を模倣しているかは理解していない。全ての事物は似ていないようで似ており、適合していないようで適合しており、対立していないようで対立しており、無知なようで理知的である。個々の事物の様式は一致しているようで反対である。というのも、我々が全てのことを完遂するときの手段である習慣と本性は、一致しているようで一致していないからである。

習慣は、人間が習慣を作り上げた事物を自覚せずに、人間によって彼ら自身のために作られるものであるが、全ての事物の本性は神々によって作られたものであるゆえ。

人間が調整したものは正しかろうが悪かろうが決して普遍ということはないが、神々によって調整されたものは何であれ常に正しいままである。正邪の違いはそれほど大きいのである。

12.
私は、見えるものも見えないものも共に、術というものが明らかに人間の性向に似ていることを示すつもりである。予見することはこれに続く。それは、見えるものによって見えないものを知り、見えないものよって見えるものを知り、現在から未来を知り、死から生を知る。またそれによって人間が理解できないものを理解する - 知る者は常に正しく理解し、知らない者は時に正しく、時に間違って理解する。

ここにおいて、予見することは人間の本性と生命を模倣する。男は女と結合して子供をもうける。彼は見えるものによって、見えないものがどうなるかを知る。見えない人知は見えるものを知ることで子供の段階から大人の段階に変わってゆく。死体は生体に似ていないが、彼は死によって生を知る。腹は意識されないが、腹によって空腹や喉の渇きを意識する。予見と人間の本性の特徴は次のようなものである。知る人たちには常に正しく理解され、知らない人たちには時に正しく、時に間違って理解される。

13.
鉄の道具。職人は風気によって火を強め、鉄を溶かす。彼らは鉄に含まれる栄養を取りだす。彼らは鉄を柔らかくしておいて叩き、溶接する。その鉄は別の水に含まれる栄養によって強くなる。このような取り扱いを、人間は運動トレーナーによって受ける。人間が持っている栄養は、風気によって強められて火によって取り出される。その人が熱せられて柔らかくなると、叩かれ擦られて浄化される。そして他の場所からの水を用いることでその人は強くなる。

14.
このようなことは織物業者も行なっている。彼らは踏みつけ、叩き、引っ張る。手荒く扱って布を強くする、そして飛び出た糸を切ったり編み込んだりして、美しく仕上げる。同じことが人間にも起こる。

15.
靴の修理屋は全体を部分に分けたり、部分を全体に作り上げる。裁断し縫い合わせ、ぼろぼろなものを完全な状態に作り上げる。人間もまた同じことを経験する。全体は部分に分けられ、部分を繋ぎ合わせて全体が出来上がる。人間のぼろぼろになった所を医師が切ったり縫ったりして治療する。次のこともまた医師の術の一部である。すなわち痛みを引き起こすものを取り除くことと、苦痛の原因を取り去って患者を健康にすること。

自然は自ずからこれらを行なう方法を知っている。座っている時には立つことが苦痛で、動いている時には休むことが苦痛になる。他の点においても自然は医術と同じである

16.
大工が鋸を使う時には一人が押し、もう一人が引き、両方とも同じことをしている。孔を開ける時にも一人が引き、もう一人が押している。鋸を押すことは片方を押し上げ、もう一方を下げることである。減らす時には増やしている。彼らは人間の本性を模倣している。こっちでは風気を引き入れ、あっちでは風気を吐き出しているが、両方とも同じことが行なわれている。(食物の)ある部分は押し下げられ、ある部分は挙げられる。一つの精髄が分けられる時には多い方と少ない方、大きい方と小さい方に分かれる。

17.
建築家はさまざまな材料から調和を作り出す。乾燥しているものは湿らせ、湿っているものは乾燥させ、全体を分割し、分割されたものを組み合わせる。そうしないと、然るべき成果が得られないだろう。これは人間の養生法を模倣している。すなわち、乾燥しているものを湿らせ、湿っているものを乾燥させる。全体を分割し、分割されているものを組み合わせる。これら全てはさまざまではあるが調和が取れている。

18.
(意図することを説明するために、まず楽器を取り上げてみる。)同じ音符からであっても出来上がる楽曲は同じではない。楽曲は高い音や低い音から作られ、それらの名前は似ているが音は似ていない。大きく異なるものが最もよく調和し、違いの少ないものが最も調和しない。作曲家が一つの音符で曲を作ったなら、それは楽しくないだろう。大勢の人を楽しませるものは最大の変化と最大の多様性である。

料理人は、まとまっているようでまとまっていない材料から料理を作る。あらゆる種類のものを混ぜ合わせ、同じものから異なるものを作り、人間のための食物や飲み物を作る。

料理人が全て同じようなものを作るなら、そこに楽しみはないだろう。また全てのものを一つの料理に盛るのも正しくないだろう。

音楽を演奏する時に発する音符は、あるものは高く、あるものは低い。舌は音楽を模倣し、それに触れるもの、すわなわち甘み、酸味、調和しているものや調和していないものを識別している。

音楽の音符は高いものと低いものが演奏されるが、高い音が低く演奏されず、低い音が高く演奏されないのがよい。舌の調子が良い時には調和によって楽しみ、舌の調子が悪い時には苦痛になる。

19.
製革工は引き伸ばし、こすり、梳き込み、洗浄する。子供たちもこれと同じような扱いを受ける。籠細工職人は籠を編む時にそれを回し、編み始めたところで終える。身体の中の循環路も同じである。これは始まるところで終わる。

20.
人々は金鉱石を掘り出し、叩き、洗浄し、溶かす。強くなく緩やかな火によって金は凝縮される。彼らはそれを精錬し、あらゆる目的に利用する。人は穀物を叩いて洗い、臼でひき、火にかけて用いる。強火では体内で凝縮しないので、緩やかな火を用いる。

21.
彫像作者は魂ぬきで肉体を模倣する。彼らは水と土を利用し、湿っているものを乾かし、乾いているものを湿らせるが、知性を有するものを作るわけではない。彼らは過剰なものを取り去り、足りないものに追加して、最小のものから最大のものへと作品を作り上げる。人間も同様である。人は過剰なものを取り去り、不足しているものを補充し乾いているものを湿らせ、湿っているものを乾かして、最小の状態から最大の状態に成長する。

22.
陶器職人は轆轤を回すが、その轆轤は前後に位置を変えることなく、しかも同時に両方向に動き、宇宙の回転を模倣している。轆轤を回しながら、彼らはあらゆる形の陶器を作る。そして同じ材料と同じ道具で作り上げるのだが、どれも似ていない。

人間と動物もまた同じことである。一つの同じ回転において彼らはあらゆるものを作るが、同じ材料と同じ道具を用いていながら、湿っているものを乾かし、乾いているものを湿らせ、それは二つとして同じではない。

23.
筆記術というのは次のようなものである。これは人の発音記号という図形を組み合わせるもので、過去の出来事を思い起こさせる働きがあり、生起するはずのことを説明するものである。

七つの記号(Jones注;7つの母音のこと、a, e, rj, i, o, v, a)で知識が成り立っている。文字を知っている人も知らない人も共に、人間はこれら全てのことを行なっている。七つの記号から人間の感覚が成立している。音に対する聴覚、見えるものに対する視覚、臭いをかぐ鼻、快不快の味覚に対する舌、会話のための口、触覚に対する身体、熱い息や冷たい息が出入りする通路。これらによって知識が得られたり欠けたりする。

24.
運動コーチの術は次の通りである。彼らはルールに従ってそれを破る方法を教え、不正なことを正当に行ない、欺き、騙し、ごまかし、きたない手を使い、極めてあくどい行為をほとんど合法的に行なう方法を教える。

これらの事を行なわない者は下手なコーチで、これらを成し遂げる者が優れたコーチである。上に記したことは多くの人たちの愚かな行為を列記したまでである。彼らはこれらの事を注視して、全員の中から一人の優秀な者を選び出し、その他の者たちを下手であると判定するのである。

大勢の人たちがこれを賞賛するが、それを知っている人はほとんどいない。人々は市場にやって来てこれと同じことをしている。すなわち人々は売り買いの時に欺く。そして最も多く欺いた人が賞賛される。彼らは飲んだり騒いだりする時に、これと同じことをしている。彼らは走り、レスリングをし、戦い、だまし、欺く。そして彼ら全員の中から一人が選ばれる。役者術は知恵ある者を欺く。役者はあることを口に出しながら別のことを考えている。彼らは登場して退場するが、同じ人物が同じではないのである。人もまたあることを口にして別のことを考える。同じ人物が同じではないことがある。またある考えを持ちながら別の考えを持つ。このように、全ての術は人間の本性に共通するものを有している。

25.
すでに述べた通り、人間の精髄は火と水が混合している。そして人間の数々の部位に、また呼吸している全ての動物に入り込む。特にそれは老いも若きも全ての人間に入り込む。しかし精髄は全てにおいて等しく成長するわけではない。若い肉体では循環が速く身体が成長しているので、火を捉え、身体は痩せ、身体の成長のために精髄が消費される。老年の肉体では動きは緩慢で身体は冷たいので、精髄はその人を衰退させるために消費される。壮年期や生殖期の身体が精髄を養い成長させる。

非常に多くの人たちを養える支配者は強い。しかし人々が彼を見捨てると、その支配者は弱くなる。非常に多くの精髄を養える身体は最強であるが、その能力がなくなると身体は弱くなる。

26.
女性に入るものは、それに適合するものに関わると成長するが、他の所に入ったものは成長しない。手足は全て一斉に分離して成長し、どれ一つとして前後して成長することはない。それらはその本性によって大きいものは小さなものよりも目につくが、早くから形成されるわけではない。

全てのものが形成されるのに同じ時間を取るわけではない。あるものは短時間で、あるものは長時間で形成されるが、それはそれぞれが火と栄養との関わり具合による。40日ですべてが見えるようになるものもあるが、ある場合には2ヶ月を要し、またあるものは3ヶ月かかり、しばしば4ヶ月を要する場合もある。同様にあるものは他のものよりも前に形成される。早く成長するものは7ヶ月で完全に形成されるが、ゆっくり成長するものは9ヶ月かかる。それらは同じ混合状態で見えるようになるが、その混合状態は常に保持される

27.
男女は次のようにして創られるだろう。女性は水の傾向があり、冷たく、湿っていて穏やかな飲食物や仕事によって成長する。男性は火の傾向があり、乾性で、温かい食物や食餌によって成長する。従って男性が女児を得たいなら、水の傾向のある食餌を摂らねばならない。男性が男児を得たいなら、火の傾向のある食餌に従わねばならない。男性だけでなく、女性もこのようにせねばならない。

胎児の成長が男性の分泌だけでなく女性の分泌にも関係しているのは、次の理由による。どちらかの部分はそれのみでは、大量の湿気と火の脆弱さのために、やって来る水を消費し、固めるほどには充分な動きがない。

しかし一箇所で両方一緒に放射されると、火と火が結合し、水も同様に結合する。そして乾燥しているところに火が入ると動きが始まり、一緒に放射された水よりも優勢になると、そこから成長し、押し寄せる水によって消されることなく、やってくる水を受け止め、これを固体にして以前からそこにあるものに付加する。

ところが、火が湿気のあるところに入ると、その直後に火は消え、より低い段階へと溶解する。毎月のある一日に火は固体になることができ、やってくる部分よりも優勢となる。そして両親から一緒に一箇所に放射される時にのみ、これが起きる。

28.
男女は一つの固体に融合する能力がある。それは、両方がそれぞれの中で成長することと、個々の身体は異なるものの、全ての生物においては精髄は同じであることによる。

精髄が大きな生物においても小さな生物においても常に似ているのは、その本性によって変化しないし、強制されても変化しないことによる。しかし生物の身体は、その本性によっても強制されても、決して同じではない。というのも、それは全てのものに溶け込み、また全てのものと結合するからである。

さて、両親から分泌された諸々のものが男の質であるなら、それらは利用可能な物質の限界まで成長し、その赤子は食餌によって害されない限りは、立派な精髄を持ち、強靱な身体の男になる。

男性から分泌されるものが男の質であり、女性から分泌されるものが女の質である時、男の質が優勢となるなら、弱い方の精髄は強い方の精髄と結合するが、これは弱い精髄が向かってゆけるものの中で、より適合するものがないためである。

小さな精髄は大きなものに向かってゆき、大きな精髄は小さな精髄に向かってゆく。そしてこれらは結合して利用できる物質を支配する。男の質の物体は成長するが、女の質の物体はちいさくなって別の部分になる。これらは、先に述べた場合よりは精彩がないが、それでも、男性に由来する男の質が優勢になったので、勇猛になり、まさしく男という名称になる。

しかし、男の質が女性から分泌され、女の質が男性から分泌されて、男の質が優勢になると、前記の例のように男の質が成長するが、女の質は小さくなる。これらは両性(男-女)となり、まさしくそのように呼ばれる。

これら三種の男が生まれるが、男らしさの程度は諸部位の水の混ざり具合と、栄養、教育、習慣に依存している。この後で、私はこれらの点についても論じるつもりである(前田注;第32、35、36節参照)。

29.
同様にして女の質も生み出される。両親から分泌されるものが女の質であるなら、生まれる子供はとても色白で女らしくなる。ところが女性から分泌されるものが女の質で、男性から分泌されるものが男の質で、女の質が優勢となるなら、その女児は前記の例よりも剛胆になるが、それでもしとやかである。

男性から分泌されるものが女の質で、女性から分泌されるものが男の質であり、女の質が優勢となるなら、同様に成長するが、その女児たちは前記の例よりも大胆になって「男まさり」と呼ばれる。

精髄が精髄と結合することを疑う人がいるなら、その人に石炭のことを想起させてみるのが良い。燃え方の弱い石炭に強く燃えている石炭を投入させ、それらに栄養を与えさせる。それらは全て同じような物質となり、お互いを区別出来なくなり、全体が燃えている物体のようになるだろう。

それらが利用できる栄養を消費すると、溶解して見えなくなる。これは人間の精髄に当てはまることである。

30.
双子がどのようにして誕生するかは、私の説では次のように説明される。その原因は主に女性の有する子宮の本性にある。子宮が両側の子宮口で等しく成長し、等しく開口し、月経後には等しく乾燥しているなら、男性の分泌物を受け入れた時、それを即座に両側の子宮に等しく分割するなら、栄養を供給できる。

そして両親から分泌された精液が大量で強壮なら、そこに到達する栄養を支配するので、それは両方の場所で成長できる。他の全ての場合においては、双子は形成されない。

両親からの分泌物が男の質である時には、両方の場所で必ず男児が生まれる。両親からの分泌物が女の質である時には、女児が生まれる。片方の分泌物が男の質で、他方の側からの分泌物が女の質である時には、どちらが他方を支配したかによって胎児の性が決まる。

双子が互いに似ているのは次の理由による。第一に、彼らが成長する場所がが似ていることによる。次に彼らは一緒に分泌され、同じ栄養によって成長し、一緒にこの世に誕生することによる。

31.
重複妊娠は次のようにして起きる。子宮がもともと熱く乾燥している時、そして女性もこれと同じ状態で、入ってくる精液も乾燥して熱い時には、子宮内には、精液を支配する余分の湿気がない。従って最初は精液が凝結して生きているものの、生き続けられないで、すでに存在している胎児も破壊する。これは同じ事物が両方に適合しないことと同じである。

32.
(1) 最も純粋な水と最も希薄な火が人体中で混合すると、次の理由で最も健康な状態を創り出す。一年のうちで最も季節変動の大きい時期においても、水も火も限度まで満杯になることはない。最初の水に対して限界の密度まで水は満杯にはならず、火もまた最初の火に対して満杯になることはない。これは、年令の変化や食餌の飲食物の変化によっても、起きることはない。なぜなら、最も純粋な水と最も希薄な火というものは、最大に生成し、満杯になっても許容できるからである。

混合を最もよく受け入れるのは最も柔らかくて最も希薄な青銅であり、その時に最も美しくなる。最も純粋な水と最も希薄な火が共に混ざり合っている時も同じく美しい。この性状を有している人は、40才になるまでは常に健康を維持している。中には非常に高齢になるまで健康を維持している。また40才以後に何らかの病気に襲われても、概して死ぬことはない。

(2) 最強の火と最密の水とが混ざり合っている身体は強く逞しい肉体になるが、充分な注意が必要である。というのも、彼らはどの方向にも大きく変化しやすく、水と同じく火が優勢になる時に病気になりやすいからである。

従って、このような人たちにとっては季節に対抗するような食餌に従うのが有益である。水が優勢になる時には火の傾向のあるものを摂り、火が優勢になる時には水の傾向のあるものを摂るようにする。また季節が変動するのに合わせて食餌を徐々に変える。

(3) 最も濃密な水と最も希薄な火が体内で混ざり合うと、冷たく湿気ている体質であると認めねばならない。このような身体は夏よりも冬に不健康となり、また秋よりも春に不健康になる。年令に関しては、そのような人たちは子どもの頃に最も健康で、その次が青年期であり、中高年期には最も不健康である。またこのような体質は老化が早い。

このような人たちは、運動も食物も温かくて乾いた養生を行なうべきである。そして運動は体内に向かうものよりも体表に向かうものにするべきである。

(4) 最も湿気の強い火と最も濃密な水が体内で混ざり合うなら、次のような兆候から湿気と温かい体質を認めねばならない。このような人たちは多くが春に病気になり、秋には病気になることが少ない。なぜなら、春には過剰な湿気があるが、秋には適度に乾燥しているからである。

年令に関しては、最若年の頃が最も不健康である。この人たちの身体は素早く成長するが、カタルを起こしやすい。彼らの養生は飲食物や運動ともに乾燥と冷やすことを取り入れるべきで、このような人たちは体内に向かう運動が有益である。

(5) 最強の火と最も希薄な水が混ざり合うなら、体質は乾いて温かい。このような人たちは火が優勢になると病気になるが、水が優勢になると健康になる。壮年期において最も肉づきがよい時に最も体調不良に陥る。最も健康なのは老齢期である。老齢期に近い人たちも同じことがいえる。食餌は身体を冷やし湿めらせるものを用いるべきで、運動は温かくて溶解することの最も少ないものとし、最も身体を冷やすものを行なう。このような体質が長生きと健康な老年期をもたらす。

(6) 最も希薄な火と最も乾燥している水が混ざり合うなら、体質は乾燥して冷たい。そして秋には不健康で春には健康である。「秋」と「春」は大まかな時期を指す。

この人たちは40才前後に不健康で、小児期(およびこの前後)が最も健康な時期である。食餌は身体を温めるのと同時に湿らせるものを摂るべきである。運動に関しては、最初は緩やかに行ない、徐々に強くしてゆく。そして穏やかに身体を温めて、利用できる体力の多くを消耗しないようにする。このようにして、人間の生まれつきの体質を判断しなければならない。

33.
さまざまな年令は互いに次のような関係にある。子どもは湿って温かい要素が混ざり合っている。それは、これらによって身体が作り上げられ、これらのある場所で成長するからである。そして最も湿気が強く最も温かいのは生まれたばかりの者である。またその時期に近い者も同じで、これらの者たちが最も成長する。

青年は温かく乾燥している要素で構成されている。温かいのは火が入って水より優勢になるからで、乾燥しているのは子どもの頃の湿気がすでに消費されているからである。そして湿気の一部は身体の成長や、火の動き、身体の運動に消費される。

人は成長が終わると乾いて冷たくなる。これは暖かさが入っても、もはや優勢にならずそのままの状態で、身体は成長が止まっているので冷えるからである。しかし若年時からの乾燥はまだ残っている。しかし加齢によって水が入って湿気を得ることがまだないので、乾燥要因によって支配される。

老人は冷たくて湿気ている。これは火の勢いが小さくなって水が入り込むためである。乾燥要因は消え去るので湿気が定着する。

34.
全ての生物で、雄は温かくて乾燥している。雌は湿気て冷たい。これは次の理由による。元来はそれぞれの性は、そのような要素から生まれ、また成長する。しかし誕生後、雄は厳しい食生活を送るので、充分温められ、乾燥するが、雌は湿気ていて、それほど厳しくない食生活を送り、その上、毎月身体から熱を排出するからである。

35.
いわゆる精髄の知性とその欠如に関する事柄は次の通りである。最も湿気の強い火と最も乾燥している水が体内で混ざると、最も聡明になる。これは火が水から湿気を得、水は火から乾燥を得るからである。それぞれはこのようにして自己充足する。

火は遠くに移動しなければならないほど栄養が欠乏しているわけではなく、水も鈍くなるほどには動く必要性がない。そしてこの二つは共に互いに混じり合っている時に、それぞれはそれ自身で最も自己充足している。というのも、周りのものを全く必要としないものは手近なものに最も密接しているからで、火は必要性があるためではなく、ほとんど移動せず、水は力づくによってではなく最もよく移動する。これらが混合された精髄は最も聡明で、最良の記憶を有する。

しかし何らかの影響によって、これらのうちのどちらかが成長したり減少したりすると、何か最も愚鈍なものが生じるだろう。なぜなら、元来の仕方で混合されたものが最も自己充足しているからである。


最も純粋な火と水が混合し、火が水よりも少し不足しているなら、その人たちもまた聡明であるが、前記の混合例よりも少し劣る。これは水に支配されている火は動きが遅くなるので、感覚がかなり鈍くなっているからである。

このような精髄はかなり定常的な配慮をしていて、この種の人たちは正しい養生の元ではさらに聡明になり、生来の才能よりもずっと鋭敏になるだろう。

このような人は、過剰な飲食を避け、かなり火の傾向のある養生を用いることが有益である。そして激しい走り込みを行なうべきで、そうすれば身体から湿気が抜け、速やかに湿気を防げる。

しかし、このような人にとってはレスリングやマッサージ、その他これに類似の運動は有益ではない。これは孔が空洞になりすぎる恐れがあるためで、そうなると満腹で満たされてしまうからである(Jones注;「孔」というのは体内の「通路」や「管」のことで、皮膚の細孔に限定されるものではない)。そして精髄の動きはこのような運動によって必ず鈍くなる。

ただし夕食後や早朝、走った後に歩くことは有益である。精髄は夕食後には入ってくるものからさらに乾燥している栄養を受け取り、早朝には通路には湿気がなくなり、精髄の孔は塞がれることがないためである。そして運動後にはランニングによる分泌作用が身体に残って精髄を汚染したり、通路をふさいだり、栄養を乱したりしないためである。

浄化するための運動をし損ねたことによって残っている不純物を浄化するために、吐瀉を用いることも有益である。吐瀉後は少なくとも4日間にわたって食物の量を徐々に増やしてゆく。沐浴よりは油を身体に塗る方がよい。性交については水の勢いが強い時に行ない、火の勢いが強い時には少なくする。


火の力が水の力より劣っている場合、その精髄は必ずゆっくりめとなり、この種の人たちは愚鈍と呼ばれる。というのも循環がゆっくりなので、知覚は早いが対象物を捉えるのは断続的で、また循環がゆっくりであるためにそれらの混合がごく一部でしかないからである。

精髄の知覚に関して、視覚と聴覚は反応が早く、触覚は反応が遅めであるが、深く記憶に刻み込まれる。従ってこの種の人たちは冷熱その他のの知覚は他の人たちと同じに感じる。しかし視覚と聴覚に関しては、慣れ親しんだもの以外は感知できない。

精髄は、火が衝撃を与えて揺さぶらない限り、事物の特徴を感じ取れない。この種の精髄はその粗さゆえに、このような欠点がある。しかし養生を正しく調整して行なえば、これらの事も改善される。養生法は前記の例と同じものが有益である。すなわち食餌は乾燥気味で少量とし、運動は多く、ずっと激しく行なう。蒸気浴も有益である。この後に吐瀉を用いるのもよい。吐瀉後の食物量を増やすのも、前記の例よりも長期間にわたって増やすべきである。このような養生法に従えば、これらの人々はより健康にまたずっと聡明になるだろう。


精髄中で火が水によって相当程度支配されているなら、これは「無分別」な人々とか、「まぬけ」と呼ばれる。このような人たちの愚鈍は動作がのろくなりがちである。彼らは理由もなしに嘆き、恐ろしくもないことを恐れ、痛くないことに痛みを感じる。彼らの知覚は、賢明な人たちが感じるような知覚では全くない。この人たちは蒸気浴の後にヘレボレ(前田注;クリスマスローズ;キンポウゲ科)を用いて浄化するのが有益である。食餌は前記の例と同じでよい。肉づきを落とすことと乾燥させる必要がある。


水の威力が不充分で、火が純粋に混ざっているなら、身体は健康で、そのような精髄は聡明である。そして頻繁に変化することなく、これに関わる対象物を速やかに感知する。このような本性は優れた精髄となる。しかし、正しい養生を行なえば、さらに良くなるだろうが、間違った養生を行なうと悪くなるだろう。

このような人は、水の傾向の強い養生を行なうと有益である。そして飲食物も運動も過剰になることを避ける。運動に関しては、周回走や往復走、レスリングその他すべての運動を対象とし、どの場合でも過剰に行なってはならない。なぜなら、その人の身体が健康で、どんな問題もないなら、その人の精髄の混合状態は聡明であるから。


水の威力が火によって強く支配されるなら、その精髄は、その動きのさらなる早さに比例して、より素早くなる。そしてずっと速やかに感覚に作用するが、前記の場合よりは断続的になる。これは、現出する事物をより急速に判断するために、その速さのために事物を捉えるのが多すぎるからである。

このような人は、前記の例よりもさらに水の傾向の強い養生法が有益である。この人は小麦パンよりは大麦パンを、肉よりは魚を摂るべきである。飲み物は充分に水で薄め、性交の頻度を少なくする。運動はできるだけ無理のないものをたっぷり行なう。激しい運動は控え、必要な時だけ行なうべきである。過度な飲食後には吐瀉を行なうべきで、このようにして身体を空にして熱を極小に抑える。このような人たちは肉づきを落とすことが聡明さを高める助けとなる。肉づきが豊かになると血液が炎症状態に陥る。これが精髄に生じると、水の勢いが弱くなり火が引き寄せられるので、精髄は狂乱状態になる。

このような人たちはまた、食事をせずに仕事に取りかかるよりも、食後に仕事に向かう方が有益である。というのも、彼らの精髄は栄養を欠いている時よりも適切な栄養と混じり合っている時の方が、より安定するからである。


水が火によってさらに支配されるなら、その精髄は素速くなり過ぎ、この人たちは必ず夢に悩まされる。彼らは「半狂乱」と呼ばれ、実際のところ、その状態は狂乱と紙一重である。というのも、たとえ僅かに不都合な炎症であっても狂乱状態に陥るからで、これは酩酊した時や肉づきがよくなり過ぎた時、肉を食べ過ぎた時などに起きる。

この人たちは上記の全てのことや、激しい運動はもちろんのこと、あらゆるもので満腹になることを控えるべきである。食餌は捏ねていない大麦パンや茹でた野菜(浄化作用のあるものは除く)、魚を摂るようにする。飲み物は可能であれば水だけにするのが最もよい。その次によいのが軽い白ワインである。

朝にたっぷり歩くべきで、夕食後には四肢を伸ばす程度で充分である。目的は朝の歩行によって身体を空にし、夕食後の歩行によって食べた物が乾燥しないようにすることである

油を塗るよりはぬるま湯を全身に浴びる方がよい。夏にはときどき短時間の午睡をとるのも有益である。これは季節のせいで身体が乾燥しきるのを防ぐためである。

春には蒸気浴の後でヘレボレ(前田注;クリスマスローズ;キンポウゲ科)によって浄化するのがよい。その後、徐々に通常の食餌に戻してゆく。この人たちは、前記の例と同様に空腹状態で仕事してはならない。以上の処置によって、このような精髄はきわめて聡明になるだろう。

36.
以上で説明したように、精髄の聡明と無知の原因はこのような混合にある。養生法がこの混合状態を良くも悪くもする。火が優勢になると、疑いもなく水を追加できるし、混合状態の中で水が優勢になったら火を増やせる。これらの事が多かれ少なかれ精髄の聡明さの原因となっている。

しかし以下の場合には、混合状態は特性の根拠にならない。すなわち、短気、怠惰、狡猾、愚直、喧嘩好き、博愛心がそれである。これら全ての例において、その原因は精髄の通過する経路の性状にある。というのも、精髄のこのような気質は、それが通過する管の性状に依存しているからである。そして精髄はこれを通って事物に出会い、事物と混じり合うのである。

従って上記の気質は養生法によって変えることは不可能で、見えない本性を別の型に作り変えることはできないのであるから。

これと同様に声の性状もまた気息の通路に依存している。声の特徴は疑いもなく空気の通過する導管の性状に依存しており、そしてまた空気が遭遇するものの性状に依存している。実のところ声の場合には、これを良くも悪くも変えることができる。なぜなら、気息の通路をより滑らかにすることも、よりざらつかせることもできるからである。しかし、前記の気質は養生法によって変えることはできない。

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