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歴史 第四巻 メルポメネ ヘロドトス著
The History BOOK IV MELPOMENE Herodotus


邦訳:前田滋(カイロプラクター、大阪・梅田)
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-4.html)

掲載日 2021.8.27


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邦訳者(前田滋)の序

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底本(英訳文)

*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003
*ギリシャ語の原文サイト
 Ιστορίαι (Ηροδότου)
 Istoríai (Irodótou)

~~~目 次~~~

1-144 スキタイ(黒海北岸地帯;ウクライナ~ルーマニア)
1-4    ダリウスによるスキタイ遠征への動機
5-15    スキタイ史
16-36   スキタイ北方の民族
37-45   世界の地誌
46-58   スキタイの河川
59-82   スキタイの風俗、習慣
83-144   ダリウスの遠征失敗:黒海西岸~北岸の地理と民族
145-205 リビア(北アフリカ)の歴史と地誌
145-156   リビア史
157-167   キュレネ植民
168-199   リビアの民族
200-205   バルケ攻略

(*)は邦訳者(前田)による注



1.バビロンを攻略したあと、ダリウスはみずからスキタイ遠征に乗り出した。これは、アジアの人口が激増したことで税収入が莫大な額に上ったことから、スキタイへの報復を思い立ったからである。というのもスキタイはかつてメディアへ侵略し、抵抗するメディア人たちを殲滅していたからだった。

以前話したように、スキタイ人は上アジア(1)を二十八年にわたって支配していた。彼らはキンメリア人を追ってアジアに侵入し、それまでアジアを支配していたメディアを滅ぼしたのである。

(1)ペルシャ帝国東方の高原地帯

ところがスキタイ人が二十八年間祖国を離れ、久しぶりに帰国してみると、メディアと戦ったとき(*)と同じくらいに多くの問題が彼らを待ち受けていた。というのも、スキタイの女たちは夫が長きにわたって留守をしている間に奴隷と情を通じ、それが大きな勢力となって彼らに立ちはだかったからである。

(*)第一巻百六節参照

2.スキタイ人は奴隷の目をつぶして盲目にし(2)、乳を搾らせている。そして次のようなやり方で乳を搾っている。笛によく似た筒状の骨をメス馬の陰部に差し込み、それに息を吹き込むのである。そして別の者が乳を搾る。彼らのいうには、こうするとメス馬の血管が膨張して乳房が押し下げられるというのだ。

(2)ヘロドトスの説では、奴隷の目をつぶすのは、彼らが馬乳の上質な部分を盗むのを防ぐためだという。しかし盲目奴隷の話は、スキタイ人の名前をギリシャ人が誤訳したためと思われる。

搾った乳は深い木桶に入れ、その廻りに奴隷たちを立たせて桶を揺すらせる。そして表面に浮かんでくるものを最も珍重し、底に沈んでいる部分は質が劣るものとみなした。スキタイ人が、捕らえた者たちをすべて盲目にしたのはこのためである。これはスキタイ人が農耕民ではなく遊牧民であることからきている。

3.さて奴隷とスキタイ人の女たちの間に生れた若者たちが成長し、やがて自分たちの素姓を知るにおよび、メディアから帰ってきたスキタイ人たちに刃向う姿勢をみせたのだ。

まず彼らは、タウリケ山脈からマイオティス湖(3)の最も拡がっている地点まで幅広い堀を造り、スキタイの国に入る道を遮断した。そして入国しようとしたスキタイ人に向って陣を構え、戦に臨んだ。

(3)アゾフ海のこと。アゾフ海の位置ははっきりしない。これはアラバト地峡とクリミア半島の間の水道である腐海(Putrid Sea)のことを云っているのだと考える人もいる。少なくともアゾフ海のもっとも幅広い地点には一致する。

戦いは幾度も繰り返されたが、スキタイ人は優位に立つことができなかった。このような中で、ある男がいうには、
「諸君、ワシらは何をしているのだ?われらの奴隷と戦っているということは、ワシらが殺されると味方の数が減り、相手を殺せば奴隷の数が減るのだぞ。

吾輩の考えでは、これ以後槍や弓は捨て去り、おのおの馬の鞭を手にして奴らに相対するべきじゃ。なぜかというに、吾らが武器を持っている限り、奴らも吾らと対等だと思い込んでしまうのだ。しかし吾らが武器の代わりに鞭をもっているのを見れば、相手は吾らの奴隷であることを思い出すだろう。そうすれば刃向かうこともないはずだ」

4.これを聞いたスキタイ人たちは、そのとおりに実行した。すると相手方はその光景にびっくりし、戦うことも忘れて逃走していった。かくしてスキタイ人はアジアを支配した後、再びメディア人に追放され、先ほど話したような次第で帰国したのである。このような理由で、スキタイに報復するために、ダリウスは遠征軍を招集したのだ。

5.スキタイ人は世界中で最も歴史の新しい民族だと彼らは称し、その成り立ちは次のようだといっている。その当時荒れ果てた地であったこの国にタルギタオスという名の男が誕生した。このタルギタオスはゼウスとボリステネス河(4)の娘との間に生まれた子だと彼らは伝えている(私にはこの話は信じられないが、ともかくもそう云われている)。

(4)ドニエプル河

こうしてタルギタオスが生まれたというのだが、タルギタオスからはリポクサイス、アルポクサイスそして末子のコラクサイスの三人の息子が生れた。

この三人が支配していた時代に、天からある種の道具、すなわち全て黄金製の鋤、くびき、剣、椀がスキタイの地に落ちてきたのである。それを見つけた長兄が、それを取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃え出したのでかれは取るのをやめた。

つぎに二番目の息子が近づくと、黄金は同じことを繰返した。こうして黄金は燃え、二人の息子は退けられたのだが、末の息子が近寄ると火は消えたので、この息子はそれを家に持ち帰った。それを見た二人の兄は、末弟にすべての王権を譲ることに同意したという。

6.リポクサイスからはアウカタイと呼ばれるスキタイの一族が発し、次兄のアルポクサイスからはカテイアロイ、トラスピエスというの二つの一族が、末弟の王からはパララタイと呼ばれる一族が生まれている。

これらの民族は、ひとまとめにして王の名からスコロトイと呼ばれているが、ギリシア人はこれをスキタイ人と呼んだのである。

7.スキタイ人が伝えるところでは、初代王タルギタオスからダリウスによるこの国への遠征にいたるまでの期間は、ほぼ一千年だとしている。そして歴代の王は、かの黄金製の神聖な器物を丁重に保管するとともに、年ごとに荘厳な生贄を捧げて敬っている。

この祭礼の際、野外で黄金の聖器を奉げもっている者が眠ってしまうと、この者は一年以内に死ぬという言い伝えがスキタイにある。その伝承によれば、そのために(5)、この役を受ける者には、その者が馬で一日乗り回すことのできる範囲の土地が与えられるという。なにしろ国土が宏大なため、コラクサイスはこの国土に三つの王国を造り、自分の息子たちに分け与えたが、その内の最も広い国に金器を保管させた。

(5)「このため」という言葉はわかりにくい。土地を与えるのは短命の代償であろう。

スキタイ人のいうところでは、この国の上手や近隣の地域は、降り注ぐ羽毛(6)のために先を見ることも進むこともできないという。地上も空も羽毛に満ち、これが視界を妨げるためだと云っている。

(6)本巻三十一節におけるヘロドトスの説明を参照;羽毛=雪

8.スキタイ人が自国とその北方地帯について語るところはかくのとおりである。一方でポントス(黒海沿岸)に居住するギリシア人は次のように伝えている。ヘラクレスがゲリオネスの牛を追って、その当時は人が住んでいなかった地方で、いまはスキタイ人が住んでいるところへやって来たという。

ゲリオネスが往んでいたのはポントス(黒海)の西方(7)で、ヘラクレスの柱から外洋に出てガデイラ沿岸に近い、ギリシア人のいうところのエリテイア島だった。この外洋は陽の昇る地から発して全世界を流れ巡っているとギリシャ人は考えているが、このことは確かめられているわけではない。

(7) 最西端部で、ガデイラはカディスのこと

ヘラクレスは、その地から現在スキタイと呼ばれている地にきたのだが、折から凍てつくような真冬の天候に遭遇したため、ライオンの皮を被って眠ってしまった。そうしている間に、戦車に繋がれ、草を喰んでいたメス馬が神かくしにでもあったのか、忽然として姿を消してしまったのである。

9.目を覚ましたヘラクレスは、馬を探してその国中をくまなく探しまわり、ヒライアという地にやって来た。そしてヘラクレスは、この地の洞窟の中 で、上半身は女、下半身は蛇の形をした怪物に遭遇した。

その怪物を見てヘラクレスは驚いたが、迷い馬を見なかったかと、その女に訊ねた。すると女は、馬は自分が預かっているが、自分と情交してくれぬ限りは返さないというので、ヘラクレスは馬を取り戻すために女と枕を交わした。

ヘラクレスは馬を取り戻すとさっさと立ち去りたいと考えていたが、女の方は、できるだけ長くヘラクレスを自分のもとへ留まらせようとして馬を返すのを遅らせていた。しかしついに女は馬を返し、こういった。

「これらのメス馬がここへやって来たので、私が貴方のために安全に預かっていました。そしてそのお礼は貴方からいただき、いま私は三人の子をみごもっています。この子たちが成長した暁には、どのようにすればよろしいでしょうか?私はこの国の女王ですので、ここにおいておきましょうか、それとも貴方のもとへ送りましようか?」

このように女が訊ねると、ヘラクレスはこう答えたという。
「子供たちが成長したなら、これからワシがいうようにすればよかろう。子供たちの中で、この強い弓をこのようにたわめて曲げ、このベルトをこのように締める者があったなら、その子をこの国に住まわせること。しかしワシの要求したとおりにできない者は、この国から追放すること。このようにすれば、お前自身も救われ、ワシの願いも果たされるというものだ」

10.ヘラクレスは二張りの弓をもっていたが、そのうちの一張りを引いてみせ、またベルトも締めてみせ、弓と、ベルトの締め具の端に金盃のついた帯を女に与えてから去って行った。さて息子たちが生まれると、女は長子にはアガテルソス、次子にゲロノス、末子にはスキテスという名をつけた。そして息子たちが成長すると、ヘラクレスに云われたことを忘れず、その指示通りに実行した。

アガテルソスとゲロノスの二人は、母が言いつけたことが果たせなかったので国を去ったが、末子のスキテスはこれをやりとげたので国に留まることとなった。

スキタイにおける代々の王は、このヘラクレスの子スキテスの後裔である。スキタイ人が今に至るもベルトに盃をつけているのは、この故事によるものである。母親がスキテスのためにしてやったことはこれだけだった。以上が黒海地方に住むギリシア人の伝承である。

11.ところが別の言い伝えもあり、私としてはこちらの方を信じたい。これによれば、そもそもはアジアの遊牧民だったスキタイ人が、マッサゲタイ人に攻め込まれたことで、アラクセス河(8)を越えてキンメリア地方に移住したという。すなわち現在スキタイ人が居住している地域は、以前はキンメリア人の領地だったのだ。

(8)第一巻二百二節参照。この河の流域に関するヘロドトスの叙述は曖昧である。ヘロドトスは、この河はカスピ海西方から発してその東部に注いでいると述べている。

スキタイ人が大挙して押し寄せてくというのでキンメリア人は評議を繰り返した。その意見は二つに分れ、双方ともに強硬だったが、王族の見解の方が潔かった。というのは民衆側の意見は、退散すべし、大軍に抗して命の危険を冒す必要はないというものだったが、王族側の意見は、攻め寄せる敵に対抗して国を守り抜こうというものだった。

双方は互いに相手を説き伏せることができず、一方は戦わずして国土を敵に委ねて撤退することを望み、王族側は、これまでどれほど幸福な境遇だったかを思い、また祖国を後にしたときに遭遇するかもしれない苦難を思って、民衆とともに逃亡するのではなく、祖国で討ち死にすると決意した。

このような決意をもとに、彼らは同じ人数を出して二組にわかれて対決した。そして王族組が相手の手にかかって全員が斃れると、キンメリアの民衆はテラス河のほとりに彼らを埋葬したが、その墓はいまも残っている。そして埋葬を終えると国を後にした。やって来たスキタイ人は無人の国を手に入れることになったという。

12.いまもスキタイ地方には、キンメリア城壁とかキンメリアの渡しなどが残っており、キンメリア地方(9)やキンメリア海峡などもある。

(9)これは「クリミア」という名で残っている。「キンメリアの渡し」はおそらくアゾフ海への入り口にあたる狭い水道のことだろう。

さらに、キンメリア人がスキタイ人から逃れてアジアに入り、現在ギリシア人の街シノペのある半島に植民したことははっきりしている。またキンメリア人の後を追っていったスキタイ人が、道を誤ってメディアの国に侵入したこともはっきりしている。

キンメリア人は絶えず海岸沿いに逃げたのに対し、スキタイ人はコーカサス山を右に見ながら追いかけたが、途中で進路を内睦に変えたため、メディアの地に侵入したのだった。これが、ギリシア人や異国人が同じくして伝えている、もう一つの伝承である。

13.またプロコネソス人でカウストロビオスの子アリステアスは、その詩作中で、これに関連する話を残している。それによると、ポイボス(アポロ)の神がかりによってアリアテスはイセドネスの国を訪れた。イセドネスを越えたところにはひとつ眼のアリマスポイ人(*1)が住み、その向うには黄金を守る怪鳥グリフィンがおり、さらにその向うにはヒペルボレオイ人(極北人)(*2)がおり、その領土は海(*3)にまで達していると、かれは書いている。

(*1)第三巻百十六節参照
(*2)本巻三十二節以下参照
(*3)黒海

ヒペルボレオイ人を除き、アリマスポイ人を筆頭にこれらすべての民族は絶えず近隣の民族に戦を仕掛けた。イセドネス人はアリマスポイ人によって国を追われ、スキタイ人はイセドネス入に追われ、さらに南方の海辺に住んでいたキンメリア人は、スキタイ人に追われて国をあとにしたという。かくてこの国に関しては、アリステアスの叙述も、スキタイ人による伝承とは一致しない。

14.このような詩を書いたアリステアスの出自についてはもう話したので、次にこの人物についてプロコネソスやキジコスで聞いたことを話そう。それによると、アリステアスはその街では誰にも劣らぬ高貴な家柄の出だったが、プロコネソスで織物屋の店へ人った時に急死したという。

店主は店を閉めて死んだ人の縁者に知らせに行ったが、アリステアスが死んだという噂が街中にひろまった頃、その噂を打ち消そうとする、アルタケの街(10)からきたキジコスの男が現われた。この男は、キジコスに行こうとしているアリステアスに出会い、話をしたというのだ。こうしてキジコスの男は強く反駁したが、故人の縁者たちは埋葬に必要な用意をすべて調えて織物屋の店に出かけていった。

(10)キジコスの港にあるミレトス人の植民地

ところが店に入ってみると、生きているのか死んでいるのか、アリステアスの姿はどこにもなかった。このことがあってから七年後に、アリステアスはプロポネソスに現われ、今日ギリシャでアリマスペアと称されている詩を作ったのだが、この後ふたたび姿を消したという。

15.以上が、これら二つの街で伝えられていることである。しかし私はイタリアのメタポンティオンで、アリステアスの二度目の失踪から二百四十年後--この数字は私がプロコンネソスの件とメタポンティオン人が示したことから得た計算の結果である--次のような出来事があったのを知っている。

メタポンティオン人は次のように伝えている。あるとき、アリステアスがこの国に現われていうには、アポロンの祭壇を設け、そのそばにプロコンネソスのアリステアスの名をつけた像を据えよと。その理由をアリステアスは、かつてアポロが訪れた国としては、イタリアではこの国だけで、今の自分はアリステアスという人間であるが、そのときはカラスの姿でアポロにつき従っていたからだと語った。

このように告げてからアリステアスは姿を消したのだが、メタポンティオン人が伝えているところでは、彼らはデルフォイヘ使者を送り、この幻の男は何を示しているのかを神に伺わせた。するとデルフォイの巫女は、幻のいうとおりにせよ、そうすれば幸運がめぐってくるだろうと答えたので、彼らはこの託宣に従ったという。

だから今でもアポロンの神像の横にはアリステアスの名がつけられた像が立っていて、そのまわりは月桂樹の木で囲われている。そしてこの神像は街の広場に安置されている。アリステアスについてはこれですべて話したので終えることにする。

16.私がこの見聞記でこれから述べようとしている地域の北方については、正確に知っている者は一人もいない。それは、自分の眼で見たという人を見つけ出すことができなかったからである。ついさっき話したアリステアスでさえ、その詩の中で自分はイセドネスの国より先へ行ったとは語ってはおらず、それより北のことはイセドネス人から聞いた風聞だと云っているからである。

しかしはるか遠く離れた地方については、吾らが確かに知り得たことをすべて話すことにしよう。

17.スキタイの沿岸中央部に位置するボリステネス河の港(11)から北は、まずカリピダイというギリシャ系スキタイ人が住んでおり、その向うにはアラゾネスという民族が住む。アラゾネス人もカリピダイ人も、ほかの点ではスキタイ人と似たような風俗習慣をもっているが、ただ彼らは穀物のほかタマネギ、ニラ、レンズ豆、アワなどを栽培して食用にしている。

(11)ミレトス人の植民地で、ギリシャ語ではオルビア(幸運)、またはミレトポリス。黒海北方におけるギリシャ人の最重要拠点。ボリステネス河は現在のドニエプル河。

アラゾネス人の上手には農耕スキタイ人が住んでいるが、彼らが穀物を栽培するのは、食用のためではなく、販売するためである。これらの民族の北にはネウロイ人が住んでおり、ネウロイの北は、吾らの知る限りは無人の地である。以上がボリステネス河の西を流れるヒパニス河(12)流域の諸民族である。

(12)特定できず

18.しかしボリステネス河の反対側(東側)では、黒海に一等近いところは森林地帯で、この北方には農耕スキタイ人が住んでいる。ヒパニス河畔に住むギリシャ人は彼らをボリステネス人と呼んでいるが、彼ら自身はオルビア市民と称している。

この農耕スキタイ人は、東方へは三日の旅程にあるパンティカペス(13)という河に至る地域に居住している。また北はボリステネス河を遡航すること十一日を要する地域にわたって住んでいる。その北はずっと続く荒廃地である。

(13) 特定できず

この無人地帯を過ぎたところにはアンドロパゴイ人(食人種)(*)が往んでいるが、これはスキタイ人とは全く異なる。これより先は正に無人の荒廃地で、私たちの知る限り、いかなる人種も棲息していない。

(*)本巻百六節参照

19.農耕スキタイ人の居住地から東へゆき、パンティカペス河を越えると、そこは遊牧スキタイ人の地で、彼らは種も蒔かず、土を耕すこともしない。そして森林地帯を除き、樹木は一本もない。この遊牧スキタイ人は、東方に向って十四日の旅程にあるゲロス河(14)に至る地域に住んでいる。

(14)特定できず

20.ゲロス河を越えた地は、いわゆる王領と呼ばれる地帯で、ここのスキタイ人は最も勇猛で人数も多く、他のスキタイ人を自分の奴隷と見なしている。彼らの領土はといえば、南はタウロイ人の国に達し、東はかの盲目の奴隷の子らが掘削した壕と、アゾフ海に臨むクレムノイ(15)にまでおよんでいる。また一部はタナイス河(ドン河)まで達している。

(15)アゾフ海の西岸にある。本巻百十節参照

王族スキタイ人の北には黒衣族とも呼ばれているメランクライナイ人が住んでいて、この民族はスキタイ系ではなく、別の民族である。この民族の向こうの地は見渡す限りの沼沢地で、我々の知る限りでは人は住んでいない。

21.タナイス河(ドン河)の向こうはもはやスキタイの地ではない。その最初の地域はサウロマタイ人の領地で、この国はマイオティス湖(アゾフ海)の奥まった隅から始まって北へ十五日の旅程にわたる地域である。そしてその国土は野生であれ栽培されたものであれ、全く樹木がなく、まる裸である。第二の地域はサウロマタイ人の向こうに住むブディノイ人で、その国はあらゆる種類の樹木が厚く繁っている。

22.ブディノイ人の国の北は、七日の旅程にわたって無人の地が続き、この荒廃地の果てたところでやや東に向きを変えると、独特で人口も多いテッサゲタイ人が住んでいる。彼らは狩猟によって生活している。

テッサゲタイ人と同じ地域で、これに接してイルカイという民族が住んでいて、これも狩猟によって生活しているが、彼らは次のようにして狩りをしている。この地方全体は深い森になっているので、狩人は木に登って身を隠す。そして腹ばいになって身を低くするよう訓練された馬と犬を各自が用意する。木の上から獲物を見つけたら、狩人は矢を射ってから馬にとび乗って獲物を追い、犬もすぐ後につき従ってくる。

これらの国を越えていくらか東方に進めば、別のスキタイ人が住んでいる。彼らは王族スキタイ人に背いてこの地にやって来たのである。

23.これらスキタイ人の国は、どこも平坦で地味も豊かであるのに対して、これ以後の地域は石くれの多い荒れ地である。

長い旅程をかけてこの荒れ地を過ぎると、高い山脈(*)の麓に、男女ともに生れながらの禿頭で、かつ獅子鼻で顎が張っている人種が住んでいると云われている。彼らはスキタイ風の服装をしているが、独自の言語を話し、食べているのは木の実である。

(*)ウラル山脈と思われる

彼らが生活の糧としているのはポンティコンという木で、いちじくの樹とほぼ同じ大きさで、その実も豆ほどの大きさで、これには核がある。そして熟した実を布で漉して搾ると、黒くて濃い液が出てくる。この液を彼らはアスキユ(16)と呼び、そのまま舐めたり、乳と混ぜて飲んだりする。また搾りかすを用いて菓子を作り、これを食べている。

(16)プルヌス・パドゥス(Prunus Padus:蝦夷の上溝桜)の果実はコサックが飲用する「アスキ」のこと

このような食性は、この地の牧草地が痩せているので、家畜がほとんどいないためである。彼らは木陰に住み、冬は木に白いフェルトをかけ、夏はそれを使わない。

また彼らは神聖な民族だとされているので、誰からも危害を加えられることはない。従って戦のための武器は誰も持っていない。また近隣の国同士の争いを調停し、そのうえ、追放され保護を求めて避難してきた者は、誰からも危害を加えられることはない。彼らの名はアルギピアンという。

24.この禿頭族に至るまでの地域やその近隣の民族に関する事情はすっかりわかっている。スキタイ人の中にはこれらの民族を訪れる者がいるので、彼らからたやすく情報を得られるからである。またボリステネスの港や黒海沿岸にあるほかの港から訪れるギリシャ人からも事情を聞けるのだ。スキタイ人がこれらの地に来るときには、七人の通訳を伴って七ヶ国語を用いて商談するのである。

25.そしてこれらの民族にいたるまでは、事情がよくわかっているが、禿頭族から先のことは、誰も正確なことは知らない。というのも踏破できない高い山脈が障壁となっていて、これを越えてゆく者は一人としていないからである。禿頭族のいうところでは(私は信じていないが)、その山脈にはヤギの脚をもつ人間が住んでいて、山脈を越えたところには、一年十二ヶ月のうち六ヶ月間を眠ってすごす民族が住んでいるという。しかしこれは私には全く受け入れることができない。

禿頭族の東方には確かにイセドネス人が住んでいるが、禿頭族またはイセドネス人の北方の地に関しては、これらの民族の云っていること以外は全く事情がわかっていない。

26.イセドネス人の風習は次のようなものだと云われている。一家の父親が亡くなると、親類縁者が家畜の群れを伴って集まり、これを屠殺してその肉を切り刻む。また亡くなった一家の主である父親の肉も刻んで混ぜ合せ、これを宴会に供するのである。

死人の頭は皮を剥ぎ、きれいに洗ってから金箔を貼り、これを神聖な記念物のように保存しておき、年ごとに厳かな生贄を捧げる。こうして息子は父のために尽すのである。これはちようどギリシャ人が死者を讃える祭礼を行なうのと同じである。そのほかのことでは、彼らは条理を弁えた民族だといわれ、女子も男子と同じ権利をもっていると云われている。

27.このように、イセドネス人についても事情はわかっているが、この民族から北のひとつ眼族と黄金を守る怪鳥グリフィンに関しては、イセドネス人が伝えていることである。この話はスキタイ人が彼らから聞いたことで、それをわれわれはスキタイ人から聞き、その話が世に広まっているのである。この種族をスキタイ語でアリマスポイと呼んでいるのもそのためで、スキタイ語でアリマは「一」、スプーは「眼」のことである。

28.以上の国はすべてひどい寒冷地で、一年のうち八ヶ月間は堪えがたい寒さである。この期間は地面に水を注いでも土は泥にはならず、火を焚いてやっと泥になるほどである。海も凍結し、キンメリアのボスポラス海峡(ケルチ海峡)もすべて凍るので、塹壕の内側に住むスキタイ人は氷上に車を走らせてシンドイ人の国まで軍を進めるのだ

このように冬の八ヶ月間は続くが、残りの四ヶ月も寒さは去らない。この地の冬は他の地域とは性質が異なっていて、他の地域では夏になると絶え間なく雨が降るのに対し、この地では雨期でもほとんど雨の降ることはない。

他の地域で雷の発生する時期には、この地では発生しないで、夏に頻繁に発生する。冬に雷が鳴ると、この地の住民は何かの前兆ではないかと不審に思う。また夏と冬とにかかわらず、地震も何かの前兆と思われている。

またこの国では馬がスキタイの冬に耐えるのに対し、ラバもロバも全く寒さに弱い。しかし他の地域では、ラバやロバは寒さによく耐えるが、馬は寒中に立っていると凍傷にかかる。

29.私の考えでは、スキタイの牛に角が生えないのは、この寒さによるものだろう。次に挙げるホメロスのオデッセイア中の詩句が私の考えを裏打ちしている。

 「仔羊の生まれるや、たちまちに角生やすリビア」
  ホメロス;オデッセイア、第四歌八十五節

まさしくこの詩で正鵠を射ているように、暑い国では角の生えるのが早いのだが、一方で酷寒の国では、獣に角の生えることはほとんどないか、あるいは全くといってない。

30.このような現象がスキタイの国で起るのは寒さのせいである。しかし私が不思議に思うのは(もともと本書は横道にそれることを常としているので)、エリス地方(*1)は寒冷地でもないのに、しかもそれ以外に明らかな原因がないにもかかわらず、その全土でラバが生れない、ということである。エリス人自身がいうには、彼らの国でラバが生まれないのは呪い(*2)のせいだということだ。

(*1)ペロポネソス半島(現ギリシャ)西北部
(*2)エリス王オイノマオスが馬を愛でるあまりにラバが生まれることをひどく呪ったという伝説がある。プルターク、倫理論集(Plutarch, Moralia. The Greek Questions., II, 303)を参照

そこでエリスでは、メス馬の発情期がやってくると、それを近隣の地方に連れてゆき、それからロバを連れて行ってメス馬が孕むまで交配させ、そのあと再び馬を国へ連れ帰るのである。

31.スキタイ人がいうところの、大気が羽毛で満ちあふれ、そのために先を見通すことも陸地を横断することもできない、ということについては、私は次のように考えている。

この地域より北の地では、夏は冬ほどではないにしろ、絶えず雪が降っている。身近で雪がおびただしく降るさまを見たことのある人ならば、私のいわんとするところがわかってもらえるだろう。つまり雪は羽毛のごときもので、私が話したような冬の厳しい気候のせいで、この大陸の北部には人が住んでいないのである。それゆえ、スキタイ人やその近隣住民は、雪のことを比喩として羽毛と云っているのだと私は考えている。以上、もっとも遠い地域について語られていることを述べた。

32.ヒペルボレオイ人(極北人)という人種については、スキタイ人もこの地域に住むその他の住民も、イセドネス人は別として、なにも語っていない。私の考えでは、イセドネス人も全く語っていないのだ。仮に彼らが語っているならスキタイ人も、ひとつ眼族について語っているように、これについても伝えているはずだからである。しかしヘシオドスは極北人について言及していて(*)、またホメロスも叙事詩エピゴノイ(17)の中で(この詩が本当にホメロスの作であるとするなら)このことに触れている。

(*)ヘシオドスの著作中には、これに関する記述は見当たらない、とされている
(17)叙事詩還中の一編(The Heroes' Sons);七人の英雄によるテーベ攻撃譚の続編。しかし現存しない。

33.ところがデロス人(18)は他の誰よりも極北人について多くのことを語っている。彼らの語るところでは、麦ワラに包まれた供物が極北人の国からスキタイに届くと、そこから隣国の住民に順次受け渡されて、はるか西の果てのアドリア海にまでゆくのである。

(18)極北人に関するデロス人の物語は、初期の時代から北ヨーロッパと南東ボスポラスを結びつけていた交易路があったという事実の傍証となるものである。とりわけ琥珀はバルト海からエーゲ海へ運ばれていた。

供物はここから南方に運ばれるのだが、これを最初に受け取るギリシャ人はドドネ人である。さらにこのドドネ人から南に下ってマリス湾に送られ、海を渡ってエウボイア島に行き、街から街へ次々に送り出されてカリストスに着く。ここからはアンドロス島を省略してテノス島に運び、最後にテノス人がデロス島へ届けるのである。

このようにして供物はデロスに到着するという。極北人は初期には二人の娘に供物を持たせて送り出したのだが、娘の名はヒペロケとラオディケだったとデロス人は伝えている。そして護衛として五人の男を娘に同行させて道中の無事をはかったが、この五人は今でもペルプレエス(19)の名で呼ばれ、デロスでは大いに敬われている。

(19)おそらく荷役夫

さて極北人は送り出した者たちが帰ってこないので、それ以後も派遣した者たちが帰ってこないようなことが続くと大問題になると考え、それからは供物を麦ワラで包んで国境まで運び、それを隣国人に託して次の民族に送ってくれと頼むことにしたのである。

このようにして供物は伝送されてデロスに到着したと云われている。私自身も、この供物の件と同じような慣習があるのを知っている。すなわちトラキアやパイオニアの女たちも、女王アルテミス神に生贄を捧げるときに、麦ワラを用いているのである。

34.さてデロスに骨を埋めた極北人の娘たちの霊を慰めるために、この国の少年少女はその髪を切って供えている。嫁入り前の少女たちは一房の髪を切りとり、これを糸巻棒に巻きつけて墓に供えるのだ。

墓はアルテミス廟に入って左側、オリーブの樹の根元にある。デロスの少年たちは青草の茎に髪を巻きつけて同じように墓に供える。

35.このようにデロスの住民は娘たちを崇めているのだが、同じデロス人の伝えるところでは、このヒペロケとラオディケの前にもアルゲとオピスという極北人の娘が、先に説明したのと同じ国々を経てデロスヘ来ているという。

ヒペロケとラオディケはエイレイテイア女神(*)に捧げる安産祈願の貢ぎ物を持参してきたのだが、アルゲとオピスは神々(20)に随行してきたといわれているので、デロス人は彼ら独自の崇め方をしている。

(*)レトがデロスでアポロとアルテミスを産むとき難産だったのを、エイレイテイアが手助けしたという伝説がある
(20)アポロとアルテミス

すなわちデロスの女たちは、リキア人のオレンがこの二人のために創った讃歌でその名を唱えつつ寄進を募るのだが、島嶼の住民やイオニア人もオピスとアルゲの讃歌を歌って寄進を募るのは、デロス人のこの風習によるものだという。なおデロスで歌われる他の古い讃歌を創ったのも、このリキア人オレンである。

そして祭壇の上で生贄獣のモモ肉を焼いて捧げ、その灰は残らずオピスとアルゲの墓に撒くと云われている。この二人の墓はアルテミス廟の奥で東に面していて、ケオス人の宴会場のごく近くにある。

36.極北人については充分語ったのでここまでとしよう。極北人で、食を絶ったまま例の矢を持って世界中を廻ったと伝えられているアバリスに関する物語は、ここで述べるつもりはない。仮に極北人(ヒペルボレオイ人)がいるとすれば、一方で極南人(ヒペルノテイオイ人)もいるはずなのだが。

そしてこれまで、いかにも多くの人が世界地図を描いてはいるが、ひとつとしてまともなものがないを見るにつけ、私は嗤ってしまうのだ。彼らは陸地をコンパスで描いたごとく円形に描き、その周りにオケアノス河が流れているように配置し、アジアとヨーロツパを同じ大きさにしている。私としては、この二つの地域の大きさと、その形状を少し説明してみるつもりだ。

37.ペルシャ人が住む陸地は、紅海(*1)と呼ばれている南の海(*2)にまで続いている。その北方にはメディア人、メディア人の先にはサスペイレス人、サスペイレス人の先にはコルキス人が住み、これはパシス河が流れ込む北の海(21)にまで至っている。すなわちこれら四つの民族は海から海の間に住んでいるのである。

(*1)現在の紅海ではなく、ペルシャ湾とその近隣の海域;第一巻一節参照
(*2)インド洋
(21)黒海。本巻四十二節における「北の海」は地中海を指す

38.この地域の西には二つの突出部が海に延びているが、これからこれについて述べよう。

最初の突出部の北側はパシス河から発して海に向い、黒海とヘレスポントスに沿ってトロイア地方のシゲイオン岬にまで延びている。この突出部の南側は、フェニキアにあるミリアンドロス湾からトリオピン岬に至るまで海に延びている。そしてこの突出部には三十の民族が住んでいる。

39.これがひとつ目の突出部で、次の突出部はペルシャに発して紅海に延び、ペルシャの地とこれに続くアッシリア、そこからアラビアへと至る。この突出部は、ダリウスがナイルから運河を開いたアラビア湾に終っている。事実としては終わってはいないが、通念としてそう云っている。

ペルシャからフェニキアの間はきわめて広大な陸地になっているが、フェニキアから我らの海寄りには、シリア・パレスチナとエジプトがある。そして突出部はここで終わっている。この突出部に住んでいるのは三つの民族だけである。

40.以上がペルシャから西のアジアである。ペルシャ、メディア、サスペイレス、コルキスより先の東には、一方で紅海が、北にはカスピ海と東にに向って流れるアラクセス河がある。

インドに至るまでのアジアには人が住んでいるが、インドから東は荒廃地で、その地の状況を語ることのできる者は一人もいない。

41.以上がアジアで、広さはこの通りだが、リビアは第二の突出部にある。それは、リビアがエジプトに続く地であるから。そしてこの突出部はエジプトの地で狭くなっている。事実、我らの海から紅海までの距離は、十万ファゾム(二百粁)、すなわち千スタディア(百八十粁)しかない。しかしこの狭い地域を過ぎれば、突出部はいわゆるリビアとなり、その地の幅はきわめて広くなる。

42.そこで、リビア、アジア、ヨーロッパを区切った人たちのことが、私には不思議に思われてならない。というのも、この三者の違いは小さくないからである。ヨーロツパは他の二者と並ぶ長さがあり、幅については、どこを比べても広いように、私には思われる。

アジアに接している地域を除けば、リビアが海に面していることは明らかである。そしてこの地を最初に発見し、知らしめたのはエジプト王ネコスだった。この王はナイル河からアラビア湾に通ずる運河の開墾を中止したあと、フェニキア人を船で送り出し、帰国の際にはヘラクレスの柱を通って北の海(*)に出てからエジプトに戻るよう命じておいたのである。

(*)地中海

こうしてフェニキア人たちは紅海を出航して南の海(*)を進んでいった。そして秋になるたびに、その時航海していたリビアの地に接岸して穀物の種を蒔き、収穫の時を待ったのである。

(*)インド洋

そして穀物を採り入れてから出航することを繰り返して二年が経過し、三年目にヘラクレスの柱をまわってエジプトに帰ってきた。そして彼らは、リビアを周航中、太陽はいつも右手にあった(22)というのだが、これは一部の者は信じるかもしれないが、私は信じない。

(22)ヘロドトスは信じていないというが、これは偶然にも話を確かにしている。それは、船が東から西に航行して喜望峰をまわると、南半球では太陽は右に見えるからだ。現在ではほとんどの識者がこの周航譚を認めている。

43.こうしてリビアの事情が始めてわかったのだが、これにはカルタゴ人の言い伝えもある。アカイメネス族のひとりでテアスピスの子サタスペスが、先の目的で派遣されたにもかかわらず、リビア周航を果さなかったということである。この男は航海が長期にわたることと孤独に嫌気がさして、母に言いつけられた役を果すことなく戻ってきたのである。

そもそもは、このサタスペスが、メガビゾスの子ゾピロスの未婚の娘を犯したことにある。そこでクセルクセス王が串刺しの刑で処罰しようとしたところ、ダリウスの妹であるサタスペスの母が、王よりも重い罰を息子に課すからといって取りなしたのである。

すなわちサタスペスにリビアへの周航を命じ、ここを廻ってアラビア湾に帰還させるというのであった。クセルクセスがこれに同意したのでサタスペスはエジプトヘゆき、ここで船と船員を手に入れ、ヘラクレスの柱を目指して出航した。

そしてここを通ってソロエイス(23)というリビアの岬を廻って南へ向って進んでいった。ところが何ヶ月も海原を越えたものの、まだまだ航海を続けなければならないことに嫌気がさして、この男はエジプトヘ戻って行ったのである。

(23)おそらくマデイラ諸島のカンティン岬、あるいはモロッコのスパルテル岬

サタスペスはエジプトからクセルクセス王のもとへ伺候し、航海の報告をした。すなわち最も遠くの地は小人の国で、この小人はヤシの葉を身につけていること。自分たちが船で岸に近づくと、必ず部落を後にして山中へ逃げてしまったこと、自分たちが陸に上がっても、家畜を除き住民からは何も奪うことはしなかったことなどを報告した。

そしてリビアを完全に廻って来られなかった理由として、船がそれ以上先に進むことができなかったことを申し述べた。しかしクセルクセスはサタスペスの話を真実とは認めず、課せられた任務を果さなかったものとして、先に処罰を定めたとおり、この男を串刺しの刑に処した。

このサタスペスは宦官をひとり抱えていたが、これが主人の死を聞くと、ただちに莫大な財宝とともにサモスに逃亡した。しかしこの財宝は、あるサモス人が差し押えてしまった。私はこのサモス人の名を知ってはいるが、あえてその名を伏せることにする。

44.アジアについては、そのほとんどがダリウスによって発見されている。たとえば世界の河川としては二番目にワニの棲息するインダス河があるが、ダリウスはこの河が海に注ぐ場所を知りたいと思い、自分が信をおいているカリアンダ人のキラックスその他の者たちを船で送り出した。

一行はパクティエス国のカスパテユロスの街(*)から船出し、河を東に下って海に達した。そこから海上を西に進み、三十ヶ月目に、先に述べたところのエジプト王がリビア周航のためフェニキア人を出航させた地点に到着した。

(*)第三巻百二節参照;カスパテユロスは現在のカブール

この一行が周航を終えたあと、ダリウスはインド人を征服するとともに、この海域を利用した。このようにしてアジアは東方を別として、他の方面はリビアと同じように事情がわかったのである。

45.しかしヨーロッパの東と北については、はたして河に面しているのかどうかを明言できる者は一人もいない。ただ、ヨーロッパがアジアとリビアを合わせた距離まで充分延びていることはわかっている。

しかしもともとは一つの大陸なのに何ゆえに三つの女の名がつけられ、何ゆえにエジプトのナイル河、ルキスのパシス河(マイオティス湖に注ぐタナイス河とキンメリアの渡し(24)を境界に挙げる人もある)が、その境界とされているのか、私には理解できない。そしてそのような区分けをした人たちの名前も、それらの名称の由来も私は突きとめることができていない。

(24)本巻十二節

たとえばリビアについては、この地の女の名前がその名の由来で、アジアはプロメテウスの妻(25)の名に由来すると多くのギリシャ人がいっている。しかしリディア人は、アジアという名称はプロメテウスの妻であるアシアに由来するものではなく、マネスの息子であるコテスの子アシアスによっていると主張し、サルディスのアシアッド族の名称も、この人物の名前によるものだとしている。

(25)プロメテウスは、アイスキュロスとシェリーが讃歌を捧げた、人類に炎を与えた人物。アシアは、アイスキュロスの悲劇「縛られたプロメテウス」における主要人物

ヨーロッパについては、海で囲まれているのかどうかを知っている者はひとりもおらず、その名称がどこからきているのか、命名したのが誰なのか、誰も知らない。唯一我々がいえることは、テュロスの女エウロペがこの地の名称の起源であるということである。それまではヨーロッパも他の大睦と同じく無名であったと思われる。

しかしこの女はアジアの生まれであることが明らかで、しかも今日ギリシャ人がヨーロッパと呼んでいる地へ来たことはなく、フェニキアからクレタへ、クレタからリキアまでしか来ていないのだ。さて、これらの話題については充分述べたので、これまでとしよう。これらの名称は慣習に従って用いることにする。

46.さてダリウスが遠征しようとしていた黒海地方は、スキタイ人を除いて世界中で最も無知蒙昧な民族が住んでいる。黒海周辺に住む民族の中で、スキタイ人とアナカルシス人以外で才知に長けている民族はひとつもなく、この地の生まれで著名な人物というのを、我々はひとりも知らない。

ところがスキタイ族は、他のすべての点では褒めるべきことはないのだが、吾らの知る限り、人間に関する諸々のことの中でこの上なく重要な点について最も賢明な発明をしている。それは、彼らを攻撃する者は一人として逃れ生還することができず、また彼らが敵に発見されたくないと思えば、誰も彼らを捕らえることができないような方法を考え出したことである。

つまりこの民族は街も城塞も築かず、すべてが遊牧によって騎馬で弓を用い、農耕によらず家畜を養い、家は荷車に乗せて運ぶのである。このような民族を、いかにして征服したり接触することができようか?

47.このような発明は、彼らの住む地域や河川がその目的に適していたからにほかならない。すなわちスキタイの国土は牧草や水に富む平原で、エジプトの運河の数に劣らぬほど多くの河が流れている。

それらの河の多くが海から遡ることができ、よく知られているそれらの河の名を挙げてみる。まず五つの河口をもつイストロス河(ドナウ河)、つぎにテラス河、ヒパニス河、ボリステネス河、パンティカペス河、ヒパキリス河、ゲロス河、タナイス河などで、その流れを次に述べてみよう。

48.イストロス河は、われわれの知っている中では最大の河で、夏でも冬でも同じ水量で流れている。これはスキタイの河川の中では最も西を流れる河で、他の多くの河がこれに注いでいるために最大の河になっている。

スキタイの地を流れてこの河を大きくしている河は五つあって、まずスキタイ人がポラタ、ギリシャ人がピレトス(26)と呼ぶ河があり、そのほかにはティアラントス、アラロス、ナパリス、オルディソスがある。

(26)おそらくプルト河。その他四つの河川は不明

最初に挙げた河がもっとも大きく、東を流れてイストロス河に合流している。二番目に挙げたティアラントスはこれよりも西側を流れるより小さな河で、アラロス、ナパリス、オルディソスは先に挙げた二つの河の間を流れてイストロスに注いでいる。これらの河がスキタイから発してイストロスの水量を増やしているのだが、一方でアガティルソイの国(*1)からマリス河(*2)が流れ来てイストロス河に合流している。

(*1)現在のトランシルバニア地方
(*2)現マロシュ河

49.八イモス山脈(27)の高地からは、アトラス、アウラス、ティビシスの大河が北に流れてイストロスに注いでいる。またトラキアのクロビゾイ人の国から発しているアトリス、ノエス、アルタネがイストロスに合流している。パイオニアとロドぺ山からはキオス河がハイモス山脈の中央を縦断してイストロスに注いでいる。

(27)現バルカン山脈。この節で挙げられている河川はどれも特定不可。

イリリア地方から発したアングロス河は北に向って流れ、トリバロイ平野に入ってブロンゴス河に注ぎ、このブロンゴス河がイストロスに合流している。このようにしてイストロスはふたつの大河を迎えているのである。オンブリコイ地方(*)の北からはカルピス河とアルピス河が北に向って流れ、イストロスに合流している。

(*)北イタリア

すなわちイストロス河は、キネテス人の次にもっとも西に住むケルト人の国から発し、ヨーロッパ全土を横断してスキタイの国境に流れ込んでいるのだ。

50.これまでに挙げた河川や、他にも多くの河がイストロスに流れ込んでいるために、この河がもっとも大きな流れとなっている。ところがナイルと比べると、ナイルの方が水量は多い。ナイルには合流して水量を増すような河も水源(*)もないのだが。

(*)ヘロドトスは、ビクトリア湖やタナ湖がナイルの水源であることを知らない。第二巻二十九節参照

イストロスが夏も冬もいつも同じ水嵩である理由としては、私は次のように考えている。すなわちこの河の水嵩が冬に通常通りであるか、わずかに高くなるのは、冬になるとこの地には雨がほとんど降らず、いたる所に雪が降るためである。

夏には冬の間に降った大量の雪が解け、四方からイストロスに流れ込む。さらに夏は雨期になるので、すさまじい豪雨が流れ込んで水量が増す。

こうして夏場はイストロスに流れ込む水量は冬よりも増えるが、夏は冬に比べて太陽が多くの水分を引きよせる。このような対立する作用によって均衡が生じ、そのためにイストロスの水嵩はいつも同じなのである。

51.イストロスはスキタイを流れる河川の一つなのだが、これに次ぐものとしてはティラス河(28)がある。この河は北から流れ、スキタイとネウリス国との境にある巨大な湖から発している。この河の河ロには、ティラス人と呼ばれるギリシャ人の植民地がある。

(28)現ドニエステル河

52.三番目の河はヒパニスで、この河はスキタイから発し、周辺に野生の白馬が棲息する大きな湖から流れ出ている。この湖が母なるヒパニスと呼ばれるのも当然である。

さてこの湖から発しているヒパニスであるが、五日にわたる航程の間は、水は浅く甘いのだが、そのあと海までの航程四日の間はとてつもなく水が辛い。

これは辛い水が水源から流れ込んでいるためだが、その水量は少ないものの、世界中のうち数件しかない大河の一つであるヒパニスの水を変えてしまうほどに辛いのである。この水源は農耕スキタイ人(29)とアラゾネス人の国境にあり、この水源とその水源のある場所の名はスキタイ語でエクサンパイオスといい、ギリシャ語では聖なる道という。

(29)本巻十七節参照

ティラスとヒパニスはアラゾネス人の領内では近くを流れているが、そのあとは次第に離れながら流れる。

53.四番目がボリステネス河(*)である。この河はイストロスに次ぐ第二の大河で、大方の見るところでは、エジプトのナイルを別として、スキタイの河川のみならず世界中の河川のうちで、資源に富むことにおいて右に並ぶものはない。

(*)ドニエプル河

この河の流域には家畜を養うのに最上の栄養を備えた牧草地があり、他の追随を許さぬほどに質量ともに抜きんでた魚類が棲息している。そして水はこの上なく甘美で、ほかの河川が濁っているのに対し、この河の流れは澄みきっている。この河岸の土壌はよく肥えて穀物の実りは豊かで、耕作されていない場所でも草が見事に生い茂っている。

また河ロでは天然の塩が大量に結晶化していて、背骨のない大きなチョウザメ(*)が獲れることから、これを塩漬けにしている。そのほかにもさまざま見事な物産がある。

(*)ドニエプルのキャビアは現代でも有名

この河は、海から船で四十日遡行したところにあるゲロスの街までは、北から流れて来ていることがわかっている。しかしそれより先はどこの国を流れているのか、誰も知らない。ただ、この河が人の住まない荒廃地を流れて農耕スキタイ人の国に流れ込んでいることは明らかである。というのは、この民族は十日の航程に相当する距離にわたって、この河の流域に住んでいるからである。

私が水源の場所を特定できない河は、ナイルとこの河だけである。またそれを知るギリシャ人は一人もいないと私は思っている。ボリステネスが海に近づくあたりでは、ヒパニスがこの河に合流し、同じ沼地に流れ込んでいる。

これら二つの河に挾まれた地帯は、船の舳先のように突き出ていることからヒッポレオス岬と呼ばれ、そこにはデメテルの社がある。この社の向こうのヒパニスの河岸にはボリステネス人の集落がある。

54.以上がこれらの河の実状だが、次に五番目の河としてはパンティカペスがある。この河も湖を起点として北から流れ来ていて、この河とボリステネス河との間には農耕スキタイ人が住んでいる。そしてヒライア地方を通過したのちにボリステネスに合流している。

55.六番目はヒパキュリス河(30)で、これは湖から発して遊牧スキタイ人の国の中央を貫き、右手にヒライアとアキレスの競走場と呼ばれる地域に接しているカルキニティスの街の近くで海に流れ込んでいる。

(30)おそらくウクライナのモロクナ地方にある。ここはドニエプル河のはるか東になる。カルキニティスの街はスキタイ沿岸の東の端にあり、クリミアのタウリック・ケルソネスの近くにある。アキレスの競争場はクリミアとドニエプル河の河口の間にある八十マイルほどの細長い砂地であるが、現在は島嶼に分断されている。

56.七番目の河はゲロスで、この河はボリステネスの流路のわかっている最も上流部の地点で、ボリステネスから別れている。そして分岐点の場所も同じゲロスの名で呼ばれている。そして海に向って流れつつ遊牧スキタイ人と王族スキタイ人の国を分かち、ヒパキュリス河に合流している。

57.八番目はタナイス河で(31)、その上流は巨大な湖から始まり、王族スキタイ人とサウロマタイ人の国を分けている、より大きなマイオティス湖(アゾフ海)に注いでいる。そしてヒルギス(32)という別の河がタナイスに合流している。

(31)ドン河
(32)おそらく本巻百二十三節にあるシルギス河。現ドネツ河

58.以上が、スキタイ人に寄与している有名な河川である。スキタイの地に生える牧草は、知られている限りでは、ほかのどの土地の牧草よりも家畜の胆汁がよく出る。このことは家畜を解体してみればわかる。

59.一等大切なことは、スキタイ人がこのような恩恵に浴していることである。そこで次にスキタイの風習に関して述べてみる。スキタイ人が崇めている神には次のものがあるだけである。まず第一に挙げるべきはヘステイア(火の神)で、ついではゼウス(天の神)とゲー(地の神)で、彼らはゲーをゼウスの妻と考えている。さらにアポロ、ウラニア・アフロディテ(天上のアフロディテ)、ヘラクレス、アレスがある。これらの神々をスキタイの全民族が祀っているが、いわゆる王族スキタイ人はポセイドンにも生贄を供える。

スキタイ語では、ヘステイアはタビティ、ゼウスは、私の考えではきわめて適切な名であるパパイオス(33)、ゲーはアピ、アポロンはゴイトシュロス、ウラニア・アフロディテはアルギンパサ、ポセイドンはタギマサダスという。そしてアレスの神像や祭壇は設営するが、それ以外の神にはこれを造らない慣わしになっている。

(33)パパ=父

60.生贄の儀式は、どれも次のような様式で行なわれる。まず生贄獣の前肢を縛りあわせて立たせる。そして生贄役が獣の背後から綱の端を引いて獣を転がす。

獣が倒れると、生贄を捧げる神の名を唱えた後、獣の首に縄を巻きつけ、それに棒をはさんでねじり廻し、獣を絞め殺す。それを行なっている間には、灯火も灯さず、生贄の毛髪を焼くお祓いもせず、御神酒を注ぐこともしない。獣を絞め殺して皮を剥いでから、煮るのである。

61.スキタイの地はきわめて木材が乏しいので、彼らは肉を煮るのに次のような工夫をしている。獣の皮を剥ぎ終えると、肉と骨を分け、この地で用いている鍋があるなら、この鍋に肉を入れる。この鍋はレスボスの混酒器によく似ているが、それよりもはるかに大きい。肉を鍋に入れたら、獣の骨を火に投げ入れて煮る。鍋のないときには、獣の胃袋の中に肉をすべて入れて水を加え、骨を燃やした火にかける。

骨はよく燃えるし、骨から離した肉は胃袋に楽々と入る。こうして牛はその肉を自分で調理することになる。その他の生贄獣も同じように処理される。肉を煮おえると、生贄の執行人は肉とはらわたの一部を初物の供えとして取り分け、前方へ投げる。どんな獣でも生贄にされるが、主に馬が供される。

62.神々に捧げる生贄の式次第と獣に関しては以上のとおりである。ただしアレスに対する生贄の儀式は次のように行なわれる。スキタイの行政区には、それぞれにアレスの聖所が設けられている。そこには薪の束が縦横三スタディア(五百四十米)にわたり、高さはそれより低く積み上げられている。その頂上には四角の平らな台が設けてあり、三方は垂直だが一方からだけ登れるようになっている。

彼らは年ごとに荷車百五十台分の薪をこれに積み上げてゆく。冬の嵐によって薪の束が沈下するからである。この台の上には、その地区の住民のために古い鉄製の三ヶ月短剣(スキミタール)が祀られている。これがすなわちアレスの神体なのである。スキタイ人はこの短剣に毎年ヒツジ、ヤギ、馬などを捧げている。そして他の神々にも供えるほかに、アレスには次のような生贄も捧げている。

戦争で生け捕りにした敵の捕虜のうちから、百人に一人の割で生贄にするのだが、そのやり方は家畜の場合と異なっている、まず生贄にされる人間の頭に酒を注ぎ、それから咽喉を切り裂いて血を器で受ける。そしてその器を薪の山の頂上にもって上がり、血を短剣に注ぐのである。

血をもって上がる一方で、聖所の下では、喉を切られた男たちの右腕を肩から切り離して空中にほうり投げる。そして残りの生贄の行事をすませてから立ち去ってゆく。腕は投げられて落ちたところに、胴体は離れたところに横たわっているという次第である。

63.以上がスキタイの慣習となっている生贄の儀式である。スキタイ人は豚を生贄に供えることはしないし、この国では豚を飼育することは全くない。

64.戦に関しては次のような慣習がある。スキタイ人は最初に斃した敵の血を飲む。また斃した敵兵の首級はすべて王のもとへ持参する。首級を持参すれば戦利品の分け前を手にすることができるからであるが、そうしないともらえないのである。

その頭皮を剥ぐ方法は、耳のまわりに切れ目を入れ、頭皮をつかんで揺すり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて肉をそぎ落し、両手で揉んで柔らかくする。そうするとハンケチのようになるので、それを自分の乗っている馬の馬勒に吊して見せびらかすのである。一等多くのハンケチを持っている者が、最上の勇者と見なされるからである。

また多くのスキタイ人が、剥いだ皮を縫い合せて革の外套のようにして身にまとっている。さらにまた多くが、敵の屍の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の覆いにしている。実のところ人間の皮は厚くて艶がよく、どの動物の皮よりも白く光沢があるという人もいる。また多くの者が全身の皮を剥いで板に張り、馬の背に乗せて持ち回っている。

65.ドクロを扱うのは敵の大将の首だけで、すべてのドクロではない。それをどうするかというと、眉から下の部分は鋸で切り落し、残りの部分を洗ってきれいにする。ここで貧窮者は牛の生皮を貼ってそれを使用する。富裕な者はドクロに生皮を貼りつた上で内側に黄金を貼り、それを盃に用いる。

身内の間で争いごとがあり、王の面前で相手を打ち負かした場合においても、たとえ血族であっても相手の頭蓋骨を盃にすることがある。そして賓客を迎えたときには、それらのドクロを見せ、その死者は自分に戦いを仕掛けてきたが打ち負かしたのだといって、勇猛であることの証しとしている。

66.年に一度、各地区の太守はその所管区において酒杯を提供する。この酒は敵を撃ち倒したスキタイ人だけが飲むのであって、このような武勲を挙げていない者は飲むことは許されず、離れた場所に座って恥辱に耐えねばならない。彼らにとってはこれが最大のはずかしめなのである。一人のみならず大勢の敵を斃した者は、二杯の盃を受け、これをひと口で飲みほす習いになっている。

67.スキタイには大勢の占い師がいる。彼らは柳の細い枝を多く用いて次のように占う。この者たちは枝を大きく束ねて地面に横たえると、その束を解き、呪文を唱えながら一本ずつ並べてゆく。そして呪文を唱え続け、再び枝を束ね、それからもう一度、一本ずつ並べてゆく。

この占い様式は古来からスキタイに伝わるものだが、雌雄同体のエナレエス族は(*)、アフロディテから授かったと称する方法で占っている。これは菩提樹の樹皮を用いる方法で、菩提樹の樹皮を三つに切りわけ、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら予言する。

(*)第一巻百五節参照

68.スキタイの王が病にかかると、最も評判のよい占い師を三人呼びよせ、いま説明したやり方で占う。そしてたいていの場合、彼らは誰それが、と市民の名前をあげ、王室のかまどにかけて偽りの誓詞を告げたためだというのである。

というのも、スキタイでは最も重大な誓いを立てるとき、王室のかまどにかけて誓うのが習わしになっているからである。占い師によって偽りの宣誓をしたと言い立てられた男はただちに捕らえられて連行される。そして占い師が男に向い、占いによって王室のかまどに対して偽りの誓いをかけたことが判明し、そのために王が病にたおれたのだと責め立てる。しかし男は偽りの誓いをたてた覚えはないと猛烈に否定する。

男が否定すると、次に王は以前の二倍の人数の占い師を呼びよせる。そしてこの者たちが占った結果も、その男の偽誓ということであれば、ただちにその男は首をはねられ、その財産は最初の占い師たちに分配される。

もしあとの占い師たちが無実と認めれば、別の占い師が次から次へと呼ばれてくる。そして大多数の占い師が無実と認めた場合には、最初の占い師たち自身が極刑に処せられるのである。

69.その刑の執行方法は次のとおりである。薪を満載した荷車に牛を繋ぎ、占い師たちの両足を縛り、両手を後ろ手に縛り、猿ぐつわをかませて薪の中に押しこんでから薪に火をつけ、牛を驚かせて走らせるのである。

多くの牛が占い師たちとともに焼死するが、くびきの軸が焼け落ちると、火傷を負いながらも逃げおおせる牛もいる。またほかの理由によって同じように占い師を偽占い師と呼び立てて火刑にすることもある。

極刑に処する者があると、王はその子供も生かしてはおかない。ただし男子はすべて殺すが、女子には害を加えない。

70.スキタイ人が誓約をかわすときには次のようにする。誓約を交わす者たちの身体の一部を錐で刺すかナイフで切るかして血を採り、それを酒を満たした土器の大盃に注ぐ。そこへ短剣(スキミタール)、矢、戦斧、槍を盃の中へひたす。そうしておいてから誓約の文言を厳粛に唱え、そのあとは誓約を交す者たちとともに、随行者のうちでもっとも高位の者たちも盃の中の血を飲むのである。

71.王の墳墓は、ボリステネス河の遡航可能な終点の地にあるゲロイ人の領土にある。スキタイの王が死ぬと、この地に方形の大きな穴を掘り、それが出来上がると遺骸を持ち上げるのだが、その遺体は腹をさいて中をきれいにしてから刻んだカヤツリグサや乳香、パセリやアニスのタネで一杯にしてから再び縫い合せ、全身に蝋を塗りつけてある。この遺骸を車に乗せて別の民族の国へ運んでゆくのである。

運ばれてきた遺体を受け取った者たちは、王族スキタイ人と同じことを行なう。すなわち耳の一部を切りとり、頭髪を剃りあげ、両腕の周りに切傷をつけ、額と鼻を裂き、左手は矢で突き通す。

そこからまた王の遺骸を車にのせ、支配下の別の民族の国へ運んでゆく。これには先に立寄った国の者たちも隨行してゆく。そして遺体を運んで属国を次々に一巡し終えると、最後に墳墓のある場所、すなわち属領のうちで最も遠い所にあるゲロイ人の国に着く。

そうして遺骸を墓の中のわら床に安置すると、遺骸の両側に槍を突き立てて上に木の板をわたし、その上にむしろをかぶせる。墓の中の空いている場所には王の側妾の一人、さらに酌小姓、料理番、馬丁、用人、奏者、これらの者たちを絞殺して埋葬し、さらに馬やあらゆる初物と黄金の盃もともに埋める。スキタイ人は銀製や青銅製の盃は用いないのである。

これを終えてから、全員で土をかぶせて巨大な塚を盛り上げるのであるが、できるかぎり大きくしようとして互いに競い合って懸命に築くことになる。

72.そしてー年経つと次のような儀式を行なう。亡き王に仕えた残りの従臣のうちで最も信頼されていた者たち(この者たちは生粋のスキタイ人で、王自身によって命じられて従臣となったもので、金で買われた従者はスキタイにはいない)五十人と、最も秀でた五十頭の馬を絞殺し、はらわたを抜いてきれいにしたあと、もみ殻を詰めて再び縫い合せる。

一方、車輪を半分に切り、凹みを上向きにして二本の杭で固定し、残りの半分を別の二本の杭で固定する。このようなものを数多く地面に設置する。それから太い棒を馬の胴体に首まで縦に通し、これを車輪に載せる。

前の車輪は馬の前半分を支え、後部の車輪は馬の腹のあたりで後ろ半分を支える。前後の脚は宙に浮いている。それから轡(くつわ)と手綱をを馬につけ、それを前方に引いて杭につなぐ。

こうしておいてから、絞殺した五十人の青年の死骸をこの馬に乗せる。それには、それぞれの遺体の背骨に沿って真直ぐな棒を首まで通し、この棒の下端を、馬に通してある別の棒の穴にはめ込む。このような騎士を墓のまわりに設置してから一同は引き上げるのである。

73.以上が王の葬儀の次第である。そのほかのスキタイ人が死亡したときには、最も近い縁者が遺体を車にのせて友人、知人の間を巡ってまわる。知人たちはこれを迎えて遺体の随行者たちをもてなすのだが、遺体にも他の者たちに出すのと同じものを供える。王以外の庶民はこのようにして四十日間にわたって引きまわされた後に埋葬される。

葬儀のあと、スキタイ人は次のようにして身を清める。頭は油を塗りつけてから洗い流す。身体はといえば、三本の棒を互いによりかからせるように組み、この上から毛氈をかけ、できるだけ締めつけておく。そして棒と毛氈の中央部に穴を掘り、そこへ赤く熱した石を投げ入れるのである。

74.この国には大麻が生育する。これは亜麻によく似ているが、こちらの方がはるかに太くて高い。これは自生もするし栽培もされる。そしてトラキア人はこれで亜麻布によく似た衣服を作る。大麻をよく知っている者でなければ、大麻製か亜麻製かの区別がつかない。大麻を見たことのない者は、この衣服を亜麻製と思うだろう。

75.スキタイ人はこの大麻のタネを手にして敷物の下にもぐり込み、そのタネを赤く熱した石の上にばらまく。そうするとタネがくすぶりだし、ギリシャの蒸し風呂では考えられないほどの湯気が発生する。

スキタイ人はこの蒸し風呂で気分が高揚し、大声でわめき散らす(*)。これが入浴の代りとなり、彼らは決して水で身体を洗うことはしない。

(*)これはマリファナの効果だろう

一方で、女たちは糸杉、ヒマラヤ杉、香木などを肌理(きめ)の粗い石に水をかけながらこすりつけてつぶし、出来上がったねっとりしたものを顔や全身に塗りつける。そうすると芳香が肌から発するだけでなく、翌日になってその練りものを落すと、肌が清潔かつ艶やかになるのだ。

76.どの民族もそうだが、スキタイ人もほかの国の風習を取り入れることを極度に嫌う。とくにギリシャの風習を嫌うことは、アナカルシスとスキレスの例でよくわかる。

アナカルシス(*)は、世界中の国々を歴訪し、訪れた先々でその才能を発揮したのち、スキタイに帰る途中、ヘレスポントスを船で通過してキジコスへ着いた。

(*)ソロンと親交があったとされ、七賢人の一人に数えられている

そこでキジコス人たちが神々の母(*)のために華やかな祝祭を催しているのを見たアナカルシスは、自分が元気で無事に帰国した暁には、キジコス人の祭と同じような祭を催し、夜祭も行なうことを母なる神に誓ったのだった。

(*)プリギアの女神キュベレ

そしてスキタイに帰りつくと、いわゆるヒライアの地(*)ーここはアキレスの競走場の近くで、さまざまな種類の樹木が生い繁っているところであるーに潜み、小太鼓を手にし、身には神像を吊り下げ、女神のための祭礼を寸分違わず行なおうとした。

(*)本巻八節、五十四節参照

ところがアナカルシスが祭礼を行なっているのを、あるスキタイ人が目撃し、これを王のサウリオスに告げたのである。そこで王はみずからその場所に行き、アナカルシスの行なっている儀式を見るや、矢を放ってかれを射殺してしまった。今日スキタイ人にアナカルシスのことを訊ねても、その男のことは知らないという。これは、かれが国を出てギリシャヘゆき、異国の風習に染まってしまったためである。

しかし私がアリアペイテスの執事だったテムネスから聞いたところでは、アナカルシスはスキタイ王イダンテルソスの叔父で、スパルガペイテスの子リコスの子グヌロスの子だったという。従ってもしアナカルシスかこの一族の出であったなら、彼は実の兄弟によって殺されたことになる。イダンテルソスはサウリオスの子で、アナカルシスを殺したのはサウリオスなのであるから。

77.しかし私は、ペロポネソス人の伝承による別の話も聞いている。それによれば、アナカルシスはスキタイ王に派遣されてギリシャ人の門弟となった。それが帰国して王に報告し、ギリシャ人はスパルタ人を除いてみなあらゆる学問に熱心だが、分別をもって話のやりとりできるのはひとりスパルタ人のみである、といったという。

しかしこの話はギリシャ人による埒もない作り話にすぎず、実際のところ、アナカルシスは右に述べたように、異国の風習になじみ、ギリシャ人との交友があだとなって悲運に斃れたのである。

78.それから長い年月ののち、アリアペイテスの子スキレスも同じような悲運をこうむっている。スキレスはスキタイ王アリアペイテスの子供のひとりとして生まれた。その生母はイストリア(34)の人で、スキタイ生まれではなかった。この母がスキレスにギリシャ語の読み書きを教えたのである。

(34)イストロス(ドナウ)河口近くの街。ミレトス人の植民地で現在のドブルジャ

その後アリアペイテスがアガテルソイの王スパルガペイテスのだまし討ちにあって殺されたことにより、スキレスは王位とともに、スキタイ女でオポイアという父の妃をも受け継いだ。ただ、この妃にはアリアペイテスとの間にもうけたオリコスという子があった。

こうしてスキレスはスキタイの王となったものの、スキタイ風の生活になじめず、受けてきた教育の影響でギリシャの風習を好むあまり、次のようなことをした。かれはスキタイ軍を率いてボリステネスの街へゆくたびに(ボリステネス人自身はミレトス人であると自称している)、軍隊は街の城外に残しておき、自分は街に入って城門を閉ざし、スキタイの衣服を脱いでギリシャ服に着換えるのである。

そして親衛隊やその他の従者は城門の警備につかせてスキタイ人にその格好を見られないようにしておき、かれは街の広場を散策するのであった。その他のあらゆることもギリシャ風の生活様式に従い、神を祀るのもギリシャの慣習に従った。

こうして一月ないしそれ以上の期間滞在すると、かれはまたスキタイの衣装をまとって街を後にするのであった。このような行ないをたび重ね、かれはボリステネスにも邸宅を築き、土着の女を娶ってこの邸に住まわせたりした。

79.しかしかれの身に凶事が降りかかる時がきて、それは次のことがきっかけとなって起きた。それはスキレスがバッコス・ディオニソスの信仰に入信したいと望んだときのことだった。かれが入信の秘儀を受けようとしているとき、非常に不吉なきざしが現われたのである。

ついさっき話したように、かれはボリステネス人の街に宏壮な邸を構えていて、邸のまわりには白亜の大理石製のスフィンクスやグリフィスの像がずらりと並べて安置されていた。その邸に雷が落ちたのである。邸は全焼したが、スキレスはこれを意に介さず入信の儀式をやり通したのである。

ところでスキタイ人はギリシャ人がバッコスの祭礼でドンチャン騒ぎすることを馬鹿にしている。人を狂気にいざなう神を崇めるというのは道理にはずれている、というのである。

そういう事情があって、スキレスがバッコスの秘儀に入信を終えたとき、あるボリステネス人がスキタイ人をからかって云った。
「スキタイ人どもよ、お前たちはワシらがバッコスの祭礼を催し、神がわれわれに乗り移るのをあざ笑っておる。ところがこの神は、お前たちの王にも乗り移ったぞ。今あの王もバッコスの祭を祝い、神に乗り移られて狂っている。ワシのいうことが信じられないなら、ついてこい。王の狂った姿を見せてやろう」

そこでスキタイの要人たちがついてゆくと、そのボリステネス人は彼らをひそかに城楼に連れて行った。そしてスキレスが参拝者たちとともにバッコスの祭に加わって練り歩いているのを目にするとスキタイ人たちは大いに落胆した。そして彼らは街を出て、見たことをすべての軍勢に語って聞かせた。

80.このあとスキレスが故国へ戻ろうとしたとき、スキタイ人たちは、テレスの娘の子でスキレスの弟に当たるオクタマサデスを盟主に立ててスキレスに反旗を翻した。

スキレスは反乱が起こされたことと、その原因となったことを知ると、トラキアヘ逃亡した。これを知ったオクタマサデスはトラキアに兵を進めた。そしてイストロス河畔に達した時、トラキア軍が行く手をはばみ、いざ合戦かと思われたとき、シタルケスがオクタマサデスのもとへ使者を送りだした。

「なにゆえ吾らは互いに力を競い合わねばならぬのか。お主は私の姉妹の子であり、また私の兄弟もお主に保護されている。お主が弟を私に返してくれるなら、私もお主にスキレスを引き渡そう。お互いに軍勢を危険にさらすことはやめようではないか」

このような提案をシタルケスはオクタマサデスに行なった。というのも、当時シタルケスの弟が兄のもとから出奔してオクタマサデスのもとへ逃れていたからだった。そこでオクタマサデスはこの提案を受け入れ、自分の叔父をシタルケスに引き渡し、兄のスキレスを受け取ったのである。

シタルケスは弟の身柄を引き取ると軍を引き上げたが、オクタマサデスはその場でスキレスの首をはねた。これが、スキタイ人が如何に自国の慣習を重んずるかという例である。そして異国の風習を取り入れようとする者には、右のような罰を下すのである。

81.スキタイの人口については、その正確な数を調べることができていない。その人数は膨大だという人もあるし、本来のスキタイ人は少ないという人もいる。しかし彼らが私に見せてくれたことを話してみよう。

ボリステネスとヒパニス河の間に、エクサンパイオスという名の地がある。これは先に、塩分の強い水源があり、この水のためにヒパニス河の水が飲めないと説明した地である(*)。

(*)本巻五十二節参照

さてこの地には青銅製の大瓶があって、その大きさは、クレオンブロトスの子パウサニアス(35)が奉納し、黒海の入ロに安置している大杯の六倍である。

(35)レオニダスの甥でプラタイアの戦い(B.C.479)における功労者。B.C.477年にビザンチン(*)を攻略した記念に、この大杯を献じた。
(*)現イスタンブール

この大瓶を見たことのない人のためにざっと説明しておくと、このスキタイの青銅製の瓶は優に六百アンポレウス(二万四千リットル)もの容量があり、厚さは六ダクティロス(十二糎)もある。そして土地の者たちがいうには、この瓶は鏃(やじり)から造られているという。

この国のアリアンタスという名の王が、スキタイの人ロを知りたいと思ってスキタイの全国民に命じ、各々鏃を一個ずつ持参させたのだった。それに従わぬ者は死罪に処すと脅したのである。

かくして厖大な数の鏃が持ち込まれたが、王はこれらの鏃で記念になるものを造ろうと決めた。そこで鏃で青銅の大瓶を造らせ、これを先のエクサンパイオスの地に奉納したという次第である。これが、スキタイの人口について私の聞き知ったことである。

82.この地には、世界中で最も大きな河と数多くの河がある以外、目を見張るような事物はない。河と広大な平原のほかに語るにたる珍しいものとしては、次のものがある。ティラス河畔に、岩にしるされたヘラクレスの足跡というのがある。これは人間の足跡に似ているが、その長さは二ペキュス(九十糎)もある。ともかくこれはこのとおりだが、ここで私は始めに述べようとしていた話に戻ることにしよう(36)。

(36)本巻第一節

83.さてダリウスはスキタイ遠征の準備をととのえ(37)、あちこちに使者を送って歩兵部隊や艦船の供出、さらにはトラキアのボスポラスに船橋構築を命じたりしていた。一方ダリウスの弟でヒスタスペスの子アルタバノス(*)は、ダリウスにスキタイ人の扱いが如何に困難であるかを説き、スキタイ遠征を中止するよう懇願した。

(37)ダリウスが遠征した年月は不明。グローテはB.C.514以前と推定している、
(*)アルバタノスはクセルクセスに対してもギリシャ遠征を諫止している(第七巻十節)

しかしかれの有益な忠告も、ことごとくダリウスを思い留ませるまでには至らず、アルタバノスも断念してしまった。そしてダリウスは準備をすべて完了すると、軍を率いてスーサを出発した。

84.このときオイオバゾスというペルシャ人が、息子が三人とも従軍することになっているので、一人だけ国に残してほしいとダリウスに願い出た。すると王は、
「お主はわが友じゃ」
といい、
「その願いも、もっともなことよ。では息子たちを全部残してやろう」 と返答した。

オイオバゾスは、息子たちがみな兵役を免れるものと思って大いに喜んだのだったが、ダリウスは処刑役人に命じて、オイオバゾスの息子たちをすべて殺させてしまった。喉をかき切られた息子たちはその場に「残された」のであった。

85.ダリウスはスーサから軍を進め、カルケドン領内のボスポラス船橋に達すると、ここから船に乗り、いわゆるキアネアイ岩(38)に向った。ギリシャ人の伝承では、この岩はかつては移動したといわれていたが、ダリウスは岩の突端に坐って黒海の素晴らしい眺めにひたっていた。

(38)ギリシャ神話における「さまよえる岩」または「撃ち合う岩」。ボスポラス海峡の北端にある二つの岩

この海は世界中で最もすばらしい海で、その長さは一万一千百スタディア(二千粁)、最も広い地点の幅は三千三百スタディア(六百粁)である(39)。

(39)これは誤り。黒海の長さは一千百五十粁(六千二百八十スタディア)。ヘロドトスの計測地点ではおよそ四百五十粁。その最大幅は六百粁である。プロポンティスやヘレスポンティスに関するヘロドトスの推定値も過大であるが、大きくずれるものでもない。ボスポラスの数値はヘロドトスの挙げたものより少し長いが、幅は正確である

この海の入ロの幅は四スタディア(七百二十米)あり、縦に延びていわゆるボスポラス海峡を形成し、船橋構築もここに行なわれたのだが、その長さは百二十スタディア(二十二粁)ある。そしてボスポラスはプロポンティスに連なっている。

プロポンティスは幅五百スタディア(九十粁)、長さは千四百スタディア(二百五十粁)でヘレスポントスに連なり、これは長さが四百スタディア(七十二粁)で、幅は七スタディア(一千三百米)しかない。そしてヘレスポントスは、吾らがエーゲ海と呼んでいる広大な海に続いているのである。

86.右の距離は次のようにして計測されたものである。たいていの船は日の長い時の昼間に七万オルギア(40)(百二十六粁)、夜間は六万オルギア(百八粁)進む。

(40)両手をひろげたときの長さ;およそ百八十糎。百オルギア=一スタディア(百八十米)

これを計測基準とすれば、黒海の入口からパシス(*)(この間の距離が黒海の最長距離となる)に達するには九日八夜の航海を要する。従ってその距離は百十一万オルギア、スタディアなら一万一千百スタディア(二千粁)となる。

(*)現リオス河

シンディからテルモドン河口のテミスキュラの間は黒海の幅が最も広く、三日二夜の航海である。この距離は三十三万オルギアすなわち三千三百スタディア(六百粁)になる。

このようにして黒海、ボスポラス、ヘレスポントスの距離を測った。その結果は右に挙げたとおりである。さらにまた、黒海に比べてそれほど小さくもない湖がこれに注いでいる。これはマイオティス湖(アゾフ海)と呼ばれ、黒海の母とも呼ばれる。

87.ダリウスは黒海を眺めたあと、船橋のある場所まで船で引き返したが、この橋を建造した技師はマンドロクレスというサモス人だった。ダリウスはボスポラスも視察すると、その岸辺に白い大理石製の石碑を二本建て、一方にはアッシリア文字で、もう一方にはギリシャ文字で、従軍している民族の名をすべて刻ませた。ダリウスは支配下にある民族を残らず軍勢に加えていたのだ。その数は、水軍を除き、騎兵隊を含めると七十万で、集められた船の数は六百隻になった。

その後、これらの石碑はビザンチン人が彼らの街へ移し、片方はオルトシア・アルテミス(41)の祭壇を造るのに利用されたが、アッシリア文字の刻まれた石碑は、ビザンチン(*)にあるディオニソス神殿のかたわらに放置されていた。私の計算が正しければ、ダリウス王が橋をかけたボスポラスの地点は、ビザンチンと黒海の入ロにある聖堂の中間にあったと思われる。

(41)スパルタをはじめとするドーリス系民族が崇拝していた女神。オルトシア=大地の繁栄
(*)現イスタンブール

88.そのあと、船橋に満足したダリウスは、建造技師であるサモス人マンドロクレスにあらゆる物品を十個ずつ(42)という莫大な褒賞を与えた。マンドロクレスはそれらの褒賞を初物として供えるとともに、ボスポラスの船橋の全体像、玉座に坐しているダリウス王の姿、王の軍勢が橋を渡る有様を描かせた絵、これらを次の銘文とともにヘラ神殿(*)に奉納した。

(42)莫大なことを表現する常套句。第九巻八十一節にも同様の語句がある (*)サモスのヘライオン(第三巻六十節)

  魚多きボスポラスに橋かけ渡せしマンドロクレス、
  船橋記念を女神ヘラへ捧げまつる
  みずから栄冠を勝ち取りしダリウス王たるや
  サモス人に栄誉を与え給ひぬ
  よってここにダリウス王の意をかなえたり

89これが架橋建設者の記念物だった。一方、ダリウスはマンドロクレスに恩賞を与えた後、ヨーロッパに渡った。ただしイオニア人には船で黒海に入ってイストロス河まで行き、この河に船橋を設営して王の到着を待つよう、命じておいた。水軍を構成していたのはイオニア人、アイオリス人、ヘレスポントス人だったからである。

そこで水軍はキアネアイ岩の間を通ってイストロス河に向けて直行した。そして海辺から二日間イストロス河をさかのぼり、その河口がさまざまに分岐している地点にある狭い水路で架橋作業を開始した。

一方ダリウスは浮き船橋を渡ってボスポラスを越えてトラキア地方を進み、テアロス河の水源地に到着すると、ここで三日間宿営した。

90.土地の住民の話では、このテアロス河は他のどの河よりも治験あらたかで、とくに人や馬の疥癬に効果が高いという。その水源は三十八あり、いずれも同じ岩から発しているが、冷たい水もあり温かい水もある。

この水源に至る道は二つあり、ペリントスに近いヘライオンの街から行く道と、黒海沿岸のアポロニアから行く道があるが、どちらも二日の行程である。このテアロス河はコンタデスドス河に注ぎ、コンタデスドスはアグリアネス河に、アグリアネスはヘブロス河に合流し、ヘブロスはアイノスの街付近で海に流れ込んでいる。

91.ダリウスはこの河まで来たところで宿営したが、この河の眺めが気に入ったので次の碑銘を刻ませて石碑を建てた。

「その源から流れいづるテアロス河は、この上なく優れかつ最良の水を産す。スキタイ討伐の軍を率い、この源に来たるは、右に並ぶ者なく優れかつ高貴なるヒスタスペスの息ダリウス、ペルシャ王にして全大陸の王なり」
これが碑銘である。

92.この地を発ったダリウスは、オドリサイ人の国を流れるアルテスコスという別の河に達した。このときダリウスはある場所を指定し、全軍の兵士がそこを通過する際に、各自が石を一個おくように命じた。軍勢がこれをやり遂げたとき、そこには大きな石の山がいくつも出来上がったが、ダリウスはこれらの石の山をあとにして軍を進めた。

93.イストロス河に達する前に、ダリウスが最初に攻略したのは、霊魂の不滅を信じているゲタイ人だった。サルミデソスに住むフェニキア人や、アポロニア、メサンブリアの北に住む、いわゆるキルミアナイ人、ニプサイオイ人らは、戦わずしてダリウスに降伏したからである。ゲタイ人は頑迷に抵抗したが寸暇をおかず屈服させられた。彼らはトラキア人の中では最も勇敢かつ公正な部族だった。

94.ゲタイ人が霊魂の不滅を信ずるのは次のとおりである。彼らは死というものを信じておらず、この世を去った者はサルモキシスまたはゲベレイジスという神のもとへゆくと信じている。

そして五年目ごとに住民の間でクジ引きをし、当った者に彼らの願い事を言づけてサルモキシスのもとへ送るのである。その送り方は、指定された者たちに三本の槍を構えさせておき、別の者たちがクジに当たった男の両手両足を持って振り、槍の穂先にめがけて放りあげるのである。

男が槍に貫かれて死ねば、彼らは神に気に入られたと考える。男が死なない場合は、その使者は悪人であるとみなして責め立てる。そしてまた別の人間を送るのだが、伝言はその人間が生きている間に言づける。

雷鳴や稲妻があると、このトラキア人たちは天に向って矢を放ち、神を脅かす。彼らは自分たちの神以外に神の存在を認めないのだ。

95.ヘレスポントスや黒海の沿岸に住んでいるギリシャ人から聞いた話では、このサルモキシスというのはかつてはサモスにいた奴隷だった人間で、ムネサルコスの子ピタゴラス(*)に仕えていたという。

(*)ピタゴラスはB.C.582年~B.C.496。時代が合わない

それが解放されてから莫大な富を手にし、祖国へ帰っていった。有り体に言えばフェニキア人は貧しく知能も低いのだが、このサルモキシスはイオニアの生活様式になじんでいたので、トラキア人よりは格段に進んだ生活様式に通じていたのだった。それはギリシャ人とつきあいもし、さらにギリシャの偉大な教育者であるピタゴラスともまじわっていたからでもある。

そこでサルモキシスは大食堂を造り、ここに街の要人たちを招いてもてなし、自分や客たちは勿論のこと、子孫たちも決して死ぬことはなく、永遠に生き続ける場所そして秀逸な事物の恩恵にあずかる場所へ行くのだと、教え諭したという。

このようなことをして教えを説きつつ、一方でかれは地下室を造らせた。そしてその部屋が完成すると、かれはトラキア人の間から姿を消し、地下室に降りてこもり、ここで三年のあいだ生き続けた。

トラキア人たちは彼がいなくなったことを死んだと思って嘆き悲しんでいたところが、四年目になってトラキア人たちの前に姿を現わした。このようないきさつからトラキア人はサルモキシスの教えを信ずるようになったのである。以上がサルモキシスに関するギリシャ人の伝承である。

96.サルモキシスとその地下室に関する話について、私は信じるとも信じないとも言えない。サルモキシスはピタゴラスの時代より何年も前の人物であると思っているからである。

またサルモキシスという人物がいたにせよ、ゲタイ固有の神であるにせよ、そのような議論はこれで終えることにしよう。以上がゲタイ人の風習で、彼らはペルシャ軍に制圧されたのち、遠征軍に従軍している。

97.ダリウスとその麾下の陸上部隊がイストロス河に達し、全軍が渡河を完了すると、イオニア人に命じて船橋を解体させ、水軍兵とともに陸路を従軍させようとした。

ダリウスの命に従ってイオニア人が船橋を解体しようとしたとき、ミテレネ人部隊の司令官でエルクサンドロスの子コエス(*)が、まえもってダリウスが具申される意見を聞く耳を持っているかどうかを確かめた上で、次のように具申した。

(*)コエスはこれを契機にミテレネの支配権をダリウスから与えられたが、イオニアの反乱時に死んだ(第五巻二十七節)

「殿に申し上げまする。殿がこれから進軍なさる地は、耕作地もなければ人の住んでいる街も見当たらぬところでありますゆえ、この船橋はそのままにしておかれ、建造に携わった者たちを橋の警備に残してゆかれるのがよろしいかと存じまする。

もしわれらがスキタイ人を発見し、思いどおりに事を成し遂げた場合には、帰り路があるわけですし、またたとえ彼らを発見できないとしても、少なくとも帰り路は確保されていることになります。私はわれらがスキタイ人に敗れるなどという危惧はいささかも持ってはおりませぬ。むしろスキタイ人を見つけ出すことができないまま、彷徨っているうちに何らかの 災悪に見舞われることを恐れる者でござりまする。

このように申し上げると、みどもがあとに残ろうとして我が身の保全を目論んでいるのだという者があるかも知れませぬが、そうではありませぬ。みどもは殿にとって最善の策であると考えたことを申し上げているのみで、みども自身は殿に随行し、あとに残るつもりはござりませぬ」

ダリウスはこの献策を大いに喜び、次のように答えた。
「親愛なるレスボスの人よ、予が無事にわが邸に帰ることができた暁には、必ずやそなたの姿を見せてくれ。お主の有益な建言に対する礼を尽くそうぞ」

98.こういうとダリウスは一本の革紐に六十個の結び目を作り、イオニアの僭主たちを召し出して告げた。

「イオニア人諸君、先に予が船橋について指示したことは取り消すことにする。そこでこの革紐を手許において、次のようにしてもらいたい。予がスキタイ人征伐に出発する日から、一日ごとに結び目を一つずつほどいてくれ。結び目がすべてほどけても予が帰ってこなければ、貴殿らは船でそれぞれの国に帰ってよい。しかし方針を変更したのであるから、船橋の保全と警備に全力を尽くしてこれを守ってくれ。そうしてくれれば、予は何よりもうれしく思うぞ」
こういってダリウスは先への進軍を急いだ。

99.トラキアの地はスキタイよりも遠くまで海に突き出ている。そしてこのトラキアが湾を形成している地点でスキタイが連なり、イストロス河はその河口を東南に向けてスキタイの地に注いでいる。

さていまから、イストロス河からスキタイ本来の海岸線を示し、それを測量してみよう。古代スキタイはイストロス河に始まり、南面しつつカルキニティスの街に至っている。

この地を越えて同じ海に面している地は山が多く、黒海に突き出ている。ここにはタウロイ人が住んでいて、いわゆる峻険なケルソネソスに続いている。そしてこれは東方の海(43)に終わっている。

(43)アゾフ海

スキタイはアッティカと同じく南と東の二辺を海に囲まれている。そしてタウロイ人がスキタイの一部に住んでいて、これはアッティカ半島のトリコス地区からアナプリストス地区に至る線からさらに海に突き出ているスニオン岬に、アテネ人とは別の民族が住んでいるようなことに似ている。

これはもちろん大小の差を別にして比べているのだが、タウロイの国情はこのようなことである。アッティカ地方を航行したことのない人のために別の例をあげるなら、それはあたかもイアピギア(*)の地にイアピギア人以外の民族が、ブレンデシオンの港からタラスに至る線を区切りとして、それより先の突出部を占拠しているようなものである。私はここに二つの国の例を拳げたのみであるが、タウロイ人のような例は他にも多くある(44)。

(*)南イタリアのカラブリア半島
(44)ここでタウロイ人はケルソネソス半島に居住していることを云っているに過ぎない。これはアッティカにある南東突出部(スニオン岬)や、「イタリアの踵」すなわち現代のブリンディシとタラントを結ぶラインに似ている。ヘロドトスが言うところの唯一の違いは、タウロイ人はスキタイの一部に住んでいるが、そこにスキタイ人は住んでおらず、一方でアッティカやイタリアの半島では近隣ともに同じ民族が住んでいることである

100.タウリケを越えるとすぐにスキタイが続き、タウリケの北と東の海に沿う地域、すなわちボスポラスのキンメリアおよびマイオティス湖の西方一帯で、マイオティス湖の突き当たりに注ぐタナイス河に至る一帯にスキタイ人が住んでいる。

イストロス河から北および内陸に至る方面でスキタイの国に接しているのは、まずアガテュルソイ、次にネウロイ、アンドロパゴイ、最後にメランクライノイの民族である。

101.さてスキタイの国土は四辺形で、その二辺は海に面しているが、内陸に延びる国境も海に沿う国境も等しく、完全な方形である。

イストロス河からボリステネス河までは十日の旅程であり、ボリステネス河からマイオティス湖までも同じく十日である。また海から内陸に向い、スキタイ人の北方に住むメランクライノイ人の国までは二十日の旅程である。

一日の行程を二百スタディア(三十六粁)として計算すると、スキタイの国の横の辺は四千スタディア(七百二十粁)となり、内陸に向かう縦の辺も同じ距離となる。これがこの国の広さである。

102.さてスキタイ人は、単独で正面から戦ってはダリウス軍を撃退できないと考え、近隣の諸国に使者を送ったが、その王たちは、大軍が攻め寄せてくるという予想のもと、すでに鳩首協議を行っていたのだった。

集まった王たちの民族は、タウロイ、アガテルソイ、ネウロイ、アンドロパゴイ、メランクライノイ、ゲロノイ、ブデイノイ、サウロマタイだった。

103.これらの民族のうち、タウロイ人の風習は次のとおりである。彼らは船が難破して漂着した者や船を襲って捕らえたギリシャ人を、処女神(45)の生賛にする。そのやり方というのは、はじめに生贄のみそぎを行ない、それから生贄の頭を棍棒で打つ。

(45)土着の女神で、ギリシャ人はアルテミスとしている

一説によれば、首は棒に刺しておき、胴体は神殿のある断崖から投げ捨てるという。別の説では首については同じで、胴体は崖から投げるのではなく、地中に埋めるという。タウロイ人自身のいうところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイア(*)であるという。

(*)エウリピデス作の悲劇「タウロイ人のイピゲネイア」を参照。アルテミスに仕える巫女。占い師カルカスによって人身御供にされるところを鹿を身代わりにし、アルテミスによってタウリカに逃された。

敵の捕虜については、その首を刎ねて家へ持ち帰り、長い棒に剌して家の上に高く~たいていは煙突の上に~掲げておく。彼らのいうことには、この首が屋敷全体の守護者となるように高く掲げておくのだという。彼らは掠奪と戦によって生計を立てているのである。

104.アガテルソイ人は一等洗練された民族で、ことのほか黄金を身につけたがる。彼らは女と乱交しているが、これは互いに血縁を結ぶことで部族すべてが縁戚となり、互いに嫉妬や憎悪の念を抱かぬようにするためである。その他の風習はトラキア人のそれに似ている。

105.ネウロイ人はスキタイの慣習に従っているが、ダリウスが遠征する一世代前に蛇に襲われ、国から逃亡したことがある。この国におびただしい蛇が発生し、さらに多数の蛇が北方の荒野から襲ってきたためで、困り果てた挙げ句に祖国を捨ててブデイノイ人の国に住むようになった。

ただし彼らは魔法使いであるかのようで、スキタイ人やスキタイ在住のギリシャ人がいうには、ネウロイ人はみなが年に一度、数日だけ狼に変身し、それからまた元の姿に戻るという。私はこの話に納得していないが、それでもなお彼らはこのように話し、しかも話に嘘はないと誓っていうのである。

106.アンドロパゴイ人(*)の生活様式はこの世でもっとも残忍である。かれらは正義というものを知らず、従うべき戒律ももたない。これはスキタイ人によく似た衣服をまとって遊牧をこととし、言語は彼ら独自のものである。ここに述べる民族の中で、彼らだけが人肉を喰う習性をもっている。

(*)本巻十八節参照

107.メランクライノイ人はみな黒い衣を身につけていて、その名はここから来ている。その風習はスキタイ式である。

108.ブデイノイ人は多くの人ロを擁する大民族である。眼の色は青く、赤毛である。この国には木で建設されたゲロノスという街がある。その城壁は各辺が三十スタディア(五百四十米)だが、全て木製で高く造られている。また住民の家屋敷、神殿すべてが木造である。

神殿というのは、この地にはギリシャの神々の神殿があるからで、神像、祭壇、社すべて木製だがギリシャ式である。そして一年おきディオニソスの祭を開いて乱痴気騒ぎをしている。それはゲロノス人がギリシャ人から発しているからで、交易港を追われてブデイノイ人の国に移住したのである。その言語はスキタイ語とギリシャ語が半々である。

109.しかしブデノイ人はゲロノス人の言葉を解さず、生活様式も異なる。それというのもブデイノイ人は土着の遊牧民で、この地域一帯では唯一樅の実を常食する民族である。ゲロノス人は農耕民で穀物を食し畑も耕し、容姿も肌の色も全く異なっている。ギリシャ人はブデイノイ人もゲロノス人と呼んでいるが、これは誤りである・

彼らの国全体は、あらゆる種類の樹木が生い茂っている。その深い森の奥には巨大な湖があり、まわりは葦の繁る沼地になっている。そこではカワウソやビーバー、方形顔の別の生き物が捕獲される。これらの毛皮は、革の外套の縁に縫いつけて使用し、また畢丸は子宮病の治療に用いられる。

110.サウロマタイ人については次の言い伝えがある。ギリシャ人がアマゾン族と戦ったとき(スキタイ語ではアマゾンのことをオイオルパタといい、ギリシャ語では「男殺し」となる。スキタイ語のオイオルは男、パタは殺すという意昧である)、テルモドン河畔の合戦でギリシャ人が勝利し、生け捕りにしたアマゾンたちを三隻の船に乗せて引き上げる途中、アマゾンたちは海上で乗組員を襲撃し、彼らを船から放り投げてしまったという。

ところがアマゾンたちは船のことを知らず、舵や帆や櫂の操り方を知らなかったため、男たちを殺してからというもの、波と風に流されるままとなった。そしてついにマイオティス湖(アゾフ海)のクレムノイに漂着した。このクレムノイは自由スキタイ人(*)の領土内にある。アマゾンたちはここで陸に上がり、人の住んでいる地帯に向って進んでいった。そして馬の群に出会うとこれを捕らえ、そのあとは騎馬でスキタイ人の領土を掠奪してまわった。

(*)王族スキタイ人のこと。本巻二十節参照

111.スキタイ人には事態が飲み込めなかった。彼らの言葉も服装も民族もわからず、一体どこから来たのかと訝しんでいた。彼らはアマゾンをその見た目から同じ年頃の青年と思い、戦をしかけた。戦が終ってスキタイ人が死骸をあらためると、敵は女であることがわかったのである。

そこで彼らは評議の結果、今後は決してアマゾンを殺さないことと決め、アマゾンの人数と思われる人数にあわせて、もっとも年少の青年たちを彼女らに向かわせることに決めた。彼らは青年たちに指示して、アマゾンの近くに宿営し、彼女らのすることをすべて真似させた。ただし女たちが追ってくれば戦わずに逃げ、追うのをやめればまた戻って近くに宿営させた。スキタイ人は、女たちが子どもを生むことを望んでこのようなことを計画したのである。そして送り出された青年たちは指示通りのことを行なった。

112.アマゾンたちは、青年たちが危害を加えるつもりがないことに気づくと、彼らを好きにさせておいた。すると日ごとに双方の宿営地が近くなっていった。青年たちもアマゾンと同じく武器と馬としかもたず、狩猟と掠奪によって生活しており、これもアマゾンと同じだった。

113.正午近くなるとアマゾンたちは、散り散りになって、一人または二人で気晴らしのために互いに離れた場所で散策する。これに気づいたスキタイ人は同じことをした。そしてアマゾンがひとりで散策しているとき、ある青年がその女に近づいて行った。そして女は拒むことなく男に身を委ねた。

互いに言葉が通じないので会話はできなかったが、女は手振りで次の日も同じ場所に仲間をつれて来るように伝えた。すなわち二人だと手で示し、自分ももう一人つれてくると合図した。

その青年は宿営へ帰ると、このことを他の者たちに話した。そして翌日もう一人をつれて同じ場所へゆくと、アマゾンも二人で待っていたのである。このことをほかの青年たちが知ると、自分たちも他のアマゾンたちと懇ろになったのであった。

114.やがて彼らは宿営を一緒にして共に住むようになり、青年たちはそれぞれが最初に情を交わした女を妻にした。男たちは女の言葉を習い覚えることができなかったが、女は男たちの言葉を操れるようになった。

そして意志が疏通するようになると、男たちはアマゾンに向って云った。
「われわれには親もあり財産もある。だからこのような生活はこれまでとし、われらの国人のもとへ帰って住もうではないか。われわれはずっとお前たちを妻にし、ほかの誰も妻にはしないつもりだ」

これに女たちが答えていう。
「私たちはあなた方の国の女たちと一緒に住むことはできませぬ。私たちとお国の女たちとは習慣が違うからです。私たちは弓を引き、槍を投げ、馬に乗りますが、女のする仕事は習っていません。そしてお国の女たちは今いったようなことは何もしない代りに、幌車の中にとどまって女の仕事をこなし、狩にもゆかず、どこにも出かけることはないのです。

ですから私たちはあの人たちと仲良く暮らすことはとてもできません。もしあなた方が私たちを妻にしておきたいと思われ、しかも公明正大な男の名に恥じないことをお望みなら、ご両親のもとへゆき、財産を分けてもらっていらっしゃい。それから私たちだけで暮らすことにしましょう」
青年たちはこれに納得し、その通りにした。

115.そして青年たちが財産を分けてもらい、アマゾンのもとへ帰ってくると、女たちが彼らに告げた。

「私たちはあなた方を父親から奪った上、お国をひどく荒らしまわった者であるのに、この地に住むことを思うと、心配でもあり恐ろしくも思っています。あなた方は私たちを妻にすると決心なさったのですから、どうか私たちと一緒にこの地を去り、タナイス河の向うへ移り住むことにしましょう」

116.青年たちはこの提案にも同意した。そしてタナイス河を渡り、そこから東に三日の旅程を進み、さらにマイオティス湖から北へ三日進んだ。そして今日彼らの住んでいる地に到着すると、ここに住みついたのである。

それ以来、サウロマタイ人の女は祖先の生活様式を守っている。すなわち馬に乗り、男とともに、あるいは自分たちだけで狩猟にでかけるし、男と同じ服を着て合戦にも加わるのである。

117.サウロマタイ人の言語はスキタイ語だが、アマゾンたちが正しいスキタイ語を習得しなかったために、当初からその言葉は訛っている。結婚に関しては、敵を一人斃すまでは娘は結婚しないという風習がある。この掟を満たすことができなくて、未婚のまま老い果てて死ぬ女もいる。

118.さて先に話した諸民族の王たちが集合しているところヘスキタイからの使者たちが到来し、次のことをつぶさに語り聞かせた。すなわちペルシャ人がかの大陸をどのようにして征服したか、そしてボスポラス海峡に船橋をかけてこの大陸に渡ってきたこと、その後はトラキア人を制圧し、ほかの大陸同様、この大陸も残らず従えようとして、今はイストロス河に船橋を建設中であることなどを語った。

「貴公ら、蚊帳の外でわれらが滅ぼされるのを眺めるようなことがあってはならぬぞ。されば吾らとしては一致団結してて侵略者に立ち向かおうではないか。貴公らがこれに賛同せぬなら、われらは国から追い出されるか、あるいは留まって和議を結ぶしか道はないのだ。

貴公らの助けがなくば、われらには何が待ち受けているだろうか?しかしそうなったとしても、貴公らが楽になるわけはないぞ。ペルシャ人はわれらだけでなく貴公らの国も襲撃するためにやって来るのだから。われらを征服したあと、貴公らだけをそのままにしておくつもりはないはずだ。

そこで、われらの言葉を納得してもらうための証拠を示すことにしよう。仮にペルシャ人が、かつてわれらに隷従した(*)遺恨をはらすために、わが国のみを目指して来寇したのであれば、他の国はそのままにしておき、わが国に向って直進してくるはずだ。そして目的はスキタイ人で、他の国ではないことを万人に示すはずだ。

(*)キュアクサレスの時代にスキタイがアジアに侵攻したこと;本巻一節、第一巻百三節以下参照

ところがこの大陸に渡るや否や、あの王はその進路に当るものは全て征服しているのだ。そしていまやトラキア人のみならず吾らの隣国であるゲタイ人も従えているのだ」

119.このようなスキタイ人の言葉を聞き、諸民族の王たちは評議したが、その意見は割れた。ゲロノス人、ブデイノイ人、サウロマタイ人の王たちは同じ考えで、スキタイ人に支援を約束したが、アガテルソイ、ネウロイ、アンドロパゴイ、メランクライノイ、タウロイの王たちはスキタイ人使者に次のように返答した。

「もし貴公らの側が先にペルシャ人に悪業を働き、戦を始めたのでなければ、貴公らの今の願いはもっともなことゆえ、願いをいれて行動を共にしよう。

ところが事実は、貴公らはわれらとは無関係に彼らの国に侵入し、神の許し給うた期間にわたってペルシャを支配した。そして今度はペルシャ人が同じ神に後押しされ、貴公らに同じようなことを行なって報復しようとしているのだ。

われらは、かつて彼らに悪事を働いたことはないし、今も自分から先に手出しをするつもりはない。しかしペルシャ人がわれらの国に来寇し、悪業を働くようなことあれば、われらも黙ってはいない。そしてそれを見極めるまでは、われらは国に留まることにする。われらの考えでは、ペルシャ人が目指しているのはわれらではなく、悪業を働いた者たちなのだ」

120.このような返答を知らされたスキタイ人は、正面から敵に対抗することは避けることにした。それは支援を求めた民族を同盟軍に加えることができなかったからで、人や家畜を徐々に退却させ、通りがかった井戸や泉を埋め、草も抜き取ってゆくことに決した。そして彼らは二隊に分かれてそれを行なった。

スコパシスが治めている地区の部隊にはサウロマタイ人が加えられた。この者たちは、ペルシャ人がこの方面に向ってきたときには、マイオティス湖に沿って退きながらタナイス河を目指して真直ぐ退却するが、ペルシャ人が退けば追いかけて攻めることになっていた。彼らは王族スキタイの一地区の住民で、このような行動をとることを命ぜられていたのだった。

王領の他の二地区、二番目の宏大な領地を治めているのはイダンテルソスで、三番目はタクサキスが治めているだが、これは合流し、さらにゲロノス人とブデイノイ人も加え、一日分の行程だけペルシャ軍に先んじて退きつつ、敵と接触しないようにして決められた行動をとることにした。

すなわち彼らは最初に、同盟を拒否した国々に向って退却し、この国々も戦いに引きずり込むことを企てたのだ。これらの諸国はペルシャ戦に支援をするつもりはなくとも、こうなれば不本意ながら戦うしかないだろうと考えたのである。そのような事態になってから自国にとって返し、好機と評議一決すれば攻撃に転じるという戦法をとることにしたのだ。

121.このような作戦を決定したスキタイ人は、騎兵の精鋭を前哨隊としてダリウス軍に向けて出撃させた。そして妻子が住処としている幌車は、その全てがどこまでも北へ進むよう指示して一足先に送り出した。家畜も自分たちの食糧にする分は除き、残り全てを車とともに行かせた。

122.この住民隊を先発させたあと、スキタイの前哨部隊はイストロス河からおよそ三日の行程だけ離れた地点でペルシャ軍を発見した。そして彼らはペルシャ軍から一日の行程だけ先んじては野営し、地上に生育しているものをことごとく根絶やしにしていった。

ペルシャ軍はスキタイの騎兵隊を認めると、それを追って追撃したが、騎兵隊は絶えず退却していった。そして先に述べた一つのスキタイ地区に向かっていったので、ペルシャ軍もそれを追って東のタナイス河に向うこととなった。

騎馬隊がタナイス河を渡ると、ペルシャ軍もそれに続いて河を渡って追いかけ、遂にサウロマタイ人の国を通り抜けてブデイノイ人の国に達した。

123.ペルシャ軍がスキタイとサウロマタイの領地を横断しているあいだ、ここは荒廃地であるため、荒らすものは皆無だった。しかしブデイノイ人の国に入ると、木で囲われた街(*)に出くわしたが、ブデイノイ人はすでに立ち去っていて、街には何も残されていなかった。ペルシャ軍は街を焼き尽くした。

(*)本巻百八節参照

そののちペルシャ軍はさらにスキタイ人の跡を追って先へ進み、この国も通過して人の住んでいない荒蕪地に入り込んだ。ここはブデイノイの国の北方で、七日の行程を要する広さである。

さらにこの荒蕪地の北方にはテッサゲタイ人が住んでいる。この地からは四つの大河が流れ出し、マイオティス人の国を通っていわゆるマイオティス湖(アゾフ海)に注いでいる。河の名はリコス、オアロス、タナイス、シルギスである。

124.ダリウスは荒蕪地帯に入ると追跡を中止し、オアロス河畔に宿営した。そしてその場所に八つの大きな砦を築かせたが、その遺跡は私の時代になっても残っていた。砦はおよそ六十スタディア(十一粁)の等しい間隔で造られている。

ダリウスが砦の築造に気を取られている間に、追跡されていたスキタイ人は北を迂回してスキタイの国へ帰って行った。スキタイ人が全く消え去り、もはやペルシャ軍の視界からも見えなくなったので、ダリウスは砦を完成半ばのままに残し、かれも方向を転じて西に向って行軍した。ダリウスは、この部隊が全スキタイ人部隊だと思い、それが西に逃走したと考えたのである。

125.ダリウスが急いで行軍し、スキタイの国にたどり着くと、スキタイの二区連合部隊を見つけたので、一日の行程をおいて先に逃げる彼らの後を追った。

ダリウスがどこまでも追ってくるので、スキタイ人は計画したとおりに、同盟を拒んだ諸国に逃げ込むことにしたが、最初に逃げ込んだのはメランクライノイ人の国だった。

スキタイとペルシャの軍はこの国で暴れまわって国をかき乱した。そこからスキタイ軍はペルシャ軍をアンドロパゴイ人の国に誘導し、これも撹乱したあと、今度はネウロイ人の国に逃げ込み、この国も同じく撹乱して次にアガテルソイ人の国に向って逃げた。

しかしアガテルソイ人は、隣国の者たちがスキタイ人の侵入によって国を荒らされ逃げ出すのを見て、彼らが国に侵入する前に使者を送り、国境に足を踏み入れることを禁じ、もし侵入しようとするなら、彼らは最初にアガテルソイ人と戦うことになるだろうと通告した。

このように通告し、アガテルソイ人は侵攻軍を阻止するために国境の防備を固めた。しかしメランクライノイ、アンドロパゴイ、ネウロイの諸族は、ペルシャ軍とスキタイ軍が国内に侵入しても立ち向かうことはせず、先の脅しの言葉も忘れ、ひたすら北の荒蕪地を目指して散り散りに逃げ出した。

スキタイ人はアガテルソイ人に警告を受けたため、この国へは二度と入ろうとせず、ペルシャ軍をネウロイ人の国からスキタイ領へと誘導していった。

126.このようなことが長く続き、やむことがなかったたので、ダリウスはひとりの騎兵をスキタイ王イダンテルソスのもとへ送り、次のように伝えさせた。
「汝、奇妙な者よ。何ゆえにいつまでも逃げとおすや。他にも次のような策があるにもかかわらず。汝がわが軍勢に対抗しうるという自信があるのならば、逃げるのはやめ、踏みとどまって戦え。またもし力弱きことを認めるのならば、そのときもまた逃亡をやめ、土と水の献上品(*)を持参し、汝の主君たる予と面談しに参れ」

(*)降伏の印

127.これに答えてスキタイ王イダンテルソスはいう。
「ペルシャ人よ、吾輩のやり方を教えてやろう。吾輩は未だかつて誰に対しても恐れに駆られて逃げだしたことはない。このたびもお主から逃げているのではない。吾輩が今していることは、平時にいつもしていることと全く変わっておらぬわ。

吾輩がただちにお主と戦わぬのは何ゆえか、その理由も教えてやろう。吾らスキタイ人には占領されたり荒されたりするのを恐れるような街や畑はないゆえに、ただちにお主と争うこともないのだ。

お主がすぐにでも合戦したいのであれば、われわれには祖先の墓があるから、いざ、この墓を見つけ出し、これの破壊を試みよ。その時こそ、墓のためにわれらがお主と戦うか否かがわかるであろう。

合戦についてはこれで充分だろう。主については、吾輩が崇めているのはわが先祖ゼウスと、スキタイの女王ヘステイア(火の神)だけじゃ(*1)。お主には土と水の代わりに、お主にふさわしい品(*2)を送ってやろう。そしてお主が吾輩の主君であると大口叩いたお返しには、スキタイの流儀で返答してやろう、クソ喰らへ!(*3)」

(*1)本巻五十九節参照
(*2)本巻百三十一節参照
(*3)最後の語句、原文は「κλαίειν λέγω = klaíein légo」、英訳文では「Weep!(泣け)」、「Go weep」、「you should weep」(以上がほぼ直訳)、「woe betide you汝に災いあれ」「take my malison for itわが呪いを受けよ」などと訳されている。当該訳者は当初「泣きやがれ!」という捨て台詞をこれに当てようと思ったが、考え直して思いきり下品な罵り言葉を用いた

128.使者はこの言葉をダリウスに持ち帰ったが、スキタイの諸王は「奴隷」という言葉を聞いて激怒した。

そしてサウロマタイ人を編入したスコパシス麾下の部隊に、架橋したイストロス河を警備しているイオニア軍と交渉するように指示して送りだした。残りのスキタイ人はペルシャ軍をおびき寄せるのをやめ、彼らが食糧を探しに出るたびに攻撃することに決めた。彼らはダリウス軍の兵士が食糧を求めて出動する時を見張っておき、計画どおりに行動した。

スキタイの騎兵隊は出撃のたびに毎回ペルシャ騎兵隊を敗走させ、ペルシャ騎兵は歩兵が救援に駆けつけたところへ逃げ込んだ。スキタイ人は騎兵隊を追い立てはするが、歩兵が怖いので退却する。スキタイ軍は昼も夜もこのような攻撃を行なった。

129.ここでとても奇妙なことがあった。それはペルシャ軍には有利に、ダリウス軍を攻撃するスキタイ軍には不利に働いたことだが、それはロバの啼き声とラバの出現である。

以前話したように、スキタイはロバもラバも産しない(*)。また寒いのでスキタイ全土にはロバもラバも全くいない。そのためにロバが大声で啼き喚くと、スキタイの馬は震えあがるのである。

(*)本巻二十八節参照

スキタイ軍がペルシャ軍を攻撃している最中に、ロバの噺きが聞こえると、馬が怖れてびくついたり、耳をそば立ててじっと立ち止まってしまうことがしばしばだった。いままでそのような啼き声を聞いたこともなく、見たこともない動物だったからである。これはわずかながらペルシャ軍を有利に導いた。

130.しかしスキタイ人はペルシャ軍が混乱に陥るのを見て取ると、彼らをなるべく長期間スキタイに留めおき、必要物資の欠乏によって苦しむようにと、次のような策を取った。すなわち自分たちの家畜の一部を牧童と共に残しておき、自分たちは別の場所へ立ち去るのである。やって来たペルシャ軍はこの家畜を掠奪し、その戦果に得意になるというわけである。

131.このようなことが何度も起きたので、ダリウスはとうとう困り果ててしまった。そしてこのことを探知したスキタイの諸王は、ダリウスに使者を送り、小鳥、ネズミ、蛙、それと五本の矢を届けさせた。

ペルシャ人は、これらの贈答品を持ってきた者に、これはどういう意味かと訊ねたが、使者はこれを届けたらすぐ帰ってこいとだけ命ぜられたと返答した。そして、ペルシャ人が智にあふれているなら、贈物の意味するところをみずから解釈するべし、といつた。

132.それを聞いたペルシャ人はこれについて話し合った。ダリウスの解釈するところでは、スキタイ人は白旗を揚げて降伏し、土と水を自分に献上するつもりだということだった。彼の考えでは、鼠は地中に棲息して人と同じ穀物を喰い、蛙は水中に棲み、鳥はことのほか馬に似ている。矢は彼らの武力を放棄するという意味だというのだった。

以上がダリウスの意見だった。ところがマゴス僧を斃した七人のうちの一人であるゴブリアスの解釈は、ダリウス説とは真逆だった。ゴブリアスは贈答品の意昧を次のように解釈した。

「ペルシャ人どもよ、お前たちは鳥となって空に飛び立つか、鼠となって地中に潜るか、あるいは蛙となって湖中に跳び込むかせぬ限り、この矢に射貫かれ、決して国に帰ることはあるまいぞ」

133.ペルシャ人が贈物の意味を考えあぐねている一方、スキタイ人の最初の部隊が船橋にやって来た。この部隊はマイオティス湖岸を警備することと、イオニア人と交渉するためイストロス河に向かうよう命じられていたのだが、次のように述べた。

「イオニア人諸君、われらは諸君に自由を持ってきたことになるぞ。ただし諸君が当方のいうことを聞き入れればの話だが。ダリウスは諸君に六十日間だけ船橋を警備し、この期間内にかれが戻って来なければ帰国してよい、と命じたことをわれらは承知している。そこで、われらのいうとおりにすれば、諸君はわれらからもダリウスからも罪科を問われることはないであろう。すなわち指定された日数だけここへ留まり、そのあとは立ち去られよ」

イオニア人がそのとおりにすることを確約したので、このスキタイ人部隊は急いで引き返していった。

134.一方、ダリウスに贈物を届けたスキタイの残留部隊は、ペルシャ軍と干戈を交えるつもりで歩兵と騎兵の陣をしいた。ところがスキタイ軍の陣形が整ったとき、一匹の兎が両軍の間に飛び出し、兎を見つけたスキタイ人たちは、みながこれを追いはじめ、隊列を乱して大きな叫び声を上げた。それを耳にしたダリウスは、敵の騒ぎは何事かと訊ねた。そして彼らが兎を追いかけていることを聞かされると、話相手にしている身近な者たちにいった。

「われらはよくよく侮られたものよ。今にして予はスキタイ人の贈答品についてゴブリアスが申したことが正しいと思うようになったわ。ワシ自身がゴブリアスの考えに同意するからには、いかにして無事帰還するか、その策を周到に考えねばならぬぞ」
これに対してゴブリアスがいうには、
「殿、私には、スキタイ人の扱いは難しいことが、話に聞いただけでもわかっておりましたが、この地に来て彼らがわれらを愚弄するさまを見て、そのことがますますわかり申した。

そこで私の考えますには、日が暮れましたならば、いつものように篝火を焚き、苦難に耐える力のもっとも弱い兵たちを欺き、またロバは余さずつなぎ止めおき、スキタイ人が船橋を破壊するためにイストロス河に直行する前に、またイオニア人どもがわれらを破滅に導くような行動を取る前に、退却するのが良策かと存じます」 このようにゴブリアスは建言した。

135.ダリウスはその意見を容れ、日が暮れると、疲れきっている者、失っても問題ない者たちを陣営におき止めた。またロバも残らず繋ぎ止めておいた。

疲弊した兵とともにロバを残したのは、ロバが噺くからで、残された兵は役に立たなかったからである。ダリウスが精鋭部隊を率いてスキタイ人の攻撃に出ている間、陣地を守るのだという口実を、彼らには言い聞かせておいた。

残留部隊にはこのように命じておき、篝火を焚かせておいて、ダリウスは大急ぎでイストロス河に向かった。ロバは大勢の人の気配がなくなったことに気づくと、より一層激しく嘶いたため、スキタイ人はその声を聞いて、ペルシャ軍がそこに留まっているものと思っていた。

136.ところが夜が明けると、残された部隊はダリウスに欺されたことに気づき、両手をさしのべてスキタイ軍に投降し、事情を打ち明けた。それを聞いたスキタイ人は、二つの地区の連合部隊とサウロマタイを編入した一隊、それにブデイノイ人、ゲロノス人の隊を急いで集め、ペルシャ軍を追ってイストロス河に急行した。

ペルシャ軍は歩兵が大勢を占めているうえ、道しるべがないので道に迷っていた。一方のスキタイ軍は騎兵で近道も知っていたので、両軍は遠く離れて行軍することになった。その結果スキタイ軍はペルシャ軍よりもはるかに早く船橋に到着したのだった。ペルシャ軍がまだ到着していないことを知ると、彼らは船に乗り組んでいるイオニア人に向かって云った。

「イオニア人諸君、定められた日数は過ぎているぞ。諸君がまだここに留まつているのは当を得ていない。諸君が留まっているのは恐怖心からであろうが、今は急ぎ船橋を破壊し、神々とスキタイ人に感謝して自由になったことを喜び、立ち去るがよい。諸君の支配者であった男は、二度と再び誰に対しても軍を進めることのないように、われわれが抑えつけてやろう」

137.そこでイオニア人たちは合議した。ヘレスポントスのケルソネソスの僭主で、そこの部隊を率いていたアテネ人ミルティアデス(*)は、スキタイ人のいうとおりにしてイオニアを自由にすべしという意見だった。

(*)第六巻三十九節以下参照

しかしミレトス人ヒスティアイオスは逆の意見を言った。
「われわれが僭主でいられるのはダリウスのおかげである。ダリウスの力が失墜すれば、われわはもはや支配権、すなわちミレトスにおける吾輩しかり、他の諸国におけるすべての僭主しかり、これを維持できなくなるであろう。どの街も独裁制よりも民主制を選ぶはずであるゆえにな」

ヒスティアイオスがこのように説くと、それまではミルティアデスの肩を持っていたすべての者たちが、たちまちヒスティアイオスの意見に傾いてしまった。

138.ダリウスに重用されていた者でこれに票を入れたのは、アビドスのダフニス、ランプサコスのヒポクロス、パリオンのヘロパントス、プロコンネソスのメトロドロス、キジコスのアリスタゴラス、ビザンチンのアリストンだった。

以上がヘレスポントスの僭主たちであった。イオニアから来た者としてはキオスのストラティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、それにミルティアデス説に反対の意見を述べたミレトスのヒスティアイオスなどがいた。同席していたアイオリス人で、唯一高名な者としてはキュメのアリスタゴラスがいた。

139.この者たちはヒスティアイオスの意見に賛同し、それに加えて次の行動をとることを決めた。すなわちまず、船橋のスキタイ側で弓の射程内にある部分だけを破壊すること、それは何もしていないのに何かしているように見せかけるためと、スキタイ人が強引に船橋を渡ってイストロス河を越えようとする防ぐためだった。またスキタイ側の船橋部分を解体する際、自分たちはスキタイ人の望むことは何でもするつもりだと彼らに通知することも決めた。これが追加の策であった。そしてヒスティアイオスが一同を代表してスキタイ人に返答した。

「スキタイ人諸君、貴殿らは良い知らせを持ってきてくれた。またちょうど良いときに急かせに来てくれた。貴殿らの有益な指針のお返しに、われらもそちらに充分な貢献をするつもりだ。見ての通り、われわれはいま船橋を取り壊している最中で、これに精励するつもりだが、それもこれも自由になりたい一心なのだ。

そこでわれわれが船橋を壊しているこの機に、貴殿らは彼らを探し、見つけたならばわれらのためにも貴殿ら自身のためにも、彼らの受くべき報復を加えるがよい」

140.こうしてスキタイ人は再びイオニア人の言葉を信じ、ペルシャ軍の捜索に引き返していった。しかし彼らは敵の帰還路を見失ってしまったのだった。この失敗の原因はスキタイ人自身にあって、馬のまぐさになるはずの、この地の草を根絶やしにし、水源を埋めてしまったことにある。

このようなことをしていなかったなら、彼らがその気になれば、たやすくペルシャ軍を発見できただろう。しかし実状の通り、彼らが最善の策だと考えたことが、まさに迷走の原因となったのである。

そこでスキタイ人は、馬の飼料と水のある地帯を通って敵を捜索した。敵もまたこの地域を通って退却すると考えたのである。しかしペルシャ軍は以前に自分たちのつけた足跡をたどって行軍し、どうにかこうにか渡河地点を見出したのだった。

ところがペルシャ軍が到着したのは夜で、しかも橋が破壊されているのを見て、イオニア人が自分たちを見捨てたのではないかと、ペルシャ人は極度の不安に陥った。

141.ここにダリウスに随行しているエジプト人で、世にも大きな声を出せる者がいた。ダリウスはこの男をイストロスの河辺に立たせ、ミレトス人ヒスティアイオスを呼ばせた。エジプト人が命じられた通りにすると、ヒスティアイオスは最初の一声を聞いただけで反応し、軍を渡河させるために全ての船を送りだして船橋を修復した。

142.こうしてペルシャ軍は逃れた。そしてスキタイ人はペルシャ軍を探しまわりながら、またもこれを見逃してしまったのである。スキタイ人がイオニア人を評するところでは、彼らは自由民としては世にも下劣で卑怯な民族だが、奴隷として見ると、これほど主人のことを気にかけ、逃げる気の少ない奴隷もないという。スキタイ人はイオニア人をあざけって、このようにいうのだった。

143.ダリウスはトラキアを通ってケルソネソスのセストスに着き、ここから自身は船でアジアに渡った。ヨーロッパにはペルシャ人メガバゾスを司令官として残しておいた。このメガバゾスは、かつてダリウスがペルシャ人のいるところで、次のように語って褒めそやしたことがあった。

それはダリウスがザクロの実を食べようとして最初の実を割いたとき、弟のアルタバノスが訊ねて云ったときのことだった。ザクロの実の中にあるタネの数ほどあればよいと兄上が思うものは何かと。するとダリウスは、ギリシャ全土を征服することより、そのタネの数ほどメガバゾスがいてくれた方がよい、と答えたのだ。

ダリウスは大勢のペルシャ人を前にしてこのようにいい、メガバゾスを讃えたのだが、この時は自分の軍勢のうち八万の司令官としてかれをヨーロッパに残したのである。

144.このメガバゾスは、次のような言葉でヘレスポントス人たちに永遠の記憶を残した人物である。

それはかれがビザンチン(*)ヘ行ったときのことだった。この国はビザンチン人がやって来る十七年前にカルケドン人が住んでいたと聞いていうには、当時のカルケドン人は眼が見えていなかったに違いない。盲目でなかったなら、劣悪な地を選んで街を造るはずがない、もっと良い場所を選んだはずだ、といったのである。

(*)現イスタンブール

そしてこのメガバゾスが総指揮官としてこの地に残され、まだペルシャに下っていないヘスポントス人を討伐したのだった。

145.かれがこのように活動している頃、時を同じくして、もう一つの大遠征がリビアに向けて行なわれた。その理由は、これから話すことの後に述べることにしよう。

ところでアルゴー船に乗り組んだ勇士たち(*1)の子孫は、ブラウロン(*2)からアテネの女たちを誘拐したペラスゴイ人によってレムノス島を追われ、海路スパルタに向った。そしてタウゲスト山中(*3)に宿営して火を焚いていた。

(*1)ギリシャ神話で、イアソンがコルキスの黄金の羊の毛皮を求める冒険のために建造された船。これには五十人の勇士が乗り組んだ。ヘラクレスもその一人。詳しくはリンク先を参照
(*2)第六巻百三十八節参照
(*3)スパルタ西方で南北に走る山脈

これを見たスパルタ人は使者を送り、彼らは何者でどこから来たのかを訊ねた。すると彼らは使者に答えて、自分たちはミニアイ人で(*)、アルゴー船に乗り組んだ英雄たちの子孫だといい、またこの英雄たちはレムノス島に上陸し、わが民族の祖先となったのだ、と返答した。

(*)テッサリアからボイオティアにかけて居住していた種族。ギリシャ民族の中で最も古い種族に数えられる

ミニアイ人の血筋の話を聞いたスパルタ人は二度目の使者を送り、ラコニアの地にやって来た理由と、火を焚いている理由を訊ねた。それに答える彼らの言葉は、ペラスゴイ人から追放されたために父祖の国に行くのが一等正しいと思い、やって来たのだといい、スパルタ人の国から権利や土地を分けてもらい、父祖の人々と共に住みたいのだといった。

スパルタ人は彼らの望むとおりの条件で、喜んでミニアイ人(46)を受け入れることとした。スパルタ人がこれを受け入れた主な理由は、ティンダレオスの子ら(47)がアルゴー船に乗り組んでいたことにあった。彼らはミニアイ人を受け入れて土地を分配してやり、また彼らを部族に分け入れた。ミニアイ人たちは間をおかずして結婚し、自分たちがレムノスから連れてきた女たちは他の者たちのもとへ嫁がせた。

(46)アルゴー船隊員の子孫で、テッサリアのパガサエアン湾(Pagasaean)付近に住んでいたミニアイ人
(47)カストル(ティンダレオスの子)とポリデウケス(ゼウスの子)

146.それから間もなくミニアイ人は傲慢になり、王を決めるにも同等の権利を要求したり、ほかにも不遜な行動を取るようになった。

そこでスパルタ人は彼らを亡き者にすることにし、捕らえて投獄した。スパルタでは死刑の執行は夜に行ない、決して昼間には行なわないのだった。

さて投獄した者たちを処刑しようとしているとき、ミニアイ人の妻たち、これらはスパルタ生まれで、名士の娘たちだったが、この者たちが獄舎に入り、夫と話をさせてもらいたいと頼んできた。それが女たちのはかりごとだとは露知らず、スパルタ人はそれを許した。

そして妻たちは、獄舎に入るや自分の上着を夫に与え、みずからは夫の衣服をまとったのである。かくてミニアイ人たちは女の衣服を身につけて女の振りをして獄舎から抜け出した。こうして逃れた彼らは再びタウゲスト山中に立て籠もった。

147.同じ頃、テラスという者が、これはポリネイケスからテルサンドロス、ティサメノス、アウテシオンの系譜に連なる者だったが、この者が植民地を開拓する者たちを率いてスパルタを出立しようとしていた。

このテラスはカドモス家の一員で、アリストデモスの二人の息子、エウリステネスとプロクレスの母方の叔父だった。このふたりが幼少の間は、テラスが後見人としてスパルタの王権を握っていたのである。

しかし甥たちが成長して王位に就くと、最高権力の味を知ったテラスは、他人の支配下に甘んずることは耐えがたいとして、自分はもはやスパルタに留まるつもりはなく、同族のもとへ船でゆくと云った。

現在テラ(*)と呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたのだが、当時はポイキレスの子メンブリアロスの子孫であるフェニキア人が住んでいた。すなわちアゲノルの子カドモスは、妹のエウロペを探し求めて、今はテラと呼ばれている島に上陸したが、上陸してこの地が気に入ったものか、あるいはほかに理由があったのか、フェニキア人をこの島に残して行った。これには自分と同じ一族のメンブリアロスも含まれていたのだ。

(*)現シーラ島またはサントリーニ島。キクラデス諸島中、最も南に位置する

この者たちが当時はカリステと呼ばれていたこの島に八代にわたって住んでいたが、テラスがスパルタからやって来たのはその頃だった。

148.テラスは各部族から選んだ人々を従えて出発しようとしていた。彼の目的はカリステの住民と共に住むことであり、彼らを追い出すのではなく、親しい同族としてつきあうつもりだった。

一方獄舎から逃亡したミニアイ人がタウゲスト山中に立て籠もり、スパルタ人が彼らを討伐しようとしているとき、テラスは彼らを殺さぬよう命乞いをし、自分が彼らを国外に連れ出すことを約束した。

スパルタ人がこれを受け入れたので、彼は三隻の三十櫂船を連ねてメンブリアロスの一族に合流すべく船出した。ただし連れて行ったのはミニアイ人すべてではなく、ごく少人数だった。

というのは、大多数のミニアイ人はパロレアタイ人、カウコネス人の住む地に向かって行き、その地の住人を国から追い出したあと、六つの集団に分かれ、その地にレプレオン、マキストス、プリクサイ、ピルゴス、エピオン、ヌディオンの都市を建設した(48)。しかしこれらの街の大部分は、私の時代になってエリス人が攻略して破壊してしまった。そしてカリステ島は植民したテラスの名にちなみ、テラと名づけられた。

(48)これら六都市はペロポネソス半島西方のトリフィリア地区で、エリスからメッサニアの間にあった。

149.ところがテラスの息子は父とともに船出することを拒んだので、父は、息子を後に残すのは狼の群の中に羊を一頭残しておくようなものだといった。このあと、この青年にはオイオリコス(49)という渾名がつけられたのだが、どういう訳か、この名がかれの通り名となってしまった。そしてオイオリコスからアイゲウスが生れ、スパルタの有力な一門であるアイゲイダイは、このアイゲウスから発している。

(49)文字通り、羊-狼

ただ、この一族の男たちのもとでは子供が幼くして死んでしまうので、ある託宣の指示に従ってライオスとオイデプスの怨霊を鎮めるための社を建立した(50)。そしてその後は子供が早死をしなくなった。ところがテラにおいても、アイゲイダイの子孫の間で同じようなことが起きている。

(50)テーベ王ライオスとその妻イオカスタの子オイデプスは幼くして遠国に連れて行かれ、棄てられた。成年になって帰国すると父とは知らずこれを殺害し、母と結婚した。その後に事情を知ったが、手遅れだった。この物語を最初に書いたのはホメロスだったが、三大悲劇詩人のひとりであるソフォクレスの「オイデプス王」(B.C.427)がつとに有名。またこれをもと に十九世紀末、ジークムント・フロイト(1856~1939)がエディプス・コンプレックスという精神分析学上の概念を提示していること、言わずもがな。

150.ここまではスパルタ人もテラ人も伝えていることは同じであるが、これ以後のことはテラ人のみの伝承によっている。

テラスの末裔で、テラ島の王アイサニオスの子グリンノスは、自分の街から牛百頭の生贄を持参してデルフォイヘ参じたことがあった。これには市民も随行しており、その中にはミニアイ族エウペモスの子孫でポリムネストスの子バットスも混っていた。

テラの王グリンノスが他のことについて神託を伺うと、巫女はリビアに街を建設せよと託宣を下した。グリンノスが答えていうに、
「神よ、私はすでに年老いて、動き回るのも辛いのでございます。どうかここの若者たちに、それをお命じ下されませ」
こういいながら、かれはバットスを指さした。

その時はそれ以上の託宣は下されなかったので、テラ人たちは帰国し、神託のことを無視していた。というのも彼らはリビアがどこにあるのかも知らず、またどことも知れぬ地へ植民を送ることを怖れもしたからである。

151.ところがそれから七年間というものテラには雨が降らなかったので、この島の樹木は一本を除いてすべて枯れてしまった。テラ人が神託を伺うと、巫女はまたもリビアへの植民を返答した。

テラ人は、この災難を克服する手立てをもっていなかったので、クレタ島に使いを送り、クレタ人あるいはクレタにいる旅人で、かつてリビアヘいった人間がないか探させた。使いの者たちは島中を巡り、イタノスの街までやって来た。そしてこの街で、ムラサキ貝を採っているコロビオスという名の漁師に出会った。この男は、風に流されてリビアヘ行ったことがあり、そこはプラテアという島(51)だったと語った。

(51)キュレネ東方のボムバ湾にあるボムバ島

テラ人はこの男を雇ってテラヘ連れて帰り、手始めに数人が下見としてテラを出航していった。コロビオスはテラ人たちを件のプラテア島へ案内したが、テラ人は数ヵ月分の食糧とともにコロビオスをこの島に残し、自分たちは島のことを報告するために、大急ぎでテラへ帰っていった。

152.ところがテラ人は約束の日時を過ぎても戻ってこなかったので、コロビオスの食糧は尽きてしまった。そのようなときに、コライオスという男が船長を勤めるサモスの船が、エジプトへ向けて航行の途中、漂流してこのプラテア島にやって来たのである。サモス人たちはコロビオスからすっかり事情を聞くと、一年分の食糧を残してやった。

そのサモス人はこの島から出航し、東風に流されて航路をはずれながら、ともかくエジプト目指して航行を続けた。しかし凰は衰えることを知らず、ついに彼らはヘラタクスの柱を通過し、幸運にもタルテッソス(*)にたどり着いた。

(*)現スペイン・イベリア半島のグアダルキビール河(Guadalquivir)下流域の谷にあるカディス。ヘロドトスはガデイラと呼んでいる。第一巻百六十三節参照

その当時、ここはまだ通商地としては未開拓だったので(52)、彼らが帰国したとき、その積荷から得た収益は、われわれが確実に知っている限りにおいて、いかなるギリシャ人ももたらしたことのないほど莫大な額に上った。ただしこれはアイギナ人ラオダマスの子ソストラトスのそれには及ぶものではなかったが。ソストラトスと肩を並べうる者など一人としていないのである。

(52)これはギリシャ人がまだ到来していなかったからである。

サモス人は利益の一割に当る黄金六タラントン(百五十六~二百二十二瓩)を費やして、アルゴリスの混酒杯に似せた青銅の瓶を造らせた。アルゴリスの混酒杯というのは、縁のまわりに怪鳥グリフィスの首が並んで突き出ている杯である。彼らはこれをヘラ神殿に奉納した。そしてそれを三体の巨大な膝をついた青銅像で支えたが、この像はそれぞれが七ペキュス(三米)の高さがあった。

サモス人オライオスのこの行ないがきっかけとなって、キュレネ人とテラ人はサモス人との親密な関係を結ぶことになったのである。

153.一方、テラ人はコロビオスを島に残してテラヘ帰り、リビア沿岸の島に植民地を建設したことを報告した。そこでテラ人は七つの地区すべてから、兄弟二人のうちクジに当った方の一人を選んで移民として送り出すこととし、さらにバットスを彼らの王として指揮をとらせることにした。こうして彼らは二隻の五十櫂船に乗り込ませ、プラテア島に送ったのである。

154.右の話はテラ人の伝承だが、これまでの話はテラ人とキュレネ人の言い伝えは一致している。ただし、キュレネ人が伝えているバットスの話は、テラ人の言い伝えと全く一致しない。キュレネ人の伝えるところはこうである。

クレタ島にオアクソスという街があり、この街にエテアルコスという王がいた。彼は妻が亡くなっていて、プロニメという娘がいたが、後妻を迎えた。後添いにきた女は、型どおりの継母(ままはは)としての態度をプロニメに取った。すなわちこの女はあらゆる悪だくみを尽くして娘を虐待し、とうとう娘は浮気性だとまで言いふらし、夫にもそれを信じ込ませてしまった。そのようなことで、エテアルコスは妻にそそのかされて娘に極悪非道な仕打ちを企らんだのだった。

それはこういうことだ。オアクソスにテラからやって来た商人でテミソンという男がいた。エテアルコスはこの男を客人、盟友として扱い、自分の願いごとは何でもかなえるという誓いを立てさせた。そのあと、エテアルコスは自分の娘を連れてきて彼に引き渡し、娘を連れ去って海へ投げ捨ててくれと云ったのだ。

テミソンはペテンにかけられて誓いを立てたことを大いに怒り、エテアルコスと結んだ盟友の縁を切った。それから娘を連れて出航して大海の中へ出、エテアルコスに立てた誓いを破らないように、娘を縛って海に沈めたが、ふたたび引き上げ、それからテラヘ帰っていった。

155.その後、テラの名士ポリムネストスが娘を引き取り、妾にした。やがてこの男にどもりの男子が生れ、バットス(53)という名をつけた。このようにテラ人もキュレネ人も伝えているのだが、それは別の名前だったのではないかと私は考えている。

(53)これは「どもり」という意味

かれはリビアヘ行ってからバットスと名を変えたのであって、デルフォイで自分に下された神託と、自分が得た名誉ある地位にもとづいて新しい名を名乗ったのである。というのも、リビアでは王のことを「バットス」というからで、私の考えでは、デルフォイの巫女は、かれがリビアの王になるとわかっていたので、託宣を下すとき、彼の名をリピア語で呼んだのだろう。

それはバットスが成人してから、自分の発音について神託を求めてデルフォイヘ行ったことがあった。そのとき巫女は次のような託宣を下したのである。
  バットスよ、汝は己れの声音を問いに来たれども、
  主たるポイボス・アポロンは、羊育むリビアの地に
  街を築かせるべく、汝を遣わされよう
これはあたかも巫女がギリシャ語の「王」を「バシレウス」と云い、
「汝は己れの声音を問うために来たれども」と云ったのと同じことである。

これに答えてバットスがいうには、
「主よ、私は自分の発音について伺うためにここへ参ったのでありますが、リビアへ植民せよと、できそうにもない他のことを御身はおっしゃいます。しかしどんな財力や兵力をもってそれを行なえと仰せでありましょうや?」
バットスはこのように訴えたが、主は別の託宣を下すことはなく、巫女は前と同じ託宣を繰り返した。するとバットスは巫女がまだ託宜を語っている最中に立ち去り、テラヘ帰ってしまったのである。

156.しかしその後、バットスその人にも他のテラ人にも災難が襲いかかった。彼らはその原因がわからないのでデルフォイヘ使者を送り、直面している災難について神託を求めた。

巫女の宣告は、バットスがリビアのキュレネに植民するのを手助けすれば、事態は好転するであろうということだった。そこでテラ人は二隻の五十櫂船とともにバットスを送り出した。しかしこれらの者はリビアに向かったものの行くあてが見つからず、暫くしてテラヘ戻って行った。

一行が本国に帰り着くと、テラ人は石つぶてを投げて彼らの上陸を邪魔立てし、リビアヘ引き返せと言いつのった。そこで一行は仕方なく船を返し、前に述べたようにプラテアというリビア沿岸の島に植民したのである。この島は現在のキュレネの街と同じ大きさだといわれている。

157.彼らはこの島に二年間住んだが、よい運がめぐってくることもなかったので、一人だけそこに残し、あとの者は余さずデルフォイに向って出航した。そして神託所にゆき、リビアに植民したが一向に事態は好転しないといって神託を求めた。

そこで巫女は次のような託宣を返した。
  汝ら、羊育むリビアに行きもせで
  訪れしことあるわれよりも
  リビアをよく知ると言うならば
  汝らの知恵とは如何なるものであるか
これを聞いてバットスたちはふたたび船を返して行った。リビアに植民しない限り、神は彼らに何もさせないことがわかったからである。

そして島に着くと、残していた男を船に乗せ、島の対岸にあるリビア本土のアジリスという地に植民した。この地は美しい森で両側を囲まれ、片側には河が流れている。

158.彼らはこの地に六年間住んだが、七年目になって、もっとよい土地に案内するから立ち退いてくれとリビア人に説き伏せられてしまった。

リビア人は、アジリスから彼らを連れだし、西に向った。そして昼間の時間を計っておき、その国で一等美しいイラサという場所を通るときは夜になるようにした。それはギリシャ人にその場所を見せないためだった。

結局リビア人が連れて行ったのは、いわゆるアポロンの泉と称される地で、
「さあ、ギリシャの方々よ、貴殿らが住むにはここがよいだろう。この地には天に穴があいているからな(54)」
と云った。

(54)雨が大量に降るという意味

159.さて開拓者バットスが四十年間統治し、その子アルケシラオスが十六年間統治していた間、キュレネの人ロは植民に出発した当時のままだった。

しかし幸運児と呼ばれた三代目のバットスが統治しているとき、デルフォイの巫女が全ギリシャ人に託宣を下し、海を渡ってキュレネ人とともにリビアに住むべしと、宣下したのである。それは、キュレネ人が土地を分け与えることを約してギリシャ人を招いたからだった。
これがその神託だった。
  土の配分終わりしのちに
  いとしきリビアの地に遅れゆく者
  必ずや悔ゆるならん

そして大勢の人間がキュレネに集まり、リビアに隣り合う地域から多くの土地を削り取った。そこで、領土を奪われ、キュレネ人に非道な仕打ちを受けたリビア人とその王アディクランは、エジプトに使者を送り、自分たちの身柄をエジプト王アプリエスに委ねたのである。

アプリエスはエジプト兵の大軍を集めてキュレネに送った。しかしキュレネ人はイラサとテステの泉まで出撃し、ここでエジプト軍と交戦し、これを破った。

エジプト人はギリシャ人と戦った経験がなく、敵を見下していたので、壊滅的な敗北をこうむり、エジプトに帰還したのはごくわずかだった。この敗北と、その責任はアプリエスにあるとしたエジプト人がアプリエスに謀叛を起こしたのである。(55)

(55)B.C.570年。第二巻百六十一節

160.このバットスにはアルケシラオスという息子がいた。この息子はその治世のはじめ頃に弟たちと仲違いし、弟たちは兄のもとからリビアの別の地に去り、ここに自分たちの街を建設した。これが当時も今もバルケと呼ばれている街である。そして街を建設すると同時にリビア人をキュレネから離反させるように仕向けた。

アルケシラオスは、弟たちを受け入れたリビア人(このリビア人たちも離反したのだが)を討伐すべく出陣した。そして彼を怖れたリビア人は、東部リビアに逃走した。

アルケシラオスは彼らを追ってリビアのレウコンに達したが、このときリビア人は、かれを攻撃する好機ととらえた。リビア人は交戦して圧倒的な勝利でキュレネ軍を破り、これによって七千のキュレネ兵が戦死した。

この敗戦ののちアルケシラオスは病をえたが、毒薬を飲まされて弱ってきたところを弟のレアルコスに絞殺された(*)。その後レアルコスはアルケシラオスの妻エリクソによって謀殺されている。

(*)この部分、原文では簡潔すぎてわかりにくいので、「薬」を「毒薬」とした。詳しくはプルターク;「婦徳について de mulierum virtutibus」二十五話参照

161.アルケシラオスの王位は、その子バットスが引き継いだが、かれは脚が不自由で歩行が困難だった。キュレネ人は自分たちに降りかかった不運に悩み、デルフォイに使者を送り、どのような政治体制をとれば最もよい生活ができるようになるかを訊ねた。

巫女は、アルカディアのマンティネアから調停者を連れてくるがよいと返答した。そこでキュレネ人が願い出ると、マンティネア人は街でもっとも高い名声をえているデモナクスという人物をキュレネに差し出した。

この男はキュレネにやって来ると実情を巨細に調べ、キュレネ人を三つの部族に分けた(56)。すなわちテラ人とリビアの従属民を第一区とし、ペロポネソス人とクレタ人とで第二区を、島嶼の全住民を第三区としたのである。さらにデモナクスはバットス王のために特定の領地と祭司職のみを残し、いままで王が保有していた他のすべてを国民の共有とした。

(56)ドーリス系都市国家の慣習的な行政原則に従った

162.バットスの存命中はこの体制が保たれたが、その子アルケシラオスの代になると、王の権利をめぐって激しい争いが起きた。

脚の不自由なバットスとペレティメの息子アルケシラオスが、デモナクスの決めた制度に従うことを良しとせず、父祖の保有していた特権を返すように要求したのである。そうしてかれは叛乱を起こしたのだが、失敗してサモスヘ逃れ、かれの母はキプロス島のサラミスヘ逃げた。

その当時サラミスを支配していたのはエウェルトンで、デルフォイにあるコリントス人の宝蔵に収蔵されている、目もあやな香炉を奉納したのが、この人である。ペレティメはかれの所へやって来ると、自分と息子がキュレネに戻るための軍勢を与えてほしいと頼んだ。

エウェルトンは、軍勢以外のものなら何でも与えた。ところがペレティメは、贈り物を受け取るたびに、これも立派な物ですが、頼んでいる軍勢を頂く方が一層よろしいのにというのだった。

何を受け取ってもペレティメはこういうので、エウェトンはついに黄金の紡ぎ車と糸巻棒それに加えて羊毛を彼女に届けた。そしてペレティメが以前と同じ言葉を発したので、エウェルトンは、女に贈る物は軍勢ではなく、こういうものだと云った。

163.そうこうしている間、アルケシラオスはサモスで新しい土地を分配することを条件にして兵を集めていた。やがて大軍が集まると、自分の帰国について神託を伺うためにデルフォイヘ使者を送った。

これに対して巫女は次のような託宣を下した。
「四人のバットスと四人のアルケシラオス、あわせて八代の間、ロクシアス(アポロン)は汝らにキュレネの王たることを許されるぞ。これを越えて王たることを試みることなかれと神は仰せじゃ。そして汝、帰国ののちは平穏に暮らすべし。窯に壺の満ちたるを見たならば、壷は焼かず、風に乗せて送り出すべし。もし窯を焼くことあらば、潮の満ち引きする場所に立ち入るべからず。さもなくば、かの麗しき牡牛とともに汝の命なかるべし」
これが、巫女によってアルケシラオスに下された託宣だった

164.サモスから軍を率いてキュレネへ戻り、街を掌握したアルケシラオスは、託宣のことを忘れ、自分を追放した敵方を処罰しようとした。

敵対勢力の一部はともに国外に逃れたが、そのほかはアルケシラオスに捕らえられ、死刑を宣告されてキプロスヘ送られた。しかしこの者たちは、途中で風に流されてクニドスに漂着し、クニドス人に助けられてテラヘ送り届けられた。他のキュレネ人は、アグロマコスという男が所有している大きな塔に逃げ込んだが、アルケシラオスはその周りに薪を積み上げさせ、火をつけて焼いてしまった。

しかしこれは、先にデルフォイの神託で窯の中に瓶を見いだしたなら、それを焼いてはならぬということだと後から気づいたアルケシラオスは、予言された死を怖れるあまり、また潮の満ち引きするところというのはキュレネだと解釈し、あえてキュレネの街へは立ち入らぬようにした。

さてアルケシラオスの妻は血縁の女で、バルケ王アラゼイルの娘だった。かれはこのアラゼイルのもとへ走ったのだが、バルケ人とキュレネからの亡命者たちが市場を歩いているかれを見つけるや、これを殺害し、さらにその義父アラゼイルも殺してしまった。こうしてアルケシラオスは、意識するにせよ無意識にせよ、神託の云うところを誤解して、わが身の運命を全うしたのであった。

165.アルケシラオスがバルケに走って自滅したあと、母のペレティメはキュレネにおいて息子の特権を握り続け、息子の政務全般をこなし、評議会にも出席していた。

しかし息子がバルケで死んだことを知ると、ペレティメはエジプトヘ逃れた。かつてアルケシラオスがキユロスの子カンビユセスのために労を尽くしたことを、ペレティメは頼みとしていたのだ。というのも、キュレネをカンビュセスに譲り、貢税を納めることを承諾したのがアルケシラオスだったからである(*)。

(*)第三巻十三節参照

エジプトに着いたペレティメは、嘆願者の礼を尽くしてアリアンデスの前にひざまづき、息子はペルシャと手を結んだために殺されたのだという口実をあげて、報復のための援助を懇願した。

166.このアリアンデスは、その当時カンビュセスによってエジプト総督に任じられていたが、後にダリウスに並び立とうとして死に至った人物である。かれは、ダリウスがいまだかつてどの王もなし得なかったようなことを自分の記念として残したいと考えていることを知り、また目にもしたことで、自分も同じことをしようとして、ついにその報いを受けたのである。

ダリウスは黄金を極度に精錬した純粋な金で貨幣を鋳造させたのだが(57)、アリアンデスはエジプト統治中にこれと同じ様な銀貨を鋳造させた。今でもアリアンデス銀貨に匹敵するほど純粋な銀貨はない。ところがダリウスは、アリアンデスがこのようなことをしているの知ると、このこととは別に、叛逆者の汚名を着せてかれを殺害したのであった。

(57)これがいわゆるダリウス金貨で、不純物は3%といわれている

167.その時のアリアンデスはペレティメを憐れみ、エジプトの陸軍と海軍のすべてを彼女に与えた。陸軍の司令官にはマラピオイ人(*)のアマシスを、海軍の司令官にはパサルガダイ人(*)のバドレスを任命した。

(*)第一巻百二十五節

しかし軍勢を派遣する前に、アリアンデスはバルケに使者を送り、アルケシラオスを殺害したのは誰かと訊ねさせた。するとバルケ人たちは、街の全員がそれに加担したのだと返答した。アルケシラオスがバルケ市民に数々の悪行を働いたためだというのだった。これを聞いたアリアンデスは、ペレティメとともに軍勢を送り出した。

ただ、これは名目上のことで、私の考えでは、派兵はリビアを征服することにあったのだ。というのはリビア人の種族は数が多く、しかもさまざまだったが、ペルシャ王の支配に服しているのは少数で、大部分はダリウスなど一顧だにしていなかったからである。

168.さてリビア人の住んでいる地域について話すことにしよう。エジプトにもっとも近いところに住んでいるのはアディルマキダイ人で、その風習はほとんどがエシプト風だが、衣服は他のリビア人と同じである。ここの女たちは両脚に青銅製の足輪をはめていて、髪は長い。そして身体についたシラミを捕えると、誰しも咬みつぶしてから投げ捨てる。

リビア人のなかでこの種族だけに限られた風習としては、嫁にゆこうとしている生娘を王に見せるということがある。そして王が気に人った娘は処女を失うのである。このアディルマキダイの領地はエジプト国境からプリノスという港までである。

169.この次がギリガマイ人で、その領地は西方のアフロディシアス島までである。この沿岸にはキュレネ人が植民したプラテア島があり、陸地にはメネラオス港とキュレネ人の住むアジリスがある。

シルピオン草(*)の産地はこの地域からはじまり、プラテア島からシルティス湾の口に至る地域に生育している。この種族の風習は他の種族と同じである。

(*)薬用、調味料にされた野生の植物。キュレネの特産品として珍重され、同量の銀と交換されたという。乱獲によって絶滅したため、キュレネも衰退した

170ギリガマイ人の西隣にいるのはアスビスタイ人で、これはキュレネの奥地に住んでいて、その領土は海には達していない。海辺はキュレネ人の領地になっているからだ。四頭立戦車を操る技量については、この種族の右に出るリビア人はいない。彼らはキュレネ人の大方の風習を熱心に真似ている。

171.アスビスタイの西に続くのはアウスキサイ人である。彼らはバルケの奥地からエウエスペリデスあたりの海辺にかけて住んでいる。アウスキサイの領地の中ほどにはバカレスという少人数の種族が住んでいて、その領地はバルケ領内のタウケイラという街に近い海までである。その風習はキュレネ人の奥地に住むリビア人と同じである。

172.アウスキサイ人の西側には大きな人口を抱えるナサモネス人が続く。この住人は夏になると家畜を海岸に残し、ナツメヤシの実を採取するため、多数の巨大なナツメヤシが生育しているアウギラという地へ上ってゆく。またイナゴを捕まえては日に干し、それを粉にして乳にふりかけて飲んでいる。

この部族は何人も妻を持つ風習がある。そしてマッサゲタイ人(*)と同じく男はみさかいなく女と交わる。住まいの前に旗を立てておいて交わるのである。ナサモネスの男が結婚するときには、その初夜に花嫁がすべての客と順に交わるという風習がある。客は花嫁と交わったあと、自分の家からもってきた贈り物を花嫁に与えるのだ。

(*)第一巻二百十六節参照

誓いや占いについては次のようなやり方をしている。誓いを立てるときには、この国で人望、人格ともに優れていたと評される人物の墓に手をおき、それにかけて誓うのである。占うときは先祖の墓へゆき、祈りを捧げてから墓の上で眠る。そして寝ている間に見た夢をもって託宣としている。

盟約を結ぶときには、互いに相手の手から飲むことをする。液体がないときには地面の砂埃を手にとってそれを舐める。

173.ナサモネスに国境を接しているのはプシロイ人だが、この部族は次のようにして絶滅してしまった。南風が吹きやまず、それによって貯水池が干上がり、シルティス一帯の水がなくなってしまった。そこで彼らは合議して南風の討伐にでかけた(ここはリビア人の伝承のままを話している)。そして砂漠地帯に入ると、強い南風が吹いて彼らを埋めてしまったのである。こうして彼らは絶滅してしまったのだが、そのあとナサモネス族がこの地を保有している。

174.ここからさらに南の奥地で、野獣の棲息する地にはガラマンテス人が住んでいる。この部族は人との接触を避け、誰とも交際せず、また武器は一切持たず、身を守る術(すべ)も知らない。

175.この部族が、ナサモネス族より奥の住人である。沿岸地域でその西に接しているのはマカイ人で、この部族は頭頂を残してまわりをすっかり剃り落とし、頭頂部の髪は伸びるにまかせている。戦場へはダチョウの革で造った盾を持って行く。

この地には、いわゆるカリテスの丘から流れ出ているキニプス河が通過して海に注いでいる。これまで話に出てきたリビアの地には全く樹木がないが、カリテスの丘には樹木が鬱蒼と生い茂っている。海からこの丘までは二百スタディア(三十六粁)離れている。

176.マカイ人の隣にはギンダネス人が住んでいる。この部族の女は誰しも多数の革の足輪をはめていて、その理由は、云われているところでは、男と枕を交わすたびに足輪を一つはめるというのである。一等多くの足輪をはめている女が、それだけ多くの男に愛されたというので、最高の女として評されるというのだ。

177.ギンダネスの国から海に突き出た岬があり、ここにはロトパゴイ人が住んでいる。この部族はロートスの実(58)のみを食糧としている。ロートスの実は乳香樹の実ほどの大きさで、ナツメヤシと同じくらいに甘い。ロトパゴイ人はこの実を食用にするだけでなく酒も造る。

(58)クロウメモドキの実(Rhamnus Lotus)で、アフリカの一部に生育する。食用にできると云われているがホメロスの云う「蜂蜜ほどの甘さ」ではない

178.ロトパゴイの海岸に沿って続くのはマクリエス人で、彼らもロートスを食用にしているが、ロトパゴイ人ほど多くは食べない。彼らの領土はトリトン(59)という大河に達していて、この河はトリトニスという大きな湖に注いでいる。この湖にはプラという島があり、スパルタ人がこの島に植民せよという神託を受けたと言われている。

(59)トリトン伝説は、アルゴナウタイ(アルゴー船で航海をした英雄たち)がボイオティアのトリトン河を発見したことから生まれたと思われる。それと同時にアテナをさす土着の女神(本巻百八十節)ともされていて、その通称は「Τριτογένεια;Tritogéneia;トリトゲニア」とされている

179.また次のようなイアソンの伝説もある。ペリオン山のふもとでアルゴー船ができあがると、この男は神に捧げる百頭の牡牛とともに青銅の鼎(かなえ)を船に積み込み、デルフォイをめざしてペロポネソスをまわって進んで行った。

ところが船がマレア岬にさしかかったとき、北風に捕らえられてリビアまで流された。そして陸地を見ないうちにトリトニス湖の浅瀬に乗りあげてしまった。そこから抜け出す手立てを見いだせないでいるところへ、伝説ではこうなっているのだが、トリトンが現われ、鼎をくれたら水路を教え無事に送りだしてやるといったのだ。

イアソンがその通りにしたので、トリトンは浅瀬から抜け出す水路を教え、鼎を自分の社に据えつけた。そして最初にその鼎によって託宜を下し、イアソンの一行にこれから起ることを残らず告げた。すなわちアルゴー船に乗り込んだ者の子孫のうち誰かが、この鼎を持ち去るようなことがあれば、トリトニス湖の岸辺に百のギリシャ人街が建設されるであろう、という託宣だった。これを知った地元のリビア人は、その鼎を隠したと伝えられている。

180.マクリエス人の次に接しているのはアウセエス人である。この部族とマクリエス人はトリトン河を間にしてトリトニス湖の周りに別々に住んでいる。マクリエス人は後ろ髪を伸ばしているが、アウセエス人は前髪を伸ばしている。

この部族はアテナの年祭を催しているが、そのとき娘たちは二組に分れて石と棒をもって戦う。彼らが云うところでは、われらがアテナと呼んでいるこの地の女神を敬う父祖伝来の儀式であるという。そして傷を負って死ぬ娘は偽りの処女だといわれる。

娘たちが戦いを始める前に、年ごとに一番美しい娘を選び出し、コリント式の兜とギリシャ式の具足を身につけさせ、戦車に乗せて湖のまわりを牽いてゆく。

ギリシャ人が彼らの近くにやって来て定住する前に、娘たちにどのような武装をさせたか、私は云えないが、察するにエジプト式の鎧兜を用いたものと思われる。盾も兜もエジプトからギリシャヘ渡ってきたと、私は確信しているからである。

アテナについては、彼らの伝承ではこれはポセイドンとトリトニス湖の娘だったが、なにごとか父にふくむところがってゼウスのもとに走り、ゼウスが自分の娘にしたとされている。これが彼らの伝えているところである。

男女の交わりは無差別に行なわれ、男女が同居することはなく、家畜と同じように情交している。女の生んだ子供が成長すると、三ヵ月以内に男たちが集まり、子供が一番よく似ていると判定された男が父親とみなされる。

181.以上が沿岸地帯に住む遊牧リビア人である。彼らの住む地域から先の奥地は野獣が棲息する地帯で、さらにこの野獣地帯を越えると砂漠の台地がつづき、これはエジプトのテーベからヘラクレスの柱まで続いている(60)。

(60)ヘロドトスの記述は、エジプトからアフリカ北西部へのキャラバン・ルートを説明していることに関しては正しい。しかし出発地点はテーベではなくメンフィスであるはずだ。そして確定地点間の距離に関しては常に間違っている。記述全体は評するに足りないものである。詳しい論評はRawlinson、Macan、How、Wellsの注釈を参照されたい

この台地にはおよそ十日の旅程の間隔をおいて、塩の巨大な塊が丘となって堆積している。そしてそれぞれの丘の頂上には、塩の中央から冷たく甘美な水がわき出ている。このまわりには、野獣棲息地より奥の荒蕪地の人間が住んでいる。テーベから十日の旅程の最初の地に住む部族はアンモン人で、彼らはテーベのゼウスを崇拝している。というのも、以前話したようにテーベにおけるゼウス像は牡羊の顔をしているからである。

ここにはもう一つ泉があって、ここの水は明け方には温かく、市場の開く時間には冷たくなる。そして真昼にはもっと冷たくなる。この時刻を見計らって住民は菜園に水をまく。陽が傾く頃になると冷たさが減じ、日没の頃には温かくなってくる。真夜中にかけて温かくなってゆき、ついには沸騰して泡が立つ。そして真夜中から夜明けにかけて温度が下がってゆく。この泉は太陽の泉と呼ばれている。

182.アンモン人の地から砂漠の台地をさらに十日の旅程進んだところに、アンモン人の地にあるのと同じような丘と泉があり、人が住んでいる。この地をアウギラという。ナサモネス族がナツメヤシの実を採りに来るのは、ここである。

183.アウギラからさらに十日の旅程進んだところにまた塩の丘と泉があり、実のなるナツメヤシが数多くあるのは、他の場所と同じである。ここの住民はガラマンテスといい、飛び抜けて多くの人口を有している。塩の上に土を重ねてタネを蒔いている。

ここからロトパゴイ人の国への最短距離は、三十日の旅程である。ここには後ずさりしながら草を食む牛がいる。ここの牛は角が前に彎曲しているからである。角が地面に刺さり、前向きでは草を噛めないので後ろに向きに歩きながら草を食むのだ。このことと厚くて丈夫な皮革になることを除けば、ほかの牛と同じである。

このガラマンテス族は、四頭立て戦車に乗って洞窟住まいのエチオピア人を追い回している。この洞窟エチオピア人は、われわれが話にきく限りの人間の中で、この上なく足の早い種族だからである。彼らは蛇、トカゲのような爬虫類を常食している。その言語は世界中で他のどの言語にも似ていず、コウモリの啼き声のようである。

184.ガラマンテス族の地からさらに十日の旅程を進むと、また塩の丘と泉があり、そこにはアタランテスという部族が住んでいる。われわれの知る限り、姓名をもたないのはこの種族だけである。アタランテスというのはこの部族民の総称で、各個人は名前をもっていない。

この部族は太陽が高く上がると、住民や国土を焼いて苦しめるといって、太陽を呪い、口汚く罵るのである。

次にまた十日の旅程の地に別の塩の丘と泉があり、人が住んでいる。この塩の丘の近くにアトラスという山がある。この山は細い円錐形をしていて、その頂上が見えないほど高いといわれている。それは夏も冬も山頂が雲に隠れているからである。この地の住民はこの山のことを天の柱と呼んでいる。

ここの住民の名アトランテスは、この山の名に由来している。この部族は生きている動物は決して食べず、また夢も見ないという。

185.この台地に住む部族については、アトランテス人まではそのすべての名を挙げることができるが、この部族より先のことはわからない。ただ、この台地はヘラクレスの柱ないしはその先にまで達していることがわかっている。

この地帯には十日の旅程ごとに塩の山があり、そこに人が住んでいる。彼らの家屋はすべて塩の塊で造られていて、それは、リビアのこの地帯は雨が降らないからである。雨が降れば塩の壁は保たないはずだから。ここの塩は白いものも赤いものもある。

この台地を越えてリビアの南の奥地に入ると、そこは水もなく、野獣も棲まず、雨も降らず、森もない荒野で、水気のあるものは全くない。

186.エジプトからトリトニス湖にかけて住んでいるリビア人は遊牧民で、彼らは肉食で乳を飲んでいる。またエジプト人と同じ理由で牝牛の肉は喰わず(*)、豚も飼わない。

(*)第二巻四十一節参照

キュレネの女たちもエジプトのイシス神のゆえに牝牛の肉を食べることを禁じていて、それだけでなくこの女神を崇拝して断食や祝祭も行なう。またバルケの女たちも、牝牛はもちろんのこと豚もロにしない。この地域のことは以上である。

187.トリトニス湖から西に住むリビア人は遊牧民ではなく、風習も異なり、子供の扱いも遊牧リビア人と違っている。

リビアの遊牧民は全てがそうしているのかどうか、私には確かなことは云えないが、多くは次のようなことをしている。子供が四歳になると、羊毛の脂を用いて頭部やこめかみの血管を焼くのである。これは粘液が頭から降りてきて害となるのを防ぐためである(*)。

(*)ヒポクラテス「人間の本性」参照。また支那由来の百会という経絡点(ツボ)が頭頂部にある

このお陰で自分たちはこんなにも健康であると彼らは云うのである。事実われわれの知る限りにおいてリビア人は最も健康な民族である。それがこの習慣のゆえであるかどうかは私にも確かなことはいえないが、確かに彼らは健康である。子供の血管を焼いたとき、ひきつけを起したとしても、そのときの対処法もリビア人は知っている。オス山羊の尿をかけて鎮めるのである。以上、リビア人自身のいうままを述べた。

188.これら遊牧民の生贄儀式は次のようになっている。生贄にする獣の耳の一部を初物として切りとり、それを家の上に投げ上げ、そのあとで獣の首を捻って息の根を止めるのである。彼らか生贄を捧げるのは神々ではなく太陽と月だけで、リビアの住民はあまさずこの二つに生贄を捧げている。ただしトリトニス湖周辺の住民が主に生贄を捧げるのはアテナに対してで、その次がトリトンとポセイドンである。

189.こうしてみると、アテナ像に着せる衣裳やアイギス(*)は、リビア女の衣装をギリシャ人が真似したもののようである。なぜというに、リビアの女の衣服が革製であることと、アイギスの縁取りが蛇ではなく革紐であることを別とすれば、そのほかの点ではアテナの衣装はリビアの女のそれと全く変わらないからである。

(*)怪物ゴルゴンの首と蛇で縁取りされたヤギ革の短衣=守りの象徴

事実、パラス(アテナ)像の衣裳そのものが、リビア発祥であることを証明している。なぜなら、リビアの女は衣服の上に、毛を抜きアカネ草で染めたヤギ革に房をつけた「アイギア」をまとっているからで、ギリシャ人はこのアイギアという名を「アイギス」という名に変えたのである(61)。

(61)アイギスはアテナの伝統的な盾である。女神の戦士が持つヤギ革の丸盾を表現する伝統的宗教芸術で、鎧の最も早い時期の形態だろう。米国海軍のイージス艦もこの用語

また私の考えでは、祭礼における詠唱(オロリギー;62)もリビアが発祥である。リビアの女は実に美しい旋律でこれを詠唱する。四頭立ての戦車もリビア人からギリシャ人が学んだものである。

(62)「ὀλολυγή = ololygí」はアテナを崇拝する詠唱である。これはおそらく東方起源で、セム族のハレルという叫びにつながる勝利または歓喜の叫び(ハレルヤ)である

190.遊牧民の死者を埋葬するやり方はギリシャ人の様式と同じだが、ナサモネス人だけは別である。彼らは霊魂が身体から出てゆく間際にそれを坐らせ、仰臥した姿勢で死ぬことのないようにして、坐ったままの姿で埋葬している。その住居はアスポデロスの茎(63)を葦で編んで造られていて、あちこちへ持ち運びができる。以上がリビア遊牧民の慣習である。

(63)不凋花。茎の長い植物;名の由来は絵画的な連想による。ホメロスの「アスフォデルの草原」は不吉な死の国にあり、草の生い茂る場所を暗示している

191.トリトン河の西方でアウセエス族の次には、土を耕して住居をもっているリビア人が住み始める。これはマクシエスという部族で、頭の右側では髪を伸ばし、左側は剃り、身体には朱を塗つている。彼らはトロイアの落人の後裔であると称している。

この地方を含むリビアの西部は、遊牧民の住む地域に比べると、はるかに野獣も多く木も多い。遊牧民の住むリビア東部は、トリトン河に至るまで低い砂漠地帯だが、この河から西の農耕民の住む地域はきわめて山が多く、森もふかく、野獣も多く棲息している。

この地域には巨大な蛇やライオンがおり、また象、熊、エジプトコブラ、角のあるロバ、犬の頭をもつ人間、リビア人のいう胸に眼のある頭のない人間、野獣のごとき男や女、そのほか想像上の生き物とも云えない多くの動物が棲息している。

192.ー方遊牧民の住む地域には、このような動物はおらず、別の動物が棲息している。尻の白いカモシカ、通常のカモシカ、ガゼル、シカレイヨウ(ハーテビースト)、ロバ(角のある種類ではなく、「水を飲まないロバ」で、このロバは実際水を飲まない)、角がフェニキア琴の腕木に用いられるオリックス(牡牛ほどに大きい)。

それから狐、ハイエナ、ヤマアラシ、野生の羊、ディクティス(64)、ジャッカル、ヒョウ、ボリス(64)、三ペキュス(百五十糎)もあるトカゲに似た陸ワニ、ダチョウ、小型の一本角の蛇、などである。このほか他の地方のどこにでもいる動物もいる。ただし鹿と野生イノシシは例外で、この二つはリビアのどこにもいない。

(64)ディクティスとボリスは特定できない。ただしディク・ディクという小型のアフリカ・シカがいる

この地域には三種のネズミがいる。一つは二足ネズミ(65)と呼ばれるもの、次はゲゼリエスというネズミ(これはリビア語で、ギリシャ語では「丘」という意味)、もう一つはハリネズミである。またシルピオン草(*)の生えている地域にはイタチもいるが、これはタルテッソスのイタチによく似ている。われわれができる限り調べ、知り得た限りでは、リビアの遊牧民の住む地域に棲息する野生動物はこのようなものである。

(65)トビネズミ
(*)本巻百六十九節参照

193.リビアのマクシエスにつづいてはザウエケス人が住むが、この部族は女が戦車に乗って戦に向かう。

194.この部族につづくのがギザンテス人で、ここでは蜜蜂が大量の蜜を造るが、それ以上に多量の蜜が職人によって製造されていると云われている(66)。この部族の人間はみな身体に朱を塗り、サルの肉を食べる。この国の山中にはサルが群れをなして棲息しているのだ。

(66)第七巻三十一節参照。小麦と御柳から蜜を造っている

195.カルタゴ人の話では、この部族の国の沿岸の向こうにキラウイスという島がある。横は二百スタディア(三十六粁)だが幅は狭く、本土から歩いて渡れる。ここにはオリーブとブドウの樹が一面に茂っている。

この島には池があり、土地の娘たちは天然のアスファルトを塗つた鳥の羽根を用いて、泥の中から砂金をすくい上げると云われている。これが事実かどうか、私には分からないが、伝えられるままに書いておく。しかし私自身はザキントス(*)で池から天然アスファルトを引き上げるのを見たことがあるので、この話はすべて本当かもしれない。

(*)ペロポネソス半島の西にあるザンテ島

池はザキントスにも多くある。その最大のものは縦横ともに七十フィート、深さは二オルギイア(三百六十米)もある。住民は尖端に銀梅花の枝をくくりつけた竿を池におろし、この枝に附着した瀝青(ピッチ)を引き上げるのである。この瀝青はアスファルトのような臭気があるが、それ以外はピエリア地方の瀝青より良質である。引き上げた瀝青は池の近くに穿ってある穴に流し込む。そして充分に溜まったところで瓶に移す。

池にこぼれ落ちた物は地下をめぐってゆき、池から四スタディア(八百米)離れた海に再び現われる。このようなことから察するに、リビア沿岸にあるという島の話もまた本当かもしれない。

196.カルタゴ人はまた別の話も伝えている。ヘラクレスの柱の向こうにもリビア人が住んでいるが、カルタゴ人はここへ来ると積荷をおろし、これを浜辺に並べてから船に戻って狼煙を上げる。すると土地の住民はその煙を見ると海岸へきて、積荷の代金として黄金をおき、積荷から遠くへ離れる。

するとカルタゴ人は陸に上がってきて黄金の量を確認し、その額が積荷の価値に釣り合うと合点すれば、黄金をもって去って行く。釣り合わないと見たときには再び乗船して待っている。すると住民が戻ってきて黄金を追加し、船員たちが納得するまでこれを繰り返すのである。

このような商取引によって、たがいに相手を欺すことはないと云われている。カルタゴ人は黄金の額が賞品の価値に等しくなるまでは、決して黄金に手を触れないし、住民の側もカルタゴ人が黄金を手に取るまでは、商品に手を触れないのである。

197.われわれが名を挙げることのできるリビアの住民は、以上で全てである。そしてそのほとんどの王が、今も当時もペルシャ王のことなど意に介していないのである。

この国に関してはまださらにつけ加えることがある。それはわれわれの知る限りにおいて、この地の民族の数は四つで、それ以上あると云うことはない。そのうちの二つは先住民で、他の二つは違う。すなわちリビア人は北に住み、エチオピア人は南に住んでいる。フェニキア人とギリシャ人が後からの移住民である。

198.私の意見では、リビアの地はどこもアジアやヨーロッパと肩を並べるほど優れてはいない。ただキュニプス河と同じ名前で呼ばれる地帯(*)だけは別である。

(*)本巻百七十五節、第五巻四十二節参照、現ウァデル・カーン河と思われる

この地方は世界中でもっとも肥沃な農産地帯に匹敵し、ほかのリビアの地域とは全く異なる。というのも、この地の土壌は黒く、泉の水で潤っているので干ばつの怖れもなく、過度な雨で土質が損われることもないからである。実際リビアのこの地方は雨が降るのだ。その穀物の収穫量はバビロンのそれと同じである。

エウエスペリデス人(*)の住む土地も肥沃である。この地では、もっとも実りの多い時には、(播種量の)百倍の収穫がある。しかしキュニプス地方は三百倍である。

(*)本巻百七十一節参照

199.なおキュレネの地は、リビアの遊牧民の住む地域としては最も高いところだが、驚くべきことに三回の収穫期がある。最初に海岸地域で穀物が実って刈り取られ、その収穫が終わると、彼らが丘と呼んでいる海岸から上がった中間地帯で穀物が実って収穫される。

そして中間地帯の収穫が終るとまもなく、最上部の地域の穀物が実りを迎え、収穫される。こうして最初の収穫が食物や飲み物として消費された頃に、最後の実りが収穫されるのである。このようにして、キュレネ人の収穫期は八ヵ月に及ぶのである。これらのことついては、これで充分としよう。

200.さてペレティメの報復を支援するペルシャ軍は、アリアンデスに送り出されてエジプトを発ち、バルケに到達すると街を包囲し(67)、アルケシラオスを殺害した下手人を引き渡せと通告した。しかしバルケ人は全市民が共犯となっていたので、これを承諾しなかった。

(67)百六十七節で中断されていた話がここから再び始まる

そこでペルシャ軍は九ヵ月にわたってバルケを包囲し、猛烈な攻撃を行ないながら城壁に通ずる地下道を掘り進んだ。しかしこの地下道は、ある鍛冶職人が青銅の盾を利用することで見つけられてしまった。その方法というのは、職人が盾を手にして城壁内をめぐり、地面に盾を当ててそれを叩くのであった。

他の場所では鈍い音が返ってくるばかりだったが、地下道のある場所では盾の青銅がはっきりと響いたのである。そこでバルケ人は逆の坑道を掘り、地下を掘っているペルシャ兵を撃ち倒したのだった。こうして坑道は発見され、攻撃もバルケ市民によって撃退された。

201.かくして両軍は長期にわたって戦い、双方ともに多くの死者がでた(ペルシャ軍の死者は敵軍に劣らなかった)。そこで陸上部隊の司令官アマシスは、力をもってしてはバルケは攻略できないことを悟り、謀略ならできるだろうと考え、次のような策略をめぐらした。

夜のあいだに幅広い掘を穿ち、そこへ薄い板をかぶせ、まわりの地面と同じ高さになるように土を盛ってならしておいた。そして夜が明けると、バルケ人を談合に招いた。バルケ人は喜んでそれに応じ、最後には和議を結ぶことに合意した。その和議というのがこうであった。隠された堀の上で誓約式を行なうこと。そしていま両者が立っている地が変わることなくある限りは、その誓約もそのまま保持されること。バルケ人はペルシャ王に貢税を納めること、ペルシャ人はバルケ人に危害を加えない、という内容だった。

誓約式が終ると、市民たちは誓約を信頼して、城門をすべて開き、街の外へ出てきた。そして城内に入ること希望した敵兵たちを中へ入れた。ところがペルシャ兵は見えない橋を破壊し、街の中に走り込んだ。自分たちが造った橋を壊したのは、バルケ人との誓いを守るという大義からで、すなわち地面がずっと保持される限りは、この誓約もまた成立し続けるが、橋を破壊すれば、もはや誓約も成立しないことになるからだった。

202.こうしてペルシャ軍からバルケ人の首謀者たちを受け取ったペレティメは、彼らを城壁のまわりに並べてはりつけの刑に処した。また彼らの妻女の乳房を切り取ると、これも同じように城壁に張りつけさせた。

残りのバルケ人は、ペルシャ軍の戦利品とするよう告げた。ただ、バットス家の者たちと、殺害に加担しなかった者たちを除外し、この者たちにバルケの街を委ねた。

203.ペルシャ軍は残りのバルケ人を奴隷にして国に帰っていった。そして彼らがキュレネの街に近づくと、キュレネ人はある神託の予言を果たすためにペルシャ軍が街を通過するのを許した。

軍が街を通過する際、水軍の司令官バドレスは街を占領することを主張したが、陸軍の司今官アマシスは、自分が派遣されたのはバルケの攻略で、そのほかのギリシャの街ではないといって、これに賛同しなかった。しかし街を通過して「リカイオス・ゼウス」の丘に宿営したときになって、街を占領しなかったとを悔んだ。そこで再びキュレネにとって返し、街に入ろうとしたが、キュレネはこれを拒否した。

誰もペルシャ軍を攻撃しなかったのに、ペルシャ軍は恐慌を来し、六十スタディア(十粁)ほど逃走してそこに宿営した。そこへアリアンデスから伝令がやって来て帰国命令が伝えられた。ペルシャ軍はキュレネ人に行軍のための食糧調達を頼み、それを受け取るとエジプトへ向かって帰って行った。

しかし彼らがエジプトヘたどり着くまでのあいだ、リビア人がペルシャ人の衣服や装備を狙ってこれを襲い、遅れた者や落伍兵を惨殺した。

204.このペルシャ軍が到達したリビアの最も遠い地は、エウエスペリデスだった。ペルシャ軍が奴隷にしたバルケ人は、エジプトからペルシャ王のもとへ移された。そしてダリウスは彼らをバクトリアのある街に送った。彼らはこの街にバルケという名をつけたが、このバクトリアの街は私の時代にもまだ残っていて人が住んでいた。

205.ペレティメその人も、その最期は全うできなかった。バルケ人に報復を果してエジプトヘ帰るや否や、悲惨な死を迎えたのだ。生きながら全身にウジがわいたのである。人があまりにもひどい復讐を試みると、神々の報いを招くことになるという例である。バットスの娘ペレティメがバルケ人に加えた報復はかくのごとくで、またかくのごとく残忍なものであった。

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