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歴史 第八巻 ウラニア ヘロドトス著
The History BOOK VIII
URANIA Herodotus


邦訳:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田)
( https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-8.html )

掲載日 2017.06.07


英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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底本(英訳文)

*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003
*ギリシャ語の原文サイト
 Ιστορίαι (Ηροδότου)
 Istoríai (Irodótou)


~~~目 次~~~

1-23   アルテミシオンの海戦
24-39  ペルシャ陸軍の進撃
40-49  サラミスにおけるギリシャ海軍
50-55  アテネ陥落
56-96  サラミスの海戦
97-125  ペルシャ軍の敗走
126-144 マルドニオスの対アテネ交渉

(G*):Godleyによる注
(M*):Macaulayによる注
(*):邦訳者(前田)による注



1.さて、ギリシャ海軍に配置された陣容は次のとおりだ。アテネは百二十七隻。これには、プラタイヤ兵が海戦には不慣れにもかかわらず、戦闘に対する剛勇と熱意からアテネ船団に同乗してきた。

コリントからは四十隻。メガラから二十隻。カルキスからは兵士を同乗させて二十隻。この船はアテネが提供したもの(M1*)。アイギーナは十八隻。シキオンは十二隻。スパルタは十隻。エピダウロスは八隻、エレトリアは七隻、トロイゼンは五隻。スティラは二隻。ケオスは二隻(M*2)と五十本櫂ガレー船を二隻。オプスのロクリスからも七隻の五十本櫂ガレー船が支援としてやって来た

(M*1)第五巻七十七節
(M*2)ここでいう「船」とは三層櫂ガレー船のこと。

2.私は、それぞれが提供した船数に基づいて話したのだが、五十櫂船を別として、アルテミシオンに集結した船の数は、二百七十一隻だった。

ただし、最高指揮権を握ったのは、スパルタのエウリクレイデスの子エウリビアデスだった。これは、同盟諸国はアテネの主導には従うつもりがなく、スパルタ主導でなければ遠征軍を解散すると表明していたからであった。

3.これは最初から、すなわちシシリーに同盟を求めに使者を派遣する前から言われていたことだが、海軍はアテネ人の指揮下に入るべきだという意見があった。しかし同盟諸国がこれに反対したので、アテネはギリシャの生き残りを最優先することを心底から考え、また主導権争いを起こすと、ギリシャは滅亡することが判っていたこともあり、アテナは譲歩したのだ。そしてこの時の彼らの判断は正しかったといえる。内紛を抱えて戦うことは挙国一致で戦うことよりも劣ること、平時よりも戦時がよくないことと同じだからである。

このことが判っていたので、彼らは反論せず道を譲ったのだが、それはどうしても同盟が必要だったからで、譲歩したのはその限りにおいてであった。というのは、ペルシャ軍を撃退すると、早くも領土を争いが起きたのだが、アテネはパウサニアスの傲慢を持ち出し、それを口実としてスパルタから主導権を剥奪したことから、それが知れる。ただし、これは後になってからのこと(G*)である。

(G*)B.C.476にビザンチンを攻略した後のこと。

4.さてギリシャ海軍もアルテミシオン(M*)に到着し、おびただしい数の敵船団がアフェタイ(*)に集結し、またその街が軍で満杯になっているのを知り、蛮族の軍勢が予想と違っていたので、ギリシャ軍は恐慌をきたした。そしてその地からさらにギリシャに近い場所に撤退することを協議した。

(M*)「ギリシャ海軍も」という表現は、陸軍がテルモピュレーに集結したことに対応させている。他の訳者は「結局ギリシャ海軍はアルテミシオンにやって来た」と解している」すなわち懐疑と遅延を表現している。第七巻二百七節を参照。
(*)アルテミシオンの対岸にある半島先端の街。

この協議を知ったエウボイア人たちは、子供や家族が領外に避難し終えるまで、もう暫くここに留まってくれるよう、エウリビアデスに頼んだ。ところがかれを説得できなかったので、今度はアテネ人の司令官テミストクレスのもとへ行き、エウボイア沖合に留まり、そこで海戦に臨むなら三十タラントン(*)を贈るという条件で、かれを説得した。

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギーナ単位)

5.そこでテミストクレスは次のようにしてギリシャ人を引き留めた。すなわち、この金のうち五タラントンを、自分自身の持ち金であるかのごとく装ってエウリビアデスに分け与え、考えを変えさせた。ところがオキトスの子アデイマントスというコリント人司令官だけが、他の者たちとともに残留するのをよしとせず、アルテミシオンから撤退することを強く主張した。そこでテミストクレスは誓いを立てて、かれに語った。

「いずれにしろ貴殿は我らと共に残ることになるだろう。なぜなら、同盟を破棄してメディアの王から受ける贈与よりも、わが輩からの贈与の方が多いからだ」
こう語るが早いか、かれはアデイマントスの船に三タラントンの銀を運ばせた。かくして彼ら全員が贈与(M*)によって考えを変え、同時にエウボイア人の望みも叶えられ、テミストクレス自身も懐が豊かになったという次第である。残りの金をかれが手にしていることは誰も知らず、分け前をもらった者たちは、その金が説得のためにアテネの国から出ているものと、すっかり思い込まされていたのだ。

(M*)多くの訳者は「賄賂」と解している。

6.かくして彼らはエウボイアに残り、そこで戦端を開くことにした。海戦は次のような経過をたどった。午後早い時間に蛮族海軍がアフェタイに到着してみると、その前に少数のギリシャ船団がアルテミシオン付近にやって来て停泊していることを知らされ、実際に彼ら自身がそれを確認すると、それを攻撃して捕捉しようと気をはやらせた。しかし次の理由から、直接彼らに船を進めるのは上策ではないと考えた。敵船が自分たちに向かってくるのをギリシャ人が目にすると、 逃走するに違いなく、それに夕闇が加わる怖れがあるためだった。ペルシャの考えでは、実際に彼らは逃げおおせるに違いないにしても、聖火兵(M*)すら逃がしてはならないと考えていたのだ。

(M*)聖火兵というのはスパルタのゼウス祭壇から聖火を取り、軍の生贄儀式のためにそれを絶やさぬように保存する任務を負う。この兵士は神聖視されている。「聖火兵も斃れた」というのは全滅を意味する。

7.右の状況から、ペルシャ軍は以下の作戦を立てた。全艦船のうちから二百隻を割き、スキアトス島を大きく迂回し、エウボイア島のカフェライオス岬からゲリアストスを回り、エウリポス海峡に向かわせた(*)。こうすることで敵にエウボイア島を迂回する船影を見られないようにした。そしてこの航路を取って海峡を北上することで、敵の退路を断ち、正面から向かう船団と合わせて敵船を包囲する作戦だった。

(*)エウボイア島の東岸を南下し、その後は海峡を北上する航路。

この作戦に従ってペルシャ軍は、このための船団を決めて送り出したが、本隊そのものは、その日も含め、所定の位置に到着したという合図が迂回部隊からあるまで、攻撃を控えることにした。そして船団を送り出したあとは、アフェタイに残っている船団の点呼を始めた。

8.その点呼を行なっている最中に次のようなことがあった。陣の中に、当時潜水にかけては右に出る者なしといわれていたスキオネ人のスキリアスという者がいた。この男はペルシャのためにペリオンで難破した船からあまたの財宝を引き上げ、そのうちの多くをわが物としていたが、ずいぶん以前からギリシャに脱走しようと考えていた。ただその時まで機会に恵まれなかったのだ。

今回、どのようにしてかれがギリシャにやって来たのか、正確なことは分からないが、伝えられた話が本当なら驚異的なことである。かれはアフェタイの海に潜り、アルテミシオンにたどり着くまで一度も水面に出なかったという。その間の距離はおよそ十六キロメートルになる。

またこの男については嘘っぽいいくつかの話が伝わっているが、中には本当のものもある。しかしこの件に関して私の考えをいえば、かれは小舟に乗ってアルテミシオンに向かったはずだ。到着すると、かれはすぐに、司令官たちにペルシャ船団の難破のいきさつを報告し、エウボイア島を迂回している船団の件も知らせた。

9.これを聞いたギリシャ軍は協議し、多くの意見が出た中で、次の意見が優勢を占めた。すなわちその日は海岸に留まるが、深夜になってから出航し、迂回してくる敵船団を迎撃するという策である。ところが、いざ出航してみると、午後遅くまで待ってみたものの、向かってくる敵船が見えなかったので、蛮族本隊に向かって船を走らせた。これはみずからの戦法を試し、敵の戦列突破(G*)を試したかったからである。

(G*)第六巻十二節

10.ギリシャ海軍が少数でペルシャ船団に向かってくるのを見て、クセルクセスの残留兵たちやその司令官たちは、狂気の沙汰とあきれた。そして捕らえるのはたやすいだろうと思いつつ、彼らも船を海に出した。そう考えるのも道理で、ギリシャ海軍は寡兵で、ペルシャ海軍はその何倍もの勢力を誇り、性能も優れていたのだから。

このように考えつつ、ペルシャ軍団は敵船を取り囲んだ。この時、ギリシャ人に好意を抱きつつも、意に反して遠征に加わっていたイオニア人たちは、彼らが包囲されるのを見て、誰も祖国に帰れないだろうと思って悲嘆に打ちひしがれた。そう感じるほどにギリシャの勢力はわずかだと、彼らには見えたのである。

一方、これを絶好の機会ととらえた者たちは、アテネの船を最初に捕獲し、王からの褒賞をもらおうとして、お互いが先を争った。彼らの陣営では他のどこよりもアテネの噂が多かったからである。

11.一方ギリシャ軍は、合図とともに船首を蛮族の船に向け、船尾を自陣の中央に向けて配置した。そして二度目の合図で、狭い海域に押し込められながらも、船首同士を突きあわせて奮戦した。

その結果、ギリシャ軍は蛮族の船を三十隻捕獲し、また敵軍中で高名なサラミス王の弟でケルシスの子フィラロンも捕虜にした。ギリシャ軍の中で最初に敵船を捕らえたのはアテネ人のアイスクライオスの子リコメデスだったが、これによってかれは勲功の褒賞を手にした。

この海戦では、勝敗の決せぬまま夕闇が迫ってきたこともあり、両軍は互いに戦場を離れ、ギリシャ軍はアルテミシオンへ、蛮族軍はアフェタイへ戻った。この時の戦闘は、蛮族にとっては大きく当てがはずれた結果となった。そして王に随行していたギリシャ人の中でギリシャ側に脱走してきたのは、レムノス人のアンティドロスだけだったので、アテネ人はそれを讃えてサラミスの領土の一部をかれに与えた。

12.さて夜になると、真夏というのに豪雨が降り始め、それが一晩中続き、ペリオン山からは炸裂する雷鳴も轟いた。死骸や難破船の破片がアフェタイに流れ着き、船の船首にまとわりついたり、櫂の羽にぶつかったりした。

そこにいた兵士たちは、この時の音を聞き、何度もこんな災難に見舞われるということは、自分たちは破滅するに違いないと恐れおののいた。というのも、ペリオン山での嵐と船の難破のあと、息つく暇もなく激しい海戦に臨み、その後も暴風雨と海に流れ込む水流と、すさまじい雷鳴に襲われたからである。。

13.その夜は、ペルシャ本隊は私が言ったようにな状況だったが、エウボイア島を迂回する任務を帯びていた船隊は、まさに同じ夜の天候に遭遇していた。ただ、外洋上で航行中のことだったので、嵐は本隊よりもはるかにすさまじく彼らに襲いかり、悲惨な結果となった。それは、彼らがエウボイア島の「窪み」といわれている場所を航行中のこと、嵐と雨が襲いかかり、どこへ運ばれているかも分からず風にもてあそばれ、岩礁に激突したのだ。これらの事態は、ペルシャの勢力をギリシャのそれにずっと近づけ、大きくしすぎないようにするための神の采配である。

14.こうして、この部隊はエウボイア島の「窪み」で全滅した。一方、アフェタイの蛮族本隊は夜明けを迎えて安心し、船を停止させたままにしていた。ひどい災害の後ゆえ、今はじっとしているだけで満足していたのだ。

ところがギリシャ側にはアッティカから五十三隻の援軍が到着していた。これによってギリシャ軍は勢いづき、またエウボイア島を回り込んでいた蛮族船隊が嵐によって全滅したことを知らされ、これによってもまた勢いづいた。そこでギリシャ軍は前日と同じ頃合いまで待ってから出港し、キリキア船団を攻撃し、これを殲滅すると、日没が迫り来るのを機に戦場を離れてアルテミシオンに帰還した。

15.三日目になり、いかにも少ない敵海軍によって自軍が損害を受けたことで、蛮族の司令官たちは強く憤慨し、またクセルクセスによる叱責を怖れ、このたびはギリシャ軍団の戦闘開始を待たず、陽が中天にかかる時刻になって出撃命令を出し、出港した。

この海戦の行なわれたのは、テルモピュレーでの陸上戦と同じ日だった。海軍の戦術はエウリポス海峡を戦場とすることだった。これは、レオニダスとその麾下の軍が隘路(あいろ)を防衛するのと、ちょうど同じだった。従ってギリシャ兵たちは蛮族をギリシャに侵入させてはならじと、互いに励ましあい、一方のペルシャ兵たちはギリシャ海軍を殲滅し、海峡を支配せんものと士気を高めあった。

16.クセルクセスの海軍がギリシャ海軍に向かって航行している一方で、ギリシャ海軍はアルテミシオンで動かずにいた。蛮族海軍は敵軍を包囲するつもりで三日月型の陣形を取っていた。やがてギリシャ軍も出撃し、両軍は交戦状態に入った。

この時の戦闘では、両軍の力はほぼ互角だった。というのもクセルクセスの船団は船数が多すぎることが災いし、船団が混乱状態に陥り、船同士が衝突する事態を引き起こしたからである。とはいえ蛮族は、あまりに少ない敵船団を相手に逃走するのは沽券にかかわるとして、退却せず粘り強く戦った。

結果は、ギリシャ側では多くの軍船が破壊され、多数の兵士が死亡した。蛮族側は、それ以上の船と兵士が失われた。その後、両軍は戦場を離れ、それぞれ自軍の基地に戻っていった。

17.この海戦では、クセルクセス軍のエジプト兵が最高の武勇を見せた。多くの武功の中でも彼らは五隻のギリシャ船とその乗員を捕獲した。一方、この日のギリシャ軍で最高武勲を立てたのは、アテネ兵だったが、その中でもアルキビアデスの子クレイニアスは自分の所有する船に二百人の兵を従え、自費で参戦していた。

18.戦場を離れると、両軍は一息つくようにして自軍の基地へと急いだ。ギリシャ軍は戦場から離れるとき、死骸と破壊された船を回収したが、損害も大きかった。特にアテネ軍の損害が大きく、半数の船が航行不能となったので、ギリシャ本土(G*)への撤退を決めた。

(G*)ギリシャ本土付近の海域のことだろう。

19.テミストクレスは、蛮族からイオニアとカリアの諸国を引き離してしまえば、残りの軍勢に勝てるだろうと考えた。そこでかれは、エウボイアの住民が家畜の群れを海辺に降ろしている場所に司令官たちを集め、敵軍の最強部隊を離反させる策があるといった。

この件に関して、かれはそれ以上のことを明かさなかった。そして今の状況に関しては、次の方針を告げた。すなわち、エウボイア人の家畜を各自が欲するだけ殺すこと。これは、敵軍に同じことをされるよりは、我々が実行した方が得策であるため。次に各自の兵士たちに松明を持たせることを指示した。撤退時期については本土へ無事に帰還できる機会を見計らう、と告げた。そして彼らはそれに賛同し、松明に火をつけると、すぐさま家畜の屠殺に取りかかった。

20.実際エウボイア人はバキスの神託を無視し、全く無意味だと見なしていたため、戦に備えて自分の領土から何も運び出さず、食糧を備蓄もしなかったので、これは自業自得である。バキスによる神託は次のとおりだった。

  心せよ。夷狄がパピルスの横木を海に渡すとき
  鳴き叫ぶ山羊の群れをエウボイアから離すべし

その時の災いにしても、迫り来る災厄にしても、この神託を彼らは無視していたので、彼らが最悪の不幸に見舞われたとしても、それは身から出た錆であった。

21.ギリシャ軍がこのような状況にある中で、トラキスから偵察兵がやって来た。つまり、海軍が負けた時には、アンティキラ生まれのポリアスという者が、そのことをテルモピュレーの軍に知らせるという任務を帯びていて、そのための船を準備していた。それと同時にレオニダスの側にはアテネ兵でリシクレスの子アブロニコスという者が、陸軍に惨事が起きた時にはアルテミシオン軍に知らせるつもりで、三十本櫂船を用意していた。

このアブロニコスが到着し、隘路(あいろ)でのレオニダスとその麾下の軍の状況を知らせたところ、アルテミシオンの海軍はもはや撤退を延期することなく、各国の隊列のままにコリント軍を先頭に、アテネ軍をしんがりにして撤退を始めた。

22.ところでテミストクレスはアテネ船団の中から船足の速いもの数隻を選んで飲み水の湧きでている泉にゆき、そこの石に伝文を刻ませた。それは、後日イオニア人がアルテミシオンにやって来たとき、彼らに読ませるためのものだった。その伝文は次のとおりである。

「イオニアの者たちへ。汝らの父祖の地へ侵略し、あえてギリシャを隷属しようとするは、よろしからざることなり。何より好ましきは汝らが我ら与することなり。それが叶わざれば、我らに対峙するも脇に立ちてよけるべし。そしてカリア人たちへも汝らとともに同じく行動すべく依頼すべし。この二つともながら不可となりせば、すなわち、あまりに強き拘束にて謀反できぬとあらば、干戈を交えしとき、あえて怠惰に働けよかし。汝らわが地よりいでしこと忘るべからず。また忘るべからず、我らと蛮族とのいさかいは、まず汝らがことより生起せしことを」

このようにテミストクレスは刻ませたが、察するに、かれには二つの思惑があったにちがいない。すなわち、この碑文がペルシャ王に知れることを免れれば、ペルシャからイオニア人たちの離反をもたらすだろうし、クセルクセスに報告され告発された場合には、イオニア人は王から疑いの眼で見られ、彼らは海戦から遠ざけられるだろうと。

23.こうしてテミストクレスはこの碑文を建てたが、この直後に、ヒスティアイア(*)から一人の男が船で蛮族軍のところへ来て、アルテミシオンからギリシャ軍が撤退したことを注進した。しかしペルシャ軍はにわかに信じがたく、その男を監視のもとに留め置き、数隻の高速船を偵察に走らせた。やがて偵察船がその事実を報告すると、陽が照り輝く頃になって、全船隊一団となってアルテミシオンに向けて出航した。そこで真昼まで留まってからヒスティアイアに向かい、その街を占領した。そしてヒスティアイアの一部であるエウボイア島北部一帯の海岸沿いにある村々を占領した。

(*)アルテミシオンに近いエウボイア島の海岸沿いの街。

24.海軍がこのような状況にある一方で、クセルクセスは遺骸の処置を済ませたあと、艦隊に伝令を送ったが、遺体の処置は次のようなものだった。テルモピュレーでの戦死者は二万人の多きにのぼったが、そのうちの一千体だけ残し、残りは堀を穿ってそこに埋め、その上から落葉をかぶせ、土を盛り上げて海軍の兵士たちの目につかないようにした。

さて、伝令がヒスティアイアに到着すると、全軍を集めて次のように語った。
「同志諸君、クセルクセス王の勢威を打ち負かそうとした馬鹿者どもと、王が如何にして戦われたかを見たいと思う者には、誰であれその部署を離れ来たることを、王は喜んで許可なさるであろう」

25.伝令が右のように宣言すると、あまりに多くの兵士が希望したので、何よりもまず、そのための船が必要になった。戦場にやって来た兵士たちは遺体の間を通り抜け、それを見て回ったが、誰もが、そこに横たわっているのはスパルタ兵かテスピアイ兵だと思っていた。ところが、その中にはヘロット(スパルタの奴隷)も混じっていたのだ。

見学した兵士たちは誰もが、クセルクセスが自軍の戦死者に施した、私が前に言った通りの細工に気づいていた。実のところ、それは笑いを誘うほどのことだった。ペルシャ軍の一千の遺体は目につくように横たわっているのに対し、敵の四千の遺体(M*)は一箇所に集められていたからである。

(M*)第七巻二百二十八節の碑文を誤解して「四千」という数字が改変されたとみる人がいる。死者が四千人というのは、少なくともその半分がヘロット(スパルタの奴隷)でない限り、とうていあり得ない。

兵士たちは、その日はずっと見学に費やし、翌日にはヒスティアイアに船で戻って行き、クセルクセスは進軍を開始した。

26.さてアルカディアからは、生計に事欠き、仕事を求めて数人の逃亡者がペルシャ軍のもとへやって来た。この者たちはペルシャ王のもとへ連れて行かれ、同行したペルシャ兵の一人から、ギリシャ軍の動向について問いただされた。

逃亡者たちは、ギリシャではいまオリンピア(G*)の祭礼の最中で、運動競技と乗馬競技を見物している、と返答した。彼らの目指している賞品は何か、と再び問われ、オリーブの枝で作った冠であると、彼らは答えた。これを聞いたアルタバノスの子トリタンタイクメスが、いかにも堂々とした考えを述べところが、これで彼は王から臆病者というそしりを受けることになった。

(G*)これは夏至を過ぎた最初の満月の日に行なわれたと思われる。テルモピュレーの戦いは八月末であることから、Steinは、この問答の時期として、クセルクセスがエレトリアのテルマに滞在している時と見ている。ただし、Macanはオリンピック競技の行なわれた時期に関する上記の説は破綻していると主張している。

というのも、賞品が金銭でなくオリーブの枝であることを聞いたトリタンタイクメスは、黙っていられなくなり、一同を前にして次の言葉を口にしたからである。
「マルドニオスよ、何という者たちと戦うために、お主は我らを連れてきたのか。金銭でなく、名誉を競うような者たちに!」
こんなことを、この男は言ったのだ。

27.一方で、テルモピュレーにおける惨事の直後、テッサリア人はポキスに使者を送った。彼らは以前からポキス人に遺恨を抱いていたのだが、とりわけ、つい最近被った事件もその原因になっていた。

それは、このたびのペルシャ王による遠征の数年前、テッサリア人とその同族人がポキス地方に侵略したとき、ポキス人に敗北し、手ひどい目にあったのだ。

その時、ポキス人はエリス人のテリアスという予言者を伴ってパルナッソス山に立て籠もったのだが、彼は次の計略を立てた。かれは武勇に優れた六百名のポキス兵を選び、その全身および武具をすべて白墨で白く塗らせた。そして白くない者を斃せ、と前もって言い含めた上で、テッサリア人に夜襲をかけた。

彼らを最初に見たテッサリアの歩哨たちだけでなく、あとから見た本隊の歩哨たちも、何か不吉な前兆ではないかと思って恐懼した。そうしてポキス軍は四千の兵士を斃し、その盾を手に入れた。彼らは盾の半分をアバイに献納し、残りの半分をデルフォイに献納した。

この戦いで得た戦利品の十分の一税によって、デルフォイの神殿前面の鼎(かなえ)の周りに巨大な像がいくつも建てられたが、アバイにも同様の像が奉納された。

28.右は、攻囲してきたテッサリア兵に対してポキス軍が取った行動だが、彼らの領土に侵略してきたテッサリアの騎兵隊にも、手ひどい損害を与えた。彼らはヒアンポリスの街近くの街道に大きな堀を穿ち、そこへ空の酒壺を並べ、その上に土を被せ、他の地面と変わらないように見せかけ、テッサリア騎兵が侵略してくるのを待ち受けた。テッサリア騎兵は手早くけりがつくと思ってまっしぐらに馬を進めてきたところ、壺を踏んで馬の脚が折れてしまったのだ。

29.右の二つのことで怨みを抱いていたテッサリア人は使者を送って次の言葉を伝えた。
「ポキアの人々よ、いまは気持ちを入れ替え、汝ら我らに対等に敵せずと知るべし」

「以前ギリシャに肩入れしていたとき、我らは常に汝らの上に立っていた。しかしいまや我らは蛮族を味方をつけ、大いなる力を得、汝らの領土を奪い、かつ奴隷に売り払う力を有している。我らその力を保持しつつも、決して悪意を抱かず、その返礼として銀五十タラントン(*)を我らに支払うことを勧告する。しからば我らは貴国を侵略する脅威を回避させるであろう」

(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギーナ単位)

30.テッサリア人はこのように持ちかけた。というのは、この地方の住民でメディア側についていないのはポキス人のみで、それは察するに、ほかでもない、ただテッサリア人に対する敵意によるものであった。かりにテッサリア人がギリシャを支援していたなら、ポキス人はメディア側についていただろうと、私は考えている。

さてテッサリア人が上のことを持ちかけても、ポキス人は金を払うつもりはないといい、それなりの理由があれば彼らにもテッサリア人と同じくメディアに味方する道もあるが、あえてギリシャを裏切るつもりはないと返答した。

31.この言葉を聞き、テッサリア人はポキス人に怒り、蛮族の道案内をすることになった。そしてペルシャ軍はトラキス地方からドーリス地方に進んだ。ドーリス地域はマリスとポキスの間にあり、およそ六キロメートル幅の狭隘な地域で、昔はドリオピスと呼ばれていた。この地域はペロポネソスのドーリス人発祥の地であるが、この地域の住民はペルシャの味方だったし、テッサリア人の要望もあって、蛮族軍はこの地を蹂躙しなかった。

32.さてペルシャ軍がドーリスからポキスに進軍してもポキス人を捕らえられなかった。というのも、彼らの一部はパルナッソス山の高地に逃げ出していたためだった。パルナッソスの山頂は大勢が逃げ込むには絶好の場所で、そこはティトリアと呼ばれ、近くにはネオンの街があった。一部のポキス人はそこへ家財を運び込んで逃げた。

ただほとんどのポキス人は、オゾロイ・ロクリス地方の、クリサ平野の北にあるアンピッサの街に家財を運び、難を逃れた。そしてテッサリア人がペルシャ軍を先導したこともあって、蛮族はポキス全土を蹂躙した。彼らは進軍途中の街の市街や神殿に火をつけて焼き払い、破壊した。

33.ペルシャ軍はケピソス河に沿って進軍しつつ、全てを破壊した。ドリモス以下、次の諸都市が焼き払われた。カラドラ、エロコス、テトロニオン、アンフィカイア、ネオン、ペディエイス、トリテイス、エラテイア、ヒイアンポリス、パラポタミオイ、アバイ。

そしてアバイにはアポロ神殿があり、ここにはおびただしい財宝や奉納品が収められていた。そこでは当時も今も神託を受ける座所が設けられているが、ペルシャ軍はこの神殿も略奪し焼き払った。また一部のポキス人は山中まで追跡されて捕らえられ、何度も乱暴されて死に至った婦女子もいた。

34.蛮族はパラポタミオイを通過してパノペオスに至り、ここから二つに分かれて別々の道を進んだ。主力軍はクセルクセスとともにアテネに向かうべくボイオティア地方に入り、オルコメノスの領土に進軍した。ボイオティア地方の全住民はペルシャ側についていたのだが、アレクサンドロスによって派遣されたマケドニア兵が彼らの諸都市を掌握していた。すなわち、ボイオティア人がペルシャに着いていることをクセルクセスに分からせるために、彼らはその諸都市を保全したのだ。

35.さて別の部隊は先導者に従ってパルナッソス山を右に見つつデルフォイの神殿にやって来た。その間、進路にあったポキスの諸都市は全て略奪の限りを尽くした。すなわち、パノペオス、ダウリス、アイオリスの街は焼き払われた。

彼らが本隊から別れてこの道を進んだ理由は、デルフォイの神殿を略奪し、その財宝をクセルクセスに献上するためだった。私の聞き調べたところでは、クセルクセスは神殿に収められている財宝、とりわけアルヤテスの子クロイソスの奉納品については、常に多くの情報を得ていたためもあり、母国の王宮にある自分の財宝のことよりも、よく知っていたという。

36.さてデルフォイ人は右のことを知ると大いに恐れおののき、数々の聖宝を地中に埋めるべきか、別の場所に持って逃げるべきか、神託を請うた。神の答えは、神はみずからの始末は自分でつけると言われ、それらを動かすことを禁じられた。

これを聞いて彼らは自分たちのことを案じ始めた。そして女子供を海を越えたアカイア地方に行かせ、財産をコリキオンの洞窟(G*)に運び込み、ほとんどの男たちはパルナッソスの嶺々に登り、他の者たちはロクリス地方のアンピッサに避難するために出発した。結局、デルフォイ人は六十名の男たちと託宣者を街に残し、全員が街を出たのである。

(G*)パルナッソス山の隣で、デルフォイから徒歩3時間あまりの高地にある。奥行きおよそ200フィート、最大幅90フィート、高さ20~40フィート。

37.いよいよ蛮族が近づいてきて神殿から見えるようになったとき、アケラトスという名の託宣者は、誰も触れてはならない聖なる武器が、聖室から移動して神殿の前に鎮座しているのに気がついた。

そこでかれは、そこに残っているデルフォイ人にその神変を知らせに行こうとしたのだが、蛮族がアテネ・プロナイアの神殿近くに急行して来たとき、その神変よりもさらに大きな超常現象が現われた。武器が勝手に動いて神殿の外にあること自体、まことに信じがたいことだが、続いて起きた神変はこれまでになく不思議なできごとであった。

それは、蛮族がアテネ・プロナイア神殿に近づいたとき、空からの雷鳴に直撃されたのだ。また、パルナッソスにある二つの嶺が崩れ、大音響と共に彼らの上に落下し、多くの蛮族を押しつぶした。これに加え、プロナイアの神殿内からは雄叫びと鬨の声が聞こえてきた。

38.これら全てが同時に蛮族に降りかかり、彼らを恐怖のどん底に陥れた。彼らが逃げ出のを見たデルフォイ人たちは、山から降りてきて多くの兵士たちを打ち斃した。生き延びた者たちはまっすぐボイオティアに逃げていった。

聞くところによれば、生還した蛮族兵たちは、これ以外にもいくつかの超常現象に遭遇したという。彼らが言う中のひとつに、並みの人間を越える巨大な二人の武装兵が追いかけてきて、彼らを打ち斃したという。

39.デルフォイ人によれば、この二人の兵士はフィラコスとアオウトノオスという地元の勇士で、その聖殿はデルフォイ神殿の近くにあり、フィラコスの聖殿はプロナイア神殿の上手の道のそばにあり、アオウトノオスのそれはヒアンペイアと呼ばれている嶺の麓にあるカスタリアの泉の近くにある。

パルナッソスから落ちてきた岩石群は、蛮族の隊列を蹴散らしたあと、アテネ・プロナイアの聖域に転がり込み、今の時代でもそのまま残っている。蛮族部隊が神殿から退散した経緯は以上である。

40.さて、アルテミシオンから撤退したギリシャ海軍は、アテネの要請に従ってサラミスに入港した。その訳は、婦女子をアッティカから避難させるためと、今後の行動を協議するためだった。遠征に失敗したため、新しく作戦を練り直さねばならなかったのだ。

アテネ人は、ペロポネソス連合軍の全勢力を持ってボイオティアで蛮族を迎え撃つつもりだったが、それが全く当て外れとなり、逆にイスマス(地峡部)の防護壁を築造し強化すると知らされた。それは、何よりもまずペロポネソス人の安全を重要視し、ここを防衛するためだった。つまりペロポネソス人は右のこと以外は考慮するつもりはなかった。それゆえ、アテネ人はサラミスに入港することを要望したのだ。

41.ほかのギリシャ海軍がサラミスに向かっているとき、アテネ船団は自国に向かった。そして到着すると、全てのアテネ人は努めて子供や家族を避難させるべし、と布告した。そこで大多数の者はトロイゼンに避難させたが、中にはアイギーナやサラミスに避難させた者もいた。

彼らは早急に家族を危険から遠ざけたがっていたが、それには次の二つの理由があった。それは神託(*)に従うべきだと思っていたことと、特に次の理由があった。アテネ人が言うには、神殿(M*)に大蛇が棲みついていて、これがアクロポリスを守護しているという。彼らはこのように言うばかりか、その蛇が実在しているかのごとく、毎月貢ぎ物を供えていた。その貢ぎ物とは蜂蜜菓子であった。

(*)第七巻百四十、百四十一節を参照。
(M*)アテネのアクロポリスにあるエレクテイオン神殿のこと。

その蜂蜜菓子は、以前は常になくなっていたのだが、今回は手つかずのまま残っていた。このことを巫女が読み解くに、察するに女神たちもアクロポリスを後にしているので、アテネ人はこれまで以上に多くの人数が、さらに急いでアテネを離れるべきだという。そして住民の一族郎党がすべて避難したあと、アテネ船団は海軍の本拠地に回航していった。

42.アルテミシオンから退却してきた海軍がサラミスに入港すると、このことを知った他のギリシャ海軍が、次々とトロイゼンからやって来て加わった。彼らはトロイゼンの港ポゴンに集合するよう、前もって命令されていた。そしてアルテミシオンでの海戦時よりも多くの都市から来たこともあり、その時以上に多数の船が集合した。海軍全体の総督はアルテミシオンの時と同じで、スパルタ人エウリクレイデスの子エウリビアデスだったが、かれは王家の血筋ではなかった。とはいえ、他の都市よりはるかに多数の船を提供したのは、最も高性能の船を所有していたアテネだった。

43.集結したのは次の面々だった。ペロポネソスからはスパルタが十六隻、コリントがアルテミシオンの時と同じ船数、シキオンは十五隻、エピダウロスは十隻、トロイゼンは五隻、ヘルミオネは三隻を提供した。

これらの都市の住民は、ヘルミオネを除き、すべてドーリス系とマケドニア系(M*1)で、エリネオス、ピンドスおよびドリオピス地方(M*2)から最後に移住してきた者である。ヘルミオネ人は、もとはドリオピス人で、ヘラクレスとマリス人によって、今はドーリスと呼ばれている地域から追い出されてきたという。

(M*1)第一巻五十六節
(M*2)第三巻三十一節

44.以上が海軍に参集したペロポネソス人で、ペロポネソス外の本土から参加した都市は次のとおりである。まずアテネは他のどこよりも多く、百八十隻。しかも単独参加。これはプラタイアがサラミス海戦に臨むアテネに参加しなかったため。なぜなら、ギリシャ連合艦隊がアルテミシオンを去り、カルキス付近を通過した際、プラタイア人はボイオティア島の対岸で下船し、自分たちの一族郎党を避難させに行ったからである。こうやって家族の安全確保に奔走したため、彼らはとり残されてしまったのだ。

アテネに関しては、今はヘラス(ギリシャ)と呼ばれている地域を占領していた時代には、クラナオイ人(G*)と呼ばれていたのがペラスゴイ人で、ケクロプス王が支配してた時代にはケクロプス人と呼ばれるようになり、この王の勢力を引き継いだエレクテウスの時代にアテネ人と名を変えている。クストスの子イオンがアテネ人の司令官となってからは、かれの名を取ってイオニア人となった。

(G*)おそらく「高原地帯の住民」のこと。ヘロドトスは、ドーリア人以前のヘラス住民のことを「ペラスゴイ人」としている。

45.さて、メガラはアルテミシオンの時と同じ船数を提供し、アンプラキアは七隻、レウカディアは三隻で支援にきた。彼らはコリント発祥のドーリス人である。

46.島嶼からはアイギーナが三十隻。ただ、彼らはほかにも兵員を乗せた船を持っていたが、これを自国の防衛に残し、最も高性能の船三十隻を持ってサラミスの海戦に加わっている。アイギナ人はエピダウロスから移住してきたドーリス族であり、その島は以前、オイノネという名だった。

アイギーナに続き、カルキスからはアルテミシオンの時と同じく二十隻。そしてエレトリアは七隻。これらはいずれもイオニア人である。アテネから移住したイオニア族のケオスは、アルテミシオンと同じ船数で参加している。

ネクソスは四隻。実は彼らは、他の島嶼と同様、自国からペルシャ軍に派遣されたのだが、諸子中で声望高く、その時の三層櫂ガレー船の司令官でもあったデモクリトスに説得されて、その命令を無視し、ギリシャ側にやって来たのだ。さてネクソス人は、もとはアテネからやって来たイオニア人である。

スティラはアルテミシオンと同じ船数。キスモスは一隻と五十本櫂船が一隻。この両者はドリオペス人である。またセリポス、シプノス、メロスの住民も軍に加わった。島嶼中、彼らだけが夷荻の王に土地と水を献上しなかったためである。

47.以上は、すべてテスプロトイ人の国と、アケロン河の内側に住む者たちである。そして連合軍の中で最遠隔地から来ているアンブラキアとレウカスに国境を接しているのが、テスプロトイ地方なのだ。ここよりさらに遠隔地といえば、唯一クロトン人がギリシャの危機に呼応し、船一隻をもって応援に来た。その司令官は、ピティア競技で三度の優勝経験をもつパイロスだった。なお、クロトン人はアカイアからの移住民である。

48.彼らが提供したのは三層櫂ガレー船だったが、メロス、シプノス、セリプスだけは五十本櫂船を提供した。メロス人はスパルタからの移民で、彼らは二隻。シプナスとセリプスはアテネから移住したイオニア人で、それぞれ一隻ずつ。以上、五十本櫂船を除き、ガレー船の総数は三百七十八隻(M*)となった。

(M*)ここに記載された数を合計すると366隻となる。多くの訳者は、アイギーナの自国防衛(四十六節)に回された船が加算されたのだろうと推定している。これは、アテネを除き、アイギーナが最も多くの船を提供したというパウサニアスの言説を根拠にしている。Steinは四十六節で十二隻を追加すべきと示唆している。

49.これら諸都市からサラミスにやって来た司令官たちは評議を始め、その席でエウリビアデスは、ギリシャの支配下にある場所で、どこが海戦に最適であるか、考えのある者は申し述べよ、と宣した。アッティカ地方はすでに放棄されていたので、それ以外の地域を問いかけたのだ。

意見を表明した者たちのほとんどが、コリントのイスマス(地峡部)で海戦を開き、ペロポネソスを防衛することに同意した。その理由は、万一サラミスで海戦に負けたときには、全く救援を期待できない島に残されて包囲されることになるが、イスマスなら味方の陸地に上陸できる、というのである。

50.ペロポネソスから来た司令官たちがこのような議論をしているとキ、ひとりのアテネ人が情報をもたらした。それによると、夷荻軍はアッティカまで来ており、かの地一帯は全て焼き払われ、蹂躙されたという。クセルクセスの従えている軍はボイオティアを通過し、テスピアイ人の街を焼き払い(住民は街から避難し、ペロポネソスに逃げていた)、プラタイアの街も同じ目に遭わせたあと、いまやアテネに来ていて、その付近一帯をすべて蹂躙している。ペルシャ王がテスピアイとプラタイアの街を焼き払ったのは、彼らがペルシャ側につかなかったことを知っていたからである。

51.蛮族はヘレスポントスを一月かけてヨーロッパに渡り、そこから進撃を開始して三月のうちにアッティカに到達したことになる。そしてその年のアテネのアルコン(執政官)はカリアデスだった。ペルシャ軍はアッティカ低地の諸都市を攻略、破壊したが、同時にアテネの神殿に少数のアテネ人がまだ残留していることに気がついた。それは神殿の管理人たちや貧窮者たちだった。彼らはアクロポリスの入り口に木の柵を作って扉を閉ざし、敵の攻撃から身を守ろうとしていた。その男たちがサラミスに避難しなかった理由は、困窮していたこともによるが、デルフォイの巫女たちの神託の真意を理解したのは自分たちだということも理由のひとつだった。その神託(G*)というのは、「木製の防護壁は決して破られない」、という内容で、それは船という意味ではなく、木の柵が神託のいう安全地帯だと解したからである。

(G*)第七巻百四十二節

52.ペルシャ軍はアクロポリスに対峙する丘の上、すなわちアテネ人がアレスの丘(M*)と呼ぶ場所に陣を構えた。そして次のようにしてアクロポリスを包囲した。彼らは矢の先に麻のぼろ切れを巻きつけ、それに火をともし、防護柵に向けて射かけた。しかし、包囲されていたアテネ人たちは、木の柵が破壊され、極度の窮地に立たされていたにも拘わらず、またペイシストラトス一族の者たちが、彼らに投降を勧告したにも拘わらず、依然として抵抗を続けた。そしていくつかの仕掛けを用いて防戦した。中でも夷荻の兵士たちが門に近づいたとき、巨大な岩石を転がし落としたことも奏功し、クセルクセスは彼らを捕らえることができず、長期にわたって苦しめられた

(M*)アレオパゴスのこと。

53.神託によれば、本土のアッティカ全土はペルシャに下る運命にあるということでもあったが、攻めあぐねる状態が続いたあと、蛮族に打開の兆しが見えてきた。アクロポリスの正門のうしろに、入り口に通じる道がある。この道は誰も登ってくるはずがないと思われていたため、守備する者が一人もいなかったのだ。そこは切り立った崖(G*)であるにもかかわらず、ケクロプスの娘であるアグラウロス神殿の近くから兵士たちが登ってきたのだ。

(G*)ヘロドトスの記述は正確、明瞭。登攀したのはアクロポリスの北壁をなす急勾配の崖である。この地割れの西の侵入口が、アクロポリスの正面参道である。

敵兵がアクロポリスに這い上がってくるのを見たアテネ人は、防護壁の上から身を投げて死んだ者もいたが、ほかの者たちは神殿の聖域に逃げ込んだ。丘に登ってきた兵士たちは最初に門に駆けつけてこれを開放し、次に聖域の中にいる者たちを斃しにかかった。全員を斃したあとは神殿を掠奪し、アクロポリス全体に火をつけた。

54.アテネを完全に掌握したクセルクセスは、騎馬による伝令をスーサに送り、上出来の首尾をアルタバノスに知らせた。その伝令を送り出した翌日には、随行していたアテネからの亡命者たちを呼びつけ、アクロポリスで彼らなりの仕方で生贄儀式を執り行わせた。これは何らかの夢によるものか、ひょっとすると神殿を焼き払ったことに対して良心の呵責にさいなまれたのかもしれない。

55.私がこのことを取り上げた理由を話しておく。アクロポリスには、大地から生まれたと伝えられているエレクテウス神殿が建立されているが、アテネ人の伝説によれば、ポセイドンとアテネがこの地を取り合ったとき、その証拠としてオリーブの木と海の水が、この神殿内におかれている(G*)。そして蛮族によって神殿と共にこの木も燃されてしまった。焼き討ちの翌日、王の命令によってアテネ人が生贄儀式を行なうべく神殿に登ったとき、切り株から一キュービット(約四十五糎)ほどの長さの芽が出ているのを目にした。このように彼らは伝えている。

(G*)アテネはオリーブの木を、ポセイドンは海水をおいた。ケクロプスは、アテネにその地を与えると裁定した。

56.さてサラミスにいるギリシャ軍は、アテネのアクロポリスの状況を知って大いに動揺し、幾人かの司令官は提案された作戦を決める暇もなく、さっさと船に乗り込み、逃げ出す始末だった。最終的には、残った者たちはイスマス(地峡部)を防衛することを決め、夜なったので、評議を終えて自分の船に戻っていった。

57.テミストクレスが自分の船に戻ると、アテネ人のネシフィロスが評議の結果をたずね、イスマスに船団を進め、そこでペロポネソスを防衛する海戦を開くという決定を聞き、かれは言った。

「では、サラミスから船が出てゆくと、貴殿は祖国を守る海戦をしないということですな。彼らは自分の国に帰ってしまうだろう。エウリビアデスをふくめ、だれも彼らを引き留められないだろうし、艦隊が散り散りになることを止められないだろう。そうなると、ろくでもない評議の結果でギリシャは壊滅することになる。ここは何としても決定をくつがえすよう試みるべきで、うまくゆけば、エウリビアデスの作戦を変更し、ここに残るようかれを説き伏せられるかもしれない」

58.この助言を聞いてテミストクレスは大いに気を強くし、返事もせずにエウリビアデスのいる船に向かった。到着するとかれは、懸案事項に関して話がしたいとエウリビアデスに言った。エウリビアデスはテミストクレスを船に招き入れ、どんな用件かと訊いた。そこでテミストクレスはかれの横に腰掛け、ネシフィロスから聞かされたことを、あたかも自分が考えたかのように全て話し、それ以外にも多くのことをつけ加えて話した。そしてかれの熱心な要請が功を奏した結果、ついにエウリビアデスの説得に成功し、船をおりて司令官たちを評議に招集することにこぎつけた。

59.司令官たちが一堂に会すると、エウリビアデスが議題を提案するのも待ちきれず、テミストクレスは差し迫った用件を解決するべく、熱弁をふるい始めた。するとその最中、オキトスの子アデイマントスというコリントの司令官が言った。
「テミストクレスよ、競技会では抜け駆けする者は棒で打たれると決まっているぞ」
しかしかれも負けじと言い返した。
「そうだ。しかし出遅れた者が栄冠を勝ち取るとは決まっていないぞ」

60.その時、かれは穏やかにコリント人に返答したが、エウリビアデスに対しては、以前に語ったこと、すなわちギリシャ諸国の船がサラミスから出てゆけば、船団は散り散りになるだろうということは、いまは少しも口に出さなかった。というのも、同盟軍のいる前で彼らをそしるようなことを口にするのは、いかにも相応しくないと考えたからだ。ただ、かれは別の理屈を述べ立てた。

「いまやギリシャを救うのは貴殿の力にかかっている。それもこれも貴殿がイスマス(地峡部)に移動するという考えに従うことなく、ここに留まって海戦を開くという、私の考えに従ってくれるなら、の話しではあるが。まず両方の作戦を聞き、それらを比べて見てほしい。仮にイスマスで戦端を開いたとすれば、開けた公海上での戦いとなり、これは重い船でしかも敵より少ない数の我らには圧倒的に不利だ。そして万事が好首尾に終わったとしても、サラミス、メガラ、アイギーナの街は放棄せざるをえない。なぜなら、敵の海軍と共に陸軍が進攻してきているからだ。その結果、貴殿はみずからが敵をペロポネソスに導くことになり、ギリシャ全土の安全を脅かすことになるだろう」

「しかしわが輩の作戦に従ったときには、次の利点があると分かるだろう。まず第一に狭い海域において、少ない船で多数の船に当たれば、戦いが通常の経過をたどる限り、わが方が断然有利だ。狭い海域での戦いは我らに有利だが、広い海域での戦いは敵方に有利となる。第二に我らの女子供を避難させているサラミスが確保されるのだ。加えて、この作戦には貴殿の最も気にかけていることも含まれている。すなわち、ここで戦うことはイスマスで戦うことと同じくペロポネソスを防衛することになるのだ。しかもこれによって敵をペロポネソスに導くことにもならないと、賢明な貴殿なら分かるだろう」

「わが輩の期待通りに事が運び、我らの海軍が勝利をおさめた暁には、蛮族は混乱して退却するはずゆえ、彼らはイスマスへもさらにはアッティカにもやって来ないだろう。その場所で我らは敵に勝利する、という神託の文言にもあるごとく(M*)、我らはサラミスやメガラ、アイギーナを守り抜いた勝者となるはずだ。理によって考えれば、正しい結果が得られるもの。理に従わざれば、神はその判断に同調なさるまい」

(M*)第七巻百四十一~百四十三節

61.テミストクレスがこのように語ると、コリントの司令官アデイマントスが再び激しく抗弁した。そしてテミストクレスには、祖国を失っている者は黙るべきだと言い立て、エウリビアデスには、街を失った者の言うことに耳を貸すべきでないと力説した。さらにテミストクレスには、自分の国がどこにあるか示せるなら意見を言ってもよいが、そうでなければ黙っていろと言った。アデイマントスがこの異議を唱えた訳は、すでにアテネが陥落し、敵の手に渡っているからであった。

しかしテミストクレスはその時、アデイマントスとコリントに対してあれこれの罵詈雑言を浴びせかけた上で、自分たちは二百隻の船と乗組員を持っている限りは、現実にコリントより広い領土の国を持っているのと同じで、アテネに勝てる国はギリシャにはどこにもないではないか、と言い放った。

62.次にテミストクレスはエウリビアデスに向かい、前よりずっと熱心に話しかけた。
「貴殿はここに残って男を上げるがよい。残らなければギリシャは崩壊するぞ。我らの戦の総力は、一にこれ海軍にかかっているからだ。であるから、ここはわが輩の策に従ってもらいたい」

「万一貴殿が、わが輩の策を放棄するというなら、我らはただちに一族を引き連れてイタリアのシシリーに移住することとする。ここは古来より我らの地であるし、神託においても、我らの植民地になる定めにあるといわれてもいるのだ。そしてかくのごとき同盟軍をなくして一人取り残された時に、わが輩の言葉を思い出すがよい」

63.右のテミストクレスの言葉に説き伏せられて、エウリビアデスは考えを変えた。これは察するに、イスマスに船団を移せば、アテネは同盟から離脱することを怖れたのが、主な理由であろう。アテネが欠ければ、残った軍勢ではもはや敵軍に対抗するのは不可能だ。そこでかれは、この地に留まり、海戦によって戦いを決する策を取ったのだ。

64.かくてサラミスで議論を戦わせた面々は、エウリビアデスの決定に従い、この地での海戦に向けて準備を始めた。ところが、翌日の夜明けに陸と海で地震が発生した。

そこで彼らは神々に祈りを捧げることとし、アイアコス一族(*1)の支援を求めるため、彼らを召喚することにした。そして八百万の神々に祈りを捧げるとともに、海軍の碇泊しているサラミスからアイアスとテラモン(*2)に支援の祈りを捧げ、アイアコスとその一族を招く船をアイギーナに向けて送った (G*)。

(*1)アイアコスはゼウスとアイギーナの子。冥界の審判官のひとり。
(*2)ギリシャ神話サラミスの王テラモンとその子アイアスの霊。
(G*)アイアコスとその子孫に関しては第五巻八十節を参照。

65.ここで、当時アテネからの亡命者でペルシャで名声を博していたテオキデスの子ディカイオスによる次のような話がある。アテネが放棄していたアッティカ地方をクセルクセスの陸軍が掠奪しているとき、かれはアッティカ西部のトリアシオ平野(G*)において、スパルタ人デマラトスと偶然にも一緒になったことがあるという。その時彼らはエレウシスから土埃がわき上がり、あたかも三万人の群衆が巻き上げたかのようだったので、一体誰がこのようなことを起こしているのかと怪しんだ。そして直後に口々に叫ぶ声が聞こえたが、その物音がイアッコスの秘儀(*)の叫び声であるとディカイオスには分かった。

(G*)アテネの北西。エレウシスはアテネから約15マイル離れている。プルタークは、この怪異現象が観察されたのは、サラミスの開戦当日、すなわち9月22日(ボエドロミオン月の20日目)のことだと述べている。これが観察された日は、エレウシス祝祭の始まる日に一致している
(*)イアッコスは古代ギリシャの神。ゼウスがデメーテルまたはペルセフォネに生ませた子とされている。信者がアテネからエレウシスまでかけ声をあげつつ行列するというエレウシスの秘儀が知られている。

しかしデマラトスはエレウシウスの秘儀のことを知らなかったので、これは何の叫び声かとかれに訊ね、ディカイオスはそれに答えた。
「デマラトスよ、王の軍には何か大きな惨事が起きるようだ。アッティカが放棄されていて人がいないことを考えると、これは神々の叫び声であることは明らかで、エレウシウスからアテネとその同盟国の救済に向かっているに違いない」

「これがペロポネソスまで到達するなら、本土にいる王自身と麾下の軍に危険が迫っているだろうし、行進がサラミスにいる船団に向かうなら、王はその海軍を失うことが危ぶまれるな」

「この祭礼は、アテネ人が年ごとにデメテル神とペルセフォン神の母娘のために行なっているもので、アテネ人や他のギリシャ人で望む者があれば誰でも、この秘儀に参加できるのだ。貴殿がここで耳にしている口々の声は、この祭礼で発せられるイアッコスの叫び声なのだ」

これを聞いたデマラトスは語った。
「口をつぐみ、このことを誰にも言ってはならぬぞ。お主の言ったことが王に聞こえたら、その首が飛ぶこと必定。わが輩も含め、この地上のだれもお主を救うことはできぬぞ。神の思し召しになっている遠征のことに関しては黙っていることじゃ」

かれはこう言ったが、土煙と叫び声は霞となったあと、空高く舞い上がり、ギリシャ軍の陣営のあるサラミスに向かって行った。これを見て、かれが言うには、クセルクセスの海軍は壊滅の運命にあるものと分かったという。以上のことが、テオキデスの子ディカイオスによって、デマラトスや他の者たちを証人にあげて語られている

66.さてクセルクセスの海軍将兵たちはテルモピュレーにおけるスパルタ兵全滅の実態を驚嘆して見学したのち、トラキスからヒスティアイアに行き、そこで三日留まってからエウリポス海峡に向かった。そしてさらに三日留まってからファレロン(*)に到着した。これは察するに、ペルシャ軍は、セピアスやテルモピュレーにおける陸海軍を上回る軍勢でアテネを攻撃したはずだ。

(*)アテネの南西部、約5Kmの地にある街。

それは、嵐で亡くなった兵士、テルモピュレーやアルテミシオンの海戦で戦死した兵士を補充するものとして、当時はまだペルシャ軍に参加していなかった国々を挙げれば、次のようになるからだ。マリス、ドリス、ロクリス、テスピアイとプラタイアを除くすべてのボイオティア、さらにカリストス、アンドロス、テノス、それから以前話した(G*)五都市を除く全島嶼からの兵士である。ペルシャ軍がギリシャの中心に近づくにつれ、従軍する国も増えていることが分かる。

(G*)本巻四十六節では六都市が挙げられている。

67.そして戦いの帰趨を見極めるために後方のキトノス島に残っているパロス兵を除き、全軍がファレロンに到着したとき、クセルクセス王は艦隊の将兵の意見を聞きたくなり、みずからが船団を訪れた。

そして到着して然るべき場所に座を占めると、自国民を従えた僭主たちや各民族の司令官たちが船を下りて王の前に集合し、それぞれが王の指定した配置に従って座った。最初にシドンの王、次にテュロスの王、というように他の者たちがそれに続いて座った。序列に従って全員が席に着いたところで、クセルクセスはマルドニオスを送り、海戦に臨むべきかどうか個別に問いかけさせた。

68.マルドニオスがシドン王から始めて他の者たちを巡り訊ねてみると、全員が海戦を開くべしという考えを出したが、ひとりアルテミシアのみが次のように語った。

(a)「どうか王にお伝え下され、マルドニオス。われはエウボイアの海戦において少なからず働き、他の者に劣らぬ武勇を示した者にござりまする。お上に次の言葉をお伝え下されませ。お上よ、わが真実の考えを申し上げることこそ正しきことと考えまするゆえ、お上の企てにとって最善と思われる策を申し上げまする。どうかお上の船団を温存なされ、海戦は避けられますように。海戦においては敵兵はお上の兵よりもはるかに雄剛でございます。例えれば男と女ほどの違いがございます」

「その上、海戦の危険を冒さねばならぬ理由がどこにありましょうや?このたびの遠征の目的でありましたアテネは未だ手にしておられませぬか?またその他のギリシャも手にしておられぬと申されるか?今やお上の行く手を阻む者などどこにもおりませぬ。刃向かった者どもは、それなりの痛手を被り逃げ散っておりますぞ」

(b)次に敵の状況がどのようになってゆくか、手前の考えを申し上げまする。海戦を急ぐことなく、この地にて海軍を温存なされるか、あるいはペロポネソスに進軍なされるなら、お上はその目的をたやすく達せられるはずにございます。ギリシャはそれほど長きにわたって持ちこたえられませぬゆえに。そしてやがてはお上は敵を蹴散らされ、彼らは自分たちの国に逃げ帰るでしょう。私が聞くところでは、彼らはこの島で食糧を用意しておらず、またお上がペロポネソスに陸軍を進攻なされれば、その地の敵はそこに留まることも叶わず、アテネ防衛の海戦を行なうなど眼中から消え失せるでありましょう」

(c)しかしながら、お上が海戦を急がれるなら、私が怖れておりますのは、海軍が被った痛手が陸軍にも及ぶことにございます。その上、お上よ、次のこともお考え下され。すなわち、優れる者の従者は怠惰に流れ、愚者の従者は秀でるものにございます。さすれば、お上は全軍中、最も優れたお方ゆえ、愚かな従者をお持ちである。すなわち同盟諸国として名を連ねている面々、エジプト人、キプロス人、キリキア人、パンピリア人などは何の役にも立ちませぬ」

69.彼女はマルドニオスにこう語ったが、アルテミシアに友好的だった者たちは、その言葉を聞いて嘆いた。というのも、彼女が海戦を否定するのに熱心なあまり、王から何らかの咎めを受けるのではないかと思ったからである。一方で、彼女が同盟諸国中、この上なく名声を博していることで彼女を妬み、嫉妬している者たちは、その意見を聞くと、彼女はもはや破滅するだろうと思い、内心で拍手喝采した。

ところが、その献策がクセルクセスに届けられると、王はアルテミシアの考えに大満足した。これ以前から、王は彼女が有能であると認めていたのだが、今回はそれにもまして彼女を賞賛した。にもかかわらず、王は多数意見に従う命令を下したのである。それは、エウボイアでの海戦では、王自身が海軍に同行していなかったことから、自軍の者たちの士気が低下したものと考え、今回は自軍の海での戦いぶりを観戦する準備をさせていたのだ。

70.さて出航命令を受け、彼らは麾下の船団とともにサラミスに向けて出航し、何事もなく戦列を調えた。その時は宵闇が迫っていて戦いを仕掛けるには暗かったこともあり、その翌日に向けて戦いの準備を行なった。

一方のギリシャ軍は恐れ戦いていた。特にペロポネソスの諸国がそうであった。彼らはサラミスに留まってアテネの領土のために戦うことに対して士気が上がらず、加えて万一敗戦した時には島に閉じ込められて包囲され、自分の国が無防備のままになることを怖れていたのだ。実際に蛮族陸軍は、その夜にはペロポネソスに向けて進軍を開始していた。

71.とはいえ、蛮族陸軍がペロポネソスに侵入するのを防ぐさまざまな方策が用いられていた。レオニダスの部隊がテルモピュレーで全滅したことを知ったペロポネソス諸国は、ただちに自国を発してイスマスに集合して陣をはり、アナクサンドリデスの子で、レオニダスの弟クレオンブロトスを総司令官とした。

彼らはイスマスに陣をおき、スキロン街道(G*)を破壊したあと、協議の結果イスマスを防禦する塁壁を築造することにした。人員は何万人もいたし、しかも全員が携わったので、この工事は素速く進んだ。石材、レンガ、木材、籠に満載の砂などが休みなく運び込まれた。支援に来た者たちは、昼夜の別なく、片時も休まず作業を続けた。

(G*)後に正規の街道に整備された道で、イスマスに沿ってゲラネイアに通じている。およそ6マイルにわたる狭く危険な道で、ごく簡単に通行不能にできる。

72.全軍挙げてイスマス防衛にやって来たのは次の国々である。スパルタ、アルカディアの全都市、エリス、コリント、シキオン、エピダウロス、ペイライエス、トロイゼン、ヘルミオネ。これらの国はギリシャの危難を憂慮して救援にやって来たのだが、その以外のペロポネソス諸国は、この時にはすでにオリンピア祭もカルネイア祭も終わっていたにもかかわらず、全く関心(G*)を示さなかった。

(G*)不参加の弁明はまったくなかった。第七巻二百五節を参照。

73.さて、ペロポネソスには七民族が居住している。そのうち二つの民族は土着の部族で、古来より同じ所に定住してるアルカディア人とキヌリア人がそれである。アカイア人はペロポネソスから離れなかったものの、その昔に元来の地を離れて別の場所に定住している。

残りの四民族は移民である。すなわちドーリア人、アイトリア人、ドリオペス人、レムノス人がそれだ。ドーリア人には有名な国が多くあるが、アイトリア人の国はエリス一国だけである。ドリオペス人の国はヘルミオンと、ラコニア地方のカルダミレに近いアシネである。そしてパロレアイタイ人は全てレムノス系民族である。

キヌリア人は土着民だが、唯一イオニア系と思われる。彼らはアルゴス人に征服されたあと、時の経過とともに完全にドーリア人と化した者で、もともとはオルネアイ(M*)またはその周辺の定住民だった。

(M*)オルネアイ人はスパルタにおける奴隷(ペリオイコイ)と同様に、アルゴスの奴隷の立場だった。

これら七民族のうち、いま私が挙げたもの以外の国は中立の立場を取ったのだが、これを忌憚なくいえば、彼らは中立の立場を取ることでペルシャに与したのだ。

74.イスマスの防衛軍は、海軍の勝利を期待していなかったゆえに、いまや自分たちの存続を賭けた戦いに臨むものと考え、先に話した防護壁の築造作業に奮闘していた。

一方サラミスにいる軍は、この作戦を知って強い不安に襲われたが、それは彼ら自身のことではなく、ペロポネソスを気遣ってのことだった。兵士たちは、しばしば作戦について私語を交わし、エウリビアデスの馬鹿さ加減にあきれていたのだが、それがついには大っぴらなものとなってしまった。結局、また会議が開かれることになり、以前と同じ問題について多くの意見が出され、ある者は、海軍はペロポネソスに移動し、ここを防衛することに賭けるべきで、敵の手に落ちた国のために、ここに留まって戦うべきではない、と説いた。ところがアテネ、アイギーナ、メガラの者たちは、ここに留まって防衛するべきだと力説した。

75.さてテミストクレスは自分の意見がペロポネソス人に打破されそうになったのを見て、密かに会議を抜け出し、ある男に伝言を託し、ペルシャ軍の陣営に向けて船で送り出した。その男の名はシキノスといい、テミストクレスの従僕で、かれの子供の家庭教師だった。そしてこの騒動のあと、テスピアイが新しく市民を受け入れたとき、テミストクレスはかれをテスピアイの市民に編入させたので、かれは富裕者となった。

さてこの時、かれは船を走らせて蛮族司令官に次の言葉を伝えた。
「アテネ人の司令官が他のギリシャ人に知られることなく密かに私を派遣なされた。というのも、かれはペルシャ王の味方で、ギリシャではなくペルシャの勝利を望んでおります。そしてギリシャ人は恐慌をきたして逃走を図っておりますゆえ、彼らの逃走を阻止なさるなら、いまが立派な働きをなさる時でございます」

「ギリシャの考えは一つにまとまっておりませぬゆえ、いざ海戦となると貴軍に立ち向かうどころではなく、ペルシャに味方する側とそうでない側との間でお互いに戦うのを貴殿はご覧になるはず」このように伝えたあと、かれは帰って行った。

76.ペルシャ軍はその伝言を信用するに足るものと考え、まずは本土とサラミスの間に浮かぶプシタレイアの小島に多数の兵士を上陸させたあと、深夜を待って艦隊の右翼部隊を出航させてサラミスの周囲を回らせ、かつはケオス、キノスラ周辺に碇泊していた艦隊も出航させてムニキアに至るまでの海峡を封鎖した。

彼らが艦隊を出動させた理由は、ギリシャ艦隊の逃走を阻止してサラミスで捕らえ、アルテミシオンでの屈辱を晴らすためだった。プシタレイアの小島に兵士を上陸させたのは、この小島が戦場となる海域途中にあるので、戦いが始まると、とりわけ破船の残骸や乗員が岸辺に打ち上げられると予想されたからで、味方の側を助け、対立している側を攻撃するためだった。ペルシャ軍は敵に察知されないよう物音を立てず、夜を徹してこの準備を行なった。

77.さて神託に関して、私にはそれが真実をついていないとは反論できない。というのも次に挙げることを目の当たりにして、それが明言していることを覆したいとは思わないからである。

  そは猛り狂う欲望もて輝かしきアテネを略奪せしのち
  黄金の剣を帯び給う女神アルテミスの聖なる岬と
  海に浮かぶキノスラを船にて橋渡すとき
  すさまじき煩悩もて、ものみな全てを飲みほさんとする
  「傲慢」の子たる「強欲」を、神の正義は鎮め給うであろう

  青銅は青銅に対峙し、軍神アレスの血しぶきによりて
  海は紅く染まるであろう
  その時こそ、眼を見開きしクロノスの御子と
  聖なる勝利の女神ニケが、
  自由となる日をギリシャにもたらし給ふであろう

かくのごとく予言者バキスが明確に述べているのを見て、私は敢えて神託に異を唱えようとは思わないし、人々がそうすることも容認しない。

78.さて、サラミスにいる司令官たちの間では激しい論争が起きていたが、彼らは蛮族海軍が自分たちを包囲しようとしていることをまだ知らず、敵海軍は昼の間に見た位置に留まっているものと思っていた。

79.司令官たちが論争しているところへ、リシマコスの子アリステイデスがアイギーナからやって来た。かれは市民から陶片追放されていたアテネ人で、かれの人となりを聞くところでは、アテネ人の中では飛び抜けて有能かつ高邁な人物だという。

その人物が会議にやって来てテミストクレスを呼び出した。かれはアリテイデスと親密な仲ではなく、強い敵対関係にあったが、今の厳しい国難においては、その確執を一時忘れることにし、かれと意思の疎通をはかろうとしていたのだ。かれは、ペロポネソス諸国が海軍をイスマスに移したいと強く要望していることを、その前から聞いていた。

テミストクレスがやって来ると、アリステイデスは次のように語った。
「いかなる時も、とりわけこのような状況の下では、我らの間の敵対関係は、どちらが祖国をよりよくするか、で争わねばならない」

「そこでじゃ、ペロポネソス諸国がこの地から海軍を出航させることについての議論の多寡は、この際無意味だと言いたい。というのも、わが輩はこの眼で見た上で言うのだが、いまや我らは敵に包囲されているのだ。ゆえに、たとえコリント人やエウリビアデス自身が出航したいと思っても、それは不可能じゃ。会議に戻り、このことを彼らに伝えるがよい」

80.これに対してテミストクレスは次のように返答した。
「これは貴重な情報かつ良き知らせでござる。貴殿が目撃したことは、まさにわが輩が望んでいたこと。ペルシャ軍の行動は、わが輩の差し金であると、ここで告白しておこう。ギリシャ人は戦うことに乗り気でないゆえ、無理にでも戦いに向かわせる必要があったのだ。せっかくの良い知らせであるから、貴殿がみずから会議の面々に伝えてやってくれぬか」

「わが輩がそれを伝えると、彼らは蛮族がこのような行動を取るとは思っていないので、わが輩がでっち上げたことだと受け取り、彼らを説得できないだろう。貴殿みずから会議に入り、現状を彼らに知らせてやってくれ。貴殿が話して彼らが信用してくれるなら、申し分ないことだ。しかし彼らが現状を信じないのであれば、貴殿の言う通り、回りをことごとく包囲されている状態では、彼らが逃げ出すのは不可能だろうから、どのような策も我らにとっては同じことではあるが」

81.そこでアリステイデスは会議に入り、自分はアイギーナから監視の目をかいくぐり、やっとの思いでやって来たのだと話した。そして、ギリシャの陣営は全てクセルクセスの海軍に包囲されていると知らせ、防戦の準備をするべきだと勧告した。このように語ってから、かれは退席したが、多くの司令官たちが知らされたことを信じなかったので、会議は再び紛糾した。

82.彼らが疑惑に駆られているとき、ちょうどテノス人の乗った一隻の三層櫂ガレー船が敵方から脱走してきた。その指揮官ソシメネスの子パナティオスが、事の真相を報告したのである。この行ないにより、テノス人は、蛮族を制圧した者たちとともに、デルフォイの三脚祭壇に名を刻まれることになったのである。

その船がサラミスに逃亡して来たのと、それより先にアルテミシオンから逃れてきたレムノス人の船を合わせると、ギリシャ海軍の船はちょうど三百八十隻となった。それ以前はこれより二隻少なかったのだ。

83.テノス人の言ったことを、彼らは信用するに足るものと見なしたので、ギリシャ軍は海戦の準備にとりかかった。そして夜明けとともに兵士たちを集合させたが、その場でテミストクレスの行なった演説が抜群に見事だった。かれの演説は、全編これ人間の本質と態様に関して、その長所と短所を比較検討するものであった。

そしてそれらのうちから長所を選択するよう助言して演説を締めくくったのち、乗船するように命令を下した。そして兵士たちが乗船を終えた頃には、アイアコス一族(*)を迎えに行っていた三層櫂ガレー船がアイギーナから帰還した。

(*)アイアコスはゼウスとアイギーナの子。冥界の審判官のひとり。本巻六十四節を参照。

84.ここにおいてギリシャは全艦出陣することにしたが、船を海に繰り出そうとしていると、すぐさま蛮族海軍が攻撃をしかけてきたため、他のギリシャ人たちは自分たちの船を戻し、岸に上げようとした。ただ、パレネのアメイニアスというアテネ人指揮官だけは船を押し出し、敵に突進していった。かれの船が敵船と絡み合い、乗員が離脱できないのを見て、他の船もアメイニアスを助けようとして戦いに加わった。

アテネ人は、このようにして戦いが始まったと伝えているが、アイギーナ人の伝えるところでは、アイアコス一族を迎えに行った船が戦いを始めたという。ところが、ここに女人の化身が現われたという話も伝わっている。その化身はギリシャの全艦隊に聞こえるほどの大音声で叫び、
「気が狂ったか、者どもよ。どこまで船を戻そうとするか!」
と言って叱咤激励したという。

85.アテネ人部隊には、エレウシス側の西翼にいたフェニキア人部隊が対峙した。スパルタ人に対峙したのはペイライエス側で東翼をになっていたイオニア人部隊だった。ここで、幾つかの部隊はテミストクレスの指示を受けて故意に戦闘を怠るような戦いぶりだったが、その他大多数は、そのようなことはなかった。

ここでギリシャ軍船を撃破した多くの指揮官を公表してもよいのだが、二人のサモス人、アンドロダマスの子テオメストルとヒスティアイオスの子フィラコス以外は、その名を挙げないでおく。

この二人だけをここに挙げるのは次の理由による。テオメストルはこの功績によってサモスの僭主に任じられ、フィラコスは王の恩人としてその名を記録され、広大な領土を与えられたからだ。ここで言う王の恩人とは、ペルシャ語では「オロサンガイ(G*)」という。

(G*)古代ペルシャ語。「賞賛し記録に値する」という意味。

86.彼らはこのような戦果を挙げたが、大多数の船はサラミスでアテネ人部隊とアイギーナ人部隊によって破壊され、航行不能となった。 ギリシャ艦隊は戦列を調えて戦ったが、蛮族の船隊は隊列も組まず、全く作戦もなしに戦ったからで、これは当然の結果である。しかしその日のペルシャ軍の奮闘振りは、クセルクセスが観戦していることで王を怖れ、また王が特に自分に目をかけていると思っていたため、全員が一心に励んだ結果、エウボイアでの戦い振りを凌ぐものだった。

87.これ以外の蛮族やギリシャ人の個々の戦いぶりを詳細に語ることは、私にはできない。ただ、アルテミシアが起こした次のことは、依然として王の高い賞賛を得ている

王の側が全軍混乱に陥っている中で、折しもアルテミシアの船がアテネ船に追い詰められた。味方の船が彼女の船の前方にいて、彼女の船が敵に一等近い位置にあったため、逃げ出せなかったのだ。そこで彼女は次のような挙に出、それが功を奏したのである。すなわちアテネ船に追跡されている中で、彼女は自分の船をカリンダ人の僭主ダマシティモスが率いる味方の船に激突させたのだ。

彼らがヘレスポントスに滞在中、両者の間に何らかの諍いがあって故意にそうしたのかどうか、私には分からない。また、カリンダ人の船がたまたま彼女の行く手を阻んでいたのかどうかも分からない。

しかし彼女が船を激突させて相手の船を沈めたことで、彼女は二つの利点をつかんだ。アテネ船の艦長は、アルテミシアの船が蛮族の船を沈めたのを見て、その船がギリシャ軍か、あるいは蛮族からの脱走船だと思ったのである。そこでかれは船の向きを変え、他の船に向かっていった。

88.まず第一に、彼女はうまく逃れて船の破壊を免れ、二番目に、自分の不祥事が逆にクセルクセスから格別の賞賛を浴びることになったのだ。

クセルクセスは戦闘の模様を観戦していたが、彼女の船が他の船に激突するのを見て、観戦者のひとりが云った。
「お上、アルテミシアの見事な戦いぶり、それに敵船を沈めるさまをご覧になりましたでしょうか?」王は、それをなしたのが真にアルテミシアかどうかを下問すると周りの者たちは、彼女の船に明らかな特徴があるのを知っていたし、また破壊されたのが敵船だと思ったので、そのとおりだと返答した。

すでに話しているとおり、多くのことが彼女に幸運をもたらした。しかもカリンダ人の船からは生還者が一人もいなかったので、彼女を告発する者が誰もいなかったことも幸いした。クセルクセスに語りかけた者に、王は次のように語ったと伝えられている。
「予の男たちは女であるか、また予の女たちは男であることよ」

89.この海戦ではダリウスの子でクセルクセスの兄弟のアリアビグネスが戦死した。ほかにもペルシャやメディアを含む同盟軍の有名人が多数戦死している。一方のギリシャ側の戦死者は僅かだった。それは彼らが泳法を心得ていたからで、破船し、白兵戦で生き残った者はサラミスに泳ぎついた。

ところが蛮族軍兵士は泳げなかったために、その多数が海で死亡した。それは、最前列の船が逃走を図ると、後方で戦列を組んでいた船団も王に手柄を見せようとして前面に押し出し、逃走する船と味方同士で衝突したからである。

90.この混戦中に、船を破壊されたフェニキア人の一部が起こした次のような騒動があった。彼らは王の下へゆき、イオニア人のせいで自分たちの船が失われたため、彼らは裏切り者だと訴えたのである。ところがイオニア人司令官たちは命を長らえ、訴えたフェニキア人司令官たちが罰を受けることになった。それを今から話すことにしよう。

彼らがまだ話している最中にサモトラケ人の船がアテネ人の船に突っ込み、その船が沈没すると、こんどはアイギーナ人の船がサモトラケ人の船に突入してそれを沈めたのである。しかしサモトラケ人は槍投げに長じていたことから、自分たちの船を沈めた船の兵士を槍で斃したあと、その船に乗り移って奪ったのである。まさにこの出来事がイオニア人たちを救うことになった。

極度にいらついていたクセルクセスは、周囲の者全てに当たり散らしていたのだが、イオニア人の素晴らしい武功を見るや、フェニキア人に向かい、臆病な振る舞いにおよんでおきながら、高潔な人士を誹謗することは許されぬとして、彼らの首を刎ねよと命じた。

クセルクセスは、サラミス対岸のアイガレオス山の麓に座して自軍の兵士が武勲を立てるのを見るたびに、その名を質し、書記官は指揮官の名とその父の名、出身国を記録していた。その時、アリアラムネスというイオニア人の客分だったペルシャ人が居合わせたこともフェニキア人の惨事に預かっていた。フェニキア人の処遇については以上。

91.そうこうしているうちに、蛮族船がファレロンに向かって逃走し始めると、アイギーナの船隊が海峡で彼らを待ち構えていて目覚ましい活躍を見せた。それは、混戦の中でアテネ船隊は向かってくる船や逃げ出す船を撃破していたが、アイギーナ船隊は逃走を図る敵船を待ち構えて攻撃したからだ。すなわち、アテネ軍の攻撃から逃げ出した船はアイギーナ船隊のただ中に突入する羽目になったのである。

92.その中で、敵船を追跡していたテミストクレスの船とアイギーナ人でクリオスの子ポリクリトスの船が接近したことがある。ポリクリトスの船はシドン人の船に突撃していたのだが、この船はまさにスキアトス島で監視に当たっていたアイギーナ船を捕獲した船で、イスケノオスの子ピテアスを乗せていた(M*)。このピテアスは満身創痍になりながらも武勇を働いたことに感嘆したペルシャ軍によって、船に留め置かれていたのだ。ペルシャ兵とともにピテアスを乗せていたシドン船が捕獲されたことにより、ピテアスは無事にアイギーナに帰り着いたのだった。

(M*)第七巻百七十九、百八十一節

さてポリクリトスはアテネの船を見て、それが旗艦であることに気づくと、かつてアイギーナ人はメディアの味方だ言われたことに対して、罵りと罵倒の叫び声を上げた(G*)。かれはシドン船を攻撃したあと、侮蔑の言葉をテミストクレスに浴びせかけたのだが、一方で破壊されずに済んだ蛮族の諸船はファレロンに逃走し、陸上軍の庇護下に入ることになった。

(G*)ポリクリトスはテミストクレスに向かって叫んだ。「我らがどれほどペルシャに友好的か見てみろ!」かつてアイギーナがペルシャに与していたとして糾弾されたとき、ポリクリトスと父のクリオスはアテネに監禁されていた。第六巻四十九-五十、七十三節、八十五節を参照。

93.この海戦で最も大きな戦果をあげたギリシャ部隊はアイギーナで、アテネがそれに次いだ。個人ではアイギーナのポリクリトスとアテネはアナギロス出身のエウネメス、同じくアテネはパレネ出身のアメイニアスだった。このアメイニアスこそ、かのアルテミシアを追い詰めた人物である。アルテミシアがその船に乗っていることを知っていたなら、彼女を捕らえるか、自分自身が捕らえられるまで、彼は追跡を止めなかっただろう。

それは、彼女を捕らえよという命令がアテネ隊の艦長たちに下されていたし、加えて、彼女を生け捕りにした者には一万ドラクマもの賞金が与えられるはずだったのである。アテネ人にとっては、女の分際でアテネに戦を仕掛けることが、とうてい許しがたいことだったからである。ところが前に話したとおり、彼女はうまく逃げおおせ、また船の破壊を免れた他の部隊もファレロンに逃げ込んだのだ。

94.コリントの司令官アデイマントスについては、アテネ人の言うところでは、海戦が始まるやいなや、かれは恐怖のあまりパニックに陥り、帆を上げてさっさと逃げ出したという。そして司令官の船が逃げ出したのを見たコリント船も同じく逃げ出した。

その後、彼らがサラミス島のアテナ・スキラスの聖廟(G*)付近にさしかかったとき、神佑となった一艘の小舟に遭遇したという。それを送り出したのが誰かは分からず、またその時にはコリント人はギリシャ海軍の状況を全く知らなかった。そして小舟が近づき、乗っている者たちの話から、これが神のなせる業だと彼らは解したのだ。

(G*)サラミス南端に建立されている。海戦の開始時に、ペルシャ軍がサラミスと本土の間の水路全体を掌握していたなら、どのようにしてコリント人が当該地点に至ったのか、わからない。

「アデイマントスよ、汝はギリシャを裏切り、船を転じて逃走しておるが、ギリシャは、願った通りに敵に勝っておるぞ」
アデイマントスは、その時にはこの言葉を信じなかったので、再び彼らは語りかけ、自分たちを人質にして連れて行き、万一ギリシャが勝利していないなら、その時には殺されてもよい、と言ったのだ。

そこでかれは他のコリント船とともに船を反転させ、海軍に戻ったが、その時には全てが終わっていたという。アテネ人はこの噂話を広めているが、コリント人は全くこれを認めず、自分たちは先頭に立って戦ったのだと自負している。また他のギリシャ人もそれを証言している。

95.アテネ人でリシマコスの子アリステイデスのことは、極めて有能な人物だと、以前に少しだけ語ったことがあるが、かれはサラミスにおける戦乱のさなかにも次のような活躍をしている。かれはサラミスの島の海岸に配置されていたアテネの重装歩兵を大勢引き連れてプシタレイアの小島に上陸し、この島に残っていたペルシャ兵をことごとく打ち斃したのである。

96.海戦が終了したあとは、ギリシャ軍は近くに漂っている多数の難破船を手当たり次第曳航してサラミスに入港したが、クセルクセスは無傷で残っている軍船を使ってくるだろうと予想し、次の海戦に備えていた。

しかし破壊された船の多くは西風に運ばれ、アッティカのコリアス(G*)という浜に打ち上げられた。この事態は、この海戦に関するバキスとムサイオスの下した全ての神託通りに実現したばかりか、とりわけこの場所に打ち上げられた破船に関しては、何年も前にアテネ人の予言者リシストラトスによって下され、ギリシャ人が誰も顧みることのなかった神託があり、その通りになった。

  コリアスの女たちは櫂を燃やして料理する

ただし、この事態は王が退却したあとに起きたことである。

(G*)ファレロンから2.5マイル先の狭い岬にある。破船は西風に運ばれて、ここに到達する。
(*)サラミスの海戦の要約は、次のサイトを参照されたい。
サラミスの海戦;Wikipedia

97.さて自軍に起きた惨事を目の当たりにしたクセルクセスは、ギリシャ人みずからが気づくか、一部のイオニア人が助言して、彼らがヘレスポントスに航行し、そこの橋を破壊するのではないかと危惧した。そうなるとヨーロッパに閉じ込められ、破滅の危機に瀕するゆえ、かれは逃げ出すことに意を決した。このことをギリシャ人にも自軍の者にも気づかれたくなかった王は、あたかも次の海戦に備えるかのように装い、フェニキア人の船を繋ぎあわせて橋と壁を作り、それによってサラミスに向けて土堤を築造(G*)させた。

(G*)戦闘のあとではなく、戦闘の始まる前にクテシアスとストラボがこの作業に任命されている。敗戦後のペルシャ人には無用だったろうし、実際に使用不能だったことは明らか。

王のこの行動を見ていた者たちは、誰もが王はそこに留まって戦うものと信じて疑わなかった。しかし王の意向を最も良く知るマルドニオスだけは、このような王の行動に惑わされなかった。以上のことをさせる一方で、クセルクセスは自軍に起きた惨状を知らせるための伝令をペルシャに送った。

98.ペルシャ人の巧妙な仕組みにより、この伝令たちより速く伝える者は、この世にはいない。全行程に要するだけの伝令と馬が、一日の行程の間隔をあけて街道沿いに配置されている。伝令は、雪や雨、暑さ、夜に拘わらず、定められた行程を全速力で走り抜けるのだ。

そして最初の伝令が二番目の伝令に伝書を託し、二番目は三番目へと、ちょうどギリシャのヘパエストス祭における松明競争(G1*)のように、手から手へと受け渡してゆく。騎馬によるこの伝達方式を、ペルシャではアンガレイオン(G2*)と呼んでいる。

(G1*)松明競争はアテネの祝祭で行われ、さまざまな形式がある。そのひとつが、リレーまたはチームによる競争である。走者のための数本の走路があり、各走路の第一走者は祭壇で松明を灯し、それを持って全速力で第2走者まで走って渡す。第2走者は第3走者まで走って手渡し、このようにして最終走者に手渡してゴールに向かう。松明が灯ったままで最初にゴールしたチームが勝者となる。
(G2*)これは明らかにバビロニア語。

99.クセルクセスがアテネを手中にしたという最初の伝言がスーサに届いたときには、母国に残っていたペルシャ人たちは大きな喜びに湧いた。国民は道という道に銀梅花という香木の枝を敷きつめ、ひっきりなしに香を焚き、捧げ物を供え、宴に耽っていた。

しかしこのあと第二報が届くと人々はひどく落胆し、マルドニオスの罪を責め立てながら、自分の着衣を引き裂き、いつ果てるともなく悲嘆の叫びをあげ続けた。ペルシャ人たちがこのような振る舞いにおよんだのは、水軍の惨状を嘆いたからではなく、クセルクセスその人を気遣ったからなのである。かくの如きペルシャ人の状態は、クセルクセス自身が帰国し、それを止めるまでずっと続いた。

100. さてマルドニオスは、クセルクセスが海戦の結果にひどく落胆しているのを見て、かれはアテネから逃走するだろうと予想しつつ、自分はギリシャ遠征を王に促したことで処罰されるだろうと思っていた。それゆえ、ここは危険を冒してでもギリシャ征服を敢行するか、大義に殉じて名誉の死を遂げる道しかないと考えたものの、どちらかといえばギリシャ征服の方に、気持ちが傾いていた。こんなことを考えながら、かれは次の提案を差し出した。

「お上、こたびの事態を悲嘆も落胆もなされるにはおよびませぬぞ。我らの命運を左右するものは木っ端(*)ではなく、人間と馬にござる。かててくわえて勝利をおさめたと思っている者どもは、誰一人として船を降りてお上に立ち向かって来ないではありませぬか。本土においても然り。我らに刃向かった者たちは然るべき報いを受けておりますぞ」

(*)水軍の船のことか。

「お上がお望みとあらば、早速にでもペロポネソスに進攻いたしましょう。待つ方が良いと仰せなら、それも、また結構。どうかお気を落とされますな。ギリシャ人どもは以前また最前の行ないの罪を償った上で、お上の奴隷となるを逃れる道は残されておりませぬ。それゆえ、みどもが申し上げた策をお取り遊ばすのが最善の策にござる。ただ、お上が軍をお退きになるおつもりであるなら、またそれなりの策がございます」

「お上、どうかペルシャ人をギリシャ人どもの笑い草とはなされますな。殿が惨事を被られたとて、それはペルシャ人の落ち度ではござりませぬ。ましてお上におかれましては、いずこの地においても我らが臆病な振る舞いにおよんだとは仰せになるまい。フェニキア人やエジプト人、キプロス人、キリキア人どもが臆病だったかもしれませぬが、ペルシャ人はこたびの惨事には責任がありませぬ」

「ペルシャ人は断じてお上に咎をなした訳ではありませぬゆえ、どうか、みどもの策に従われませ。お上がここから離れるとお決めであれば、軍の主力とともに本国に引きあげなされ。しかしながら、みどもとしましては、お上の軍勢から三十万を選び、ギリシャ人を奴隷にしたうえで、お上に届けたいと望んでおります」

101.これを聞いたクセルクセスは、苦難に陥ったあとゆえ、満足し喜んだ。そして二つの策のうちどちらを取るかは、熟慮の上で返答するとマルドニオスに言った。そしてペルシャの重臣たちを招集して評議を開いたが、そのとき王はアルテミシアも呼び出すことにした。彼女は以前の評議の席上でも、ひとり最善策を献じたことを王は憶えていたからである。

アルテミシアが到着すると、クセルクセスはペルシャ人の顧問官や近衛兵も含め、他の重臣たちをすべて下がらせてから彼女に語った。
「これはマルドニオスの考えなのだが、ここに留まってペロポネソスを攻撃せよというのだ。かれが言うには、ペルシャ人や陸軍はこたびの惨事に責任はないゆえ、それを証明するにやぶさかでない、といっておる」

「それゆえ、予がそれを実行するか、あるいはかれが軍勢から三十万(*)を選び、ギリシャ人どもを奴隷にして予の下へ連れて来るとし、予自身は残りの軍勢とともに本国に帰ることを提案しておるのだ」

(*)塩野七生「ギリシャ人の物語 Ⅰ」では20万。

「そこで汝に訊ねるが、つい先の海戦で汝が的を射た進言をなしたように、この二つの策のうちどちらが予にとって最善か、助言してくれぬか」

102.助言を求められたアルテミシアは次のように返答した。
「お上、相談された相手にどちらが最善かを助言することは、容易ならざることにございます。ただ、現状を慮りますれば、お上はご帰還なされ、マルドニオスのことは、かれが申していることをやりたがっていて、またそれを約束しているのであれば、かれの望む通りの者共とともに、この地に残されるのが最善の策かと考えます」

「かれが征服するとあげた全てを成し遂げ、またその企てを成功させた暁には、その成果はお上のものにございます。なんと言ってもそれを成し遂げたのは、お上の家来でござりますゆえ。一方、マルドニオスの意に反する結果になったとしても、お上およびご一族が安堵なされている限り、それほど大きな悲運とは申せませぬ」

「お上とそのご一族が安泰であられる限りは、ギリシャ人どもは命をかけた戦を何度も強いられることになりましょう。マルドニオスについては、いかなる惨禍がかれに降りかかろうとも、それは大きな問題ではござりませぬ。またギリシャが勝利したとしても、お上の家来を斃したというだけで、真の勝利とは申せませぬ。お上ご自身に関して申せば、アテネを焼き払った後にご帰還なさるわけですから、お上の遠征目的は完全に達成されたことになりまする」

(*)他に人がいない状態で、どうしてヘロドトスは密談の内容を知ることができたのか不思議だ。このような場面は他にも多数あるが、ここで疑問を呈しておく。もっとも、高貴な身分の人物には必ず身の回りの世話をする奴隷の召使いが空気のごとくいたはずなので、その者たちから漏れ聞いた可能性は大である。

103.アルテミシアのこの助言はクセルクセスの意にかなったものだった。彼女の助言はクセルクセス自身の考えと同じだったからだ。実のところ私は、たとえ誰が残れと助言しても、かれは残らなかっただろうと考えている。それほどまでも、かれは恐怖に打ちひしがれていたのだ。王はアルテミシアに感謝した上で、自分の息子たちを彼女に託し、エフェソスに連れて行かせた。王は妾腹の息子たちを同行させていたのだ

104.その息子たちにはヘルモティモスという護衛がつけられた。この男はペダサ生まれで、クセルクセスのもとにいる宦官の中では一等重んじられていた。(G*)ペダサ人はハリカルナッソスの北方に定住していたが、彼らの街の周辺に住んでいる人々に、何かやっかいな問題が起きるときには、アテネの巫女に長い髭が生えるという。このようなことはすでに二度起きていた。

(G*)この一節はあとから挿入されたと思われる。第一巻百七十五節に同じ記述がある。

105.さてペダサ出身のヘルモティモスは、自分に降りかかった災悪に対して、我らの知る限り、誰にも負けない報復を成し遂げたことがある。それは、かれが敵に捕らわれ奴隷に売られたときのこと。かれを買ったのはキオス人のパニオニオスという人物で、この男はひどくいかがわしい仕事で生計を立てていた。かれは美形の少年を手に入れてはこれを去勢し、サルディスやエフェソスに連れて行っては高値で売り飛ばしていたのだ。夷荻人にとって、去勢男子は成人男子に比べ、あらゆることに関して信用されるためだった。

パニオニオスは多くの者を去勢したが、ヘルモティモスもそのうちの一人だった。ただ、かれは全く不運だったというわけでもなかった。というのも、かれは他の献上品とともにクセルクセスのもとへ送られたが、時を経て他のどんな宦官よりもクセルクセスに重用されたからである。

106.それは王がまだサルディスにいて、アテネ攻略のため、出陣の準備をしているときのこと、ヘルモティモスは用事があってキオス人の住むミシア地方のアタルネウスという場所に下ったのだが、そこでパニオニオスを見つけたのだ。

その男をしかと確認した上で、ヘルモティモスは親しげに長話をし、今の自分の隆盛はパニオニオスのお陰であるとし、もし一族とともにここに移り住むなら、その恩返しとしてかれを成功させると約束した。そこでパニオニオスは喜んでこの申し出を受け、妻子を連れてきた。

ヘルモティモスはその男を一族もろもと自分の支配下に取り込んだのち、かれに告げた。
「お主、およそこの地上で、この上なく悪辣な仕事で稼ぐ男よ。普通の男だった俺さまを全くの役立たずにしやがって、俺さまやわが先祖が、お主やその一族に一体どんな悪さをしたというのか、言って見ろ。お主はあのときの所行が神々に気づかれなかったと思っているだろうが、どっこい、お主の悪業は神々の掟によって裁かれた末、お主は俺さまの手中に落ちたというわけだ。ゆえに、これから俺さまがお主に振りおろす正義の鉄槌には、一切文句を言わせぬぞ」

このような罵倒の言葉を吐き、かれはパニオニオスの息子たちを連れてきて、無理やりパニオニオスに息子たち四人をすべて去勢させた。パニオニオスがそれを終えた後、今度はその息子たちに父親を去勢させたのだ。これがヘルモティモスによるパニオニオスへの復讐譚である。

107.アルテミシアに息子たちを託してエフェソスに連れて行かせたクセルクセスは、マルドニオスを呼び、軍勢の中から望み通りの兵を選ばせ、その言葉通りの企てを成し遂げてみよ、と言った。そしてその日はこれで終わったが、夜になってから、王は司令官たちに命令を下し、彼らは王の通過路たる橋を守備するために、ファレロンから出航し、全速力でヘレスポントスに戻った。

その艦隊が航行を続けてゾステル岬(G*)に近づいたとき、それが本土から突き出ているのを見て、彼らはてっきり敵の艦隊と思い込み、遠くに逃げ出したことがある。やがてそれが艦隊ではなく岬だと分かると、再び集結して航行を続けたという。

(G*)アテネ西岸の岬。ピライオスとスニウム間に位置する。

108.さて夜が明けて、ギリシャ軍は敵の陸軍がずっと留まったままであるのを見て、海軍も同じくファレロンに碇泊したままだろうと推測した。そして海戦はあるものと予想し、防衛戦の準備に取りかかった。ところが、敵艦隊が撤退しているのが分かると、ただちに追撃することにした。彼らはアンドロス島(*)まで追跡したが、敵艦隊を発見できなかったので、その地で評議を開いた。

(*)エウボイア島の南に連なる島。

テミストクレスは、島嶼を抜けて追跡を続行し、ヘレスポントスへ直航して架橋を破壊すべきだという意見を述べた。一方でエウリビアデスは、橋を破壊すると、彼らはギリシャにこの上ない害悪をもたらすかもしれないという反対意見を提示した。

かれは言う。
「というのは、ペルシャ王の退路を断ち、ヨーロッパに取り残される事態になれば、かれはじっとしているはずはないだろう。もしおとなしくしていたら、自分の目的を達成することもできず、本国に帰る道も全く閉ざされ、かれの軍は飢餓で破滅することになるだろうから。反対にかれが積極的に事を起こせば、ヨーロッパ諸国は、征服されたり、盟約を結んだりしてかれに従うことが充分考えられる。食糧に関しては、毎年収穫されるギリシャの作物が利用できる」

「しかし海戦で敗北したからには、ペルシャ王はヨーロッパに留まることはないだろうと、わが輩は考える。そこでかれを自分の国に帰らせることにしようではないか。そして以後の戦いは、我らの領土ではなく、ペルシャの領土を賭けて行なうことにしよう」この意見に、ほかのペロポネソスの司令官たちも賛同した。

109.テミストクレスは評議の参加者の大多数にヘレスポントス行きを説得できないと見て取り、アテネ人司令官たちに向かって語りかけた。アテネ人はペルシャ軍の逃亡をことのほか憤慨しており、他の諸国が行かずとも、自分たちだけでもヘレスポントスに海路行こうとしていたのだ。

「一敗地にまみれ窮地に陥った者は、前回の失敗を挽回することがあるということは、しばしば見聞きすることだ。そこでわが輩は諸君に言いたい。我らが雲霞のごとき敵を追い散らし、我らとギリシャが安堵できたのは、たまたま幸運だったことによる。であるからして、逃げる者どもを追いかけるのは止めることにしよう」

「この勝利をもたらしたのは実は我らではなく、アジアとヨーロッパにまたがる広大な王国を、邪悪で神をも怖れぬほど傲慢な人間が支配するのを良しとなされぬ、神々と神人たちなのだ。しかもその者たるや神聖なるものと不浄なるものを同列に扱い、神像を焼き払って破壊し、あろうことか海を鞭打ち、足枷を投げ込むような不埒者なのだ」

「しかし当分の間、我らはギリシャに留まり、わが身や一族のことを案ずることにしよう。そして異国の者どもを完全に駆逐した今、家屋を再建し、耕作に精励しよう。ヘレスポントスとイオニアに出航するのは、次の春が来てからだ」

かれがこう言ったのは、のちのちアテネ人から自分に害が及ぶ事態になったとき、ペルシャ王に何らかの貸しを作っておくことで、逃げ場を担保しておく意図があったのだ。そして実際のところ、それは現実のものとなった。

110.このような詭弁を弄して、テミストクレスはアテネ人たちの説得に成功した。かれは常に賢明だと思われていたし、今はみずから賢明で思慮深いところを示してもいたので、アテネ人たちは何事であれ、進んでかれの言いなりになろうとしていた。

アテネ人を説得したあと、ただちにテミストクレスは、いかなる拷問にも秘密を漏らさないと信頼できる配下の者を数人小舟に乗せ、ペルシャ王のもとへ行かせ、伝言を伝えさせた。そのうちの一人はシキンノスという自分の従僕だった。彼らがアッティカに到着すると、シキンノスは他の者たちを小舟に残し、自分はクセルクセスのもとへ参上した。

かれはこう伝えた。
「ネオクレスの子テミストクレスはアテネの将軍にしてギリシャ同盟国中、比類なく剛勇と叡智に秀でた者にございます。その者が私めを伝令に使わし、こう伝えよとのことにございます。『アテネ人のテミストクレスはあなた様のお役に立ちたいと願い、ギリシャ人があなた様麾下の艦隊を追跡し、ヘレスポントスの橋を破壊しようと意気込んでいるのを、押しとどめたのでございます。いまやあなた様を妨げる者はおりませぬゆえ、どうか安んじて帰国の途につかれますよう。』」この伝言を伝えたのち、彼らは小舟で戻って行った。

111.一方のギリシャ人たちは、もはやそれ以上蛮族の船団を追跡しようとも、ヘレスポントスまで航行して彼らの帰り道を破壊しようとも考えていなかった。その代わり、アンドロス島を征服して手に入れようとした。

なぜなら、テミストクレスが島嶼の住民に上納金を要求したとき、どこよりも先にそれを拒否したのが、この島の者たちだったからである。アテネ人が「説得」と「強制」の二大神を後ろ盾として来ているのだから、アンドロス人は金を払うべきだとテミストクレスが宣告したとき、彼らはこう言い返した。
「たしかにアテネは助けてくれる神々もいて、繁栄している大国だ」

「それに比べて我らアンドロス人は極度に土地が痩せている上、『貧困』と『無能』という役立たずの二神が我らの島からどうしても出てゆこうとせず、未来永劫、居座り続けるつもりでいるのだ。これらの神々をかかえているからには、我らは金を差し出すことはできない。アテネの威力が強大とはいえ、われらの無力を上回れるわけがない」
このように返答して金の支払いを拒否したため、彼らは攻囲されることになったのだ。(M*)

(M*)第七巻百七十二節

112.ところがテミストクレスの金銭欲には果てしがなく、ペルシャ王に送り出した時の使者と同じ者たちを他の島嶼に差し向け、上納金を要求し、その要求に応じなければギリシャ艦隊を差し向け、その島を攻囲し征服するという脅迫的伝言を託した。

こうしてかれはカリストス人とパロス人から巨額の資金を調達したが、彼らは、アンドロス人がペルシャ側についたことで攻囲されたことを知らされていたことと、テミストクレスが最も秀でた将軍だと思われていたからだ。この伝言を聞いた彼らは恐懼し、上納金を差し出したのである。この両国だけでなく、他の島民も上納金を差し出したと思われるが、確かなことは分からない。

ただ、資金を差し出したにも拘わらず、カリストス人の場合は災難を猶予されることはなかったが、パロス人は金でテミストクレスを宥め、攻撃されるのを免れた。その後テミストクレスは他の司令官たちには知られないようにしてアンドロス島を離れ、島嶼の人々から資金を徴収した。

113.クセルクセス従っていた陸軍は、海戦後数日を経て、来たときと同じ道をたどってボイオティアに向かった。マルドニオスは王を見送ってゆき、時節が戦いに不向きであるからテッサリアで冬を越し、ペロポネソスを攻撃するのは来春が良いとも考えていた。

陸軍がテッサリアに到着すると、マルドニオスは最初に全員がペルシャ兵の不死身隊(M*)を選び出した。ただしその司令官のヒルダネスは王のもとを離れたくないというわけで除外された。次にペルシャ人の胸甲騎兵と一千の騎兵(G*)、さらにメディア人、サカイ人、バクトリア人、インド人から歩兵と騎兵を選出した。

(M*)第七巻八十三節、二百十一節、二百十五節を参照。
(G*)第七巻四十節、四十一節、五十五節を参照。

これらの民族はそっくりそのまま選出されたが、その他の同盟国から選出したのは、容姿の優れた兵と、何らかの役に立つことが分かっている兵たちで、僅かだった。かれが選び出したペルシャ兵は首飾りと腕輪を身につけていたが、彼らは他の民族から選出された兵たちよりもずっと多数だった。それに次ぐのがメディア人だったが、実際のところ彼らはペルシャ人とほぼ同数ではあるものの、それほど勇猛は戦士とは言えなかった。その結果、軍勢は騎兵も含めると、全体で三十万となった。

114.マルドニオスが自分の軍を選び出し、クセルクセスがまだテッサリアにいるときのこと、デルフォイからスパルタ人のもとへ、レオニダス殺害の謝罪と賠償をクセルクセスに求めよという神託が届いた。そこでスパルタは使者を全速力で派遣したが、使者はテッサリアにいた軍に追いつくと、クセルクセスの面前に進み出て次のように語った。

「スパルタ人とヘラクレス一族はメディアの王である貴殿に、ギリシャを守り貴殿に殺された彼らの王の死に対して、賠償を求めております」
それを聞いたクセルクセスは笑い飛ばし、長い間をおいたのちに、たまたまそばにいたマルドニオスを指して言った。
「そういうことなら、このマルドニオスがそれに相応しい賠償を払うはずだ」

115.その返事を聞いて使者は帰って行った。そしてクセルクセスはマルドニオスをテッサリアに残し、自身はほんの僅かな手勢を引き連れただけで四十五日間という速さでヘレスポントスの渡海路にたどり着いたのだった。

その行軍中、いずこの地においても、またどこの住民からも、彼らはその作物を掠め取り、むさぼり食った。何もないときには、野原に自生する草や樹皮をはぎ、木々の葉をむしり取って食べた。畑であろうと野生であろうと後には一物も残さなかった。それほどまでに彼らは窮乏していたのだ。

その上、疫病や赤痢が行軍中に蔓延し、死者が出るありさまだった。病に倒れた者は、看護と養生を託してテッサリア、パエオニアのシリス、マケドニアなど途中の街に残された。

シリスには、ギリシャに進軍するときに用いたゼウスの聖戦車を残していたが、帰国に際して、王は再びそれを取り戻せなかった。というのもパエオニア人はそれをトラキス人に与えていたのだが、クセルクセスが返還を求めたところ、彼らは、ストリモン河上流の高地に住んでいるトラキス人が牧場から馬とともに奪っていったと言い訳をしたのだ。

116.ビサルティアとクレストニアの王であるトラキア人がぞっとするほど残忍な行ないに及んだのは、この頃だった。かれはクセルクセスに隷従することを拒み、ロドペという山に逃げ込み、自分の息子たちにはペルシャの遠征軍に加わることを禁じていた。

しかし息子たちはそれを無視し、戦をみたいと思っていたこともあり、ペルシャ軍に従軍した。その後六人の息子たちは無事に帰ってきたのだが、その父は禁を破った廉で、息子たちの眼をえぐり抜いたという。

117.さてペルシャ人一行はトラキアを抜けて渡海地点に到着したが、橋が嵐で破壊され、もはや姿を消しているのを見て、大急ぎで船に乗り、アビドスへと渡った。彼らはこの地で行軍を休止し、これまでの行軍中よりも豊富な食糧を得た。

ところが過度の摂食と飲み水が変わったことにより、生き残りの兵士のうち多数が死亡した。そして残った兵士たちはクセルクセスとともに、ようやくサルディスにたどり着いたのだった。

118.これには、また別の話が伝えられている。それはこういうことだ。クセルクセスがストリモン河に沿ってアテネからエイオンに着いたとき、かれはそれ以上陸を行かず、軍をヒルダネスに任せてヘレスポントスに向かわせ、自身はフェニキア人の船に乗ってアジアへと海路を進んだ。

その航海中にストリモン風という、大波を起こす激しい風に見舞われたのだ。乗船していたペルシャ人一行が大勢だったため、船の重量が増し、そのために激しく嵐に翻弄された。王は恐ろしさのあまり船の船長に助かる方法はないのかと叫んで訊いた。船長はこれに答えて曰く。

「お上、ありませぬぞ、甲板にいる多くの者たちを除かぬ限りは」
これを聞いたクセルクセスはペルシャ人たちに言ったと伝えられている。
「いまこそお前たちの王のために、その心意気を証明するときだ。予が助かるかどうかはお前たちにかかっているのだからな」

ここにおよび、ペルシャ人たちは平伏したあと、海に身を投げた。そのため船はずっと軽くなり、無事アジアへ帰ったという。クセルクセスは陸に上がるや、すぐさま、王の命を救った功により黄金の冠をその船長に与え、そして大勢のペルシャ人を死に追いやった廉で、その首を刎ねたという。

119.以上、クセルクセスの帰国に関する別の話である。私としてはペルシャ人の運命譚やその他のことを信じる気持ちはない。実際のところ、船長がクセルクセスにあのように言ったとしても、王は甲板にいるペルシャ人たちをーーしかもそこにいるのは高貴な血筋のペルシャ人たちだーー船倉に降ろし、それと同じ人数のフェニキア人の漕ぎ手を海に投げ出した、という説に異を唱える者は万人に一人もいないだろうと、私は思っている。それより何より、クセルクセスは私が先に述べた通りに行動し、麾下の軍とともに陸上を進んでアジアに帰ったはずだ。

120.これにはさらに証拠がある。クセルクセスが帰路アブデラに到着したとき、この街の住民と親密になり、彼らに黄金の剣と金の刺繍を施した頭飾りを与えている。アブデラ人たちが言うように(ただし私はそれを全く信じていないが)、アテネからの退却途中で、王はこの地に来て安心し、初めて帯(G*)を解いたと言われている。そのアブデラは、王が船に乗ったと言われているストリモンやエイオンよりヘレスポントスに近いのだ

(G*)第五巻百六節では、ヒスティアイオスはイオニアに到着するまでは、その着衣を脱がないとダリウスに誓っている。あるいは旅を早めるために帯を締めるという意味がある。

121.さてギリシャ軍はアンドロス島を攻略できなかったので、次にカリストスへ向かった。そしてその地を荒らし回ったのち、サラミスに戻った。そして彼らは神々への初穂として奉納品をさまざま選び出したが、その中でも三隻のフェニキアの三層櫂ガレー船を取り分け、一隻をイスマスに奉納した。これは私の時代にもまだ残っていた。そのほかスニオンと、彼らが留まっているサラミスのアイアス神に一隻ずつ奉納した。

その後、彼らは戦利品を分配し、その初穂をデルフォイにも送り届けた。その初穂からは、船首像を手にする高さ十二キュービッドの男子像が造られ、これはマケドニアのアレクサンドロス大王の黄金像と同じ場所に設置された。

122.初穂をデルフォイに送ったギリシャ軍は、同盟国の名のもとに、届けた初穂は充分足りているか、神の意に適っているか、伺いを立てた。これに答えて、神は、他のギリシャ諸国から送られた物には満足しているが、アイギーナからは受け取っていない、と返答し、サラミス海戦の勝利の褒賞をアイギーナ人に要求したという。このことを知ったアイギーナ人は、黄金製の星を三つ献納したが、それは青銅の帆柱に装着され、玄関ホールにあるクロイソスの鉢の近くの角におかれている。

123.戦利品を分配したあと、ギリシャ軍はイスマスに船で行き、この海戦で最も秀でた働きを示した者に褒賞を与えることにした。

司令官たちが集結し、ポセイドンの祭壇で一位と二位に当てはまる者の投票を行なったが、投票した者ぞれぞれが、自分が一等秀でた働きをしたと考え、一位に自分自身を投票した。ところが、彼らの多くが一致して第二位にテミストクレスに票を入れたので、各自は一票を獲得したが、第二位にはテミストクレスがはるかに多くの票を得た。

124.ギリシャ人たちは嫉妬深さのあまりに褒賞を決めないまま、それぞれの国に帰って行った。しかしテミストクレスは、ギリシャ諸国全土から、ギリシャ人の中で最も叡智に秀でた人物だとして賞賛されることになった。

そのテミストクレスは、サラミスで戦った者たちから戦功の栄誉を与えられなかったので、スパルタで栄誉を受けようとして、かの地に赴いた。スパルタ人たちはかれを歓迎し、高く讃えた。彼らはエウリビアデスに殊勲の褒賞としてオリーブの枝で作った冠を与えたが、テミストクレスにも、その叡智と知略に対して同じ冠を授与した。それに加えてスパルタで最高の戦車をかれに与えた。

スパルタ人は、多くの賞賛の言葉とともに、「騎士」(M*)と呼ばれる選り抜きのスパルタ人三百人をつけてかれを母国に送り出した。このスパルタ人たちはテゲアとの国境までかれを警護していった。我らが知る限り、このような警護をつけられたのはテミストクレスだけだった。

(M*)第一巻六十七節

125.テミストクレスがスパルタからアテネに帰国すると、アフィドナイ のティモデモスという、テミストクレスの反対派で無名の人物が、テミストクレスのスパルタ訪問を嫉妬して狂乱した挙げ句、かれがスパルタから受けた栄誉はアテネのお陰であって、彼自身の功績ではないと、激しく言いつのった。

かれはテミストクレスが返答するまで、ずっとしゃべり続けた。
「そうだ、そのとおり。私がベルビナ人(G*)だったなら、スパルタからこのような栄誉を受けられなかっただろう。そしてよいか、貴君はアテネ人だが、栄誉は手にできないだろうよ」
以上、この件はこれにて終えることとする。

(G*)スニウムの南にある小さな島。どうでもよい代表的な島。

126.さてファルナセスの子アルタバゾスは、すでに高貴なペルシャ人だったが、プラタイアの事件によってさらに名声を高めた人物だった。そしてかれはマルドニオスの選んだ六万の兵とともに王を橋の路まで警護して行った。

クセルクセスをアジアに送り届けたのち、アルタバゾスが引き返してパレネの近くに来たとき、マルドニオスはテッサリアとマケドニアで越冬しており、残りの軍勢のもとへの帰着を急ぐそぶりもなかったので、ポティダイアが反攻しているのを知ったアルタバゾスは、これを制圧するのが良かろうと考えた。

というのも、ポティダイアは王が街を通過して行ったあと、またペルシャ艦隊がサラミスから撤退したあと、公然とペルシャに反旗を翻し、パレネ地方の残りの住民も同じことをしていたからである。

127.このようなわけでアルタバゾスはポティダイアを攻囲したのだが、オリントスも王に背くのではないかと疑い、この街も攻囲した。この街には、マケドニア人によってテルメ湾から追放されたボティアイア人が住んでいたのだ。オリントスを包囲して陥落させたあと、そこの者たちを湖に連行して喉をかききって殺戮し、街はトロネのクリトブロスとカルキディケ人に委ねた。カルキディケ人がオリントスを手に入れたのは、このような経緯による。

128.さてオリントスを手に入れたあと、アルタバゾスはすぐにポティダイア攻略に意を注いだ。それを手助けしたのは、スキオネ人部隊を率いるティモクセノスで、かれはアルタバゾスに国を売ったのだ。最初の連絡をどのようにしたのか、それに関する事情が入手できないので分からない。しかし結局は次のようなことだった。ティモクセノスが伝文をアルタバゾスに送るとき、またはその逆のときも、弓矢の羽がついている軸の切れ目(G*)に伝文を巻きつけてそれを包み、互いに決めておいた場所に向けて、その矢を放つのだ。

(G*)矢を弦につがえるとき、指で矢を掴みやすくするための、両側の切れ込み。羊皮紙を矢の後端に巻きつけ、その上から羽を覆って隠した。

しかしポティダイアに対するティモクセノスの裏切りは、次の事情から露見してしまった。アルタバゾスが約束の場所に向けて矢を放ったとき、誤ってあるポティダイア人の肩に当ててしまったのだ。戦闘中には、このようなことは常にあることだが、射られた男の周りにいる大勢の者たちがすぐさま集まり、矢を引き抜いたところ伝文を見つけ、司令官の所へ持って行った。そこにはパレネの他の同盟国も居合わせた。

その伝文を読んだ司令官たちは誰が裏切ったかを見抜いたが、スキオネ人が今後裏切り者とそしられないようにとの配慮から、ティモクセノスの裏切りを追求しないことにした。

129.このような次第でティモクセノスの裏切りは露見した。一方でアルタバゾスがポティダイアを攻囲すること三月に及んだころ、長期にわたる大きな引き潮現象が起きた。夷荻人たちは海が干潟になったのを見て、パレネに歩いて渡る準備にかかった。

そして夷荻軍が渡海行程の四割ほど進み、パレネまで残り六割の地点に来たとき、土地の者たちが言うには、これまでにないほどの高い潮流が押し寄せてきたという。兵士たちの中で泳げない者は溺れて死に、泳げる者は小舟で押し出したポティダイア人によって殺された。

ポティダイア人の伝えるところでは、高潮と潮流、ペルシャ人の災難が起きたのは、海で死んだペルシャ人たちが町外れにあるポセイドンの神殿と像を冒涜したからだという。私の考えでは、彼らの言っていることは正しいと思う。そして生き残った者たちは、アルタバゾスに率いられてテッサリアにいるマルドニオスのもとへと去って行った。王を護衛していた者たちの話はこのようなことだった。

130.残ったクセルクセスの海軍は全軍挙げてサラミスから退却してアジアに到着し、王とその麾下の軍をケルソネソスからアビドスへと渡らせたあと、キュメで越冬することになった。そして翌年の早春、艦隊の一部が越冬していたサモスに集結した。その兵士の大部分はペルシャ人とメディア人だった。

そこへバガイオスの子マルドンテスとアルタカイエスの子アルタユンテスが、司令官としてやって来た。さらにアルタユンテスが自分の甥イタミトレスを司令官に加えた。艦隊はひどい打撃を被っていたので、それ以上西には行かなかった。もっとも、誰も西行きを主張しなかったのだが。そしてサモスに留まったままで、イオニアが反乱を起こさないかを監視し続けていた。その艦隊の船数は、イオニアその他を含めて三百隻だった。

実のところ、彼らはギリシャ軍がイオニアまでやって来るつもりはなく、自国の防衛に専心するつもりだろうと考えていた。それはペルシャ艦隊がサラミスから退却したとき、ギリシャ軍が追跡して来ず、ペルシャを食い止めたことに満足していることから、このように考えたのだ。海戦ではペルシャ人たちは打ちのめされてしまったが、陸ではマルドニオスの軍がいとも簡単に勝利するだろうと思っていた。

そこで海軍はサモスにいたままで、敵に何か打撃を加えられないものかと鳩首協議しつつも、マルドニオスの軍がどうなったか、その知らせを暫くの間、固唾を呑んで待っていた。

131.ギリシャ軍の方は、春が来てマルドニオスがテッサリアに留まっているのを知り、活動を開始した。ギリシャ陸軍は集結していなかったが、海軍は百十隻がアイギーナにやって来た。

海軍の提督はメナレスの子レオティキデスで、その系譜を子から父へと遡れば、ヘゲシラオス、ヒポタラティデス、レオティキデス、アナクシラオス、アルキダモス、アナクサンドリデス、テオポンポス、ニカンドロス、カリラオス、エウノモス、ポリデクテス、プリタニス、エウリフォン、プロクレス、アリストデモス、アリストマコス、クレオダイオス、ヒュロス、ヘラクレスとなり、レオティキデスは一方の王家の血筋である(M*)。

(M*)第七巻二百四節

レオティキデス以下に列挙した最初の七人を除き、残りの人物たちはすべてスパルタの王に就いている。アテネ軍の指揮官は、アリフロンの子クサンティッポスだった。

132.アイギーナに全船が到着した頃、イオニアからの伝令使たちがギリシャ軍の陣営にやって来た。彼らはその前にスパルタにも赴き、イオニア解放をスパルタ人に嘆願していた。

その伝令使のなかにはバシレイデスの子ヘロドトスもいた。彼らは最初七人で共謀し、キオスの僭主ストラティスを殺害しようと企てた。しかし仲間の一人がその陰謀を暴露し、ことが露見したため、残りの六人は密かにキオスを離れ、スパルタへ行き、そして今アイギーナに来て、ギリシャ海軍のイオニア行きを嘆願したというわけである。

ギリシャ海軍はなんとかデロス島まで彼らを連れて行ったが、それより先へは行こうとしなかった。その地域に不案内であることと、武装兵がその地域全体に充満しているだろうと予想していたことから、遠征することを怖れたためである。またサモス島は「ヘラクレスの柱(G*)」と同じくらい遠くにあるとも思っていた。一方の蛮族は意気阻喪するあまり、サモスから西へ船を出そうとせず、同じくギリシャ海軍は、キオス人に要請されても、デロス島より東に行こうとしなかった。かくて、両陣営における恐怖心が、中立地帯を形成することとなった。

(G*)ジブラルタル海峡ほど遠いという形容。

133.ギリシャ軍はデロス島まで航行し、マルドニオスはテッサリアで越冬していた。マルドニオスはこの地に陣をおき、エウロポス生まれのミュスという男を派遣して各地の神託所を巡らせ、どのようなことをやって良いものか、あらゆる神託伺いを立ててくるよう、命じた。かれは神託からどんな啓示を得ようとしていたのか、誰も語っていないので、私にはわからない。ただ察するに、目前の自分の任務のことだけに神託伺いを立てたものと思われる。

134.このミュスという男はレバディアに行き、その街の男を金で雇ってトロフォニオスの洞窟に行かせたことと、ポキスにあるアバイの神託所に行ったことが判っている。かれは最初にテーべに行き、オリンピアでの生贄儀式と同じことをしてイスメニア・アポロの神託伺いを立て、さらにテーベ生まれでない異国の男を雇ってアンフィラオス神殿に夜参りさせたりもした。

というのも、次のような事情から、テーベ人は神託伺いを立てることが禁じられていたためである。すなわち、かつてアンフィラオス神は自分を預言者とするか、有事の際の助太刀とするか、どちらかを選び、他方は放棄せよと命じたことがある。テーベ人は戦時の助太刀を選んだので、聖廟での夜参りはできないことになっていたのだ。

135.テーベ人の言い伝えによる、この時に起きたことは、私にはとても不思議なことだった。エウロポスのミュスが各地の神託所を巡り、プトオス・アポロの聖地を訪れたときのことである。この神殿はプトオン神殿(G*)と呼ばれており、テーベに属していた。それは丘のそばでコパイス湖の上手にあり、アクライフィアの街のごく近くにあった。

(G*)アポロドロスの説によると、アタマスの子プトオスに因んで呼ばれている。アタマスとイノによる、子供達の生命をかけた攻防については、ボイオティアとアカイアだけの物語である。第七巻百九十七節を参照。

神宣を書き留めるため、街で選ばれた三人の男たちとともにミュスが神殿に入ったときのこと、神官はさっそく異国の言葉で語り出した。

彼につき添っていたテーベ人たちは、ギリシャ語ではない奇妙な言葉を耳にしてびっくりし、どうすればよいのか分からず、途方に暮れていた。しかしミュスは、神託の言葉はカリア語だといいながら、テーベ人が持っていた、預言を書き留めるための書き板をひったくった。神託を余すことなく書き留めた後、かれはテッサリアに戻って行ったという。

136.マルドニオスは神託に全て目を通したのち、まもなくしてアテネに使いの者を送り出した。それはアミンタスの子アレクサンドロスというマケドニア人だった。彼を使者に選んだ理由の一つが、アレクサンドロスがペルシャ人と血縁があるからだった。ブバレス(M*)というペルシャ人が、アミンタスの娘ギガイア、すなわちかれの姉妹を娶っていたのだ。そしてこのギガイアはアジアにおけるアミンタスという子を産み、その名は母方の祖父の名からつけられた。そして王はフリギア地方のアラバンダという広大な街をこのアミンタスに与えて住まわせた。また別の理由としては、アレクサンドロスがアテネ人を庇護し、支援していることを知っていたからである。

(M*)第五巻二十一節

マルドニオスは、これによってアテネ人を味方につけられると考えていた。そしてアテネ人は軍勢も多く、誇り高い人々で、海戦においてペルシャに敗北をもたらした主戦力だったことも知っていた。

アテネとの友好関係を築けば、制海権が簡単に手に入るだろうとかれは考えたが、事実そうなっただろう。陸上では自分が強大だと思っていたので、ギリシャより優位に立っているとかれは計算していた。おそらく諸方の神託がアテネを味方につけよという予言を下していたのだろう。その神託に従ってかれは使者を派遣したのだ。

137.このアレクサンドロスから七代遡った祖先がペルディカスで、この人物は次のような経緯からマケドニアの僭主となった。その昔、テネモス一族の三兄弟、ガウアネス、アエロポス、ペルディカスがアルゴスからイリリアへ逃れ来て、マケドニアの高地を越え、最後にレバイアの街にやって来た。

その地で彼らは王家の従僕として雇われ、一人は馬の世話をし、もう一人は牛を、最年少のペルディカスは小さい家畜の世話をしていた。そこでは王の夫人みずからが家人の食餌を調理していた。昔は王家といえども一般人と変わりなく貧しかったので、これが常であった。

ところが、夫人がパンを焼くたびに従僕ペルディカスのパンが二倍の大きさに膨れあがるのだった。毎回同じことが起きるので、そのことを夫に告げたところ、王は、それは尋常ならざることの前触れではなかろうかと思った。そこでかれはその従僕たちに自分の領国から出てゆくように命じたのだ。

その三人は立ち去る前に賃金を支払ってもらうのが当然だと主張した。賃金のことを持ち出されると王は逆上し、煙を逃がす穴から差し込んでいる日光を指さして言った。
「それがお前たちに相応しい賃金だ。それを持って行け」

年長のガウアネスとアエロポスはそれを聞くと、肝をつぶして立ち尽くしてしまったが、末っ子の少年は
「ではそれを戴きます、王様」
と言って持っていた小刀を取りだし、家の床に差していた日光(G*)を縁取りした。この動作のあと、自分の衣服の折り目に日光を集める動作を三度繰り返して行ない、かれは他の兄弟とともに去って行った。

(G*)この行為は、王家とその領土を請求することを象徴している。加えて、その請求の証人として太陽を呼び寄せたことを意味する。古代ドイツでも同じ風習があった。

138.かくて彼らは去って行ったが、王の傍にいた者たちの一人が、少年の行ないの意味を解き、最年少の少年が王の与えた物を受け取ったのは何か目的があってのことだと解いた。これを聞くや王は憤慨し、騎士団を差し向けて彼らを殺害しようとした。ところがその領土には、これらアルゴスからの亡命者の子孫が恩人と崇め、生贄を捧げている河が流れていた。

テネモスの息子たちがこの河を越えたあと、その河は急に勢いを増し、騎士団は河を渡れなくなったのである。そして兄弟はマケドニアの別の地方に行き、「ゴルディアスの子ミダスの園(G*)」と呼ばれている場所の近くに住みつくことになった。この場所には、それぞれに六十の花弁をつけ、他を圧倒する強い芳香を放つバラが自生しているという。

(G*)アイガイとエデッサ(現在のボデナ)の間にある肥沃で美しい渓谷。古代マケドニアの王宮があった。

マケドニア人の伝承では、このバラ園はシレノスが捕らえられた場所である(G*)。そしてその地の上手には冬を思わせる寒気のために誰も登れないベルミオン山が聳えている。この地を征服したあと、ここを本拠として彼らは他のマケドニアも征服したのである。

(G*)フリギア人の伝説がマケドニア人に伝えられたもの。シノレスは自然の精で、肥沃な山野に住むという。ギリシャ神話では、ミダスに欺かれて捕らえられたが、かれに賢明な助言をしたとされる。オデッセイア中のメネラウスに捕らえられたプロテウスの話と比較される。第七巻二十六節参照

139.アレクサンドロスはこのペルディカスの末裔で、血筋をたどれば、アレクサンドロス、アミンタス、アルケテス、アエロポス、フィリッポス、アルガイオスとなり、アルガイオスの父が王位を勝ち取っペルディカスとなる。以上がアレクサンドロスの系譜である。

140A.さてアレクサンドロスはマルドニオスに派遣されてアテネに到着すると、次のように演説した。「アテネの人々よ、マルドニオスは諸君にこう語っている。王からわが輩に届けられた伝言がある。---予はアテネ人が予になした全ての罪を許すことにする」

「そしてマルドニオス、汝には次のことを命ずる。彼らに領土を返還し、その上で彼らの好きな場所に住まわせ、国の統治も彼らに任せよ。そして彼らが予と和議を結ぶつもりあがるなら、予が焼き払った全ての神殿を再建せよ。---これが伝言である。わが輩としては、諸君がこれを妨げない限りは、これに従わねばならない(と、マルドニオスは言う)」

「そしてわが輩は、次のことも言っておきたい。諸君は王を打ち負かすことは不可能であり、この先ずっと王に抵抗し続けることもできないのに、なにゆえわが王に対して、むきになって戦を仕掛けるのであろうか?クセルクセスの軍勢の巨大さは見てのとおり、いまのわが軍の兵力も聞いていることだろう。たとえ諸君がわが輩の軍を打ち破ったとしても・・・諸君が正気なら、これは全く望みがないはずだが・・・この軍勢の何倍もの大軍がやって来るだろう」

「であるゆえ、王に反攻しようなどと考えめさるでない。そんなことをすれば領土を失い、常に危険に身をさらすことになりますぞ。それよりも王と和議を結ばれるがよい。王自身がこれを持ち出したからには、諸君が和議を結ぶには、この上なく誉れ高い機会だ。詐術も策略も弄さず我らと盟約を結び、自由を保全なされよ」

140B.「以上が、マルドニオスが私に託した伝言だ。私としては、諸君に対する好意の気持ちをここで口にするつもりはない。そんなことは今に始まったことではないからだ。それよりもマルドニオスの考えに従うことを諸君に勧める」

「よいか、私の見るところでは、諸君はクセルクセスにずっと対抗し続ける力はない。そもそも諸君にその力があると私が判断していたなら、このような伝言を持ってここへは来なかっただろう。それほどまでに王の力は超人的であり、またその腕は長いのだ」

「諸君にとっては極めて有利な条件での和議というのに、これにすぐ同意しないというのであれば、私は諸君にこれから降りかかることを怖れる者である。というのも、諸君の同盟諸国のなかでも貴国はちょうど戦の通り道にあって戦場に位置しているゆえ、貴国だけはどうしても破壊から免れるわけにゆかないからだ」

「いや、むしろ彼の意見に従われよ。偉大なる王がギリシャ諸国の中で貴国のみに対してその罪を不問に付し、交誼を結ぼうとされていることは、決して軽々しく考えてはならぬことである」アレクサンドロスはこのように語った。

141.ところでこれより以前、スパルタ人は、アレクサンドロスがアテネに到来し、夷荻と和議を結ばせようとしているとの情報を得ていた。そしてスパルタ人はメディア人とアテネ人によって、他のドーリア人とともにペロポネソスから放逐される運命にあるという神託を想起しつつ、アテネ人がペルシャと和議を結ぶのではないかと危ぶんでいた。そしてただちに使者を送ることを決めた。

さらに、スパルタの使者との会談とアレクサンドロスとの会談は同時に行われることになった。それは、和議を結ぶためにペルシャから使者が来ることが分かれば、スパルタ人は必ず大急ぎでやって来ることがアテネ人には分かっていたので、彼らはアレクサンドロスとの会談を遅らせ、使者が来るのを待っていたのだ。彼らは自分たちの考えをスパルタ人に示すため、故意にそのような態度に出たのだ。

142.さてアレクサンドロスが語り終えると、スパルタからの使者が後を継いだ。
「我らは、アテネがギリシャに何らの損害をもたらさないよう、従って夷荻人の申し出を受けないよう要請するために、スパルタから送られてきている」

「和議を結ぶなど、ギリシャ人ならば誰にとっても道理にはずれ、不名誉なことである。特にほとんどのアテネ人にとっては多くの理由から、このことが言えるだろう。つまり、この戦を引き起こしたのは諸君であって、我らは全く望んでいなかったのだ。もとはと言えば、貴国の領土での戦がギリシャ全土に拡がったのだ」

「それを脇におくとしても、古来あまたの人間に自由を与え続けてきたことで名を馳せたアテネ人が、ギリシャに隷従の起因をもたらすことは、なんとしても耐えがたいことだ。とはいえ、アテネは二度までも収穫を失い、衰亡すること長期ゆえ、諸君の苦難には同情を禁じえない」

「それに対する見返りとして、スパルタとその同盟国は、戦に従事しない貴国の婦女子と一族郎党を、この戦が続く限り、あますことなく扶養することを、ここに宣言する。そしてマルドニオスの甘言にのせられて、マケドニア人アレクサンドロスの説得を受け入れてはならぬぞ。それに従うのが、かれの勤めなのだから」

「かれは僭主であるから、僭主同士の仲間として動いているだけなのだ。諸君が分別をわきまえているなら、夷荻には信頼も誠実もないことを念頭におき、そのようなことに関わるべきではない」これが使者の言葉だった。

143.そこでアレクサンドロスに向かって、アテネ人は次のように返答した。
「メディアの勢力が我らの何倍もあることは承知しているゆえ、それをあげつらって我らを愚弄する必要はない。とはいえ我らは自由を渇望するゆえ、力の限り防戦するつもりだ。夷狄との和議に関しては、彼らに隷従するような誘導はやめて貰いたい。もちろん、我らは承諾するつもりもない」

「そしてアテネ人からの返答として、次の言葉をマルドニオスに持ち帰るがよい。太陽が今の運行を変わらずに続ける限り、我らはクセルクセスと和議を結ぶつもりはない。かれが一顧だにせず焼き払った神殿や聖像におわした神々、神人の支援を信じつつ、我らは止むことなく戦うだろう」

「そして、そのような申し立てを持ってくるなら、もう二度とアテネ人の前に現れないでもらいたい。ましてや我らに奉仕すると見せかけ、不当な行ないを勧告するのも無用だ。我らの盟友であり庇護者である貴殿には、アテネ人からの不快な思いを抱かせることを、我らは望んではいないからだ」

144.アレクサンドロスにこのように返答したあと、アテネ人はスパルタの使者たちに向けてこう語った。「我らが夷狄人と和議を結ぶのではないかとスパルタ人が危惧するのは、人として無理からぬことではある。しかし、我らがすすんで和議を受け入れ、メディア側についてギリシャを隷属させるに匹敵するほどの、おびただしい黄金はこの世界のどこにもなく、優れて美しく肥沃な国土もどこにもない、と考えるアテネ人の気質を熟知している貴殿らが、そのような危惧を抱くのは、全くもって馬鹿げたことだ」

「たとえ我らがそれを望んだとしても、そのようなことをするはずがない大きな理由が多くある。それは第一に神々の像や神殿を焼き払われたことである。そのようなことをしでかした張本人には何としてもできる限りの報復を加えねばならず、盟約を結ぶなどもってのほかである。第二に、血統も言語も同じくし、神々の聖廟も生贄儀式も同じ、慣習も同じくするギリシャ人の血縁関係がある。これら全てに背くことはアテネ人にふさわしくないことだからだ」

「貴殿らが知らなかったというなら、今ここで承知しておいてもらいたい。すなわちアテネ人が存続する限り、決してクセルクセスとは盟約など結ぶはずがないということを。とはいえ、我らの荒廃した国を心配し、我らの一族を扶養しようという配慮には感謝する」

「貴国からは十分な配慮を頂きはしたが、我らとしては、貴国に負担をかけることなく、できる限り堪え忍ぶつもりである。そこで、このような状況であるゆえ、貴国の軍をできるだけ早く派遣してもらいたい」

「というのも、マルドニオスの要望を我らが拒否したという報せがかれに届くや、夷狄軍はただちにわが国を侵略しにやって来ることが予想されるからだ。従ってマルドニオスがアッティカに到着する前に、我らが先にボイオティアに進軍するのは、今が絶好の時なのだ」

この返答を聞き、スパルタの使者たちは国に帰って行った。

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