SOT デジャネット物語

更新;2009.8.9
パシフィック・アジア・カイロプラクティック協会
インストラクター 前田 滋
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(1) 邂 逅

カイロ・ジャーナル第60号(2007.11.11発行)より転載(一部加筆あり)

M.B.DeJarnette;30才頃
DeJarnette

パシフィック・アジア・カイロプラクティック協会(PAAC)は今年で創立32年を迎える。設立当初から米国のさまざまなカイロ・テクニックを日本に紹介してきているが、なかんずく1982年頃より仙骨後頭骨テクニック(SOT)の米国研究機関である国際仙骨後頭骨研究協会(SORSI)との関係が緊密になったこともあり、国内では「PAACといえばSOT」という風潮が広まっているようだ(決してそんなことはなく、他の治療法のエキスパートも大勢存在しているのだが・・・)。

のっけからPAACの宣伝めいた話で恐縮だが、上のような事情により、PAACはSORSIの委託を受けて、米国と全く同じ内容の認定試験(ベイシック・アドバンス・クラニオパシーの三段階)を1989年から毎年実施している。そしてこのたび、本紙よりSOTの解説記事の依頼が寄せられたので、できる限り判りやすく紹介してみたい。

話を進めるにあたり、まず創始者であるM.B.デジャネットの人となりから始めるのが適当と思われるが、では、デジャネットとは、どのような人物だったのか・・・。

自らの開発した治療システムを仙骨後頭骨テクニック(SOT)と命名したM.B.デジャネットは、1899年12月23日、米国ミズーリ州グリーンリッジ(Greenridge;セントルイスの北東約100Km:地図参照)という田舎街に生まれる。そして1984年に現役を引退するまでの間、実に138冊もの著作を残している(没年は1992年5月31日)。

大やけどに悩んだ創始者

転居時期は詳らかにしないが、1918年にネブラスカ州ヘイブロック(Havelock;リンカーン郊外:地図参照)という街の高校を卒業したデジャネットは、自動車工学とそのデザインのエンジニアを目指して奨学金を得、実験工学の実習生となってデトロイトへ向かった。

ここで、デジャネットは自分の将来を決定する大きな出来事に遭遇する。働いていた工場のボイラーが大爆発し、それに巻き込まれたのである。多数の死者が出る中、デジャネットも殆ど全身に三度の大火傷を負ってしまった。これが1920年のこと。幸い命は取り留めたものの、左手が不自由となり、歩行もままならないほどのひどい障害に苦しめられることになった。

将来を悲観した彼は、ある夜のこと、川に身を投げようとして橋の手すりによじ登った。そのとき、彼の肩に手が触れ、「今はその時ではない。お前には将来がある」という声が聞こえたそうな(デジャネット談)。極めて神がかりな話だが、その声に従って身投げを思い留まったデジャネットは、その後オステオパシーという治療法があることを知り、この治療に身を委ねることにした(1922年)。

ところが、デジャネットの身体の状態がよほど酷かったとみえて、治療を担当したオステオパシー・ドクターは、イリノイ州エルジン(Elgin;シカゴの北西約100Km:地図参照)にあるディアボーン・オステオパシー・カレッジの付属クリニックでの治療を彼に勧めた。そこでデジャネットはエルジンに移り、オステオパシーの治療を続けた。

この大学は頭蓋骨調整の創始者であるW.G.サザランドと関係が深かったため、当時のデジャネットは知らなかったが、サザランドからも直接治療を受けていたことを、後になってから知ることになる。

奇跡の回復で決意

オステオパシーの治療によって、ある程度の回復をみたデジャネットは、ネブラスカ州リンカーン(Lincoln; 地図参照)に帰って理髪店を買い取り、理髪業を始めた。しかしまだ背部にひどい障害が残っていて、長時間立って作業できない状態であったので、理髪作業のやりやすいように自分専用の車椅子を考案して作り、それに座って仕事をしていたと言うことである(デジャネットのことをよく知っているカンザス州のNed Hees D.C.談)。

このあたり、デジャネットは子供の頃から探求心が強く、人一倍着想力に富む人であったと言える。そしてある時、客の一人がネブラスカ・カイロプラクティック・カレッジの最上級生であったことから、その場で頚椎のアジャストを受け、これを契機として、この大学の付属クリニックに通院するようになる。そして半年ほど治療を受けたところ奇跡的にも、ほぼ完全に回復したので、デジャネットはカイロプラクターになることを決意し、リンカーン市内にあるネブラスカ・カイロプラクティック・カレッジに入学する(1923年)。

この時のカイロプラクターの手腕がよほど凄いと、筆者などは考えてしまうのだが、その人の名前は残されていない・・・。

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(2) 開業そして発見

カイロ・ジャーナル第61号(2008.2.29発行)より転載(一部加筆あり)

M.B.DeJarnette;46才頃
DeJarnette

車が故障し、やむなく開業

1924年にネブラスカ・カイロプラクティック大学(ネブラスカ州リンカーン市)を卒業したデジャネットは、リンカーン市内でカイロプラクティックを開業しようとしたが、大学のカリキュラムに不備があったようで、産婦人科の単位不足により同市内での開業免許が得られなかった。

カークスビル・オステオパシー大学(ミズーリ州:地図参照)なら、この学科単位を取得できるということで、やむなくデジャネットは同地に向けて出発した。しかしその途次、ネブラスカ・シティー(地図参照)まで来たところで、運転していたA型フォードの車軸が破損してしまったのである。

欧米では今でも古色蒼然としたオンボロ車が平然と街を走っている光景を見聞きするので、今から83年前の米国において、二十歳過ぎの若者が購えるのは、せいぜいが廃車寸前のボロ車であったであろうことは想像に難くない。修理工場では、車軸を取り寄せるのに一ヶ月かかると言われ、懐に余裕のないデジャネットは仕方なくカークスビル行きを諦め、この地でカイロプラクティックのオフィスを開くことにした。

このあたりの事情は少し込み入っているのだが(何しろ、カイロプラクティックが生まれてからわずか30年である)、同じ州の中でもカイロプラクティックの開業免許制度が郡によって微妙に異なっていたようで、ネブラスカ・シティーでは産婦人科の履修単位がなくとも開業できたようである。とは言っても差し当たって必要な資金や場所などのあては全くない。さて、デジャネットの取った行動とは?

たまたま市内の農業銀行の二階が空いていて、また、そこの頭取が坐骨神経痛を患っていることを知ったデジャネットは、頭取の座骨神経痛が治せたら、家賃が支払えるようになるまでその部屋の賃貸料を無料にして貰うことを、その頭取と交渉したのである。そしてうまく頭取の坐骨神経痛を完治させることができたので、そこにオフィスを構えることができた。その後デジャネットは引退するまで、そのオフィスを使い続けることになる。

誰しものことであろうが、開業当初は泣かず飛ばずの状態だったので、食費を浮かすために、夜遅くなってから閉館間際の地元の映画館に行き、売れ残りのポップ・コーンを安く買って餓えを凌いだこともあると、はるか後にデジャネットは回顧している。

1991年1-3月期のSOT会報には、デジャネット自身がこの時の事情を次のように書いている。−−以下引用−−

『私は産科学と婦人科学の単位を履修するためにミズーリ州カークスビルへ向かう途中であった。その後で、ネブラスカ州リンカーンにてDr. Paul Sinclairと共にオステオパシー・オフィスを開業する予定であった。ところが、いかなる神の仕業であろうか、私の運転している車の後輪車軸が破損し、車の前を車輪の一つがネブラスカに向かって転がって行くのが見えたので、仕方なくそこに留まることになったのである。
−−(中略)−−
その時の所持金は66.5ドルであった。その上、街の二つの新聞に広告を掲載したので、私の手元に残された金額がいかほどであったか、判っていただけるだろう。通りをずっと行ったところに映画館があり、夜の10時半頃に行くとポップコーン売り場の売り子が、売れ残りを5セントで売ってくれたものである。3週間のあいだ、このポップコーンで私は命をつないだような気がする』−−以上、引用終わり−−

開業2年後の1926年にはディアボーン・オステオパシー大学(イリノイ州エルジン)を卒業したという証書が残されているが、当時の全修学期間(18ヶ月)を実際に通学したのではなく、おそらくカイロ大学の取得単位が認定され、不足分の単位を取得したものと思われる。

後頭部の"しこり"に注目

さて、これより30年後の1958年に「SOTの歴史(HISTORY OF SOT)」という薄い冊子が出版されているが、これによると、デジャネットは開業当初から後頭部の「しこり」に気づいており、この「しこり」は彼が教わったどんなアジャストを用いても解消されないことから、ある種の反射現象ではないかと考えるようになった。そして彼は椎骨アジャストよりも、独自の脊柱反射療法に傾倒し始めるのである。

ちょうどその頃、ある男性患者の腸骨痛と下肢痛が、仙骨の反応点をマニピュレートすることで解消されたものの、その直後に後頭部に顕著な反応点が出現したことなどから、仙骨と後頭骨の間に何らかの関連性があるはずと考え、自分の治療システムを「仙骨後頭骨テクニック(SOT)」と名付けたようである。

そのほか、デジャネットが開業する十年ほど前に、B.J.パーマーが上部頚椎の「ホール・イン・ワン学説」を提唱していたこともあり、それに対抗する意識もあって、このようなテクニックの名称をつけたとも伝えられている。その後のデジャネットの著作物ではSOTの開始は1925年(開業の翌年)と明記されているので、患者はまだ少ない状態でも、彼は自分の発見した事柄に強い自信を抱いていたことが判る。

この後頭部の「しこり」はその後、「後頭骨線維」と名付けられ、脊椎分節の硬膜門の障害や内臓機能低下の反射点であることが判明し、内臓反射療法(CMRT)開発の基礎となった極めて重要な発見である。

脊柱反射療法に傾倒

1929年初頭に、デジャネットは極めて興味深い実験結果を得たことが前記「SOTの歴史」に記載されている。それは電流刺激を筋に与え、筋の動きを調べるというものであった。この実験結果から彼は脊髄中に二つの主要経路が存在することを突き止めたのである。

その一つは受容された電気刺激が一度下方の(仙骨の)骨盤神経叢に伝達され、そこから上位中枢に伝達される経路。二つ目は、受容された刺激が仙骨を経由せずに直接上位中枢に伝達される経路である。その境界となる部位は第9胸椎であることも突き止めている。

すなわち、第9胸椎より下方の脊髄に入る刺激信号は骨盤神経叢と仙骨に関係しているので、この部位よりより下位のニューロンに関連する痛みは仙骨の配置を変えることによって抑えることができ、第9胸椎より上位の脊髄に入る刺激信号は直接上方へ伝わるので、この部位より上位に入る刺激信号は、アトラスに対する後頭顆の配置を変えることによって抑えることができることを発見したのである。

と、ここまで書いてきて紙幅を越えた。市井の一施術家にすぎないデジャネットが、なぜこのような実験を行なうことができたのかは、その当時の社会情勢−世界恐慌−と大いに関係があるのだが、これに関しては次号で述べてみたい。

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(3) 世界恐慌下での研究活動

カイロ・ジャーナル第62号(2008.7.14発行)より転載

時代背景

1929年10月24日午前、米国ニューヨーク・ウォール街の株式取引市場において、ゼネラル・モーターズ社の株価が80セント下落したことがきっかけとなって売り注文が殺到し、その30分後には市場が全て売り注文一色となった。そして株価市場の大暴落が世界中に波及した。これが世に言う世界恐慌である。

これに関しては、銀行家で投資家であるジョセフ・ケネディ(第35代米国大統領J.F.ケネディの父)が、暴落の始まる数ヶ月前のある朝、靴磨きの少年が「今日の株価はどれくらい上がるでしょうね」と言った事から、「靴磨きの小僧までもが株式のことを気にかけているような異常な株価高騰状態は間もなく崩壊する」と、閃くように悟り、手持ちの有価証券をすべて売り払ったうえ、その後も空売りによって巨万の富を手に入れ、米国屈指の資産家となったという話はあまりにも有名である。やがて彼は自分の一族から米国大統領を輩出することに情熱を燃やし始めるのだが、これはあくまでも余談。

さて、前回の記事でデジャネットが電流刺激に対する筋の反応実験を行なったことを書いたが、このような一連の研究にデジャネットが取りかかっていたのは、まさに世界恐慌の頃のことである。不景気の嵐が吹きあれる中で、カイロ業界でも患者が減り、治療院の存続さえ危ぶまれる中で(現在の日本の状況と非常に良く似ている)、彼は実験をどこで行なったのか?実験装置その他はどのように調達したのか?とりもなおさず被験者をどのように募ったのか?それを解く鍵は「特許料」と「世界恐慌による大不景気」である。

特許料で不景気乗り切る

後頭骨の"凝り"という発見を元に、いろいろな治療法開発を模索する中で、彼は一時期「色彩治療」の研究に関わっていた。その研究中、偶然にも現在で言うところのカラー写真現像プロセスの一部である異なるカラー・ゲルを分離する方法を発明し、その特許を取得したのである。そしてカラー・フィルム・メーカーとして台頭していたコダックが、この特許を買い取ってくれたのである。

特許の売買価格やその時期など、、デジャネットは同業者にも、親しい人にも話していなかったようで、あれこれ調べてみたものの、詳しいことは判っていない。しかし、この特許料のおかげで恐慌後の不景気を乗り切ることができた上に、さまざまな研究のための資金を賄うことができた。

無料治療、生理学的実験に没頭

そしてその後の数年間は患者から一切治療費を取らず、また博士号取得者を雇って大学で委託研究をしたり、かの有名なメイヨー・クリニックなどの病院でカイロに関する研究を行なうことができた。また研究のために、以前にカイロプラクティック治療を受けたことのある患者で、しかもカイロの実験に参加してくれる患者だけを受け入れるようにしたのである(1931年〜1940年まで)。

不景気が逆に奏功して、「人々は治療にかける金銭的余裕がなく、患者を無料で治療することで、被検者を集めることが容易であった。現在では到底困難なこと」と、1958年の段階でデジャネットは回顧している(「SOTの歴史」)。前記の電気刺激実験もこのような状況下で行なわれたものである。

その当時(あるいは今でも?)カイロプラクティックによる椎骨アジャストメントは、矯正音をさせて椎骨を復位させることが目的であり、これが治療の基本概念とされていたが、デジャネットは、みずからの治療体験から、椎骨アジャストメントは、神経系に興奮刺激または抑制刺激をもたらす事によって効果を発揮するのではないか、と考えるに至った。そして、解剖学や病理学よりも生理学を深く探究するようになった。様々な実験装置を購入したり、自らも作製し、患者を集めては「生理学的実験」に没頭し、1936年には実験装置で満杯になっている三つの部屋を所有していたほどである。

1929年には仙骨後頭骨研究協会を設立し、会員からの会費も研究費(と生活費)の資金源に加え、上記のような長く根気の要る一連の「実験」によって、デジャネットは今日知られている様々な体表反射点や、インディーケーターを発見したのである。以下箇条書きで主な研究成果を書いてみる。なお、デジャネットのもう一つの大きな仕事である頭蓋骨療法に関しては、次号で書いてみたい。

主な研究業績

 1926-1933年:脊柱治療における後頭骨の重要性を指摘
 1932年:CAT2の概念を提起
 1938年:ブロックの開発
 1938年:「抵抗と収縮」の要因を発見
 1939年:「無血手術のテクニックと実践」を発刊。
      これは後に内臓反射療法(CMRT)に発展
 1940年:「仙骨後頭骨テクニック」を発刊
 1942-1949年:3本の後頭骨ラインを確立
 1951年:脊柱ポンプ操作法を発表
 1961年:前方胸椎アジャストメントを開発
 1965年:仙骨後頭骨テクニック(SOT)の完成
 1966年:後頭骨線維の概念を確立
 1968年:ダラー・サイン、クレスト・サイン、コフ・テストの各操作法を確定
 1968年:「クラニアル・テクニック」を刊行し、頭蓋療法を教え始める
 1969年:カテゴリー1,2,3の概念、整形外科ブロックを発表

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(4) 頭蓋療法の研究

カイロ・ジャーナル第63号(2008.11.28発行)より転載

生活を犠牲にして研究を続ける

前回の記事中、デジャネットがカラー・ゲルを分離する特許をコダックに売却したエピソードを紹介したが、その後の調査で、これはいわゆるロイヤリティー契約であったことが判った。これは特許の使用回数に応じて期日毎に「使用料」が支払われるので、本人が綿密にメモを残していない限り特許料の総額は分からないことになる。また、そのロイヤリティー料がいつ頃まで支払われていたのかも不明である。ちなみにデジャネットが臨床研究に没頭していた1930年頃のカイロプラクティックの施術料金は1ドルが相場であったと彼は書いている。従って、できるだけ多くの患者を治療しないと生活が成り立たないのが一般的である中、デジャネットは臨床研究のために一日に6人ほどしか治療できない時期が続いていた。デジャネットが借りていたオフィスの家賃が当初は月に20ドルであったので、如何に生活を犠牲にして研究していたかが判る。

少し年代が遡るが、1900年頃のフィラデルフィアの造船所に、造船技術を学ぶために職工として働いていた桝本卯平という人物(日露戦争後の全権大使・小村寿太郎の書生で東京大学造船学科卒)の日給が1ドル40セント、下宿代が週に5ドルであったという記述が「坂の上の雲・第二巻(司馬遼太郎著、文春文庫刊)」にある。週に5日働いたとして、下宿代を払うと手元には2ドルしか残らないが、5セント持ってゆくと酒場では飲みきれないほどのビールが飲め、ビーフ、ハム、サンドイッチ、ビスケット、チーズなど、これだけで昼飯や晩飯になるほどの無料のツキダシが供されたということである。−−こと食料に関してはアメリカは格段に安いという印象があるが、この印象は1ドルが100円の現代でも変わらない−−この時代から30年ほど後の1ドルである。おおよその見当はつくだろう。

さて、1938年のある時、ネブラスカ一帯でとびきりの巨漢と評判のドイツ系農夫(養豚業者)が、重い物を持ち上げようとしてひどい腰痛を起こし、そのまま地面に倒れ込んで動けなくなった。デジャネットが往診を頼まれ、ミリオンダラー・ロール(ディバーシファイド・テクニックのランバー・ロール)を試みようとしたが、患者の巨体を自分の力では側臥位に動かせなかった。そこで、近くに転がっていた2インチ×4インチほどの楔形木片を患者の腸骨の下に差し込み、それを梃子にして患者の身体を動かそうとした。その直後、「あれれ?痛みがなくなったぞ!」と突然患者が叫んだ。このことをヒントにして、その後タプリンD.O.のフット・ブロックも参考にして骨盤ブロックが開発されたという逸話があるので、紹介しておく。

究極の目標へ−−頭蓋療法

閑話休題、頭蓋療法を最初に開発したのは言わずと知れたW.G.サザランドD.O.である。彼は、カークスビルのオステオパシー・スクールに在学中、学校の標本室に展示されていた、一度分解して組み立てられた頭蓋骨を観察していて、左右の側頭骨が魚の鰓(えら)に似ていることから、「側頭骨も鰓のように動いているのではないか?」という疑問を抱いた。そしてそれ以後、頭蓋骨に可動性があるという仮説の下に頭蓋療法を開発した。サザランドによる最初の頭蓋療法に関するテキストは「頭蓋ボウル」(1939年)である。デジャネットが工場の事故で蒙った酷い外傷のためにディアボーン・オステオパシー・カレッジの付属クリニックで治療を受けていた時、デジャネット本人は知らなかったが、サザランドの頭蓋療法を受けていたのである。そして頭蓋療法による有害反応も経験していた。そこでデジャネットは、頭蓋アジャストメントに対する反応を排除するための分析システムと治療法の開発を目指した。彼は親しいドクターに次のように語っていた。「私個人は頭蓋矯正による有害反応を経験したことがあるので、頭蓋アジャストメントに対する反応を排除するための分析システムと治療法の開発を目指した。頭蓋機能の正常化と神経系のストレスの解放が、健康における究極の目標である」。

現在の一般的な生理学の成書では、脳脊髄液の量は成人で100〜150ml、圧は40〜150mmH2O、一日に3〜4回更新されることなどが記述されているが、その循環の原動力については定説がない。脳脊髄液の循環の原動力が頭蓋骨の脈動(と仙骨の脈動)であるという仮説を立て、これに基づいて脳脊髄液の循環障害を改善し、神経機能を改善する治療法を提唱したのがサザランドD.O.であり、それに続くデジャネットである。

カイロプラクティック界で独自の頭蓋療法を開発したのはデジャネットだけであるが、オステオパシー界においてはサザランドに続き、マグーン、フライマン、アプレジャー、カイトウなどの人達が独自の手法を開発したり、優れた解説書を書いている。

1965年までに、デジャネットは客観的な分析・治療体系としての仙骨後頭骨テクニック(SOT)をほぼ完成させたのだが、この治療体系はまた、頭蓋療法による有害反応を起こさないための「準備操作」としての役割を果たすことになった。彼は1968年に最初の「クラニアル・テクニック」を刊行し、同時に頭蓋療法を教え始めている。

デジャネットが設立した国際仙骨後頭骨研究協会(SORSI)に入会していた学生の中からは、アプライド・キネシオロジーのグッドハートや軟部組織整形外科、ハーモニック・テクニックのリースなど、著明な治療家が輩出しているので、彼は教育者としても偉大な業績を残している。特にグッドハートは学生の頃、小柄な身体でデジャネットの走り使いを機敏にこなしていたことから、「リトル・ボーイ」という愛称で可愛がられていたようである。

さて、次回からはSOTの各カテゴリーのごく簡単な説明を行なってゆきたい。
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WEB版連載終了のお知らせ

上記の最後に、「次回から各カテゴリーの説明を行なう」と告知し、あと3回分記事は続く予定ですが、 一般読者の多いWEB版では、専門的な話を掲載することは不適当と考えられるので、このシリーズは今回で終了とします。
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