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歴史 第一巻 クレイオ ヘロドトス著
The History BOOK I CLIO Herodotus


邦訳:前田滋(カイロプラクター、大阪・梅田)
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-1.html)

掲載日 2020.10.25


英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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底本(英訳文)

*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003
*ギリシャ語の原文サイト
 Ιστορίαι (Ηροδότου)
 Istoriai (Irodotou)


~~~目 次~~~

    序説

1-5  アジアとヨーロッパの抗争の始まり
6-94  リディア史
7-25   リディア古代史(ギュゲスよりクロイソスへ)
26-94   クロイソス
26-33    クロイソスとソロン
34-45    クロイソスとアドラトス
46-55    クロイソスと神託
56-70    クロイソスとギリシャ(アテネ、スパルタ)
71-94    クロイソスとキュロスの抗争

95-216 ペルシャ史
95-122  メディア史とキュロスの生い立ち
123-140  ペルシャのメディアからの離反と覇権掌握
141-176  キュロスによる小アジア征服
141-151   小アジアのギリシャ各都市
152-161   リディアの反乱とその鎮圧
162-176   ハルパゴスによる小アジア征服
177-200  キュロスによるバビロン征服
177-187    バビロンの都市
188-191    バビロン占領
192-200    バビロンの地誌、習俗
201-216  キュロスによるマッサゲタイ遠征
201-204    マッサゲタイの地理
205-215    キュロスによる征討、その最期
216      マッサゲタイの習俗

(*)は邦訳者(前田)による注

序説

これはハリカルナッソスのヘロドトスが著した探究の書である。本書において、人々の営為の記憶が時のかなたに葬り去られぬよう、 また時にはギリシャ人が、時には異邦人が成し遂げた、偉大で驚嘆すべき幾多の偉業の栄光が失せぬよう、なかんづく両者の角逐の原因が忘れ去られぬよう、書きしるすものである。



1.歴史に詳しいペルシャ人によれば、そもそもはフェニキア人が、いさかいの原因だという。彼らの伝えるところでは、この人々は紅海(1)から我らの海にやって来て各地に定住し、今現在も占拠している。そして民族を挙げて長距離航海に従事するようになった。彼らはエジプトやアッシリアの物産を各地に運びながら、アルゴスにやって来た。ここは当時あらゆる意味において現在ギリシャ人(*)と呼ばれている人々の間では重要視されていた地である。

(1)現在の紅海ではなく、ペルシャ湾とその近隣の海域

(*)本書では、「Hellas」または「Hellene」と表記されている例が多いが、現在の日本では「ギリシャ」、「ギリシャ人」の方が一般に親炙しているので、こちらを用いることにする。

ある時フェニキア人たちがアルゴスに来て積み荷を売っていたのだが、到着してから五、六日後、すなわち物産がほとんど売り切れた頃に大勢の女たちが海岸にやって来た。その中には王女も混じっており、この王女はペルシャ人やギリシャ人の呼び方ではイオという名で、イナクス王の娘だった。

女たちが船尾に群がって好みのものを品定めしていると、フェニキ人たちが互いに声を掛け合いながら、彼女たちに襲いかかってきた。ほとんどの女たちは逃げおおせたが、イオと幾人かの女が捕らえられて船に拉致され、エジプトへ連れ去られてしまった。

2.ギリシャ人の伝承とは異なり、ペルシャ人は、このようにしてイオはエジプトに来たと伝えているが、これが数々の災禍の、そもそもの始まりだったとペルシャ人は云っている。そのあと彼らが云うには、その名はわからないが、数人のギリシャ人がフェニキアのテュロスにやって来て王の娘を拐かし、ヨーロッパに連れ帰ったという。そのギリシャ人というのはクレタ人だと思われるが、ともかくも、これで先の悪事のお返しとしたはずだった。ところが、このあと、ギリシャ人が二度目の悪逆を働いたという。

それはこういうことだ。あるとき、ギリシャ人がコルキスのアイアに軍船でやって来、ファシス河(2)に入り、ほかの任務をやり終えたあと、王女メデイアを奪って連れ去ったのだ。

(2)アルゴー船隊員による伝説上の航海

そこでコルキス王は使者をギリシャに送り、王女掠奪に対する賠償と、王女の返還を要求した。しかしギリシャ人側は、夷荻人が王女イオの掠奪に対してアルゴスに賠償を支払っていない以上、これに対する賠償を夷荻人に支払うつもりはないと返答した。

3.そして、次の世代になり、(トロイ王)プリアモスの子アレクサンドロス(パリス)はこのことを聞き、かつてギリシャが賠償しなかったので、自分が悪辣なことをしても賠償させられることはないだろうと考え、ギリシャから自分の妻となる女を力づくで略奪しようと考えたと、ペルシャ人は伝えている

こうしてアレクサンドロスはヘレネを連れ去ったのだが、当然のことギリシャ人はすぐさま使者を送り、ヘレネの返還と掠奪に対する賠償を要求することを決めた。ところが、その要求を突きつけると、アレクサンドロスはメディアの掠奪の件を持ち出し、ギリシャ人は要求されても賠償もしなければ、人も返さないくせに、自分たちへの賠償は要求するのか、と抗弁した。

4.この時点では、双方が女を連れ去っただけのことだった。しかしこのあと、夷荻人がヨーロッパに侵攻するより先に、ギリシャ人がアジアに遠征を始めたのであるから、ギリシャ側に大きな非があると、ペルシャ人は主張している。

さてペルシャ人の観点では、力づくで女を掠奪することは、よろしくない行ないではあるが、掠奪に対して報復することに執心するのは愚劣なことだという。そして掠奪されてもそれを斟酌しないことが賢明な態度であると考えている。なぜと云うに、拐かされる女自身にその気がなければ、決して連れ去られることはないはずだ、と云うのだ。

さらにペルシャ人が云うには、アジアの人々は女が力づくで連れ去られたとしても全く意に介さないが、ギリシャ人は一人のスパルタ(*)女(ヘレネ)のために大軍を編成してアジアに侵攻し、プリアモスの領土(トロイ)を荒らしまわったという。

(*)原文は「Lacedemon」(スパルタの古名)であるが、現在の日本では「スパルタ」が一般に親炙しているので、この表記を用いることにする。

それ以後、自分たちはギリシャ民族を敵と見なすようになったと、ペルシャ人は云っている。つまり、アジアやその地に住んでいる民族はペルシャ人が支配しているが、ヨーロッパおよびギリシャの民族は自分たちとは別個だと考えている。

5.ペルシャ側に伝わっていることの起こりは右の通りで、ペルシャとギリシャの反目のそもそもの発端は、イリオン(トロイ)の攻防戦にあるとペルシャ人は考えている。

ところが、イオに関しては、フェニキア人はペルシャ人の言い分に異を唱え、次のように語っている。すなわち、彼女を無理矢理エジプトに連れてきたのではなく、イオがアルゴスにいたとき、件の船長とわりない仲となって身ごもったが、両親に恥じてそのことを打ち明けられず、ことの露見を怖れて、みずからの意思でフェニキア人に従って出帆したのだという。

以上が、ペルシャ人とフェニキア人の伝える話である。私としては、どちらに関しても、あれこれ論じるつもりはない。しかし、最初にギリシャ人に悪行を働いた人物を、私の知る範囲内で指摘したあと、人の住みなす都市の大小を問わず、それらについて話を進めて行きたいと思う。

かつては大国だったが今は小国となっている例は数知れず、また以前小国だった国が、今は大国となっている例もあまたある。同じ地で人の繁栄が継続することは決してないとわかっているゆえ、わたしはその両方を同列に論じるつもりだ。

6.さて、クロイソスはアリアテスの子で、生まれはリディア、そしてシリアとパフラゴニアの間を南から北へ流れ、いわゆる黒海へ注いでいるハリス河の西側に住む全民族を統率している僭主だった。

このクロイソスは、我らの知る限り、一部のギリシャ人を支配下におき、そこから貢税を徴収し、またそのほかのギリシャ人と友好関係を築いた最初の異邦人だった。すなわち、支配したのはイオニア人、アエオリア人、ドーリア人で、友好を築いたのはスパルタ人とであった。

クロイソスの統治以前は、ギリシャはその全土が自由だった。クロイソスの前時代にキンメリア人がイオニアに遠征しているが、それはギリシャの国々を征服することが目的ではなく、単に襲撃と掠奪のためだった。

7.ヘラクレス(3)の末裔が掌握していた統治権が、メルムナス家というクロイソスの一族に移ったいきさつは、次のとおりである。

(3)ヘラクレスの末裔というのは、ギリシャ人がアジア的太陽神とみていたヘラクレス神の末裔のことと思われる

ここにカンダウレス、すなわちギリシャ人がミルシロスと呼んでいる人物はサルディスの僭主だった。かれはヘラクレスの子アルカイオスの末裔だった。アルカイオス、ベロス、ニノスに続くアグロンが、サルディスにおけるヘラクレス一族の初代王で、ミルソスの子カンダウレスが最後の王だった。

アグロン以前に、この国を統治していたのはアティスの子リドスの末裔たちで、リディア地方の名はリドスに由来している。それ以前はマイオニアと呼ばれていた。

ヘラクレスとイアルダノスの女奴隷を始祖とするヘラクレス一族は、神託によってリドスの子孫から統治権を譲り受け、二十二代、五百五年にわたり、ミルソスの子カンダウレスに至るまで主権を保持していた。

8.このカンダウレスは自分の妃を寵愛するあまり、彼女ほど美しい女性は世界にはいないと思い込んでいた。そのカンダウレスには、ダスキュロスの子でギュゲスという、近衛兵の中で特に気に入っている者がおり、この者には特に重要な秘密までも委ねるほどだったが、この者にも、自分の妃が美しいことをむやみに自慢していた。

その後しばらくしてから、カンダウレスは、悲運な定めでもあったものか、ギュゲスに向かって次のようなことを語った。

「ギュゲスよ、お主は予の妃の美しさについてワシが云うことを信じておらんようだな。耳は目ほどに信をおかれぬものだ。そこでじゃ、わが妃の裸の姿を見せてやろう」

これに対してギュゲスは大声で云った。
「殿、なんというあられもないことを仰せらるるか。お妃さまの裸を見よとは!女というものは衣服を脱ぐとともに、その節操もかなぐり捨てるものにございますぞ」

「その上、古来、知恵を学ぶべき数々の格言が伝えられております。そのひとつに、次のような言葉がござる。身の程を知れ、と。そしてみどもは、お妃さまが全ての婦人の中で、一等お美しいことを信じておりますゆえ、そのような無体なことを命じられませぬよう、切にお願いいたしまする」

9.こう云ってギュゲスは拒んだ。なにか不吉なことが身に降りかかるのではないかと怖れたからである。しかしカンダウレスはなおも云った。

「しっかりしろギュゲス、ワシがお主を試しているのではないかと懸念するにはおよばぬぞ、またわが妻からの危害を怖れることも無用じゃ。妻には決してわからぬように、手はずを調えるつもりじゃからに」

「お主をわれらの寝室に連れて行くゆえ、開けた扉の陰に潜んでおれ。ワシが寝室に入れば妻も続いて入ってくる。部屋の入り口近くに椅子があって、妻は衣服を一枚ずつ脱いで、そこにおくはずだ。そこでお主は悠々と眺める、というわけだ」

「そのあと椅子から寝台に向かうとき、妻はお主に背を向けるから、妻に気づかれぬよう扉から出てゆくがよい」

10.かくてギュゲスは拒みきれず、承知した。そこで就寝の時刻となった頃を見はからい、カンダウレスはギュゲスを寝室に連れて行った。まもなく妃が続いてきて衣類を脱いでそばにおき、かれに背を向けて寝台に向かった。その姿をギュゲスは眺め、部屋から忍び出た。

しかしその時、妃はかれをちらりと認め、夫が何をしたのか悟ったものの、恥ずかしさのあまり叫ぶこともできず、また夫に報復するつもりだったゆえ、素知らぬふりをしていた。

リディア人やほとんどの異邦人は、男であっても裸体を見られることを大きな恥辱としていたのである。

11.妃は、さしあたり平静をよそおい、おとなしくしていたが、夜が明けるやいなや、一等忠実と思われる家僕たちを使ってギュゲスを呼びに行かせた。ギュゲスは、妃が何も知らないものと思い、また呼び出されて付き添うのはいつものことだったので、今回も呼び出しに応じた。

ギュゲスがやって来ると、妃は次のように語った。
「ギュゲスよ、お前の目の前には二つの道がある。そのどちらを進むか選ぶがよい。それは、カンダウレスを亡き者にし、わらわと共にリディアの覇権を手中におさめる道か、以後カンダウレスの命令に従わず、見てはならぬものを見ずにすませるように、いまここでただちに自害する道か、どちらかじゃ」

「ということは、お前たちのうち、どちらかが死なねばならぬのじゃ。この騒動の張本人である王か、慣わしを非道に破り、わらわの裸を見たお前のどちらかじゃ」

これを耳にしたギュゲスは、しばし呆然と立ち尽くし、やがて、そのようなことを選べなどと、無理じいせぬよう、妃に懇願した。

しかし、妃の翻意がかなわぬことと悟り、自分の主を弑逆(しぎゃく)するか、わが身が抹殺されるかという悲惨な事態が、真実我が身に降りかかってくることが何としても避けられぬと看て取ると、ギュゲスは自分が生きながらえる方を選んだ。そして訊ねた。

「みどもの意に反し、わが主を殺めるよう無理じいなさるからには、いかようにして主を殺めるのか、その手はずをお聞かせ願いたいものにござる」

これに妃は答える。
「王がわらわの裸を見させた同じ場所から忍び入るがよい。寝込みを襲うのじゃ」

12.このように手はずを調えてやがて夜になり(ギュゲスは解放してもらえず、またギュゲスかカンダウレスかどちらかが死ぬしか術は全くなかったゆえ)、ギュゲスは夫人について寝室に入った。そこで妃はギュゲスに短剣を与え、以前と同じ扉のうしろにかれを潜ませた。

やがてカンダウレスが寝込んだ頃、ギュゲスは忍び出て王を弑逆(しぎゃく)した。かくてかれは王の妃と覇権を手中に収めた。このギュゲスのことは、その同時代人であるパロス人のアルキロコスが、その韻律詩の中で述べている

13.こうしてギュゲスは覇権を握ったのだが、それを確かなものにしたのは、デルフォイの神託だった。リディアの住民が、カンダウレスの受けた仕打ちに怒って武装蜂起したときのことだった。ギュゲス一派とほかの住民が、次のような意見で一致したのだ。すなわち、神託がギュゲスをリディアの王として認めるなら、かれを王とし、そうでなければ、王権をヘラクレス一族に返還させるというものだった。

神託の結果はギュゲスの王権を認めたので、かれが王位についた。ただし、デルフォイの巫女は、ヘラクレス一族はギュゲスの五代あとの子孫に報復を加えるだろうという予言もつけ加えていたが、リディア国民も歴代の王たちも、その予言が的中するまでは一顧だにしなかった。

14.こうしてメルムナダイ一族はヘラクレス家から覇権を奪取したが、そのとき、ギュゲスは少なからぬ量の品々をデルフォイに奉納している。そしてデルフォイにある銀の奉納品はほとんどが、かれのものだった。それら銀製品の他にも、おびただしい量の黄金も奉納しているが、中でも言挙げすべきは六つの黄金製大杯である。

これら奉納品の総重量は三十タラントン(4)になったが、それらはコリントの宝物庫(5)に納められた。とはいえ、実のところ、その宝物庫はコリント人のものではなく、エエティオンの子キプセロスの所有するものだった。このギュゲスは、われらの知る限りでは、ゴルディアスの子でミダスというフリギア王の後では、デルフォイに奉納品を納めた最初の異邦人となった。

(4)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギーナ単位)
(5)ギリシャ諸国の多くが、デルフォイ神殿に特別な奉納の財宝を委託していた。

このミダスも奉納品を納めているのだが、それは判定を下す際に座る見事な玉座だった。これはギュゲスの納めた大杯と同じ場所におかれている。ギュゲスが奉納した金銀は、その奉納者の名にちなみ、デルフォイ人から「ギギアン」と呼ばれている。

王位についたギュゲスは、他の王と同じく、ただちにミレトスやスミルナに侵攻したり、コロフォンの街を征服したりしている。しかし三十八年にわたる在位中には、他にさしたる事業もなさなかったので、彼について語るのは、これまでとしておく。

15.さて次に、ギュゲスの後を継いだ息子アルディスに話を移すことにしよう。アルディスはプリエネを征服し、ミレトスの領内に侵攻している。またサルディスの僭主だったときには、遊牧民族のスキタイ人によって祖国を追われたキンメリア人がアジアに侵攻し、それによってアクロポリスを除くサルディス全土を征服されている。

16.アルディスは四十九年間王位についたあと息子のサディアティスに王位を譲ったが、これは在位十二年だった。そのあとを継いだのがアルヤテスである。

アルヤテスは、ダイオセスの血を引くキュアクサレスとその麾下のメディア人と戦い、キンメリア人をアジアから追放し、かつコロフォンの植民地であるスミルナを征服し、クラゾメナイを侵略したりしている。ところが、ここから引き上げたのは、みずから望んだからではなく、大惨敗を喫したことによる。かれが在位中になした事業の中で、次の事柄が特筆すべきこととして挙げられる。

17.かれは、父が始めたミレトス人との戦いを続けていたが、次のようにしてミレトスを包囲攻略している。かれは、作物が実った頃を見はからい、笛や竪琴、大小の横笛を鳴らしながら進軍し、侵略したのだ。

そしてミレトス人の領土に侵入すると、山野の住民の家屋を焼き払ったり、破壊することなく、危害も加えなかった。ただし木々や作物を荒らしまわったあと、帰って行くのを常とした。

それは、ミレトス人が制海権を握っているので、アルヤテスの軍が彼らの街を包囲しても無駄だったからである。リディア人が建造物を破壊しなかった理由は次のとおりである。ミレトス人が作物を植え、農地を耕作するためには住む家が必要である。そしてアルヤテスの軍が侵入して荒廃させるための、労苦の実りがなければならないからだった。

18.かくしてアルヤテスは十一年間というもの、戦いに明け暮れたが、この間、ミレトス人は二つの大敗北を喫している。そのひとつは、その領土にあるリメネイオンの戦いであり、もうひとつはマイアンドロス平原での戦いである。

この十一年間のうち六年間は、アルディスの子サディアティスがまだリディアの王位についていたが、そもそもミレトスの領土に侵略を繰り返していたのは、このサディアティスだった。その戦争を始めたのはかれで、続く五年間戦いを続けたのがサディアティスの子アルヤテスだった。先に私が云ったように、このアルヤテスはその父から戦いを引き継ぎ、精力的にそれを実行したのである。

この間、ミレトス人のために戦の負担を軽くする手をさしのべるイオニア人は、キオス人を除き、ひとりもいなかった。キオス人は、かつて自分たちが受けた支援と同等のものを、お返しとしてミレトス人に支援した。以前ミレトス人はキオス人がエリトリア人と戦ったとき、キオスを援助していたからだった。

19.戦いが十二年目に入り、あるときリディア軍が作物を焼き払おうとして火をつけると、それが強風にあおられ、アセソスのアテナ(6)と呼ばれているアテナの神殿に火がまわり、神殿が灰燼に帰したのだった。

(6)ミレトス近郊の小村

その時は、これが気に留められることはなかったが、軍がサルディスに引き上げると、アルヤテスが病に倒れた。そしてその病が常ならず長引いたので、誰かの勧めによるものか、みずからの意思によるものか、かれはデルフォイに神託を求め、自分の病について神のお告げを請うた。

ところが託宣使がデルフォイに到着すると、デルフォイの巫女は、彼らが焼き払ったミレトス領内のアセソスのアテナ神殿を再建するまでは、神託を下さない、と告げたのである。

20.右のことは私がデルフォイ人から聞いたことであるが、ミレトス人は次のようなこともつけ加えている。すなわち、キプセロスの子ペリアンドロスは、その当時ミレトスの僭主トラシボロスとごく親しい仲だったが、アルヤテスに下された神託の内容を知ると、使いを送ってトラシボロスにそれを知らせた。前もって警告し、友人に事態に備えることができるようにしたのだ。ミレトス人は、このように伝えている

21.さて、デルフォイの神託を受け取ったアルヤテスは、神殿を再建する期間の休戦を、トラシボロスとミレトス人に提案すべく、ただちに使者をミレトスに送った。そして使者はミレトスに向かったが、事前に警告を受けていたトラシボロスは、アルヤテスの意図がわかっていたので、次のような策を練った。

かれは、自分自身のものも含め、個人の蓄えている町中の食糧をすべて市場に集めさせ、合図をしたら飲めや歌えのお祭り騒ぎを起こすように命じたのである。

22.トラシボロスは、サルディスから使者がやって来たとき、食糧が山積みされ、市民がお祭り騒ぎをしているのを彼らが眼にし、それをアルヤテスに報告させるように仕向けたのだ。

かくて事態はその通りに推移した。使者は、その騒ぎをつぶさに見、リディア人から託された伝言をトラシボロスに伝えたあとサルディスに帰って行った。そして私の知る限り、このことが和議の成立する唯一の理由となった。

というのも、アルヤテスは、ミレトスが極度の飢饉で、住民は絶体絶命の窮地に陥っていると予想していたが、使者がミレトスから戻ると、自分の予想と全く逆のことを聞かされたのだった。

やがてリディアとミレトスは戦をやめ、友好と同盟を結ぶ協定を結んだ。そしてアルヤテスはアセソスにアテナ神殿を一社のみならず二社建立し、結果、その病も癒えた。以上が、アルヤテスとトラシボロスおよびミレトス人との戦いのいきさつである。

23.さて神託の内容をトラシボロスにもらしたペリアンドロスは、キプセロスの子で、コリントの僭主だった。コリント人の伝えるところでは、そしてまたレスボス人もそれと同じことを伝えているが、ペリアンドロスの生涯で世にも珍しいできごとが起きている。それは、レスボス島メティムナの人アリオンが、イルカに乗せられ、タイナロン岬に連れて行かれたことである。このアリオンというのは、その当時右に出る者なしと謳われた竪琴奏者で、我らの知る限り、酒神讃歌(7)を創始して命名し、のちにはコリントでそれを教えるようになった人物である。

(7)酒神讃歌(dithyramb;ディシラム)というのは、ディオニソス神を礼賛する舞踊音楽の一種。

24.さらにコリント人の伝えるところによれば、アリオンはペリアンドロスの下で人生の大半を過ごしたが、あるときイタリアとシシリー島への航海旅行をして、多額の金銀を稼いでからコリントへ戻りたいと考えたという。

コリント人以外は信用するに足りないので、かれはコリント人の船を雇い、タラス(8)から出航した。ところが船が海上に出ると、船員たちはアリオンを海に突き落とし、持ち金を奪い取ろうと企てた。そしてこれに気づいたアリオンは、金は出すから命は取ってくれるなと懇願した。

(8)タレントム

しかし船員たちはこれを聞き入れず、陸地で埋葬されたければみずから命を絶て、さもなくばすぐに海に飛び込め、と迫った。

彼らの気持ちが固く、窮地に陥ったアリオンは、せめて後甲板で盛装して朗唱させてくれるよう、頼んだ。そして、歌い終われば自決すると約束した。

船員たちは、この世で一番の歌手の歌を聴けると思って喜び、船尾から上甲板に移動してきた。アリオンはというと、歌手としての完全盛装をして竪琴を携え、後甲板に立って祝祭歌(9)を歌いあげ、歌い終わると、その完全盛装のまま海に身を投げた。

(9)アポロの栄光を讃える讃歌で、高調子で歌われ、また巷間よく流布していた。

かくて船員たちはコリントへ回航していったが、先の話の通り、イルカがアリオンを背中に乗せ、タイナロン岬へと運んでいったのだった。そこで陸に上がってから、盛装のままでアリオンはコリントへ向かった。そしてコリントに到着すると、事のいきさつをすべて説明した。

ペリアンドロスはこれを疑い、アリオンに監視をつけてどこへも行かせず、船員たちが帰ってくるのを待った。そして彼らが戻ると呼び出し、アリオンはどうしているかと訊ねた。彼らが、アリオンは無事にイタリアに到着し、タラスで別れたときも元気にしていたと返答すると、すかさずアリオンが、船から飛び降りたときの衣装のままで、彼らの前に現われた。船員たちは驚き、自分たちの語ったことが嘘だと証明されたことを、もはや否定できずにいた。

以上が、コリント人とレスボス人の語っていることで、タイナロン岬には、アリオンの奉納による、イルカの背に乗っている人を象(かたど)った、青銅製の小さな碑が残されている。

25.さてリディア人アルヤテスはミレトスとの戦を終結したあと、五十七年間君臨してその生涯を終えた。

アルヤテスは病の癒えたあと、鉄の台座に接合された銀の大杯をデルフォイに奉納し、それは一族の中では二番目のことだった。この大杯は、デルフォイの奉納品の中でも特に見応えのあるもので、キオスのグラウコスの作品だった。かれは鉄を溶接する方法を見出した、ただ一人の人物である。

26.アルヤテスの死後、息子のクロイソスが三十五才(10)で王位についた。そして最初に攻撃したギリシャ人がエフェソス人だった。

(10)クロイソスが王位についたのは、おそらくB.C.560年。

クロイソスに包囲されたエフェソス人は、自分たちの街を女神アルテミスに捧げることにした。彼らは、包囲されている古代都市の城壁と、そこから七スタディア(千三百米)離れている女神の神殿とを綱で結びつけたのだ。

先に云ったように、彼らが、クロイソスから最初に攻撃された人々だったが、その後クロイソスはイオニアとアイオリアの諸都市に、さまざまな言いがかりをつけて戦を仕掛けている。重大な口実が見つかったときには、それを足がかりとし、それ以外の場合には些細なことを口実にした。

27.クロイソスは、アジア大陸に居住しているギリシャ人をことごとく征服し、従えたのちに、軍船を建造して島嶼に侵攻することを目論んだ。

ところが、軍船建造を準備しているさなか、プリエネ人のビアス、あるいはミテリーネ人のピッタコスどちらかが(二通りの言い伝えがある)、サルディスにやって来たとき、ギリシャに何か変ったことはないかとクロイソスに訊かれ、次のように返答したことから、軍船建造が中止されたという。

「殿に申し上げまする。島嶼人たちは殿に刃向おうとしてサルディスに進攻するつもりで一千頭の馬を購おうとしておりますぞ」

クロイソスは、男の云うことが嘘いつわりではないと思い、こう返答した。
「神よ、島嶼人たちを馬の背に乗せ、リディアまで攻めて来させたまえ!」

そこで相手が返した。
「殿、島嶼人らを馬に乗せたまま捕らえようと気を逸らせておられるげに見え申すが、それももっともなことにござる。しかしながら、彼らと一戦を交えるつもりで船を建造していることを島嶼人が知ったとき、殿が本土に住むギリシャ人を征服した報復に、海上でリディア人を捕らえる気になるということは、お考えなられませぬか?」

クロイソスはこの返答を聞き、男の云うことが理にかない、また自分のことを気遣っていることで大いに気を良くし、船の建造を中止した。かくてクロイソスは島嶼に住むイオニア人と友好関係を築くことにした。

28.その後、時が流れ、クロイソスはハリス河以西のほとんど全ての住民を征服した。すなわちキリキアとリキアを除き、その他全ての民族を自分の支配下においた。征服した民族は、リディア人、フリギア人、ミシア人、マリアンデノイ人、カリベス人、パフラゴニア人、トラキア系のテュノイ人とビティニア人、およびカリア人、イオニア人、ドーリア人、アイオリス人、パンフィリア人である。

29.これらの民族がクロイソスによって征服され、リディアに併合されてからというもの、その当時生存していたギリシャの賢者たちがみな、さまざまな手段で隆盛を誇るサルディスにやって来るようになった。その中には、アテネ人のソロンも来ていた。かれは、アテネ人の要請によって法を制定したのち、自身の云うように、世界を視察するとして十年間の外遊の途中だった。実のところ、かれは、自身の制定した法が廃されないようにするために船出したのであった。

それというのも、アテネ人はソロンの制定した法を十年間は遵守するという厳粛な宣誓に拘束されていて、それを廃することができなかったからである。

30.右のような事情と、世の中を見て回るために、ソロンはエジプトのアマシス王のもとを訪れ、そのあとサルディスにいるクロイソスのもとへやって来たのだった。ソロンが来ると、クロイソスは宮殿に招待してもてなし、三、四日後には、従者に命じて自分の財宝を見せてまわらせ、従者たちは名高く神聖な財宝を残らず見せた。

ソロンが財宝を全て見てまわり、充分に堪能した頃を見はからい、クロイソスはかれに訊ねた。

「アテネの客人、貴殿の知力と、貴殿が叡智を求め、いかに多くの国々を行脚しているかという噂は山ほど聞いておる。さてそこでじゃ、今わが輩は、貴殿が見てきた中で、一等幸運な人物を訊ねてみたいという気がしておるのだがどうだ?」

クロイソスは、自分がそれに当てはまると信じて問い質したのだが、ソロンはへつらうことなく誠実に答えた。
「殿、それはアテネのテロスでござる」

クロイソスはソロンの返答に驚き、鋭く聞き返した。
「テロスが一等幸福とはいかなる判断によるのか?」

ソロンが答える。
「テロスは繁華な都市の出身で、子供たちはみな優秀にして高潔にござる。そしてその子供たちすべてに子が生まれ、それらすべてが無事に育つのを、かれは見ております。われらの基準からいえば、かれの人生は裕福で、その死もはなはだしく栄光に輝いてござった」

「アテネ人がエレウシスで隣国人と戦っていたとき、テロスが加勢にきて敵を敗走させたあと、立派に討ち死にしております。アテネ人は、かれが倒れた場所に公費で遺体を埋葬し、大いなる栄誉を与えたのでござる」

31.テロスが大いに幸福だったことをソロンが語ると、クロイソスは腹立たしく思い、その次は自分が挙げられるだろうと期待に胸を膨らませながら、次に幸福なのは誰かと訊ねた。ソロンの答えは「クレオビスとビトン」だった。(*)

(*)この問答は、浪曲「石松三十石舟」にそっくりだ。

「彼らはアルゴス人にて、暮らしに困らぬほどの充分な富を所有し、頑健な体躯を備えておりました。ゆえに両名ともに運動競技で賞を獲得したこともあり、これには次のような話が伝わっております。アルゴスで女神ヘラの祭りが催されたときのこと、この二人の母親をどうしても牛車で神殿に連れて行かねばならなかったことがありました。ところが、雄牛の群れが平原から時間通りに戻って来なかったため、時間に間に合わせようとして、この若者たちは母親を牛車に乗せ、くびきを自分の肩にかけて牛車を曳き、神殿まで四十五スタディア(八粁)の道のりを進んで行ったのでござる」

「このような行ないで群衆の注目を浴びたあと、二人は大変見事な人生の終焉を迎えたのであります。そしてこのことにより、人は生きながらえるよりは死を迎える方が良いことを、神は示されました。アルゴスの男たちは二人の若者の周りに立ち、その強靱な体力を褒めたたえ、女たちは、このような子供たちを産んだ母親を褒めたたえたのであります」

「母親はといえば、息子たちの並外れた行ないと人々の賞讃を目にして感極まって喜び、神像の前に立ち、自分に大いなる栄誉をもたらしてくれたクレオビスとビトンの息子たちに対して、人間のために授けうる最高のものを与え給うよう、女神に祈願したのであります」

「その祈願が終わると人々は生贄を捧げ、祝宴を開きました。件の若者たちは神殿の中で横たわって眠りにつき、再び起き上がることがなかった由にござる。すなわち二人に死が訪れたのであります。アルゴス人は彼らの彫像を作り、この上なく秀でた男としてデルフォイの地に捧げたのであります」

32.ソロンはこの二人を二番目に幸せな人物にあげたが、クロイソスは苛立ちを露わにして口を開いた。

「アテネの客人よ、では聞くが、われらが一般人にも劣ると見なすほど、われらの幸せを無視するつもりであるか?」

ソロンが返答する。
「クロイソス殿、貴殿は人間界について訊ねられたのだが、神というものは、なべてわれらに嫉妬深く、面倒を起こすものであることを、みどもは承知しており申す」

「長い時の経過の中では、見たくない多くのことどもが見えるようになります。また同じく煩わしきことも見えてくるものにござる。みどもは人生七十年とみております」

「七十年は、閏月(11)を除けば二万五千二百日になります。そして季節がめぐり来るごとく一年おきに閏月が来るなら、七十年の間に三十五回の閏月が入ります。そしてこれにて千五十日が加算されます」

(11)閏月は、太陽の運行と暦を対応させるために定期的に挿入される暦月のこと。ここでは、ヘロドトスは一年の平均日数を三百七十五日としている。

「そうすると七十年は二万六千二百五十日となり、このうちのどの日をとっても、同じことが起きるという日はござりませぬ。それゆえクロイソス王よ、人間というもの、なべて偶然の生き物なのでござる」

「みどもの見るところ、貴殿は大いなる富を所有なされ、多くの人民の王であられるが、貴殿がその人生を存分に終えられるまでは、みどもは貴殿の問いかけに答えることはできませぬ。富める者が、たまたまその人生を十全に全うしているのでなければ、日々の糧を得るのに汲々としている者より幸福であるとは限りませぬ。多くの富める者が不幸なこともあり、普通の者が幸福である例も多くありますぞ」

「裕福でありながらも不幸な者が、幸福な者を上回る利点は二つのことしかござりませぬ。富める者は目一杯食欲を満たすことができることと、身に降りかかる大きな災難に耐えることができること、この二つが他者よりも有利な点にござる。一方で幸福な者が、裕福ながらも不幸な者を上回る事柄はいくらもござる。幸福な人間は災難に耐えることも食欲を満たすこともできませぬが、その幸運が、これらを遠ざけるのでござる。それゆえ不具になることや病気とは無縁で、災難に遭うこともなく、申し分のない子供や美しい容姿に恵まれるのでござる」

「これら全てに加え、この者が見事な生を全うするならば、その者こそ貴殿が探しておられる果報者と呼ぶにふさわしい者にござる。ただしその者が死を迎える前から幸福と呼ぶのはふさわしいことではなく、幸運と呼ぶべきかと」

「神ならぬ人の身では、これら全てを一時に兼ね備えることは不可能と申すもの。あたかも全てを自足できる地がないのと同じことにござる。もちろんほとんどの物を持っているのが申し分ないのでありますが、それぞれの国はある物があってもほかの物はないのであります。これと同じく、全てを自足できる人間などいないのであって、誰しもある物を持っていても、ほかの物は持っていないのでござる」

「これらほとんどの物を備えて生を終えた者こそ、みどもの考えでは、殿、幸福者という名にふさわしいのでござる。神は多数の人々に幸運を約束し給うものの、その後において根こそぎそれを引っ繰りかえされることがあるゆえ、あらゆる事柄がいかなる結末を迎えたかを検分せねばならぬのでござる」(*)

(*)以上を要するに「人の幸、不幸は棺の蓋を閉めるまではわからない」ということだ。これしきのことをいうのに四節分の文字を費やすとは、まあごくろうである。丁寧と云えば丁寧だが、くどいと云えば、くどい。西洋人の文には、えてしてこういうところがある。小生、生まれもってのイラチ(せっかち)ゆえ、かくなる文を読むとイライラするのだ。「かいつまんで云え!」と云いたい。なお、唐の大詩人杜甫(七百十二~七百七十)の作「君不見簡蘇渓(君見ずや蘇渓に簡す)」にもこれと全く同じことが書かれている。いわく「大夫棺を蓋いて事始めて定まる」と。こちらの方がヘロドトスよりも千二百年ほど後になるが、東洋人が書くと表現はきわめて簡潔になるという例だ。(渓のサンズイは行人偏)

33.このようなソロンの語りは、クロイソスの意に染まなかったので、かれはソロンを歯牙にもかけず、引き下がらせた。そして目前の幸運を無視し、万事の結末を見るべきと説くなど、ソロンという男は大馬鹿者だと見なした。

34.ところがソロンが去ったあと、神の強烈な報復がクロイソスに降りかかることになった。察するに、クロイソスはほかの誰よりも神の祝福を受けていると、自分で思い込んでいたためであろう。その直後、かれは、自分の息子に災難が降りかかろうとしている夢を見、それが正夢となったのである。

クロイソスには二人の息子があり、一人は聾唖による不具者であったが、もう一人はアティスといい、同年代の誰よりも全ての点で、はるかに秀でていた。クロイソスが見た夢というのは、このアティスが槍に射されて落命するというものだった。

クロイソスは目覚めてからこの夢に恐懼し、考えを巡らした結果、まずその息子に嫁を娶らせ、アティスがリディア軍の指揮に精通しているにも拘わらず、決して出陣させず、投げ槍や手槍などの戦闘用武器を男部屋から自分の倉庫(12)に移させて積み上げ、吊り下げたままで息子の上に落下しないようにした

(12)または「女部屋」

35.そしてクロイソスが息子の結婚のために忙しくしていたところ、フリギアの王家に属す一人の男が、ひどくみすぼらしい形(なり)で、汚れた手をしてサルディスにやって来た。この男はクロイソスの屋敷を訪れると、祖国の習慣通りに身を清めたいと願ったので、王はその通りにかれを清めてやった。

リディアの清めの作法はギリシャと同じであったので、クロイソスは慣習通りにその男を清めてやり、そしてどこからやって来たか、何者かを問い質した。

「さて、お主は何者で、フリギアのどこからやって来て、このような哀訴をすることになったのか?またお主が殺めた男あるいは女は何者であるか?」

その男が答える。
「殿に申し上げまする。私はミダスの息子ゴルディアスの子で、アドラストスと申します。私は誤って兄弟を殺めてしまい、父によって全てを奪われ、追放され、ここへやって来たのであります」

クロイソスが答えて曰く。
「お主の一族は全てがわが輩の友である。従って、お主もここへ来たからにはわが友である。なに気兼ねなく、わが屋敷に留まるがよい。お主の不運のことは、できるだけ気にかけぬようにするが身のためになろう」

36.かくてアドラストスはクロイソスの屋敷に住まうことになった。ちょうどその頃、巨大な野生イノシシがミシアのオリンポス山に出現し、山から降りてきてミシアの畑を荒らしまわっていた。ミシア人たちは何度もそのイノシシを退治しに行ったが、なんの成果もあがらず、逆に彼ら自身が傷つくのが落ちだった。

ついに彼らはクロイソスに使者を送り、次のような伝言を託した。
「殿に申し上げまする。巨大な野生のイノシシがわれらの地に現れ、畑を荒らしております。あらゆる手立てもむなしく、我らこの野獣の屠殺に失敗しております。そこで、我らの地からこの野獣を駆逐するために、殿の若君と選び抜かれた青年たち、犬どもを我らとともに送り出してくださることをお願い申し上げます」

彼らはこのような依頼をしたのだが、クロイソスは夢の予言を忘れていなかったので、次のように返答した。

「わが輩の息子のことは二度と口にするでないぞ。わしは息子を行かせるつもりはない。かれは結婚したばかりで今はそれにかかり切りじゃ。しかし選り抜きのリディア人たちと狩人全員には、お主たちにできる限り手を貸し、かの野獣を国から追い払うよう言い含めて送り出してやろう」

37.このようにクロイソスは返答し、ミシア人たちは納得した。ところがその時クロイソスの息子がやって来て、ミシア人の頼み事やクロイソスが息子を助太刀に出さないと答えたことを耳にして曰く。

「父上、戦に出かけ、高名を追い求めて手にすることは、かつては我らにとってきわめて立派で高貴なことと考えておりました。ところが今、父上は私をその両方ともに遠ざけておられます。私が臆病であるとも気概に欠けているとも見ておられぬにも拘わらずです。私はどのような顔をして公設広場に出入りすればよろしいのでしょうか?」

「国の人々は私のことを、また私の新妻をなんと見るでしょう?妻は、ともに暮らす男のことをどんな人間とみるでしょう?どうか私を狩りに行かせて下さい。さもなくば、ここに留まることが私にとって良策であるという理由をお聞かせ願います」

38.クロイソス曰く、
「息子よ、ワシがそのようにしたのは、お前が臆病だとみたからでも、お前に何か不適当なことがあるとみたからではないのだ。ただ、夢枕に立った幻が、お前のことを槍で刺されて短命に終わるとワシに告げたのだ」

「その夢のゆえに、お前の婚儀を急ぎ、当面の遠征に出すこともせず、お前を警護しつづけ、ワシの目の黒いうちにお前が命を落とすことのないようにしたのだ。お前はワシのたった一人の息子だからな。もう一人の息子は不具であるゆえ、ワシにはいないも同然なのだ」

39.若者が答えて曰く、
「父上、そのような夢を見られたとて私を護衛することについては、誰も異を唱えることはできませぬが、父上が気づいておられないことや、その夢を誤解なさっておられる理由を申し上げてもよろしかろうと存じます」

「夢の中で、私が鉄の槍に射されて死ぬと云われたと仰いますが、イノシシに手がありましょうや?それが、父上の懸念される鉄の槍を持つと仰るか?夢のお告げで私がイノシシの牙やそれに類似の物によって命を落とすというなら、父上のなさることは間違ってはおられぬでしょう。ところがそうではなく、槍で刺されるというのですからね。我らが立ち向かうのは人間ではありませんので、私を行かせてくだされ」

40.クロイソスが答える。
「息子よ、かの夢に関するお前の解釈で、ワシは幾分安心したわ。お前に安心させられたゆえ考えを変え、お前が狩りに行くことを許すことにする」

41.このようにクロイソスは云ったあと、フリギア人のアドラストスを呼びにやり、かの男が現れると次のように語った。
「アドラストスよ、お主がひどい不運に見舞われていたとき、それを咎めもせず、お主の汚れを清めてやったのは誰あらん、このワシだ。そしてお主を受け入れ、費えを負担し、ずっと屋敷に住まわせているのもわが輩だ」

「今度はお主がワシにお返しをする番だ。そこで、お主にはわが息子が狩りに出かけている間の護衛を頼みたいのだ。途中で追い剥ぎにあって危害を被らぬよう、気をつけてほしいのじゃ」

「それとは別に、お主にしても、名声を勝ち取る場所へ出てゆくべきだろう。それこそ、お主の父の息子にふさわしいことではないか。そのような強靱な体躯を持っておることでもあるしな」

42.アドラストスが答えて曰く、
「殿、通常ならば、私はそのような活躍の場には出ようとしないでありましょう。私のような不運な目にあった者が、幸福な境遇にあるご子息の仲間に加わるべきではありませぬ。そのようにしたいと願っていても、種々の理由から差し控えることになりましょう」

「しかし今は殿が熱心に説いておられることでもありますし、私としてもお返しに有益な働きをせねばならないこともありますゆえ、殿の御意に沿わねばなりますまい。そこで、仰せの通りにいたしましょう。警護せよと申しつけられたご子息については、護衛の者が可能な限りお守りいたしますゆえ、殿のもとへ無事にご帰還なされましょう」

43.このようにアドラストスは返答し、選り抜きの若者たちと犬の群れとともに出立した。そしてオリンポス山に到着すると、くだんの野獣を探し出して発見し、円陣を組んで槍を投げつけた。

ところが、人を殺め、その汚れを清めてもらった異国人アドラストスの投げた槍がイノシシからそれてゆき、クロイソスの息子を射貫いてしまったのだ。

かくてアティスは槍で射貫かれ、夢の予言通りとなった。そして一人の男がこの変事をクロイソスに知らせるためにサルディスに急行し、狩りの顛末と息子の死を告げた。

44.息子の死を知らされたクロイソスは衝撃を受け、息子をあやめたのが誰あろう、自身が血の汚れを祓ってやった人物であることから、なおいっそう慟哭の声をあげた。

ひどくおぞましいこの災難に見舞われて、クロイソスはゼウスの名を三通りの名で呼んだ。すなわち浄化の神ゼウス、団欒の神ゼウス、友誼の神ゼウスである。最初の名を呼んだのは、客人が自分にどんな災悪を行なったかを神に知らせたかったからだった。二番目の名を呼んだのは、客人を自分の邸内にとめおき、思いがけずも自分の息子を殺めた人間を持てなしたからである。そして三番目の名を呼んだのは、護衛役として送り出した者が、最悪の敵対者であることがわかったからである。

45.まもなくリディア人たちが遺体を運んできたが、そのうしろには殺めた当人がつき従っていた。かれは遺体の前に立ち、以前の不運を嘆き、その上、自分の身の汚れを祓ってくれた人を破滅させてしまい、自分は生きるに値しないといい、両手を差し出して遺体の上に重ねて自分を殺してくれと告げてクロイソスに自分の身を委ねた。

これを聞いたクロイソスは、深い悲しみに打ちひしがれつつも、アドラストスを哀れに思い、語った。
「客人よ、汝自身が己に死を宣告したからには、処罰は受け取ったぞ。だが、こたびの災いの源は、お主が不本意にも手を下したことを横におくとして、お主にあるのではないぞ。それは神々のひとりにあり、その神がはるか以前、ワシに語っていたことなのじゃ」

そうしてクロイソスは自分の息子をねんごろに埋葬した。ミダスを祖父に持ち、ゴルディアスを父に持つアドラストスは、血を分けた兄弟を殺し、わが身の汚れを清めてくれた人を破滅させたのだが、自分の知る人々の中で、わが身が一等不運だったことを悟り、人々が墳墓から去って邪魔する者がいなくなると、その墓のそばで自害した

46.息子を失ったあと、クロイソスは二年間というもの、悲しみに打ちひしがれていた。しかしその後、カムビュセスの子キュロスがキュアクサレスの子アステアゲスの覇権を打ち破ってペルシャ人の力が増すにおよび、クロイソスは悲嘆から立ち直り、できることならペルシャ人の勢力が強大になる前に、その芽を摘んでおこうと考えた。

かくの如く決心したあと、ただちにクロイソスはギリシャとリビアの神託に伺いを立てるべく、デルフォイ、ポキスのアバイ、ドドナにそれぞれ別の使者を送った。そのほかアンフィアラウスやトロフォニウス(13)、ミレトスのブランキダイ家(*)にも、別々の使者を送った。

(13)伝説上の英雄を祀る神殿。

(*)ミレトスにあるディデュマ神殿の神官を務める家系。

以上はクロイソスが派遣したギリシャの神託所であるが、そのほか、リビアのアメン神殿にも別の神託使を派遣した。このようにして神託使を派遣したわけは、神託のもたらす情報を検分するためで、その内容が正しいことがわかれば、再び神託使を送り、ペルシャに遠征すべきかどうかを訊ねるつもりだった。

47.これらの神殿を試すために派遣したリディア人には、次のような指示が与えられた。すなわちサルディスを出発してからの日数を数え、ちょうど百日目にアルヤテスの子クロイソスが何をしているかを神託にたずね、神託の答えるままに記録して自分のもとへ持ち帰れ、というものだった。

ほかの神託所が何と答えたか、誰も伝えていないが、ひとりデルフォイだけは、リディア人の使いが神託を求め、託された質問をしようとして神殿会堂に入るやいなや、ピティアと称する巫女が、六脚韻文によって次のように告げた。

  われは砂粒の数、海の広さを知りへり。
  またわれは聾唖の考えを解し、声なき者の声も聞こゆ
  大釜にて羊肉とともに煮らる、
  強き甲羅をもつ亀の匂い、わが知覚に到来す
  その下には青銅が敷かれ、その上にも青銅をいただきぬ

48.リディア人の使者たちは右のお告げを書き留め、サルディスに戻って行った。また、ほかのさまざまな場所に送られていた使者たちも、それぞれの神託を持ち帰ってきた。クロイソスは、それら全てを開き、書かれている内容を検分した。全く意に沿わないものがある中で、デルフォイの神託を読むと、それがクロイソスのしていたことと一致していたので、デルフォイが唯一まことの神域であると理解し、崇め奉りつつ納得した。

というのも、神託使を送り出した後、クロイソスは当て推量の的中しないようなことを考え、それを予定の日に実行したのである。すなわち、亀と羊を切り分け、それらを青銅の大釜で煮、同じく青銅の蓋をかぶせたのだった。

49.デルフォイからクロイソスへの神託の回答は右の通りだった。アンフィアラウスからの神託については、リディア人の使いが神殿の慣行に従って神託を受け取っているが、記録が残されていないので、その内容を話せない。ただ、クロイソスは、この神託もまた真実を語っていると信じている、とだけ云っておく。

50.このあと、クロイソスはデルフォイの神の歓心を買うために夥しい生贄を捧げた。生贄にふさわしいあらゆる種類の動物三千頭を捧げたり、薪を高く積み上げ、金や銀で装飾された寝椅子、金杯、外套、短衣などをその上に積み上げて燃やした。このようにして、さらなる神の力添えを期待したのである。そのほか全てのリディア人にも、それぞれができる範囲で生贄を捧げるよう、命じた。

生贄を捧げ終わった後、クロイソスは莫大な量の貯蔵金を溶解し、インゴットに成型させた。その大きさは、縦が六パルム(*)、横三パルム、高さは一パルムあった。このインゴットの数は百十七本に及んだ。それらのうち四本は純金で、ひとつの重さが二タラントン(*)半あった。そのほかのものは金と銀の合金でそれぞれ二タラントンの重さがあった。

(*)パルム=掌尺;十八~二十五センチメートル
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギーナ単位)

このほか、純金製の獅子像も造らせたが、その重さは十タラントンに達した。デルフォイの神殿が焼け落ちたときには、この獅子像も台座のインゴットから落下している。これは現在コリントの宝物庫に収蔵されているが、重量が六タラントン半になっている。三タラントン半が溶けてしまったのだ。

51.右の供物ができ上がると、クロイソスは金と銀の巨大な二つの大盃の献上物とともに、デルフォイに送り出した。その大盃は神殿の入り口に安置され、金の大盃は右側に、銀の大盃は左側におかれた。

神殿が焼けたとき、これらの大盃も場所を移され、重さが八タラントン半と十二ミナ(14)に達する金杯はクラゾメナイの宝物庫に、銀の大盃は神殿の前庭の隅に安置されている。この大盃は容量が六百アンフォラ(*)ある。容量がわかっているのは、テオパニア祭という神を迎える祭礼時(15)に、デルフォイ人がこれを混酒器として用いたからである。

(14)1mina=およそ十五トロイ・オンス(四百六十五グラム)
(*)1amphora=十九~三十九リットル
(15)Theophania:神の彫像が開示されるデルフォイの祭礼

デルフォイ人は、この大盃を造ったのはサモスのテオドロスだと云っているが、これには私も同意する。というのも、この作品は決して凡庸な作ではないと見るからである。このほかクロイソスは四杯の銀製壺を送り出したが、これらはコリントの宝物庫に安置されている。また金と銀の二杯の聖水杯も献納している。金の聖水杯には「ラケダイモン人がこれを捧ぐ」と刻まれているが、これは誤りである。

これもまたクロイソスの献納品である。この献辞は、私もその名を知る、あるデルフォイ人がスパルタ人の歓心を買うために仕組んだことである。しかし、その名はここでは云わないでおく。手から水をしたたらせている少年像は、たしかにスパルタ人の献納によるものだが、聖水杯はどちらもスパルタ人が献納したものではない。

クロイソスが送った右の献納品のほかにも、多くの雑多な品々が献納された。中でも、銀製の丸い水盤の数々や、デルフォイ人がクロイソス専用のパン焼き職人ではないかと推測している高さ五フィートの女性像などがある。これに加えてクロイソスの妃の首飾りや帯も奉納された。

52.以上がデルフォイに送られた献納品の数々である。アンフィアラウスへは、この英雄の武勇と悲運を聞いていたこともあって、全て黄金からなる盾と槍を献納した。槍は、その穂先も軸も全て黄金で造られていた。これら二つの献納品は、私の時代まで、テーベのイスメニオス・アポロ神殿(*)に伝えられていた。

(*)古代テーベのイスメノス河畔にあるアポロ神殿

53.献納品を持って、これらの神殿に遣わされたリディア人たちは、クロイソスから、ペルシャに進軍するべきか、はたまた同盟軍を追加すべきか否かを神託に問うよう、命じられていた。

さて、使いのリディア人たちがそれぞれの場所に到着し、供物を献納すると、次のようは言辞をもって神託を問うた。

「リディアおよびその他の国々の王であるクロイソスは、この地がこの世で唯一、神意を託せるところであると考え、神知に値するものとして、かくの如き貢ぎ物を捧げる次第にござる。そしてクロイソスは、ペルシャに軍を差し向けるべきか否か、また同盟軍を募るべきかどうかを問うております」

使者は右のように言上したが、クロイソスに下された二つの神託は同じだった。すなわち、クロイソスがペルシャに進軍するなら、かの偉大な帝国を滅ぼすであろう、というものだった。これに加えて神託は、最強のギリシャ国を探し、その国々を味方につけることも助言していた。

54.その神託がクロイソスのもとへ持ち帰られ、その内容を知ると、かれは大いに喜んだ。キュロスの王国を滅ぼすことができると思ったクロイソスは、再びピュト(*)へ使者を送り、そこの住民の数を調べ、それぞれに二スタテル(16)金貨を贈与した。

(*)Pytho:デルフォイの古名
(16)stater:古代ギリシャの共通金貨。およそ23シリング(≒\170)

デルフォイの人々は、これに対する返報として、クロイソスおよび全リディア人に神託請願の最優先権、全ての税免除、祝祭時の主賓席、希望者に対する終世のデルフォイ市民権を与えた。

55.デルフォイ人たちに贈与を捧げたのち、クロイソスは、神託で真実の回答を得ていたこともあり、それをあくまでも利用するつもりで、三度目の神託を求めた。訊ねた内容は、自分の王権が永続するかどうか、だった。デルフォイの巫女が下した託宣は次の通り。

  メディア人がラバを王に戴くならば、
  しかる時、足やわきリディア人よ、
  留まることなく、小石多きヘルメス河に沿うて逃れよ
  臆病者たること、恥ずべきにあらず

56.右の言葉を聞いたクロイソスは大いに喜んだ。それは、ラバが人間を差しおいてメディアの王になることなど決してないと思ったからで、それゆえ、自分や子孫は、決してその帝国を失うことはないとも思い至ったからである。そしてそのあとは、友好を結ぶべき最強のギリシャの国はどこか、慎重に調べた

調査の結果、ドーリス族の中ではスパルタが、イオニア族の中ではアテネが卓越していることがわかった。イオニア族とドーリス族は古代からの先住民族で、前者はペラスゴイ族で、後者はヘラス族である。ペラスゴイ族は居住地を離れることはなかったが、ヘラス族はたびたび移住し、しかも遠隔地に移動している。

例えば、デウカリオン王(17)の時代にはピティオティスの地に住み、ヘレンの子ドロスの時代にはオッサ山とオリンポス山の麓のヒスティアイオティスという地に住んでいた。そしてカドモス族によって、この地を追われた後にはピンドスに定住し、マケドニア族と呼ばれていた。そして再びドリオピアに移住し、最終的にドリオピアからペロポネソスに移住し、ドーリス族と呼ばれるに至っている。(18)

(17)ギリシャ神話では、デウカリオン(Deucalion)と妻のピュラー(Pyrrha)は、Zeusの起こした大洪水を生き残り、新しい人類の祖先となったとされる。

(18)ここで挙げられている地名は、すべてギリシャの北部にある。

57.ペラスゴイ族がどんな言語を話していたか、確かなことは云えない。ただ、ティレニア(19)の北方にあるクレストンに定住しているペラスゴイ人---彼らはその昔、今現在ドーリア人と呼ばれている人々の隣接地に住んでいたが、その当時はテッサリアと呼ばれていた国に住んでいた---

(19)この地がエトルリア(イタリア半島中部)であるとするなら、クレストンはコルトナ(Cortona)となる。しかしこれは疑わしい。

およびヘレスポントス地方のプラキアやスキラケに到来してアテネ人と共に居住していたペラスゴイ人、さらに、そのほかの都市群に住み、かつてはペラスゴイ人と呼ばれていて、そのあと別名で呼ばれるようになった人々の例から判断するに、このペラスゴイ人はギリシャ語と異なる言語を話していたかもしれない。

全ペラスゴイ族の言語がこのようであるなら、ペラスゴイ族の血を引くアッティカ族は、ヘラスに併呑されたときに、その言語を変えたことになる。というのも、クレストンやプラキアの住民は、隣接地域の住民とは異なる共通の言葉を話しているからで、これによって、彼らが移住したときにも、その言語形態を保存していることは明らかである。

58.他方、ヘラス族は当初から同じ言語を用いていたことは確かであると、私は考えている。ただ、ペラスゴイ族から別れた時には少人数だったものが、多数の民族を取りこんで大きくなったのは、ペラスゴイ人を含め、多数の異民族の合流があったからである。これに対して非ギリシャ語系のペラスゴイ族は、強大化したことはないと考えている。

59.以上の民族の中で、その当時ヒポクラテスの子ペイシストラトスが独裁者として君臨していたアテネが、内紛によって党派に分裂していることをクロイソスは探りだした。このヒポクラテスは、オリンピアの試合を観戦していたときはまだ一市民だったが、そのとき、驚嘆すべき出来事に遭遇している。それはこの男が生贄を捧げていたときのこと、そばにあった、肉と水で満たされた大釜が火にかけられていないのに、煮えたぎり、あふれ出したのである。

偶然そこに居合わせたスパルタ人のキモンがその奇跡を目にして、ヒポクラテスに忠告するに、嫁を娶って子をもうけぬこと、万一既婚であったなら離縁し、息子がいるなら勘当すべしとした。

しかしヒポクラテスはキロンの忠告に従わず、そのあとに生まれたのがペイシストラトスだった。この者こそ、アルクメオンの子メガクレス率いるアテネの海岸派と、アリストライデスの子リクルゴス率いる平原派が反目しあっていたときに、第三の党派を組織して覇権を手中にしようと目論んだ人物だった。ペイシストラトスは支持者たちを集め、高地派と称して次のような策を練った。

この男は自分自身と所有するラバを傷つけ、馬車を広場に乗り入れ、田舎に向かっている途中で、かれを殺めようとした(と自身では云う)敵から逃れてきた、と言い放ったのである。自分はかつてメガラと対峙したときには司令官としてニセアの港を攻略したり、そのほか大なる武功を立てて名声を馳せた者であるから、自分に護衛をつけて欲しいと市民に懇願したのだ。

アテネの市民たちはこの話を真に受け、市民の中から護衛を選抜したが、ペイシストラトスは彼らに木の棒を持たせたので、槍持ちではなく棒持ちとしたことになる。

そしてペイシストラトスはこの者たちを率いて決起し、アクロポリスを占領し、アテネ市民を支配下においたのである。ただし既存の官職を乱したり、法律を改変したりせず、これまで通りの制度に従って巧みに国を統治した。

60.ところが間もなく、メガクレス一派とリクルゴス一派が気脈を通じてペイシストラトスを追放してしまった。結局ペイシストラトスは最初にアテネを支配したものの、主権を固めぬうちにアテネを失ったのである。そして今、共に協力してかれを追放した敵対勢力が、再び反目し合う事態となってしまった。

この派閥闘争に困じたメガクレスはペイシストラトスに使者を送り、ペイシストラトスに自分の娘を娶らせて覇権を与えると伝えた。

このメガクレスの条件を良しとして、ペイシストラトスはその提案を受け入れるところとなったので、一同はペイシストラトスを呼び戻す算段を練ったのだが、その方策というのが、私の考えでは途方もなく馬鹿げたものだった。というのも古来ギリシャ民族は、他民族に比べてはるかに賢明で、間抜けな愚行を冒さないとされていたのだが、そのギリシャ民族の中でも特に抜け目ないと評判のアテネ人を欺くためにひねり出された方策というのが何とも一風変わったものだった。

さてパイアニア地区(20)に、名をピュアといい、背丈はあと三ダクテュロス(*1)足せば四ペーキス(*2)に達するほどに上背がある、美貌の女がいた。この女に完全武装させるととも最大限に威厳のある振る舞い方を教え、戦車に騎乗させた。そして先触れを走らせ、それに続いて街に乗り込ませた。そして街に入ると、先触れたちは指示されたとおりに声を上げた。

(20)アッティカ地方の一地域
(*1)daktulos=指、ここでは指腹の長さ=約一・八センチメートル
(*2)pechys=cubit=およそ四十八センチメートル

「アテナイの人々よ、ペイシストラトスを温かく迎え入れなさるがよい。女神アテナ様ご自身が誰よりも彼の者を重んじられ、ご自身のアクロポリスに連れ戻そうとなさっておいでであるぞ」

先触れの者たちは、このように触れ回った。そうすると、アテナ様がペイシストラトスを連れ戻されるという噂がたちまち国中に広まり、その女を正真正銘の女神と信じ込んだ街の人々は、このありふれた女を崇め奉り、ペイシストラトスを迎え入れたのだった。

61.こうして国の支配権を取り戻したペイシストラトスは、メガクレスの申し出に従って娘を娶った。ところがこの男にはすでに若年の息子たちがおり、それにメガクレス系のアルクメオン族は呪われていると云われていたこともあって、ペイシストラトスは新妻に自分の子供を産ませるつもりはなかった。そこでペイシストラトスは新妻とは常ならぬ接し方をした。

初めのうち、新妻はそのことを隠していたが、母親に問い質されたものであろうか、やがて母にそのことを打ち明け、母は夫であるメガクレスに告げた。メガクレスはペイシストラトスに侮辱されたと激怒し、怒りにまかせて反メガクレス派と手を組むに至った。我が身に向けられた陰謀を察知したペイシストラトスは、いち早く国を抜け出してエレトリアに逃れ、そこで息子たちと善後策を講じた。

統治権を奪還すべきだ、というヒッピアスの考えが他を圧倒したこともあり、一党は、かれらに何らかの恩義を感じている全ての都市から支援金を募りはじめた。その結果、多くの都市が多額の支援金を拠出したが、中でもテーベは他のどの都市よりも多くを拠出した。

その後、手短に云えば一党の帰還の手はずが整った。ペロポネソスからアルゴスの傭兵が到着し、加えてナクソスからは、リグダミスという男が異常な熱意を持って軍資金を携え、手勢を率いて自ら参加して来たのである。

62.そして一党はエレトリアを出立してから十年後に祖国に帰還した。かれらがアッティカに戻り、最初に占領したのはマラトンの街だった。そこに宿営していると、アテネ市街から同志たちが馳せ参じてくるし、ほかの地方からも多くの者たちが合流してきた。この者たちは自由より独裁を良しとする者たちだった。かくて一同がここに会した。

ペイシストラトスが資金を集めたのちマラトンを占拠している間、アテネの街に残っていた市民たちは、そのことを意に介していなかったが、一党がマラトンからアテネに向けて進軍したことを知ると、迎撃態勢を取った。

アテネ軍は全軍あげて帰還勢に立ち向かった。ペイシストラトスの軍勢はマラトンからアテネに向けて進んで行く途中、パレネ・アテナ神殿に到着したときに敵に遭遇し、それと対峙する形で陣を張った。

この時、アルカナイアのアンフィリトスという予言者が神意を受けてペイシストラトスに面会し、次のような六歩格詩による神託を告げている。

  網は打たれ、拡げられた
  月明かりのもと、
  マグロの魚群は跳びはねるぞよ

63.神に憑依されたアンフィリトスはこのように告げたが、ペイシストラトスはこの意味するところを理解し、お告げを受け入れると宣言し、軍を敵に向けて進めた。その時、アテネでは朝食時で、食後のダイス遊びをする者もいれば、うたた寝する者もいた。ペイシストラトスの軍はそこを襲い、アテネ軍を潰走させた。

ペイシストラトスは潰走したアテネ軍が散り散りになったままで再び集結しないよう、極めて巧妙な策を採った。すなわち、自分の息子たちに騎馬で逃走兵たちを追いかけさせ、それに追いつくや、案ずることなく自宅に戻れ、と云わせたのである。

64.アテネ兵たちはこの指示に従ったので、ペイシストラトスは三たびアテネを手中におさめたことになる。そして屈強の護衛部隊とアテネやストリモン河流域の地区から徴集した資金によって、その覇権を確固たるものにした。その上で、ペイシストラトスは直前の戦において街を離れず残留していたアテネ人たちから息子を人質に取り、かれらをナクソス島に移した。

ペイシストラトスはすでにナクソスを攻略済みで、リグミダスに統治させていたのである。さらにペイシストラトスは神託に従ってデロス島の浄化を行なった。それは次のようになされた。神殿から見える範囲で地中に埋葬されている遺体を掘り出し、島の別の場所に移動させたのである。

こうしてペイシストラトスはアテネの君主となったのだが、アテネ人の中には戦闘で命を落とした者もあり、アルクメオン一族と共に祖国を後に亡命した者もいる。

65.クロイソスがさぐり出した当時のアテネの状況はこのようなものだったが、スパルタの方は、多大な危機を乗り越え、戦でテゲアを凌駕していることがわかった。レオンとヘゲシクレスという二人の王がスパルタを統治していた頃には、ほかの戦ではことごとく勝利していた中で、唯一テゲアに対してだけは苦杯を喫していたのだが。

それまでは、スパルタはギリシャ中でほとんど最悪の統治状態で、そのうえ諸外国との交わりを断っていたのだが、このあと述べるようにして見事な統治状態へと変革を成しとげたのである。それは、スパルタ人の中で声望高いリクルゴスという人物が神託を求めてデルフォイを訪れた時のことだった。神殿の広間に入るや否や巫女が六歩格詩を唱えて宣告した。

  汝、わが豊穣なる神殿に来たりしか、リクルゴス
  汝、ゼウスおよびオリンポスに住まう、すべての神々に愛でられし者よ
  汝を人と宣すべきか神と宣すべきか、如何にすべきや
  されば、神と見なそう、リクルゴスよ

その時、巫女はこの男に、今スパルタで使われている憲法を託宣したとも伝えられているが、スパルタ人たちは、リクルゴスがその甥でスパルタ王たるレオボトスの後見人についていた時、クレタ島からそれを持ち帰ったのだと伝えている。

後見人の位置につくや、かれはあらゆる法律を改変し、新しい法律を厳格に施行した。その後は軍事関連の諸事項を確定した。すなわち宣誓隊(*1)、三十人隊(Triecad;トリアカス)、共同の食事などの制度を確立した。また監督官(エフェロス)(*2)や長老会の制度も制定した。

(*1)エノモティア(ἐνωμοτία=enomotia):スパルタ軍におけるファランクス(密集陣形)の最小単位で、36人からなる。ファランクスに参加する時には宣誓が義務づけられていた。
(*2)ephors;スパルタにおける王の権力を監視する官職。五人の有力市民が一年交代で勤める。

66.このようにしてスパルタは悪法を改めて適切なものに変えたのだが、リクルゴスが亡くなった時には彼のために聖廟を建て、今も深く尊崇している。そして肥沃な土地と少なからぬ住民のおかげで、日をおかずスパルタは隆盛し、繁栄するに至った。しかし彼らは安穏とした生活に安住しようとせず、アルカディア人より力があると確信していたこともあって、アルカディア全土の攻略を思い立ち、それについてデルフォイの神託を求めたのである。巫女は六歩格詩で次のように託宣を唱えた。

  汝らアルカディアを所望するか?
  だいそれたことよ。われは許さぬぞ
  アルカディアには樫の実を食す屈強な男子多くして
  汝らを阻むであろう
  われは物惜しみするにあらず
  テゲアを与え下すゆえ、舞い踊り、
  足もて踏みならすがよい
  また沃野もあたえようぞ、綱にて測るべし

この託宣を知らされたスパルタ人たちは、ほかのアルカディアには目もくれず、不確かな神託を信じて足枷を用意し、テゲアに進攻した。彼らはテゲア人を奴隷にするつもりであったのだが、戦には負けてしまったのである。

捕らえられた者たちは、自らが用意した足枷に繋がれ、テゲアの田畑を綱(21)で測量し、耕作させられることになった。捕虜たちが繋がれた足枷は、アテナ・アレアの神殿に今なお吊されて保存されている。

(21)耕作のために田畑を区割りしたという意味。

67.今までの合戦ではスパルタはテゲアに負け続けていたが、クロイソスの時代に、アナクサンドリデスとアリスソンというスパルタの王がスパルタを統治するに及んで、テゲアに対して優位に立つようになった。事の次第は次のごとし。

テゲアに負け続けている時、スパルタはデルフォイに使者を送り、テゲアとの戦に勝利するためには、どの神に救いを求めればよいか、伺いを立てた。巫女はアガメムノンの息子オレステスの遺骨を持ち帰るべしという託宣を下した。

ところがスパルタ人たちはオレステスの墓を見つけられなかったので、再びデルフォイに神託(22)を求め、その墓がどこにあるか、伺いを立てた。巫女は例によって六歩格詩で返答した。

(22)「τὴν ἐς θεόν = tin es theon」は「ἐπειρησομένους = epeirisomenous」から「τὴν θεὸν ὁδόν. τὴν ἔνθεον=tin theon odon. tin entheon = The Inspired One」と説明されるが、安易な修正である。すべてのMSSは「ἐς θεόν = es theon」としている。

  アルカディアの平かなる草原に、テゲアなる街あり
  かの地には強き必然によりて、二つの風吹きおり
  一撃すれば一撃し、災禍に災禍を重ぬる
  命芽吹く大地に、アガメムノンが息子埋もれり
  かの者を持ち帰らば、汝テゲアの主となろう

これを聞いたスパルタ人たちは、あちこち探し回ったものの、遺骨を見つけ出すには至らなかった。ところがついに「善行者」と呼ばれている者たちのひとりで、リカスというスパルタ人が見つけ出した。善行者というのは騎士を退役した者の中から最年長者を対象にして年ごとに五名選出される。この者たちは騎士を退役する年にスパルタ国家からあちこちに派遣され、絶え間なく巡回する義務を負っている。

68.幸運と巧妙なコツとによって、テゲアに眠っている墳墓を見つけ出したのは、この善行者と呼ばれる者たちのひとりであるリカスという人物だった。その当時、テゲアには自由に往来できたので、リカスは鍛治屋の店に入って鍛治屋の作業に驚嘆しながら、鉄を鍛えているのを見物していた。

すると鍛治屋はリカスが感心しているのに気づき、仕事の手を休めて話しかけた。
「ラコニアの客人、鍛冶仕事に感心しておられるようじゃが、ワシが見た物を目にすると、きっとびっくりなさるじゃろうよ」

「というのも、ここの中庭に井戸を作ろうと思って地面を掘り返していたら、差し渡し七キュービット(45Cm×7=315Cm)の長さの棺桶を掘り当てたのさ。今時の人間より背丈のある男がいるはずがないと思ってよ、棺を開けて見たところが、遺体は棺とちょうど同じ背丈だったというわけだ。ワシァそれを測って埋め戻しておいたんだ」
このように鍛冶屋は見たことを語った。リカスは聞いたことに思いをめぐらせ、それは託宣に云われたオレステスだろうと思った。

鍛冶屋にある二つの鞴(ふいご)は二つの風だとリカスは気づき、槌と金床は一撃とそれへの反撃であるし、鉄は人類に災いをもたらすために見出されたものだと見なすと、熱して鍛えられる鉄は災禍に次ぐ災禍である。

このように推量したリカスはスパルタに戻り、国の人々に全てを打ち明けた。ところがスパルタは、あらぬ罪をきせてリカスを追放してしまったのである。そしてテゲアに舞い戻ったリカスは我が身の不運を鍛冶屋に打ち明け、そこの中庭を借り受けようとしたが、鍛冶屋は首を縦に振らなかった。

しかしついにリカスは鍛冶屋を説得し、そこに住まいを作り上げた。そして墓を掘り返して骨を集めると、それを携えてスパルタへ戻って行った。これを境にして、スパルタとテゲアが干戈を交えるたびに、スパルタが卓越して優位を保つようになったのである。かくして今やペロポネソスの大部分はスパルタに隷従する次第となったのだ。

69.右の次第を知ったクロイソスは同盟を結ぶために、使者に贈答の品々を持たせ、その際の口上を指示してスパルタに送った。そして使者はスパルタにやって来て次のように言上した。

「リディアそのほかの国々の王、クロイソスは次の声明を託して我らをここへ使わされた。『スパルタの人々よ、神は我にギリシャ人を友とせよと宣告なされた。そこで、貴殿らがギリシャ世界において主導者であると見なし、ここに神かけて二心なく、貴国と友好、同盟を結ぶことを提案する次第である。』」

クロイソスは使者を通して右のことを提示したが、クロイソスに下された神託をスパルタ人はすでに聞き知っていたこともあり、リディア人たちを歓迎し、友好と同盟の誓約を交わした。実のところ、この王からは、それ以前に恩恵を受けていたことがあったのだ。

と云うのも、スパルタ人は、現在ラコニアのトルナクス山(23)に設置されているアポロの彫像製作のための黄金を入手するためにサルディスに使者を送ったことがあるのだが、その際、使者が黄金を購入したいと申し出た時、クロイソスは無償でそれを提供したことがあったのだ。

(23)スパルタの北東方向にある山。ユーロタス渓谷(Eurotas valley)を臨む。

70.右の事情もあり、加えてほかのギリシャ人を差しおいてスパルタと交誼を結びたいとクロイソスが提案したことを良しとして、スパルタは同盟を受け入れた。そしてクロイソスが望んだ時にはいつでもそれに応じる用意があることを宣言し、その上、外側にさまざまな模様を彫り込んだ容量三百アンフォラ(*)もの青銅製の大盃を造り、それをクロイソスへの返礼のつもりで送り届けた。

(*)1 amphora=約三十四リットル

しかしこの大盃はサルディスに届くことはなかった。その理由には二つの説がある。その一つはスパルタ人によるもので、サルディスに向かう途中のサモス近辺に至った時、それを知ったサモス人が襲撃し、軍船で運び去った、という説。

一方サモス人の云うには、その大盃を運んでいたスパルタ人たちの到着があまりに遅かったため、サルディスがすでに陥落し、クロイソスも囚われの身となっていたため、サモスで数人の市民に売り払われ、それがヘラの神殿に奉納されたという。おそらく大盃を売った者たちはスパルタに帰還してから、大盃はサモス人たちに掠奪されたと言い訳をしたものであろう。以上が大盃にまつわる話である。

71.一方、クロイソスは神託の意味を誤解し、キュロスとペルシャの勢力を殺ごうとしてカッパドキアに進攻した。

そしてペルシャ進攻の準備中に、以前から賢者として評されているリディア人が、クロイソスに次のような進言をしたものである。そしてこの進言により、リディア人たちの中で、この者は賢者としての名声を一層高めたのだった(その賢者の名はサンダニスという)。
「殿に申し上げまする。あなた様は、今出陣の準備をなさっておられますが、その相手は、革のズボンを履き、また全身を革の衣装でまとい、不毛の地ゆえ、好きなだけ食することもできず、手に入るだけを食する者たちでありますぞ」

「その上、飲むのは葡萄酒にあらずして水にござる。イチジクも実らず、美味なる物など、ひとつとしてありませぬ。そこで、あなた様がかの者たちを征服なされたとして、一体何を得られましょうや? 相手は何も持ち合わせておりませぬぞ。一方で、あなた様が制圧されたなら、どれほどの財物を失われるか、お考えなされませ。彼奴らが一旦我らの恵みを味わえば、しっかりそれに食らいつき、何者も引き離せぬでありましょう」

「というわけで、私自身は、ペルシャがリディアを攻める気にならぬように配慮なされた神々に感謝しておる次第にございます」
このようにサンダニスは言上したが、この言説はクロイソスを説得するには至らなかった。実のところ、リディアを征服する以前、ペルシャには豪華なもの、立派なものなどなかったのである。

72.現在、ギリシャ人はカッパドキア人のことをシリア人と呼んでいるが、このシリア人はペルシャが支配する以前はメディアに属しており、この当時はキュロスに属していた。

というのも、メディアとリディアの国境をなしているのはハリス河で、この河はアルメニアの山塊に端を発し、まずキリキアを通過し、その後はマティエニの国を右に、フリギアの国を左に見てその間を流れている。その後は北に流れ、カッパドキアすなわちシリアを右にし、パプラゴニアを左に別けている

かくてハリス河は、キプロスに面する海から黒海に至るまで、アジアの下半分を全て切り取る形となる。そしてここが、この地域全体の頸部になっている。その行程は、身軽な形(なり)ならば五日で踏破できる(24)。

(24)ここでいうシリアはアジアの西半分を指す。キプロスの海から黒海にいたる狭隘部の幅に関しては、後の史家たちも指摘しているように、ヘロドトスは明らかに大きな誤解をしている。狭隘部の実際の距離は直線で約二百八十マイルあり、五日より遥かに長い行程である。

73.クロイソスがカッパドキアに出兵した理由は、次のことにある。すなわち、自国の領土を拡げたいと欲したこと。そして次が主な理由なのだが、例の神託を信じていたが故にキュロスに対してアステアゲスの仇を討ちたいためだった。カンビュセスの子キュロスはアステアゲスを制圧し、支配下においていたのだった。

キュアクサレスの子アステアゲスはメディアの王だったが、クロイソスの義兄弟でもあった。そのいきさつは次のとおりだ。

遊牧民スキタイの一部族が他部族との諍いの末、メディア領内に逃れてきた。その当時、メディアを統治していたのはデイオケスの孫でファラオルテスの子キュアクサレスだったが、この王は当初、彼らが王の慈悲にすがる哀願者ということで手厚く遇し、またこの者たちを高く評価していたので、国の少年たちを彼らに委ね、その言語と弓術を学ばせた。

時が過ぎ、スキタイ人たちは狩りに行くことを常とし、いくばくかの獲物を持ち帰っていたのだが、あるとき獲物がなく手ぶらで帰ったことがあった。この時キュアクサレスは彼らを手荒く扱い、侮蔑した(このことから、キュアクサレスが怒りっぽい性分であることがわかった)。

スキタイ人たちは、キュアクサレスから不当に扱われたと思い、生徒の中からひとりの少年を殺して切り刻み、いつも獣を料理しているように料理し、これを狩りの獲物であると云ってキュアクサレスに送り届けることを画策した。その後は直ちにサルディスにいるサディアテスの子アリアテスのもとへ逃走すると決め、それを実行したのである。

キュアクサレスと客人たちは少年の肉を晩餐に食し、スキタイ人たちは計画通り、アリアテスの庇護を求めて逃走した。

74.このあと、アリアテスはキュアクサレスのスキタイ人引き渡しの要請を拒否したため、リディアとメディアは五年間の戦争に突入した。その間、時にはリディアが勝ち、時にはメディアが勝ちなどして勝敗は所を変えた。そしてある時には夜戦もこなした。

この両国は互角の戦いを続けていたが、六年目に入った時のこと、ある合戦の最中に突然昼が夜に変わったことがある。これは、ミレトスのターレスがイオニア人に対して日中の光が失われる年を予言していたことである(25)。

(25)史実上および天文学知見から、この日食はB.C.585年5月28日のことと特定されている。アリアテスの統治中にはもう一度日食があり、それはB.C.610年9月30日に起きている。しかしこれは小アジア全体に発生したものではないようだ。プリニウスの説ではこの現象はローマ建国から170年後に発生したとしている。ターレスの没年は、それよりずっと後のB.C.548年である。

リディア軍とメディア軍は、昼が夜に変わったのに気づくと戦いを止め、両者ともに和平を強く願った。両国の和睦を仲介したのはキリキアのシエンネシスとバビロンのラビネトスだった。

この二人は両国間に宣誓協約と相互の婚姻を提言した。そしてアリアテスの娘アリエニスをキュアクサレスの息子アステアゲスに嫁がせることとした。というのも、強固な結束がなければ協約というものはその力を維持できないからである。

これらの民族は、ギリシャ人と同じように誓約をするのであるが、さらに腕の皮膚を切り、互いに血をすすり合うのである。

75.さてキュロスは自分の母方の祖父に当たるアステアゲスを制圧し、支配したのだが、その理由については後に説明することにする。

このようなキュロスの行ないに疑義を抱いたクロイソスは、ペルシャに軍を差し向けるべきかどうか、その神託を求めるために使者を立てた。そして当てにならぬ神託が下されても、それを自分の都合のよいように解して自軍をペルシャ領内に進攻させた。

そしてハリス河に達した時、軍を渡河させたのだが、それには当時すでにあった橋を利用したというのが私の考えである。ところが大方のギリシャ人は、河を渡れたのはミレトスのターレスのお陰だと信じている。

それはこういうことである。先に指摘した橋は、その当時は存在しなかったので、クロイソスは自軍を渡河させる方法がわからず困惑していたところ、陣中にいたターレスが軍勢の左を流れていた河を、次の方法で右側へも流れるようにつけ替えたというのである。

陣営の上流にある地点から半円形の深い堀を掘削し、流れをその堀に誘導し、陣営の後方にも通すようにしたのである。そして河の流れを二つに分けたので、どちらの流れも徒歩で渡れるようになったという。

そして元の流れはすっかり干上がってしまった、と云う者さえいる。しかし私はこの話を信じない。というのも、この場合、帰りはどうやって河を渡ったのだろう?

76.クロイソスは麾下の軍とともに河を渡り、カッパドキアのプテリアという地点に到着した。このプテリアという地域はシノプという街と黒海を結ぶ線上にあって、この地域では最も堅固な場所なのだが。クロイソスはこの場所に陣を構え、シリア人たちの田畑を荒らしてまわった。

その上、プテリア人を捕らえて奴隷とし、その周辺の地域もことごとく制圧した。また何の危害ももたらさないシリア人を、その祖国から追い払ってしまった。キュロスの側もクロイソスに対峙すべく自軍を調え、進軍途上にいる住民を残らず集めながら軍を進めた。

またキュロスは、進軍を始める前にイオニア各地に使者を送り、彼らをクロイソスから引き離す工作をしていたが、イオニア人たちはその誘いには乗らなかった。そしてキュロスが到着し、クロイソスに対峙して陣を張ると、プテリアの地で両軍が対決する運びとなった。

戦いは激しく、双方とも多数の兵士が斃れ、日暮れになっても勝敗は決しなかった。

77.両軍の戦いはかくの如くだったが、クロイソスは自分の軍勢がキュロス軍よりも遥かに劣っていたことに不満で、翌日なってキュロスが再び戦を仕掛けてこないと見るや、サルディスに向けて帰って行った。

クロイソスの心算ではエジプトとの協定にもとづき、その救援を目論んでいた。というのも、スパルタとの協定を結ぶよりも前にエジプト王アマシスと協定を結んでいたからである。またバビロニアにも救援を求めるつもりだった。クロイソスはこの国とも協定を結んでいて、その当時の王はラビネトスだった。

そしてスパルタには所定の日時に参集するよう要請した。クロイソスの心づもりでは、これらすべての軍勢を集め、さらに自分の軍を集め、冬が終わるのを待ち、春の始まりとともにペルシャに向けて進軍することにしていた。

このような意向を胸にし、サルディスに戻るやいなやクロイソスはすべての同盟国に使者を送り、五ヶ月後にサルディスに集結するよう、通知した。またペルシャと戦った麾下の傭兵たちは全員解雇した。互角に競り合う戦をこなした後で、キュロスがサルディスに進攻してくるとは少しも考えなかったからである。

78.クロイソスはこのように考えをめぐらしていたが、ちょうどその頃、市外のあたり一帯が蛇で溢れかえるという事件が起きた。そして放牧されている馬群は草を喰むのを止め、その蛇を貪り尽くしてしまったのである。これを見たクロイソスは、これは何かの予兆だと思ったのだが、事実はその通りだったのである。

そこでかれはすぐさま占いを事とするテルメシア人の街(26)へ使いを送り、この出来事の意味を問わせた。しかし使者が街についてテルメソス人から予兆に関する意味を告げられ、それをクロイソスのもとへ届けようとしたのだが、そのことは適わなかったのである。というのも、使者がサルディスに帰りつく前に、クロイソスは囚われの身となっていたからである。

(26)小アジアの街リキアにおけるアポロの神官職。

しかしテルメソス人の解釈は次のとおりだった。すなわちクロイソスの国には異国の軍隊が攻撃を仕掛けつつあること、さらには、ひとたび到来すれば国の住民を隷属させるだろう。この場合、蛇は大地の子孫で、馬は外敵とみなされる。これがテルメソス人の回答だったが、彼らはそのとき、未だサルディスやその王自身の運命を知りもしなかった。彼らが回答したとき、クロイソスはすでに囚われの身となっていたのである。

79.クロイソスがプテリアの戦いから撤収したとき、キュロスは、クロイソスが麾下の軍を解散するつもりであることを知り、リディア人の力が再び集結する前に、サルディスに対して迅速に進軍することが時宜にかなっていると考えた。

そう決心すると、かれはすぐに実行に移した。かれが軍をリディアに進軍させると、このことは自ずとクロイソスに伝わった。すべてがクロイソスの予想に反していることがわかり、クロイソスは大いに困り果てたものの、かれはリディア軍を率いて戦いに臨んだ。

当時のアジアでは、リディア人ほど勇敢で好戦的な国はなかった。かれらは騎馬で長い槍を繰り出して戦い、馬を操るのに長けていた。

80.両軍はサルディス前方の広く開けた平原で激突した。ヒュロス河やその他の河はここを横断し、エルムスと呼ばれる最大の河に激しく流れ込んでいる(この河は神聖な山から母なるディンディメネ(27)に流れ、ポカイアの街に近い海に注ぎ込んでいる)。

(27)フリギア人とリディア人の女神シベレのこと。

この時、リディア人による戦列を見たキュロスは、自軍の騎兵隊に危惧を抱き、ハルパゴスというメディア人の案によって次のような策をとった。まず軍に従って食料と荷物を運んでいるすべてのラクダを集め、その荷物を降ろさせ、騎兵の装備をまとった兵士を乗せた。そして、その一隊をクロイソスの騎兵隊に向けて自陣の前面に配した。次にラクダの後方に歩兵を従わせ、そのうしろにすべての騎兵を配した。

全軍の配置が完了すると、キュロスは、刃向かうリディア人は容赦なく打ち倒してよいが、クロイソスだけは捕らえる際に抵抗しても殺してはならぬと命じた。

キュロスはこのように命じた。ところでキュロスがラクダ隊を騎兵隊に向かわせたのには理由がある。それは馬がラクダを怖がり、それを目にしても匂いを嗅いでも我慢できないことにあった。すなわち、クロイソスが大いに頼みとしているリディア人騎兵隊を役立たずにすることが、かれの目論見だった。

さて戦闘が始まると、馬群はラクダの匂いを嗅ぎ、その姿を目にするやいなや潰走してしまったので、クロイソスの望みは絶たれた。

それでも、事態に気づいたリディア兵は臆病風を吹かすことなく、馬から飛び降り、歩兵となってペルシャ兵と戦った。両軍ともに多くの兵士が斃れたが、ついにリディア軍は敗走し、その城塞の中へ押しやられ、ペルシャ軍によって包囲される事態に至った。

81.かくしてリディア軍は包囲されたのだが、クロイソスは包囲戦は長期にわたるものと予想し、再び同盟国へ使者を送った。以前に派遣した使者は、五ヶ月後にサルディスに集合することを要請するものだったが、このたびはクロイソスが包囲されたため、可能な限り速やかに援軍を派遣するよう、依頼するものであった。

82.クロイソスはスパルタを筆頭としてその他の同盟国に使者を送った。ところがちょうどその時期、スパルタ自身はティレアという地域をめぐり、アルゴスとの抗争の真っ最中だった。

というのも、この地域はアルゴスの領地だったが、スパルタはここを切り取り、自国の領土としていたためである。マレア岬に至るまでの西方全土は、本土のみならずキテラその他の諸島も含め、アルゴス領だった。

アルゴスは掠奪から領地を守ろうとして出陣したが、相手との交渉の結果、双方から三百人を出して戦い、勝った側が領地を獲得する、ということになった。そして残りの軍は合戦場に残ることなく、双方ともに自国に引き上げることとした。それは、もし現場に残っていたなら、自軍が負けそうになった時、助太刀するかもしれないからである。

このように同意した後、両軍は撤退し、双方から選ばれた兵士が戦った。そして双方ともに優劣つけがたい結果となった。結果、六百名中三名だけが生き残り、それはアルゴス側はアルケナーとクロミオス、スパルタ側はオスリアデスだった。日没時に生き残っていたのはこの三名だけだった。

二人のアルゴス兵は自分たちが勝利したものと信じ、自国に帰って行った。一方のスパルタ兵オスリアデスはアルゴス兵の遺体から武器を奪って自分の陣営に持ち帰り、自身の部署に留まっていた。そしてその翌日には両軍が結果を確かめにやって来た。

しばらくの間、双方が勝利を主張し合っていた。アルゴスは自分たちの方が生き残った人数が多いと主張し、スパルタはアルゴス兵が敗走し、自国の兵は戦場に留まって斃れた敵兵から武器を奪い取ったと主張した。とうとう論争のあげく戦闘が始まった。双方とも多数の兵士が斃れたものの、スパルタが勝利した。このあと、アルゴス人は以前は長髪にする習わしだったものを頭髪を剃り上げ、またティレアを再び取り戻すまでは男子には頭髪を伸ばすことを禁じ、女子には黄金の装身具を纏うことを禁じるという、呪いを込めた戒律を定めた、

かたやスパルタは、右と全く逆の掟を作り、それまでは長髪の習わしがなかったものを、これ以後は髪を伸ばすことにした。そして三百人のうち、ただひとり生き残ったオスリアデスは、仲間の全員が討ち死にしたのに自分ひとりがスパルタに帰ることを恥じ、ティレアで自害したと伝えられている。

83.攻囲されているクロイソスのために、スパルタの援軍を要請する使者がサルディスからやって来たのは、このような事態が起こったあとだった。それでもかれらは使者の口上を聞くや、援軍派遣の準備を始めた。そして準備を調え、出航しようとしている間際に、次の報せが来て、リディアの守りが破られ、クロイソスが捕らわれてしまったことを知った。そして大いに慚愧し、出陣を断念した。

84.サルディス陥落の状況は次のとおりである。クロイソスを攻囲すること十四日が過ぎたとき、キュロスは自軍の部隊にそれぞれ騎士を送り、城壁上に一番乗りした者に褒賞を与えると布告した。

これによってキュロス軍は猛攻をみせたが、攻城は不調に終わった。ただ、ほかの兵士がすべて攻撃を止めている中で、マルドス族(28)のヒロエアデスという兵士が、攻撃される怖れのない場所と見なされていたため、番兵の配置されていない城塞の箇所からよじ登ろうとした。

(28)ペルシャの遊牧民族

というのも、アクロポリスのこの場所は切り立った崖になっており、ここが攻撃されるとは思いもよらなかったからである。それゆえ、ずっと以前、サルディス王だったメレスが、側女の産んだ獅子を連れ回した時も、この場所だけは無視したのだった。この獅子を、城壁に沿って連れ回しておけば、サルディスは決して攻略されないとテレメッソス人が宣していたのだが。その時、メレスは攻め込まれるかもしれない城壁の箇所すべてに獅子を連れ回したのだが、この場所は省略したのだ。ここは切り立った崖になっているため、攻め込まれることはないと思っていたからである。そして、その場所はトモロス山に面する側にあった。

さてその前日、マルドスのヒロエアデスは、ひとりのリディア兵が件の崖から自分の兜を転がり落とし、それを拾って戻るのを目撃していた。そしてこの男はそれを記憶に留めていたのだ。

そのことがあったので、かれはその崖をよじ登ったところ、ほかのペルシャ兵たちもこの兵士について登ってきた。大勢の兵がよじ登り、かくしてサルディスは陥落し、全市が掠奪の憂き目に遭ったのである。

85.さてクロイソスの身の上はどうなったか。以前に語ったように、彼には、ただ唖というだけで、ほかの面では全く申し分ない息子がいた。そして全盛期にはその息子にはできる限りのことをしてやった。さまざま手をつくしてみた中でも、息子のために神託を願ってデルフォイへも使者をたてたこともある。それに対する巫女の返答は次のような内容だった。

  リディアなる多くの民の王にして
  いと愚かなるクロイソスよ
  汝が王宮にて、汝の子の、もの云うを願う繁き祈りを
  耳にするを欲するなかれ
  これまで通り、唖のままであるが
  そなたにとっては良きことじゃ
  その子が初めて声を発する日が
  呪われた日となるであろうゆえ

すなわち城塞の陥落に際して、クロイソスと知らずに、あるペルシャ兵がかれを殺そうと殺到してきた。クロイソスはその兵士が迫り来るのを目にしたが、切迫した危難を気にも留めることはなかった。討たれ殺されることなど、どうでもよくなっていたのだ。

ところが、この唖の息子はペルシャ兵が迫り来るのを見るや、恐怖と悲嘆のあまり突如声を発し、
「おい、クロイソスを殺すな!」
と叫んだのである。これが最初に発した言葉だった。それ以後、この息子は一生涯話す力を獲得したのであった。

86.かくしてペルシャはサルディスを陥し、クロイソスを捕らえた。かれは十四年にわたってサルディスに君臨したのち、十四日間にわたって攻囲され、神託の通りその帝国は崩壊した。そしてかれはキュロスのもとへ移送された。

キュロスは薪の山を積み上げさせ、その天辺に、枷にかけたクロイソスと十四人のリディア人の息子たちを登らせた。キュロスの意図するところは、勝利の初穂として何らかの神へクロイソスを生贄にすることだったかもしれず、あるいはまた願掛けかもしれず、クロイソスが信心深いことを聞いていたため、どこかの神がクロイソスを生きたまま焚刑に処せられるの救い出すのを見届けるために、かれを薪の山の頂上に配したのかもしれない。

さて薪の頂上に立ったクロイソスは、かくの如き悲惨な立場に至ったにもかかわらず、ソロンが神の啓示によって語った、人間誰しも生ある限り幸福になるとは限らず、という言葉を思い浮かべた。そして深く溜息をつき、長い沈黙のあと「ソロン」と三度叫んだ。

キュロスはこれを耳にし、クロイソスが呼びかけたのは誰かと通訳に問わせた。通訳がクロイソスに近寄って訊ねたが、かれは沈黙したままだった。やがて強く返答を促されてついに口を開いた。
「その人こそ、すべての国王に訓戒を諭してくれるなら、万金を積んでも惜しくないと思っておる人物じゃ」
通訳たちはクロイソスの語ったことを判じかね、それはどういう意味かと再び訊ねた。

しつこく繰り返し問い質すのに根負けして、かれは次のように語った。アテナイ人のソロンが最初に到来したとき、かれの財物を一通り見て回ったあとで、ソロンはそれを見下すかの如き言説を吐露したこと。またクロイソスの身の行く末はソロンの予言したとおりになったこと。そしてソロンはクロイソス個人のことよりもむしろ人間全般に関することを語り、格別、自分が幸福だと自認している人間のことを論じたのだということを語った。そうこうしているうちにも薪に火がつけられ、その端から火の手が上がってきた。

さて、通訳連からこれを聞いたキュロスは気が変わり、一個の人間たるおのれが、幸運に恵まれた別の人間を火にあぶろうとしていることに思い至った。その上かれは復讐されることを恐れており、人の世の常ならぬことにも思いを馳せた。そして燃えさかる火をできるだけ早く消し、クロイソスとその息子たちを連れ戻すように命じたが、兵たちの努力にもかかわらず、彼らは火を消し止められなかった。

87.その後リディア人が伝えるところでは、クロイソスはキュロスの気が変わったことに気づき、誰もが火を消そうとしているが、それをできずにいるのを見て、アポロ神の名を大声で呼び、かつて自分がアポロに神意にかなう捧げものをしたことがあるなら、救いの手をさしのべ、この窮状から自分を解放してもらいたいと叫んだ。

かくの如くクロイソスが涙ながらに神に願いをかけたところ、それまでは晴れ渡って無風だった空に突如として雲がわき上がり、激しい雨をともなう嵐となった。そして薪の山の火が消えた。これを見たキュロスは、クロイソスが神を敬う一門の人物であることに気づき、薪の山からかれを降ろさせ、そして訊ねた。
「クロイソスよ、わが国と友好を結ぶことなく兵を進め、敵対するように唆したは、一体誰じゃ?」
クロイソスが返答する。
「殿にとっては幸運となり、それがしには不運をもたらしたは正にそれがしの所業にござる。ただ、それがしに戦をうながし、今の事態を引き起こしたはギリシャの神にござる。平穏を捨て、戦を選ぶような馬鹿者がどこにおりましょう。平時であれば子が親を見送るところ、戦時となれば親が子を弔うことになりまする。しかしながら、こうなることはおそらく神意に沿うことでありましょう」

88.クロイソスがこのように語ると、キュロスはかれを解き放ち、自分の側近くに座らせ、極めて丁重に応接した。そして王ならびに居並ぶ者たちすべてはクロイソスに感嘆のまなざしを向けていたが、クロイソス自身は沈黙し、深く考え込んでいた。

やがてかれは頭(こうべ)をめぐらし、ペルシャ人がリディアの街を掠奪しているのを見て、声を発した。
「殿に申す。それがし、我が心中をいま吐露せねばなりませぬか、それとも沈黙を守るべきでありましょうや?」
キュロスが、何なりと話すように促すと、クロイソスはこう訊ねた。
「あれに群れ集う者たちは、何をせわしなく立ち働いているのでありましょうや?」
キュロスが云うに、
「あれはお主の街を掠奪し、そちの財宝を掠め取っているのじゃ」
クロイソスが返して云う。
「否、あれはそれがしの街でも宝物でもござらぬ。あれはもはや私の所有する物ではござらぬゆえに。彼らが掠奪しているのは殿の財宝にござるぞ」

89.キュロスはクロイソスの語ったことが気にかかったのて、人払いをしてから、いま現在の状況で気づいたことは何かとかれに問い質した。リディアの王が返答する。

「みどもが殿の虜囚となったは神々の思し召しによるものゆえ、気づいたことがあれば、それを殿に申し上げるは当然のこと。そもそも、ペルシャ人は生来粗暴で貧しいゆえに、彼らの掠奪を放置し、莫大な富を手中にさせると、最も多くの富を手にした輩が王に向けて謀叛を起こすやもしれませぬぞ。みどもの言説が尤もと思し召さるなら、次のようになさるがよろしかろうと存ずる」

「すなわち、すべての城門に親衛隊の兵を張りつけなされ。そして城外に財宝を持ち出す者がいたら、これは十分の一税としてゼウスの神に捧げねばならぬのだ、といってそれを取り上げさせるのじゃ。このように云わせておけば、彼らがつかみ取った財宝を力ずくで取り上げたとて殿が恨まれることはないはず。それどころか殿の行ないが正道に則っていると納得し、喜んで財宝を差し出すでありましょう」

90.これを聞いたキュロスは時宜にかなう助言を得たと大いに喜び、クロイソスを高く賞賛した。そして護衛の槍兵たちに向けてかれの助言通りに下命した。そして云った。
「クロイソスよ、お主の言行はまさに王者の風格である。そこで、お主の望むことを何なりとわが輩に申してみよ」

クロイソスが云う。
「殿、みどもがかつて格別に敬っておったギリシャの神へ、我が身につけられているこの枷を送り届け、これが申し分なく神に仕えた者を欺くやり方であるかと問い質すことをお許し下さるなら、これに勝る喜びはありませぬ」
かくのごとき要望をするとは、神にどんな不満があるのじゃ?というキュロスの問いにクロイソスが答える。

かれは自分が抱いていた野望や、神託の返答、とりわけ奉納品の数々、そして如何にしてペルシャへの出兵を神託によって誘導されたかを、繰り返しキュロスに語った。こうして再び、神を詰問することの許可を求めた。これに対してキュロスが笑って答える。
「もちろん、許すとしよう。またほかに頼み事があるなら、何なりと申すがよい」

これを聞いたクロイソスは、デルフォイにリディア人を使わし、自分の枷を神殿の入り口におかせ、キュロスの勢力を壊滅できるとクロイソスを唆し、その末の初穂がこんな物だと枷を示しながら、かれにペルシャ攻撃を唆したことを恥と思わないのか、と神に詰問するよう命じた。その上、感謝の義理を欠くことがギリシャの神々の常道なのか、と詰問させた。

91.リディア人の使者がデルフォイに到着し、指示されたとおりのことを伝えると、巫女は次のように返答したという。

「定められた宿命というものは神とても逃れられぬもの。クロイソスは五代前の先祖の罪を償ったのじゃ。その先祖というのは、ヘラクレス家の近衛兵でありながら、ある女の策略に加担して主君を弑逆(しぎゃく)し、身の程知らずにも君主の地位についたのじゃ。

そしてサルディスの悲運はクロイソス自身にではなく、その息子たちの代に降りかかるようにというのが、ロキシアス神(デルフォイにおけるアポロン神の称号)の思し召しなのだ。その宿命はクロイソスといえども逃れることはできなかった。

ただし、神々が許される限りのことは、神はその意志を遂げられ、クロイソスに好意を示された。すなわちサルディスの陥落を三年のあいだ先延べになされたのだ。そのあと、かれは虜囚となったが、それは定められた時よりも遥かに後年だということに、クロイソスは気づかねばならぬぞ。さらにロキシアス神はクロイソスを火あぶりからも救い出されたではないか。

神託についてもクロイソスは非を鳴らしておるが、それは的外れというもの。ロキシアス神は、ペルシャに進軍すれば、大帝国を破壊することになると、前もってかれに宣告なされていたはずだ。それゆえ、綿密に計画を立てるつもりであったなら、神はクロイソスの帝国とキュロスの帝国のどちらのことを示されたのかを、使いを立てて問い質すべきだった。ところが、かれはその言葉を理解せず、問い返しもしなかったのあるから、おのれ自身を責めるべきなのじゃ。

クロイソスが最後の神託を依頼し、ロキシアス神がロバに関して返答したときにも、この者はわかっておらなんだ。ロバとはすなわちキュロスのこと。この者の両親は異なる種族の出で、母は高貴な出自、父は卑賤の出自である。母はメディア王アステアゲスの娘、父は臣下のメディア人だった。どう見ても下賤の者が主家の娘を娶ったのじゃ」

以上が、リディア人の使者に対する巫女の返事だった。使者たちはこれをサルディスに持ち帰り、クロイソスに報告した。それを聞いたクロイソスは、非は神にあるのではなく、自分にあることを認めた。クロイソスによる統治のいきさつと、イオニア地方が最初に征服された事情は以上のとおりだ。

92.ギリシャにおけるクロイソスの奉納品は、私が以前語ったものだけでなく、夥しい数にのぼる。ボイオティアのテーベには、イスメニアのアポロに献納した黄金の鼎があり、エフェソス(29)には黄金の牛像と柱の大部分、デルフォイのプロナイア神殿には黄金の盾(30)。これらすべては私の時代まで残っていたが、そのほかの奉納品は失われてしまった。

(29)エフェソスの神殿はおそらくアリアテスの時代に発掘され、ペルシャ戦役の時代まで完了しなかったと思われる。
(30)アテネ・プロナイア神殿(神殿前)はアポロ神殿の外部にある。

またミレトスのブランキダイへの奉納品は、聞くところによると、デルフォイの奉納品と同じ重量だったということだ。そしてデルフォイとアンフィラオスの神殿への奉納品はクロイソス自身のもので、それは父から受け継いだ財宝の初穂としてのものだった。それ以外のものはクロイソスが王位につく前、パンタレオンがリディアの王権を獲得するように加勢した、敵対派閥から得た財宝だ。

このパンタレオンというのはアリアテスの息子で、クロイソスの異母兄弟にあたる。クロイソス自身はアリアテスがカリア人の女に産ませた子であるが、パンタレオンはイオニア人の母から生まれている

クロイソスが父のあとを継いで王位につくと、自分に向けて陰謀を企てた男を梳毛器にかけてひき殺し、そしてその男の財産を没収し、それまでにかれが誓っていたとおり、以前示していた神殿に、それらを奉納した。クロイソスの奉納品についてはこれで充分だろう。

93.リディアには、トモロス山から産出される砂金を除けば、他国に比べて語るに足るほどの驚嘆すべき事柄は多くない。

ただし、エジプトとバビロンを別にすると、リディアにはあらゆる建造物のうちで最も大きいものが一つある。クロイソスの父アリアテスの墓がそれで、その土台は巨大な石でできており、残りの部分は盛り土でできている。これを造営したのは商人や職人、春をひさぐ若い娘たちだった。

その墓の天辺には、私の時代まで五本の境界標石が残っていたが、それには各々の集団が成し遂げた作業量が刻まれていた。そして算定してみると娼婦たちの仕事量が最も多かったのである。

リディアでは、庶民の娘たちは皆、結婚相手が見つかるまで春を売って持参金を蓄えていたのだ。

なお、この墓の周囲は千二百五十メートルで、幅はおよそ四百メートルである。そして墓のすぐ近くには広い湖があり、リディア人の云うには決して涸れることがないそうで、名をギガイエという。この墓の話はこれで終えておこう。

94.若い娘たちに売春させることを除けば、リディア人の風習はギリシャのそれとほぼ同じである。我らが知る限り、金貨、銀貨を最初に鋳造したのは彼らだし、小売業を最初に始めたのも彼らだ。

彼ら自身のいうところでは、今のリディアやギリシャで行なわれている遊戯は彼らが考え出したという。それはまた彼らがティレニアに植民した頃に考案されたという。これについては次のようは話が残っている。

マネスの子アティスの統治時代、リディア全土に大飢饉が起きたことがある。しばらくの間、リディア人はそれを堪え忍んだが、やがてそれが終息しないとみるや、各人各様の気晴らし策を考え出した。その時サイコロ遊びや骨ダイス遊び、ボール遊びなどさまざまな遊戯が考案された。ただしチェスだけは自分たちが考案したものではないと彼らは云っている。

そして、飢えを紛らすために、一日おきに終日、考案した遊びにふけった。そうすることで食糧を求めずに済むようにし、次の日には遊戯をやめて食物を摂るようにした。このようにしてかれらは十八年間過ごしたという。

しかし飢饉はいっこうにやむ気配なく、かえって激しさを増すばかりだった。ついに王は国民を二つの集団に分け、国に残る集団と国外移住の集団を籤で決めることにした。そして国内残留組は王自身が率い、移住組は息子のテルセノスに統率させた。

国外移住の籤を引いた組はスミルナに下ってそこで舟を建造し、積み込めるだけの家財道具を舟に積み込み、生計と土地を求めて船出した。幾多の土地を次から次に漂泊したのち、最後にウムブリア(31)の地にたどり着き、そこに都市を建設し、それ以後ここに住み着いている。

(31)イタリア北部から中央部の地域。ローマ史におけるウンブリアの名は不滅である。

彼らはリディア人という呼び名を捨て、自分たちをこの地に率いてきた王子の名を取ってテルセニア人と呼ぶようにしたという。ともかくも、かくしてリディア人はペルシャ人に隷属されられたのである

95.さてこれ以後は、クロイソスの力を撥ね返したキュロスの人となりについて、そしてペルシャ人が如何にしてアジアを支配していったかに話を進めることにする。キュロスの事績については、ほかに三通りの話を提供することもできるのだが、ここではキュロスの話を誇張せずに真実を語りたいと欲するペルシャ人たちの話に従うことにする。

アッシリア人が五百二十年にわたって上アジアを支配したのち、初めて刃向かったのがメディア人である(32)。この事実は、アッシリア人に対して自由を求めて戦う勇気が彼らにあることを示しているように思われる。彼らは奴隷の身分から抜け出し、自由を勝ち取った。その後、ほかの隷属民族もメディア人に続いて同じように行動した。

(32)B.C.1229~B.C.709;デイオケスの統治が始まるまで。

96.こうして大陸全土が独立したが、つぎのような事情で再び僭主支配の状態に戻ってしまった。メディア人の中にファラオルテスの息子で、名をデイオケスという才知に長けた男がいた。

デイオケスは覇権獲得に執心していたゆえ、それを手中におさめようと画策した。メディア人は多くの部落に別れて住んでいたのだが、かれはその部落では著名な男だった。そしてこれまで以上に絶え間なく熱心に正義を公言し、実践し始めた。その当時、メディア全土はひどい無法状態で、正義には不正義が立ち向かってくることを知っていたものの、デイオケスは、あえてこのようにしたのだった。すると、同じ部落のメディア人はかれの振る舞いを見て、この男を裁判官に選出したのである。かれは主権を狙っていたので、誠実かつ公正に振る舞った。

このような行ないによって、かれは同郷人から少なからぬ賞讃を浴び、その挙句、ほかの部落の者たちも、これまで不当な判決に辛酸をなめさせられていたこともあり、デイオケスのみが正しい裁きをする人物であるという噂を聞きつけるや、頻々と喜び勇んでデイオケスの許へ駆けつけ、裁きを受けるようになった。そして遂にデイオケスの他には誰にも裁きを受けに行かなくなったという。

97.公正な裁きがなされることを聞きつけた者たちが増えるばかりだったので、デイオケスは、いまや全てが自分の肩にかかっていると判じきった。そこで、自分の仕事を投げ出して朝から晩までまわりの人間のもめ事を裁くことに何の利益もないゆえ、これまでの裁判官の椅子を捨て、これ以上裁きを下すことは止める、と公言した。

これによって街では掠奪や無法事件が大幅に増えた。そこでメディア人たちは現状について寄り合って談合し、と云っても主に話をしたのはデイオケス一派の者たちだったであろうが、つぎのように話した。

「この地ではこれまで通りの生活はできないので、我らの中から王を立てようではないか。そうすれば国はうまく治まり、無法行為によって街が荒れ果てることもなく、自分の仕事に邁進できるだろう」このような言説により、彼らは王制を取ることに自ら納得した。

98.すぐさま、誰を王にするかということになったが、皆が皆デイオケスを声高に推して賞賛するので、結局はかれを王にすることで決着がついた。

そこでデイオケスは、王に相応しい宮殿を建設することと、親衛隊をもって王の権威を強化することを要求した。メディア人はその通りに実行し、かれの指定した場所に壮大で強固な宮殿を建設し、全メディア人の中から護衛の兵士を選抜させた。

そして王権を手中にするや、デイオケスはメディア人に強制して街をひとつ造らせ、ほかのどの街よりも注力させるように仕向けた。これもまたメディア人は受け入れたので、かれは巨大で強固な城壁を造営したが、それは環状の中にまた環状の壁を重ねるもので、これは現在エクバタナ城(33)と呼ばれている。

(33)現イラン、ハマダーン(Hamadan)。Rawlinsonの訳注を参照

この城塞は、それぞれの環状壁がすぐ外側の環状壁よりも、胸壁の高さだけ高くなるように設計されている。平地にある丘に造営したことが多少は手伝っているだろうが、主に意図的に造営されたものである。

環状壁は全部で七重になっており、最も内側には宮殿と宝物殿がある。最も長い城壁はアテネの街の外周にほぼ匹敵する(34)。そして一番目の胸壁は白、二番目が黒、三番目は深紅、四番目は青、五番目は赤という風に彩られている。残り二つの胸壁にはそれぞれ銀箔、金箔が施されている。

(34)およそ八マイル:ツキジデス・歴史二-三の注釈による。ただし異論あり。

99.デイオケスは我が身を守るために自分の宮殿のまわりにこれらの城壁を築造したが、庶民は城壁の外に住むよう命じた。そして全ての城壁が完成したところで、真っ先に次のごとき法制を定めた。すなわち、王の面前へは何人たりとも参内してはならぬ、何事も従者を通して行なう、王の姿は誰にも見られてはならぬ、これに加えて王の面前で笑い声をあげたり、唾をはくことは不躾な行為とみなす、などである。

このようなことは全て、彼とともに成長し、家柄も同じ程度に高貴で、男らしさでも劣らぬ同年齢の者たちが、自分を見て、その足下をすくい、謀叛の陰謀を企むことのないようにするための深慮遠謀で、姿を見られることがなければ、自分は別種の人間であると信じ込ませるためであった(35)。

(35)あるいは彼ら自身とは異なると思わせるためかもしれない。

100.このような諸制度を定めて王権を固めたのち、かれは厳然とした態度で正義を貫いた。また訴えは書面で提出させ、それを判定したのちに、送り返すようにした。

法律上の判定はこのような方法をとったが、それ以外の案件については次のようにして裁いた。すなわち自分の全領土にわたって密偵や監視人を放っておき、無法な行ないをしている者がいるのを聞くと、その者を連れてこさせ、それぞれの不法行為にふさわしい罰を与えた。

101.デイオケスはメディア人のみを統合し、支配したのだが、その民族の中には、ブサイ、パレタケニ、ストルカテス、アリザントイ、ブデオイ、マゴイなどの部族がある。メディアにはこれだけ多くの部族がある。

102.デイオケスにはファラオルテスという息子がいたが、五十三年(36)の統治後にデイオケスが死ぬと、この息子が王位を継承した。王位を継承したのち、かれはメディアだけの支配に飽き足らず、まず最初に兵を進めたのがペルシャで、これを最初に征服したのもメディアだった。

(36)デイオケスの死はB.C.656

ファラオルテスはこれら二つの強力な民族を従え、アジアの民族を次々に征服してゆき、ついにはアッシリアに進軍した。ここにアッシリア人というのはニネヴェに居住する者たちのことであるが、かつてはアジア全土を支配していた。しかし今では同盟国が離反し、孤立している。とはいえ、この国そのものは繁栄しているのだが。ファラオルテスはアッシリアに兵を進めたものの、自身とその兵のほとんどは戦死してしまった。在位してから二十二年後のことだった。

103.ファラオルテスのあとを継いだのは、息子のキュアクサレスだが、かれは父祖よりもはるかに武勇に勝っていたという。かれはアジアの兵を部隊ごとに編成した最初の人物で、軍を槍兵、弓兵、騎兵に別けた。それまではすべてが無秩序に混在していた。

かのいくさの最中、昼が夜になったときにもリディアと戦っていたのも、この王だったし、ハリス河を越えて全アジアを統一したのも、この王だった。

かれは支配下の全軍を糾合し、ニネヴェにむけて出陣し、父の仇討ちを果たすとともに、この街を攻略しようとした。そしてアッシリア軍を破り、ニネヴェの街を攻囲しているとき、スキタイの大軍が襲いかかってきたのである。スキタイ軍の大将はプロトティエスの子でマディエスという王だった。彼らはキンメリア人をヨーロッパから駆逐し、アジアに侵入してきたもので、逃げるキンメリア人を追ってメディアの国にやって来たのだった(37)。

(37)これと同じ話が第四巻の最初の方にある。スキタイ人はコーカサス山脈の北斜面に沿って東進し、下りきった地点とカスピ海との間で南に転進している。ところがこの物語では、ヘロドトスの地理は理解困難である。「サスピレス人」がアルメニアに居住している。

104.マイオティス湖(38)からファシス河(現リオニ河)畔にあるコルキスの国までは、軽装の旅人ならば三十日の行程である。コルキスからメディアまでは指呼の間で、その間にはただひとつの民族、すなわちサスピレス人が住んでいるが、この国を過ぎればメディアである。

(38)現在のアゾフ海

しかしスキタイ入はこの経路で侵入したのではなく、脇にそれてコーカサス山を右に見ながら、さらに上方の遥かに長い道を進んだ。メディア人はこの地でスキタイ入と会戦したのだが、彼らは戦いに敗れた末に支配権を奪われ、その結果スキタイ人がアジア全土を支配することとなった。

105.この地から彼らはエジプトに向けて進軍した。そしてシリアの一部であるパレスチナに駐留していたとき、エジプト王プサンメティコスが彼らと会見し、贈り物と嘆願を以て彼らにこれ以上進軍しないようにと説得した。

そこで彼らは引き返し、シリアのアスカロンの街まで来たとき、スキタイ人のほとんどは通過するのみで損害を及ぼさなかったが、少数の者が後に残り、アフロディテ・ウラニア(39)の神殿を略奪したのである。

(39)東方諸国からはさまざまな呼称で崇拝される偉大な女神(天と地の母)。アッシリアではミリッタ、フェニキアではアスタルテ、ギリシャでは天空のアフロディテあるいは単に天と呼ばれる。

私の調べたところでは、この神殿はなべての女神の神殿のうち最古のもので、キプロスの寺院については、キプロス自身が云うように、これはその地の神殿に由来している。そしてシリアの神殿もシリアのこの地から出たフェニキア人が建立したものである。

アスカロンの神殿を荒したスキタイ人とその末裔は、子々孫々にわたって女神から神罰を受け、「おんな病」に苦しめられた。スキタイ人も、彼らの病は右のことが原因だとしており、スキタイの国を訪れた者なら、この者たちが「エナレエス(雌雄同体)」(40)と呼んでいる病にかかっている者たちの実状を目にすることができる、と云っている。

(40)病気の詳細は不明。生殖能力の欠損と考えられている。第四巻六十七節には、「ἐναρής = enaris;エナリス」すなわち「ἀνδρόγονος;androgonos;両性具有」とある。青木巌氏は、男性の女性化(いわゆるゲイ、オカマ)あるいは勃起不能ではなかろうかと推察している。

106.スキタイ人のアジア支配は二十八年続いたが、横暴で傲慢な統治のゆえにアジア全土は荒廃に帰してしまった。彼らは住民から貢税を取り立てるだけでなく、その領土を駆けめぐり、領民の財産を没収したのである。

そこでキュアクサレスとメディア人はスキタイ人を饗宴に招き、泥酔させたのち、そのほとんどを血祭りに上げたのである。かくしてメディア人は覇権も以前の領土も取り返した。そのうえ、ニネヴェも制服し(このいきさつは別の歴史で後に述べるつもりだ)(*)、バビロン地方を除く全アッシリアを支配した。

(*)述べるとすれば第三巻の終末あたりだろうが、この約束は果たされていない

107.その後、キュアクサレスはスキタイを支配した期間を含め、在位四十年で没し、あとは息子のアステアゲスが覇権を継いだ。アステアアゲスには娘がいて、名をマンダネという。あるときこの王は娘が放尿する夢を見たが、それは街中に溢れ、さらにはアジア全土に氾濫する夢だった。かれはマゴスにいる夢判断を専らとする者たちにこの夢のことを伝え、その返事を聞くや、恐れおののいてしまった。

その当時マンダネは婚期をむかえていたこともあり、またその夢を怖れるあまり、自分の家柄に釣り合うメディア人から婿を選ぶことはせず、家柄もよく、温厚な性格で知られたカンビュセスという名のペルシャ人に娘を嫁がせた。この人物は中流のメディア人よりは遥かに低い地位にあると見ていたからである。

108.ところがマンダネがカンビュセスに嫁いだ最初の年に、アステアゲスは再び夢をみた。この娘の陰部から一本の葡萄の樹が生えてきて、その樹がアジア全土を覆い尽くすという夢である。

かれはその夢を夢判断者たちに伝えてから、妊娠中の娘をペルシャから呼び戻し、生まれてくる子を抹殺するつもりで、帰郷した娘を監視させた。というのも、マゴスの夢判断者たちが、この夢の意味を読み解き、娘の子がやがてはかれに代わって王になるだろうと告げたからであった。

このような事態になることを阻止するために、アステアゲスはキュロスが生まれると、自分の血筋につながっていて、メディア人の中でも特に忠実な下僕で、かつ自分のことはすべて任せていたハルパゴスという男を呼びつけて云った。

「ハルパゴスよ、これから命じる仕事はしくじってはならぬぞ。またワシを軽んじたり、ほかの誰ぞに義理立てして自が身を滅ぼすことのないようにせよ。そこでじゃ、マンダネの産んだ子を取り上げてお前の家に連れてゆき、亡き者にするのじゃ。そのあとはお前の思うままに埋めておけ」

ハルパゴスは答えて、
「殿、みどもはかつて殿のご不興を買ったことなど、決してないはずにござります。また今後とも殿に対しては粗相なきよう心がけております。されば、殿の御意とあらば、遺漏なきようにことを果たすことが、みどもの勤めと心得ております」

109.このようにハルパゴスは返答し、死に装束をまとった乳飲み子を受け取ったあと、涙ながらに自分の家に帰っていった。家に帰りつくと、アステアゲスに命じられた話を妻にすべて語り聞かせた。

「それで?」と妻が云う。
「あなたはどうなさるつもり?」
ハルパゴスが云う。
「ワシはアステアゲスの指示に従うつもりはない。たとえ王が正気を失われ、今以上に乱心なされたとしても、王の計画に従うつもりなどなく、かような人殺しに手を貸すつもりはない。

ワシがこの御子を殺したくない理由はいろいろあるが、まずこの御子が自分と血が繋がっていること、またアステアゲスが高齢であるのに嫡男がいないということもある。かりに王が没した場合、王が今ワシに殺させようとしている御子の生母である姫君に王位が移ることになったなら、ワシにはこの上ない危難しか残らないではないか。わが身の保全のためには、この御子には死んでもらわねばならぬが、手を下すのはアステアゲス自身の臣下であって、ワシの配下の者ではない」

110.このように云うと、ハルパゴスはすぐさまアステアゲス配下の牛飼いのひとりに使いを送った。この男は、とくに野獣が多く出没する山で牛を放牧していることがわかっていて、このことはかれの目的に一等かなっていたのだ。その男の名はミトラタデスといい、その妻は夫と同じく卑賤の出だった。妻の名はギリシャ語ではキノといい、メディア語ではスパコという。スパコはメディア語で犬のことを指す。

この牛飼が牛を放牧していたのはエクバタナの北方で、黒海に向かう山の麓だった。メディアの国はどこも平坦だが、サスピレス族の国(41)に接しているこの地のみは、とくに地面が高いうえに多くの山に囲まれ、深い森におおわれている。

(41)メディアの北西部。現在のアゼルバイジャン

そしてこの牛飼いが呼び出しに応じて馳せ参じると、ハルパゴスは云った。
「アステアゲス様はお前に、この赤子ができるだけ早く息を引き取るように、一等荒れ果てた山中に捨ててこいと命じておられる。その上、万一お前がこの子を殺さず、とにかく死を免れるようなことになるなら、お前を極刑に処すと伝えるよう、そしてこの子が捨てられたかどうか確認するよう、ワシに命じられたのじゃ」

111.この話を聞いた牛飼いは赤子を受け取り、もと来た道をたどって自分の家に帰ってきた。ところが、この男の女房も、今日か明日かと出産を間近に控えており、神のなせる業であろうか、その牛飼いが街へ出かけている間に出産していたのだった。この夫婦はお互いを心配しており、亭主は女房の出産を心配しつつ、女房はなぜハルパゴスが思いもかけず亭主を呼び出したのか、不審に思っていたのである。

さて牛飼いが女房のもとへ戻り、思いもかけない姿で女房の前に現れると、その女房はびっくりし、連れ合いが話し出す前に、ハルパゴスが、なぜしつこく亭主を呼びつけたかを訊ねた。
「なあ、お前」と牛飼いが云う。
「街に行ったところが、見なんだらよかったと思うようなことや、ご主人様にとっては起きねばよかったと思うようなことを見たり聞いたりしてしまったぞい。

というのもな、ハルパゴス様のお屋敷中が嘆き悲しむ声に溢れかえっていて、入ってみるとすぐ眼に飛び込んできたのが、黄金と刺繍で飾られた産着を着せられた赤子が寝かされていて、それがもだえながら泣き叫んでいる光景じゃった。ハルパゴス様はワシが来たのを見ると、こう仰せられた。早々に赤子を連れてゆき、どこよりも野獣が多く出没する山の中に、この子を捨ててこいと。そしてこれをワシに命じられたのはアステアゲス様だということで、万一言いつけに叛いたときの脅し文句をさんざん聞かされたわい。

そんなことでワシは赤子を受け取って連れ帰ったのじゃが、この子はてっきりどこかの召使の子だろうと思っておったよ。この子が誰の子だなんて想像もつかなかったもんでな。とはいうものの、赤子が黄金とみごとな産着をまとっているのを目にし、ハルパゴス様の屋敷で、大声で泣いているのを耳にして驚きはしたがのう。

だがすぐに事情がすっかりわかったぞ。ワシを街から連れ出し、赤子を腕の中に渡してくれた召使いが、道中で話してくれたわい。つまるところ、この子はアステアゲス王の姫君であるマンダネ様と、キュロス様の子カンビュセス様との間にお生まれになった御子で、この子を殺せと命じられたのはアステアゲス様だということじゃ。ほれ、それがこの子じゃ」

112.こう云って牛飼いは覆いを取って赤子を見せた。ところが、元気で可愛い赤子を見ると、女房は泣きながら亭主の膝にすがりつき、何としてもこの子を捨てないでほしいと頼んだ。しかし牛飼いはほかにやりようはない、と答えた。というのも、ハルパゴスは密偵を使って事の次第を見届けさせるに違いないし、万一命令に叛くと、自分には悲惨な死が待っているはずだというのだった。

亭主を説得できないことがわかると、女房はこう云った。
「この子を捨てないように云っても聴いてくれないし、子供を捨てたことを見せなきゃいけないんだったら、こうなさいよ。私も子供を産んだけれど、死産だったんだよ。

だからこの死んだ子を連れていって捨てるがいいよ。アステアゲス様のお姫様の御子は、私らの子として育てようじゃないか。そうすればお前さんがご主人様たちの言いつけに叛いたことを知られずに済むし、この私らのやり方も悪くないと思うよ。だって、死んだ子は王子として葬ってもらえるし、生きてる子は死なずに済むのだからね」

113.牛飼いは、女房の云うことが今の自分の窮地から抜け出すのに飛びきりの妙案だと考え、すぐさま女房の云うとおりに実行した。殺すつもりで連れてきた赤子を女房にわたし、死産で生まれた自分の子を、もう一人の子を入れていた箱に収めた。そして先の赤子が身につけていた煌びやかな衣装をその子に着せ、山中の一等ひと気のない場所に捨てた。

赤子を捨ててから三日目に、牛飼いは自分の手先のひとりに捨てた赤子を見張らせておいてから街へ出かけ、ハルパゴスの屋敷へゆき、赤子の死骸はいつでもお目にかけられます、と云った。

ハルパゴスは、一等信用している護衛の者を送り出し、彼らに死骸を確認させたのち、牛飼の子を埋葬させた。こうして牛飼の子は葬られたが、のちにキュロスと名づけられる赤子は、牛飼の女房が手元において育てた。ただ、赤子の名はキュロスではなく、別の名で呼んでいた。

114.さてこの子が十才になったとき、ひょんなことから、その素性が明らかになった。あるとき、その子は牛飼いたちが住んでいる村の道で、同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの中で、牛飼いの子となっているこの子を自分たちの王に選んだのである。

そしてその子は、子供たちの中から王宮を建てる者、自分の護衛をする者、ひとりは王の目となる者、また別の者には伝令、という風にそれぞれに役目を定めた。

ところで、少年たちの中にメディアでは名士のアルテムバレスという人物の子もいたが、この子がキュロスの指示に従わなかったことから、ほかの子供たちにその少年を捕らえて連れて来させ、鞭で打って手荒く折檻した。

そのあと、折檻された少年は、ひどい目に遭わされたことに腹を立て、解き放たれるとすぐさま街にいる父のもとへ帰り、キュロスから受けた仕打ちを細々訴えた。もちろん未だキュロスという名ではなかったので、その名では呼ばず、アステアゲスの家来である牛飼いの息子と呼んだのであるが。

アルテムバレスは激怒し、すぐさまアステアゲスのもとへ息子を連れて行き、ひどいことが起きましたと云いつつ、
「申し上げます。殿の奴隷の牛飼いの息子から、このような乱暴を受けました」
と云って、息子の両肩をむき出しにした。

115.話を聞き、子供を見たアステアゲスは、アルテムバレスの身分を考慮し、その少年に罰を与えてやろうと考え、使いをやってその牛飼いと息子を呼びつけた。二人がやって来ると、アステアゲスはキュロスを見つめながら云った。

「お前か?かような卑しき身分の子でありながら、ワシの重臣の息子に手をかけたのは」
キュロスは答える。
「殿様、僕がこの子にしたことは間違ってはいません。この子も一緒にいた村の少年たちは、遊んでいるときに僕を王に指名したのです。僕がだれよりも王にふさわしいと、みんなが考えたからです。

ほかの子供たちは指図したことをやりとげたのに、この子は言うことを聴かず、僕のことを無視しているので、とうとう罰を受けたのです。でも、このために僕が何かの罰を受けねばならないのでしたら、何とでもなさって下さい」

116.少年の話を聞いているうちに、アステアゲスは気がついたようだ。少年の顔つきが自分に似ているようだし、その返答の仕方が卑賤の身分に似つかわしくないことに。そして子供を捨てた時期と、その少年の年齢が一致することに。

このことに驚いたアステアゲスは少しのあいだ言葉を失っていたが、何とか気を取り直して云った。それはアルテムバレスを引き下がらせ、牛飼いひとりだけにして問い質すためだったが。

「アルテムバレスよ、お前とその息子が気の済むように始末をつけてやろう」
こう云ってアルテムバレスを追い出し、キュロスは配下の者に命じて奥へ連れてゆかせた。そして牛飼いひとりが残ると、あの子をどこでもらったのか、誰から受け取ったのかと、この男を問い詰めた。

牛飼いは、キュロスは自分の息子で、母親もまだ連れ添っていますと返答した。するとアステアゲスは、痛い目にあいたくなくばワシのいうことを聴け、と云いつつ、護衛兵にこの男を取り押さえるよう合図した。

拷問にかけられるという恐怖心から、牛飼いはついに事情を洗いざらい白状してしまった。事の発端からありのままをすべて話し、最後には土下座して、どうかお許し下されと、懇願した。

117.牛飼いが真実を告白したあと、アステアゲスはこの男のことには関心がなくなったが、ハルパゴスには強い怒りをつのらせ、護衛の者に命じてかれを連れて来させた。

ハルパゴスが参上すると、アステアゲスは問いかけた。
「ハルパゴスよ、ワシがお前にあずけた娘の息子は、一体どういう風に始末したのじゃ?」
ハルパゴスは、牛飼いがそこにいるのを認めると、真実が明るみに出て罪に問われないように、嘘はつかずにおこうと心に決め、こう云った。

「殿、あの赤子を受け取ったあと、みどもは如何ようにすれば、殿の御意にかなうか、はたまた殿の言いつけに叛くことなく、姫君からも殿からも人殺しと名指しされずにすむかを考えましてございます。

そしてこうすることにしました。みどもはここにおります牛飼いを呼びつけ、この赤子の命を絶つよう命じられたのは殿であるといって、御子をあずけました。そのように命じられたのは殿であるゆえ、これは真実でございましょう。それからこの男には、ひと気のない山中に御子をおき去りにし、息を引き取るまで見張っておれと命じました。そして、万一命じられたことをしくじると、ありとあらゆる罰が待ち受けておるぞと脅しつけておきました。

それで、この者が命じられた通りに役目を果たし、御子が亡くなられたあとで、一等信用できる配下の宦官数人に命じてそれを確かめに行かせ、埋葬させました。これが事の顛末にございます。殿、かような次第で御子は息を引き取られたのでございます」

118.ハルパゴスが嘘を交えず話すと、アステアゲスは、かれのしたことに怒りを感じながらも、それを隠し、まずは牛飼いから聞いた話を寸分違わずハルパゴスに繰り返し、その次に、子供は生きていて、事の次第はまことに結構なことだと締めくくった。

「と云うのもな」と、アステアゲスは云う。
「ワシもこの子に向けた仕打ちに大いに心を痛めておったし、娘とも不仲となり、心穏やかでなかったのじゃ。かようなめでたい結末を迎えたのであるゆえ、お前の息子を新しくやって来たこの子のところへ寄越し(この栄誉を帰すべき神々に、子供を救って下された礼として生贄を捧げるつもりであるから)、ワシのところへ食事をしに来るがよい」

119.これを聞いたハルパゴスは王にひれ伏し、自分の失策がよい結果をもたらし、なおかつ幸運の兆しとして王の晩餐に招かれたことに大喜びし、自分の屋敷に帰っていった。

屋敷に帰り着くと、かれは十三才くらいのひとり息子に、アステアゲスの宮殿に参上し、王の命じられることは何であれ従うように言いつけて送り出し、そして有頂天になって事の次第をすべて妻に語った。

そしてハルパゴスの息子が参上すると、アステアゲスはこの子の喉をかき切って殺し、手足をバラバラに切り裂き、その肉を煮たり焼いたりして料理し、いつでも食べられるように準備を調えた。

晩餐の時間になり、ハルパゴスやほかの招待客がやって来ると、アステアゲスとほかの者たちには羊肉の料理が供されたが、ハルパゴスには息子の頭と手足を除いた部位の肉料理が供された。頭と手足は籐籠の中に入れ、覆いをかけて別においてあった。

やがてハルパゴスが満腹になったと思われる頃合いになって、アステアゲスは彼に問いかけた。
「食事は気に入ったか?ハルパゴス」
「大変結構でございました」
とハルパゴスが返答すると、かねて命じられていた者たちが、籠に入れて覆いをかけた息子の頭と両手、両足を運んで来てハルパゴスの前に立ち、覆いを取ってお好きなものをお召し上がり下さい、と云った。

云われるままにハルパゴスが覆いを取ってみると、そこには息子の死骸の残りが入っているのを認めたが、かれは驚く様子もなく、落ち着き払っていた。アステアゲスが、何の獣の肉を食べたかわかるかと訊くと、ハルパゴスはわかっておりますと答え、殿のなさることは何であれ、みどもの喜びと致すところにございます、と返答した。このようにかれは言上し、残った肉を携えて自分の屋敷に帰っていった。残った遺骸を全部まとめて埋葬するつもりだったと思われる。

120.アステアゲスはハルパゴスにかくの如き罰を与えたが、キュロスの扱いをどうすべきかと考えをめぐらし、先に語ったように、かれの夢を読み解いたマゴスの夢判断人を呼びよせた。彼らが到着すると、かつての夢をどのように読み解いたのであったかと訊ねた。すると彼らは以前の内容と同じ答えを返し、御子がご存命で、お亡くなりになっていないのであれば、必ずや王になられるはず、と語った。

そこでアステアゲスは云った。
「その子は生きておるぞ、死んではおらぬ。その子が田舎に住んでおったとき、村の小僧たちがあの子を王に指名したのじゃ。そこであの坊主はまことの王がなすべきことをそつなく果たしたというぞ。それぞれに護衛兵、番兵、伝令などその他諸々の役目を定め、統率したらしい。お前たちは、このことを何と考える?」

「御子が生きておられ、」とマゴスの者たちは云う。
「作為なしに王となられたのであるならば、この件に関しては心配無用にございます。心安らかになされませ。御子は二度と王にはなられますまい。我らの予言もしばしば些細な結末に終わることがございます。また夢の中のことも、取るに足りない結果になるものでございますゆえ」

これに対してアステアゲスは云う。
「ワシも全く同感じゃ。あの子が王と呼ばれたことで夢が実現したのであるから、もはやあの子を怖れる道理はないと考えておる。とは云うものの、ワシの一家にとってもお前たちにとっても、どうすれば一等安全であろうか、よくよく考えて教えてくれぬか」

そこでマゴス人たちが答える。
「殿、我らもまた殿のご統治が安泰であることを強く願っております。さもなくば王位はこの国から離れ、ペルシャ人であるあの子に渡り、そうなりますれば我らメディア人は奴隷となりはて、異民族としてペルシャ人からは一顧もされぬようになりましょう。しかし同胞である殿が王位についておられる限り、我らも支配者の席を占めることができますし、殿から大いなる栄誉を頂戴できるというものにございます。

それゆえ、我らは何としても殿の御身と王位のことに意を尽くさねばなりませぬ。只今におきましても、何であれ憂慮すべきことに気づきましたなら、すべて殿に申し上げるつもりでおります。しかし夢は些細な結末に終わりましたので、我らも胸をなで下ろしておりますし、殿におかれましても心安らかになされませ。ただし、かの御子は殿の目の届かぬペルシャへ、すなわち両親の元へやっておしまいになされませ」

121.これに気をよくしたアステアゲスは、キュロスを呼んでこう云った。
「坊主よ、下らぬ夢のおかげでお前にはすまぬことをしてしまった。しかしお前は運良く生き延びておる。そこでな、心安んじてペルシャへゆくがよい。お前には介添人をつけてやろう。向こうに着いたらわかるが、お前の両親は、ミトラタデスやその女房とはずいぶん様子が違うぞ」

122.こう云ってアステアゲスはキュロスを送り出した。こうしてキュロスがカムビュセスの屋敷に帰り着くと、かれの両親は、わが子は生まれた直後に死んだものと思っていたことでもあり、その身元を知って大喜びでかれを屋敷に迎え入れた。そしてどのようにして命が助かったのかと訊ねた。

そこでキュロスが語るには、今まで何も知らず、違う風に思い込んでいたが、ここへ来る途中、自分の不運な身の上について一部始終を教えられた。すなわち自分はアステアゲス配下の牛飼いの子だと思っていたが、旅の途中で介添人からすべてを聞いたという。

また自分を育ててくれたのは牛飼いの女房だと話し、この女のことを褒めること尋常ではなく、話はキノのことに終始した。この名を耳にした両親は、自分たちの息子が生き延びた話を一層神がかりの如くペルシャ人に印象づけようとして、キュロスは牝犬(キノ)に育てられたという話を広めた。この伝説の始まりはここにある。

123.やがてキュロスは成長し、仲間うちでも人並みすぐれて男らしく、敬愛される人物となった。その頃、ハルパゴスはアステアゲスに復讐することを目論み、キュロスを味方につけるつもりで贈答の品を届けた。自分のような一個人がアステアゲスに刃向かうことなど、できぬ相談だとみていたからである。そしてキュロスの成長をみていて、かれの不運も自分自身のそれとよく似ていると思い、この男と手を組もうとしたのだ。

またこれ以前に、ハルパゴスは次のような手はずを整えていた。それは、アステアゲスの統治がメディア国民に対して過酷だったので、メディア人の主立った者たちそれぞれと連絡をとり、アステアゲスを王位から降ろし、キュロスを王につけようと説得していた。

こうして準備を調えておいてから、ハルパゴスは自分の意中をキュロスに打ち明けようとしたのだが、相手はペルシャに住んでいるうえ、街道には監視の目が光っている。これでは連絡の取りようがないとみたハルパゴスは、次のような手段に出た。

野ウサギを一羽用意し、毛はむしらずそのままにして、注意深くその腹を裂き、腹の中に自分の計画を記した紙片を入れた。そしてウサギの腹を縫い合わせてから、自分の配下のうち一等信頼のおける者を猟師に化けさせ、網の中にウサギを入れて持たせ、ペルシャに送り出した。そしてその使いの者には、誰もいないところで手ずから兎の腹を開けてもらいたいと、直接話すように命じておいた。

124.事はうまく運び、キュロスが野ウサギを受け取って腹を裂き、中に入っていた紙切れを見つけ、取り出して読んでみると、そこにはこう書いてあった。

「カンビュセスのご令息さまへ。貴殿には神々のご加護がおありです(さもなくば、そのような幸運はあり得ぬことでしょう)。そこで、貴殿を亡き者にしようとしたアステアゲスに復讐をなされませ。

かの王の思惑どおりに事が運んでおれば、貴殿はこの世の人ではなく、ところが神々のご加護とみどもの力によって、そなた様は生きておいでです。貴殿の身に起きたこと、またみどもが貴殿の命を絶たず、牛飼いにあずけたため、アステアゲスからどのような仕打ちを受けたかも、ずっと以前にご承知のことと推察いたしおります。そこでもし、みどもの企てに賛同してくださるおつもりでしたなら、貴殿はいま現在アステアゲスが治めている全ての国を統べることになりましょう。ペルシャ人民を説き伏せて叛逆させ、メディアに出陣なされませ。

その場合、みどもあるいは誰かほかのメディア人の重臣が貴殿に向けての討伐軍司令官に任されたとしても、ご懸念には及びませぬ。なぜと申すに、彼らはアステアゲスに叛き、貴殿に味方してこの王を斃すつもりになっておるからにござる。準備は万端ととのっておりますゆえ、みどもの申すとおりに、速やかに事を起こして頂きたい」

125.これを読んだキュロスは、ペルシャ人たちを謀叛に向けて説得する最もうまいやり方を思案した。そして考え抜いた末に一等適切なやり方を思いつき、それを実行に移した。

まずキュロスは自分に有利となる筋書きを書面に書いておき、ペルシャ人たちを集めておいて、その書面を開いて読み上げ、アステアゲスが自分をペルシャ軍の司令官に任命したと宣言した。そして演説を続けた。
「さてペルシャ人諸君、予はここに命ずる。各々鎌を持って集まれ」

このようにキュロスは布告したが、ペルシャには多くの部族があり、キュロスが召集してメディアに対する謀叛を説いたのはパサルガダイ、マラピオイ、マスピオイの三部族である。ほかのペルシャ人は、どの部族もこれらの部族に従属していた。これらのうちパサルガダイの地位が最も高く、この部族にはアカイメニダイ(アケメネス)族も含まれ、ここからはペルセウス家の諸王が輩出している。

その他の部族としては、パンテアライオイ、デルシアイオイ、ゲルマニオイなどがあり、これらはすべて農耕民であるが、ほかのダオイ、マルドイ、ドロフィコイ、サガルティオイなどはすべて遊牧民である。

126.さてペルシャ人たちが指示されたとおり鎌を持って集合すると、キュロスは、ペルシャ領内にある十八(三千六百メートル)から二十ファーロング(四千メートル)四方の茨だらけの荒れ地を一日で開墾せよと命じた。

そしてペルシャ人たちがその作業を完了すると、その翌日には、風呂に入ってから集合せよとキュロスは命じた。そしてその間にキュロスは、父親の所有する山羊、羊、牛をひと処に集めて屠殺し、そのほか酒や飛びきりの珍味なども揃え、ペルシャ人一同をもてなす用意を調えた。

翌日ペルシャ人たちが集まると、キュロスは草地に座らせて饗応した。食事か終ると、キュロスは、昨日の仕事と今日の気晴らしとでは、どちらが好ましいと思うか、と訊ねた。

彼らは、昨日と今日とでは大違いです、昨日は苦しいことばかりでしたが、今日は良いことばかりです、と答えた。そこで、その言葉をとらえてキュロスは自分の企てをすべて打明け、つぎのように語った。

「これが諸君の現状なのだ、ペルシャ人諸君。私のいうとおりにすれば、奴隷のような苦役とは一切無縁で、このような好ましいことやほかの果報もごまんと堪能できるだろう。しかし私について来なければ、昨日のような苦役をいつまでも続けることになるぞ。

だから、わが輩の云うとおりに行動を起こし、自由を勝ち取るのだ。わが輩は神意によって、この事業に着手するため、この世に生まれてきたと思っている。また諸君は合戦においてもほかのあらゆる点においても、メディア人に劣ることはないと、わが輩は信じている。以上すべては嘘いつわりのなきことゆえ、速やかにアステアゲスに向けて叛旗を翻せ!」

127.ずっと以前からペルシャ人はメディア人の支配に不満を抱いていたゆえ、いま指導者が現れたことで、彼らは喜び勇んで自由を勝ち取るために立ち上がった。ところがキュロスがこの行動を起こしたことを知ると、アステアゲスは使者を送ってキュロスを呼びよせた。そこでかれは使者に対して、我はアステアゲスが思っているよりも早く彼の面前に現われるだろうと、報告しておくように云った。

これを聞いたアステアゲスは全メディア軍に武装を命じ、神意によって気が動転していたのか、ハルパゴスに下した仕打ちのことはすっかり忘れ、あろうことかこの男を司令官に任じたのである。

そしてメディア軍が出陣し、ペルシャ軍と会戦すると、謀叛に加わっていないメディア軍は戦ったが、一部は相手側に脱走し、その他大勢は故意に戦を放棄し、逃走してしまった。

128.メディア軍が惨敗した報に接するや、アステアゲスは、
「キュロス奴、喜ぶには早いぞ!」
と罵ったかと思うと、次にはキュロスを解き放せと進言したマゴスの夢解き人たちを串刺しの刑に処した。それから街に残っている者たちに、老いも若きも武器を持たせた。そしてこの者たちを率いてペルシャ軍と戦ったが敗北を喫し、自身は捕らえられ、麾下のメディア軍も失ってしまった・

129.アステアゲスが捕らわれると、ハルパゴスがやって来て得意げに罵り、辛辣な嘲笑を数々あびせた中でも、アステアゲスがハルパゴスの息子の肉をかれに供したあの晩餐のことを持ち出したあと、国王から奴隷の身になった気分はどうだ、と問いかけた。

するとアステアゲスはハルパゴスをじっとにらみつけて問いかけた。
「キュロスのやったことは、自分のお陰だと思っているのか?」
ハルパゴス曰く、
「そうとも、わが輩の手柄だ、手紙を書いたのはわが輩だから、この企てを成功させたのは当然ながらワシだ」
「すると」とアステアゲスが云う。
「おまえはこの世でこの上なく愚かでかつ不義理なヤツだ。愚かというのはな、このたびの事変が実際にお前の力で成し遂げられたとしたら、自分が王になれたはずなのに、それを他人に譲ったからで、不義理というのは、あの晩餐のことを怨みに思ったあげく、メディア人を奴隷にしたからだ。

またお前が王位につかないのであるなら、ペルシャ人ではなく、ほかのメディア人が王位につくのが正当なやり方だ。その結果、お前は罪なきメディア人を支配者から奴隷の身に落とし、奴隷だったペルシャ人を支配者にさせたのだ」

130.かくて三十五年の在位を経てアステアゲスは王位を失い、その過酷な統治が原因でメディアはペルシャの膝元に屈する仕儀となった。メディアによるハリス河の上部(東)地域にあたるアジア全土の支配は、スキタイ人の支配期間も含め、百二十八年(42)に及んだ

(42)B.C.687~B.C.559:スキタイによる支配期間はB.C.634~B.C.606

しかしその後、このたびの行ないを悔いたメディア人はダリウス(43)に叛旗を翻しているが、戦には敗れてしまい、再び隷従の身となってしまった。ただし、これはのちの話で、いまはアステアゲスの時代の話であって、キュロス率いるペルシャ人がメディアに叛逆し、これ以後はアジアを牛耳るに至ったのである。結局、キュロスはアステアゲスに何の危害も加えず、これが死ぬまで自分の宮殿に住まわせた。

(43)B.C.520:この事件はベヒストン碑文(The Behistun Inscription)に象形文字で記載されている。

以上が、キュロスの誕生と成長、王位につくまでの話である。そののち、これまでに述べたごとく、云われなき不当な侵略を仕掛けてきたクロイソスを打ち破り、これによってキュロスはアジア全土の覇者となったのである。

131.さて、ペルシャ人の風習として私が知っているのは、次のようなものである。彼らは偶像、神殿、祭壇を設営する風習を持たず、そのようなことは愚か者のなせることと考えている。これは思うに、ギリシャ人と違って、神は人間と同様な存在であるとは信じていないためである。

ただ、彼らは天空全体をゼウスと呼び習わし、山の最も高い頂に生贄を捧げるのを常としている。また太陽、月、大地、火、水にも捧げ物を祀る風習がある。

その始まりから、彼らが祀っているのはこれらのものだけだが、のちになってからアフロディテ・ウラニア(44)も祀るようになった。これはアッシリア人やアラビア人から学んだのである。なお、アフロディテのことを云うに、アッシリア人はミュリッタ、アラビア人はアリラット、ペルシャ人はミトラと呼んでいる。

(44)本巻百五節の注を参照

132.先に挙げた神々に生贄を捧げるとき、彼らは次のようなやり方で臨む。彼らは祭壇をつくらず、灯もともさない。酒を供えたり音曲を奏でることをしない。花輪、大麦料理も供しない。どこかの神に貢ぎ物を捧げたいときには、生贄に供する獣を広場に連れてゆき、多くの場合、銀梅花の枝で造った冠をかぶり、その神の名を唱える。

そして祈りを捧げるとき、自分ひとりだけの幸福を願うことは規範にはずれるとされているので、祭主は国王とペルシャ国民全体の幸福を願うのである。これは自分もその中の一員であるという考えによっている。そのあとは生贄の肉を細かく切り刻んで煮、それをできるだけ柔らかい草、普通はクローバー(シロツメクサ)を敷きつめた上に残らずのせる。

こうした準備が調えば、マゴス人がやって来てペルシャ人の伝説である神々の発祥由来を説く神統記を朗唱する。なににせよ、生贄の儀式はマゴス人がいなければ行なわれない。そのあとしばらくたってから、祭主は肉を持ち帰り、思い通りに利用する。

133.ペルシャ人が一等大切にしている日は、自身の誕生日である。この日には、ほかの日以上に多くの、かつあり余るほどの食事を用意するのを当然のことと考えている。富裕者は、牛、馬、ラクダ、ロバなどを丸焼きにして食卓に供するが、貧者は小型の家畜を用いる。

ペルシャ人の主食は少量だが、デザートは多く、何度も供される。ギリシャ人はデザートをそれほど多く摂らないので、食後も腹を空かせているとペルシャ人が云っているのは、このためである。ペルシャと同じく多くのデザートが出てくるなら、ギリシャ人も食べ続けるだろうと彼らは云う。

またペルシャ人は酒を好むこと尋常ではないが、人前での嘔吐や放尿は禁忌とされている。それから、彼らはよほど重要な案件を、酒を飲みながら談合する習わしがある。

その話し合いで賛同を得たことは、その翌日に、会合を開いた屋敷の主が、皆がしらふの時にもう一度提起し、その時にも賛成となれば、その案件は成立し、そうでなければ廃案にする。また前もってしらふで議論したことは、酒の席でもう一度採決する。

134.彼らが路上で行きあった場合、お互いが同じ身分かどうかを見分けるのは簡単だ。対等な身分なら、話しかけずに口づけする。一方が低い身分なら頬で接吻する。身分差が甚だしいときには卑賤の者が相手の足下に土下座して平伏する。

彼らは自分自身を一等大切にするが、その次に尊重するのはごく近間に隣り合う国の人々で、その次は次に近い隣国人という風に距離に応じて尊重の程度を下げてゆき、自国から最も遠い国に住む人々は最も軽く扱う。それは、自分たちが全ての点で、この世でとびきり秀いでた民族であり、ほかの民族は距離に応じてその長所が減じてゆき、最も遠いところの民族は最も劣っていると考えているからである。

メディアによる統治時代は、ペルシャ人が他国を尊重する際の規範を、さまざまな国々が互いに統治するためにも使用された。すなわちメディア人が全体を支配しているが、彼らは最も近くに住む民族を統治し、この民族がその隣の民族を、そしてまたその民族がその隣の民族を支配する、という統治の仕方である。これはペルシャ人が他民族を尊重するのと同じやり方で、それぞれの民族の支配権や統治権は、距離に応じて段階をつけていたためである。(45)

(45)このことは、属国が遠く離れるほど、メディアによる統治が直接的ではなくなることを意味していると思われる。ペルシャ人が、帝国の場所からの距離に応じて属国の尊重の度合いを下げてゆくのと同じ原理である。

135.ペルシャ人は、どの民族よりも外国の風習を好んで取り入れる。メディアの衣装が、自分たちのものよりきれいだと云ってはそれを身につけるし、戦にはエジプトから来た革の胸当てを用いる。また贅沢な享楽は手当たり次第に習い覚え、あらゆる方面に及んでいる。美少年趣味もギリシャ人から教わっている。それぞれが大勢の正妻を娶り、それでも懲りずに畜妾すること多数に及ぶ。

136.ペルシャにおいては、戦場での武勇の次に男の美徳とされているのは、多くの息子を持つことである。最も多くの息子をもつ男には年ごとに国王から褒賞が下される。力の強さは数多きことと彼らは考えているためである。

子弟の教育は五才から二十才まで行なわれるが、教えることは三つだけである。乗馬、弓術、誠実であることがそれだ。男児は五才になるまで、父親と顔を合わせることはなく、女たちに囲まれて暮らす。その理由は、養育中に子供が死んだとき、父親が悲嘆に暮れないようにするためである。

137.かような風習を私は賞賛するものであるが、次のような風習もまた賞賛に値する。国王といえども一度きりの過失で人を死刑に処せられないこと、およびペルシャ人全般も、唯一度の過ちをもって自分の下僕に癒やしがたい危害を与えることはないこと。家臣の非行が、その働きよりも多くかつ大きいと見極めるまでは、怒りを爆発させない、などである。

ペルシャ人の云うには、自分の父や母を殺めた者は誰ひとりいない。そのようなことがあったとしても、よくよく調べてみれば、その者は養子であるか不義密通によって生まれた子であることがわかるはずだという。つまり息子が実の親を殺めることなどあり得ないと彼らは云うのである。

138.また、やっていけないことは、口にしてもいけないとされている。そして嘘をつくことは最も恥ずべきことで、その次が金を借りることだという。その理由はいろいろあるが、特にあげているのが、借金すると、どうしても嘘をつくようになるからだ、と彼らはいう。癩病(ハンセン病)や白癩病(*)にかかった市民は街に入ることはせず、ほかの人たちと交わることもしない。彼らの説では、太陽に対して何らかの罪を犯した罰として、このような病気にかかるのだという。

(*)white sickness:軽度の癩

異邦人がこの病気に罹ったときには、多くの国では国外に退去させられるし、白い鳩でさえも同じ理由で追い払われる。また彼らはことのほか河を崇拝しており、これに放尿したり、唾を吐く、手を洗うなどの行為はしないし、他人にもこのような行為をさせない。

139.彼らの間ではしばしば見受けられることで、彼ら自身は気づいていなくて、我らが気づいていることがある。それはペルシャ人の名前が本人の身体の特徴や身分の高さを示しているのだが、その語尾が、すべて同じ文字で終わっていることである。ドーリア人のいうサン、イオニア人の場合はシグマという文字がそれである。調べてみればわかってもらえると思うが、ペルシャ人の名前は、あるものはそうでなく、またあるものは別の文字ということはなく、ことごとくが、この文字(S)で終わっている。

140.右のようなことは私自身の知識をもとに断言できることだが、これ以外に、表立ってはいないが密かに伝えられていることに、死者の取り扱いに関することがある。ペルシャ人の遺骸は鳥や犬にによって損壊させてから埋葬するという。

マゴス人はこれを公然と行なっているので、これがマゴス人のやり方であるとは断言できる。しかしペルシャ人は死体に蝋を塗って土中に埋葬する。マゴス人はほかの者と違っているが、エジプトの司祭とも異なっている。

というのは、エジプトの司祭は生贄に捧げる生き物は別として、いかなる生物も殺さないことを戒律としているが、マゴス人は人と犬以外ならなんでも、蟻であれ蛇であれ、爬虫類や鳥類でも自ら手を下して殺し、しかもそれを誇りに思っているのである。かような風習は太古からのものであるので、これはこれとしておき(46)、話を戻そう。

(46)あるいは「原初からの風習ゆえ、そのままにしておく」=「この風習は太古からのものと理解しておこう」

141.リディアがペルシャに征服されると、イオニア人とアイオリス人はただちにサルディスにいるキュロスに使者を送り、クロイソスに隷従していたときと同じ条件でキュロスに従いたいと提案した。それを聞いたキュロスは次のごとき寓話を話して聞かせた。その昔ひとりの笛吹きが海中に魚の群れがいるのを見、笛を吹けば魚が陸に上がってくるのでは、と思って笛を吹いた。

ところが期待したとおりにならなかったので、笛吹きは網を投げて大量の魚を捕らえた。そして魚が跳びはねるのを見て云った。

「踊るのはやめろ。俺が笛を吹いたときにはお前たちは出てきて踊ろうとしなかったくせに」

何ゆえにキュロスがイオニア人とアイオリス人にこんな寓話を聞かせたかというと、以前キュロスがイオニア人に使者を送り、クロイソスに叛逆を促したときにはそれを拒絶したのに、征服が決着したあとからキュロスに従う意向を示したからだった。

怒りに駆られてキュロスはこう返答したのだが、これがイオニア人の街々に知れ渡ると、彼らはそれぞれの街に城壁をめぐらして防備を堅め、ミレトス人をのぞくすべてのイオニア人がパニオニオン(47)に集結した。ミレトスが参加しなかったのは、ここだけはキュロスが リディアと同じ条件で協定を結んでいたからである。ほかのイオニア人は自身の名義でもって、助けを求める使者をスパルタに送ることを決めた。

(47)本巻百四十八節

142.パニオニオンを所有していたこれらのイオニア人は、我らの知っているどんな人々よりも、この上なく風光明媚な地に自分たちの街を作っていた。

イオニア以北であれ以南であれ、また東方または西方であれ、イオニアと同じ産物を実らせることはない。前者は寒気と湿気に見舞われ、後者は高温と乾燥に見舞われるからである。

彼らの言語は同じではなく、四つの方言に別れている。最南端に位置するのがミレトスで、それに続いてミウスとプリエネがある。これらはカリア地方に含まれ、同じ方言を用いている。

リディア地方にある街には、エフェソス、コロフォン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、フォカイアがあり、これらの街では、先に挙げた三都市とは全く異なる共通の方言を用いている。

イオニア地方にはほかにも三つの街があるが、そのうちの二都市は島にあるサモスとキオスで、もう一つの街エリトライは大陸にある。キオスとエリトライは同じ方言だが、サモスは彼ら独自の方言を用いている。以上が四つの方言である。

143.さて、これらイオニア諸都市のうち、ミレトスだけはペルシャと協定を結んでいたので安全だった。また島嶼の都市も脅威を感じることはなかった。それはフェニキア人はいまだペルシャに服従していなかったことと、ペルシャ人自身も海の民ではなかったからだ。

また、これらのイオニア人がほかのイオニア人と別個になっていたのは、ほかでもない単にギリシャ民族全体が当時は無力で、アテネを除き、その中でもイオニア人が最も力が弱く、かつ最も軽んじられていたためである。

それゆえ、アテネ人もほかのイオニア人も、イオニア人と呼ばれることをよしとせず、その名を避けていたが、今でも多くのイオニア人はこの名を恥じているように思われる。

ところが、前に述べた十二の街はこの名に誇りを抱き、彼らだけの聖地を定め、これをパニオニオンと称していた。そしてほかのイオニア人にはこの聖地を利用させないことを決議した。もっとも、スミルナを除き、これを利用したいと申し出た街はなかったのだが。

144.このやり方は、今は五都市、以前は六都市と呼ばれていたドーリス人と同じで、彼らは近隣の、どのドーリス都市の住人もトリオピオン神殿に足を踏み入れさせないようにしており、しかも同じ仲間の間でさえ、神殿に関する戒律を破った者に対しては門を閉ざしている。

こういう話がある。はるかな昔、トリオピオン・アポロの競技では、青銅製の鼎(かなえ)が賞品だったが、勝者はそれを神殿から持ち帰ることは許されず、神に奉納することになっていた。

ところが、ハリカルナッソスのアガシクレスという者が優勝したとき、この規律を破って鼎を自分の家に持ち帰り、家の壁に釘でとめて吊したことがあった。この違反に対し、五都市すなわちリンドス、イアリソス、カミロス、コス、クニドスは六番目の都市であるハリカルナッソスに対して参詣を禁じたのである。これがハリカルナッソスに対する懲罰だった。

145.イオニア人が十二都市協定を作り、それ以外の都市の参加を認めなかった理由として、私の考えでは、彼らを追い払ったアカイア人が十二地区に別れていたように、彼らがペロポネソスに居住してた頃も十二地区があったためだと思う。つまりシキオンに最も近いところにペレネがあり、それにつづいてアイゲイラとアイガイ、このアイガイは水の涸れることのないクラティス河があり、イタリアにもこの名に由来する河がある。それからブラ、またイオニア人がアカイア人との戦に敗れて逃げ込んだヘリケ。アイギオン、リペス、パトレエス、ファレス、そして大河パイロスを擁するオレノス。デュメおよび唯一内陸の街であるトリタイエエス。以上がイオニア人の十二地区であったが、現在ではアカイアとなっている。

146.右の理由により、イオニア人も十二の地区を建設したのであって、ほかに理由はない。これをもって、彼らがほかのイオニア人よりも血筋がよいとか、秀でているなどと云うのは馬鹿げている。彼らのうち少なからざる者たちがエウボイアのアバンテス人であり、その名前からしてイオニア人ではなく、またオルコメノスのミニアイ人の血も彼らに混じっているし、ほかにカドモス人、ドリオプス人、彼らの国から別れたポキス人、モロシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリア人などなど、多くの種族が混じり合っている。

彼らのうち、アテネの公会堂に出自をもち、イオニア人中で最も高貴な血筋を誇る者たちも、移住する際に妻を連れて行かず、彼らによって両親の命を奪われたカリアの女を娶ったのだ。

両親を殺されたことで、これらの女たちは、食事に際して夫と同席せず、その名も呼ばないという掟を作り、それを自分の娘にも伝えたのである。なぜと云うに、この男たちが、父や夫や息子を殺害したのちに自分たちを妻としたからだ。これはミレトスで実際に起きたことである。

147.また彼らのうち一部の者はヒッポロコスの子グラウコスの血を引くリキア人を王にいただき、ほかの一部はメラントスの子コドロスの末裔であるピュロスのカウコネス人を王とし、またその両方から王を選ぶ者もいた。そして、ほかのイオニア人よりも彼らはその名に愛着をもっているゆえ、彼らを正統な血筋のイオニア人であるとしておいてもよいだろう。

しかし、アテネ出身でアパトリアの祭り(48)を祝う者はみなイオニア人なのである。エフェソスとコロフォンの住民のほかは、どのイオニア人もみなこの祭りを行なっている。アパトリアの祭りをしないのはこの二つの街だけで、彼らのいうには、ある殺人事件をその理由にしている

(48)アテネおよびほとんどのイオニア諸都市で開かれる祭り。各民族または一族の構成員により、三日にわたって行なわれる。最終日には新生児が民族団の一員として正式に登録される。毎年ピアネプシオン月(十月末から十一月初頭)に開かれる。

148.パニオニオンはミカーレ山の北斜面に位置する聖地で、イオニア人の合意によってヘリケのポセイドンに捧げられた地である。ミカーレは陸地からサモス島に向かって西方に走る岬である。イオニア人はそれぞれの街からこの地に集まり、自ら名づけたパニオニオンの祭りを祝うのを常としていた。

イオニアの祭りだけにとどまらず、ギリシャ全土の祭りが同じ文字で終わっているのは、ペルシャ人の名前が同じ文字(S)で終わるのと同じことである。

149.以上がイオニア人の諸都市で。アイオリス人の都市には次のものがある。プリコス(49)とも呼ばれるキュメ、レリサイ、ネオン・テイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイアイ、ミリナ、グリネイアである(50)。これらの都市は古くからアイオリスにある街である。数が十一であるのは、その一つであったスミルナの街がイオニア人によって切り離されてしまったからで、かつては大陸のアイオリス人の都市としては十二あったのだ。これらアイオリス人が街を築いた地はイオニア人の地より肥沃だったが、気候はそれほどよくなかった。

(49)アイオリスにあるプリキオン山に由来しているようだ。アイオリス人がアジアに移住する前は、この近くに居住していた。

(50)これらの都市はスミルナからペルガモン間の海岸またはその近くにある。ただしアイギロエッサの正確な場所は不明。

150.アイオリス人がスミルナを失ったいきさつは次のとおりだ。コロフォンの内乱で国を追われた一団をアイオリス人が街に受け入れたことがある。その後、コロフォンの亡命者たちはスミルナ市民が城壁の外でディオニソスの祭りを行なっているのを待ちかまえていて、城門を閉め、街を占領したのである。

全アイオリス人が救援に駆けつけ、その結果協定が成立した。アイオリス人はイオニア人から家財を返還してもらうが、街を放棄することとなった。それが実行されたあと、アイオリスの十一都市はスミルナの住民を分担して受け入れ、それぞれの街で市民権を与えた。

151.以上が陸地にあるアイオリスの都市群だが、イダの山中にある都市はこれらの都市とは別である。

島嶼の都市としては、レスボス島に五都市ある。ただし、六番目としてアリスバがあったが、ここの住民は同じ血筋のメティムナ人によって奴隷に落とされている。それからテネドス島にもひとつの都市があり、いわゆる「百島」(51)にもひとつ都市がある。

(51)レスボス島と陸地との間にある小島の群れ

レスボスとテネドスの者たちは、イオニア諸島の住民と同じくペルシャに対する恐怖はなかったが、ほかのアイオリスの街々は合議の結果、イオニア人の指示に従うことを決めた。

152.さて、イオニア人とアイオリス人が送り出した使者がスパルタに到着すると(事は速やかになされた)、彼らの中からピテルモスというポキス人を代表者に指名し、話をさせることにした。そしてこの男は紫の衣で身を包み、それはできる限り多くのスパルタ人が話を聞きに来ることを目論んでいたからだったが、毅然と立って自国の住民に救援を求めるための、長い演説をおこなった。

ところがスパルタ人はそれを聴きいれることはなく、イオニアへの救援を拒んだ。かくて使者たちは引き返したが、スパルタは使者を追い返しはしたものの、私が思うに、キュロスとイオニアの状況を探らせるため、五十櫂船で人を派遣した。

この者たちはポカイアに到着すると、仲間のうちで最も信望厚いラクリネスという男をサルディスに送った。それは、キュロスがギリシャ領内の街を侵略するなら、スパルタが黙ってはいないぞ、というスパルタの決意をキュロスに宣告するためであった。

153.右のことを使者がキュロスに宣言すると、キュロスは、その場にいたギリシャ人たちに向かって問い質した。かような宣告をするスパルタ人というのはそもそも何者で、その数はどれくらいいるのかと。その返事を聞いてから、キュロスはスパルタの使者に向かって云った。

「街の真ん中に広場を作って集まり、心にもない誓いを立てて互いを欺きあうような連中を、ワシはこれまで怖れたことなどないわ!もしワシの命が長らえるなら、イオニア人の不幸を話の種にせず、やつら自身の不幸を舌の上にのるようにしてやるぞ!」

キュロスの右のような蔑みの言葉は、ギリシャ人が広場で物産の売り買いをしていることによるもので、ギリシャ人全体に向かって放ったものである。ペルシャ人自身は広場を用いる習慣を持たず、そもそも市場というものが全くないのだ。

やがてキュロスは、タバロスというペルシャ人にサルディスをまかせ、クロイソスその他リディア人たちの黄金はリディア人のパクティエスに預けて保管させ、自身はクロイソスを伴ってエクバタナへ出陣した。さしあたってイオニアのことなど眼中になかったのである。

というのも、バクトリア人、サカイ人、エジプト人をはじめとして、依然バビロンがキュロスの心配の種であったためで、自分自身はこれらの国に軍を進め、イオニアには別の将軍を派遣するつもりだったのだ。

154.ところがキュロスがサルディスをあとにして出陣するや、パクティエスは、リディア人をしてタバロスとキュロスに叛逆させ、自分は沿岸部に下って、サルディスにあったすべての黄金を元手にして兵士を募り、また沿岸地域の住民にむけて自分の軍に加わるよう説得した。かくてパクティエスはサルディスに向けて進軍し、タバロスをアクロポリスに追い込み、これを包囲した。

155.遠征途中でキュロスがこのことを知ると、クロイソスに向けて語った。

「このたびの騒動は、どこに落ち着くと思うかね、クロイソスよ。リディア人はこのワシにとってもほかの者たちにとっても、いつももめ事を起こし、決しておとなしくしていることはないように思う。こうなると、奴らを奴隷にしてしまうのが最もよい策ではないかという気がしておる。ワシは、父親を殺してその子供は生かしておくのと同じことをしたようだ。

これと同じように、リディア人にとっては父以上の存在であるお主を捕らえて連れ去り、リディア人自身にその街をまかせて来たのだ。それゆえ奴らが叛いたことに今更ながら驚いているのじゃ」

このようにキュロスは自分の考えを話したが、クロイソスは、キュロスがサルディスを灰燼に帰してしまうのではないかと怖れてこう返答した。

「殿、仰せのとおりでござる。とは申せ、どうかお怒りを鎮めなされませ。そして先の謀叛またこたびの騒動におきましても何らの罪なき古き都を廃墟になさることは、どうかお止めくだされませ。先の謀叛はそれがしに責めがあり、その罰はこの頭に受けております。殿がサルディスをお預けになったパクティエスの件につきましては、あやつが悪いわけで、当人が罰を受けるべきでござる。

しかしリディア人は許してやっていただきたい。そのためにも、再び謀叛を起こしたり、殿に楯突くそぶりを見せることのないよう、次のような布告をなされませ。まず使いの者を差し向けられて、武器の所持を禁止し、それから上着の中には肌着をつけること、膝までの長靴を履くことを命じ、子供たちには竪琴やハープの演奏、小売業などを教えるようにお命じなされ。そうなされば、殿、彼らは見る間に男子変じて女子となりますゆえ、謀叛を企てる怖れもなくなりましょう」

156.クロイソスがこのような策を持ち出したのは、ともかくリディア人が奴隷に売り飛ばされるよりも、こちらの方がまだましだと考えたからで、よほど理にかなった理由を示さなければ、キュロスの気持ちを変えることはできないことがわかっていたからである。また、たとえリディア人がこのたびの危機を免れたとしても、いずれはペルシャに叛逆して破滅に至るだろうことを怖れたからであった。

キュロスはクロイソスの助言を喜んでその怒りを鎮め、その献策のとおりにしようと云った。そしてマザレスというメディア人を呼びつけ、クロイソスの提言のままリディア人に布告すること、さらにリディア軍に加わってサルディスを攻撃した者たちはすべて奴隷に売ること、またパクティエスはなんとしても生け捕りにして自分のもとへ連れて帰れと命じた。

157.遠征途上で右の命令を下したキュロスは、さらにペルシャに向けて進軍を続けた。一方のパクティエスは自分に向けた討伐軍が迫っていることを知ると、怖れをなして(アイオリス沿岸の)キュメへ逃亡してしまった。

メディア人マザレスは、キュロスの軍勢のうちから預った一部の手兵を率いてサルディスに向かったが、パクテュエス一党がもはやサルディスにいないことを知ると、真っ先にリディア人に強制してキュロスの命令を実行させた。キュロスのこの命令より、リディア人の生活様式はすべて変わってしまった。

そのあとマザレスはキュメに使者を送り、パクティエスの引き渡しを要求した。そこでキュメ人は、どう対処するべきかをブランキダイの神の神意に委ねることに決定した。というのもブランキダイには、古くに創設された神託所があり、全イオニア人やアイオリス人が、いつもここの神託を求める風習があったからである。その場所は、ミレトス領内のパノルモス港から上手に入ったところにある。

158.さてキュメ人はブランキダイヘ神託使を送り、パクティエスについてどのような処置をくだせば神意にかなうだろうかと訊ねた。神託の返答は、パクティエスをペルシャ人に引き渡すべしという内容だった。

この神託がキュメに戻されると、彼らはパクティエスを引き渡そうとした。ところが大方がそのつもりになっている中で、街中で名声の高いヘラクレイデスの子アリストディコスという者が、それをしないようキュメ人を制止した。かれは神託を信じず、神託使が嘘をついていると考えたからである。結局パクティエスの処置について再び神託を求めて、別の神託使が派遣されたが、その中にはアリストディコスも加わっていた。

159.一同がブランキダイに着くと、アリストディコスが一同を代表して次のように神託を求めて訊ねた。

「神よ、リディア人のパクティエスなる者が、ペルシャ人の手によって横死させられるのを逃れようとして、われらのところへ庇護を求めて参りました。ペルシャ人はかれを引き渡せと、われらキュメ人に要求しております。

われらはペルシャの勢力を恐れてはおりますが、われらとしてはどちらにすべきか、神意をはっきりとお示しいただくまでは敢えて決断せず、庇護を求めてきた者の引き渡しを決行せずにいたのでございます」

アリストディコスがこのように訊ねると、神は再び同じ託宣を返した。すなわちパクティエスはペルシャ人に引き渡すべきだというのだった。

これに対してアリストディコスは、ある目的をもって次のような行動にでた。かれは神殿の周囲をまわりながら、そのあたりに巣を作っている雀その他の鳥類を手当たり次第、すべて捕まえてしまったのである。かれがそんなことをしていると、神殿の奥からアリストディコスを呼ぶ声が聞こえ、こう云った(と伝えられている)。

「不敬きわまる者よ、何ゆえにさような不埒を働くか?わが窮鳥を汝は奪わんとするか?」
するとアリストディコスは待ってましたとばかりに云った。
「神よ、御身は窮鳥をお助けになりながら、キュメ人にはその窮鳥を引き渡せと命じられまするか?」
すると神がまた返答した。
「しかり、あの者どもにはそうせよと命じた。それはな、不敬なる働きによりて汝らが早々に滅せば、こののち汝ら、庇護を求め来し者の引き渡しにつき、神託を求めに二度とは来れまい」

160.戻ってきた神託を聞いたキュメ人は、パクティエスを引き渡して国が滅ぶのも避けたいし、さりとて自国に留めおいて攻囲されるのも真っ平ごめんというわけで、かれを(レスボス島の)ミティレネに逃がした。

そのミティレネは、マザレスからパクテュエス引き渡しの要求が伝えられると、いくばくかの対価と引き替えに引き渡すつもりで、その準備をはじめた。その額がどれほどであったか、はっきりしたことは云えない。なぜというに、その取引は結局成立しなかったからである。

それは、ミティレネがこのような画策をしているのをキュメ人が察知するにおよび、彼らは船をレスボスにやってパクティエスを(キオス島の)キオスに送ったからである。しかしそこでパクティエスは、アテナ・ポリウコス神殿(国家鎮護のアテナ)に逃げ込んだところをキオス人によって引きずり出され、マザレスに引き渡されてしまった。

キオスはその代償として、ミシア地方にあってレスボス島の対岸にあるアタルネウスを譲りうけた。かくてペルシャ人はパクティエスを受け取り、キュロスに差し出すつもりで監視下においた。

なお、かなりな長期間にわたり、キオスでは、どの神の祭においても、捧げものとしてアタルネウス産の大麦粉を用いる者は誰一人おらず、また供物の焼菓子にも、この地から産する穀物を用いる者はひとりもいなかった。そしてこの土地から産するものはすべて、あらゆる捧げもの儀式から遠ざけられていた。

161.さてキオス人がパクティエスを引き渡したのち、マザレスはタバロスの攻囲に加担した者たちを討伐し、プリエネ人を奴隷にするとともに、マイアンドロス平野一帯を走り回って自分の軍隊に掠奪させ、マグネシアも同じように攻略した。しかしこの直後にマザレスは病死してしまった。

162.その死後、マザレスと同じくメディア人のハルパゴスが後任の司令官としてこの地に着任した。この男こそ、かつてメディア王アステアゲスが無法な晩餐で饗応し、またキュロスが王権を勝ち取る手助けをした人物である。

まさにこの男がこのたびキュロスから司令官に任命されたのだ。そしてイオニアに着任するや、土木工作によって諸都市を攻略していった。すなわち敵を城壁内に追いつめておき、その城壁の前に土塁を築いて、その街を攻略したのである。

163.ハルパゴスがイオニアで最初に攻略したのはポカイアだった。このボカイア人というのは、ギリシャ人としては一等早くから遠洋航海にのりだしていて、アドリア海、ティルセニア、イベリア、タルセッソス(52)などを発見したのも彼らである。

(52)現在のスペイン・アンダルシア地方(イベリア半島)、グアダルキビール河(Guadalquivir)下流域の谷にある。後にはガデス(Gades、Cadiz)と呼ばれたが、ヘロドトスはガデイラ(Gadira)と呼んでいる(第四巻八節)。

彼らは航海においては丸形の貨物船ではなく五十櫂船を用いた。そして彼らがタルセッソスにたどりつくと、その地の王アルガントニオスと親交を深めたが、この王はタルセッソスに君臨すること八十年、百二十歳(53)までの生を全うしている。

(53)明らかにギリシャ一般の伝統である。アナクレオン(B.C.582頃~B.C.485頃;古代ギリシャの抒情詩人)は云う。「われは....豊かなタルセッソスの国を百と五十年も支配したいと思わない」(Fr.8)

さてポカイア人はこの王とたいそう親密になったので、王は彼らにイオニアを去り、この国のどこにでも好みの場所に住むようにすすめたほどだったが、そのあとポカイア人を説得できないことがわかり、またメディアの勢力がいかに増大しているかを彼らから聞いた王は、街に城壁を築くがよいと云って彼らに黄金を与えた。

王は実に気前よく黄金を与えたとみえて、城壁の周囲は数スタディオンという程度の長さにおさまらず、しかも全てが巨大な石を用い、それらをぴったり組み合わせて築かれている。

164.このようにしてポカイア人の城壁は築き上げられたが、ハルパゴスは街に軍を向けポカイアを包囲すると、ある条件を提示した。それは、ポカイア側が城壁の一部を取り壊し、家屋を一軒献上するなら、それで充分だというものだった。

しかしポカイア人は奴隷という言葉に憤激し、協議に一日の猶予を求め、その上で返事すると返答し、なおかつ自分たちが協議中は、軍を城壁から退けてもらいたいと要請した。ハルパゴスは、ポカイア人が何をするつもりであるか十分承知しているが、それでも協議は許すと返答した。

そしてハルパゴスが軍を城壁から遠ざけている間に、ポカイア人は五十櫂船を海に浮かべ、女子供と貨財全てをそれに載せ、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞき、神殿の彫像やそのほか全ての奉納品を積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向けて出帆した。こうしてペルシャ軍は、無人のポカイアを占領したのだった。

165.ポカイア人はオイヌサイ(54)という一群の小島をキオス人から買おうとしたが、キオス人はそれに応じなかった。というのも、ここが商業地となれば、キオス人の島が通商活動から遠ざけられるのを心配したからだった。そこで彼らはキュルノス(55)へ向かうことにした。それは、これより二十年前、神託の命によってポカイア人がキュルノスにアラリアという町を建設していたからである。

(54)キオス島と陸地の間にある
(55)コルシカ島

このときアルガントニオスは、もうこの世の人ではなかった。出航するにあたり、彼らはまずポカイアに向けて船を進め、ハルパゴスに命じられてこの街を防備していたペルシャの守備兵を殺戮し、これを成し遂げたあと、こんどは仲間内で残留しようとする者がいたため、この者たちに恐ろしい呪いをかけた。

また呪いをかけるだけに留まらず、鉄の塊を海中に投じ、この鉄塊か再び姿を見せるまではポカイアに戻ることはないと誓ったのだった。しかしキュルノスに向けて出発したところ、半数以上の市民が街や住みなれた祖国を懐かしみ、嘆き悲しむ心に打ち負けて、誓いを破ってポカイアヘ船を戻していった。そして誓いを守った者だけがオイヌサイから出帆していった。

166.こうして彼らはキュルノスヘ着くと、それより先に移住していた者たちと共に同じ場所で五年間住み、神殿も造営した。しかし彼らはあたり構わず近隣を荒らし、掠奪してまわったので、ティルセニア人とカルタゴ人とが協定を結び、それぞれ六十隻の船でポカイア人の攻撃に向かった。

ポカイア人も六十隻の船に兵員を乗り込ませ、サルディニア海と呼ばれる海で敵を迎え撃った。海戦の結果、ポカイア人が勝利したが、それはいわゆるカドメイア的な勝利(56)で、四十隻の船をうしない、残りの二十隻も船首の衝角がゆがんでしまい、使いものにならなくなった。

(56)オイディプスの息子で、カドモスの子孫であるポリニケスとエテオクレスは、テーベの所有を争って戦い、互いに殺し合った。このことからカドモスの勝利とは、勝者と敗者が同じように苦しむことを意味する。

そこでポカイア人はアラリアヘ船を戻し、女子供、そのほか船に積める限りの貨財をまとめ、キュルノスを捨ててレギオンヘ向かった。

167.使用に耐えなくなった船の乗組員については、カルタゴ人とティルセニア人が籤で分配したが、ティルセニアのアギラ人(57)は遙かに多くの捕虜を引き受けた。その彼らは捕虜を街の外に連れ出して石打ちの刑で死に至らしめた。ところがそのあと、石打ちの刑に処せられたポカイア人が埋葬されている場所を通ったものは、ヒツジ、荷役獣、人間を問わず、あらゆるものの手足が曲がり麻痺するようになった

(57)のちのエトルリア(イタリア)の街カエレ(ローマの近く)。”ティルセニアのアギラ人”という句はSteinによる補足である。

そこでアギラ人は罪を償いたいと思い、デルフォイに使者を送ったところ、巫女はその託宣を語って示した。これか今日でもアギラ人が行なっている行事で、彼らはポカイア人を盛大に讃えるために、神の儀式を執り行ない、運動競技や騎馬競技を催している。

捕虜となったポカイア人はこのような最期を遂げた。しかしレギオンに逃れた者たちは、この地を去ってオイノトリア地方(58)に移り、今日ヒエレ(59)と呼ばれる街を手に入れた。

(58)オイノトリアは南イタリアに当たる。古代ローマのルカニア地方とブルティウム地方。
(59)のちのエレアまたはヴェリア。

この街を作ったわけは、デルフォイの巫女が彼らにキュルノスを建造せよと託宣を下したのは、英雄キュルノスの神殿のことであって島のキュルノスではない、ということを、あるポセイドニア人から教えられたからだった。以上、イオニアの街ポカイアのたどった行く末は、このようなことだった。

168.テオス人もポカイア人と同じことをやった。ハルパゴスが土塁戦術でテオスの城塞都市を攻め落とすと、彼らは全員が船に乗り込んで海路トラキアに向かった。そしてそこにアブデラの街を作り上げた。この街はこれ以前にティメシオスというクラゾメナイ人によって建設されたところだが、かれはこれによって何も得るところなく、結局はトラキア人に追い払われてしまった。しかしアブデラのテオス人は、ティメシオスのことを今でも英雄として崇めている。

169.隷従を嫌って祖国を捨てたのは、この二つの都市だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、すべての都市が亡命者たちと同様にハルパゴスに立ち向かい、いずれも果敢に振る舞って祖国のために戦ったものの、結局は戦いに敗れて街を占領されてしまった。それでも彼らは祖国にとどまり、ペルシャに隷従することとなった。ただ、ミレトスだけは前にも述べたようにキュロスと協定を結んでいたので攻撃されることはなかった。

こうしてイオニアは再び隷属させられたのだが、ハルパゴスが陸地のイオニア諸都市を征服すると、島嶼に住むイオニア人たちも、同じ憂き目に遭うことを怖れ、自らキュロスに降伏した。

170.こうして悲惨な状況に陥ったにもかかわらず、イオニア人がパニオニオンに集まっている時、聞くところでは、プリエネ人ビアスがイオニア人にとってきわめて有益な助言を与えたという。イオニア人がその助言に従っていたら、彼らはギリシャ中でどこにも負けない繁栄を謳歌することができただろう。

ビアスが助言したのは、イオニア人が一団となってサルディニア島ヘ向けて出帆し、ここに全イオニア人の都市を一つ建設するということだった。そうして世界最大の島に居をかまえて近隣の住民に君臨すれば、隷従から免れて繁栄を得るだろうが、イオニアに残留すれば自由を手にする望みはないだろう、とビアスは云ったのだ。

プリエネ人ビアスがこの助言を与えたのは、イオニアが没落したあとだったが、イオニアの破綻以前に、フェニキア人の血を引くミレトス人タレスが示した方策もまた有益なものだった。かれの策というのは、イオニアの中央に位置するテオスに単一の行政庁を設ける。ただしほかの都市はそのまま居住を続け、単なる行政区とみなす、というものだった。ビアスとタレスがイオニア人に与えた助言は以上だ。

171.さてハルパゴスはイオニアを平定したあと、イオニア人とアイオリス人とを従えて、カリア人、カウノス人およびリキア人の制圧に向けて遠征を開始した。

これらの民族のうちカリア人は、島嶼から陸地に渡ってきた者たちである。彼らは、古くはレレゲス人と呼ばれた島嶼人で、ミノス王(クレタの王)の支配下にあった。しかし彼らは、私が風説をできる限りさかのぼって調べてみても、貢物を全く納めず、ミノス王の要請があれば、その都度船の乗員を供給していた。

ミノスは広大な領地を治め、戦では勝利に恵まれていたゆえ、その当時はカリア人も、あらゆる民族のうちでこの上なく名を馳せていたものだった。

また彼らは、のちにギリシャ人も用いるようになった三つの発明を行なっている。すなわち兜のてっぺんに羽飾リをつけること、盾に紋章をつけること、盾に把手をつけることである。これらは彼らが最初に始めたことである。それまでは盾に把手はなく、誰もが革帯を首から左肩にまわし、それにのせて持ち歩いていたのだ。(60)

(60)これがホメロスの叙事詩イリアスに書かれている「人体保護盾」の用い方である。盾は手で持ち運ぶのではなく、左肩から右腋窩にまわした帯に吊すようにして支える。こうすることによって胸または背中を護る。

それからはるかのちに、カリア人はドリス人とイオニア人によって島嶼から追われ、大陸へ移ってきた。以上が、カリア人についてクレタ人の伝えるところだが、カリア人自身はこの説には同意しておらず、自分たちは土着の大陸人で、今の名前は昔からのものだと信じている。

その証拠として彼らが指摘するのが、ミラサにあるカリア・ゼウスという古い神殿で、この神殿にはミシア人とリディア人がともにカリア人と兄弟関係にあるということで参詣を許されている。彼らが云うにはリドスとミソスがカルの兄弟だというのだ。カリア人と同じ言語を用いる者であっても別の民族の場合には、参詣することは許されていない。

172.カウノス人は土着民だと私は思っているが、彼ら自身はクレタの出身だといっている。その言語はカリア人のそれに似通っていて、あるいはカリア人がカウノス族に近いのかもしれないのだが、私にはどちらとも云えない。だがその風習はほかの民族とも、カリア人とも、大いに異なっている。たとえばカウノス人の最高の喜びとなっているのは、男女子供を問わず、同じ年頃の者同士や親しい者同士が寄り合って酒盛りをすることである。

そしてまた彼らは、異国の神々のための神殿を建立したものの、あとになって気が変わり、父祖の神々だけを祭ることに決めると、成年に達しているカウノス人男子は全員が一団となって武装し、槍を空に向けて突き上げつつ、異国の神々を追放するのだと叫びながら、カリンダとの国境まで行進したことがある。以上がカウノス人の習俗である。

173.さてリキア人は、元をたどればクレタの出である。古代のクレタ島は、全島これ異邦人の領有となっていた。

クレタではエウロパの子サルペドンとミノスが王位を争っていた。そしてミノスがその争いに勝ち、サルペドンとその一味を追放した。追い出された一党はアジアのミリアス地方にまでやって来た。ここは現在リキア人の住む地であるが、昔のミリアスであって、ミリアス人はその当時はソリモイ人と呼ばれていた。

サルペドンによる統治の間、ここの住民はテルミライ人と呼ばれていた。この名は彼らがクレタから持ってきたもので、近隣の住民は今なおリキア人をその名で呼んでいる。ところがパンディオンの子でリコスという男もアテネからやって来ており、かれもまた兄弟のアイゲウスに追われた身で、テルミライの国にいるサルペドンのもとへ来ていた。やがて彼らはリコスの名からリキア人と呼ばれるようになった。

彼らの習俗は一部はクレタ風、一部はカリア風である。ただし、一つだけ彼ら独自の風習をもっており、これはほかのどんな民族にもないものである。すなわちリキア人は、父方でなく母方の名を名乗るのである。

ある人が、傍にいる者から何者かと訊ねられると、その者は母方の血筋をさかのぼって挙げてゆき、その血統に連なる母の子であると名乗るのだ。また市民権をもつ女が奴隷と結婚した場合、生まれた子供は正しい血統をもつものと見なされるが、男の市民では、それが彼らの中でこの上なき著名人であったとしても、異邦人の妻あるいは妾に生ませた子供には、市民権は与えられないのである。

174.さてカリア人だけでなく、この地に住むギリシャ人も、すべてがめざましい働きもせず、ハルパゴスに征服されてしまった。

この地方の住民のなかには、スパルタから移住してきたクニドス人もいた。彼らの領地は、ババッソス半島から延びている海沿いの地域で、トリオピオンと呼ばれている。そして、そこはわずかな部分を除き、海に囲まれている。

それは、北はケラモス湾、南はシュメ島とロードス島の海が迫っているためである。そこでクニドス人は、ハルパゴスがイオニア征服にかかっている間に自分たちの領土を島にしようとして、五スタディア(180m×5=900m)ほどの狭隘部に運河を掘り始めた。クニドス領と陸地の間には、運河を掘ろうとした地峡があったので、クニドスの全領土が地峡より海側に隔てられることになる。

さて多くのクニドス人がこの作業に取りかかったが、作業員が岩石を砕くとき、さまざまな身体の部分、なかでも特に眼を損傷する事故が不自然なほどに多く生じた。そこでクニドス人はデルフォイに神託使を送り、作業を阻害している原因を訊ねさせた。

そしてクニドス人が云うところでは、巫女は三歩格詩によって次のように答えたという。

  地峡には、城壁も塹壕も造ることはならぬ
  ゼウスに思し召しあらば
  汝らに島を下されたはずじゃによって

巫女からこの託宣を下されたクニドス人は、堀の掘削作業を中止し、ハルパゴスが軍を率いて来ると、抵抗もせずに降伏してしまった。

175.さてハリカルナッソス上手の奥地にはペダサ人が住んでいる。ここでは、彼らあるいは近隣の住民になにか凶事が起るときには、アテナ神の巫女に長いあご髭が生える。そしてこのようなことが三度も起きていた。カリア地方の住民のうち、短時間とはいえハルパゴスに抵抗を続けたのは、ここの住民だけで、彼らはリデという山を堡塁で補強して敵将を大いに悩ましたのだった。

176.そのペダサ人もやがては征服されたが、ハルパゴスが軍をクサントス平野に進めると、リキア人がやって来てこれを迎え撃ち、少ない兵力にもかかわらず果敢に戦ったものの、むなしく破れ市内に追い詰められた。そして彼らは妻子、貨財、使用人をアクロポリスに集め、ここに火を放ってすべてを焼き払った。

その後、彼らは互いに決死の誓いを交わして出撃し、結果クサントスの男たちは全滅したのである。

今日リキア入と自称しているクサントスの住民は、八十家族を除き、その大多数が異国からの移住者である。この八十家族は、その当時たまたま街を離れていたため生き残ったのだ。かくてハルパゴスはクサントスを占領し、同じようなやり方でカウノスも攻略し、カウノス人も大筋においてリキア人の例にならったのであった。

177.さてハルパゴスが下アジアを荒らしまわっているとき、キュロス自身は上アジアの諸民族を根こそぎ平定していった。その大部分については語らずにおくが、キュロスが最も手こずり、また最も語るに足る事だけを話してみよう。

178.大陸のあらゆる民族を征服したキュロスは、次にアッシリアの攻略に向かった。アッシリアには、ほかにも大きな街が数あるが、最も名高くまた最も堅固のはバビロンで、ここはニノス(61)が灰燼に帰したあと、王宮の所在地となっていた。そして今から話すのは、このバビロンのことである。

(61)B.C.606にニノヴェ(Nineveh)と改名。

バビロンは広大な平野の中にあり、一辺が百二十スタディア(*)の正方形になっている。従って町の全周は四百八十スタディア(八十七粁)である。これがバビロンの街の大きさである。この街はまた、われらの知るいかなる街よりも、比類なきほどに整備計画された街である。

(*)百二十スタディア=0.18Km×120=21.6Km

まず満々と水を湛えた深く広い濠が街の周囲に掘られ、城壁は幅五十王制キュービット(約2.6m)、高さ二百王制キュービット(約5.2m)に築かれている。ここで王制キュービットというのは、通常のキュービットよりも三指幅だけ長い(62)。

(62)一般的なキュービット(cubit)は18.25インチ、王制キュービットは20.5インチ。

179.それから、濠を掘った時に出た土が何に使用されたか、また城壁がどのようにして築造されたかを、これから語らねばならない。彼らは濠を掘るのと同時に、掲り出された土を煉瓦状に成型し、それが山盛りになると窯で焼いたのである。

そのあとはセメントの代わりに熱したアスファルトを用い、煉瓦の三十段目ごとには、その隙間に編んだ芦を詰め込み、このようにしてまず壕の壁を築き、その次に城壁そのものを同じ方法で造りあげた。

城壁の上には、両側の縁にそって一階建ての屋舎を向き合うように建てたが、その屋舎のあいだは四頭立ての戦車が通り抜けるだけの余地があった。また四方を囲っている城壁には門が百箇所あり、これらは全て青銅製で、門柱も上の横木も同様に造られていた。

バビロンから八日の旅程の場所に、イス(63)という名の別の街がある。ここにはあまり大きくはない河があり、その名も同じくイスという。この河はユーフラテス河に注いでおり、その水源からは水とともにアスファルトの塊りが大量に出土する。そしてこのアスファルトが、バビロンの城壁のために運ばれたのである。

(63)近代のヒット(Hit)あるいはアイト(Ait)。ユーフラテス河が 沖積平野に流れ込む場所にある。

180.バビロンの城壁はこのようにして築造されたが、街はユーフラテス河によって二分されている。この河はアルメニアから発し、広くて深く、流れも速く、紅海に注いでいる。

さて城壁の角はどちら側も、その河に向かって下っており、そこから折り返して河の土堤にそって焼煉瓦の壁が続いている。

街そのものは三階建て、四階建ての家屋がびっしり軒を連ねていて、それを横切る道路やそれに交叉して河に向かう道は、そのほかのものも含め、すべて真っ直ぐに延びている。

河に向かう道の突き当たりには、河沿いの城壁に、それぞれの通りのための城門がつけられている。すなわちそれぞれの通りにひとつの城門がある。それらの城門も青銅製で、この城門が河に通じているのだ。

181.この城壁は街にとっては外鎧というべきもので、その内側にもう一つ壁が張りめぐらされている。この壁は外壁とほぼ同じ堅固さを備えているが、幅は狭い。

一方の街の中央には王宮が造営されており、その周りは高く強固な壁で囲われている。もう一方の街の中央にはゼウス・ベロス神殿(64)が設営されていて、これは私の時代に至っても、まだ残っている。この神殿は一辺が二スタディア(三百六十メートル)の正方形で、それぞれに青銅の門を備えている。

(64)ベル神(Bel)またはバアル神(Baal)のこと。アッシリアの最高神。

また神殿の中央には、縦横ともに長さ一スタディア(百八十メートル)の堅牢な塔が築造されている。この塔の上には第二の塔が立ち、さらにその上にも、というふうにして八層まで続いている。

ここを昇る通路は、すべての塔の外側に螺旋状につけられている。その半ばには踊り場があり、休憩のための腰掛がおいてある。昇る者はこれに腰かけて一休みするのだ。

最上部の塔には大神殿がある。この中には、立派な覆いをかけた大きな寝椅子があり、その横には黄金の卓がおいてある。しかし神像はおかれていないし、ここに寝泊まりするのは土着の女が一人だけで、それ以外は誰も泊らない。この神の司祭を務めるカルデア人の伝えるところでは、その女は、すべての女たちの中から、その神によって選ばれた者であるという。(*)

(*)この部分が、有名な「バベルの塔」に関する記述であるようだ。

182.同じカルデア人が云うには、その神はしょっちゅう神殿に来て、寝椅子で休息するということだが、こんなこと、私は信じない。ただ、エジプト人もテーベで同じことがあるといっている。

テーベのゼウス神殿(65)でも女がひとり参籠するのだが、エジプトでもバビロンでも、これらの女は異性とは決して情交しないといわれている。またリキアのパタラでも、指名されたときだけ、神(66)の巫女が、同じことをする。ただし、ここの神託所は常設されているわけではないので、開設されている間だけ、巫女は神殿に籠もって夜を過ごすことになっている。

(65)アメン神:第二巻四十二節
(66)アポロ神

183.バビロンには下にも別の神殿があり、ここには黄金製の大卓のかたわらに、これも黄金の巨大なゼウス坐像が安置され、その足台も椅子も黄金製である。カルデア人の云うところでは、これらは合計八百タラントン(*)の黄金が用いられている。

(*)およそ二十トン~三十トン

この神殿の外には黄金の祭壇が設けられている。さらにもう一つの大きな祭壇があり、ここには成長した家畜の群れが供えられる。黄金の祭壇には、幼い家畜しか供えてはならないことになっており、カルデア人は、毎年の神の祭礼の時に、この大祭壇に千タラントン(二十六トン~三十七トン)もの乳香を捧げている。キュロスの時代においても、この神殿の中には十二キュービット(五百四十糎)もある純金の像が、まだ安置されていた。

私はそれを見たわけではないので、カルデア人の云うところをここに伝えておく。ヒスタスペスの子ダリウスは、この像を奪おうとしていたが、あえて行動に移さなかった。ところがダリウスの子クセルクセスは、像を動かすことを止めに入った司祭を殺し、これを手に入れたのである。この神殿の装飾は以上のとおりだが、そのほか個人の奉納品が多数ある。

184.さてバビロンの城壁や神殿の建造に関わった多数の支配者(彼らについてはアッシリア史の中で述べるつもりだ)の中には、女性が二人いる。このうち、最初の女性は次の女性よりも五世代前の人で、名をセミラミスといった。バビロンの平野に堤防を築くという、実にみごとな工事をやりとげたのは、まさにこの女王なのである。それまではユーフラテス河が氾濫すると、大平原が海のようになっていたのである。

185.二番目の女王はニトクリスといい、先の女王よりも聡明だった。彼女は、私がこれから述べようとしている数々の記念すべき事績を残しただけでなく、メディア王国がその勢力を留まるところなく拡大してゆき、多くの都市が次々に攻略され、中でもニノヴェまでもが征服されるのをみて、全力でもって防衛策を練ったのである。

先ず、以前は市街の中央を貫いてまっすぐ流れていたユーフラテス河を、街の上流地点に運河をいくつも掘ってその流れを迂回させ、アッシリアにある村落を三度も通過するようにした。ユーフラテス河が三度も通過する村の名はアルデリカという。今日でも吾らの海(エーゲ海)からバビロンヘ旅する者は、ユーフラテス河を下る時に、三日のあいだに都合三度、毎日一度はこの同じ村を通らねばならないのだ。

このような工事をすませてから、次に女王は河の両岸に、巨大かつ長大で驚嘆すべき堤防を築いた。

その後、彼女はバビロンのはるか上流に、湖といえるほど大きな池を掘らせた。この池は河に近いところで河に平行して掘られ、その深さはどの場所でも地下水がわき出るまで掘り下げた。またその周囲は四百二十スタディア(七十六粁)にもなった。そして池の掘削によって掘り出した土を利用して河の両岸に堤防を築いた。

そして池の掘削を終えると、石を持ってきて池の全周に岸壁を築いた。

河を迂回させることと池を掘って沼地としたことの目的は、河筋を幾度も曲げることで、その流れをゆるやかにしてその力を殺ぐことと、バビロンヘの航路を曲がりくねらせ、そのあとすぐに湖を遠く迂回せねばならぬようにするためだった。

この工事の行なわれた場所は、メディアからの入国路で、しかもその最短路に当っているところで、メディア人が自国民に紛れて入国し、彼女の国情に精通するのを防ぐためだった。

186.このようにして女王は深い壕を掘って自国の防備を固めたが、この工事によって追加の工事も生まれた。そもそも女王の街は、その中央を河が流れ、そのため街が二つの地区に分割されている。そのため、彼女より以前の支配者の時代には、一方の地区から他方へ行くときには、いつも船に乗って河を渡らねばならなかった。これは思うに、さぞ厄介なことだったろう。ところが女王はこれも解決したのである。それは、湖といえるほどに大きな池を掘ったとき、この工事に絡めて、自らの統治の記念となる、もう一つの事績を残したのである。

彼女は非常に長大な岩石を切り出させ、その岩石の数が調い、池の掘削が完了したところで、河の流れを据り終えた場所に流れ込むように誘導した。すると池に水が満ちてゆくのに伴って、もとの河は干上がっていった。そうしておいてから、街中を流れる河の両岸と、小門から河に通じている降り口を、城壁の煉瓦と同じやり方で作った焼き煉瓦で固めた。それからまた、街のほぼ中央部に、掘り出しておいた岩石を、鉄と鉛で繋ぎ合わせて橋をかけた。

橋には昼の間だけ方形に削った木材を渡し、バビロン人が渡れるようにした。ただしこの木材は夜には撤去し、両地区の住民が夜の間に橋を渡って互いに盗みを働かないようにした。

湖のように掘削した池が河の水で満たされ、橋も完成すると、女王ニトクリスは、ユーフラテス河を湖からまた元の流れに戻した。このようにして、掘った場所は女王の計画通りに沼となって所期の目的を達成し、市民のための橋も出来上ったというわけである。

187.この女王はまた次のような詭計も企んでいる。彼女は、街で最も往来の激しい門の最上部に、自分の墓を作らせたのである。そして墓には次のような布告文を彫り込ませた。

「われに続くバビロンの王にして、財貨に窮する者あらば、この墓を開き、欲するままに財貨取らせん。しかれども要なきままに開くべからず。そは身に災禍降りかかるべし」

この墓は、ダリウスに覇権が下るまでは手つかずのまま残されていた。かれは、この門を通り抜けることができないばかりか、財宝が納められていて、しかも手招きするが如き文言まで書かれているのに、その財宝をとらぬことも、全く筋の通らぬことだと考えた。

かれがこの門を使用しなかった訳は、この門を通れば、自分の頭上に死骸がかぶさるからだった。

そして墓を開けてみると、そこに財宝はなく、あったのは死骸と次の文言だけだった。
「汝、おのが富に飽き足らず、しかも強欲なる恥知らずにあらざれば、死人(しにびと)の憩いまどろみおる棺をば、開くことなかりしものを」
この女王は、かくの如き(諧謔に富む)人物であったと伝えられている。

188.さてキュロスが軍を差し向けたのは、女王ニトクリスの息子で、かれは父ラビネトスの名とアッシリアの覇権を父から受け継いでいた。

ペルシャ大王が出征するときには、自国から充分な食糧と家畜を用意してゆくのを常としていた。水も、スーサを流れているコアスペス河の水を携えてゆく。大王はこの河の水しか飲まないのだ。

このコアスペス(67)の水を沸かして銀の壺に容れ、それを無数のラバ牽き四輪車で運び、いつでも、どこへでも、大王につき従うのである。

(67)現カルケ(Kerkha)

189.キュロスはバビロン(68)を目指して進撃したが、その途中でギュンデス河に至った。この河は、マティエネの山中から発し、ダルダニア国を通り、別の河であるティグリスに合流する。このティグリスはさらにオピス国を通って紅海に注いでいる。さてそこで、船で渡るべきこの河を、キュロスが渡ろうとしている刹那、一頭の白い神馬が、無謀にも河に駆け込んで渡ろうとしたが、馬は流れに呑みこまれ、押し流されてしまった。

(68)現ディアラ(Diala)

このような暴虐を働いた河に対して、キュロスは強くいきどおり、これ以後は、女でも膝を濡らすことなく易々と渡れるほどに流れを弱めてやるぞ、と威嚇した。

河を脅しつけたあと、キュロスはバビロンヘの進撃を中止し、その軍勢を二手に分け、河の両岸にそれぞれ百八本の運河を、あらゆる方角に向けて掘るべく線を引き、その線に沿って部隊を配置し、開墾を命じた。

圧倒的な大人数が取りかかったため、確かに工事は完了したが、これを終えるまで、彼らはこの地でひと夏を丸々費してしまった。

190.こうして河を三百六十(*)の運河に分割し、ギュンデス河への復讐を果たしたあと、翌年の春早々に、キュロスはバビロンに向けて進軍を開始した。バビロン軍は出撃してキュロスを待ち受け、キュロスが街の近くに迫ってきたところで戦いを挑んだが、空しく敗れて街中へ追い込まれてしまった。

(*)白馬が太陽神の神馬とみなされていたので、一年の日数だけ支流をつくった;青木巌氏、松平千秋氏ら、先訳の注釈。

ところがバビロンには、かなり長い年月にわたって耐えられるほどの兵糧が蓄えられていた。なぜなら、キュロスという人物は、じっとしていられない性格であることを、彼らはよく知っていたし、またキュロスがあらゆる民族を手当たり次第に攻撃しているのを見ていたので、籠城することは全く意に介さなかった。一方のキュロスは長い時が経過しても作戦が全く捗らないので、途方に暮れていた。

191.困り果てているキュロスに誰かが献策したのか、あるいはかれ自身が方策を見出したのか、キュロスは次のような作戦をとった。

まず軍の主力を、河が街に流れ込む場所に配置し、また別の部隊を街の背後で河が街から流れ出るあたりにも配置した。そして河が徒渉できるようになれば、そこから街へ突入せよと命じておいた。このように部隊を配置して命令を下しておき、キュロス自身は非戦闘部隊とともに退却していった。

そして例の池にたどり着くや、かつてバビロンの女王が河にやったことを、もう一度繰返し行なった。すなわち河の流れを運河に通して沼になっている湖に導いて河の水を退かせ、歩いて渡れるようにしたのである。

河の水が退いたあと、その作戦のために配置されていたペルシャ兵は、その太股の中ほどの深さにまで浅くなったユーフラテス河を渡ってバビロン市内に突入した。

バビロン側が、このようなキュロスの行動について前もって探知しているか、気づいていたなら、ペルシャ兵が街に侵入するのは、そのままにしておき、そのあとで徹底的に殲滅できただろう。というのは河に通じている小門を全て閉鎖し、河の両岸に沿っている城壁の上に兵を配置すれば、魚を簗(やな)にかけるがごとく、敵兵を捕捉できるからだ。

しかし実際にはペルシャ軍の侵入は、全く寝耳に水だった。地元の住人の話では、街が広大なため、街の外縁部が敵の手に落ちているというのに、中心部の住民はそのことを知らず、たまたまその日は祝祭日だったこともあり、変事の発生をはっきり報されるまで、その時刻は歌舞音曲にふけっている最中だった。こうしてバビロンは、この時はじめて陥落したのであった。

192.バビロンの国力がいかに壮大であるかは、いろいろな事例を挙げていまから説明するつもりだが、特に次の例によっても、そのことが知れる。大王とその麾下の軍勢を養うために、大王支配下の全領土が区画分割されている。そして通常の貢税のほか、一年十二ヵ月のうち四ヵ月分は、バビロンの地域が王のための食糧を献じ、残りの八ヵ月分をバビロン以外の全アジア地域が負担するのだ。

ということは、アッシリアの国力は全アジアの三分の一に相当する。またこの帝国の執政符-ペルシャ入が云うところのサトラペア(総督府)は、すべての総督府の中で最強の力を持っていた。その証拠に、大王からこの地区を任されて統治しているアトラバゾスの子トリタンタイクメスのもとへは、毎日一アルタベを下らない銀の貢ぎがある。

ここでアルタベというのは、ペルシャの量目で、一アッティカ・メディムノスよりも三アッティカ・コイニクス多い容積である(69)。またここには軍馬のほか、トリタンタイクメスの私有になる種馬が八百頭、繁殖用の牝馬が一万六千頭いた。すると、種馬一頭が二十頭の牝馬と交尾することになる。

(69)一アッティカ・メディムノス=およそ十二ガロン(五十四リットル)=四十八コイニクス

さらに夥しい数のインド犬が飼育されていて、平野にある四つの大きな部落が、ほかのすべての貢税を免除される代りに、犬の飼料を供出させられていた。かくの如く、バビロンの支配者の富は莫大なものだった。

193.アッシリアでは雨が少ないが、このことが穀類の根を育てるもとになっている。しかし作物を成熟させ、穀物を豊かにするのは河からの灌漑である。エジプトでは河の水が自然に田畑に流れ込んでいるが、ここアッシリアでは、人の手と振り天秤(70)によって水を田畑に灌漑している。

(70)跳ね釣瓶。ナイルを旅した者はよく知っている。支柱に腕のついた籠を取りつけて回転させる。

というのはエジプトと同じく、バビロンはその全土が多数の運河で仕切られているからだ。その中でも最大の運河は航行さえできる。それは冬の日の出の方角(東南)に向かって流れていて、ユーフラテス河からもう一つの河、すなわちティグリス河に注いでいる。そしてニノス(ニネヴエ)があるのはティグリスの沿岸である。われらの知る限り、この地方は穀類の産出に関しては群を抜いて肥沃な土地柄である。

しかし、イチジク、葡萄、オリーブなど、穀物以外の果樹の栽培は、試みることすらされない。ただ、この地ではデメテル女神の恵みである穀類の収穫は豊富で、ほとんどの地域で収極量が(播種量の)二百倍、最も実りのよい時なら、三百倍に達する。ここでは小麦や大麦の葉幅は、優に四ダクティロス(四指幅)にもなる。

粟や胡麻に関しても、どれくらいの高さに成長するか、知ってはいるが、ここでは云わないでおく。穀類について今話したことは、バビロンヘ行ったことのない人には、とうてい信じてもらえないことが、私にはよくわかっているからである。彼らはオリーブ油を用いることはなく、胡麻(71)から採った油しか用いない。また平野全体にナツメヤシが生えており、そのほとんどが実を結び、この実から食物や酒や蜜が作られている。

(71)胡麻油はアジアでは現在もよく使われている。

アッシリア人はこの樹をイチジクの樹と同じように栽培している、特にギリシャ人のいう雄椰子の実をナツメヤシに括りつけ、蜂が実にもぐり込み、それを成熟させることで実が落ちないようにしている。雄椰子は冬いちじくと同じで、その実の中に蜂を宿しているからである。

194.ではこれから、市邑それ自体の次に、私がこの国に関して最も驚嘆すべきことと思っていることがらを述べよう。この国では、河を航行してバビロンに行く船はすべて円形で、革で作られている。

彼らはアッシリアの上手に住むアルメニア人の国で船を作る。まず柳の木を切って船の骨組を作り、その外側に船倉を作る要領で獣皮を張り巡らせる。その際、船尾を広めたり船首を狭めたりせず、盾のように円形に作る。そして船内に藁を敷きつめ、積荷を満載して河を下ってゆく。河を下る積荷は、ほとんどが酒を詰めた椰子材の酒樽である。

船は、二人の男が立ったままで水かきを用いて操る。一人が水かきを手前へ引くと、もう一人は向うへ押し出す。船の大きさはさまざまで、小さいものもあれば非常に大型のもある。最大のものになると、五千タラントン(72)の荷を積める。どの船にも生きたロバを一頭乗せている。大きい船なら数頭乗せている。

(72)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)~約37Kg(アイギーナ単位)

船がバビロンに着き、荷を降ろすと、彼らは船の骨組と藁を全て競売にかけて処分し、獣皮はロバの背に積んでアルメニアヘ持ち帰るのだ。

それは、河の流れが速いため、河を遡って帰るのは不可能だからで、またそれゆえにこそ、木材で船を作るのではなく、獣皮を用いるのである。そしてロバを牽いてアルメニアヘ帰り着くと、また同じやり方で別の船を作るのである。

195.彼らの船は右のとおりである。衣服に関しては、先ず足まで届く長い麻の肌衣を身につける。そしてその上にもう一枚毛の下着をまとい、その上から白い上衣を羽織る。靴は、この国特有のものを用いるが、ボイオティア人の履くサンダル靴によく似ている。髪は長く伸ばして細紐で結び、全身に香油を塗る。

また各人が印章と手作りの杖をもっている。そして杖にはリンゴやバラ、ユリ、鷲など、さまざまな図案が彫られている。図案のない杖は特たないのが、その風習である。ともかくも、彼らの身につけるものは、かようなものである。

196.では、彼らの習俗について話をすすめよう。その中で最も理にかなっていると吾らが感心するのは、次のような風習であるが、このような風習はイリリアのエネトイ人にもあると聞いている。すなわち、部落ごとに毎年一回、嫁入りの年頃になった娘を全員ひとつ処に集め、その周りを大勢の男たちがとり囲むのだ。

そして係の役人が娘を一人ずつ立たせて売り出すのである。最初に一等器量のよい娘から始め、この娘が高値で売れると、次に二番目に器量のよい娘を売り出す。こうやって娘たちは結婚のために売られるのだ。結婚したいと思っているアッシリアの富裕な男たちは、一番の美人を求めて互いに値をせり上げることになる。しかし庶民階級で結婚を望む者は、容姿の優れていることなど求めず、持参金つきの醜女(しこめ)を手に入れるのだ。

係の役人が一等美貌の娘たちを売り終ると、今度は最も容姿の優れない娘や不具の娘を呼び出し、最少額の持参金とともにこの娘を娶ろうとする男を募り、競りにかけるのである。そして娘は最少額を示した者に落ちる。ところがその金は、美貌の娘たちが競りで得た金で支払われるのであるから、美人娘が不器量な娘や不具の娘に持参金をもたせて嫁入りさせることになる。

そしてこの国の男は、自分の娘といえども、自分の気に入った相手に娘を嫁がせることは許されておらず、また娘を買った男も、その娘を確実に妻とすることの保証人を立てた上でなければ、娘を連れてゆくことは許されていないのである。

当人同士がうまくゆかないときには、男が持参金を返す習いだった。また他の部落からきた者でも、望めば娘を買うことができた。

これが彼らの最も秀逸な風習だったが、今では存続していない。近頃彼らは別の方法を考え出し、それを行なっている。そのようにしたのは、娘たちか不当な扱いを受けたり、他の町へ連れ去られたりするのを防ぐためだった。というのも、ペルシャ人に占領されて悲惨な目に遭わされ、貧窮に陥ってしまったので、庶民階級はみな生きる術を失い、娘たちに売春をさせているからである。

197.さて彼らの習俗で次に秀逸なものを挙げてみる。ここでは医者がいないので、病人は街の広場へ連れて行かれる。そこで通りがかった人が、その病人と同じような病気を患ったことがあるか、または似たような症状を見たことがある場合には、病人のそばに行って病気について助言し、励ますのである。そして自分自身が病気から回復したやり方や、他の人が回復したのを見たやり方を教えるのだ。そして何人といえども、病気について話もせず、訊ねることもせずに通り過ぎることは許されないのである。

198.この国では、葬儀の際、死者を蜂蜜に漬けて埋葬する。葬儀の次第はエジプトのそれとよく似ている。またバビロンの男は妻と交わったあと、必ず香を焚きしめ、そのそばに坐る。妻も向かい合って鎮座する。そして夜明けとともに身体を洗うのだが、体を洗うまでは、いかなる容器にも触れない。なおアラビア人もこれと同じことをしている。

199.バビロン人の風習の中で最も下品で恥ずべきものは、この国の女が誰でも一生に一度はアフロディテ神殿の境内に坐り、見知らぬ男と情を交わさねばならぬという習わしである。金持ちで誇り高く、ほかの女人たちと交流することを嫌う多くの女たちは、天蓋つきの二頭立て馬車で神殿に乗りつけ、大勢の侍女を従えて立っている。

しかし大方の女は、アフロディテの神域の中で、頭に紐を冠のように巻いて坐っている。そこには途方もなく大勢の女たちが出入りする。そしてまっすぐな通路が、女たちの間を縫ってあらゆる方向に通じていて、男たちは、この通路をとおりながら女を物色するのだ。

女が場所を決めて座ると、見知らぬ男が銀貨を女の膝に投げ、神殿の外でその男と交わらぬ限り、家に帰れないことになっている。そして硬貨を投げた男は、「ミリッタ神の御名のもと、そなたを指名する」とだけ云えばよいのだ。ここでミリッタ神というのはアッシリアにおけるアフロディテの名である。

金額の多寡は問われない。女は決して拒むことをしないからである。この金は投げられることによって神聖なものになるので、突き返すことは神の掟に触れるからである。女は最初に銀貨を投げた男に従い、決して拒むことはない。男と交われば、女は女神への神聖な務めを果たしたことになるので、家へ帰るが、そののちは、どんなに大金を積んでも、その女をものにすることはないだろう。

容姿に優れた女はすぐに自由の身となるが、器量の悪い女は務めを果たせないので、永い間待ち続けなければならない。中には三年も四年も居残る女もいる。キプロスでも、幾ヶ所かにこれと似た風習がある。

200.以上がバビロン人の風習である。なおこの国には魚のほかには何も食べない部族が三つある。彼らは魚を獲ると日に干して乾燥させ、それをすり鉢に投入し、すりこぎですり潰したあと、モスリンの布で漉す。そのあとは、好みに応じて、こねて柔らかいケーキのようにして食べたり、あるいは焼いてパンのようにして食べる。

201.キュロスはこの民族も征服すると、今度はマッサゲタイ人も支配したくなった。この民族は多くの人口を抱え、勇猛で、住んでいるところは東のかなたで陽の昇る方向、アラクセス河を越えたあたりで、イッセドネス人に対峙していると云われている。またこの民族は、スキタイ人だと云う人もいる。

202.アラクセス河はイストロス河(ドナウ河)より大きいと云う人もいるし、また小さいと云う人もいる。この河の中にはレスボス島ほどの大きさの島が多数あると云われており、その島の住民は、夏のあいだはあらゆる種類の根を掘り起こして食糧とし、熟した木の実は食糧として貯え、冬になるとそれを食べていると云われている。

彼らが見つけた木の中には、次のような効果をもたらす実のなるものがあると云われている。大勢が集まって火をおこし、それを囲んで車座となり、この実を火の中に投げ込れる。すると、火中に投げ入れられた実が焼け焦げる匂いによって、ギリシャ人がブドウ酒に酔うようにして、彼らはその匂いに陶酔するのだ。投げ込まれる実の数が増えるにつれて彼らの酔いも増し、ついには立ち上って踊り歌いだすという。彼らの生活のありさまは、このようなものだと伝えられている。

アラクセス河(73)は、キュロスが三百六十の支流に分けたギュンデス河と同じく、マティエネ人の国にその源を発していて、四十の河口から注ぎ出ている。その中の一つをのぞき、すべて沼地や湿地に注いでいる。この沼沢地には、生魚を食べ、アザラシの皮を日常の衣服に用いている人間が住んでいるという。

(73)本節におけるアラクセス河は、その流れの説明から察するに現在のアラス河(Aras)と思われる。ところが本巻二百五節において、キュロスの王国とマッサゲタイ国の間にこの河が流れていることになっているので、アラクセス河はアラル海に注ぐオクスー河(Oxusまたはjihon) またはヤクサルテス河(JaxartesまたはSihon)であるはずだ。これに関する詳しい論考は、ローリングソンによる訳書第一巻の付録を参照されたい。

アラクセス河の残りひとつの河口は、何ものにも妨げられることなくカスピ海に注いでいる。このカスピ海はそこだけで孤立した海で、他の海と繋がっていない。というのは、ギリシャ人が航海しているすべての海も、彼らがアトランティスと呼んでいる「ヘラクレスの柱」(*)を越えた先の海も、また紅海も、すべてが一つにつながっているからである。

(*)ジブラルタル海峡の入口にある岬につけられた古代の地名。

203.つまりカスピ海は分離独立している海で、長さは櫂による船で十五日、幅は一番広いところで八日の旅程である。この海の西側には、ほかのどこよりも大きく高いコーカサス山脈が続いている。コーカサスの山中には多種多様の民族が住んでいて、その大部分が野生の木の実を食糧にしている。

またここには、ある種の葉を繁らせる木がある。この葉をすり潰して水に溶かし、それを用いて衣類に模様を描くと、洗ってもはげ落ちず、はじめから織り込んだように羊毛に染みこんではげないという。また伝え聞くところでは、男女の交わりは家畜同然で、公然と行なわれるそうだ。

204.このいわゆるカスピ海の西方にはコーカサス山脈が聳えているが、陽の昇る東方には、見渡すかぎり果てしなく拡がる大平原が続いている。この大平原のほとんどを占めるのが、キュロスが遠征を企てたマッサゲタイ族なのである。

キュロスをこの遠征に駆り立てた強力な動機は数々あった。第一には彼の出生、すなわち自分は並の人間ではないという信念と、次にこれまでの合戦における数々の勝利だった。キュロスが軍を進めると、いかなる民族もその手から逃れることができなかったのである。

205.その当時、マッサゲタイは、夫に先立たれたトミリスという女王が統治していた。キュロスは、女王を自分の妻に迎えたいという偽りの申し出を使者に持たせて女王に求婚した。しかしトミリスは、キュロスが欲しがっている自分ではなくて、マッサゲタイの王位であることがわかっていたので、彼の要望を拒んだ。

キュロスは策略が不首尾に終わるや、アラクセス河に向けて進軍し、公然とマッサゲタイ攻撃の準備をはじめた。まず軍勢が河を渡れるように船橋を組み、台船の上に櫓(やぐら)を築かせた。

206.この作業を進めているキュロスの許へトミリスは使者を送り、次のように告げた。

「メディア王に申す。只今せいておられる仕事はおやめなされ。それをやり遂げることが御身のためになるかどうかを、そなたはわかっておられぬ。そのようなことはやめて、ご自分の領土を治め、われらがその民草を統治するのを、じっと見ていていただきたい。

しかし万一そなたがこの忠告を喜ばれず、平和を守ることより他のどんなことでも実行するお考えなら、そしてまたマッサゲタイの勇猛さを試してみたいと強くお望みならば、河に橋を架けるという今の工作は中止なされて、我らが河から三日の旅程を退いたあとで、河を渡ってわが国に入られよ。あるいは、われらを貴国内で迎え撃つことをお望みならば、そなたも我らと同じように軍を退かれよ」

これを聞いたキュロスは、ペルシャ軍の重臣たちを召集し、集まったところでその問題を示し、どちらをとるべきかを協議した。重臣たちは全員揃ってトミリスとその軍を自国に迎え撃つべしと進言した。

207.この時、その場に居あわせたリディア人のクロイソスは、この説に異を唱え、反対の意見を述べた。

「殿、以前にも申し上げたとおり、みどもはゼウスの御心によって殿のもとへ参った者にござる。それゆえ、王家をおびやかすと見た災禍は、全力でこれを払いのける所存にござる。みどもに降りかかった災難は辛くはありましたが、よい教訓になっております。

さてもし殿が御自身およびご麾下の軍隊ともども、不死身であるとお考えであるなら、みどもの意見など申し上げるには及ばぬものと存じまする。しかしながら、殿みずからも、また殿が率いておられる者どもも、みな人間であることを弁えておいでならば、知っていただかねばならぬことがござる。まず人の世は車輪のようなもので、くるくる廻りつつ、同じ者が永遠に栄えるということは許されておらぬのでござる。

さて只今の問題に関し、みどもはここにおられるお歴々とは反対の考えをもっております。もし敵を国内に入れるとすると、次のような危険がござる。すなわち万一敗れたとすると、殿は全帝国をも失われることになりましょう。なぜというに、勝ったマッサゲタイが引き返すことはあり得ず、必ずや殿の領土に攻め寄せることが明らかでありますゆえに。

また殿が勝利をおさめられたとしても、彼らの国に侵入し、マッサゲタイを撃破して逃げるのを追うことに較べれば、その戦果は雲泥の差にござる。さすれば、さきに申し上げたことと逆になり、敵を打ち負かしたあとは、トミリスの本拠めざして進軍なさればよろしいかと。

また、ただいま申し上げたことは別として、カンビュセスの子キュロスともあろう者が、ひとりの女ごときに屈して退却するなどは、恥辱であるのみならず、許されることではありませぬ。そこでみどもの考えでは、河を渡って敵の退いたところまで進み、次のようにして敵を制するように努めるべきかと存じます。

聞くところでは、マッサゲタイ人はペルシャの結構な品々を知らず、大層ぜいたくな料理も味わったことがないと申します。そこでこういう者どものために、ヒツジやヤギなどの肉をたっぷり切り刻み、それを料理して、我らの陣地で宴に供してやるのです。加えて生(き)のぶどう酒を入れた壷も、あらゆる種類の食物も惜しまず用意するのでござる。

そうしておいて、軍勢の中で最も戦力の弱い部隊だけを残し、ほかの者たちは河まで再び退くのです。みどもの判断に誤りなくば、マッサゲタイ人がこの盛りだくさんの馳走を見れば、必ずやそれにかぶりつくでありましょう。そのあとは、我らが大仕事を成し遂げる番にござる」

208.こうして意見の対立を見たが、キュロスは最初の説を捨ててクロイソスの説を採り、自分の方が河を渡って攻撃に向かうゆえ、そちらは退くようにと、トミリスに通告した。そこでトミリスはまえに約束したとおり軍を退けた。キュロスは、王位を継がせるつもりのわが子カンビュセスにクロイソスを預け、マッサゲタイ征討の渡河作戦が不首尾に終わったとしても、クロイソスを敬い、手厚く面倒を見るようにと厳しく申し渡した。こう命じておいて二人をペルシャヘ帰し、自分は麾下の軍勢とともに河を渡っていった。

209.キュロスがアラクセス河を渡りきり、夜になってマッサゲタイの国で寝ていると、かれは次のような夢を見た。ヒスタスペスの長男が両肩に翼をつけて現われ、一方の翼でアジアを、もう一方の翼でヨーロッパを覆い隠したのである。

アルサメスの子ヒスタスペスは、アカイメネス家の出だが、かれの長男がダリウスで、その当時は二十歳前後、まだ出陣年齢に達しないというので、ペルシャに残されていた。

目を覚ましたキュロスは、この夢についてじっと考え込んでいた。そしてこの夢が捨て置けぬことのように思われたので、ヒスタスペスを呼び、人払いをして云った。

「ヒスタスペス、お前の伜がワシとワシの王権に陰謀をめぐらしておることがわかったぞ。どうしてそれがはっきりわかったか、話してやろう。

神々はワシのことを気にかけていて下さり、ワシの身に起こらんとすることは、何事によらず前もってお示し下さるのだ。実は昨夜、ワシは夢を見たのだ。お前の長男が肩に翼を生やし、一方の翼でアジアを、もう一方でヨーロッパを覆い隠すという夢を。

この夢よりすれば、かれがワシに陰謀をめぐらしていると考えるほかはない。さればお主は急ぎペルシャヘ帰り、ワシがこの国を従えたのちに帰国したとき、この件につき尋問するゆえ、ワシのもとへ連れてくるように手配をしておけ」

210.キュロスは、ダリウスが自分に陰謀を企てていると思ってこう云ったのだが、実は神がキュロスに示されたのは、かれがこの地で最期を遂げ、ダリウスが王位を受け継ぐということだった。

そこでヒスタスペスはこう返答した。
「殿、ペルシャに生まれた人間で、殿に陰謀を企む者などおりませぬぞ!いるとすれば、その者が一刻も速く絶え果てることを祈るばかりにござる。われらペルシャ人が奴隷の身から解き放たれたのも、また隷従する立場からあらゆる民族の支配者となったのも、みな殿のお蔭にござる。みどもの伜が殿に向かって革命を企らんでおると夢のお告げがありせば、倅めを差し出しますゆえ、お気の済むようにお裁きなされませ」

このように返答し、ヒスタスペスは、キュロスのために息子ダリウスを監視すべく、アラクセス河を渡ってペルシャヘ出立した。

211.さてキュロスはアラクセス河から一日の行程を前進し、クロイソスの策に従って行動を開始した。準備を終え、非力要員を残してキュロスとその主要部隊がアラクセス河まで退くと、マッサゲタイの軍勢は、その三分の一の勢力でキュロス軍の残留部隊を攻撃し、抵抗するペルシャ人を殺戮した。そしてそこに並べられていた宴の料理を認めると、敵を殲滅したあと、坐りこんでもりもり食べ始めた。そして腹一杯食べかつ飲んで眠ってしまった。

そこヘペルシャ軍が襲いかかり、その多数を斃したが、それ以上に多くを捕虜にした。その中にはマッサゲタイ人の将軍で、トミリス女王の息子のスパルガピセスもいた。

212.自軍と息子の身に起った顛末を知ると、トミリスは使者をキュロスのもとへ送り、次のように伝えさせた。

「血に飢えたるキュロスへ告ぐ。これしきのことで思い上るでない。この戦など、何ら誇るべきものにあらず。汝らペルシャ人でも腹に満たせば凶暴となり、身体に廻りめぐれば悪しき言葉が口にのぼりくるブドウの実、かような毒をもってわが息子を欺き、戦わずして、勝ちをおさめたのであるゆえにな。

さてわが言葉をありがたき忠告として聴くがよい。マッサゲタイ軍の三分の一にも悪逆を働いた汝ではあるが、罰を受けぬうちにわらわの息子を返し、この国を去れ。汝しかせざれば、マッサゲタイ族の主たる陽の神に誓っていう。汝、血に飽くなきを血に飽かしめん」

213.この口上を聞いてもキュロスは全く意に介さなかった。一方で女王トミリスの息子スパルガピセスは、酔いから醒めて自分のおかれている悲惨な状態を覚ると、縛めを解いてほしいとキュロスに頼み、それが容れられ縛めを解かれ、手が使えるようになると、間髪を入れず自決して果てた。

214.こうしてスパルガピセスは最期をとげたが、一方のトミリスはキュロスが自分の言辞を聞き入れぬと見ると、麾下の全兵力を集めてキュロスに立ち向かった。この合戦こそは、私の見るところ、かつて異邦人同士が戦った合戦のなかで、最も熾烈なものだった。聞くところでは、戦いの経過は次のようであった。

最初、両軍は離れたところから互いに弓矢で応戦していたが、やがて矢が尽きると、槍と剣をもって突撃し混戦となった。戦いは長時間にわたったが、双方ともに退くことはなかったという。しかし最後にはマッサゲタイ軍が勝ちを制した。

ペルシャ軍の大部分はここで討ち死にし、キュロス自身も戦死してしまった。その在位年数は三十年に一年缺けるものだった。

トミリスは革袋に人血を満たし、ペルシャの戦死者の中にキュロスの遺骸を探しまわった。そして見つけだすとその首を革袋の中へ落とし込み、遺骸を傷めつけながら次の言葉を投げかけた。

「わらわは生き永らえ、いくさではお前を打ち負かしたとはいうものの、結局は、奸計によってわが子をお前にとられた、わらわの負けじゃ。さあ脅しつけたとおり、お前を血で満たしてやろう」

キュロスの最期については数多くの話が伝えられているが、ここで話したことが、もっとも信頼できると私は思っている。

215.マッサゲタイ人の服装や生活様式は、スキタイ人のそれとよく似ている。彼らには騎兵も歩兵もある(二つに別けているので)。また弓兵、槍兵もあり、戦闘用の斧を携えるのが、彼らの習わしである。また彼らはすべてにおいて黄金と青銅を用いる。槍の穂先、鏃、戦斧(せんぷ)には青銅を用い、兜、腰帯、胴巻きなどの装飾には黄金を用いる。

馬についても同様で、馬の胸当ては青銅製だが、馬勒(ばろく)、馬銜(はみ)、額飾りは黄金製である。鉄と銀は全く用いない。この国では金と青銅は豊富に産出するが、鉄と銀の産出は全くないからだ。

216.さてこの国の風習について話そう。男は各自が妻を娶るが、妻たちはすべての男が共有する。ギリシャ人はそれをスキタイ人の風習であるというが、そうではなくて、それはマッサゲタイ人の風習なのだ。マッサゲタイの男が、ある女に懸想すると、その女が寝泊まりしている馬車の前に自分の箙(えびら)を吊し、大っぴらにその女と交わるのである。

彼らは人生の年齢に制限をもうけているわけではないが、非常な高齢に達した者があると、親類縁者が残らず集まり、その男を殺し、それとともに家畜も屠り、その肉を煮て饗宴をはるのだ。これが最も幸せな死に方だと彼らは思っている。

一方、病死した者は食べずに地中に埋め、殺されるまで生きのびられなかったのは不幸なことだったと、悲しみ嘆くのだ。

彼らは農耕は全くせず、家畜と魚を食料にしている。魚はアラクセス河から豊かに採れる。また乳を飲用にしている。

彼らが神として崇拝するのは太陽だけで、馬を生贄に供える。馬を供える理由は、神々の中で最も俊足の神には、生けるものの中で最も足の速いものを供えるという考えによる。

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